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霊笛  作者: 野中
霊笛・第三部
33/72

第一章(4)

いかに、も何も。

狐面の男を見遣り、私は首を傾げた。



「そもそもあの方、―――――起きていらっしゃるのですか?」



そう。

まるで、立ったまま眠っているようだ。


単純に。



…寝ぼけている、ような。



久嵐と柘榴が面食らう。

そんなに、意外、だろか。


たちまち、久嵐がうんざりした顔になった。




「寝ぼけたヤツを扱いかねてたってわけかよ…うわ、かっこわる」


「ふむ、読み切れぬ理由がこれで分かったが…力の抜ける」




柘榴が呆れかえって嘆息する。

史郎は、面白そうに呟いた。


「よーし、よし。そうとわかりゃ」

私を柘榴の方へ押しやる。不敵に笑った。




「起こすか」




史郎の身体が、ゆらり、傾ぐ。

その隙に、豆乃丞が私の方へ戻った。刹那。


ふわ、風が頬に当たる。直後。




―――――ッ、ドン!




一瞬、足元が揺れた、気がした。

気付けば、狐面の男がいた場所に、史郎が立っている。


その状況は、一見、狐面の男が消えたようにも思えたのだが。

私はなんとなしに視線を提げる。と。

…いた。


史郎の足元。



石畳に頭を半ばめり込ませるように男が倒れている。



唖然となった。

清孝が素知らぬ顔で呟く。


「叩き起こすにしても、加減は必要かと」


叩き起こす? つまり。

史郎は狐面の男の頭を、拳で殴りつけた、ということか。



清々しいほど力技だ。



「割れてねえだろ?」


頭は。

悪戯に成功した子供のように、史郎は足元を指差す。


加減はした、褒めろ、と胸を張った。


誰もが咄嗟に反応し損ねた、そのとき。






「殺さねば」






言葉の割に、明るい声が、蝉しぐれを割って、私の耳に届く。

すぐそばの柘榴の身体がわずかに強張った。


倒れた男の腕が、石畳を殴るように動いた―――――と見えた時には、彼の姿は樹上にある。



「すべて、殺し尽くさねば」



声は、理性的にも感じるほど静謐だった。

ただし、言葉の内容は、狂的。


歪なズレ方に、寒気を覚える。


史郎は追わない。退屈そうに、樹上を見上げた。

清孝は慎重に相手の出方を見る。


久嵐が冷静に、声を張った。


「殺戮の対価は何だ」




「―――――愛する一人を、得る」




素直に応じた声は溌剌として、のびやかだ。


面の向こう側には、どのような表情があるのだろうか。




「…どうやら、目が覚めたようだが」


清孝が呟き、




「眠ったまま逝かせた方がよかったのではないかの」




柘榴が辛辣に断じた。

そのとき。

「凛ちゃん、いるー?」

「凛殿、答えてくれないか」


私を呼ぶ声が、した。

綾月と、真緒だ。

地上にいた全員が、そちらに顔を向けた刹那。



木の枝が揺れた。



見上げれば、狐面の男の姿がない。次いで。

足元で風が巻いた、と思った時には久嵐の姿が消えている。続いて、清孝が。




「…北竜公」


柘榴の低い声に、史郎は面倒そうに顎をしゃくった。

傍にいた柘榴が、音もなく跳躍―――――頭上の木々の間に姿を消す。


追って、行ったのか。




行くのか。


史郎も。




「史郎さま」

つい、心細さを声に響かせ、呼びかけたとたんに、後悔した。


違うでしょう。


安心して、行けるようにしなくては。笑顔で見送らなければ。

私が自分に言い聞かせるなり。



「…俺のいない間」



満月色の双眸が、私を見据えた。

怖いくらいの真摯さで。


「なにがあった」


私は面食らう。

何もない。

反射的にそう答えかける。が、言えなかった。


色々あり過ぎた。


とはいえ、何をどう語ればいいのかわからない。

答えあぐねた私は、頭の片隅で、ふと思う。


史郎が言いたいのは、会えなかった間の出来事を話せ、という、単純なことではないのかもしれない。


実際、ぜんぶ話すなど、無理な話だ。

では、何を言いたいんだろう?


