第二章(7)
史郎は一度、周囲を見渡す。
まず、穴を見た。
次いで、『髑髏を抱く男』と柘榴。
そして、夜彦。
どんどん、眉間のしわが深くなる。
最後に、私に目を戻した。面倒そうに呟く。
「凛だけ見て生きられたらな」
私はびっくりした。だって、
「史郎さまは、それができない方です」
断言できる。
こんな状況、史郎は黙って見過ごせない。
史郎が目を見張った。
珍しく、驚いたようだ。
次いで、ふは、と楽しげに息を吐きだす。
照れた顔で、喉で小さく笑った。
「だよなぁ」
珍しく機嫌よく、史郎は顔を上げる。
真っ直ぐ前を見据え、
「柘榴、必要がある!」
狐面の男と拳を交えている鬼女に声を投げる。
ちら、と一瞬だけ、柘榴の視線がこちらに流れた。
たちまち、史郎は不機嫌に言い放つ。
「乞え」
それで何が通じたんだろう。
史郎に輪をかけた不機嫌さで柘榴が応じた。
「仕方ない。ならば」
すぐさま、真剣な声が、続く。
「願おう」
とたん。
私は思わず、周りを見渡す。
その一瞬、かすかに変わった気がしたのだ。周囲の、空気が。
(なに?)
「その穴を塞いでくれ」
柘榴が言うなり、―――――何かが、解放された。
素っ気ない空気が、いきなり協力的になった、と言うのか。
そんな心地がした、と言う程度の感覚的なものに過ぎないが。
「…んだぁ?」
ところが、史郎は不満げに断定した。
「足りねえ」
今度は、柘榴は応じない。
横顔を見れば、笑っていた。
どうやら、『髑髏を抱く男』に集中している。
――――――いや、夢中だ。
笑い声が響き渡る。
「はは、…強いな!」
先ほど彼女が見せた、憎悪に似たものの片鱗すら、そこには残っていない。
心底、柘榴は楽しんでいた。
強者との手合わせを。
史郎は白けたように鼻を鳴らす。
目だけで穴を見下ろした。
やりにくそうに、舌打ち。
「細かい調整が鬱陶しいな…仕方ねえ」
史郎は右腕を伸ばし、私の肩の上に置いた。
私と視線を合わせるように身を屈める。
何事だろう。
史郎を見返せば、
「おい、凛」
左手で、邪魔そうに自分の襟を掴み、史郎はいきなりそれをはだけた。
硬直する私の目の端に、そこから光るものがこぼれ落ちたのが映り込む。
「これを外せ」
史郎から、肌を見せつけられるような体勢に、変な声が出そうになった。
寸前で呑み込む。
無言で何度も頷き、豊音を一旦帯に戻した。
史郎の首に手を伸ばす。
これ、というのは、胸元からこぼれ落ちたモノのことだろう。
史郎は勾玉の姿をした小さな光る石を首から下げていた。
正面から、史郎の首の後ろに手を回し、金具を外す。
「これは石英だ。西方で採れる。ただ特殊な石でな」
外した、―――――刹那。
私は息を呑んだ。
史郎の、気配が。
―――――いっきに、重くなった。
「人外の力を多少、抑える働きがある」
私は息を止めそうになる。
どうにか、慎重に呼吸した。
「オレの、前で」
夜彦が、息をしにくそうに口を言う。
「そのようなことを話していいのですか、―――――王よ」
史郎は、興味もなさそうに、夜彦を一瞥―――――鼻で笑った。
「隠したところで、いずれ広まる話だ」
石を握りこんだ私の拳を、上から片手でそっと包み、史郎は私の胸元へ押しやる。
「持っていろ」
私は真面目に頷いた。
史郎は、眩しそうに目を細め、微笑む。
すぐ、その優しい表情は消えた。
私から手を離し、史郎は穴に向き直る。
私は石英を襟の袷に挟んだ。
代わりに豊音を再び手に取る。
史郎は低く、私に命じた。
「奏でろ、凛」
どの曲がいいか。
最近、意図的に選曲することはなくなった。
奏でていると、自然とそれが曲になっている。
最初の、一音。
それがいっきに空気をつんざいた。
勢いに乗って、私は音を紡ぎだす。
大気に編み込んでいく。
隣で、史郎が穴の上に片手をかざした。
「…塞げるのですか」
夜彦が、警戒と疑惑の視線を彼に向ける。
彼にとって史郎とは、破壊の権化なのかもしれない。
史郎は、答えない。
地下に意識を向け、返事の代わりに命じた。
「大地に太刀を突き立てろ。それを媒介にする」
ふ、と夜彦は自身の太刀を見下ろす。
一瞬、迷いが過ぎった。だが。
