第二章(5)
その光景は、残った男たちの気を削ぐには十分だった。
悲鳴を上げて、逃げ出す数人の前に立ち塞がったのは。
「覚悟はあったのだろう?」
快活に笑った征司だ。
…結論から言えば、男たちは全滅した。
もっともやり方が残酷なのは、征司だろう。
彼の行いを一言で言えば、―――――撲殺だ。
いや、殺してはいない。ただ。
時に征司の流麗な武技を見る機会のある私から見れば、その雑なやり様は、相手への敬意のなさから生まれるのかもしれないとも感じられた。
要するに、征司は、好き嫌いがはっきりしているのだ。
火滝は呆れたようにため息をついた。
「汚いやり方はよせというているのに」
征司は悪びれず肩を竦める。
彼等を尻目に、史郎はしんとした庭先から縁側に上がった。
ほとんど睨むように彼を見る蜘蛛蔵を面倒そうに一瞥。
史郎は頭を掻き、何を思いついたか面白がる表情で告げる。
「もっと楽しめる遊戯を準備しろ」
…また、煽るようなことを。だが、これが史郎だ。
癇癪を起こす寸前のように蜘蛛蔵の気が昂ぶった。
一瞬後、激昂を蹴りつけるように抑え込み、蜘蛛蔵はきれいに微笑んだ。
「…っ、ええ、次を楽しみになさってください」
それきり、蜘蛛蔵の存在など忘れたように、史郎は室内に入った。
中には、複数の男たちが、膳を前に黙然と座している。
海千山千の強かさを備えた視線がいっせいに集中する中、史郎は臆さず口を開いた。
「南方の乱れは目に余る」
いきなり用件だ。何事もなかったかのように。
前置きなんぞくそ食らえ、とばかりに言葉が続く。
「長引けば、影響は四方に散るのが明白」
あまりに堂々としているので、一瞬、皆が呑まれた。
史郎は手にした煙管を、からかうように上下する。
「事態の収集はどこまでお済みかな」
「余所ものが」
ようやく我に返った商人の一人が、斬り込むような声で言った。
ピリッとした空気が、室内に満ちる。
南方の商人たちのものだ。対して史郎は悠然と構えていた。
「余計な口出しは差し控えて頂こうか」
拒絶―――――これは、当然のものだろう。ところが。
史郎は動じない。
「その通り、よそ者だ」
だからなんだ、と言いたげだ。
挙句、拒絶で蹴りつけてきた相手を、皮肉気な物言いで蹴り返す。
「だがお前らはたった今、俺に借りができたな?」
図太く言いきる史郎に、商人たちは目を瞬かせた。
うちの幾人かが、あ、と視線を庭に向ける。
そこでは征司と火滝が気絶したならずものたちをひとまとめにしているところだった。
注目された火滝は笑顔でひらりと片手を振る。
征司は気の毒そうに肩を竦めた。
それでも察しの悪い幾人かのために、史郎は彼の背後―――――庭先を親指で示す。
「俺らがいなけりゃ、この場で雁首そろえた間抜け面ぜんぶ刈られてたんだぜ」
私は呆気に取られた。
まさに。
チンピラの、難癖。
男たちの中でもまだ年若い青年が、カッとしたように腰を浮かせる。
「それは! …もともと、貴殿の配下たる蜘蛛蔵殿がなそうと…っ、いいがかりだ!」
言いがかり。その通りだ。
しかし、なぜだろう。
やり口が汚いなどとは、間違っても言いだせない。
史郎は面倒そうに吐き捨てた。
「知るか」
その態度は、腹が立つと言うより、胸がすくほど豪快だ。
ゆえに、誰も言えないのだ。
はめたな、などとは。
利用された格好の蜘蛛蔵が忌々しげに呟いた。
「死ねばいいのに」
史郎は無視だ。
あくまで商人たちの方を向いたまま、気短に尋ねる。
「なあ、おい、どうするよ」
とっとと言いなりになれよ、と言外に告げる口調で、史郎は言い放った。
「南方の商人は、借りを仇で返すのか」
手前勝手な強引さに、ほとんどの者が言葉を失う。
