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霊笛  作者: 野中
霊笛・第三部
34/72

第二章(1)

大皇家の南方離宮は、下女たちの忙しない立ち働きによって目覚める。




「布団は全部片付いた?」


「こっちに枕がひとつ混じってるわよ」


「ちりとりが足りないんだけど!」




頭上を行き交う威勢のいい声。周囲の整然とした動き。

息の合った雰囲気は、心地良い音に似ている。


思いながら、廊下で私は雑巾を固く絞った。

床に飛ばさないよう、私は桶の中で軽く指先の水滴を散らす。

そう。

なんだかんだで、私は今朝も、下女たちの中に混じって仕事に明け暮れていた。


昨日のことは、昨日のことだ。


そうは思うが、部屋で一人こもっていては落ち着かない。


何かをしていた方が、気が紛れる。

それくらいには、私はまだまだ、未熟な小娘だ。

よって、自ら進んで、彼女たちの輪に入った。


息をつきたくて。


豆乃丞は部屋でお留守番だ。


今日、炊事場の人手は足りているようだ。

自然と私に回ってきたのは、掃除当番―――――望むところだ。

何かをきれいにする作業というのは、地味に熱が入る。

固く絞った雑巾を、廊下に置く。構えた。

雑巾がけは、起き抜けに身体を温めるには、もってこいだ。


軽快に廊下を疾走―――――埃はもちろん、どんな汚れも見落とさない。


私の格好はと言えば、昨日と同じ。

もっさりした寝起き姿。姉さんかぶり。下女の着物に襷がけ。


動きやすい格好だから、思う存分、廊下を拭き清められる。

同じ作業に参加する他の女性たちも、似た格好だ。皆、手際がいい。


互いに役割分担をしながら、掃除をテキパキ進めていく。


手慣れた作業の傍ら、どうしても動いてしまうのは、唇だ。




「聞いた?」




歳嵩の下女に聴こえないように、潜めた声で若い下女が近くの誰かに囁く。

「昨夜、百鬼夜行は白月通りを行き過ぎたんですって」

「聞いた!」

見る間に、別の下女が喰いついた。

小さな声でも届くように、互いに頭を寄せ合う。


「でも今回は人死にが出なかったんでしょ?」


「真珠通りのときもよ」

「それは良かった。とうとう、百鬼夜行を祓寮の方々がしずめたのかしら」



「それが、そもそも、人死にと百鬼夜行は関係ないって話よ」



別の誰かが、ぽつりと呟いた。

「どうも百鬼夜行に紛れて、賊が押し入ってたらしいわ」

一瞬、手を止めそうになる。


もともとそういう話はあったのか。


誰かがそういう話を意図的に流したか。



分からないが、彼女らの間で漂ったのは「やっぱり」という空気だ。



「盗賊の噂は、もとからあったものねぇ」

「じゃ、今までの人死には全部盗賊たちの仕業なの」


「そうよね。百鬼夜行は昔から、自然現象の一部―――――台風と似たようなものだもの」



それが原因で、人が死ぬなんて、よほど運が悪い以外にないわ、と彼女たちは囁く。



どうやら、南方での認識も北方と似たものらしい。

でも、だとしたら。


(どうして今回に限って、皆、人死にが百鬼夜行のせいだと思ったの?)