決めれば、彼は早い。事態が緊急だと、察しているのだろう。
迷わず、それを地面に突き立てる。合間に、
「あまり完璧なものを作ってはいかんぞ、凛殿」
快活な声がした。
いつ現れたか、ひょいと隣を通り過ぎた征司が、穴の縁にしゃがみこむ。
「北方の気に染まった凛殿の力だけで結界を完成させては、危険だ」
明るい顔で、私を見上げた。
口にしたのは、表情にそぐわない、厳しい忠告。
「南方の気が歪む」
力の均衡が問題になる、というわけだ。
しかし、ならばどうすればいいのか。
ここで動けるのは、私を含め、北方に属する者だけだ。
史郎が面倒そうに唸った。
「いるだろう、いいのが」
征司は苦笑する。
私の影を見下ろした。
「…お歳なので」
史郎が乱暴に足元を蹴りつける。
征司は諦めたように嘆息した。
私の影に向き直る。片膝をついた。
乞うように、頭を下げる。
「申し訳ございません。協力願えますか、…古老」
―――――古き頂の方の愛し児からの依頼か…。
とたん、覚えのある声が私の脳裏に響いた。
うっそりと、巨大な気配が背後に生じる。
すぐ近くで夜彦が、太刀に手をあてたまま全身を強張らせた。
声が、しずかに続く。
―――――拒めまいよ。
刹那。
じゃらり、と周囲に音が響いた。鎖の影が、地面に落ちる。
昨日、天から降った鎖と同じだ。
ただ、あの時のように、目には見えない。
潮のにおい。鉄の鎖がぶつかり合う音。
それらが、私の音に重なってくる。
これが、南方に属する力だ。
―――――北王。
あの亀の思念が、脳裏に響く。
―――――我が行うなら、保って数日となるが。
たちまち、史郎がうるさそうに顔をしかめた。だからなんだ。そんな表情だ。
亀がわずかに苦笑したのを感じる。
―――――…いや、戯言よ。
それきり、声は消えてしまう。
…おそらく、私には、加減の必要があるのだろう。
塞ぐのに一生懸命になるのではなく、見守る風情で、一歩引く心地を保つ。
力の網が崩れるぎりぎりのところまで引き、南方に属する力を広げていく。
そう待つことなく、史郎が呟いた。
「よし」
広げた掌で不可視のそれらを撫でるようにして、
「塞ぐ」
―――――ぐっと拳を握りしめた。とたん。
吸い上げられるように、土が集まる。蟻が這い集まるのに似た光景だ。
それを横目に、征司が夜彦に快活な声を投げた。
「祓寮の。柄を、しっかり握っておくほうがいいぞ」
言うなり。
「…ぐ、ぅ…っ」
夜彦が、呻く。
突如、膨大な力の塊が、大地に突き立てた夜彦の太刀の下に発生。
種のように丸く膨らんだ。と思うなり。
突如、裂けた。
弾ける。
とたん、力の塊が、縦横無尽に伸びていく。
根のように、血管のように、地中を走りはじめた。
―――――このとき、どれほどの力が生じたのか。
太刀が吹き飛ぶのを抑え込むように力を込めた夜彦の両腕に、血管の筋が浮き出た。
丁度穴が開いていた空間分を覆い尽くしてようやく動きが止まる。
気付けば、穴が塞がっていた。
あっという間の出来事だ。呆気に取られるなり。
穴が塞がった、その中央。
身軽に、誰かが着地する。柘榴だ。
頬を拭う仕草に、私は思わず中途半端に曲を止めた。
柘榴の手の甲に、血がにじんでいる。
「柘榴、怪我を…っ?」
私は駆け出しかけ、寸前、後ろから腕を引かれる。
史郎だ。
たたらを踏んで、私は背中から彼の胸へ倒れ込んだ。
すぐ、気付く。
このまま柘榴に駆けよれば、彼女の邪魔になるだけだ。
急く気持ちを抑えながら、私は大人しく史郎の腕の中に収まった。
同時に、柘榴がこちらを一瞥する。
「大事ない」
嘘だ。彼女の頬が、ぱっくりと、裂けていた。問題ないわけがない。
私が唇を引き結んだ、刹那。
―――――ヒュウウウウゥゥゥウウゥゥ…ッ。
突風が細い隙間を無理やり吹き抜けるような音が、突如響き渡る。
奇妙な焦燥を煽る音だ。
いったい、どこから。
視線を巡らせた。直後、気付く。
目の端に映った黒い狐面の男。彼が、気の毒なほど狼狽していた。
おろおろと、腕に抱いた髑髏をかき抱く。
縋るように。
宥めるように。
その、髑髏の額部分に、赤が見えた。血が付着している。
…柘榴の?