大半が惑乱した沈黙の中、さも痛快、と言いたげな笑い声が突如室内を圧した。
小太りの壮年の男が、まるまるとした指で自身の膝を叩き、面白がるように言う。
「してやられたのは、事実」
「しかし…っ」
年若い商人の、生真面目な咎めの声が飛んだ。
彼はすぐ、自制するように言葉を呑んだ。
ところが、先を促すように小太りの壮年の男は顎をしゃくった。
年若い商人は、遠慮がちに言葉を紡ぐ。
「このようなやり様…信頼できない」
抑えた声で、彼はどうにか冷静に言った。
小太りの男は、顎ひげを撫でながら、好々爺然とした笑顔で頷く。
「だとしても」
ただし、双眸はひとつも笑っていない。
「武威は本物」
その呟きに、彼の隣に座していた、とても小さな老人が、ふと我に返ったように、しわがれた声を紡ぐ。
「まずは、逆らえんな。…雪鳥衆がもたらす利益も合わせ、無視はできぬ。ふむ」
座布団の上の置物のように、ほとんど動きを見せない老人は、ひげだけを震わせ、史郎に尋ねた。
「大樹殿」
史郎は彼に、目だけを向ける。
「…我らの此度の会合の目的。ご存知かね」
「巷を騒がす盗賊たち―――――」
不意に、冷静な声が割って入った。史郎ではない。
だが、聞き覚えのある声だ。
「―――――その、ならず者たちが持つ血判状に名を連ねる商人の割り出しが、この会合の目的です」
鏡に映った姿に、私は驚いた。玄丸だ。
だが、商人の会合と言うなら、彼がいない方がおかしい。
とはいえ。
私は改めて、鏡の中の玄丸を見つめた。
彼を囲む空気も微妙だ。
史郎に向けられるのが反感だとして。玄丸に向けられているのは、複雑な敵意だ。
思えば、玄丸は地元出身の商人ではない。
彼のことだ、むしろ強引に今の地位にいる可能性も高かった。
ところが恐れ入るどころか、彼は涼しい顔をして、座している。
それにしても、…血判状。
盗賊たちの手元にある、己の保身を図った商人たちの名を連ねたもの。
今は、黒蜜が持っているらしい、曰くつきの代物だ。しかし。
そんな目的を、あっさり全員の前で口にしていいものだろうか。それとも。
隠す意味はない、ということ?
それを言うなら、血判状の話もおかしいと言えば、おかしい。
本来ならば、秘中の秘の存在だ。
なのに、ここまで人の耳に知れ渡ったのは、なぜだろう。
何者かの作意がある、と思うのは、考え過ぎだろうか。
「ああ、その件だが急ぎだ」
史郎は他人事のように言った。
「この場で解決しろ」
「無茶だ!」
確かに。それほど簡単に解決できるなら、誰も困らない。
「はは」
一度、史郎は皮肉気に軽く笑う。
直後、面倒そうに大きく息を吸い、
「それが何だ!!」
吼えるような一喝で、居合わせた者の全身を殴りつけた。
幾人かが身を竦ませる。
最初に笑った商人が指先で膝を叩きながら呟いた。
「解せませんなぁ」
玄丸にも似通うふてぶてしさで史郎と目を合わせる。
一拍置いて、彼は言葉を継いだ。
「お望みが、南方の商人たちの間にある亀裂の修復として。結果、大樹殿が得る利とはなんですかな」
商人らしい言葉だ。冷めた目を向け、史郎は口を閉ざす。
代わりに、のんびり微笑んだ火滝が口を挟んだ。
「損得だけの問題なら、まだよかったのだがな」
袖で口元を隠し、告げた言葉は思わせぶりだ。
商人は首を傾げる。
「はて、それ以外に何かある、と仰っているようですが」
穏やかな態度に反して、視線は鋭い。
火滝は少し、言葉を選ぶように首を傾げる。
すぐ、ひとつ頷いた。
「…先の西の騒乱。覚えておいでの方も多いと思うが」
いきなり挙げられたのは、現状とは無縁のような話だ。
幾人かが面食らう。
ただ。あのように酷い騒乱、覚えていないものの方がおかしい。