…心配、しているのだろうか。



―――――私が、頼りないから。



大丈夫か、と言外に尋ねているのかもしれない。

思い返せば、周囲に流されてばかりだ。それも仕方がない。

それでも。


少しでも史郎を安心させられたなら。


私は身体の前で強く拳を握り、史郎を見上げた。

心配をかけたくない。平気にならなくては。


そう、少しくらい――――――史郎と離れていなくてはならなくても。


私は真っ直ぐ、史郎を見返した。




「だいじょうぶです」




刹那。

史郎の表情が、こわいくらい冷える。


実際、冷気が吹き付けたかと思ったくらいだ。



猛烈な威圧感に、こらえるために肩に力が入った。



豆乃丞が硬直しているのがわかったが、この状態では私にも何もできない。

見上げた状態では、逆光になって、史郎の表情は見えなかった。


ただ、舌打ちが落ちてくる。


彼の視線が、一度、私の影に落ちた気がした。

私の脳裏を、先ほど見た亀の姿が過ぎる。だが。

史郎は何も言わない。背を向けた。同時に。




彼は、腕を、何かを打ち払うように鋭く動かす。とたん。


びしり。

石畳に、深い亀裂が入った。

私は内心、青ざめる。


だって、これはきっと。




…本来なら、私を殴っていた力だ。




ころん、豆乃丞がついに私の肩から落ちた。


―――――死んだふりだ。

私から見れば、史郎にはそんなことをさせる隙すらない。

彼は唸るように言った。


「いいか」


次いで、





「必ず迎えに行くぞ」





まるでどこかから奪いでもするかのような強い口調だ。思うなり、


「凛ちゃんっ?」

間近で、声。

とたん、視界が目も覚めるような色彩で埋まった。綾月だ。


一瞬、思考が吹っ飛んだ。



「大丈夫? いったい、なにが…」



周囲を見渡した彼は、寒気でも覚えたように、腕をさする。

彼越しに見えた真緒は、険しい表情で臨戦態勢になった。

だが。


―――――史郎の姿は、もうここにはない。


足元で何かが動く気配がした。

見下ろせば、

「ん」


朔が、硬直した豆乃丞を拾い上げ、私に差し出してくれるところだった。


状況の変化についていけないまま、私はありがとう、と両手で受け取る。

「こりゃぁ…」

すい、と進み出た虎一が、先ほど史郎が八つ当たりでできた石畳の溝を軽く蹴り、飢えた目を上げる。


「―――――いたのか」


「なにが! いやいい、聞きたくないからっ」

そわそわと綾月が、私を促した。

「戻ろう、戻るべきだ、いちいち調べなくたって、わかるよ、ここにいたのは非常識な存在だって!」

彼は足踏みしながら促す。

真緒が息をしづらそうに頭を押さえた。


「逃げては何もならないだろうが。現在の南方における怪異に関係のある相手かもしれないなら、…調べなければ」

とたん。



「だめだ」



寸前まで見せていた混乱が嘘のような強い声で、綾月が言った。

真緒が黙りこむ。

朔が無言で顔を上げた。


夜彦にも勝る厳格さで、綾月は続ける。

「オレたちは目的を達しただろ。長居は無用だ」

真緒は反論しなかった。

朔と共に、淡々と頷く。



「では戻ろう」


「うん」



朔の手を引いた真緒が踵を返した。

思わぬほどの素直さに、私は内心眼を見張る。


…もしかして、立場は綾月が上なのだろうか。


実際、今現在この場で主導権を握っているのは、綾月だった。

彼は手にした傘を広げながら私を促す。



「それじゃ、玄丸さん。またの機会に」


玄丸が、微笑して会釈を返した。その斜め後ろで、


「とっとと消えろ」

虎一が忌々しげに犬でも追い払うように手を振る。


「虎一もまたね」

朔が振り返った。虎一は他人事のように吐き捨てる。



「生きてりゃな」




それきり、彼等の事は忘れ去ったように綾月は私に尋ねた。

「凛ちゃん。キミは、さっきあの場で何を見た?」

ぴりぴりした警戒心が、周囲に放たれている。

それに背中を押された心地で、私は足を速めた。



「…何が、いた?」



当然の問いに、私は小さく息を吐く。

何から話せばいいのやら。すべてが話せるわけでもなし。




ただひとつ。




真っ先に、祓寮に伝えておかなければならないことがあった。

慎重に記憶からそれを掬いあげ、言葉を紡ぐ。






「…『髑髏(しゃれこうべ)を抱く男』を見ました」






足早に鳥居を潜り抜け、呟けば、綾月たちの気配が引き締まる。

真緒が身を翻そうと、した。


寸前、綾月が厳しく制す。


「無駄足を踏むより先に、もっと情報を整理した方がいい」


確かに、今から追っても遅過ぎた。

そもそも。



綾月たちは、どの程度、私の言い分を信じるだろう?



