第三章(2)
ただ、それで私が傷つくことはない。信じてもらいたいわけではないからだ。
母のことは知りたいが、その身分に関しては、困惑しかない。
髪を整え終わったか、琴葉が私から離れた。斜め後ろで居住まいを正す。
目上の者の不審を目の前にしながら、琴葉は動じない。
彼女らしく、明瞭に言い切った。
「逆でございます」
逆。ないがしろにしている、という言葉の?
「…解せないね」
志貴はあくまで琴葉との応答を楽しんでいるだけのようだ。
会話の中身に興味がある態度ではない。
「ではお尋ねしますが、東宮―――――次代さま」
暖簾に腕押し、と言うか―――――志貴との対話には、対等の場所にいる感覚がない。
いくら言葉を紡いでも、遠い場所にいて、通じないような。
こんな相手に、どうやって言葉をとどかせればいいのか。
私は改めて志貴を見遣る。
今の志貴の態度は、昨夜蘇芳に垣間見せた彼とは何か、一線を画していた。
蘇芳に対しては、歳相応の青年のようだったのだが。
彼に対して、私の斜め後ろから飛んだ琴葉の声は鋭い。
「斎宮のお役目をどうお考えですか」
斎宮。
意外な言葉だ。一瞬、思う。けれど。
(あ)
これこそ、私に縁の深い言葉だった。
斎宮とは、大神をその身に招き宿らせ、繁栄と豊穣を大皇家に約束する巫女。
政治とは一線を画した立場。しかしその言は要所で重要視される。
斎宮に選ばれる娘は、もっとも高貴な血統の女。即ち。
大皇家の血を引くもの。
今上たる大皇を兄に持つ母が、斎宮に選定されなかったわけがない。しかも。
彼女は、祓寮の長が今も一目置く霊力の持ち主だった。
その母は、今、いない。なら。
…今の、斎宮は―――――誰?
志貴の瞳から、完全に温もりが消えた。構わず、琴葉は畳みかける。
「妹姫のお一人がそのお役目を代行なさっておりますが、…さて」
琴葉は直球で尋ねた。
「それを、よしとなさっておいででしょうか」
否定を前提とした問いかけだ。
斎宮の役目は表向きのものと異なるのだろうか。
単に、役目は危険につながると言うことか。どうも不穏を感じる。ともすれば。
母が、失踪した理由と、それは…重なる?
「琴葉さま」
志貴のそばに控えていた夜彦が、固い声で制した。
「踏み込み過ぎでは」
彼の背後から、じゃらりと音がする。見れば、朔が数珠で遊んでいた。
無表情の中で視線だけが琴葉に向けられる。
志貴は首を横に振った。
「構わないよ」
朔がふいと琴葉から目を逸らす。
「理解した」
志貴はやりにくそうに息を吐いた。私を一瞥する。
「なるほど、確かに彼女は有能、…なのだろうね。なればこそ」
志貴の目が、一瞬、道具を見る目になった。
この目には覚えがある。
霊笛宗家で私に時折向けられていたものと同じだ。
「僕は、彼女の存在を、父に告げる。…だからかい」
「志貴さまが知った以上」
琴葉は固い声で応じる。
「もう隠し通せません。これもあの男の台本通りなのかもしれませんが」
琴葉は忌々しげに呟いた。志貴は穏やかに微笑む。
「天の思し召しかもしれないよ」
「次代さま」
「だからと言って」
志貴は肩を竦めた。
「まだ父は彼女を知らない」
琴葉は否定しない。現状を冷静に指摘する。
「そもそも、ただの娘が大皇に目通りかなうはずもございません」
私も同意見だ。現実は厳しい。
相手は雲上人。他人より遠い相手だ。ゆえに、騙りと思われる可能性は高い。第一。
―――――同席中、失敗すれば首をはねられそうな相手になど会いたくはない。
「志貴さまとて、半信半疑であらせられましょう」
言い放った琴葉に、私は言葉を失う。
すごい。真正面から本人に指摘するなんて。私は他人事みたいに感心した。
琴葉の心臓は、きっと鋼鉄だ。
志貴は黙って微笑んだ。思いついたように別のことを言う。
「ただの娘…ね。読めたよ。まず、『ただの娘』とは言えない、然るべき身分を与えるのだね」
いりません。
湧き上がった言葉をどうにか呑み下す。
頑張って、思考を別の方向へ動かした。
然るべき身分とは、どの程度の。思う端から、答えは出た。
…大皇との謁見がかなうくらいには必要、と言うことだ。
単に私は母親の話を聞きたかっただけなのに、えらいことが始まっている。
「伊織は誰を選択するんだい」
選択?