それこそ、誰かが意図的にそのような話をばらまいたのではないか。

あくまで、それは想像の域を出ないが。


ただ。今回のことで、はっきりしたことは。

たとえ真実がどうであれ、人外が起こす現象は、簡単に歪められるということだ。


そして、もうひとつ、確かなことは。




―――――殺戮の脅威が、現実味を帯びてきたということ。




百鬼夜行の噂話よりもよほど深刻な声で、彼女たちは囁き合う。


「今回人死にがでなかったってことは、盗賊は捕まったの?」


「どうかしらね、そこまでは…」

不安そうに誰かが語尾を消した。消えるのを恐れるように、他の下女が口を挟む。


「追いこんでる最中って聞いたけど」


思わず私も真剣に聞き耳を立てた。誰かが身を乗り出す。

「動いてるのは、武官? それとも、祓寮?」

「両、方…?」

誰かが自信なさげに応じた。

その辺りの情報は曖昧らしい。


「添石家と比嘉家も動いてるって話よね…」



明確な話ができない。即ち、それは機密なのだ。






私は昨夜のことを思い出す。


風呂からあがった私は、見計らったかのように、伊織に呼ばれた。

正確には、伊織の指示により傍に控えていた真緒に彼の元へ連れていかれたのだ。


あの様子だと、立ち入り禁止の場所に踏み入ってしまったことにも気付かれていそうだ。


伊織の顔を見たとき、私は無論、母のことを聞くつもりだった。

伊織にも、用意があった。彼は準備していた。だが。


それ以上に、今、南方で起きている事態は急を要している。

私は結局、伊織に母のことを聞くのではなく、日中起こったすべてを話すことにした。


私自身が、母の話をすることを怖じたわけではない。…と、思いたい。


話したところで、問題はなかった。

伊織なら、ある程度の事情を知っている。


結局私は、見聞きしたすべてを彼に語った。

ただ人外側の<祝祭>の話は抜きにして。


あまりそれは、この状況に関わりのないことに思えたのだ。


会話が苦手な私の報告は、うまくまとまっていたとは言えなかった。

それでも伊織は、黙って耳を傾けてくれた。

話終わった後も、しばし沈黙を続けた伊織は、一度、ため息をついた。


片眼鏡の縁を指先で撫でる。

その向こうから、上座に通した私を呆れた目で見つめた。

そして、一言。



―――――お転婆にも限度があります。



最初、彼が一体何を言いたいのかわからなかった。

一呼吸置いて、気付く。



どうやら私は、怒られているようだ。でもなにを?



首を傾げた私に、伊織は声を低めた。




―――――普通ひとは、殴られそうな事態になど、決して飛び込んでいきません。




心配か。教育の一環か。


線引きは難しかったが前者と判断した私は素直に謝罪した。

とたん、さらに冷えたお叱りが飛んでくる。

―――――真心は、口先の謝罪でなく行動でお示しください。


反論できない。さすが組織の長だ。

なんにせよ、と伊織ははじめて苦虫をかみつぶしたような顔になった。



―――――持ち帰った情報が確実に有用であるというところが一番問題ですね。



それの何が気に入らないのか。私の理解力では判断しかねた。ただ。

あとで、真緒が言っていた。あれで伊織は、私を叱るに叱れない状況だったらしい。


なぜか? …役に立ったからだ。私が語った情報が。


だから、伊織は私を徹底的にやり込めることができなかった。

してやった、という気分はない。単純に、良かったと思う。



事態の前進に役に立てたのなら。






世話になっている幾許かでも、お返しができたろうか。


結果、今度は千華姫が、離宮に召喚されることになったようだ。

あの姫が素直に動くだろうか。

思ったものの、伊織は確信に満ちた笑みで言った。



―――――東宮がお召しとあらば、動くでしょう。たとえ当人が嫌がっても、周囲が。



東宮。即ち、次代の大皇。

そんな人物から呼び出されたのだとすれば、…成程、うまくいけば大皇妃。

運が向けば、さらに次の大皇の母となれる。


美味しい餌だ。


とはいえ。

私にとっては、雲の上の出来事はどうでもいい。だって、遠い。

そんなことより。




問題は、目の前の無害そうな初老の男だ。


彼は、東宮すら動かせる立場にある存在なのか。

私が関わってはならない本当の危険、とは彼のことではないのか。




とにかく。

…千華姫は、やってくるだろう。

まず間違いなく。


私は、彼女が放つ毒を思い出した。

また会うなら、少し覚悟が要りそうだ。

だが、私がしたことを考えれば、どちらかと言えば、


(私が加害者、千華姫が被害者、ですね)


雑巾を絞る手に力がこもった。

黙々と手を動かす私の周囲で、下女たちの話は続く。




「でも白月通りって言ったら」


「ねえ?」


「…なんだかだんだん、離宮に近づいてきてない?」




誰かが喧伝しなくとも、気付く時には気付くものだ。皆が。


ふ、と誰も意図しない沈黙がその場に落ちた時。






「なにすんのよ!」


「そっちこそ!」






感情的な声が上がった。

居合わせた全員の目が、そちらに向く。

見れば、下女数人が、通りがかった女官数人と睨み合っていた。


「掃除してる場所に墨ぶちまけるなんて何のいやがらせ!?」

「言いがかりも大概にして、そっちが先に足を引っかけたんでしょう!」


言い合いから察するに、分かりやすい状況だ。


書道具を運んでいた女官が、床掃除をしている下女に躓いたのだろう。

だが、どちらが悪いという問題は、後回しにした方がいい。

きれいにしたところがたちまち汚れたことに、重い徒労感を覚えないでもないが、なったものは仕方がなかった。


緊急事態にも早急に対応できる能力が、仕える者には要求される。


それは。



なによ、なにさ、と顔を突き合わせた目の前の彼女たちに求められる能力だ。



よってここにいる全員、本来現実的なのだから、角突き合わせている場合でないということは冷静になれば理解できるはずだ。

それが…先日から、どうしたことだろう?


