第三章(1)
遅い更新ですが、三章をぼちぼち進めていけたらと思います。
よろしければお付き合いくださいませ<(_ _)>
場所は、寝泊まりさせてもらっている離宮の一室。
正座した私は、外を見た。
日差しが強い。そのせいか、蝉は鳴いていなかった。一匹もいないみたいに。
時刻は、正午を回った頃合いだ。
商人たちの会合を思い出す。
彼らに動きはあったのだろうか。
室内に目を戻す。昼の膳が目の前にあった。
不思議だ。まだ一日が終わっていないなんて。
起きてからの半日が濃密過ぎた。うまく頭が働かない。合わせて、動きも鈍い。
目の端で、緑色の毛玉ならぬ豆乃丞がうつらうつら船をこいでいる。
私の状態と共鳴しているのだろうか。
いや、豆乃丞は朝からああだった。後で叱ろう。苦労こそ共有。
「凛さま」
すぐそばに控えた真緒が急須を取りあげた。生真面目に指摘する。
「箸が止まっている」
食欲はない。だが残すのはもってのほか。漬物を取り上げ、口に入れる。
次の予定の刻限が迫っているのだろう。
周囲に焦った様子はない。だがおそらく、余裕もない。
私はどうにか、箸を進めた。
真緒が、何か言いたげに口を開く。結局、何も言わない。黙って湯呑みに茶を注いだ。
いい香りがふわりと立ち昇った。茶の香りに、肩から力が抜ける。
私たちのやり取りに思うところがあったのか、苦笑が耳に届いた。
顔を上げれば、志貴と目が合う。
明るい場所でゆっくり見れば、彼は本当に真牙に似ていた。
だからこそ、分かる。
容姿以外、何もかも違う。
「あなたはゆっくり食べていて良いのだよ、凛殿」
宥めるように言った彼の手元にも私と似たような膳があった。
もう相当、量が減っている。おかしい。食べ始めは同じだったはず。
「志貴さま」
私の背後から、厳しい声が飛んだ。琴葉だ。
彼女は、私の髪を整えてくれている。
「凛さまも謁見に同席なさいます」
とたん、志貴の目が、丸くなった。
表情がなくなると厳格さが際立つそれは、今は穏やかだ。志貴は私に尋ねた。
「そうなのかね」
確認の口調のようだが、詰問にも思える。
自然と、私の箸の動きが輪をかけて鈍くなった。
琴葉が言った謁見。
それは、添石家・千華姫と祓寮との面談の場だ。
千華姫の証言に偽りありとした伊織が早急に約束を取り付けたと聞いている。
添石家と比嘉家の嫡男も同席するらしい。
その上、そこに東宮たる志貴も座す。
権威を正面に配し、偽りを口にし難くするためだ。
となれば。
志貴の疑問は最もだ。
私は単なる町娘に過ぎない。しかも素性は怪しい。本人にさえ。
本来、雲上人との同席は許されない馬の骨だ。
今回、同席することになったのは、それを望まれたからだ。伊織に。
私は、なぜ、とも問わなかった。ただ頷いた。求められるならば、従うだけだ。
とはいえ、考えることができないわけではない。
「…私が盗み聞いてしまったあの方々の話と、今回彼らが話す言葉と内容の食い違いがないか、を伊織は確認したいのだと思います」
ゆえに、伊織は私を謁見の場に据えるのだ。
志貴は、おや、といった表情になる。
答えは望んでいなかった―――――否、期待していなかった態度だ。
遠くの人形を眺めるようだった姿勢が、改まる。ほんの、微かに。
「では、祓寮の人間として同席するのかね」
わからない。しかし、それが一番自然だ。私は頷いた。
「私に、身分はございませんので」
聞いた限りでは、身元不明のものが同席を許される場ではない。
しかし、祓寮は実力がものをいう組織だ。
半ば確信しての回答―――――直後、背後で琴葉が嘆息した。
「なぜ、わたくしがここにいるとお考えです」
話の流れが掴めない。咄嗟に私は言葉に詰まる。代わりに、志貴が即応した。
「なぜだね」
面白がるように。からかうように。琴葉の気魄に、ちっとも臆していない。
琴葉。
私は、この年配の女性のことを、よくは知らない。
誰に聞いてもいないのだから、当然だ。
ただ、立ち居振る舞いから、それなりの身分の方には違いない。
実のところ、言われるまでもなく、違和感はあったのだ。
