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霊笛  作者: 野中
霊笛・第三部
32/72

第一章(3)

史郎。


彼なら、今の玄丸に、どんな言葉をかけるだろう?




―――――まして、八重は。


彼女なら、どうする? どう思うだろう?




私は。

…すぐにも彼に危ない橋から降りてほしい。でも。

私は知っていた。


八重を助けようと命を賭してあがいた玄丸の行動を。



「悩まれることは、ひとつもございません」



玄丸は慰めるように微笑んだ。

つくりものでない、あたたかな微笑。


私の惑いを察し、こんなふうに笑えるヒトの、どこに。




あの、…自らも燃え尽きようとするような、業火に似た想いが隠れていたのか。




今の彼から、それは露ほども感じない。

玄丸は、淡々と続ける。


「古いものが滅び、新たなものが生まれるのは、世の必然」


とたん、私の脳裏に因果ごと根絶やしになった大店が閃いた。

その、言葉は。



―――――あの大店のみならず、玄丸自身のことを言っているようにも聴こえたからだ。



「新たな、もの」

つい、叱るように、彼の言葉を繰り返す。

彼は望んでいるのだろうか。


復讐の果てに、破滅を。




…そうすれば、八重の元へ行ける、と?




「あなたは」

黒蜜に挑めば、ただでは済まない。それが分からない玄丸ではないだろう。


勝算は、あるのだろうか。


この、聡明でしたたかな男は、脳裏にどのような絵図を描いているのか。

敗北前提ならば、私は全力で彼を止める。




「何を望むのですか」




私の声は、自然、厳しいものになる。

ふ、と玄丸は顎を引いた。我に返ったように、私を見下ろす。目があった。刹那。

彼は薄く微笑んだ。不敵に。

それでいて。


私の、挑む気持ちを受け流すように。


「滅びとは、機会です」

呟く声に、熱を感じる。直後。



「…機会に、して御覧に入れましょう」



玄丸は、天気の話でもするように軽やかに語尾を切った。

…やはり、本音が見えにくいヒトだ。けれど。

確信した。


激情家だが、玄丸は何も諦めていないし、投げやりになっているわけでもない。


先ほどの言葉には、透徹した理性があった。

なら、私は信じるだけだ。





―――――八重が愛した人を。





改めて、玄丸を見上げる。


彼に会ったら、言わねばならないことがあった。

「お借りしていた八重さんの着物ですが」

西の騒動の後、彼女の着物を預かりっぱなしだったのだ。


八重のものだ。玄丸に返さなければ、とずっと気がかりだった。


彼は、何かを思い出すような目で私を見た。

ゆるく首を横に振る。


「どうぞ、それは奥方さまがお使いください」


私はわずかに目を見張る。その答えは、想像していなかった。



返さなければ、とそればかりで。



「物は、使われてこそ、生み出された意味があるというもの」

固辞しかねる言い回しだ。仕方なく、私は頷いた。目を伏せる。


とたん、真緒が胡散臭そうに鼻を鳴らした。

「取締役の権利も着物と同じか」


「と言いますと?」

玄丸はからかうように、言葉を促す。

「あなたは相手の不幸をこれ幸いと、権利を横取りしたのだろう。ただ、あなたが権威や責任を好まないのも確かだ」

真緒は刺すように玄丸を見遣った。


「何を企み、その地位を手に入れた?」



清々しいほどの直球だ。玄丸は動じない。むしろ。



「逆にお聞きしましょう」

彼の大人びた語調に、笑いが混じる。…玄丸は面白がっていた。

とたん、真緒が身構える。

彼女の様子に、玄丸は一向に気を払わない。



「貴女がわたくしの立場なら、何をなしますか」



良くも悪くも真っ直ぐな真緒の雰囲気が、いっきに険悪になった。


二人はあまり、相性が良くないらしい。

放置もできないが、どう割り込めばいいのやら。

困惑したそのとき、綾月が明るい声を上げた。






「ちょっと待ったぁっ」






いきなり私の前方に回り込む。


目も覚めるような…というより目に痛い色彩に、視界がちかちか眩んだ。



「ここ!」



目を輝かせた綾月は元気よく、そばの出店を指差す。

「この間、出入りの商人からここの魚の揚げ物が美味しいって聞いた!」

叫ぶ綾月。同時に、虎一に傘を手渡した。問答無用だ。


…さっき、日よけの結界云々と言っていなかっただろうか。


「待ってな、すぐ買ってくるから」

言葉を置き去りに、突撃していく。引き止める間もない。


間の抜けた沈黙が落ちた。


「さすが、綾月さん」

玄丸が感心した態度で綾月の背中を見送る。

「旬を探しあてる嗅覚は、才能の域に入ります」


「犬にも勝る、と分かりやすくばかにしたらどうだろう、玄丸殿」


面白がる玄丸に、真緒が真面目に応じた。

二人の態度からは、もうさきほどの険悪さは伺えない。

傘を任された虎一はと言えば。




「…おい…」




彼の声は、相当苦々しい。

対象的に、虎一に肩車された朔は目を輝かせ、綾月の背を見送っている。

無表情だが、頬が上気している。かわいい。


見上げれば、―――――自然、虎一と目があう。


とたん、身を引かれた。警戒する獣みたいに後退する。

開いた距離を見下ろして、気付いた。

私も半歩、後退している。



それでも虎一は傘をさしかけたままだ。…律儀な人だ。



だとしても。




彼の、自分ごと周囲を傷だらけにして歩いていきそうな鬼気迫る雰囲気は、この平穏な空気の中でも消せていない。




反射的に疼いた私の肩を見下ろし、虎一は面倒そうに口を開く。

「恨みたいなら恨めばいいぜ? せっかくだから、やり返して行けよ」

彼らしい言い草だ。ただ、意外だった。


「…驚きました」

まっすぐ見返す。たちまち、虎一は気にくわない、と言いたげに眉を寄せた。





「怪我をさせた相手と、怪我の場所」


私は、自分の肩を一瞥する。




「覚えて、いるんですね」





ひとりひとり、覚えているのだろうか。だとすれば。


自然、虎一という人物の見方が変わる。

一見、彼は偏執的に歪んでいた。それでいて。


奇妙に真っ直ぐだ。


そんな彼が、なぜ。

…誰かれ構わず、噛みつくようになったのか。

一瞬、虎一は眉を潜めた。…呆れている?