落ち着きのない沈黙が満ちる中、一瞬、火滝の微笑みが、冷えた。
「あれは、誘発されたものだ」
誘発したもの―――――黒蜜。とはいえ。
黒蜜自身を知り、その行動を知る者でない限り、にわかには信じられるものではない。
戦を生じさせるなど、簡単にできるものではないし、…望む者もそうはいないはずだ、と思いたい。
黒蜜の存在をほのめかされることで、私は、火滝が思いつきでこの話を出したわけでないことを察した。
「ばかな。仮にもし、そういった者が存在したとして」
商人のひとりが不思議そうに言った。
「そんなことをして、なんの利が…」
言葉は、途中で消える。
先ほど、別の商人が言ったことと同じ言葉だったからだろう。
「いえ、今の状況とそれと、いったいどのような関係があるというのです」
言い直した商人に、火滝は静かに口を開いた。
「此度の南方の乱れ」
足元で気絶している男たちを引きずり、一人の死体を中心に一ところにまとめながら、ついでのように彼は告げる。
「先の西の騒乱に関わった者が動いている」
私は大きく息を吐きだした。
この物言い。
火滝は、…史郎たちは、南方の事態における黒蜜の関わりを知っているのだ。
「ゆえに、傷が浅いうちに解決するが最上というわけだ。時は、少ないぞ」
おっとりした火滝に焦れたか、征司が快活に言葉を継ぐ。
「戦争で儲けたいと言うなら話は別だがな」
「…戦争が、起こると?」
この、南で?
胡乱気に呟く一方、幾人かが物言いたげな視線を交わす。
ここで問題に上がったのは、損得どころではない。
命、――――生死の問題だ。
ただし、誰も一笑に伏す気配はない。
…おそらく。
勘の鋭いものは、なにかしらの不穏をかぎ取っているのだろう。
今回南方の地で起こった乱れは、なにがしか雰囲気が違う。
均衡が少しでも崩れたなら。
もしくは、少しでも番狂わせがあったなら。
歯止めは聞かない。事態は、負の方向へなだれ込む。
先の、西方のように。
「議論は無駄だ」
史郎が低く断じた。厳しく。
議論をして見せる程度では納得しない、結果を見せろと。
「やるか、やらねえか」
史郎は斬りつけるように一同を見まわした。
「選べ」
「では皆さま」
玄丸が、薄く微笑んだ。
仕切り直すように、からかう声を上げる。
一見、従うと見せているようで、史郎を含めたいっさいを遠くから眺めている態度で。
「黒と思う者を挙げていきましょうか」
「ほざけ、新参者」
他人事、の声に、眉間にしわを刻んだ壮年の男が、しぶい声で言い放つ。
「それこそ、乱を呼ぶ」
いきなり、蜘蛛蔵がげらげら耳障りな声で笑った。
「いっときの乱を避けたいだけのために、戦が起こっても構わないと言うのか。めでたいよなぁ」
「まさか。ここに集われたのは、侍でさえ相手をするのに緊張を強いられる商人たちだ」
庭先で、ならず者たちを縛り上げた征司があっけらかんと笑う。
「ある程度、見当はついておられよう。どうだろう、」
鼻白む蜘蛛蔵には気付かない態度で、庭先の征司は屈託ない顔を上げ、室内へ尋ねた。
「見当をつけておられる方に、挙手を願いたいのだが」
不意打、と言うわけではなかったろう。
だが、征司の率直さは、相手からも計算を奪うようだ。
幾人かが、操られたようにひょいと手を上げた。
直後、バツが悪そうな表情になる。
すぐさま、上座に座した、先ほどの老人が苦笑をこぼした。
「勘弁下され、雪鳥の」
まっしろなひげが震える。
「身内の始末は、身内でつけたい。他者の手で解決されるなど、あまりに情けない。…お許しいただけるかな」
老人が見遣ったのは、史郎だ。
彼は退屈そうに促した。
「さっさと終わらせろ」
ちいさな老人は、懐に手を入れた。
取り出したのは、―――――真っ白な貝殻?