出会ってまだ一日も経っていない。

いくら長である伊織のお墨付きであったとしても、そう簡単に信用できるものだろうか。

「だが、綾月」


「オレは犠牲を出すつもりはないよ」

真緒は眼を伏せる。無言で、朔を抱きあげた。


私たちのあとを追ってくる。




「キミはまず、豆乃丞を追って行ったんだよね」


私は頷いた。


その辺りは、隠すことでも何もない。

掌の上で今度は震えだした豆乃丞の羽根を撫でながら、私は口を開く。




「この子がこちらのお社に飛び込んだので、追って行った先で、…まず」


我がことながら、本当に現実味のない状況だった。

他人事のように判じながら、私は早口で言葉を紡ぐ。


「永志さまと国臣さまと千華さまをお見かけしました」


たちまち、――――――暗雲じみた、重い沈黙が落ちた。

「そのとき、あの方々のお話を聞いてしまったのですが」


「え、待って」

不自然に明るい声で私の言葉を止めたのは、綾月だ。




「そのとき、あの場に怪物並の気配を染みつかせてた存在もいたってわけかな?」




綾月の、なにやらきれいな笑顔と、眉間にしわが寄った真緒の様子に、私は頭を抱えたくなった。

少し考えれば当たり前だ、史郎たちの存在を誤魔化せるわけがない。


相手は人外の王たちだ。


ましてここにいるのは、祓寮の人間。




あの、寸前まで巨大な獣の吐息が充満していたような空間に踏み込んで。




それを、感じ取るなという方が無理な話だ。しかも。


そんな中で五体満足で立っていた私など、もっと不気味な存在に見えたに違いない。

「そしてその存在は、玄丸さんも虎一も知ってるってことで、間違いないね?」

やはり綾月は、冷静に周囲を見ている。

朔が黙って私を見上げた。


やりづらい心地で、私は小さく頷く。


そろそろ大通りに出る、というところで、綾月は全身を絞るようにして息を吐いた。




「駄目だ、どうやら道々聞くわけにもいかない内容だろうし、帰って長の指示を仰ごう」




綾月が結論するなり、私たちは大通りに足を踏み入れる。


実際、御曹司たちの話はうっかり外でしてしまうわけにはいかない。

綾月の判断は正しい。

そのとき。


人ごみの中、遠くに見慣れた顔が見えた。


思わず目を見張る。そちらを注視した。

同時に。


相手が私に気付く。




なんと、―――――火滝だ。




彼は一瞬、何事か考えるように目を瞬かせ、肩を竦める。

もしや史郎たちと合流し損ねているのだろうか。


何を思ったか、火滝は私がやってきた方を見遣った。

とたん、嬉しそうにひとつ頷く。


微笑み、私に軽く手を振った。



(え? まさか…)


思う間もなく、彼の姿は、あっという間に人ごみの中に消えてしまう。



私は眼を瞬かせた。

先ほどまで私がいた社に向かったわけではない、と思いたい。

なにせ、今あそこには。


虎一がいるのだ。




はち合わせたら、―――――おそらく、厄介なことになる。




むくむくと嫌な予感が湧き起こった。


なんて、間の悪い。でも。

仕方がない。祓寮に保護されているこの状況では、私も止めようがなかった。

火滝のことはどうしようもない。すぐ諦める。


大丈夫、誰かが死んだりなんて、たぶん、しない。


今はまず、伊織がいるだろう南方離宮に急がねば。

手に入れた情報を、どう処理すればいいのか、私では判断しかねた。


重い沈黙の中、私たちは早足で市中を横切っていく。


伊織には素直に見聞きしたことを話した方がいいのだろうが、でもどこまで。


一瞬、悩む。

だが、どうしようもない。

話す他ないだろうと結論した。なにせ。



私はまだ、祓寮と自分との、しっかりした線引きができずにいる。



迷ううちに、私たちは、大皇家の南方離宮に辿りついていた。

その頃には、私は汗だくで、息を切らせてしまっていたが、綾月たちは涼しい顔をしている。

どうやら、出かけたときは、私に合わせてくれていたらしい。

「綾月、だめだ、止まれ」


私の様子を見かねたか、真緒が声を上げる。

傘をたたんだ綾月が、困ったように眉を寄せた。


「ごめんね、凛ちゃん。無理させて」

綾月は気遣うように私の顔を覗き込む。直後、






「―――――綾月殿」






いきなり、つららじみた声が、廊下に響いた。


綾月はため息をつく。

まずいひとに見つかった、と言いたげな表情。

足を止める。

遅れて、私も立ち止まった。

肩で息をつきながら、私は綾月が振り向いた方に目を向ける。


と、庇の下に、人影が見えた。



「衣装部屋を開くなら、事前にお話し下さいと、以前、申し上げましたな?」



上品に進み出てきたのは、初老の女性だ。

離宮の下女、とも、御幸の女官、ともまったく異なる雰囲気の女性だった。


洗練された立ち居振る舞いが、驚くほど絵になる。




「琴葉さま」




綾月が呟いた名前。琴葉。

それが、この女性の名前か。


何か言おうとした綾月を遮るように、彼女は強い言葉を放つ。




「…申し上げましたな?」




嘘をつけば容赦はしない。


艶のある声での、脅迫じみた念押しに、綾月はやりにくそうに頷いた。

「はい」

素直に頭を下げる。


「浅慮な行動を取りましたこと、謝罪致します」


綾月の態度に、彼女はふと、訝しむような眼差しを向けた。

その切れ長の瞳を真緒へ向けようと動かした、刹那。

琴葉と呼ばれた彼女は、息を呑んだ。

いや。

一瞬、息を止めた。


彼女の双眸に映るのは、――――私?

幽霊でも見るような目で、彼女は私を映し―――――、






「みおさ、ま?」






宝物でも見つけたような、童女じみた声音で呟いた。


そのいっときだけ、彼女が纏う、城塞じみた超然とした雰囲気が、崩れた。

私は一瞬、言葉を失う。

琴葉を見つめる。



どういうことだろう?



