第三章(3)
「着物は…それでよろしいでしょう」
ぼんやり座した私の全身をざっと一瞥し、琴葉は頷く。
「誰のものかは存じませんが、趣味も質もよろしい」
この着物は、柘榴のものだ。
だが、彼女がその手の造詣に深いとは思わない。
ただ、直観で結局は一番いいものを手にしていそうな感はあった。
琴葉が認めたのなら、柘榴の感性は本物だ。
そばに用意した小さな木箱の中から、琴葉は紅を取りあげた。
「肌も北方女らしくきめ細かで、白粉はあまり必要でありませんね」
蓋を開け、紅筆に中身を含ませる。
「少し紅をさす程度でよろしいでしょう」
私は複雑な気持ちになる。思い出したからだ。
最後に化粧した日を。―――――あれは、婚礼の夜。
幸い、顔には出なかった。いやおそらく、私の場合、顔に出ないのだろう。
それに困ることも多いが、助かる時もある。今みたいに。
琴葉は、無言で私の唇に紅を刷く。
「失礼する」
真緒が、背後から声をかけてきた。
直後、さらりとした手触りの布を私の頭から被せる。
布の端が鼻先まで垂れた。だが、中からの視界は保たれている。被衣だ。
手早く紅に蓋をした琴葉が微笑んだ。
「謁見の間の中央には、御簾がかかっておりますから、客人から上座側は見えません」
客人。つまり、南方名家の嫡男たち。
彼らから顔を見えないようにする意味が、私は一瞬理解できなかった。
琴葉をきょとんと見返す。とたん、彼女の笑顔が怖くなる。
昨夜、伊織が見せたのと同じ微笑みだ。
とたん、思い出した。
―――――私が、南方名家の嫡男たち相手にやらかしたことを。
「が、念のために被衣をまとっていて下さい」
はい、と従順に頷く。他には何もできない。
次いで、何気なく鏡を下げられた時に気付いた。
いつの間にか、化粧を隙なく施されている。
完璧だった。
驚愕の手際だ。
呆気に取られている内に、琴葉は私へ丁寧に頭を下げた。
「では、僭越ながら、先導を務めさせていただきます」
立ち上がった琴葉が踵を返す。
もう、ついて行くしかない。
私は豆乃丞を横目に見た。まだ船をこいでいる。仕方ない。覚悟を決める。
私は琴葉に続き、廊下へ出た。さらに後ろに、真緒が続く。
廊下を渡りながら、南方の陽ざしのまばゆさに目を細めた。
この、のんびりした態度がいけなかったのか。
いきなり、前を行く琴葉が、小声で厳しく告げる。
「侍女や下女たちの目がございます」
たちまち、戦場にでも向かう心地になった。自然と背筋が伸びる。
「そう、背筋を伸ばして。臆さず、堂々と」
冷静に琴葉が続けた。
「凛さまには自信が足りません」
自覚はある。自信など、邪魔にしかならなかった。
従順であれば、無難にやり過ごせた。
脳裏に、声が蘇る。
―――――お前は悪い子だ。
受け入れ、呑み込み、頷けば、相手は満足した。
ゆえに、分からない。
自信を持つとはどういうことなのか。それでも。
私は黙って琴葉に頷いた。私は他にやり方を知らない。案の定。
琴葉の態度が、巌のように硬くなる。
彼女は、私のこういった態度が受け入れ難いのだ。
前方からやってきた侍女たちが、怯えたように竦む。
琴葉の無言の怒気に顔面を叩かれたに違いない。慌てて脇へ退く。
彼女たちが、自然と膝をついた。丁寧に頭を下げる。
嵐が通り過ぎるのを待つように、身を潜めて。
私が頭を下げ返しそうになったのは、仕方ない。習慣だ。
寸前で、堪えた。前方から無言の圧力を感じたからだ。逆に仰け反りそうになる。
おかげに無事、何事もなく、侍女たちの前を通り過ぎた。
しばらくのち、琴葉が怜悧な声で叱咤した。
「この世のすべてが己のために存在すると思って動いて下さい」
難しい。
思うなり。
…真逆の思考がふっと胸に落ちてきた。
受け入れ、呑み込むことは、―――――得意でしょう?
大体、私はどうして、今みたいになったのか。
私が息を潜めて過ごしたのは、他者がそれを望んだからだ。
即ち、今ここにいるは私が創り上げた『私』。
外側の私は鎧みたいなもの。世間を渡っていくための。
内側の私は、その創造主。
どちらが上位に立っているかははっきりしていた。
今も振る舞いが続いているのは、単に、その『自分』に慣れているから。
なら、簡単だ。変えることくらい。
要するに、…演じ分ければいい。
誰かがそう望むなら。
私は腹の底まで息を吸い込んだ。静かに。ゆっくりと。
ここにいるのは、誰?