「泣くな、姫」
己こそが泣きそうな声で、男は髑髏に囁く。
「泣かないでくれ、頼む」
懇願し、助けを求める様子で周囲を見渡した。
「ど、どう、すれば…」
姫?
あの、髑髏が。そしてこの、風のすりきれるような音が泣き声?
私はつい、髑髏を見た。髑髏の眼窩、その暗がりに見入るなり。
どぅ、と大きな音が鼓膜を叩く。一瞬、目が回りそうになった。
波濤? そうだ、これは、波の音。海が、近い?
違う。咄嗟に、首を横に振る。
これは実際の音ではない。もっと、正確に言うならば。
『私』が聞いている音ではなかった。なら。
―――――あの、髑髏の。
私の意識に、髑髏の眼窩、その奥の闇が波の勢いで迫ってくる。
思わず、意識を閉ざそうとした。
だが一瞬、遅い。
意識が、闇に覆われた。
刹那の静寂。ついで。
わっと満ちたうるさいような蝉しぐれが、全身を叩いた。
あかるい陽ざしの中で、
―――――あの身の程知らず、死んだそうですわ。
悪意に満ちた言葉が躍る。至極楽しげに。
逆光の中、『彼女』にそう言った少女が笑った。
―――――かわいそうに、戦場のど真ん中で。
波の音を背景に、『彼女』は呆然とその言葉を耳にする。
何の反応も見せない『彼女』を慰めるように、少女は身を寄せた。
気紛れな、猫のように。そして、
―――――かわいそうな、お姉さま。
『彼女』の耳元で、冷酷なほど冷えた声で囁く。
―――――お姉さまだけ幸せになるなんて許さない。
少女は『彼女』の手に、何かを握らせた。身を離す。
それが匕首だと、『彼女』はきちんと理解しているのだろうか?
ふらり、『彼女』がよろめく。
遊びを面白がる態度で、少女は告げた。
―――――ではごきげんよう、お姉さま。苦しんで下さいな。
身を翻した少女の顔が、一瞬『彼女』の目にはっきりと映った。その顔は。
―――――…千華姫っ?