私から見れば、それだけのもの。だが、知る者が見れば、…重いものであるようだ。
座がざわついた。緊張が満ちる。
「これは、南方取締役、総元締めの証」
碁でも打つような所作で、とん、と畳の上にそれを置いた。
「此度の件、元締めの名が舐められたも同然の次第。ゆえに」
声も小さく頼りない。
どこにでもいるおじいちゃんに見えた。にも関わらず。
「わしは地位を退こう」
その言葉に、居合わせた大半の者が動揺する。
「そんな、元締め!」
若いものは青くなって言葉もない。この老人が、慕われているのが良く分かる。
老人は胸の位置まで片手を上げた。
押しとどめるように、皆に掌を見せる。
「ただし、退く前に、責任は取る。在任中、不祥事を起こした者の…最後の役目よなぁ」
とたん、…なんだろう。
普段の空気の中に、ふぅ、と一陣の冷気が混じるような、奇怪な凄味を感じた。
「最後の機会だ。…名乗り出るものはおらんか」
しばし、ときならぬ沈黙が場を支配する。
居心地が悪そうに目を見交わす者たちの間で、玄丸が肩を竦めた。
「温情、ですか。お甘い」
「口が過ぎよう、玄丸殿」
小太りの壮年の男が、低い声で言う。ただし、厳しい咎めの気配はない。
誰かが言わねばならない、その役目を事務的に買って出ただけ、そんな表情だ。
玄丸は口を閉じ、弁えるように小さく頭を下げた。
そのような、一幕があったとはいえ。
―――――結局、誰も何も言い出さない。
「…まあ、よいわ。ところで、存在すると言われる血判状だがね」
気を取り直したように、老人はもごもごと口を動かした。
「どこまでその意味を、皆、理解しているものかな」
老人は疲れたように言葉を紡ぐ。
「これは、名を連ねた商人だけの問題ではないのだよ」
歳嵩の商人たちの顔が、厳しくなった。
「それは、南方商人全体の、弱味となる」
若いものには、思わぬ言葉、だったのだろうか。
重苦しい表情になる年配の商人たちと対照的に、戸惑う様子で、商人たちがざわめいた。
何を今さら、と言いたげな態度で、蜘蛛蔵が嘲る。
「それはそうでしょう。誰が名を書いたかは知らないけど」
浅はかだよね、と蜘蛛蔵は顎を逸らした。
そうすると余計、高飛車に見える。
「ソイツは弱味をつくったってことだ。利用しようとしない賊はいない。そうなると、ソイツは自分だけの保身に走ろうとするだろ?」
他などどうでもいい、せめて自分だけでも安全な場所にいようと、する。
全体など考えずに。
そう、なれば。
蜘蛛蔵が、楽しげに声を上げた。
「結果、強固な南方商人の結束が綻びる」
意味を、理解したのだろう。
商人の誰もが、重苦しい気配をまとう。
そう。均衡は、とっくに崩れているのだ。
あとは瓦解するだけ。
食い止めるためには、すべてを明るみに出す必要があった。
実際、私は聞いている。
盗賊が、血判状を欲しているのを。
闇に生きる者たちは、既にそれに目をつけているのだ。
己の欲のために役立てようと。
「―――――商人が」
老人の声がいっそう、低くなった。
「利用されるなどあってはならない。すべてを承知で遊ぶのは別だがね」
どんなに悪い遊びでも、本人が主導権を握っていれば問題はない、と言外に告げた老人はちっとも悪びれない。
「商人である以上、金で買えないものもあるのだと、常人以上に把握しておかねばならないよ―――――道を誤るのは、簡単だからね」
ひそ、と呟き、老人は場を見回した。
「さて、機会はあげたよ」
彼は重そうに腰を上げる。足元に、元締めの証を置いたまま。すべてを捨てる態度で。
同席していた若衆のうち、二人が立ち上がった。老人を支えるように背後に従う。
「もういいね、わしは疲れた。あとは自由におやり」
小さな老人はちょこちょこ歩き出し、すれ違いざまに史郎へ告げた。
「昼にはすべて終わりましょう」
こともなげに言って、老人は振り向かずに歩き去る。
誰も、引き止めなかった。否、できなかった、のだろう。
彼らこそが切り捨てられたような表情で、黙然と黙りこんでいる。
不意に、耳障りな笑い声が上がった。蜘蛛蔵だ。
「あははっ、腫瘍は切って捨てるつもりだ、あのおじいちゃん。すごく人間らしいや!」
両手を叩いて、少年ははしゃぐ。かと思えば。
一瞬後には意地の悪い顔で史郎の目を覗き込んだ。
「ね、史郎さま。僕のやろうとしたことと、これのどこが違うのさ」
「情がある」
蜘蛛蔵を一瞥もせず、応じた史郎は面倒そうに室内にいたものに声を投げた。
「応える気概を見せろ」
庭先で木の葉を指で摘まんで遊んでいた火滝が、微笑んだ。
「元締め殿は、血判状などなくとも、すべてご存知のようだな」
商人たちは、誰も一言も喋らない。
動揺したように青ざめる者。
思い詰めたように俯く者。
戸惑っている者、…反応は、様々だが。
私には、すぐには状況が呑み込めなかった。
場は、穏やかに閉じようとしているのだと、傍目には見えたのだが。
…なんだろう。剣呑な予感に、胸が騒ぐ。老人は、昼にはすべて終わる、と告げた。
なにが?