彼女たちをしばし見つめた私は、少し首を傾げた。




それぞれの肩口に、黒い靄じみたものが見えたからだ。




私が見つめるなり、煙が消えるように見えなくなったが。


とにかく、これ以上、廊下に惨状が広がるのは避けたい。

私は無言で彼女たちの間に割って入った。


とたん、面白いほど簡単に彼女たちの注目が手に入る。


即座に私は足元を指差した。



「こちらの処理を先にした方がよろしいかと」



操られたように、彼女たちの視線が、いっせいに床に落ちる。

たちまち、場の意識が切り替わった。

やはり、いくらいがみ合っていても、彼女たちは玄人なのだ。続けて、私は冷静に指摘。


「そちらの道具も、先に片づけた方が安全です」


使用済みの道具を手にしたままの状態で喧嘩は危うい。


墨がこぼれた程度ならまだしも、道具まで破損させてはコトだ。

かと言って、喧嘩を途中で放りだしては、くすぶった火種が鬱屈して大火事になりかねない危険も消しきれない。

ならば、と私はひとつ、提案してみた。


「喧嘩は、手が空いた時に思い切りいたしましょう?」


何かが発生した後ではなく、場を設けて、いっそ思い切りぶつかってみようではないか。

その方がすっきりするだろう。私は明るい気分で頷いた。


彼女たちは一瞬呆気に取られたようだ。直後。



周囲の顔からいっせいに、気負いが抜けた。



呆れたような白けたような雰囲気の中、立ち込めていた妙な毒が薄れていく。


離れた場所にいた歳嵩の下女が、その場で声を張った。

「何してるんだい、さっさと仕事しな!」

声に背を押された様子で、皆が動き出す。


この場は一応、解決、ということでいいのだろうか。


墨の始末は他の下女に任せ、私は元の場所へ戻った。

桶の水をそろそろかえなければと思っていたのだ。

廊下を横切る際、あからさまな舌打ちを耳にする。

すぐ、幾人かが苦笑気味にこそりと私に声をかけてきた。


気にすることないわよ、と。


まあ、気にはしない。

そうしたくとも、仕事は山盛りなのだ。


いちいちひとつの出来事を引きずっていてはきちんとこなせない。


井戸で水を汲む前に、汚水を指定場所へ流す。

井戸へと踵を返した、その時。




(え)




目の端に、見た事のある姿が映った。私は足を止める。


そろそろ、陽が昇りだした時刻だ。見間違えようはなかった。

他の下女たちと揃いの着物を身につけているが、そのひとは。






―――――奈美。






千華姫の、侍女だ。


なぜ彼女がこんな早朝に、離宮に?

すぐ、伊織の言葉を思い出す。


千華姫を近く召喚しなければならない、と。



千華姫は、もう離宮に来ているのだろうか。



いや、それにしても、おかしい。


奈美が千華姫と共にあるならば彼女がここにいる説明にもなるが、千華姫が離宮へ来たという話は下女たちの間で出なかった。

第一、これほど早く呼び出しに応じられるわけもない。なにより。


領主の子息の侍女に過ぎない奈美が、単身、離宮に出入りできるはずもなかった。


なのになぜ、ああも堂々と庭先を横切っていくのだろうか。

足取りに、通い慣れた感がある。


だが、短い間とはいえ、下女たちの間で働いていた私には、違和感があった。


雰囲気が、違うのだ。

離宮の下女たちとも、御幸に同行した女官たちとも。



だから、目についてしまったのかもしれない。



私は咄嗟に、空になった桶を、茂みの間に隠した。

建物の向こうに曲がった彼女を追って、小走りになる。


気紛れな動きで、奈美はつい、と建物の角を曲がった。

姿が見えなくなる。見失うかもしれない。


焦燥を宥めながら、私は慎重にその角に近寄った。




慎重になるのは仕方がない。





私は離宮の構造に、あまり詳しくないのだ。

角の向こうがどうなっているか、私には予測もつかなかった。見つかっては元も子もなかった。


そっと壁に身を寄せるようにして、私は息を整える。


意識を耳に集中―――――向こう側の音に耳をすませた。と。

囁きのような、声が聴こえる。二人分。


一人は、奈美。もう一人は…男の人?