私はいっとき、言葉を失う。
違う、別人だ。似ている。でも、よく見れば違う。
その驚愕が、気付け薬になった。
殴られたような心地に、私は我に返る。
その場にへたり込む。
寸前、史郎に支えられた。
「史郎さま」
「過去は死体だ」
言って、史郎は私の背後から目元を覆う。熱い、掌。
「終わったもの。蘇りはしない」
慰めるように、その手で私の頬を撫でた。やさしい動き。
安堵に、私は小さく息を吐く。
史郎は私の耳元で静かに囁いた。
「見過ぎるな」
「…はい」
私は小さく頭を振る。直後、
「もっと殺さねば。もっと、もっと、もっと」
『髑髏を抱く男』が操られるように呟いた。
「でなければ、お前を迎えに行けない」
寸前までの、柘榴とのやり取りなどなかった風情で、彼はふらりと後退する。
「殿に、認められねば…勝利を捧げねば」
何も見えていない態度で、『髑髏を抱く男』は踵を返した。
髑髏の泣き声が止んだ。とたん。
縛めが解けたように、男が駆け出した。離宮の方角へ。
柘榴は、追わない。静かに立ち上がる。大きく息を吸い込み、吐き出した。
「あれでは、また迷う」
忌々しげに、眉を寄せる。
「だが、追い詰められているな」
征司が男の背を見送り、呟いた。
「終わりは、近いぞ」
告げた史郎が私から身を離す。
私は豊音を帯に挟んだ。代わりに、先ほどの石英の首飾りを取り出す。
見上げれば、史郎はひとつ頷いた。無言で屈み、私の肩に額を乗せる。
従順な獣に似た所作だ。
手を上げ、私は史郎に首飾りをかける。
とたん、面白いように史郎の気配がぐっと小さくなった。
夜彦がちいさく息を吐く。直後、
「凛さま」
鋭い咎めの声で私を呼び、地面から太刀を引き抜いた。
「貴女が母君を知りたいと仰せになり、生来の地位に立たれるなら」
生真面目な声で断定する。
「人外との関係は断って頂かねば。彼等は敵です」
私は首を傾げた。夜彦を振り返る。
彼は本気の表情をしていた。
「関わりを続けるならば」
夜彦の声に、揺らぎはない。
「その人外には消えてもらわなければなりません」
彼は真剣だ。顔を上げ、史郎は鼻を鳴らす。
「できるか?」
挑発の台詞。夜彦は重く応じた。
「たとえ神格だろうと、―――――…お役目なれば」
夜彦を一瞥した史郎が、私を見下ろす。いつもの皮肉な口調で言った。
「敵となるか、凛」
―――――夜彦の、言っている意味は分かる。だが。
私は首を横に振った。
「いいえ」
何を言おうとしたのだろうか、夜彦が口を開く。
その言葉を抑えるように、私は彼に掌を向けた。
「なぜ人外は、敵なのですか」
夜彦は、ぐっと何かを呑みこんだ。
こらえるように、小さく息を吐く。
「…人間とは、相容れぬ生き物です」
確かに、そういう部分もある。けれど。
相容れないからといって、共に生きられないわけではない。
少し、踏み込んでみよう。私は首を傾げた。
「それは、あなたの経験ですか。それとも、昔からの『教え』ですか」
夜彦は目を瞬かせる。
「なにを…?」
「私は自分の経験から選びたいのです」
なにより、他者が下した結論は、他者のものだ。
『私のもの』ではない。
だいたい、端から結論に飛びついては、結局何も知らないのと同じ。
「誰かがこう言ったから、こうするべき、という理由には、私は納得できません」
たとえそれが、大昔からの教えであったとしても。
「右か左につけと選択を迫られた挙句強制されるなら、私は離宮には戻りません」
そもそも私は、史郎の屋敷で、人外の世界に触れるうち、不思議に思うことがたびたびあった。
人間と人外が今のような関係になったのは、いつからだろう?
あるはずだ。―――――はじまり、というものが。
夜彦が、驚いた顔で私を見下ろした。
彼にどう言えば伝わるか、と言葉を探しあぐねている私の隣で、史郎が低く笑う。