綾月への物言いから察するに、彼女は、離宮ではそれなりの身分の女性なのだろう。

その彼女が。

私を見て、澪さま、と言った。


澪。


私の、…母の名。

さらに不可解なことには。


ほぼ同時に、綾月と真緒が目を見張る。

彼等は、射抜くような眼差しを、私に向けた。


朔だけが、眠たげに周囲のやり取りを見上げている。

私は息を整えながら、胸を押さえる。

「母を」


しずかに尋ねた。




「ご存知なのですか」




しかも、この様子からして。

周囲の皆、澪の名を知っているようだ。


綾月が、ふと私から半歩離れる。

なぜか、彼がまとう色彩が、微かに褪せて見えた。


「…本当に?」

綾月は呆然と呟いた。

片手で顔の半面を押さえる。



「あの『澪』、が。…凛ちゃんの母親なの」



ひどく重要なことを聞く、という態度で、しかも、何かを怖がるように、綾月は尋ねてくる。

あの澪、と言われたところで。

今の私は、名以外の判断要素を持たない。けれど。


おそらく、私が思っている存在で間違いない、のだろう。


私はおそるおそる頷いた。隠すことでもない。

肯定するのは、正直なところ、綾月たちに悪いような気もしたが。


私を凝視していた真緒が、不意に遠い目になる。



「想像以上の危ない橋だな…」



どういうことだろう。

私が何も言えない内に、琴葉が険しい顔になる。




「あのバカ者は」




憤然と吐き捨てた。


「今度は何をはじめたのですか」

厳しい視線で、ぐるりと祓寮の三人を見渡す。

バカ者。まさかと思うが、伊織のことだろうか?


なんて豪胆な女性だろう。


うっかり感動しそうになる。


「…その方は…」

そんな彼女が、私を一瞥するなり。


―――――苦しそうに眉を寄せた。

彼女は、覚悟を決めるように、一度、強く目を閉じる。

すぐ、きつい目を開き、私を見据えた。

あ。

叱られる。


反射で身体が緊張した。刹那。




「お逃げなさい」




低く、押し殺した声で告げられる。

「見つかる前に」

まるで命懸けと言ったような切迫した空気に、私は惑った。


見つかる? 誰に?


厳格な振る舞いの中、私を映しこんだ琴葉の双眸だけが、いっとき懇願に揺れる。

とたん。

私の背後で、声。


「あなた以上に剛毅なものは、男でも滅多にいないでしょうね、琴葉」


私の背後で、声がした。

もの柔らかな響き。伊織だ。


たちまち、琴葉は上品な面立ちをしかめる。




「出ましたね、狸」


「おや、騙されて下さいますか?」




片眼鏡の初老の紳士が、私の脇をすいと追い抜いた。

「なるものですか」

琴葉は傲然と伊織を見遣る。

「何を考えているのです」


「さて」

伊織は微笑で応じた。



「どうなるか、自然の選ぶ道を知りたい気もいたしますが」



彼は視線を転じ、私を横目にする。

とたん、不思議そうに目を瞬かせた。


視線は床に落ち、私の影を見ている。



「…おや、これはこれは…」



すぐ、その疑問は双眸から掻き消えた。

―――――何かを、隠した?


思う間もなく、伊織は微笑む。




「ああ、よく似合う。お嬢さん、その着物」


何かを試すような眼差しに、私は眼を瞬かせた。


「もともと、お嬢さんのお母様のものですよ」




え?