その時になって、気付いた。私の言葉は嫌味すれすれだ。


だが、虎一が言いたかったのはそこではなかったらしい。

すぐ、何かを堪えるように、大きく息を吐く。

「てめぇほんとうに分かってねえんだな。自分のこと、全然」

いきなり、朔が足をばたつかせる。


虎一が声を張った。




「今度は、なんだっ」


「は~い、おっ待たせー。おごりだよ」




いいにおいが鼻先をかすめる。

直後、油紙に包まれた何かが、綾月の眩しい笑顔と共に手渡された。


「揚げたてだってさ。これでっかいね、玄丸さん」


気付けば、全員の手に、同じものが回っている。


なるほど、大きい。

両手で支えなければ落としてしまう。



これを人数分、綾月はどうやってもってきたのか。



朔は真っ先に頬張っている。

綾月は、ありがと、と虎一から傘を受け取った。虎一は微妙な表情だ。

気にせず、綾月は満足げに揚げ物にかぶりつく。



「うまい!」



すぱん、と一言、本当に幸せそうに綾月は叫んだ。

「この香り…香辛料? 添えられてる野菜にかかったタレの辛味と調和が絶妙~」

「魚も新鮮なのだろうな」

真緒が何度も頷きながら呟いた。

「しかしこれは飲みものがほしくなる」


「ならば、あちらに果実水がありますよ」

玄丸の誘いに歩き出しながら、私もおそるおそるかじってみる。

なるほど、美味しい。


程よい熱さだ。香辛料も適度にきいている。

外はカリカリ、中はしっとりした魚の白身が詰まっていた。



それにしても、外で、歩きながら食べるなど、初めての経験だ。



一人だと抵抗があったかもしれない。だが、大勢だとなんだか楽しい。

ふと、真緒が私を振り向いた。

揚げ物を食べながら、微妙な顔になる。

とたん、妙なことを聞かれた。


「…凛殿の口には合わないか?」


「美味しいです」

私は真面目に答えたが、真緒は納得いかない様子で頷いた。


「ならいいんだが」

今度は、玄丸が買った果実水が回ってくる。

一口飲んでみた。冷たい。

どこかに氷室でも設置していたのだろうか?


南方特有の暑さの中、冷たさが心地よい。とはいえ。


この揚げ物もそうだが、簡単に人さまからものをもらっていいものだろうか。

だが、他の皆も同じように飲み食いしている。



…あとでなにかお礼をしないといけない。



私の斜め後ろで、手を伸ばし、食べかすがついた朔の頬を指先で拭った綾月が、

「ねえ、玄丸さん」

玄丸を横目にした。


「今向かってるのは、昨夜騒動があった区画?」



私は綾月の手元を見て、目を丸くする。もう、食べ終えている。



自分の手元を見下ろした。まだまだ先は長そうだ。


「それが分かるということは、ある程度の詳細を夜彦さんからお聞きなのでしょうね」

その会話で、ようやく理解した。

綾月たち祓寮が玄丸に何を望むのか。

玄丸は微笑んで頷いた。

「お察しの通りです」


「さっすが、話が早い。まずは現地調査だよね」


綾月が満面の笑みを浮かべる。

「にしてもさ、百鬼夜行が通り過ぎた後、青海通りはしばらく荒れたけど」

彼は改めて、周囲の喧騒を見渡した。


「こちらの市には動揺が見られない。さすがの統率力って感じだよねー」

「だが昨夜は、それなりに騒がしかったのだろう?」

真緒が口を挟む。

玄丸は如才なく応じた。


「祓寮の方々のおかげで、皆、心安かったようです」






同時に釘を刺された気もする。



民の信頼を裏切るな、と。


無条件の信頼は、当人たちにとっては重圧だろう。

首に巻き付く、鎖のようなものだ。


ひとつ間違えば、一瞬で首が落ちる。


もっとも私の考えとは裏腹に、綾月たちの態度は、飄々としたものだ。






似たような態度で、玄丸も言葉を続ける。

「今のところ百鬼夜行は、通り過ぎればそれで終わり、という状況ですからね」

彼等の態度が変わったのは、次の言葉の後だった。



「なにより昨夜、祓寮代表として市街に立たれた夜彦さんの存在感は、説得力がありました」



とたん。

近くの串焼を横目にしていた綾月が、ちょっと引いた笑顔を玄丸に向ける。


言外の含みでもあったかのような態度で。




「うわぁ、その様子だと…昨夜、夜彦と、会った?」


「いえ、一方的にお見かけしただけで」




玄丸は、にっこり。

綾月に遅れて真緒が、何かを察した顔になる。



「…つまり、一緒におられた方も目にされた、と」



一緒におられた方? 夜彦と。私は内心、首を傾げる。

すぐ、思い出す。そう言えば、夜彦は昨夜誰かと共にいたと言っていた。


確か、朔の護衛対象で、……志貴、とかいう人と。


その人に、なにか問題があったのだろうか。

「ああ、ソイツだけどよ」

喰いついたのは、虎一だった。

「なんだったんだ、アレ?」

不敵に笑う。




「これまで会った中でも、相当やばいヤツって感じだったけどよ」




とたん、血が滴るような気配が満ちる。


綾月が、呆れたように肩を竦めた。

「それで闘志がわく辺りが、虎一って病的だよねぇ」



「ただの変態だ。朔、離れろ」



食べ終わった真緒が、来い、とばかりに手を伸ばした。


意味を理解したわけではないのだろうが、朔は虎一の肩からぴょんととび下りる。

大人しく、真緒の腕の中に収まった。


解放された虎一はわざとらしく、ぐるぐる肩を回す。


「まぁ、何かお考えあってのことでしょう」

玄丸は、その人のことを知っているのだろうか。何も言及せず、

「ああ、ほら」

話を打ち切って、行く手の一角を指差した。




「見えてきました」




人波に紛れて、崩れ落ちた石壁が見える。

そのとき、はしゃいだ声を上げて、子供たちが足元を駆け抜けた。


思わぬ出来事に、私は少しよろめく。

そのとき。

どこからか、幼い声が流れてきた。



(わらべうた…)



細い声は、のどかな旋律の唄を紡ぐ。









『しゃれこうべを抱く男。


夜な夜な、人家の扉を叩く。


おくれ、おくれよ、我が妻に。


骨しかないのは寒かろう。


ぬくめてあげよう、さあ、一夜。


血肉の衣を巻いて。


いざ、今宵叩くはどの扉――――――』









…内容は血の気が引くほど物騒だ。



うたう子供に理解できているのかどうか。

「…祓寮の方は」

わらべうたに紛れ、玄丸が、独り言のように言葉を紡いだ。


「南方の群島におわす長老には、お会いになられましたか」

真緒が思慮深げに呟いた。

「…必要は、あるのだが、まだだ」

人外との退治以外の接触は、祓寮としては、外聞が悪いことなのだろう。だが。


(必要が、ある?)