「侮ったな、祓寮のデカブツ?」
なにやら、誇るように彼が言うのに、不意に夜彦はバツが悪そうな表情になった。
「一見、凛は扱い易そうに見えるんだろうが…、舐めてかかると怪我するぜ」
確かに少し、…考えなしのところはある。
反省した私に、史郎は満月色の瞳を向けた。
「ひとまず、落ち着け、凛。祓寮の連中と行動を共にできるのは悪い話じゃねえ」
驚いて、私は史郎を見上げた。
「私に、史郎さまを裏切ることはできません」
たとえ神を裏切れても。
「だったら」
史郎は嬉しそうに微笑んだ。
いっきに、雰囲気が幼くなる。
「しなきゃいい」
「ですが」
私は言葉に詰まった。
祓寮と共に行動することは、人外に敵対することだ。
彼等と共に立つのなら、敵ではないと言い続けることはできないのではないか。
何か、納得がいかない。戸惑う私に、
「何を言っているんだ、凛殿」
征司が、呆れた声で言った。
「そんなこと、あなたはずっと証明しているではないか。今も」
「そうよな」
柘榴が頷く。
「凛の想いは疑いようがない。北竜公の力が増し続けているのが何よりの証じゃ」
私は目を瞬かせる。
これは―――――あれだろうか。
あれ―――――即ち、人間と人外の意識の相違。
史郎もいっとき、不思議そうな表情になった。私と目が合う。
すぐ、悪戯気に笑った。
「敵対もいいじゃねえか」
あっけらかんとした言葉に、私はつい、唖然となる。
「お前と戦うのは楽しそうだな。加減はしねえぞ」
一緒に遊ぼう、と言うようなノリで、史郎はそんなことを言った。
私の顔を覗き込む。
「奪う楽しみもできる」
ふと、子供が新しい発見でもしたような表情で微笑んだ。
「そうか、敵なら傷付けてもいいんだな。お前なら、嬲るのも飽きがこねえ気がする」
私はようやく理解した。
そうだ。
人外とは、こういう生き物なのだ。
この、うすら寒い危機感は馴染みのものだった。
私には、…少なくとも今の私には、史郎と敵対するなど想像も付かない。
いや想像だけで、涙が出てきた。
どうにか堪える。
気付いたか、史郎が私の頬に手を伸ばした。
「ちょうどいい機会だ。考えてみろよ」
包みこんでくる温もりに、暴力の気配は欠片もない。
それを感じていると、混乱してくる。
彼の言う敵対とはなんなのか。
史郎はまるでそれが必要なことのように、親が子を諭すに似た声で囁いた。
「凛の力でどうすれば、俺を屈服させられるか」
真っ直ぐな夜彦は理解できないのか、ものすごく難しそうな顔をしている。
まるで倒されるのが楽しみと言いたげだが、史郎に負ける気はさらさらないに違いない。
いつの間にか、生死の境に立たされている心地になった。
「これだから、人外の考えは理解できない」
太刀をおさめ、夜彦が厳しい声で言った。
「まるで凛さまを殺したがっているようだ」
「『凛さま』、な」
刹那、満月色の瞳に影が落ちる。
「殺したくないから、譲歩している」
不意に、私は地下で見た史郎を思いだした。
次いで、―――――闇をまとう龍身を。
「とにかく」
史郎は、自由な方の手で、私の手を取った。
掌を、彼の頬に押し当てる。
「お前は澪―――――母親のことを知りてえんだろ」
隠すつもりはなかった。私は頷く。
「なら、祓寮はもってこいだ」
その件について、史郎は怒ってはいないようだ。
勝手なことを、と叱られた方がマシだったかもしれない。
むしろ彼は、何かを学んで来い、と言うように、唆す口調で言う。
「気に食わねえが、仕方ない。それこそ、澪を体感できるだろうよ」
直後、私の掌に、口付けした。
顔に血が上る。
見ていられず、俯いた。
同時に、史郎は私が思ってもみなかったことを口にする。
「どうせなら、大神のことも知ってこい」
驚くほど真摯な声で。
「ソイツは、――――――すべてのはじまりの物語だ」
どういう、こと?