場で問題になったのは、血判状に名を連ねた商人たちのことだ。
その問題を、解決できると老人は言ったのだろうか。
昼までに? …どうやって。
征司が隣の火滝に真っ直ぐ問いかけた。
「ではあの老人、血判状などなくとも、名を連ねた者を知っているということか?」
「征司殿」
「知っていて、なぜ、放っておいた?」
征司の突き詰め方は幼く、ゆえに、加減がない。
火滝は征司の物言いを窘めるように、やんわりと答えを返した。
「それが、温情、…なのだろう」
言外に、それ以上突き詰めてはいけないよ、と言っているようだ。
…あの老人は、望んでいたのだろう。
やり玉に挙がっている者たちが、自らの身を自分で始末することを。
信じて、気長に待っていた。だが。
―――――結果は。
「しかし、それでは」
征司が、子供がなぜ、と尋ねるような純粋さで、容赦なく指摘した。
「死んでいった者たちはどうなる。彼等は、捨て置かれたのか」
火滝は苦笑する。答えない。征司も、黙った。
史郎は相変わらず不機嫌そうだ。
確かに、征司の指摘は無視できない。
もし、いち早く盗賊たちに通じたものを押さえていれば、死なずに済んだものも、いたかもしれないからだ。
彼等から情報を、得ていれば。
重苦しいものが、胸に詰まったような心地に、息苦しくなる。そのとき。
――――――ドォオオオォォッ、ン…ッ
遠くから大きな音が轟き、足元が揺れた。
きゃぁ、と声を上げた柘榴の眷属を支え、私は見張った目を天井に向ける。
「この、音…」
先ほど私がいた屋敷の庭先で、足元の地面が崩れ落ちた光景が脳裏を過ぎった。
思えば、地下では空間がズレていた。まさか。
…時間の位相まで、乱れていた?
鏡に目を戻す。衝撃のせいか、画像は消えていた。
代わりに映っていたのは、私の姿だ。
いつの間にか、髪まですっかり整えられている。
畳の上を見れば、私が件の屋敷から拝借した襟巻と羽織がきちんとたたまれていた。
眷属たちから手を離す。
私は足元のそれを引っ掴み、廊下へ飛び出した。
もし、私が思っている通りなら。
これらの持ち主こそ、盗賊と通じていた商人の一人だ。
もしかすると、ここにいるかもしれない。
階段を駆け降りれば、
「凛?」
階下にいた柘榴が、目を丸くして振り向いた。
「今の、音」
語尾で息を呑んだ私に、彼女は神妙に頷く。
「人為的なものとは思えんな、自然災害じゃろうが、さて…」
向かいの建物から、商人たちが続々と焦りも露わに玄関へ向かっていた。
「史郎さまたちは」
「いの一番に飛び出して行ったわ」
柘榴は肩を竦める。
いや、聞くまでもなく、分かっていた。
こんな場合に、安穏と一服している彼らなど、想像もつかない。
なんにしろ、この慌ただしさは――――――いい機会だ。
逃す手はない。
私は草履をつっかけ、庭を斜めに横切った。
「凛!」
柘榴の引き止める声に内心謝罪しながら、我先にと移動する商人たちに声をかける。
「あの、もし!」
思い切って声を上げれば、幾人かが振り向いた。
その全員が、いっせいにぽかんと口を開けたが、構ってはいられない。
きちんとたたんだ羽織と襟巻を彼等によく見えるように差し出し、丁寧に尋ねる。
「誰か、座敷にこれを、お忘れではありませんか?」
「ん? ああ、それは…」
誰かが何かを言おうとした。刹那。
庭先にいた私の腕から、着物がひったくられた。
「この、盗人が…っ!」
突然の罵声。
端まで憎悪に満ちた声に、私は一瞬、息が詰まる。
誰かが庭先へ飛び降りた。
歳の頃は三十半ばの、目の下のクマが目立つ男だ。
「こんなところまで来るとはどういうつもりだ…!」
追い詰められたような両目が、ぎらぎらと油を流したようにひかっている。直感した。
(このひとだ)
彼の手が振りあげられるのを視界の端に収め、私は真っ向から、その目を見返した。
暴力には慣れている。
身を竦める必要はない。
素直に受けるつもりもなかった。
私を見た一瞬、相手の目に浮かんだのは―――――恐怖?