よく聴こえない。ただ、声の遠さから、向こう側には広い空間があるのだと分かる。




「胸が躍ります」




ふと童女のような明るい声が、高まった。


誰の声だろう。思うなり、私は言葉を失った。間違いない。



―――――奈美の、声だ。



同じ声の別人だろうか。一瞬混乱する。

が、音に関して私が間違ったことは一度もない。


解き放たれたように彼女は、言葉を続ける。



「わたくしの行いなんて、ほんの他愛ないこと。…そう、貴方にそうするよう指示されたことなんて、信じられないくらいささやかだったのに」



浮かされた声を、奈美がどんな顔で紡いでいるのか。

昨日の、感情を殺した事務的な彼女しか知らない私は、唖然とするほかない。


「たったそれだけで、世界が大きく動いたわ」


…なんの話をしているのか。感じたのは、不吉さ。私は息を潜めた。

話の相手は、誰?






「祓寮に次いで、―――――大皇家まで」






とたん、背が震えた。



この会話は、危険だ。



心臓がうるさいくらい脈打ち始める。

―――――奈美と話している相手は誰か、…見なくては。

意を決し、拳をぎゅっと握りしめた。


壁と同化したがる身体を引き剥がす。深呼吸。次いで。

音を立てないように向こう側を覗き込んだ。

はじめに見えたのは、奈美の背中。そして。




「次は、なにをすればいいのです?」




彼女がうっとりとその胸に縋った相手。真っ先に見えたのは、地味な官服。

「今は、楽しめばよろしいわ。―――――お遊戯を」

奈美を見下ろし伏せられた、闇を煮詰めたような双眸に、私は息を呑む。


髪こそ、きちんと結いあげているが、この声。

なにより、男性でありながら、この口調は。

一瞬感じた寒気に、肩をすぼめる。


どうして、あのひとがここにいるの。








(黒蜜)








通り名は、骸ヶ淵伯。西の、自殺の名所を治める人外。


咄嗟に私は、抑え込めなかった。

動揺と、なにより、―――――黒蜜への恐怖と嫌悪を。


きっと、それがいけなかった。

感情が持つ波動というものは、思いの外強烈だ。


黒蜜は聡い。見逃さなかった。顔を上げる。


視線に突き飛ばされる心地で、私は踵を返そうと、して。

直後、後ろから手首を掴まれた。

大きな掌―――――男のものだ。誰? 黒蜜は、奈美のそばから動いていない。




「あ~、ごっめんねぇ、主殿」




気の抜けたようなこの声には、聞き覚えがあった。

「おっかしいな、見張ってたんだけど。どうやって目をすり抜けたのかな、お嬢ちゃん」

振り向けば、そこにいたのは。…隻眼の男。


黒髪。無精ひげ。蓬髪、やせぎすで黒づくめ。


西方の戦場で見た男だ。黒蜜の元で動く、―――――鴉葉という名の。




「良くてよ、鴉葉。このほうが面白いわ」




とたん、鼻先をかすめる、梔子の香り。

気付けば、黒蜜が目の前に、いた。

心臓が、大きく脈打つ。

間違いない。本物だ。なんてこと。本当に、黒蜜本人だなんて。


「おや」

身が竦む。声も出せない。とたん、伸しかかるように覗きこまれた。

「どこかでお会いしましたかしら?」


「主殿、僭越ながら、見境は学ばれた方がよろしいかと」

鴉葉が他人事のように口を挟む。

黒蜜は彼を面倒そうに一瞥した。


「初対面で、こうまで怯えられる理由はなくてよ」

傷つきますわ、とちっとも心のこもっていない楽しげな声が、耳朶を撫でる。

私は面食らった。


私が、分からないの?