「だよね」

野菜や肉が刺さった串焼きを片手に、綾月が大きく頷いた。

いつの間に手に入れたのか。



「いつも眠ってて会えなかったけど、今回こそは確認とらなきゃ」



「なんの確認だよ?」

虎一が眉を潜める。

真緒の腕の中で、朔がぽつりと呟いた。





「南王が実在するかどうか」





―――――え?


つい、私は眼を見張る。初耳だ。

「実在を信じているのか? 祓寮が。本気か…いや、正気か?」

虎一がばかにしきった声で言うのに、綾月が唇を尖らせた。


「千年前に、天花が降ったって記録があるじゃないか」


「いるなら、今回の百鬼夜行はどう説明する」

虎一が面倒そうに指摘する。真緒は肩を竦めた。

「南王がいれば、起こらないな。…南に王は存在しない、と考えるのが妥当だが」


「けどさー、分からないよ? 記録はあるんだから、記録は。しかも公式文書」

綾月は探るような目を玄丸に向ける。

「玄丸さんは、どうなのさ」


「わたくしですか」

「長老には会えたの」

玄丸はゆるく首を横に振った。



「近ごろ、眠りが深いようで…」



「この数年、ずっとそうだって聞いてるけど」


綾月が、ふと、声を揺らす。だがそれ以上は何も言わない。首を横に振った。

彼を見上げ、朔が静かに言う。






「でも供犠の座は、南には反応しない」






―――――供犠の座。





なぜ今、その名称がでるのだろう。

以前も思ったが、人外の王の出現に、それはどう関わってくるのか。


「そこだよね。あれは本来、星読みの道具だけど」


綾月の声が、別人のような真剣な響きを宿す。

星読みの、道具。




―――――星。




私は誘われた気分で、空を見上げた。とたん。

息を呑む。









今は、真昼。


太陽は、ほとんど中天にある。



それが、分かる。なのに。


青空に重なって、見えた。




―――――満天の、星々が。




この、頭上に広がる広大な空ですら狭いとばかりに、溢れんばかりの星が、瞬く。


ひかる。


流れる。



一瞬、私の中が空っぽになった。




とたん、鏡のように、お腹の底が星空を反射した気がして、上も下も分からないままどこかに落ちて行きそうになる。









足がもつれそうになった。慌てて、立ち止まる。

不思議なことに、誰も気付かない。まるで最初から私などいなかったように。

そして。

…人ごみの中にいるはずなのに、なぜだろう。



私は、背後に巨大な存在が息づいているのを感じた。



いきなり、山が一つ現れたような感覚がある。






―――――何かが顕現しようとしていた。






皆の声が、遠くなる。


「供儀の座が南に反応しないのは、南王の星が、燃え盛っていないってことだと思う。ただそれは」

考え込むように、慎重な声で綾月は続けた。

「南王がいないってことと、同じじゃない」

真緒が眉根を寄せる。

「では南王は現在、どのような状況にあると見る?」


「ある程度の計算は成り立つけど…大雑把に言えば、封印されてる状態っぽい」

「封印だと?」

虎一が胡散臭そうに声を上げた。




「人外の王に、誰がいったいどうやって」






「本人」






ますます、皆の目が胡乱になる。


綾月は唸った。




「いやオレ自身、信じ難いんだけどね」




彼自身が、一番信じられない、と言いたげな様子で首を横に振る。

「供儀の座が示す座標を読み解いていけば、どうもそれ以外にはなくて」

は、と虎一が鼻で笑った。


相手を傷付けたがっているような嘲笑を浮かべる。



「お得意の星読みでそのザマか、墓守」



揶揄する声。

楽しそうだった綾月の表情から、笑みが消えた。虎一に、針のような視線を返す。




「オレより上等のつもりなの、戦狂いが」




意外だった。

揉め事は全力で避けて通ろうとするような綾月が言い返すとは。


「あ?」

虎一が低く凄む。

険悪さで空気を帯電させ、彼らは立ち止まった。

刹那。









―――――稀なる娘。









巨大な思念が、頭上から降ってきた。

息が詰まる。


―――――錨をおろすぞ。


どこに?

問う間もない。

ずぶり、何かが生々しく身体に突きたち、埋まっていく感覚があった。

痛みはない。


とはいえ、どういうわけか、動きにくい。

見過ごせる、状況ではない。


動きにくさをおして、私は無理やり後ろを振り向いた。とたん。




―――――ほ、振り返りおった。




楽しげな声が、ぐわぁん、と頭の中で反響する。


気を失いそうになった。

同時に、私の目には、巨大な、

(え)


―――――亀の姿が映った。


おおきい。どれだけかと言えば、視界に入り切らないくらい。

目に映ったのは、正直、甲羅とその双眸だけだ。


甲羅は深く苔むして、視角から過ぎた時の重みを感じさせる。


相手の全体は眼では把握できなかった。

けれど私には、相対している相手の全体が把握できた。


少なくとも、人で溢れ返った市の中に、自然な顔で佇んでいていいものではない。


その、視界の隅で。

(…鎖?)

私を取り囲むように、大小様々な鎖が落ちてきた。


そう、頭上―――――天から。



怖い。顔を上げられない。



結果、なすがままに、じゃらりと鎖が私の影に呑み込まれていく。

蒼穹もかくや、というほどに澄み切った碧い亀の瞳が、ゆっくりと眠たげに瞬いた。


その目は、うまれたての赤子のように無垢だ。


次第に、巨体を恐れたことが申し訳なくなってくる。

とたん、心の声を聞いたようにおおらかな声が響いた。


―――――よい、よい。わしもしばし場所を借りる。対価は懐へ入れたぞ。


私は、目を瞬かせる。




なんの、話?




