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霊笛  作者: 野中
霊笛・第三部
31/72

第一章(2)

大丈夫だ。

同行している皆、強そうだった…いや、強い。

事実として。


なにより、史郎に敵う者はいない。


いるとしたなら?

ふと、冗談の続きのように思いつく。



―――――本人、自身。



それは、ただの閃き――――なのに一瞬、呼吸が乱れた。

ぐっと唇を引き結ぶ。

いや、勝手に身体に力がこもった。


何かの予感に耐える心地で。


昨夜見た、彼の闇を思い出したせいだろうか。

ばかね。

史郎自身が。


あの、つよいひとが、…自身を持ち崩すことなんて、ない。


確信が、あるのに。

(…なんで?)

わずかの不安が、なかなか消えてくれない。―――――これは。

よくよく感じ取れば、…どうしてだろう。



私の内側から、来ていた。



相反する確信がぶつかり合う感覚に、一瞬、息をつめた時。

(あ、これって)

もしかして、一方は。

―――――真牙、の…心?


これまで考えもしなかったことを思いついた理由は、ともすると。

彼、が原因だろうか。




真牙。


私の祖。




不意に、豆乃丞が頭のてっぺんを頬に擦り寄せた。

私の不安を感じ取ったのだろう。


なんとはなしに、私は豆乃丞の頬の羽毛を指先でくるくる撫でる。

そうしている内に、客室に着いた。


先に部屋へ入った真緒が小さく唸る。




「…こういうときだけ、仕事の早い…」




彼女の背後からなかを覗き込んだ私は、小さく感嘆の声を上げた。

「…すてきです」

部屋の片隅に、白い着物が丁寧に掛けられている。

真緒の言いようからして、きっと綾月の仕事だ。


見事な着物だった。



色とりどりの花が染め抜かれた生地は。


華やか過ぎず。


地味でもなく。



ひたすら可憐。



主体は、藍色の花。


これが、離宮の衣装。

知らなくとも、その品格の高さは本物だ。

できれば。


それに腕を通す、などとは考えたくない。


どちらかと言えば、「まぁきれい」と鑑賞用ですませたい。

ちょっと逃げたい私の前で、真緒は、警戒するように部屋を見渡した。

納得した様子で頷き、中へ入れ、と私に目配せする。

「朝食の膳がまだ届いていないようだな」


着物の前へ移動しながら、私は頭の片隅で考える。

食べるなら、厨房で賄いを頂きたかった。

「先に着替えるか?」

私は黙って頷く。


着替える、という言葉と同時にざっと私の格好を足先まで見下ろした真緒は、感心したように言った。


「下女の着物など、よく手に入ったな」

「幾人かの前任者が置いていったものを保管しているそうです」


「それはむろん、捨てるには惜しいから、納得だが」

真緒は私の顔に目を戻す。

彼女は、気後れするくらい、真っ直ぐに人を見る。


「凛殿は見知らぬ土地で、よくすぐに周囲に馴染めるものだな」


ものはいいようだ。私は首を傾げる。

「馴染むというより、流されているのだと思います」



「ひとは、異端の気配に敏感だ。簡単にものを貸し与えたりはしない。特に、このような場所に勤める者たちは」



そういうものだろうか?