それなりの立場にある威厳ある女性が、このように、一町娘のそばで傅くように侍るなど。
なぜ、としか言いようがなかった。本当に。
志貴の言葉を、琴葉は素っ気なく一蹴した。
「東宮―――――次代さまには聞いておりません」
背に感じる痛みは琴葉の視線だろう。
これは、答えろ、と言う無言の重圧だ。
私は罰を待つ子供の気分で首を横に振った。
「…分かりません」
想像もつかない。素直に降参した。幸い、琴葉に呆れた様子はない。どころか意外にも、
「ならば、お教え致します。ただし、あの狸―――――伊織殿に目をつけられた以上は、色々と覚悟をなさっておいて下さらねば」
励まされた心地になった。もちろん、琴葉の態度は厳しいけれど。
「まず、先に一つ教えてください。凛さまは、」
切れ味のいい物言いで、言葉は続けた。
「捕まったのですか」
いきなり、私は思い出す。
―――――お逃げなさい。
そうだ、彼女は昨夜、そう言った。
―――――見つかる前に。
そのときの琴葉の目には、確かな気遣いがあった。いえ、今も。
「逃げなかったのですか」
だが、意外な問いかけだ。しかも、二択。
私の答えは、どちらでもない。
ただ流されているだけ。
琴葉のような女性から見れば、情けない答えに違いない。ただ。
捕まったつもりはない。逃げなかったわけでもない。
この世で唯一、史郎のそばだけが、私が無条件で息をつける場所だ。
他の場所なら、どこでも同じ。
意識の一部で常に、外敵から息を潜めているような感覚が消えない。だと、しても。
「危険だからと言って」
信念、と言うほど立派なものではないが、思うところはある。
「知りもせずただ切り捨てるのは、…何かが違う、と思うのです」
挑戦する、と言うほど勇敢なものではない。
ただ、私は何も知らなかった。だから、知りたい。
たとえば、『火』という知識を持っていて、見たこともない者より、実際に使って火傷を負った者の方が、より賢いだろう。
なにより、知り、体験すれば、ひとつの物事に執着し、一方に偏る危険は少なくなる。
確かに、白か黒か、どちらかに偏るのは楽だ。
しかし偏れば、どこまでも転がり落ちてしまう。安住に感じる安心は、何か間違っている。
人外と関わりを持って以降も、人間の部分を見失わないようにしたいと思うのも、その姿勢の一環だ。
そう在ってこそ。
史郎が見ているものを、私も見ることができると思うのだ。
「…さようで」
琴葉は嘆息した。
彼女が理解したのかしなかったのかは分からない。
私本人にも言い難いことを、何かが通じたはずと考えるのは都合がいい話だろうが。
琴葉はそれ以上何も問わなかった。
落ち着いた声で告げる。
「伊織殿はすでに、貴女さまを秘す心積もりは捨てたようです」
寝耳に水だ。私は思わず繰り返した。
「秘す?」
誰から。尋ねようとした言葉を、寸前で飲み込む。
…今さら、何を。
琴葉は、端から答えを告げていた。
―――――そうなれば確実に、大皇にあなたさまの存在が知られてしまいます
私は大皇に見つかってはならない。
理由までは教えられていないけれど、琴葉は確かにそう言った。
「秘すとは…伊織は、凛殿をいつから知っていたのだね?」
尋ねた志貴に、叱責の雰囲気はない。
単純に、驚いた、と言った口調だ。
彼は箸を置く。
見れば、いつの間にか茶碗は空になっていた。あれほど上品に食べながらこの速さ。
奇術師でもこうはうまくいかない。
「凛殿が本当に僕の従妹と言うなら」
志貴は私に、まっすぐすぎて居たたまれなくなるような視線を向ける。
「即ち彼女は大皇家の血統というわけだろう」
口調は、淡々と叱るようだが、…なぜだろう。
「ないがしろにされていい存在ではないよ」
彼自身は、本気でそれを信じているようには見えない。
とはいえ、と志貴は退屈そうに息を吐いた。
「父の妹―――――昔失踪なさったという澪さまの名を、覚えているものが幾人いるかは謎だがね」
とたん、私は確信する。
志貴は何一つ、私のことを信じていない。
彼はそれを隠してもいなかった。




