第三章(5)
私の背筋が伸びた。
…ここにいるのは、本当に、先ほど食事を共にした相手とは別人だ。
自然と空気が張り詰める。
これが、―――――…東宮。
次代の、大皇。
静寂に満ちた室内で、悠々と志貴は口を開く。
「添石家の姫」
指名に、千華の身体がわずかに震えた。
失敗を恐れる緊張のあまりに。
「語っておくれ」
何を、と問うのは愚かだ。
それでも一瞬そう思ってしまうほどには、志貴が放つ重圧に、頭が真っ白になった者は多いだろう。
史郎の気配に慣れている私とて、すぐには頭が回らない。
と言うより。
これは、質が違う圧力だ。
史郎のそれは、ひたすらに平伏させられるものだが、志貴の場合。
うっかりしていれば、身体が自動的に従ってしまう。
志貴は改めて、促した。
「戦士が抱く、髑髏の物語を」
「―――――…千年ほど、昔の話でございます」
千華も、一瞬、考える能力を奪われたのだろう。
震える声が、従った。
無駄なことをいっさい言わず。
「添石家に双子の姫が、おりました―――――」
誰も止めない。
いや。止めれば、非礼に当たる。ゆえに、できない。誰にも。
痛いほどの緊張に満ちた沈黙の中、千華の声は、子守唄のように響く。
いっさい邪魔の入らない、ある意味神聖な雰囲気の中で。
取りまとめれば、話はこうだ。
時の領主には、男子がおらず、双子の姫がいた。
姫らは共に優秀で土地をよく治めたが、姉姫は奔放で、しばしば問題を引き起こしていたと言う。
彼女たちは外部から婿を迎えることが決まっていた。
が、姉は結局、名も知らぬ戦士の男を駆け落ちしたそうだ。
時を同じくして大戦が起こり、混乱の最中、二人の行方はさらに追えなくなった。
妹姫は健気にひとり家を守り、その知略でもって戦に勝利した―――――。
やがては彼女も夫を迎え、さらに家を盛りたてたという。
その幾年かのちに、姉姫の娘であると名乗る女が城を訪れた。
いつものことと、妹姫らに報告する前に、門番たちは追い返したそうだ。
ただ。
戦士の顔を覚えていた将のひとりが、遠目に娘を見て、驚いた。
彼と、面立ちが瓜二つだったそうだ。
将は、慌てて娘のあとを追った。
呼びとめた娘は、不思議なことを告げたのち、早々に立ち去ったと言う。
―――――地上の国は、くれてやる。地下の世界は我らのものじゃ。
千華の声で語られたのは、不可思議な余韻を残す物語だ。
めでたしめでたし、というよりは、…ほのかに不吉。
なにより。
私はどうも、納得がいかない。
物語は、妹姫を讃えて終わっていたが、おかしい気がする。何か。
そう。
私が、実際に髑髏を介して見た、過去は―――――何より、狐面の男が見せた、反応は。
愛情もなく、身勝手に、いっさいを捨てて逃げだせた人たちのものではない。
どちらかと言えば。
認めてもらおうと力を尽くしたあげく、かなわなかったひとのもの、ではないのだろうか。
それに。
(柘榴、だ)
姉姫と駆け落ちした戦士と瓜二つの面立ちの娘、というのは。
そして、地下―――――地下迷宮。
「地下の世界とはあの迷宮か。あれは、千年前のものなのかね」
単なる義理の質問、と言った口調で志貴が尋ねる。
語らせた上は、と言ったところか。
興味も好奇心も声からは伺えない。
応じる永志の声も、淡々としていた。
「一夜で突如生じたと言われております」
この態度から察するに、地下のあり様は、隠すべきところではない、ということか。
何気ない口調。だが、続いた言葉は。
「―――――夜空に、炎の鳥が現れた日に」
「炎の鳥だとっ?」
いきなり、夜彦が身を乗り出す。
今にも飛びかかろうと身構えた熊のような形相で。
あまりの勢いに、千華が身を引いた。
反射のように、永志と国臣が彼女を守るように身構える。
「夜彦」
伊織が、穏やかに咎めの声を放つ。
「無礼ですよ」
ふ、と夜彦は口を噤んだ。
状況を察した表情になる。