ならば、ますます顔を見られるわけにはいかない。私は俯いた。

どうか、懐の豊音にも気付きませんように。


「黒蜜殿」

不機嫌を押し殺した冷たい声に、黒蜜は振り向いた。奈美だ。

彼女の放つ空気が、緊張をさらに硬質に変えていく。


黒蜜が、彼女の態度を気にする様子はなかった。むしろ、


「久しぶりに会えたのに、許して下さいな、奈美」


緊張を心から楽しむように笑って言った。

「でもこの子、放っておくわけにもいきませんでしょう」


「話をどこまで聞かれたかも分からねえですしね」

鴉葉がのんびりと付け加える。

奈美の目がつり上がった。

「聞いたとして、どこまで理解できるかしら。万一、」

奈美はあっさり告げる。



「障害となりそうなら、ここで処分すればよろしいでしょう」



道端の小石でも弾くように、無造作な声で。


ふふ、と黒蜜が息だけで笑った。




「素敵ですわ、その身勝手さ」




愛でるような声が、薄気味悪い。黒蜜は私に目を戻し、

「…では、そういたしましょう」

乾いた声で同意。

同時に、ぞっと悪寒が走った。






いや。だめだ、これは、――――――…脈動が、開く…!






立ち竦んだ、刹那。


「―――――あら?」

なんらかの手違いに、いきなり気付いた、と言いたげな黒蜜の声。続いて、

「おいおいおい、こりゃぁ…っ」

切羽詰まったような鴉葉が、小さく怒鳴った。




「やめとけ、主殿、この娘、人外の重石がくっついてやが」




私の目がくらむなり、ぶつりと音が消える。


直後、縛めの縄が唐突に切れたような感覚に、私はたたらを踏んだ。

不安定な姿勢で、何かにつまずく。不格好に転ぶ。強かに膝を打ちつけた。


痛い。


しばらく声もなく悶える。

どうやら私は地脈を渡ったようだが、どこに出たのか。


渡った、というか…、正確には、飛ばされたのだ。おそらくは、黒蜜に。



―――――恐ろしいことをされたものだ。



私は自力で脈動は渡れない。

それを単独で、放り出されたのだから。


下手をすれば、脈動の中で一人迷う。


もしくは、土の中で潰されてしまうかの結末になりかねない。


…しかも。

私は、恨めしい気分で手をついた床を見下ろした。

どこに出たにしろ、きっとここは黒蜜が意図した場所ではない。

寸前で、黒蜜の意志を捻じ曲げた者がいる。


おそらく、それは。




今、私の影の中に潜んでいるもの。


昨日見た、あの巨亀だ。




あの亀は、位階持ちの人外に違いない。

亀を思い出すなり、さらなる困惑に項垂れた。


場所を借りる対価、と言われて懐にあったものが脳裏に蘇ったからだ。






昨夜の疲労が嘘のように目覚めたときに、すっきりした頭でそれを見たとき、色々なことがいっきに頭から吹っ飛んだ。


それが、珊瑚の塊だったからだ。赤子の拳大はあった。

私は実家が実家であったため、ものの良し悪しはある程度正確に把握できる。


その珊瑚は、紛れもなく上質のものだった。


金銭に換算しようとして、すぐやめる。心臓に悪い。

いやそもそも、値段はつけられない気がする。


大きさが、規格外だ。






いけない。

現実逃避した場所からまた逃避したくなった。現実に戻ろう。

私は無理やり意識を切り替えた。


なんにせよ、黒蜜とあの亀の異なる力がぶつかった結果、どちらも予期しなかった場所に私は出たはずだ。


場所が、変わったとして。時間はどうだろう。

…時間まで変える術は片手間に行えるものではないだろうから、おそらく大丈夫だろうが。


亀が語りかけてくる気配はない。当然だ。



仕方ない、自力でなんとかしなければ。



まだ痛む膝をさする。

私はなんとはなしに、躓いたものに目をやった。とたん。







―――――鉄錆のにおいが鼻につく。







(…え…)


目が、周囲の暗がりに慣れてきた。いっきに、血の気が引く。

どうやらここは、納戸のようだが。


放り込まれていたのは。



―――――私は思わず後退する。背が、壁にぶつかった。



できるだけ、ソレから距離を取ろうとして。

目に、映ったのは。




奥に、あり得ない姿勢で積み上げられた人体だ。




命の気配はない。


不吉なほどしずかだった。

私はいったい、どこに出たのか。

咄嗟に出口を探して意識を周囲に向けるなり。




ガラリ。









引き戸が億劫に開けられる音。光が差し込んだ。






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