霊笛の宗家で疎まれ続けた娘ではない。
人外の一柱、北王の妻でもない。
―――――大皇家の血統を受け継ぐ一人。
己の血を、意識する。意識を切り替える。
この血が、…統べる者。
私は真っ先に、音を考えた。
凛と言う娘、その内側は、変わらない。変えようがない。
それを、主旋律に据える。
そこに、別の音を絡めることは簡単だ。
すべきは、編曲。
さぁ、大皇家の凛。
彼女が纏う音は、どんな音色を奏でるの。思うなり。
脳裏をよぎったのは、――――母の笑顔。
ああ、なんだ。
すとん、と納得に近い感情が胸を占める。
私はよく知っていた。大皇家の人間を。悩む必要なんて、最初からない。
彼女の振る舞いを、気配を、記憶の中から掬いあげる。再構成していく。
そのとき、周りに何が起こったのだろうか。
さらに何かを言おうとしていた琴葉が口を閉ざした。
真緒が、息を呑む。
にわかに、謁見の状況が気になった。
このままゆっくり進んでは、役目を果たせないのではないか。
「はやく、参りましょう」
小声で促す。琴葉が満足げに応じた。
「御意」
足早になった私は、さらに離宮の奥へ歩を進める。
不意に、響きのいい声が、よく手入れされた、廊下の空気を深く震わせた。
「此度の祓寮への侮り、―――――高くつきますよ」
綾月だ。普段の彼からは想像もつかない、毅然とした物言い。
応じたのは、酷薄とも感じる冷たい声だ。
「おや、力なき民の守護神たる祓寮は」
それこそ侮蔑に満ちた棘まみれの声―――――これは、添石家嫡男、永志の。
「賊に怯えたか弱い乙女を、さらに脅すのですか」
相手の立場に釘をさし、その上、反撃までしてのける。
永志の強かさに私は舌を巻いた。
なんにしろ、彼等は隠したいはずだ。
彼らがおこなったこと。ひいては、千華が何をしたかを。
あの三人のうち、頭脳は永志だ。
彼の一番の目的は何か?
おそらくは、自身の立場の保持だ。
目的がそうである以上、そこに祓寮や東宮への敵対は含まれていないはず。
つけいるところがあるなら、そこだ。
どうやれば、互いの目的―――――もしくは利益―――――に反せず交渉できるか。
綾月は探っているのだろう。
これは、私もうかうかしていられない。
先日、実際に彼らの話を聞いたのは私一人だ。
今回の彼らの言い分を聞き、食い違いや違和感を探るのが、私の役目。
私は気を引き締めた。
ぼんやりしていては、周囲に気圧されて一巻の終わりだ。
そのまま、廊下から、ある一室に入る。謁見の間ではない。その隣室だ。
隣の部屋との仕切りは、分厚い御簾。
それを前にして、琴葉は正座する。
続いて正座すべきだろうか。真緒を見遣る。彼女は小声で囁いた。
「凛さまはそこで待機を」
設置された御簾の隙間から、向こうの声が届く。
「嘘を吐かれたのは、自らの心を守るためであったと?」
「いかにも」
「失礼ながら」
綾月の声に、霜のような嘲笑が混じった。
「貴殿が守りたいのは、千華姫のお立場ですか、御心ですか」
私は目を見張る。
彼に、こうまで底意地の悪い挑発的な物言いができるとは思わなかった。
御簾の向こう側、沸騰するような気配を感じる。刹那。
「失礼致します」
琴葉が声を張った。絶妙の間合い。
向こうの室内の空気がいきなり沈黙に包まれる。
動じず、軽やかに応じたのは、
「なんだね」
東宮―――――志貴だ。
琴葉はその場に手をつき、頭を下げた。
「鎮守の司・伊織さまのご息女、凛さま、御入室なさいます」
―――――え?
今日で一番、私はてきめんに面食らった心地になる。
(娘。誰が、誰の)
うっかり化けの皮が外れそうになった。堪え切ったのは、事前の情報があったからだ。
先ほど、話したばかりではないか。
伊織が、私を養女に迎える、と。情報をくれた琴葉に心から感謝する。とはいえ。
知識と現実とは別ものだ。
このときはじめて、私は伊織の話でたまに祓寮の他の皆が見せる表情の意味を察した。
何と言うか、こう。
いつか何か、やり返したい、という気持ちにさせられる。