私は炊事場で散った火花を思い出す。


…仲間意識が強いのは確かだろう。


真緒が後ろ手に障子を閉めた。

私は衝立にかけられた着物と帯をそっと取り上げる。

それでも、悩んでしまう。



こんな上等の着物に腕を通していいものだろうか。



おそるおそる振り向く。

真緒はどうした、と首を傾げた。

私は眼を伏せる。

腹をくくるしかない。


私は屏風の後ろに回り込んだ。


すぐさま豆乃丞が肩から舞いあがる。衝立の上に落ち着いた。

帯を解く。するすると着物を足元に滑り落としていった。


合間に、見張りのように障子の傍で正座した真緒の声が、屏風越しに届く。

「聞いてもいいか、凛殿」

私は、少し考えた。


間を置き、返事に距離をつくる。



「…答えられることなら」



気にしない態度で、ああ、と真緒が頷いた。

「答えられないことは言わなくていい。ただ、答えられることがあるなら、教えてくれ」

さっぱりとしているが、どこか温かみのある口調が、直後にがらりと変化する。


「長の態度といい、所作といい、貴女は相当の身分の方とも思うのだが…分からないんだ」


実験材料の価値でも評価しているような口調に、いっとき、背中がひやりとした。

だが、その声に疑惑と言った負の感情はない。

「貴女は要領よく仕事をこなし、下女たちの中に違和感なく立っていた」


それもそのはず、私は、集団生活に慣れている。家事にも。


「かと思えば」

なんとなく悔しげに、真緒は続けた。

「霊力の高い式を無造作に使役している」

私は豆乃丞を見遣る。


高い霊力。



そうなの? と目で尋ねた。すぐ、なに? とつぶらな瞳で見返される。



あ、かわいい。


豆乃丞の霊力の高い低いなんて、たちまちどうでもよくなった。

その合間にも、真緒の言葉は紡がれる。

「なにより、昨夜の現れ方」

袖に腕を通すなり、私は固まった。


「―――――離宮の結界を破れる者が存在するなど、わたしは想像もしなかったぞ」


伊織の膝の上に放り出されたのを見られた――――というより、祓寮らしい特化した感覚で結界の破損を感じ取った、ということだろう。

私は咄嗟に応じた。




「あれは、私ではありません」




着物の前を合わせる。

では誰だと言われては困るが、嘘ではない。

「その口調…」

真緒は苦い声になる。


「やった者のことは知っているのだな」

少し、固い空気の沈黙が落ちた。

「何者だ?」

私が答えに悩む間にも、真緒の追及は止まらない。

「不審があれば、長が放置するとも思えんが」


私はわずかに、唇を噛んだ。


どうも少し、油断している。

ここは、私の家ではない。史郎の、屋敷では。

危険はすぐ隣にある。


というよりも、ここは敵陣の真っただ中と思った方がいい。


真緒とて、人外に敵対する祓寮の人間だ。

うかうかとすべてを素直に話せるわけがない。


真っ直ぐな真緒の質問を、悪いと思いつつ迂回する。


「伊織さま…、伊織、からは、―――――何も聞いていないのですか?」

「あの方は一から十まで話すようなひとではないからな」

その通りだ。



かえって、どこまで話しているのか、…どこまで話していいのか、の加減は、私次第と言われている気になる。



正直には何も話せない―――――では、どのあたりが無難か。

「結界破りの件は、よくわかりません」

考えながら、私は言葉を紡ぐ。


これは嘘ではない。


火滝のことをよく知らないのは事実だ。

そして、彼がどのように結界に穴を開けたのかもわからない。



無論、その答えが真緒の質問の意図からズレているのは承知だ。



その罪滅ぼし、というわけでもないが、私の事情も話しておく必要を感じた。

それすら、すべて、とはいかないが。



「私は人を追って、南方までやってきました」



緊張に追われる気分で、着替えの手を速める。

ただし、冷静に。

着物の布地の感触は最高だ。

だが、あまり味わえない。


「ですが、見知らぬ土地で往生してしまって」


実際、あのまま外へ放り出されたら、苦労したに違いない。

「その折、御幸の話を聞き、おそらくは祓寮・太刀式も動いているのでは、と…顔見知りである伊織さまを頼ってこちらへ参りました」

強引な話ではあるが、不自然ではない。きっと。


この程度の創作は許されるだろう。



無礼千万の訪問方法、かつ、時間であったことには、目をつむってほしい。



「そう言えばその肌…、北方出身か」

真緒が、どこまで信じたかは分からない。

とはいえ、伊織が見せる客人扱いの態度が大きいのだろう。


「ならば南方の日差しはきついだろうな」

すぐ話を変えてきたところを見ると、真緒は私の存在を怪しんでいるというより、単純な好奇心からの質問だったようだ。

逆を言えば。



現在の私の状況は、伊織の態度次第でどうにでも変わってしまうということだ。



私は小さく息を吐く。


身の上を、誰に憚るつもりもないが、正直に話せない状況が後ろ暗い。

ゆえに、相手の言葉に感じなくてもいい過剰な疑念を感じてしまう。

「日よけになるもの――――被衣か市女笠…もしくは傘を用意しよう」


案じる態度で、真緒はそう言ってくれた。

とはいえ、親切を受け取っても、甘え過ぎてはいけない。


―――――冷静に見極め、対応しなくては。


気を引き締めるように帯をしめた。

私は真緒の気遣いに、感謝を口にする。

「お気づかい、ありがとうございます」


正直なところ、南方の環境と言うのがどの程度か、私には想像しかねていた。

噂では、よく聞いていたのだが、人の話と現実は違う。


さて、色々悩んでも疲れるだけだ。


今は、初めての土地を素直に楽しむとしよう。

思い直し、懐の内に豊音をおさめた。

豆乃丞を呼ぼうと顔を上げた刹那、




―――――ピィッ




びっくりしたような鳴き声と共に、豆乃丞がお尻を跳ね上げた。


寸前まで尾羽があった箇所に、小さな手が見える。

尾羽を引っ張ろうとしていたらしい手が、拳を握りしめた。


驚愕と共に、豆乃丞が舞いあがる。



衝立が倒れた。



手を伸ばしていた相手が、それを見下ろす。

子供だ。




中性的な顔立ち。だが、雰囲気は、しっかりと、少年だ。


十歳くらいの身体に、黒い僧服をまとっている。右の手首には、白い数珠が巻かれていた。

童子らしいふっくらした顔立ちと、自らを律するような僧侶の漆黒は、不似合いなようで妙な均衡を取っている。


感情が乏しい、と言うよりも、夢見心地の少年の双眸が、戸惑う私を見上げた。




「丸い緑…お姉ちゃんの?」


丸い緑―――――あ、豆乃丞のことか。


連想は簡単だ。

が、私は他のことに気を取られた。


この子、人間だろうか?


人間…に感じられるが、なにやら違和感がある。

それを反射的に見定めようとした刹那、



「朔っ!?」



真緒が驚きの声を上げた。


豆乃丞が、彼女の真横を掠める。

這う這うの体で、障子の隙間から飛びだした。


「いつの間に…っ」

開いた障子に今はじめて気付いた態で、真緒が唸る。

弾かれたように立ち上がり、障子を乱暴に押し開いた。


もう豆乃丞の姿は見えない。


ただ。

私にとってそれは、慌てる事態ではなかった。

豆乃丞は、突然の出来事に対する耐性がない。

屋敷にいた時から、こうしてよく姿を消した。

慣れている。


屏風の後ろからおっとり出ていく合間に、真緒は豆乃丞が飛び出していく原因となった子供をキツい眼で振り返った。


「朔! お前は志貴さまの護衛についていたんじゃないのかっ」

厳しい物言いだ。同時に。

真緒の台詞に、私は内心、驚いた。

護衛? この少年が、誰かの?