彼は、私を見て、自身の屋敷に置いた盗賊の一味が、ここまで現れたと思っている。
屋敷にあった着物を持っていたせいとはいえ、…どうも、相当追い詰められているようだ。
「…おい!」
誰かが、突然の暴言と暴力の気配に咎める声を上げる。
だが、拳は私の身体にはあたらなかった。
寸前で、止めた腕がある。
「やれやれ…」
軽く片手で相手の拳を掴んだのは、
「―――――このような場所に、まさか貴女がおいでとは、想像を超えていますよ」
玄丸だ。
彼は、水が流れるような所作で、相手の腕を背中へねじり上げた。
片方を懐手にしたまま、庭先から、縁側の上で戸惑う他の商人たちを見上げる。
「ああ、こちらの始末はお任せを」
面食らった私を、後ろから柘榴が引き寄せた。
すぐ、彼女は私を自分の背後に隠す。
いつの間に身につけたのか、柘榴は豊かな黒髪に、艶やかな赤い花の模様の布を巻いていた。
その下に、角が隠れているのだろう。
煙に巻くように他の商人を追い払った玄丸を、私は真っ直ぐ見上げた。
「ありがとうございます、玄丸さま」
玄丸は苦笑する。
「どうぞ、玄丸とお呼びください」
「…努力します」
「玄丸、きさま…!」
片腕をねじり上げられた男は、首をねじるようにして背後の玄丸を睨みつけた。
「雪鳥衆を南方に引き入れたのは、きさまだろう! 元々、きさまは雪鳥の」
「だとして、なんです?」
玄丸の声は、いつも通りだ。感情が読みにくい。
対して相手は、頭に血が上っている。
「元締めを操り、何をさせるつもりだっ」
珍しく、玄丸がふっと目を見張った。
想像の埒外の言葉を聞いたと言いたげに。
…次いで。
唇を、歪めた。―――――おそらくは、…笑みの形に。侮蔑、と言う名の。
彼はいつもの、聞き取りにくい寸前の嗄れた声で、囁く。
「買い被ってくださるのはありがたいですが…」
みしり、ねじり上げられた男の腕が、嫌な音を立てた。男が呻く。
「わたくしは、尊敬に値する相手が舐められるのはひどく虫が好かない」
尊敬に値する相手。あの、元締めの老人だろうか?