姿勢を戻した。
何かを呑みこむように、大きく息を吸い込む。
ゆっくりと吐き出し、丁重に頭を下げた。
「失礼致しました」
「その日、」
隣にいた綾月が、事務的な声で尋ねる。
「天から花は降りませんでしたか」
「いえ、そのような話はありません」
座りなおした永志が首を横に振った。
だが、意外なところから肯定が返る。
国臣だ。
「千年前空から花が降った伝承なら、比嘉家にある」
炎の鳥の話はないが、と国臣は言いさし、途中で言葉を止めた。
永志が止めたのだ。
綾月が見せた視線の鋭さに。
「…興味がおありで?」
永志が綾月を探るように見返す。
彼等にとっては、それは日常的な伝承なのかもしれない。
だが、祓寮側が知りたいのなら。
…取引になる。
なら、話は別だ。
「おそらくは」
伊織が口を開いた。
あっさりと、手の内を晒す。
「炎をまとった鳥は、人外における神格の一柱―――――南王でしょう」
永志たちが目を見張る。
息を呑んだ。
「いや、しかし」
永志と違って、裏表があまりない国臣が、真っ向から尋ねる。
「百鬼夜行はどうなる。南王がいれば、自然と生じるようなものではないだろう、あれは。力の均衡の問題とやらで」
「おや、人外のことを御存知で?」
伊織の言葉に、国臣はやりにくそうに頭をかいた。
「領主となるからには、裏の事情も知っとかなきゃならないもので」
それでも、人外の王の姿は知識の中になかったようだ。
あまり考えたことはなかったが、北方の霊笛の村は、すこし特殊な立ち位置にあるのかもしれない。
あの村では、そういった知識は普通にあった。
「そうですね」
綾月が冷えた眼差しを目の前の三人に向ける。
「なぜ、百鬼夜行は生じたのか。あれがなければ」
ごく自然に、彼は話の輪を元に戻した。
「盗賊がそれらを隠れ蓑に暴れることもなかったでしょうに」
そう、元は、その話のために彼等を呼んだはず。
どうも、簡単には核心に進めないようだ。
「…まだ言うか」
たちまち、永志の声から、温度が抜けた。
これは、平行線だ。
彼等から真実を自ら語らせるのは。
私は、祓寮の面々を見遣った。
伊織と綾月が本気になれば、可能な気がする。
しこりは残るだろうが。
ところが。
…どうも、二人が本気で訊き出そうとしているように見えなかった。
特に、伊織だ。
志貴まで巻き込みながら、対話に積極的ではない。
ふぅ。
ふと、志貴が息を吐いたのがわかった。
御簾の外にも伝わったろう。
押されるように、私は祓寮の青年に声をかけた。
「綾月」
「は」
軽い呼びかけに、綾月が畏まる。
やりにくい。それ以上に。
志貴に、操られた心地にもなった。
だが今、彼を見遣るのはすこし怖い。
なにより、呼びかけた以上は続けなければ。
確かに、目の前に集った名家の三人が虚偽の発言を為したことは問題だ。
が、祓寮が最終的になすべきは、真実の曝露ではない。
害なす人外の掃討。引いては、民の守護。やるべきことは多い。
このままいたずらに時間を浪費するなどもっての他だ。
とはいえ、私ですら分かるその程度のことを、他の皆が理解していないわけがない。
特に、伊織は。
私は会話への参加に消極的な初老の紳士を見遣る。
この場を設け、名家の三人からの証言にこだわる理由は何だろう。
私ではわからない。
わからないから、―――――思い切って、切り出した。
「これ以上、次代さまの時間を浪費して頂くなど、ご迷惑もいいところです」
弾むような口調で誤魔化したが、台詞の辛辣さは消えなかったろう。
これでは、名家の三人に、役立たずと言ったも同然だ。
彼らの顔色が変わった。
伊織が袖の下で噴き出す。夜彦が渋い表情になった。
綾月が丁重に言葉をかけてくる。
「ならば、いかに致しましょう」
「まず先に確認したいのですが、我々が一番に優先すべきは、なんです?」