…十歳の子供にしか見えないが、真緒に気付かれず部屋に入ったことといい、何者だろう。



―――――まさか、この幼さで、祓寮の一員なのだろうか。



だとしたら、祓寮とはますます得体が知れない。

少年は臆さず、表情に乏しい顔を彼女に向けた。



「志貴さまは今お休み中」


「嘘つけ、おやすみって、真面目なあの方がこの時間まで朝寝か? そんなわけが…」


志貴さま。

彼等の会話から、身分のある方なのだろう。

ならば、私とは縁がない人物に違いない。


結論するなり、



「いやいやーどうも、そうらしい」



部屋の中に花束が突っ込まれた…ではなく、綾月が顔を覗かせた。

私の姿を目に映す。

とたん、照れた態度で破顔した。

「想像以上にいいって、嬉しい裏切られ方だ」


私は落ち着けない。


だが、…どうしてだろう。

この着物、肌にしっくりくる。

上等のものほど、ひとを選ばない、ということだろうか。


応じ方に悩んだ私を尻目に、真緒が、警戒心の強い猫のような所作で、綾月の前に立ち塞がった。



「遠慮もなく女性の部屋に入ってくるな、ばかもの」



まず一喝するのは、彼女のくせだろうか。

すぐ気を取り直した態度で、「それで?」綾月を見上げる。


「常にきちんとなさっている志貴さまが、一体どうしたというんだ」

綾月は朔を一瞥した。

笑顔で手招く。




「どうも、昨夜、夜彦と同行したらしいよ」




絶句した真緒の隣をすり抜け、綾月に近寄りながら朔が呟いた。


「僕はおいてけぼり」

真緒が一度、大きく息を吸う。頭を押さえ、吐きだした。胸の奥の何かごと。

「…なんと無茶な」


「真緒」

綾月の両手で頭を撫でまわされている朔が、外を指差した。

夢見心地のおっとりした眼差しが青空を映す。


「鳥。いいの」


申し訳なさそうに、真緒が私を見た。

私は首を横に振る。

屋敷なら、これだけで、放っておいて構わない、と伝わる。


が、ここは外だ。言葉にして伝えなくてはならない。

とはいえ、一から理由を説明すると長くなる。


見てくれがかわいい小鳥とはいえ、甘やかしてはだめだ、とか、冒険も必要だ、とか。


色々言葉は浮かんだが、簡潔に、結論だけ言った。




「そのうち、戻ってきます」


「式なら、そうだろうが…」

真緒は厳しいが、小動物には弱いようだ。




「探しに行くべきではないか」


真緒の深刻そうな提案に、綾月が部屋を見渡す。

最後に、私に視線を止めた。


「なに、緑のこびんちょ逃げちゃったのか」

頷けば、綾月は軽く応じる。

「うんうん、なら早く探しに行こうか。オレらの調査のついでにさ」


まるで調査の方がついで、と言わんばかりの語調だと感じるのは気のせいだろう。


ひょいと朔の首根っこを引っ掴む。

綾月の片手にぶらり、ぶら下がる十歳児。暴挙だ。


ただしなぜか、子供は無抵抗。


真緒の横をすり抜け、私に近づく綾月が、自身の背中に手を回した。

と思った時には。


「外に出るなら、市女笠被ってた方がいいな。日焼けに弱そうな肌だし」


薄衣が、ふぅわりと顔の左右を覆う。

気付けば、ぽんと傘が頭に置かれていた。

どこにあったのだろう。

手品みたいに出てきた。


「そうと決まれば」

決まれば、と言っても、誰も返事をしていない。

なのに、綾月は、決定事項のように断言。


「すぐ出立しよう、そうしよう」


綾月は入って来たとき同様、音もなく廊下まで出て行き、私を手招く。

なんにせよ、同行の指示は出ているのだ。


私は慌てて彼の後を追った。

綾月は、どんどん進む。

誰かに捕まるのを恐れる勢いだ。

後ろに続いた真緒が、綾月に落ち着き払った声をかける。

「待て。朝食もまだなんだぞ」


「だからだよ!」


綾月は明るい声で、意味の読めない応じ方をした。

気合いを込めるように、握り拳を天へ突き上げる。

「決まってるだろ、オレは買い食いしたいの。市が毎日オレを呼んでるのに、毎日離宮詰めってどんな拷問」

「お前…それを狙っていたな?」


「仕事は楽しんでするものだろ」

無駄なくらい真面目な綾月の物言いに、首根っこを掴まれたままの朔が首を傾げた。

真緒は仕方がないとばかりに頭を横に振る。

「仕方ない…凛殿、申し訳ないが、しばらくお付き合い願いたい」

もとよりそのつもりだ。


頷いた私は、真緒と共に綾月の後に続いた。

「ところで、」

真緒は、人形のように大人しい、綾月の片手にぶら下げられた朔を見下ろす。

同時に見下ろした私は、ふと疑問を覚える。

この扱いは、いいのだろうか。


「朔まで連れていく必要はないだろう」

「何言ってんだ。朔は御幸に従った祓寮・術式の中では最強」

綾月は胸を張った。

「暇させとくなんて才能の無駄遣いってもんだ」



術式。



やはりこの少年は、祓寮の者らしい。

よくよく見れば、衣の肩口に、鴉の根付がぶら下がっている。

「要するに」

真緒が半眼になった。




「…自分の仕事を助けてもらおう、と」


「そんな言い方もあるな」




綾月は悪びれない。

「いい大人が子供に助けを求めるとは何事だ」

侮蔑し切った真緒の眼差しの鋭さを、綾月はするりとかわす。

「ほらほら、何事も経験させなきゃ」


「あまつさえ恩を売る気か。いい根性だ」

大人げない年長者のやりとりを、持ち運ばれる朔はどう聞いているのか。

結局のところ、彼等は仲がいいのだろう。



二人の賑やかなやり取りを聞いているうちに、行く先に巨大な門が見えてきた。



ただ。

そこから、門まで辿りつくまでの長さは、頭上で輝く太陽の位置が変わったと目ではっきり認識できるくらいの長さだった。

その間に、まず、北方とは日差しが違うことに気付く。

光と影が、濃い。


そして、風。

あっさりと乾いているのだが、強い熱を孕んでいる。


たまに、息が苦しくなるのはそのせいだ。


北方で時折耳にしていた南方の話を思い出す。

本当に、すべてがやたら眩しい。



なにより、太陽の、この存在感と言ったら。



北方に比べれば、大気の目が粗い、と言うのか、雑然とした空気の中に、色鮮やかに咲き誇る大輪の花々。

そして。




頭上から降り落ちる、猛烈な蝉しぐれ。


近くの人の声も聴こえなくなる大音響は、全身を叩くようだ。痛い。




なんにせよ、全体的に、おおらかさを感じる。

何かに似ている。

思うなり、私の頭の片隅を過ぎったのは、


(…柘榴)


褐色の肌の友人の姿だ。




おおらかなようでいて、秘密の傷を抱えているような神秘的な空気は、私に柘榴を思わせた。




陽が高くなるにつれ、暑さが本格的になってくる。


その頃になって、どうにか門まで辿りついた。

ただし、開けるのに時間がかかりそうな巨大な正門を潜ったわけではない。


その隣に配置された小さな勝手口を通り、私たちは離宮を後にした。

賑やかな言い合いを続けながら、真緒が私を振り向く。




「南方の添石の領地には大通りが五つある」




言って、右の掌を広げた。五。

手を伸ばした朔がその親指を握り、私を見上げる。


「ここは真珠通り」

私たちは、賑やかで広い大通りを歩いていた。

見渡す限り、人、人、人。

それから、多くの品物。


これほどの数を一度に目にした経験は、私にはない。人も、物も。



圧倒される。



握られた手を遊ぶように軽く振り、

「港が一番近い通りだ」

真緒が事務的に説明した。

綾月が面白がるような声で付け加える。


「昨夜、ここに百鬼夜行とも盗賊とも取れる集団が得体の知れない音と共に移動したそうだ」


私は眼を瞬かせた。

さり気ない言葉だったが、もしかすると、これは本題だろうか。


私の視線に、肯定するように真緒が頷いた。



「綾月が長に命じられたのは、その情報収集だ。できれば、ある程度の調査まで終わらせたいところだな」



人が絶え間なく行き交う通りをはるかに見遣り、真緒はふと私に眼を戻した。

「人捜しに来たという凛殿の望むようには動けないが、土地勘を養う一助にはなれると思う」

私は一瞬、面食らう。

何の話?