言葉を吟味する間もなく、

「伊織」

琴葉が、責めるように彼の名を呼んだ。

伊織は一度、息だけで笑う。

次いで。


びり、と空気が帯電するくらい、真剣な顔になる。

とたん。


伊織は跪いた。



頭を垂れる。



その所作は、まるで水が流れるようで、体重を感じさせない。


諦めたように息をついた綾月が、その場で跪く。

次いで、真緒が。


二人の様子を見た朔が、最後に続いた。


皆、ひどくきれいな所作だ。

気後れするほど。


伊織が、ふ、と顔を上げ、丁寧に言葉を紡ぐ。



「まずは、無事のご帰還、何よりでございます」



私は一瞬、混乱した。

次いで、事前に言われていたことを思い出す。

―――――どうぞ、呼び捨てで。長の私を呼び捨てる以上、祓寮の者は皆、そのように。

私は思わずかすかに息を引いた。



伊織は、態度を決めろ、と言っているのか。



―――――お嬢さんが私に何かを尋ねたいなら、これが交換条件です。

これは、条件だ。

母のことを、知るための。


そのためには、私も今までの通りではいられない。

伊織は、そう告げている。

私が変わらなければ、母のことは何も話せない、と。


それだけの覚悟が、…必要、ということか。




裏を返せば、ここが、引き返す最後の機会だ。




けれど。

私は受けて立った。


「ただいま、戻りました。…伊織」


覚悟ならある。

何が起こるのか、予測など全くできないなりに。


あとから思えば、その想いすら、ひどく未熟なものだったのだけれど。


それでも私は、決めたのだ。

前へ進むためには、今までどおりではだめだ。


史郎の足手まといになるわけにはいかない。


「出かけている間に妙なことを見聞きしたので、あなたの判断を聞きたいのですが」

伊織は、再度私の影を一瞥した。その上、

「それは、胸元についた土の汚れと関係することでしょうか」

目ざとい。私は無言で頷いた。

「承りました」

伊織は冷静に応じる。


「ですがひとまず、部屋でお休みください。顔色が悪い」


指摘に、はじめて気付いた。

確かに、かすかな混乱と濃い疲労を感じる。

頭は変に冴えていたが、おかしい。


毎日の鍛錬を思えば、今日程度の活動量は、いつもより少ないくらいなのに。


「ああ、ご安心を」

疲れのせいか、奥に腫れたような感覚のある耳に、伊織の声が沁みていく。


「お休みの間、我ら祓寮術式・太刀式一同、謹んで、ご守護し奉る。…たとえ、」

続く、やさしげな囁き。



「夢の中であっても」



黙って、伊織の思惑に流されるつもりはないが。

彼の優しさに、…嘘はない。

私は素直に踵を返した。


―――――どちらへ、と、行き先を問う声はない。


(…部屋へ、)

促される通り、早く戻って、一人になるべきだ。今は。

気持ちを整理しなくては。


まず、いっとき身を寄せることになったこの場所で、私が何をやりたいか。

それすら、私にはまだはっきりと見えない。

このままでは、誰かの言いなりになるだけだ。


通り過ぎる私を前に、琴葉も反射のように頭を下げる。

…最中、動きを止めた。

ふ、と目を上げる。

「本来ならば」


微かに悔しげに言葉を絞った。



「…わたくしがつかねばならぬところですが」



私は足を止める。目を合わせた。とたん。

琴葉は、はばかるように目を伏せる。




「そうなれば確実に、大皇にあなたさまの存在が知られてしまいます」




大皇?

この大陸の、最高権力者。

そんな雲の上の存在が、なぜここで口にされるのか。

先ほど、琴葉は逃げろ、と言った。『見つかる前に』。それは。


大皇に、ということなの?




―――――どうして?




「なぜ、ですか」


この暑さの中、すぅと指先が冷える感覚に、私は小さく声をこぼす。



「なぜ、私は大皇に見つかってはならないのですか」



思わず、冷えた手を握りしめた。

血の気が引いたのは、うすら寒い感覚のせいだ。これは。

…恐怖。


知らない間に、逃げられない籠の中に捕まっていた。


そんな気分に、ぞっとなる。

琴葉が、すっと顔色を変えた。

伊織に視線を転じる。

斬り込むような鋭い眼差しで、彼を射抜いた。



「何も知らせていないですか」


「―――――さすがは、琴葉」



からかうように、伊織は呟く。

「状況を的確に理解して頂けているようで、助かります」


「ほんに、厄介な男だこと」

琴葉は、舌打ちせんばかりの態度で応じた。

改めて、琴葉は私に向かい、神妙に告げる。

「いたずらに惑わす言葉を申し上げました。お許しくださいませ」


「だいじょうぶ、です」

大体、この程度で怯んではいられなかった。

私がここに運ばれたのは、たまたま、だとしても。

どうせなら、それを機会にして、自身の中の空白の部分を埋めたい。

「あとで、教えてください。…母のことを」


ただ、今は。

聞いたとしても、冷静に判断を下せるとは思えなかった。

少し、余裕がない自覚はある。

いくら急いていても、今は、時期ではない。


―――――事実を恐れて、先延ばしにしているのだろうか?


…そう、かもしれない。


「機会を、頂けたなら」

どこか重い答えを耳にした後、私はあてがわれた部屋へ戻った。

拍子にどっと疲れが出たか、身体がひどく重くなる。

辛い作業をしている気分で、髪を解いた。

櫛と豊音を文机の上へ置く。


かろうじで着替え、今朝あげた布団を敷くなり、私はそこへ倒れ込んだ。

そのとき、懐から何か、重いものが落ちる。

が、文机へ置くのが精いっぱいで、それが何かもよく分からない。


舞いあがった豆乃丞が衝立の上に止まったのを見たのが、最後の記憶だ。


たちまち、私は寝入ってしまった。

この疲労感は、なんだろう。



一日中立ちっぱなしで働いた日とも何か違う、泥ついた疲れだ。



どうも、得体が知れない。


頭の片隅で思うなり、いきなり、足元から、びり、と膝辺りまで痺れが走った。

叩き起こされた気分で、汗だくで跳ね起きる。

その時には、周囲はもう暗くなっていた。


のろのろと見渡せば、枕元にお盆が置いてある。

そこに掛けられた布巾を取れば、水差しと湯のみが用意されていた。

有り難く頂戴し、乾いた喉をうるおせば、身体の火照りがわずかに引く。


落ち着いてくれば、汗で濡れた身体が気持ち悪くなった。

風呂の場所なら覚えている。

もし使えなくとも、せめて井戸端で身体を拭くくらいはしておきたい。


無意識に膝から下を撫でた私は、ふと、疲労の正体を思いつく。


脳裏に浮かんだのは、巨大な亀。

天から落ちてきた、大小様々な鎖。それらは私の影に吸い込まれた。




―――――しばし場所を借りる。

確か、そう言われた。そういえば。

あの亀は、こうも言った。




―――――対価は懐へ入れたぞ。




着替えた時、懐からなにかが落ちたことを思い出す。

確か私はそれを文机に、――――と顔を巡らせれば、暗がりの中、石のようなものを見つけて首を傾げる。


触ってみると、なにやらごつごつしていた。



なんだろう?