あまりに無造作な言葉に、意味が咄嗟に思いつかない。
しかし、私に身分を与えるためになされる選択―――――とはつまり。
手っ取り早い方法は、どこかの貴族の養女にでもなることだと思う。
そのために、どの貴族を選択するか、と志貴は尋ねたわけだ。
「いや、どんな相手を巻き込むつもりかな」
そんな言葉を、石ころでも吟味するような気のない態度で彼は口にした。
その様子に、心の底から理解する。
表面上いくら礼儀正しくとも、やはり志貴は雲上人なのだ。
琴葉は冷静に応じる。
「あの男は、選択などしません」
「それは、どういう…」
志貴は目を瞬かせた。私は首を傾げる。
私たちの様子に、夜彦と真緒が、居たたまれないような視線を交わした。
ふと、志貴がいきなり真顔になる。
「―――――…まさか」
琴葉は投げやりに頷いた。
「さようなれば、同席もかないましょう?」
志貴が、改めて私を見る。すぐ、彼は琴葉に目を戻した。
「自ら弱味をつくるつもりなのかね、彼が?」
話の流れに、私は目を見張る。それこそ信じられない。思わず呟く。
「では、…伊織が?」
私を養女に迎えると言うのか。意外だ。
無論、伊織が簡単に他人を見捨てる人物とは思っていない。だが。
伊織には、盤上の外で操り手として立つことを得手としている風情がある。
自らを駒にする人物には見えない。
とはいえ、それ以上に、琴葉のような女性がこんな悪趣味な嘘を吐く方が信じられなかった。
彼女が頷いたのなら、事実なのだ。
「そこから先は、本人に御確認を。さて」
琴葉は一方的に話を切り上げた。仕切り直す態度で手を叩く。
「凛さまにおかれましては、お食事の進まぬご様子」
私は我に返った。膳を見下ろす。ほとんど残っていた。
「さりとて、謁見のお時間は迫っております」
ぐぅの音も出ない。琴葉は切り口上で告げた。
「申し訳ございませんが、膳をさげさせていただきます」
私は思わず琴葉を振り返る。
目が合った。琴葉は微笑む。容赦ない。
「よろしいですね」
残すのは、作ってくれた相手に悪い。そう、思ったが。
のろのろ食べていた私も悪い。箸を置いた。
手を合わせる。作ってくれた相手と、食材に感謝を向ける。丁寧に。
真緒が伺う態度で私を見た。頷き返す。彼女は一度、黙礼。
真緒は、膳をもって部屋を出ていった。
志貴の方は夜彦が片づける。
いったん廊下に出た二人が戻ってきたところで、志貴が立ち上がった。
「僕は先に行くよ」
見上げれば、彼はお手本のような一礼を見せる。
「伊織とはもう化かし合いが始まっている頃だろう」
にこやかな口調に、細い針を思わせる毒がにじんだ。
「いや、率先しているのは綾月かな」
楽しむように続けられた言葉は、優しい声で紡がれる。そのくせ、響きはやけに酷薄。
「南方の闇は、どれほど深いのだろうね」
「―――――先導させて頂きます」
夜彦が、先に立って歩き出した。
ではね、と志貴は私に微笑んだ。夜彦のあとに続く。刹那。
(わ…)
身が竦んだ。
いきなり、志貴がまとう空気が切り替わったからだ。
表情が変わったわけではない。所作も同じ。なのに。
先ほどまで談笑していた相手が別人だったのではと思えるほど、重厚な雰囲気をまとっている。
それだけで、場の空気が変わった。
史郎とはまた別種の威圧感だ。息苦しい。
朔が、目覚めたように立ち上がった。墨染の袖が翻る。
いくらか遅れて、余所見しながら二人の後ろについていった。
彼らが部屋から出るなり、肩から力が抜ける。
いつものことなのか、琴葉が素知らぬ顔で私の前に鏡を据えた。
いきなり、私の目に、ぼんやりと座す少女――――私――――が映る。
我ながら、しゃんとしない娘だ。