思うなり、ああ、と頷いた。

先ほどの作り話の続きだ。

確信する。




やはり私は、嘘は苦手だ。




ひとまず、礼を口にした。

「感謝します」


「人捜し? これが終わったら、オレ、協力しよっか」

「いえ、お手間を取らせるわけには」

まさか祓寮の人間に、人外を捜してくれと言えるわけがない。


そう? といいながら、真緒の隣で綾月は目の上に手で庇をつくった。


ぐるりと周囲を見渡す―――――すぐ、一方向に視線を固定。

「あっちに青海通りがあるんだけどね」

西の方角を楽しげに指差した。


「騒ぎはそっちから」

真緒から手を放した朔が、抑揚のない声で続ける。


「こっちに移動してきたって話」

綾月にぶら下げられながら、朔に動じた様子はない。

怠惰な猫のように、大きな目は半分閉じられていた。


自分で歩かなくて済むから、ちょっと楽チン、とか思っていそうだ。


真緒が声を潜める。

「青海通りでは数日前、…取締一家が皆殺しになっている」

皆殺し。


その物騒な言葉は確か、下女たちも口にしていた。

不吉な話題には、あまり触れたくない。



どうせそのことも調査するのだろうから、今、根掘り葉掘り聞くことでもないだろう。



とはいえ。

軽く調査、と言ったが、そんな、世間を騒がす物騒な話に関わるのなら、極秘任務とも言えることではないだろうか。

そこに同行させられたということは。


…それなりの協力を期待されていると察するべきなのだろうか。


話題を逸らしたくて、私は別のことを尋ねた。

「取締一家、ですか。どういった立場の方々なのですか」

市女笠の両脇に垂らした薄衣を通して綾月を見上げる。


彼は寸前の言葉が産んだ暗さを払拭するように、明るい声で言った。

「んー、そうだな。この通りもそうだけど、辺り一帯、市が立ち並んでるだろ?」

綾月は、自分の手柄のように、見て見て、と周囲を指し示す。


荷物のようにぶら下げていた朔をようやく胸に抱きあげ、その腕を取り、人形を操るように、それぞれの露店を指差した。



「商人たちは個性が強いからな、これだけ集まればモメ事が起こるのは必然だ」



言った真緒に、私は頷く。

何も起こらない方が不自然。


だがここは、…私が何も知らないせいだろうか?

和気あいあいとして見える。

目を覚ましたように瞬きし、朔が淡々と呟いた。




「だから、商人たちのまとめ役がいる」


「それが取締役ってわけ。通りごとに一人指名される」




なるほど。

既に、組織系統が出来上がっているというわけだ。

無用な争いを避けるためにね、と綾月が付け加えたところで、






「話が違う」






厳しい声が、通りの右手から飛んだ。


大通りの横幅は広い。

なのに、私のところまでその声は届いた。


寸前に、人々のざわめきが消えたからだ。


南方の強い太陽の下、不自然な沈黙が周囲をしめる。

そちらを見遣れば、―――――輿が見えた。


白と銀の骨組みに、赤い布が垂れている。中は見えない。華奢な造りだ。



乗っているのは女性と伺わせる。



屈強そうな奴隷に担がれ、周囲を侍が固めていた。

身分の高い相手が乗っているのは一目で分かる。

声が聴こえたのは、そこからも少し離れた、商人たちが出店を構えた一角だ。


「そちらの記憶違いでしょう」

冷静な声が応じる。


「我々は、そのようなものを発注した覚えはありません」


人波の間から見えたのは、二人の侍に囲まれた、紺色の着物の少女だ。

「あの着物」

綾月が押し殺した声で呟く。


「添石の侍女だな。…厄介な状況だ」


周りを見れば、全員が、綾月と似た表情をしていた。

一切構った様子がなかったのは、その下女の前に立つ少女だけだ。



「言い逃れするんじゃないわよ」



声だけでも、輝くような生命力を放つ少女だった。

姿もそうだ。

地味な格好をしているが、におい立つような華がある。


怒りはあっても、嫌味はなく、溌剌としていた。




南方でよく見る、癖のある赤い髪。


目鼻立ちのはっきりした顔立ち。


癖のある髪を高い位置で束ね、輝くような大きな瞳で侍女を睨んでいる。




「あんたたちが商品を発注する声は、この辺り一帯の複数の人間が耳にしてる。それを知らないってのはどうかしら」

南方の陽光の強さのような熱を感じる彼女に対し、侍女の方は冷たい水のようにさめていた。

切れ長の瞳は妖艶だ。視線は礼儀正しく少女に向けられていた。


が、意識の中ではとっくに話を終わらせている突き放した印象が強い。



取りつく島もなかった。



「存じ上げません」

態度こそ丁寧なものの、端から相手にしていない口調だ。

―――――それは、交渉の無力さを、聞いているものに徹底的に思い知らせる。

けれど相手の少女は諦めない。


「勘違いしないでよ? あたしはあんたたちのために言ってるんだ」


怒りに我を失った様子はなく、少女は根気よく言葉を紡ぐ。

「あんたたちは信頼を失う瀬戸際にいる。ここで断れば、誰もあんたたちの言葉を信じなくなるわよ」

侍女は何も言わない。


相手の少女が口を噤んだ。



しばらく間を置いて、





「…仰りたいことは、もうございませんか?」





切り口上で告げた。


文句に一通り付き合ってやっただけ―――――そう言わんばかりの態度に、

「こっの…」




「いいんだ、蛍ちゃん!」




彼女たちの足元で、呆然としていた大柄な青年が慌てて叫んだ。


どういう経緯でそうなったのか。

彼は路上に散らばっていた大量の小物を風呂敷にかき集め出した。


愛想笑いで少女たちを見上げる。



「お、おれが勘違いしたんだ。それだけだ」



彼は気弱な笑顔で、蛍という少女を押しとどめようとしていた。

その手元に、私はつい、注目してしまう。


簪や紅入れといった女性用の小物が幾種類もあった。


とりわけ私の目を引いたのは、

(…櫛…)