不思議に思ったが、確かめるより、今は、風呂が先決だ。


気怠さに重い息を吐きだした。

腰を上げる。

衝立の上の豆乃丞に、動く気配はない。眠っているのだろう。


少し迷ったが、結局豆乃丞をそのままに、私は部屋を後にした。


ある程度部屋から離れたところで、いつもの癖で豊音を持ち出したことに気付く。

おかげで、私はわずかに正気付いた。


なんとはなしに、周囲を見渡す。

暗がりで、見えにくいというのもあるが…、見覚えがない場所だ。

すくなくともここは、風呂へ続く場所ではなかった。


と思うなり、私は棒立ちになる。


脳裏に伊織の声が蘇ったからだ。

―――――あちらから奥へは入られぬよう、お願いします。御幸の関係者以外は皆、立ち入りを禁じられておりますので、お嬢さんも、どうか。



ぼんやりするにも程がある。



どうも私は、伊織から禁じられた奥へ続く渡り廊下を歩いてきたようだ。


思わぬ失敗。

衝撃に、いっきに目が覚める。

私は既に離れの屋内にいた。とはいえ。


まだ、誰にも会っていない。

後ろを振り向いた。

渡り廊下のある場所は、遠い。だがまだ、見える。



早々に決断―――――何もなかったことにする。



冷静に、踵を返した。大丈夫だ。


落ち着いて進めば、誰にもバレない。

そのとき。




―――――不意に、耳に届いた音があった。




よりによって。

笛の音だ。

足取りが、乱れる。そして。


…とうとう、私はある部屋の前で足を止めてしまった。


渡り廊下はすぐ目の前。けれど。

私はつい、耳を澄ます。

聞き捨てならない音、だった。

第一に、力強い。…残酷なほど。そのくせ。


(…迷って、いる?)


おそろしく不安定だ。

揺らいでいる。

目の前の、障子を見つめた。向こう側に誰がいるのかは知らない。だが。

―――――惜しい。

心から、そう思った。



この迷いが消えた音を聞きたい。



熱烈に、感じた。


懐に入れた豊音に手を伸ばしたのは、そのせいだ。

奏でられている曲なら、覚えがある。






霊笛―――――豊音を手に、私は障子に背を向けた。


その場に、正座する。


背筋を伸ばした。そして。

豊音に、息を吹き込んだ。


―――――絡ませる。音を。






いきなり現れた音に、一瞬、相手が迷った。


相手の音が、消えかかる。だが。

私は冷静に促した。


―――――だめ。さあ、続けて。来て。こっちへ。


とたん。

何が、通じたか。



私の音につられるように、もつれ合うように、音がつながった。



部屋の中にいるのは、秋津宮の楽士だろうか?

技巧は、相当のものだ。

ただ。


―――――ひどく激しい情動の持ち主、のようだった。




音に、気持ちが収まりきっていない。


きれいに収まればいいというものでもないが、溢れ返った強い情が、かえって音を粗野に響かせる。


間違っても暴力的ではない。非常に品が良かった。なのに。

音が、置き去りだ。溶け込めない。交われない。




共に響かせることで、どうにかそこに道をつくる。

八つ当たりのように音を奏でるなど、折角の笛を吹く機会が勿体ないと思うのだ。

おそらく、笛自体もいいものだろう。



迷いの強いその音が、ふと、突っかかってきた。



予期しない、音。


真っ向から受け止めれば、不協和音。だが。

予期しなかったものだからこそ、予期できない新しい音が生まれる。


経験上、私はそれを知っていた。

教えられた通りにこなすだけなら、誰にだってできる。



私はその音をかわし――――――持ち上げた。



相手の響きは、うまくそこに乗って、


(あ…、これ、いい)






飛翔する。高く、高く。…どこまでも。






刹那。


すぅ、と音が闇に溶けるように消えた。

余韻に浸りながら、私は豊音を下ろす。


迷いは強い。だが、健やかな演奏だった。


どんな人が、この音を奏でたのだろう。

いや、それ以前に。

今になって、疑念がわいてきた。




豊音は霊笛。


霊笛の音を、普通の人間が聞き取れるはずがない。

だが、この演奏者は。




思うなり。






「…そこにいるのは、誰かな」






当然の誰何が、障子の向こうから聴こえた。


涼やかな、青年の声だ。

よし、逃げよう。


胸元で拳を握りしめ、一瞬、決意した。直後。

襟のあいだから、かさり、と紙の音が上がる。

(…これ)

―――――使い方は、こうだ。

真緒の言葉が、脳裏に響いた。次いで、彼女が放った夜彦の声が。

―――――『子供騙しでも意外と役に立つ』



それは、変声の呪符だった。



ぼんやりと、豊音と共に、こんなものまで持ってきていたらしい。

だが、この場合、好都合だった。


相手が不審の声を放つより早く、私は教えられた通りに呪符を唇にあてる。

誰の声を選ぶか。そして、何と名乗る?