少なくとも、端から真実を答えるつもりのない高貴な身分の子息たちを問い詰めることではない。
答える気配がないのなら、余計だ。
私は、被衣の下から志貴を見た。
志貴が、穏やかに応じる。
他人事、の態度で。
「賊どもの捕縛だね」
そのために、千華たちの証言を必要としているのだが、こうなっては申し方がない。
私がこの場に呼ばれた主旨とも異なるが、埒が明かないのだ、もういいだろう。
とはいえ。
ふと、私は周囲を伺う。
…私が振った話の流れを、誰も止めない。
進めて、いいのだろうか。
再度伊織を見遣る。彼は微かに顎を引いた。
なら、続けよう。
「その盗賊が隠れ蓑にした百鬼夜行が向かうのは、離宮の裏にある古戦場なのでしょう?」
今やそれは、誰の目にも明らかだった。
百鬼夜行は、離宮の正面からやってきている。
今夜にでも離宮に到達するだろう。
だとして。
「正面からやってくる人外の群れに、祓寮はどう対応する予定なのですか?」
「結界を強めます」
術式の綾月が即答する。
「離宮の外を迂回させるのですか?」
いかにも、と綾月が頷いた。
私は重ねて尋ねる。
「それは誰の命令?」
「命令ではありません」
伊織がさらりと答えた。
「武官たちとの打ち合わせの結果です」
彼等はそれで、納得、しているのだろうか。
逆に、手間取りそうな気がするのだが。
つい、私は言った。
「外を迂回させるなど、面倒でしょう」
ちゃんと誘導通りに動いてくれるとも思えない。
ならば。
「百鬼夜行を真っ直ぐ離宮に通してはいかが?」
その方が、人外の群れの動きもよみやすいと思うのだ。
難しさは、重々承知だ。
とはいえ、志貴も言っていたではないか。
―――――百鬼夜行を離宮に通す。
同じく志貴の言葉を聞いていた夜彦が、眉間を揉んだ。
「そうすれば、直接訊けるでしょう。どうしてこうなったのか」
道理の通じない小娘のように、私は無邪気を装って言った。
「百鬼夜行にも、盗賊にも」
綾月と真緒が、呆然と口を開く。
素知らぬ顔で言い切った。
「理由をね」
永志が呻く。
「ばかな」
斬り捨てるに似た厳しい声だ。
私も、ばかなことを言っているな、このひとは、と自分に対して思う。
だが母―――――澪、という女性には、こういうところがあったのだ。
こういう、最大限に周囲を引っ掻きまわしたあげく、…どうしたことか、遠心力めいた作用で真実だけが手元に残る、というふうなところが。
永志の反応に、綾月が低く叱責した。
「無礼者」
だがこの場合、永志が正しい。私が無茶だ。
控えている侍女や下女たちにも動揺は広がっていた
目の端に映る志貴だけが、面白そうに微笑んでいる。
とはいえ。
女一人が、思いつきで口にした我儘だ。
通るか通らないかは、周囲の意向次第。
このままばかにされて、けんもほろろに扱われるのも覚悟の上での発言だった。
ただひとり、動じていない伊織が、顎を撫でてひとつ頷く。
「なかなか、建設的な意見ですね」
―――――え、どこが?
そのとき、場に居合わせた全員の心が、一致したに違いない。私も含めて。
「仰る通り、行動から『髑髏を抱く男』を先頭に、百鬼夜行が古戦場を目指していることは、明らかです」
理由は、未だにはっきりとしない。
とはいえ、事実は事実だ。
伊織が、御簾を見た。
正確には、御簾の向こうにいる東宮を。
「下手に排除するより、一息に通してしまった方が、話は早く犠牲も少ない―――――上策でしょう」
伊織の言葉は、冷静な上、説得力があった。
私の言葉によって生まれた否定的衝撃を簡単にひっくり返す。
まるで実行も容易い気になる。
そんなわけがないのに。
「ですが、権威が地に落ちると騒ぐ者もおりましょう」
綾月が、前を向いたまま、特に感情のない声で呟いた。その通りだ。
離宮は大皇家のもの。そ
こに、百鬼夜行を通そうと言うのだ。
簡単にはいかない。
迎撃し殲滅せよと指示される方が納得いく。