しかも、精緻な彫が施されており、なかなか可愛らしい。


私はふと、懐を押さえた。

さっき伊織からもらったお給金がそこに入っている。

南方にいつまで留まるかは予測できないが、できれば自分のものをもっていたい。


いつまでも人さまの櫛を借りるのは申し訳なかった。


「そんなわけが、」

蛍がさらに言い募ろうとした刹那、






「―――――なんの騒ぎです」






特徴的な嗄れた声が、物柔かに響いた。


印象は、ひどく穏やか―――――にも関わらず、さらに周囲の静寂を深めるような、無視できない声だ。


私は眼を見張った。




その声に、聞き覚えがあったからだ。




視界の中、涼しい風が横切るように、そのひとは現れた。

きれいに撫でつけた漆黒の髪。


絣の柄のきものを身につけ、藍の布地に白く藤の花を染め抜いた羽織りを無造作に肩に引っかけている。



働き盛りの壮年の男―――――その『年齢』の彼を見るのは初めてだったが、間違いない。








(玄丸)








先だって、西であった騒動に私を巻き込んだ、人外の商人。


と言うのに、

「…取締役…」

玄丸を目に映した蛍が呟く声に、私は内心、唖然となる。




ここは、ヒトの領域だ。


取締役というのは、人外でも務まるものなのだろうか?




知らず知らず、私は足を止めていた。

真緒たちと共に、息を潜めて成り行きを見守る。




「これは、奈美さま。それに…」


侍女に対し、眼で黙礼し、玄丸はかさとも音を立てない輿の方を見遣る。






「―――――千華姫さま」






玄丸は、丁寧に頭を下げた。

「お引き留めしてしまったようで、申し訳ございません」

どこまで状況を理解しているのか。

いや、玄丸のことだ。


ほとんど、お見通しだろう。


その上で、このように行動した。




つまり―――――これが彼の結論と言うことだ。




「まったく」

奈美と呼ばれた侍女は、迷惑気にため息をひとつ落とした。

見下すことすら面倒といった視線に、蛍が大きく息を吸う。


何か言おうとした。刹那。



その気配は、すぐ萎む。



玄丸がさりげなく、彼女の前に立ったからだ。

「取るに足らぬことでこの騒ぎ。取締役の責任も重大ですね」

「心得ております」


「あら、では」


奈美が、後ろ手になんらかの合図をしたのが、私には見えた。

「無駄にされた時間という対価、」

たちまち、侍の一人が動く。





「命で贖って頂けます?」





ひどく軽い口調。

続く、抜刀の音。

陽光の下、刃の白光が弧を描いた。




あまりの無法は現実味がないのだと、私は白昼夢のような光景を、一瞬冗談と感じる。




いや。現実だ。

放置していれば、間違いなく玄丸の首は飛んだだろう。しかし。






―――――ィン!