疑問は察したろうに、亀は答えない。

満足げな声と共に、瞼が重たげにゆるりとさがっていく。


―――――何より、振り向けたとは、剛毅。褒美に道を示してやろう。ほぉれ、空じゃ。


亀の目が、完全に閉ざされた。

私は促されるまま顔を上げる。刹那。


視界を、見慣れた鳥が横切った。


たちまち、得体の知れない鎖への不安など吹き飛んだ。




「豆乃丞!」




なりふり構わず、駆け出す。

遅れて気付いた。

空にはもう、星が見えない。いつもの、青空だ。


あの巨大な亀の姿もなかった。


背後で、綾月の焦る声が上がった。

「あれ、凛ちゃんどこっ?」

「いつの間に…っ、声は、そっちから」

次いで、真緒の声。


申し訳ないが、立ち止まれば見失う。私はただ、声を張った。


「すみません皆さん、私、豆乃丞を追います!」

豆乃丞を甘やかすつもりはない。

が、発見したなら、追いかける程度には情が湧いている。






あの子は、ただの鳥ではない。私の眷属だ。


史郎の霊域で育まれた存在。


私の声は聴こえていないのだろう。

豆乃丞は一心不乱に、頭上を横切っていく。一直線に。


見失ってなるものか。






私は懸命に追いかける。


その内に、私は賑やかな市から離れ、生活感が漂う区画を駆け抜けていた。

井戸端会議の女性たち。

たなびく洗濯もの。

子守りの少女。

道端で遊ぶ子供たち―――――。

彼らは、決まってびっくりした目で私を振り返っていく。


確かに、年頃の娘が、血相変えて走っていれば、何かあったと思いもするだろう。


だが、構っていられない。それにしても。


日差しが痛い。暑い。

汗を拭うと同時に、とうとう、よろめいてしまう。

通りすがりの相手にぶつかりそうになった。

謝った拍子に、豆乃丞がこんもりとしげった緑の中に姿を消す。


立ち並ぶ長屋の一角にある、社の前だ。


そこで、やっと私は足を止めることができた。

肩で息を吐く。胸を押さえた。片手を膝につく。



くるしい。



しばらくは何も考えられそうになかった。


無言で社を横目にし、その斜め後ろに続く石畳を見遣る。

次いで、静かに佇む朱塗りの鳥居を見上げた。

その下を通って、長い道が奥へ続いている。


石畳はきれいに掃き清められていた。



周囲の人から大切にされている場所なのだろう。



覗き込めば、目に映るのは、重なり合う濃い緑。

蝉しぐれが降り注ぎ、耳を澄ますことも難しい。


だが、豆乃丞はここに消えたのだ。


懐から手ぬぐいを取り出し、額の汗を吸わせながら、私は一歩踏み出した。

鳥居の下を潜る。遠慮しながら、石畳の上を進んだ。


陽光は重く鋭い。だが、木の下に入れば、不思議と涼しかった。



清浄の場に相応しく、澄んだ空気がさらさらと流れている。



いったい何処に所縁のある霊域なのだろう。


考えて見れば、南方には大神の分社があるのだ。

大皇家はそちらに詣でるため、今回の御幸を行った。

この霊域も、大神に関わる場所なのだろうか。


興味は尽きない。



が、まずは豆乃丞である。



奥へ進みながら、周囲に顔を巡らせるなり。






「雪が見たい」






少女の声が、奥から聴こえた。

溌剌としているが、どこか意地悪な響きがある。


だいたい、この南方で、雪とは無理難題だ。


「だから」

男性の声が、苦々しげに応じた。


「迷宮の花を摘んでくるというのがその代替え案だったのだ。あれは雪に似ている」


理知的で冴えている声には、相手を扱いかねているような響きがある。




揉め事の気配だ。


近寄っていいものか、迷う。




豆乃丞を追う気持ちも相まって、自然と足取りが重くなった。

それにしても。

(迷宮の、花?)

しかも――――雪に似た花。

思うなり、言葉の印象に重なる花が記憶の縁から浮かび上がる。

(そうだ、昨夜、洞窟で)



壁一面に咲き誇っていた、雪のような小さな花。



ではあの場所が、迷宮、なのだろうか。

「ちゃんと摘めたんだ。けどよ」

また別の、どこか直情的な声が、不貞腐れたように言葉を紡いだ。



「あの花、迷宮の外だと枯れるんだよ。知ってりゃ、無駄足踏むこともなか」



「そんなの、あたしの知ったことじゃないわ」

少女の声は剣呑だ。

けれど、冷たいようだが、私にとっては他人事。


迂回するより、いっそ、この辺りで緑の小鳥を見なかったかと聞いてみようかという気になる。


私は、声がする方へ足を向けた。

少女が、一際高く声を張る。

「あの女が知っていて」

拗ねた声。

高飛車だが、憎み切れない愛らしさがあった。

言っていることが我儘なのも、また。


「あたしが知らないことがあるなんて許せない」


「いい加減にしておけ」

理知的な声に、厳しさが宿った。

「仮にも姫が、父親の妾相手にいつまでも駄々をこねるな」


「偉そうに言うけど」

少女は鼻で笑う。

どうも、会話に不穏が増していくようだ。


「あたしが気付かないとでも思ってるの、永志」




―――――え? 永志、って。




その名に、私の思考が一瞬止まる。冷静になる間もなく、

「『髑髏(しゃれこうべ)を抱く男』」

少女の声が低くなった。


「…そいつが現れたのは、あなたたちが迷宮の花を探しに行った日だったわよね」


「それ言うならなぁ、千華」

応じたのは、ざくざくと聞く者の心を切りつけるような乱雑で直情的な声だ。

苛立つ声が、抜き身の刃のように、放たれる。


「巷を騒がしてる盗賊の首領を炊きつけたのはてめぇだろうが。奴ら、事前に目をつけた商人たちに接触して、賄賂と血判状も巻きあげてるって話だぞ」


盗賊。

その言葉に、今朝聞いたばかりの夜彦の声が蘇る。

―――――不審があるそうだ。


思いだす間にも、会話は良くない方向へ進んでいく。




「血判状? あれは、事実か?」


「確認はまだ取れてない。ただ事実だと、大事だ。事前に賄賂を出して被害を避けたって言えば仕方ない話と言えなくはないが、代わりに他の一家を売ったってことだからな」




―――――姫が、一味の首領に会った時の証言にな。


一味の首領、としか彼は言わかなかったが。

…盗賊の首領、で間違いないだろう。

だが。


名家の姫と盗賊と、どうやれば対面できるというのだろうか。


盗賊が添石家に押入ったというなら、たいした度胸だが、そんな話は聞いていない。

真緒の低い声が蘇る。




―――――よりによって、栄えある祓寮の御調べに対し、…虚言を?