冷静に考える間もなく私は、




『蘇芳、と申します』




放たれた声に、眼を見張った。

それは。


―――――兄の、声だった。


笛の技術を指導する立場の者として、私は彼を無意識に選んだようだ。

そして、…蘇芳?


一瞬、息が詰まった。






春先。西の戦。敗北した、佐倉家嫡子そのひとの、名だ。


どうしてそれらを選択したのかは、私にも分からない。

慌てた意識が咄嗟に拾い上げたものが、この二つ、とは。






相手はいっとき、沈黙した。

何かおかしいところがあっただろうか。

内心冷や汗をかいた私の耳に、小さな笑いを含んだ声が聴こえた。



「僕は、志貴だ」



シキ。

最近、どこかで聞いた名だ。どこでだったか。


私の名乗りに対し、何も言わなかったことにホッとしたのも束の間。





「死者の声を放ち、死者の名を名乗る―――――まぁ、構わないよ」





やさしげにそのようなことを言うのだから、どうもこの相手、一筋縄ではいかない。


つまるところ、志貴と名乗ったこの相手は、私の兄、―――――霊笛宗家の前宗主・律を知っているということだ。

そして、…蘇芳の名が示す意味も。

その辺りのことを聞いてみたい気もしたが、やぶへびになりかねない。


あえて、相手自身に焦点を合わせ、聞いてみた。

兄を思い出しながら、兄のように。



『何を迷っておいでです』



兄は、厳しかった。

だがこう言うとき、詰問したりはしない。

素っ気ない口調ながらも、目を迷いに向けるよう促し、待っていてくれる。

志貴は一拍、沈黙する。


ふ、と息だけで笑った。



「音で、見抜いたかい? なるほど、技巧が本物なだけはある」



私の嘘をからかうような口調に、誤魔化されるだろう、と薄々予測する。

当然だ。


このような状況で、得体の知れない相手に心底を明かすものはいない。


そう、思ったのに。






「先に起こった、西の戦を考えていた。あの、戦はね」


柔和な声は、さり気なく、信じられないことを告げた。





「事前に防げた可能性がある」






一瞬、息が止まる。

何を言われたのか、理解できなかった。

彼は、何を言おうとしているのだろう?


私が尋ねたのは、彼の迷いだ。


つまり、西の戦に関わるその可能性が、志貴の迷いにつながっているのだろうか。



「だが、可能性の種は潰された」


『…悪意に、負けたのでしょうか』



今まで何度か聞いてきた、おぞましい台詞が、声が、脳裏を過ぎる。




「それならまだ、良かったのだけれどね」




志貴の言葉に、私は眼を瞬かせた。

悪意以外の何が、障害となったのだろう。


いや、悪意ならまだよかった、とは。


…そのような言葉を口にさせるものとは、いったい何なのか。

「僕は、止めることのできた人に、訴え出てみたのだよ」


それは、どれほど力を持った人物なのか。


さりげなく言葉にされるひとつひとつの台詞が、やけに重いような気がして、私は息をつめる。



「――――可能性の種を、…機会を潰したのは、そのひと当人だ」



志貴は静かに続けた。

「僕が、とても尊敬する人だよ」


『なぜ』


その人は、なぜ動かなかったのか。

純粋に疑問に感じ、私は反射で尋ねていた。

戦場の惨状を思い出したからだ。


ともすると、あれがなかったことになった可能性があったと聞けば、冷静ではいられない。

なにより。



八重が、あのようなことにならずにすんだかもしれない、と想像するだけで。



胸が、苦しくなる。


「業を煮やした僕も、厳しく詰め寄った。けど」

志貴は、深いため息をこぼした。

「なぜ、止めないのか―――――尋ねれば、逆にその方に問われたんだ」


重い口調で紡がれた言葉は、私には意外なものだった。




「平和とは、なんだ」




その場に相応しいようで、場違いな問いかけにも感じられる。

どういうことだろう?