面食らった私が、顔を上げた刹那、
「そろそろ、出るぞ」
すぐそばで、征司がぐるりと周囲を見渡した。
「人がくる」
彼の警句に、
「―――――いかん!」
すぐそばで夜彦が声を張った。
大きな声に、一瞬目が回る。
史郎が私から手を離した。
「出ます」
同時に、夜彦が腕を掴んだ。続く、浮遊感。
夜彦が走りだした時には、私は彼の腕に抱えられていた。
あ、と思う間もない。
彼は塀に突進したかと思えば、ぶつかる直前、地面を蹴った。
軽々宙を舞い、塀の上を飛び越える。
―――――瞬きの内に、私は塀の外にいた。
夜彦が思わぬ繊細さのある動きで私を地面に下ろすなり、
―――――ゴキッ
なにやら不吉な音がした。顔を上げれば、
「痛いではないか」
後頭部をさすりながら夜彦が、隣に舞い降りた柘榴を横目にした。
彼女はふふん、と鼻で笑って、
「殴っておけ、と北竜公の命令を実行したまでじゃ」
ぬけぬけ言い放つ。
いつも通りの彼女だ。
頬の傷は消えていないが、柘榴が本来持つ力強さが、傷の痛々しさを薄めていた。
「公自身でなかっただけ、マシと思ってもらわねば」
「なぜ、オレが殴られる」
「阿呆が」
柘榴は呆れかえった目を夜彦に向ける。
「伴侶に触れた相手を八つ裂きにしないなど、人外からすれば多大な譲歩ぞ」
夜彦の顔を覗き込み、真面目な顔で告げた。
「忠告じゃ、二度はやめておけ」
夜彦は、彼にとっては理不尽な言動に、だが反論しかねたふうで、黙りこむ。
「柘榴、怪我の手当てを」
私が伸ばした手を避けるように、彼女は身を引く。
「必要ない」
鋭い応じ方に、自身でバツが悪くなったか、いつもの飄々とした声で言い直した。
「急ぎの用ができたのでな」
そのまま背を向ける。
「影介からの連絡で、火滝が見つかったと言ってきたのじゃ」
火滝。そう言えば、先ほどは見なかった。
あの短い間に、史郎たちと同行していたにもかかわらず、はぐれたのか。
ある意味、才能だ。
「またはぐれる前に、回収に向かわねばならん。北竜公は、もう向かっておる」
ふと、柘榴の後姿に、先ほど姿を消した『髑髏を抱く男』が重なる。
本当に、彼が柘榴の父親なら。
私は、彼が抱えた髑髏を思いだした。
先ほど見た、過去の記憶ごと。
もしかすると。
『髑髏を抱く男』が『姫』と呼び、想いをかけていると見えた、あの髑髏は。
「柘榴、もしかして、あなたのお母さまは」
言葉を封じるように、柘榴は一瞬振り返った。
他人事のように笑って告げる。
「―――――両親は、わたしが生まれたことを知らぬ」
その言葉を最後に、地を蹴った。
やって来たとき同様、屋根の上を駆けていく。
言葉の意味を呑みこめず、私が沈黙した刹那、
「ここにいたのかい、夜彦」
不意に、涼やかな青年の声が聴こえた。
とたん、ただでさえ真っ直ぐな夜彦の背に、棒が入ったように感じる。直後。
彼はその場で、恭しく跪いた。
「これは…、志貴さま」
畏まった夜彦の隣で、振り向いた私は、目を瞬かせる。
驚いた。
塀伝いに現れたのは、―――――真牙。いいえ。
…昨夜、月光の中に見た人だ。
彼が、―――――志貴。
改めて陽の光の中で見れば、ますます、真牙との違いが目についた。
肌の色が違う。
目の色が違う。
雰囲気が違う。
ただし。
どうしてだろう。
私の直感が、叫ぶ。
このヒト、真牙と同じ程度には、物騒かもしれない。
彼の足元には、墨染の衣をまとった無表情の子供がまとわりついている。朔だ。
聞いた話では、朔は志貴の護衛だったはず。
子供は夜彦を見るなり駆け出した。
回り込み、ひょいとその背に飛び乗る。
対して、志貴と呼ばれた青年は、真牙と同じ顔を塀のへ向けたまま、
「うん…」
生返事をした。
見ているのは、塀? いえ、塀の向こうを透かし見ようとしている表情だ。
彼は、意外なことを訊いてきた。
「ところで、さっき、―――――笛の音が聴こえたようだけど」
やはり、彼には霊笛の音が聴こえるようだ。
再度認識した私は目の端で、夜彦の背が、ぴくりと反応したのが見えた。
「まさか、夜彦は」
塀の方を向いたまま、志貴は微笑む。
「屋敷の中に無断で入っていたりしないよな?」
私は夜彦を横目にした。