鋼がぶつかり合う音が南方の蒼穹に跳ね上がった。


「おぉっと、あぶねえなぁ」

侍の刀を受け止めたのは、―――――槍。

重そうなそれを、軽々と操ってのけた、突如降ってわいたようなその姿に、私は眼を瞬かせる。




「滑って転んだか? いいねぇ、事故は大歓迎だ。遠慮なく殺せる」




ひどく痩せた姿。


飢えた獣じみたぎらぎら輝く狂暴な双眸。

限界まで絞られた肉体は、鞭のようにしなやかで、いつどのように動くか、読めない。


こんな人を、私は一人しか知らない。








虎一だ。



少し前、西方にいた祓い屋の彼が、どうしていま南方にいるのか。








しかも、虎一が庇うようにしている玄丸は、彼が毛嫌いしている人外だ。

あり得ない。


さらに現実味が遠のく。だが。

そうまで思って、直感した。


まず間違いなく、玄丸は自身が人外だと公にはしていない。




「引きなさい、虎一」




先刻からひとつも動じた様子のない玄丸が、微笑みながら告げる。

「市で殺し合いは御法度です」


「暗がりならいいってか?」

揶揄する物言いながら、虎一が槍を引くと同時に、侍も刀を引いた。

「我々は」

もう、退屈を隠そうともしない態度で奈美が告げる。

「青海通りに向かいます。それを邪魔するおつもりですか」


「滅相もない」

どうぞ、と玄丸は礼儀正しく道を開いた。

奈美は玄丸を一瞥する。

すぐ、眼を伏せた。


「…つまらない男…」


吐き捨て、輿を先導するように歩き出す。

玄丸に従い、蛍はしぶしぶ脇へ退いた。


落ちていた品物をすべて風呂敷に詰め終えた青年も道の端で縮こまる。

見送るほとんどの目が否定的な中、玄丸の横顔は涼しげだ。


緊張が抜けたか、一人、また一人、と足を止めていた人々が動き出す。


もう、いいだろうか。

私は人波をかき分け、玄丸に向かって歩を進めた。


隣に並んだ虎一に気後れはしたが、どうにかなるだろう。

気付いた真緒と綾月が、戸惑った様子でついてくる。


「凛殿?」

「え、凛ちゃん?」

私の姿と言うより、二人の声に反応したのだろう。




玄丸が、振り向いた。




とたん。

刃を向けられて、ひとつも動じなかった表情にはじめて、驚愕のさざ波が走る。

次いで、






「…奥方さまっ?」


え。






玄丸の思わぬ呼びかけに、私は一瞬、周囲を見渡す。

誰に対するものか、分からなかったからだ。

だが、間違いない。

玄丸の目は、私を映している。




おくがたさま。


…はじめてよばれた。




思わず棒立ちになる。


立ち止まった私に、玄丸は足早に近づいてきた。

驚愕は既にその表情から消えている。


去ろうとしていた周囲の者たちが、玄丸の態度に、何事かと足を止めた。




「なぜ貴女さまがこのような場所に…ああ、いえ」




一瞬、何か言い淀んだ玄丸は、状況を察した表情で、ひとつ頷いた。


いつもの、何を考えているか読めない微笑を浮かべる。

私の一歩手前で立ち止まった。






そして、なんと――――――跪く。


折り目正しく、頭を垂れた。






感心するほど、板についた所作だ。ただし。


彼の場合、心臓に悪い。私は思わず胸を押さえた。

「お久しぶりでございます。その節は、ご迷惑をおかけしました。改めて、謝罪を」

「そんな」

玄丸の言動は流麗だ。


対して私は、腰が引けた状態で応じるのが精いっぱいだ。



「私は、何も。何も、できず…心苦しく思います」




「いいえ、奥方さまがいらっしゃらなければ、わたくしは悔いるばかりだったでしょう」




八重のことを言っているにしても、私はたいしたことはしていない。

何もできなかった。


少し、息苦しくなる。


わずかに息を吐き、私はゆっくりと言葉を紡いだ。

「…玄丸殿がお元気でしたら、私にそれ以上の望みはございません」

話すのに、市女笠を被ったままなのは失礼だろう。


思った私は、おそるおそる笠を取った。


陽光の元に顔を晒す。




―――――どういうわけか、周囲がいきなり静かになった気がする。




玄丸の行動のせいだろう。


なにより、この地で彼はそれなりに立場のある存在のようだし。

それとも、綾月のように目立つ男がいるせいか。


居たたまれず、次の行動をとりかねたそのとき。




「日焼けするぞ、凛殿」




横から手を伸ばした真緒が、私の頭に笠を置き直す。

見れば、真緒の視線は私越しに別の方向に向いていた。

同じ方に眼をやれば、―――――先ほどの輿がまだそこにある。


侍女の奈美が、何の感情も伺わせない視線を、私に向けていた。

それを遮るように、


「なになに、凛ちゃん人妻だったんだ?」

綾月が明るく割りこむ。そのまま、冗談めかした言葉を続けた。

「うわー、旦那は罪深いな、何人が泣いたんだろ」


同時に、



「お、まえら…っ」



視界の隅でいっとき、呆気に取られていた虎一が、ずかずか大股に近づいてきた。

「その女が何か知ってんだろうな! よりによってお前らは」

怒鳴ろうとした顔面に、いつ立ち上がったか、玄丸の裏拳が埋まったのは、直後のことだ。

鼻を押さえて呻いた虎一に、玄丸はにこりと一言。




「わたくしの話がまだ終わっていません」




真緒が冷めた視線を、虎一に向ける。

綾月は肩を竦めた。


この様子だと、どうやら虎一は彼等とも顔見知りらしい。



玄丸は、彼等の職業と私の身の上まで大声でまくし立てかねない虎一を止めてくれたというわけだろうが。



―――――意外と、彼は乱暴だ。


壮年の玄丸は中肉中背―――――老人や少年のときのように、小柄さは感じない。

ちょっと気の毒な扱いの虎一を、何も考えていないような表情で、綾月に抱っこされていた朔が見上げる。

直後、彼は綾月の腕を蹴った。


体重を感じさせない動きで、虎一の肩に飛び乗る。

肩車の格好になったかと思いきや、



「どうどう」



虎一の頭を撫でつつ、そんなことを言った。

顔を押さえていた虎一のこめかみに青筋が立つ。


とはいえ、子供相手には、がなることもできないらしい。


虎一の、明らかな忍耐を無視して、玄丸は私の顔を覗き込んだ。





「状況はお察しいたします」





察している―――――その言葉一つが、なんだか底知れない。

私は上目遣いに玄丸を見上げた。


彼の微笑は完璧に見える。


玄丸は、まるで私を安心させるように、自身の胸を押さえて言った。

「わたくしに協力できることはございますか?」

隣で、真緒が息を呑む。

何を感じたか、鼻白み、玄丸を睨んだ。



「商人がタダで動くわけがない。特に玄丸殿はな。何を企んでおいでだ」



どうやら玄丸は、祓寮とも昵懇らしい。

警戒という距離があるものの、相手に対するある程度の正しい理解を、双方に感じた。

真緒の言葉に私も同感だ。とはいえ、


「なら」

私は顔を巡らせた。


今、私が望むことは、おそらく、たいした借りにはなるまい。

どころか、もしかすると、少し役に立てるかもしれない。


目的の相手は、すぐ見つかった。


少し離れた場所に、先ほどの青年の大きな背中が見える。

大柄な体を隠すように縮め、しょんぼりと肩を落としていた。


蛍に慰められながら去ろうとしている彼を横目に、私は告げる。







「あの方の櫛を買いたいのですが」







がばりと青年が身体ごと振り返った。


小動物めいたつぶらな瞳が、ぱちぱち瞬く。

無言で私を凝視する彼に代わって、蛍が身を乗り出した。


嬉しそうに声を弾ませる。



「ほんとうっ!?」



嘘をついたところでなにもならない。

玄丸に声をかけたのは、彼の商品を見たかったためだ。


なにせ、顔見知りでもない彼に、直接声をかけることは憚られた。

だが、玄丸ならば、私の知り合いだ。

取締役であるなら、この青年とも昵懇だろう。

懸け橋になってもらえたらありがたい。


そんな思惑がなければ、私は何も言わず、通り過ぎた。


正直言えば、私は自分のお金を持ったことがない。

宗家でいた頃も、おつかいなら行ったことはあるが、自分のお金で自分のものを買った経験はなかった。


だが幸い、ある程度のものの価値は分かる。


青年が持つ品が、相当よいものであることも。となれば。



値段も相応のはず。



私はなんとなく小さくなる。

「…その、私の手持ちで足りるなら、ですが。せめて、見るだけでも」

無理なら買わない。申し訳ないが。


消極的な言葉に、それでも蛍は笑った。

大輪の花が咲くような笑顔。


惚れ惚れする。

「構わないわ、ぜひ見ていって!」



通りを見渡し、なぜか勝ち誇ったように彼女は鼻を鳴らした。



すぐ、隣の青年の背中を叩く。

彼は慌てて茣蓙を広げた。


その上に風呂敷を伸ばし、商品を並べて行く。

私は思わず感嘆の声を上げた。

「…きれい…」


「でしょう?」

蛍が自身のことのように、自慢げに胸を張った。

「こいつの家は代々続く職人の家系だからね、中途半端はしないわ」


大柄な青年のまるまっちい指先が、大切そうに品物を並べていく。


なんとなく、その品物と指の雰囲気が似通っていることに気付いた。

洗練されているのに、どこかあたたかい雰囲気がある。


横から覗き込んだ真緒がごく自然な声で呟く。

「ああ、いいな、その手鏡」

「そこの髪止めもなかなか」



綾月も参加すると、いっきに賑やかになった。



通りがかるひとたちも、ちらちらと品物を見ていく。

すぐにも決めて退かないと、後ろで立って覗き込み、順番を待っている人も出てきたようだ。


見ていれば、どうにか、櫛がひとつ買えそうだった。


最初眼が止まったものとは違ったが、ちいさくてとてもかわいい。

どちらかと言えば飾り櫛だが、しばらくの間くらいは役に立ってくれるだろう。


気に入ったそれを願えば、丁寧に包んで手渡してくれる。


両手で受け取り、礼を言った。

「ありがとう」

青年は、無言で小さく頷く。

真緒と綾月も何か請うたようだ。


私たちが立ち上がれば、待っていた者がさっそくとばかりに店の前に座る。


周りを見渡せば、少し離れた場所で玄丸たちが立っていた。

虎一に肩車された朔が手を振ってくれる。

当の虎一は舌打ちし、そっぽを向いた。

玄丸はにこりと微笑む。


どうやら、待っていてくれたようだ。


悠然と私の方へ歩いてきながら、賑わいだした通りを一瞥した。

玄丸は、彼特有の、嗄れた声で静かに告げる。



「感謝します」



何に?