祓寮は、名家の子息に対し、何を尋ねたのか。

そして、彼等はなんと答えたのか。


私は知らないが、今、すぐそこで交わされている話の不吉さは理解できた。


ただ、…会話に、意識を向け過ぎていた、と思う。

この間にも、私は漫然と彼等に近づいていた。

「ふぅん?」


不意に、少女の声が嬉しそうに弾んだ。




「連中、そこまでしてるんだぁ。へえ、本気なの? あなた、そう思うのね、国臣」




そのときだった。

―――――私が、その場に踏み込んでしまったのは。


私は無防備にも、他人事のように歩き続けていたわけだ。


状況を正確に把握するより、話が早く進み過ぎた。




二人の青年が、いっせいに私を見た。




私は思わず、目に映った青年二人を何度か見直す。


が、残念ながら、容姿は変わらない。

私の記憶に間違いないのなら、あの二人は、おそらく。


片や、添石家嫡子、永志。


片や、比嘉家嫡子、国臣。


名家跡取りの二人だ。

護衛もなく、このような場所にいていい相手ではない。



そして、私に背を向けている少女は、千華と呼ばれていた。



つまり。

…彼女は、真珠通りから、青海通りへ行くと言っていなかっただろうか?

なぜ、こんな場所に。


私は一瞬、心理的な眩暈に襲われる。どうしよう。


ここでようやく、確信した。

見つかった以上、会話を聞いた私が無事戻れる保証はない。


どこまで聞いた、と問われるのは確実だ。


いや、問われるならまだいい。




問答無用で切り殺される可能性が高い。




―――――どうする?


悩んでいる間はなかった。

私は、自分で自分を守る必要がある。しかも、早急に。


青年二人が双眸に物騒な光を宿す。合間に。



私は目の前の無防備な背中に手を伸ばした。



即ち。

―――――千華姫に。

「いったい何…、きゃぁっ!」

いきなり黙りこんだ青年二人に、不審の声をかけた千華を、私は背後から思い切り引き寄せた。


片腕を背中にねじり上げる。同時に首を、腕で締め上げた。


武器は持っていない。けれど。

女の子一人、

(殺すには、これで十分)

それを示すために、私は腕に軽く力を込めた。


とたん、先ほどまで威勢よく言葉を放っていた千華の唇から、小さな咳がこぼれる。


顔は苦しげに歪んでいるだろう。

それも仕方がない。

気道が狭まり、呼吸が苦しくなれば、自然とそうなる。


抵抗の力はあるが、私でも難なくいなせる程度のものだ。


知られてはいけないことは、ひとつだけ。




私に、人を殺す度胸はない。




「女。…狙いは、なんだ?」

真っ先に口を開いたのは、永志だ。

怜悧な視線を私に突き刺し、動揺もないように見える。

対して、国臣は射殺しそうな目で私を睨み、押し黙っていた。


(無事帰りたいだけ、なんだけど)


実のところ、この場で一番動揺しているのは私ではないだろうか。

本当なら、ここに居座るのは危険だ。


真っ先に逃げ出すのが正しかったかもしれない。



だが、見知らぬ土地で、彼等から逃げ切れる自信はまったくなかった。



だからと言って。




―――――こういう状況を、予測していたわけでもない。




…いや?

必死で頭を働かせながら、慎重に、背後に立ち木のある場所へ移動した。


私の本当の目的は消極的なものだ。が、こうなったら。



せっかくだ、―――――積極的にいってみよう。



永志は先ほど、何と言った?




狙いはなんだ、だ。




私に狙いなんて、何もない。

けれど、そう尋ねられたのならば。


乗ってみようか。


だが、素の私では、彼等に完全に舐められる。

小娘と侮られては、おしまいだ。

…参考に、なる人はいないだろうか。


こんな場面でも、したたかに乗り切れるヒトは。


思うなり、閃いたのは。

(あ)

―――――真牙の横顔。

そうだ。

今必要なのは、あの、揺るぎない厳格さ。それでいて。


懐深い豪快さ。




「…情報がほしい」




私はあえて、低く抑えた声で尋ねた。

抑揚の少ない、真牙の声を思い出しながら。真似、できているだろうか。

心臓が暴れ出す。だめ。おとなしくして。

私は真っ直ぐ二人の青年を見据えた。



「あの盗賊は、次にどこを狙う」



「…何の話だ」

永志が抑えた声で応じる。

私は素直に言いなおし、対象を特定。



「先ほど話していた盗賊は、次どこを狙う」



この問いかけは、別に、彼らがそれを知っていると思っての問いではない。






ただの時間稼ぎだ。


一方的でいい。



これは難癖とも取れる質問だろう。ただ。






どうせなら、より多くの情報がほしい、とも思う。


ならば、どうすればいいか。

この、見当違いの質問は、彼等にどう響くだろう?