「彼が、どんな覚悟をもって先ほどの決定を下したか、…察する能力もないとは」
「元締めは南方の商人にとって、祖父のような方だ、誰もが信じている」
すかさず、男は反論した。
でも、…信じている、とは。
私はその言葉に、何か、違和感を覚えた。
「そのような方が、我らを見捨てるような言動を取るはずがない」
男の物言いに、私は違和感の正体を見た。
違う。
このヒトは、確かに信じているのだろうが、それは、あの老人が自分の味方をするときだけだ。
それは単なる甘えに過ぎない。
「信じるならばなぜ」
私はしずかに尋ねた。
「盗賊の蛮行を事前に知りながら、己の身の安全だけを計ったのですか」
血走った目で睨まれても、…怖くなんかない。
「なぜ、血判状に己の名を書いたのですか。あなたは、」
「―――――黙れ」
私は、畳みかける。
「信じるに足る行動を、取ったのですか」
「うるさいぞ、盗賊の小娘がっ」
男は真っ向から、私に噛みついた。見下す目で。
「日蔭者のくせに、断罪できる立場か!」
「…おや」
察したのだろう、玄丸が暗く笑った。私を見つめる。
「この方が?」
首を傾げた。
そうなのか―――――血判状に名を連ねるひとりなのか、と。
私は頷いた。
聞いて、玄丸がどういう行動をとるかは分からない。
信じるか、信じないか、も分からなかった。
が、私と柘榴だけでは、彼は扱いかねる。
「先ほどの地鳴り。あれは、彼の屋敷の庭が崩れた音です」
直観に過ぎないが、おそらく、これは間違いないだろう。
同じ時間、そこに、もう一人の『私』がいたのだ。
―――――青い目の、私が。
「今頃、彼の屋敷から、盗賊の死体が数多発見されることでしょう。…つい先刻まで、盗賊がそこを根城にしていましたから。ただ、仲間割れも始まっていたようですし、今後盗賊たちがどう動くかは、判断しにくいところがあります」
あれだけごろごろと証拠が転がっているのだ。
言い逃れは、できまい。
男は青ざめた。
「し、死体…っ?」
詳しく話す義理はない。
なにより、あの状況、私自身何が起こっているのか理解しかねた。
玄丸はと言えば。
突拍子もない私の言葉を信じたのかどうか。
「なるほど…」
頷いた。
玄丸は、荷物を一つ片づけるような態度で言う。
「では、この方には、しばらく眠っていて頂きましょうか」
玄丸が、男の後頭部を掴んだ。声もなく、男が白眼を剥いた。
玄丸が手を離せば、呆気なく土の上に崩れ落ちる。そのとき、
「…ひ、―――――っ」
異様な光景に、弱々しく喉が引きつる声が聴こえた。
場にそぐわない声だ。
私が目を縁側の上に向ければ、
「…え」
黒髪のうつくしい少女が腰を抜かしたように座り込んでいた。
身を縮め、口元を両手で強く押さえ、がたがたと震えている。
どう見てもそれは、―――――先ほど蜘蛛蔵と名乗った少年だった、のだが。
なぜ今は、少女なのだろう?
だが、不思議と分かる。性別が違う。まとう空気も違う。
別人だ。
しかし、先ほどの蜘蛛蔵と、この少女は『同じ』だ。
何がどうなっているのか。
声をかけようとするなり、玄丸にやわらかく遮られた。
彼は、少女に話しかける。
「そうしていても、何も変わりませんよ。蜘蛛蔵殿の元へ速やかに戻らなければ、どうなるかは御承知でしょうに」
蜘蛛蔵。
その名を耳にするなり、繊細な造作の面立ちがいっきに恐怖に染まる。
操られるように立ち上がった。
あまりの痛々しさに、私はつい声をかける。
「大丈夫ですか?」
「奥方さま」
とたん、玄丸が声を上げた。咎めるように。
「捨て置きなさい」
戸惑った私を、玄丸の拒絶を掻い潜るようにして、少女が縋る目で見つめた。
「おねがい…」
彼女の唇が震える。
「たすけて」
弱い声が悲鳴のように耳に届いた刹那。
「―――――きゃあああぁぁぁあぁぁ!」
突如仰け反った彼女が、金切り声で絶叫した。
「あ、う」
苦悶の表情で前のめりになった彼女の口から、表情とは釣り合わない傲慢な声がこぼれる。
「聞いたよ、愚か者。まだ僕のものだって言う自覚がないの?」
それこそ、先ほど聞いた蜘蛛蔵の口調だ。
少女が目を見張った。
喘ぐように言葉を紡ぐ。
「ゆ、ゆるし、くもぞ、さ、」
「罰してやるよ。―――――戻れ」
糸が切れたように、少女の目から光が消える。
ふらり、揺らめきながら、それでもどうにか彼女は歩き出した。
私は息を呑んだが、玄丸は何事もなかったかのように私と向きあい、一礼する。
「では、奥方さま。わたくしは、これで」
「…ですが」
つい、少女の背を目で追った私に、玄丸は首を横に振った。
「蜘蛛蔵には、関わらぬ方がよいでしょう。気分を害するだけです」