私は首を傾げた。

玄丸は穏やかな表情で続ける。

「これで彼にも自信がつくことでしょう。腕はいいのですが、少し気弱で」


「いっやいやー玄丸さぁん?」

綾月が、私の横から身を乗り出した。

なんだか、待ち構えていたような態度だ。

「だけじゃないだろ? 凛ちゃんのおかげで通りの雰囲気変わったしぃ」

それは私も感じていた。

だが、何も、私のおかげというわけではないだろう。


困った私が口を開くのを、真緒が鋭く制した。



「黙って」



え?


綾月は、滔々と言葉を続ける。

「彼の品物はそりゃいいものだけど、凛ちゃんが興味を示したから、周りの注目も集めることができたわけだよね」

玄丸はただ微笑む。

分かっていますよ、と言いたげ。


「むろん、感謝は形で表します」

私は眼を瞬かせた。

これはまさか。

壮年の玄丸は、しずかに、だが力強く告げた。




「わたくしは商人なのですから」




綾月が手を叩く。

「そう来なくっちゃ」

あ、これ―――――取引だ。


綾月たち祓寮が玄丸に何を望むのか、私にはすぐに読めなかったが、うろたえてしまう。


まさか、何の気なしの自分の行動がそういう材料になるとは想像もしていなかった。

綾月を責めるつもりはないが、

「待ってください。私はなにも」


納得いかない。

思わず声を上げると同時に、




「あ、ちょっと、あなた、…凛さん、だっけっ?」




いきなり横から声が飛んで、袖を掴まれた。

驚いて、顔を上げる。

目を覗き込んできたのは、―――――蛍だ。

「よかった、まだいた」


快活な少女は、満面の笑みを浮かべる。眩しい。

「あたしは蛍」

はきはきと名乗り、彼女は勢いよく頭を下げた。


「アイツを引きとめて、品を見てってくれて、ありがと。それでね」


すぐ、顔を上げる。

あの、きらきらした強い目に、私が映っていた。



「買ってくれたのは、アイツの品を『いい』って思ってくれたってことだよね」



怖いくらい真摯な表情に、私は戸惑いつつ頷く。

「なら、失礼ついでに協力してほしい。…構わない?」

蛍はぐいぐい身を寄せてきた。


思わず私は一歩下がる。

「構いません、が」


「ほんとにっ?」

「ですが、協力と言っても、何の、」

しどろもどろの私に、蛍は迷わず言い切った。




「アイツの品を宣伝してほしいの」




思わぬ言葉だ。

宣伝って、どうやって?