うまくいかずとも、時間稼ぎができればそれでいい。


私は逃亡の手段を必死に考える。

「なぜ、そんなことを知りたがる」

永志の切り返しに、私は無言で、腕に力を込めた。

かは、と千華がむせる。


脅しだ。



冷静に、そんなことができた私に驚く。大丈夫。傷も残らない。少なくとも、身体には。



とたん、やりにくそうに、国臣ががりがり頭を掻いた。

「取引や腹の探り合いなんざ、こんな場合にやろうとすんな、永志っ」

底光りする目で私を見遣り、国臣は唸るように告げる。

「あいつらが『次』に何を狙うかは知らねえ。だが、最終的な狙いが何かは知ってる」


「国臣!」

永志は制止するように名を呼んだ。けれどその目は、私を射抜いたままだ。

構わず、国臣は告げた。






「大皇の御幸だ」






思わぬ言葉だ。

私の腕の拘束は、少し緩んでしまう。拍子に、




「あはははははっ!」




千華が笑いを弾かせた。

「そうなるわよね、だってあたしが言ったんだもの」

心底愉快気に、千華は言葉を続ける。









「『大皇の御幸、そこからなにか宝を奪えたら、あなたのお嫁になってあげる』」



―――――暑いはずなのに、身体の芯がいっきに冷えた。



それは、無邪気さの仮面を被った、残酷な悪意に満ちた言葉だった。











「特別に教えてあげるわ」

誰かに話したくてたまらない、と言いたげに千華は口を開く。

「夏が来る前、あたしたち三人で早駆けに出かけたのよ。そこで護衛とはぐれちゃって」

とんでもない無警戒さを勝ち誇ったように言うのだから、どうにも始末に負えない。



「仕方ないから少し戻ろうかって話してるところで、連中に出くわしたわけ」



連中――――即ち、盗賊。永志が苦い顔になる。


「早駆けは、奈美という名のお前の侍女の発案だったな」

「何が言いたいの、永志」

睨み合ういとこ同士に間に割り込み、



「アレの身元は確かなのかっつー話だ」



国臣が私を警戒しながらも、低く声を絞った。千華の返事は、

「ばっかじゃない?」

底抜けに明瞭だ。




「お父様に間違いがあるわけないでしょ」




「…ああ、西方出身で…先の戦に関わる故、詳細は話せんが、まず確かな身の上らしい」


眉間にしわを寄せ、永志がいとこの代わりに理性的に答えた。

国臣が考え込む目で呟く。


「じゃ、この間添石の領地で遭遇した盗賊との関わりは」

何の反省もなく、千華は言葉を続けた。

「ないわよ。だいたい、永志と国臣があっさり捕縛しちゃったじゃない」

自身の手柄のように言って、一度、千華は思わせぶりに言葉を切る。


「そのあと、ああなったのは、自然の流れってものよ」

ああなった?


「ほらなんたって、あたし、きれいでしょ?」

私に片腕を捻りあげられ、動けない状態であるにもかかわらず、千華は胸を張った。

度胸は、さすがに本物の姫だ。

何も考えていないだけ、とは思いたくない。

「みっともなく這いつくばった連中が見惚れちゃうのも仕方ない話よ」

千華はあっけらかんと言葉を続けた。


「だから、夢を見せてあげたの」


夢。それが。

…さっきの、言葉?



けしかけた、の間違いではないだろうか。一瞬、私は言葉を失った。



「言うな」

永志が、固い声を鋭く放った。

千華は話し回りたくてうずうずしているようだが、永志の制止は当然だ。


千華が語ったことが事実なら、今、南方を荒らす盗賊たちの狂乱は、――――彼女の責任になる。


統治者の肉親として、相応しくない行動―――――秘匿すべき情報だ。

私は逃げたいのに、まずい情報でがんじがらめになっていく。



うまく情報を引き出せたはずなのに、内心、冷や汗が止まらない。



「そこからヤツの目の色が変わった―――――盗賊の」

永志の声が、淡々としたものに変わった。

理性的なのに、なぜだろう。


聞き続けることは、毒を盛られるに等しい気になる。


「捕らえるときは簡単だったのにな」

国臣が吐き捨てた。永志が頷く。

「だが逃亡の際の狂乱ぶり。あれは」

ぞっとするような声で彼は告げた。


「別人としか思えなかった」


「だとしてどうなる」

国臣が唸る。

「どうやったって、千華は手に入らねえ」

大きな蝉しぐれと、草木が風に揺らされる音の中、腕の中で危機感もなく、千華がくすりと笑った。


「ふふ、面白ぉい」

その声は、無邪気とも言えたけれど、




「…大の男が、あたしの言葉一つで狂うのって最高」




―――――潮時だった。


私は千華を突き放す。

視界の端で、国臣が猛獣のように身を屈めたのが分かった。


臆してはいられない。



背にした木の幹を転がるように、その影に隠れた。刹那。



刃が、木の幹に食い込んだ。

誰かの舌打ち。気にせず、大地を蹴った。




あとは、全力で駆けるのみ。




意識全部、そこにつぎ込んだ。駆け出す。そのときだ。

向かい側の茂みに、奇怪な人影を見た。


(…え…)









黒い、狐の面を被った男が、木々の間に立っている。


全身、血がにおい立つような、…鎧姿。

ただし、今しがた死体からはぎ取ってきたように、ぼろぼろだ。

使い古した皮鎧。しかもすり切れている。

そして。

その手に大切そうに掲げているのは。




(頭蓋骨)




真昼。


耳に痛い蝉しぐれの中、狐面の男の周囲だけ、時が止まったように見えた。









一瞬、私の呼吸が乱れる。刹那。

身体に、荷物でも振り回すようにされた感覚があった。


どすん、骨に響く衝撃が、胸から走る。


他人事のように理解した。



―――――私の身体は背を掴んだ片手で、地面に押さえ付けられている。



相手は、私の背に圧し掛かっていた。


誰? 国臣? 永志?


いや、誰でもいい。一か八か。

私は、地面を、否、土を握りしめた。


やみくもに、それを相手の顔に投げつけようとした、刹那。






「小僧」






肺腑を抉る重い声が、静かな怒気で鼓膜を震わせた。




「その狼藉、高くつくぞ」




同時に、鈍い音。誰かの呻き声。

いきなり、縛めが緩んだ。


代わりに、腕が引っ張られる。


「まったく、役に立たねえ豆だ」


唐突に立ち上がらされた身体が、状況についていけず、よろめいた。

誰かの腕が、背中を支えてくれる。同時に、



「主の苦難も守れんなら、この場で果てろ」



ピィッ、と悲愴な鳴き声が響いた。豆乃丞?