南方の強い日差しの中、彼はびくとも動かない。
だが、気のせいだろうか。夜彦の影が濃くなった気がした。
「僕には散々、不法侵入だなんだと口を酸っぱくして言って、引き留めておきながら」
我関せずとばかりに、朔は夜彦の背に懐いている。
志貴はとどめのように、言った。
「まさか、自分だけ」
…なんとなく、私は夜彦の横顔を伺う。
夜彦のこめかみから、汗が伝った。冷や汗だ。
―――――あ、だめだこのひと、嘘や誤魔化しができない人だ。
先ほど、人が来る、と聞いた時。
慌てて外へ飛び出したのは、志貴に見つかるのを恐れたためか。
私でも、そこまで見透かせてしまった。
屋敷内に入ったのは、ただ、お役大事ゆえだろう。
基本、不器用なのに違いない。
こんな人間がこういう場合できることは限られる。
沈黙だ。
志貴も、見透かしているのだろうが、それ以上追い詰めることはしなかった。
独り言のように言う。
「あの音は、僕が知っているひとの笛に似ていた」
今度は、夜彦が胡乱な表情になった。私を見上げる。
私は視線を逸らした。
夜彦は、何か言おうとしたようだ。だが、結局、口を閉ざす。
「…楽士じゃなく祓寮の人間だったってこと、か」
志貴は、夜彦の返事を期待しているわけではないらしい。
最後は、完全な独り言だった。
「夜彦」
突如、志貴は強い声で呼びかける。背筋が無意識に伸びた。
夜彦が、さらに畏まる。
「この騒ぎもやはり、人外の仕業かい」
「断定は、致しかねます」
夜彦は慎重に応じた。志貴は重ねて尋ねる。
「盗賊も関わっているようだが」
「…双方が関わっているようで、また別の要因もあるような」
夜彦は、彼にしては、曖昧な物言いをした。
けれど確かに、説明しろ、と言われても、簡単にはいかないだろう。
その場にいて、状況をつぶさに見ていなければ、この屋敷内の状況の説明は難しい。
居合わせた私ですら、なにをどう言えばいいのか咄嗟には整理できなかった。
「なんだ、はっきりしない奴だ」
志貴が、からかうように微笑む。
「現場を見たのだろうに」
あきらかにすべてを察している物言いに、夜彦は恐縮した。
余裕のある口調は、とても温かく、親しみやすい。
にもかかわらず。
私は戸惑った。
…なんだろう、このヒトは。
そばにいると、―――――違和感がある。このヒトは、何かが違う。そう感じた。
雰囲気は、はっとするほど品がいい。
だが、存在感が、重い錨のように感じる。
そばにいればいるだけ、じわじわと、骨の髄まで沁みてくるのだ。
本人に自覚はあるのだろうか?
志貴はゆったり言葉を紡ぐ。
「こうまで騒ぎが大きくなると」
物騒に、目が輝いた。
「ただ成り行きに任せ、待つのも業腹だ。ふむ」
直後、何を思いついたか、ひとつ頷く。
「…百鬼夜行は離宮を通る、と言ったな」
あれ?
なぜだろう、私の直感がなにか不吉だと警鐘を鳴らした。
「は」
同じことを感じたか、夜彦から、微妙な緊張を感じる。
彼は志貴の言葉を封じるように、早口になった。
「なので、全力をもって、祓寮はそれを阻止、」
ところが。
「必要はない」
さらりと口を挟んだ志貴が、逆に夜彦の言葉を遮る。
「むしろ、」
平静に、気負いもなく志貴は続けた。
「百鬼夜行を離宮に通そう」
夜彦が、全力で絶句する。
構わず、志貴はもう決まったことのように告げた。
「どうも、僕は」
言いながら、志貴はこちらを振り向く。
「その方が、早く解決すると感じ…ん?」
とたん、目が合った。
志貴はいっとき、唖然となる。
しばしの沈黙ののち、目を私から離さないまま、夜彦に言った。
「―――――すまない、夜彦。邪魔をしたな」
「はい?」
夜彦は胡乱な声を上げる。
「まさかお前が仕事中に逢引きとは」
「誤解です」
夜彦は大きく息を吐きだした。
朔を背負ったまま立ち上がり、
「この方は、凛さま」
私を掌で指し示す。
「志貴さまのお従妹君にあらせられます」
ああ、と私と志貴は、なんだかわかったような気がして頷いた。
私は丁寧に頭を下げる。
「お初にお目にかかります、凛と申します」
「ご丁寧に。僕は志貴と言う。よろしく」
互いに丁重に頭を下げ、再度微笑み合った直後。
「え?」
揃って、夜彦を振り返った。