面食らう私の前で、蛍は言い募った。



「千華姫より、あなたが買い手についた方がいい宣伝になる。アイツのためにも絶対いい」



視界の端で、虎一が両手で耳を塞いだ。

うるさい、と言いたげだ。

肩車の朔は、相変わらず夢見心地の双眸で、無感動に私たちを見下ろしている。


あてつけがましい虎一の動作にも気付いた様子もなく、一度蛍は私から離れた。


ざっと私の姿を上から下まで一瞥し、頷く。

「じゃ、この無粋な笠とって」



あ、と真緒が非難の声を上げた。



蛍は構わず市女笠を私の頭から奪い取る。

当然のように綾月へ押しつけた。


返す手で、先ほど買ったばかりの櫛を取りあげる。




袋から遠慮なく中身を取り出し――――――後ろで軽く結わえた私の髪に、そのちいさな櫛を差し込んだ。




「…よし! この状態で市を好きに散策してきて」


満足げな蛍に、

「よし、ではない」

私の後ろにいた真緒が眉を潜める。


「それはあまりに無礼だろう。客に商売に協力しろと言うのか」


見返す蛍の目は、しかしどこまでも真剣だ。

「そうだね。ごめん。でもさ」

凛に眼を戻し、蛍は拝むように両手を合わせた。


「お願い。あいつ、腕はいいのに、性格のせいか、いつもぱっとしなくって。どうにかしてあげたいし、こんなことで潰したくないの」


「それはそちらの都合だ」

真緒は譲らない。

「それに凛殿は北方生まれの北方育ち。南方の日差しは彼女にとって害に―――――」



「ならば、こうしましょう」



嗄れた声がやさしく響き、遮るものが何もなくなった私の上に、影がかかる。

見上げれば、玄丸が傘をさしかけてくれていた。

「…あなた方ならば、日よけの結界を張ることも可能でしょう?」


真緒に対し、ひそりと玄丸が言葉を付け加えれば、



「いいねえ!」



綾月が、預かっていた市女笠を虎一に肩車されている朔の頭に乗せ、

「凛ちゃんみたいな目の保養、笠で隠すなんてもったいないよ」


玄丸の手から傘の柄を預かった。


「しかし―――――」

それでもなお言い募ろうとした真緒は、

「宣伝のお礼に、あなた方の欲しい情報も差し上げましょう」


玄丸の提案に口を閉ざし、への字にした。


あ、と私は得心がいく。

そうだ、情報。

それこそ、玄丸の得意分野だろう。

真緒たちの狙いは、それだ。


…すぐに思い至らなかったのは、玄丸に対する印象がそこになかったのと、私自身が少し混乱していたせいだろう。


「とはいえ、―――――蛍」

「はい」

玄丸の呼びかけに、蛍の背筋がぴんとのびる。

「添石の姫に対して、無謀でしたね。奥方さま―――――凛さまに対しても、あまりに不敬。後ほど、罰を与えます。…逃げても無駄ですよ」

蛍は神妙に頷いた。


「では、お前は彼の手伝いに行きなさい」

「分かりました」

玄丸に深く頭を下げた後、



「…ね、凛さん」



蛍は私の右手を両手で握りこんだ。

押し抱くように。

「その、アイツの品は、千華姫が蹴ったのよ」

悔しげに、唇を噛む。




「こんなもの知らない、まるきり価値がないって、ね。あのままなら、ひどい悪評が付くところだったわ。放っといたらアイツはきっと、…それに負けちゃった」




貴人からの評価は、確かに、世間の評判に関わってくる。


それほど、影響力が強い。

ゆえに、貴人たちはある程度、それを弁えて行動する。


迂闊に評価を公言したりはしない…はず、なのだが。


「あの状況で近付いてきて、買う、なんて堂々と言えるのは、並みの度胸じゃないわ」

言われて初めて、私はそのことに思い至る。



もしかして、私の行動で、誰か、迷惑を被る人が出てくるだろうか。



考え込みそうになった私の斜め後ろで、綾月がくすりと笑った。

どこか挑発的な声で言う。


「大丈夫だよ。凛ちゃんは祓寮の長のお墨付きだ。どんだけ頭悪くても、手を出したらヤバい相手って理解できる」


ああ、つまり。




…伊織に迷惑をかけるということか。




内心、私は肩を落とした。

目を丸くして、蛍は言う。


「あなた、もしかしてどこかのお姫様?」


綾月の物言いをどう誤解したのか。

私は咄嗟に首を横に振った。


ふぅん、と曖昧に頷き、とにかく、と蛍は気を取り直した態度で続ける。




「なにより、あなたは姫の評価に左右されず、きちんとアイツの品を見てくれた」




早口に言って、蛍は最後ににこりと微笑んだ。

「本当に、ありがとう」


彼の品を、と望んだのは、それほど立派な思惑があってのことではない。


私の、単純な事情だ。

あのまま彼を去らせてはいけないと思ったのも確かだが、理由はそれだけではなかった。


彼の品が良かった、というのが一番の理由だろう。


うまい説明が思いつかないまま蛍を見つめる。

とたん、蛍は真っ赤になった。


恥ずかしそうに、ぱっと手を離す。



「じゃあねっ」



身を翻し、出店へ駆け戻っていった。

玄丸が、微笑む。

「お気を悪くされないでください。普段の彼女はもう少し冷静で賢明です。今の強引な行動は、照れ隠しですよ」


「まぁ…確かにな。侍女に相対していたのは無謀だが、正論であったし、仲間を思う故と考えれば、情に厚い娘と好感が持てる。だが…照れ隠しとは?」

真緒が首を傾げるのに、朔がちいさな指で私を指さす。



「お姉ちゃん」



真緒と綾月が、私を見た。

直後、ああ、と何やら納得する。

「そんなら、仕方ないよな、真緒ちゃん」

「む…納得した」


なにを?


「ではひとまず、移動しましょうか」

玄丸が先導するように歩き出す。


その後ろには、黙然と黙りこんだ虎一が、朔を肩車したまま続いた。


彼らを追った私は、綾月が傘を持ってくれているのに気付く。

「すみません、自分で持てます」


「だーめ。意外とこれ、重いからオレがもつよ。それに」


綾月がおどけたように微笑んだ。

くるくると赤い傘を回す。

「日よけの結界張ってるから、オレ自身が触ってる方が都合いいんだ」

私は伸ばそうとした手を止めた。


おそるおそる引っ込める。




「…では、お言葉に甘えます」




たぶん、そうするのが一番いい。


ほんとうは自分でできることは自分でしたい。

が、綾月が嬉しそうに笑ったことで、これも間違いではないのだろう、と自分に言い聞かせた。


ただ綾月が笑うと、どうも眩しすぎる。


「けど、意外だな、玄丸さん。まさかあなたが南方においでとは」

真緒が言葉を続けた。


「しかも、商人の取締役におさまっておられるとは。旅を好まれるお方が役職を持つなど、いったいどういう風の吹きまわしです?」




―――――玄丸は、顔の広い男らしい。




真緒たちの、あまり壁を感じない態度に、そう思う。


玄丸は前を向いたまま何でもない態度で応じた。




「西方の、大店(おおたな)が、近くの村の者たちの手により、一家惨殺の憂き目にあったのは、ご存知ですか?」




え?


一瞬、私は息がつまる思いだった。

無意識に、言葉がこぼれる。


「…その、大店、というのは…」

虎一が厳しい声で告げる。






「狂女」






私は身が縮む思いになった。息を引く。

先を行く虎一が、目だけで私を一瞥した。


「そう言えば、伝わるだろ」


陽ざしの強さのせいか、少し眩暈がする。

少し前、西方で起きた戦。

そのきっかけを作った者を思い出す。






―――――黒蜜。そして。


(でも、彼女に罪などあったの?)






「…ああ…」

綾月が、彼に似合わない暗い声で呟いた。

「件の枯れた湖。あそこに、毒を流し込み続けたのは、―――――その大店の店主だったってね?」

私は耳を塞ぎたくなる。

ああ、つまり。



彼は、恐れていた人外ではなく、湖の水脈に頼って生活していた人間から、報復されたのだ。とはいえ。



(…誰が?)

事情を知る誰かが話さなければ、村人たちも湖が枯れた原因など、分からなかったはずだ。

それ以前に、毒が溢れた原因など。



―――――誰かが、話した。



でも、誰が?

玄丸が、独り言のように呟く。


「夜中に大店へ踏み入った村人たちも、店の護衛に雇われていたならず者に皆殺しにされたとか。気の毒ですが、まぁ。…自業自得」


嗄れた声に、私はひやりとしたものを感じた。

言葉の裏側から吹き付ける冷気に、確信する。






玄丸だ。


彼が、関わっている。






あの、西方の商人一家と村人が泥沼に沈むような最期を迎える羽目になった、その出来事に。

彼の狙いなんて、すぐわかる。


八重を思えば。


「その大店が保有していた権利の一環ですよ、この、真珠通りの取締役というのは」

私はしずかに顔を上げた。

玄丸の背を見つめる。




復讐だ、これは。




八重が死ぬきっかけを作ったものへの。


だが、それだけなら、取締役という不自由な役職をまともに受けついだりはしないはずだ。


玄丸なら、素知らぬ顔で放置しそうだとも思う。

そうしなかった、理由は。

彼にとって、何か役に立つからだ。


…私はわずかに唇を噛んだ。


まだ、復讐は、終わっていない―――――そういう、ことだ。

大ものが、残っているではないか。


八重に死を招いた一番のきっかけを作った者。






骸ヶ淵伯―――――即ち、黒蜜が。






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