口を開こうとした私は、だが、咳き込んでしまう。

先ほど、地面に倒れた時胸を打ったせいだ。


なにより、私を抱きとめてくれている相手は。






「しろ、さま」


史郎だ。


私にとって、すべてが破格のひと。






「お前はとにかく大人しくしていろ」

返す言葉もない。私は黙って頷いた。

自身の迂闊さにはへこむばかりだ。


反面、史郎の腕の中だと思えば、指先まで浮つく。


とたん、まだ土を握りしめていたことに気付いた。


慌てて掌を開く。同時に、




「おれも同感だな!」




いかにも溌剌とした声が眼前から響くのに、私は思わず目を瞬かせた。

小柄で小さな人影が、私の目の前で仁王立ちしている。

「大体なんで、一番危険そうな場所に真っ先にいるかなぁ」


咳き込んだ拍子に浮かんだ生理的な涙の膜が邪魔をして、よく見えない。


だがこの、全身から、はち切れんばかりの生気を漲らせた相手は、おそらく。




「く…ら、ん?」




そうだ。久嵐だ。

最後に会ったのは、いつだったろうか。

ああ、…西の戦場だ。



腹の底まで傷つき切った彼を思い出せば、今も胸が痛む。


だが、記憶の中、天花に囲まれた白銀の大狼の姿は、恐ろしいまでに荘厳だった。

つい先日、天地に選定された人外の西王―――――それがこの少年。




その肩には、豆乃丞。

「おう。久しぶりだな」

返ってきたのは、悪戯っ子そのものの笑顔だ。

見たところ、久嵐の容姿や性格には、以前との違いはさほど見られない。というのに。

なぜだろう。


彼を構成するいっさいが、変わってしまった。


まともに相対すれば、そんな確信が、腹の底からじんわりと湧き起ってくる。




「て、めぇら…いったい、『何』だ?」




苦しげな声は、国臣のものだ。


『何』、か。

ああ、確かに。

人外の王が二人、目の前に立っているのだ。


彼らが、何者か。本質のところは、実際、彼ら自身すら答えようはないだろう。


わかるのは、威圧が相当のものということだけ。

そこに立っているだけで。


国臣は、それでも口が聞けたのだから、立派だ。とはいえ。





人外の王の存在感は即死の猛毒なみだと、本人たちにもそれなりの自覚はあるのだろう、かなり抑えられている。





私は何度か瞬きして、涙を散らした。


久嵐の向こう、蹲った国臣の姿が見える。片腕を押さえていた。

怪我でもしているのか。

彼の容体を見るためか、国臣の傍に永志が膝をついていた。

片手で、千華を引き寄せ、守るようにその背に押し込んでいる。


私が、千華の姿をまともに見たのは、この時がはじめてだ。




華やかな容姿に、息を呑む。そして、輝くような存在感。けれど、なぜだろう。




なにか、軽い。…深みがない、と言い直した方がいいのか。


確かに、うつくしい。

だが、ただ絵に描くだけでもその美を表現するには十分。


彼女の双眸は、事態を面白がるようにきらきら輝いている。

そこだけが唯一、他に類を見ない稀有な輝きを放っていた。



毒の美しさだが。



永志は、冷ややかだが緊張をはらむ目で尋ねる。

「私たちをどうするつもりだ」

彼等は、名家嫡子。その質問はもっともだ。

対する史郎はどうでもよさそうに目を細めた。代わりに、


「おれらは、あんたらに用なんかないよ」

久嵐が元気よく応じる。次いで、向かいの茂みを指差した。



「そっちはどうか知らないけど」



言うなり。

―――――狐面の男が、見慣れない、槍のようなものを振りかぶる。

間近の相手―――――御曹司二人に、投擲の姿勢。


槍、いや、鉾? にしては何かがおかしい。


刺突用の武器と考えると、辻褄のあわない形状をしている。

対象を貫くのは間違いないが、そのあと、相手の肉を引っかけ、自分の方へ引き寄せてしまいそうな…と感じたところで、



「銛かぁ。けどあれ、武器って言うより、完全な捕鯨用だろ」



久嵐の呟きに私は青ざめた。刹那。






「狩りの見物は楽しいが、の」






今にも踊りだしそうな声が響く。女の声。


狐面の男の動きが止まった。



「投擲の軌道に凛がいるなら、話は別じゃ」



声の主が、そのときはじめて目に映る。

狐面の男の背後。


逆さに、女が降った。


目深に被った外套。褐色の手足。それが器用に、銛に巻き付いた、と見えた時には。




―――――何とも言えない音を上げ、小枝のように、それが折れた。




この、声。怪力。にやり、笑った肉厚の唇。

あれは、おそらく。


柘榴。


現実味の薄い光景は、しかしすぐに遮られる。

遮ったのは、広い背中。


大地から、いきなり入道雲が湧きあがったように、現れた巨躯の修験者の。



影介だ。



禿頭を白い頭巾で覆い、くりくりした目に愛嬌のある笑みを浮かべ、名家嫡子二人の襟首を、大きな手で引っ掴んだ。

「きゃぁっ」

永志ともつれるように、千華も抱えられる。






「さて、御曹司方」


無礼を咎められるより早く、落雷のように大きな声で影介は明るく告げた。

「悪夢を見るには早い時間」

強面だが、どうにも憎めない表情で告げ、影介は腹いっぱいに空気を吸い込んだ。

「某、安全な場所へお連れしよう、いざ!」

そのまま、冗談のようにぽぅん、と軽く飛び上がった。


三人を引っ掴んだまま、影介は軽々、木々を越えて見えなくなる。早技。






「面倒事は少ないに限るってね」

久嵐が、清々した、と言わんばかりに言い放った。

見下ろす。目が合った。少年はにかっと笑う。曇りない笑顔だ。光しか知らないような。

けれど。



闇を知るからこそ、なお光は眩しくなるのだ。



そして、久嵐らしい暴言が続いた。

「つくづく狂暴な男と縁があるよな、凛は。旦那を筆頭に」


「久嵐」

すぐ、咎めの声が上がった。私ではない。史郎でもない。第三者の。

そこで初めて、私は気付いた。



久嵐の隣に、帯刀した破れ笠の青年が、影のように寄り添っている。


いつからいたのか、声を出すまで気付かなかった。




「挨拶はあとまわしに」


颯爽とした声音は、―――――清孝だ。彼は、目だけで私に挨拶した。

だが笠の影に隠れて、表情はよく見えない。

久嵐が鼻を鳴らす。ところが、以前のような棘は感じられなかった。ばかりか、



「わかった」



清孝の言葉に素直に従う。以前なら、想像もつかない反応だ。とはいえ。

「なんで、西の二人が」

南方に?




いや、聞いていた。昨夜、誰かが言っていたはずだ。

そうだ、征司が。


―――――西の二人と柘榴殿が先行している。


だが、なぜ?




久嵐は眼だけで振り向き、声を潜めた。









「近々南方で、会合があるんだよ。<祝祭>―――――夏の祭りだ」









私はなんとなく理由を察する。

史郎を見上げた。

「まさか」

史郎は微笑んだ。


「喜べ。今回主席に座るのは」

告げる姿は、隠しきれない喜びに満ちていた。




「西だ」




珍しい。

今ならなんでも許してくれそうなくらいの、上機嫌だ。

<祝祭>の主席に座ること以外は。


いや、そうでなく。


今、簡単に、とんでもないことを告げられた気がする。




<祝祭>が、あるの? こんな状況の、南方で?