戦いを止めようとする、止めたいと願う、その行為こそが平和の証明にはならないのだろうか。

とはいえ。


今、質問を耳にして、私は思った。


突然、説明しろと言われても、これは難しい問いかけだ。

平和とは、なんだ、とは。


『何と、答えられたのです』


返ってきたのは、苦笑だ。



「…戦いがない、ということでしょうな、と」



それは、正しい気がした。

ただ、なんだろう…何かが足りない、というよりも、―――――もどかしい心地があった。


思っているものを、きちんと言い遂げられていないような。

『相手の方は、なんと?』





「一言―――――未熟、と」





厳しい。


「その通りだ。僕の答えは幼い」


志貴の声は、淡々と続く。

「平和という状態は、戦争があって、はじめて説明できるものなのだ。ならば、」


物想いに沈むように、声から感情が抜けて行く。



「戦争とは、平和ではない状態のことということになる。そうなると、…問題があべこべになってこないだろうか?」



正直、私には、彼が紡ぐ言葉は難しかった。

分かるようで、分からない。


深く考えると―――――こんがらがってくる。






「本気で戦争をなくしたいならば、平和もなくさねばならない、…そういうことに、なりはしないか?」






なんにせよ、この言葉が、先ほどの音の揺らぎの正体だろう。



濃密な、惑いの気配。



とはいえ。

人外を知ってから、思うようになったことだが。

私はなんとなく、遠い目になる。


世間の基準や常識など、まったくあてにならない。



所詮、人間同士の取り決め、人間が決めた約束事というだけに過ぎないのだ。




人外の世界には人外の取り決めがあるように、場所や状況によって、価値観など簡単にひっくり返る。




私たちの世界を囲っている枠組みなど、容易に崩れ去るものなのだ。


―――――世界に、絶対など、ない。

それが不安というわけではない。むしろ。

『体験することだ』


気付けば私は、そう言っていた。

人から教えられた、与えられただけの知識など、本当のところ、あてにはならない。

ただの借り物。

悩み続けることも、無意味だ。


たとえ答えが出たとしても、推論にしか過ぎない。


体験に、勝るものはなかった。




『後悔と悩みを続けるくらいなら、いっそ』




そこから手探りで得て行くしかない。


―――――真実というものは。



「…犠牲は、取り返しがつかない」



さらり、と風が流れるような志貴の声に、傷が見える。


『ならば』

それを掬いあげるように、私は言葉を紡いだ。




『犠牲と同じ数だけ、助ければよいでしょう』




言うなり。

(あ)

手の中で、呪符が溶けた。


いや、消えた?


あれほどはっきりとした紙の感触がなくなり、それはもう影も形もなかった。

不思議なものだな、と思うと同時に、室内の沈黙に気付く。



同じ数、というのは、不足だったろうか。


不満なら、いくらでも手助けしていけばいい。

生きているなら、いくらでもできる。


何とでもなる。



過去は過去だ。もう、取り返しは付かない。


ならば、悔やんだところで。

思うなり。






「は、―――――あはははははははははっ」






室内から響いた声に、私はぎょっと身が竦んだ。

「いや、申し訳ない。はは、しかし、それは…、」


笑いの余韻を声に含ませながら、志貴は呟いた。

「参ったな」


なにが。




「君の優しさは、…傷になる」




何か、悪いことを言っただろうか。

尋ねようと懐からもう一枚呪符を取りだそうとした私は、息を呑む。




室内から、衣ずれの音が聴こえた。


志貴が立ち上がったのだ。




こちらへやってくるのが分かる。


私はうろたえた。立ち上がる。





ようやく思い出したが、私は見つかるわけにはいかない。





「蘇芳、きみは、楽士の一人かい? 障子越しではなく、直に話をしてみたいのだが」


折角だが、断るほかない。

這うように部屋の前から離れた私は、渡り廊下に出る。


だが、だめだ。


今から走り出しても、到底姿を消すには間に合わない。ならば。


私は、意を決した。渡り廊下の手すりの下を潜る。


なるべく音を立てないように、庭へ下りた。

すぐそばに、大きな岩があるのは確認済みだ。


小さく丸まれば、影に隠れて奥の家屋からは見えなくなるはず。



(逆方向からは、丸見えだけど)



なにせ、今夜の月光は明るすぎた。


この際、それは考えない。

岩陰に隠れた直後、障子の開く音が聴こえた。


私は最大限、身を縮こませる。




「…あれ…」




不思議そうな志貴の声が聴こえた。

一歩、渡り廊下へ踏み出すのが分かる。

だが、彼はそれ以上動かなかった。



「…本当に、亡霊だったかな」



心の中で、深く頷くなり。




「志貴さま」




幼い声が、耳に届いた。

今日、幾度か聞いた声だ。私は息を呑む。


―――――朔?


あの、僧侶姿の少年。祓寮の子供。

「まだ、謹慎中。今日もまた抜け出すようなら容赦するなって長が」

感情の乏しい子供の声に、志貴は苦笑した。


「伊織らしい」


―――――志貴さまは今お休み中。

不意に、朔の言葉が脳裏を過ぎった。

祓寮の者たちの会話から、その方は身分のある方なのだろう、と、そうだ、私は推測したのだ。

その、方が。


…先ほどまで話していた方だというのか。




「では、部屋へ戻ろうか」




促す声が、先ほどより遠い。おそらく、向こうを向いたのだ。


そろり、私は岩陰から顔を出す。




涼しげな物言いからは意外なほど広い背中が見えた。




朔は、その向こうにいるらしい。

先に部屋へ入ったようだ。


志貴が、ごく自然にその後ろに従ったとき。






…見えた、彼の横顔に。








―――――私は息を呑んだ。



(…どうして?)








すぐ、部屋の中へ消えたその顔には、覚えがあった。


とても品に満ちていて、記憶の中にある全体的に野太いような印象とは、雰囲気がまるで異なっているが。


あの、顔立ちは。











(真牙と同じ、顔)




真牙。彼は。












―――――私の祖。






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