向こうの茂みを警戒した姿勢で、清孝が言葉を継いだ。

「だが、無事はじめるためには、障害があってな」

言われずとも理解した。


今、南方は乱れている。




百鬼夜行、盗賊の横行、―――――『髑髏(しゃれこうべ)を抱く男』。




すべてが落ち着かない限り、天地は<祝祭>の呼びかけに応じられないはず。


とはいえ、それらを落着させるのは、相当、難物の課題だ。

「ほんっと、めんどくせー!」

口をへの字にした久嵐が喚く。


「会合の場所が南方に決定したつっても、まずはこの乱れの根源を均さなきゃ、四季の<祝祭>は行えねぇ。まあ、乱れの一番の原因は」


彼は、顎をしゃくった。






「―――――アレが目覚めたことだけどな」






久嵐の目には―――――西王となった彼の目には、いったい何が映っているのか。


彼が見つめるその先。

茂みから、二つの人影が石畳の上へ飛び出してきた。

一方は、狐面の男。もう一人は。


「ははっ」

柘榴が軽く笑う。彼女の形のいい脚が、空中で弧を描いた。

直後、―――――男の頭の上へ踵が落下。

私は知っている。


その踵には、大地すらすり鉢状にへこませる怪力が宿っていることを。それを。


狐面の、男は―――――受けた。

柘榴が、忌々しげに呟く。

「未練、たらしいのぅ…っ」


(…?)

なんだろう、意味深な言葉だ。まるで。




柘榴は、狐面の男を知っているような。




みしり、男の腕が軋む。上体が、わずかに撓んだ。だが。

…こらえた。ばかりか。

「ほ」

柘榴の足首を掴んだ。直後、真横へ放り投げる。


この場合、私たちの方へ。

柘榴は、慌てず騒がず、






「侍」


清孝を、呼んだ。


「心得た」


それだけのやり取りで、何が通じ合ったのか。






ぱんっ、と乾いた破裂音が間近で響く。

二人が手を打ち合わせたのだ。と思った時には。

柘榴の身体の軌道が逸れた。直後。




どおんっ。




巨大な砲弾でも着弾したような音と共に、背後にあった木が―――――折れた。

これは、柘榴が木の幹に着地した音、…そして、結果だ。


私は青くなる。

つまり。



あの男は、柘榴に匹敵する怪力の持ち主というわけだ。



木の幹に着地した柘榴の勢いを受け止めきれなかった樹木が悲鳴を上げ、倒れて行く中、清孝が石畳の上を走った。

彼がいつ抜刀したかは知らない。

気付けば、清孝は狐面の男の眼前にいる。


間髪入れず、刀が振り下ろされた。軌道が目指す先にあるのは。




―――――男が抱えた頭蓋骨。




刃が剥き出しの骨に触れる寸前。

痛いところに触れられたように、男は後ろへ跳んだ。

「ふむ」


単なる腕試しをしてみた、と言いたげな風情で、清孝は冷静に急停止。



追って、攻撃を仕掛ける様子はない。



狐面の男に、逃げる気配がないからだろう。

「あの、方は」

倒れる木の騒音と、拍子に発生した風と土埃に身を竦め、私は呟く。


「童歌の、『髑髏(しゃれこうべ)を抱く男』、ですか」


まんまだ。が。

言葉それ自体に、言葉以上の意味がある気がした。

「そうだ」

史郎が投げやりに肯定する。


「南方の迷宮に封じられていた化け物」

迷宮。また。

「先ほど、嫡子のお二人が」

なんとはなしに、私は言った。



「雪に似た、迷宮の花を摘んで外に出たが、枯れた、と話しておられましたが…」



「はは」

史郎が笑う。だが響きに、楽しさはない。乾いている。






「愚行も過ぎれば災厄だ。そのおこない、紛れもなく誘い火となったぞ」






吐き捨てた。


愚行――――御曹司二人が、迷宮の花を摘んで、外に出たことを言っているのか。



それが、誘い火となって現れた災厄、…というのは、もしかして。



私は、茫洋と突っ立ったままの狐面の男を見遣った。

髑髏(しゃれこうべ)を抱く男』。




だが彼が、いったいどんな…、どれほどの災厄だというのだろう?




「あの花は」

久嵐は考え込むように呟き、史郎を振り返った。

「封印のひとつだろ、災厄となったアレの」


アレ、と久嵐は横着に狐面の男を指差す。


「それを摘み、外へ向かったってか、あの小僧どもは」

久嵐が苛立たしげに舌打ちした。物騒な表情だ。





「動かねえはずの花が動いたんだ」


史郎が淡々と言葉を続けた。


「封印を受けた存在が感知するのは容易く、動いたと知れば好奇心で追うのは道理」





「余計なことしやがって…」

久嵐は厳しく言って、顔をしかめる。


「ずっと封じられてた不吉を、よりによってこの時期に引っ張り出すとはね」


史郎がこともなげに言った。




「因果は巡る」




どういう、ことだろう。

史郎を上目遣いに見上げれば、彼は皮肉げに笑っていた。

「これは揺り返しだ」

久嵐は一瞬、暗い目になる。

構わず、史郎は続けた。


「西の戦のな」



「人間と人外の世は呼応する―――――まさしく」



厳かに呟いたのは、私たちの足元に、獣のような姿勢で着地した柘榴だ。

ふわり、外套がめくれ上がり、額の角が見えた。

真っ赤な双眸が、私を見上げ、微笑む。


「久しいの、凛。相変わらず、眼福じゃ。おこないの潔さもろとも惚れ惚れする」


すぐ視線を転じ、狐面の男を見遣った。

「それに比べ、あの男」

うんざり呟き、柘榴が立ち上がる。


「女々しいのう」

いつも傍観者然として、飄々と構えている彼女にしては、珍しい態度だ。

「ひと思いに滅ぼしてやった方が、視界もすっきりするのじゃが」


「ほう」

史郎の満月色の目が、柘榴を一瞥した。鋭く。



「いいのか?」



まるで、何かを試すような物言いだ。

胸の奥、錘のように沈むものを感じ、私は思わず史郎を見直した。

思わせぶりな言い方だ。

視界の端で、柘榴が不貞腐れる。

声を上げたのは、久嵐だ。


「けどよ」

清孝と対峙したまま微動だにしない狐面の男を見遣り、久嵐は見えにくいものを見るように、目を細めた。



「ありゃ、どうも元は人間だな?」



「ふん、で?」

史郎が顎をしゃくる。

今度は、久嵐は面白そうに呟いた。

「ソイツが、『髑髏(しゃれこうべ)を抱く男』なんて伝承になるまでこの世にしがみついてんだ」

少年は、不敵に笑う。



まるで、むしろ試してみようかと言わんばかりに言葉を続けた。



「もし消滅させられたとしても、もっとでかい災厄に化ける可能性が高い」


「だとして」


柘榴が口を挟んだ。




「滅する他に、いかにしようがあると?」





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