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霊笛  作者: 野中
霊笛・第三部
30/72

第一章(1)

そろそろ太陽が顔を出そうとする、薄明るい時刻。



私は炊事場でまな板と向き合っていた。



周りには、熱気のこもった声が飛び交っている。

「いりこを出汁に使ったの? 鱗が汁に残ってるわよ!」

「ご飯はまだ…ちょっと、竈の火加減間違ってんじゃないっ?」

「水が足りないわ!」


炊事場は、朝食作りの女性たちの声で、にわかに活気づいていた。



これぞ女たちの戦場―――――私の配置は、まな板の前。



隣に置かれた籠の中には、皮を剥いた野菜が次々放り込まれていく。

それを丁寧に。手早く。無心に。


切る。切る。切る。


単調作業だ。だが、飽きはない。

逆に精神が安定していく。


私は穂鷹山の屋敷に来る前は、長い間、下女たちに混じって霊笛宗家の炊事洗濯掃除に関わってきたのだ。

家事ほど慣れた作業はない。心が落ち着く。




ここは、大皇家の南方離宮。




数日前御幸があり、大皇が御滞在中だそうだ。


昨夜、伊織はその辺の事情を簡単に説明してくれた。

―――――なので、警備は厳重なんですよ? 物理的にも、霊的にも。

初老の紳士―――――祓寮の長である伊織は落ち着き払って告げた。が、




―――――簡単に破られるとは、由々しき事態ですねぇ、対策を講じないと。




穏やかだが、容赦ない本気を感じた―――――彼は、やると言えば必ずやり遂げる。


そんな伊織が昨夜、自分のことを被害者、と言った。ただし。

彼がやろうと提案した被害者の会とやらは、結局後日に延期になった。

というのも。


私の格好がひどかったせいだ。


ただでさえ、寝起きだ。その上で、血に汚れていた。

落ち着くなり気付いた自身の姿に、私は次第に小さくなった。

伊織は、状況を問い質したかったはずだ。


部屋に現れる寸前、私が何をしていたのか。


なのに逆に、私に対して場所の説明をしてくれたのは、いち早く私の混乱を見抜いたからだろう。



それは彼の優しさか。


それとも、理性的な判断なのか。



結局、彼は何も聞かなかった。

―――――お疲れでしょう、今夜はゆっくりお休みください。

そのように丁重な扱いを伊織が選択するのは、史郎と言う存在を私の背後に見るからだろうか。それとも。




…母を?




思わず尋ねかけ、私はぐっとこらえた。

私は彼に何も説明していない。そもそも、できない。


なのに、自身の問いだけ優先するわけにいかなかった。


私が黙りこんだ合間に、伊織は手元から紙の人形を飛ばした。

やがて現れたのは、一人の少女。私と同じくらいの年齢だろう。

ただ、伊織との対話を聞く限り、私よりよっぽどしっかりして見えた。


涼しげな眼差しに、口調。

細身を袖なし肩衣と袴で包んだ姿は、華奢な少年に見えなくもない。


というのに、隠しきれない女性らしい曲線が、彼女の生真面目な態度を逆に色香にしてしまっていた。


夜中を過ぎているというのに、きちんとした着衣の姿で現れた彼女は、伊織の指示で、私を湯殿に案内してくれた。

湯から出れば、部屋まで用意されていたのだから、至れり尽くせりだ。

恐縮したが、疲労も本物だった。


汗と汚れを流した後で、暑さ程度では邪魔できない疲労感に、結局、私は芯から眠り込んでしまった。


そのせいだろう。

起き抜けの朦朧とした意識は、穂鷹の屋敷でいるのと同じ行動を私に取らせた。

外に出て、井戸の水をくみ上げ、顔を洗う、という行動だ。


もたついてしまったのは、櫛や鏡がなかったからだ。



どこへおしまいしたか、と思った時、違和感に思い至り、ようやく今いる場所が屋敷でないことを思い出した。



どうにか髪を手櫛で整えようと悪戦苦闘していれば、ちらほらと寝間着姿の女性たちが行き交い始めた。

その時知ったが、急きょ用意してもらった部屋は、離宮の下女たちの大部屋近くであったようだ。

気付けば私は、彼女たちの忙しない状態に巻き込まれていた。


我に返った時には、彼女たちと揃いの着物を身につけ、私は炊事場に立っていた、というわけだ。


結局、髪はぼさぼさのままだ。

一応、姉さん被りをしているから調理に関わるのは問題ない。

とはいえ。


こうして女性たちの中に混じるからこそ、察することもあった。


炊事場で、くるくると立ち働く女性たちの間には、対立がある。




細かいところは察せないが、おそらくもとから離宮で働いている下女たちと、御幸に従ってきた女官たちが衝突している構図だ。




ある意味、それは仕方ないのだろう。

なにせ、味噌と言えば、

「赤」

「白」


味付けと言えば、

「塩」

「砂糖」


―――――主張が違いすぎた。


こっちにはこっちのやり方がある、添えないなら邪魔するな―――――という無言の反発が見える。お互いに。

むろん、どちらも大人で玄人だ。仕事最優先に動いている。


が、ぴりぴりとした緊張が、忙しない雰囲気の底に蟠っていて、少し居心地が悪い。


格好から、どうやら私は下女側の陣地にいるようだ。

とはいえ、挨拶をすれば、端から無視をする女官はいない。


歩み寄りの余地はあると思う。


ただ、聡明なおとなである彼女らは、真正面からぶつかりあう愚を避けていた。

お互いがお互いの領域を決め、それぞれのやりようで仕事を進めている。

即ち、役割分担だ。


下女たちは、離宮のものたちの食事の支度を。


女官たちは、御幸に関わるやんごとなき方々や官の食事の支度を。


…確かに、共に過ごすのは御幸の間だけ。

おおきな揉め事に発展するより、利口なやり方では、ある。


けれど。


結局、互いをとても意識しているのだから、きちんと話をした方がいいと思うのだが。

かと言っていい案も思いつかず、結局、気付けば私も作業に没頭していた。

やがて、いくつかある竈の一角から、下女の一人が勝ち誇った声を上げる。

「ご飯が炊けたわよ!」


女官たちの方はまだだ。

まるで競争に勝ったかのような下女の号令に、離宮のものたちがわっと群がる。


他の準備はほとんどできていた。

それらを皿によそうもの、膳を整えるもの、と自然と自然に仕事を振り分け、下女たちは動きはじめる。

私は握り飯を握る係だ。


あつあつのご飯をせっせと握っていく。

ある程度予定通りに進んでいる仕事に気が緩んだか、幾人かがおしゃべりを始めた。

「御幸に合わせて、大神の分社が開かれて、もう二日よね」

「慣例通りなら、この五日の間に大皇が分社へお渡りになられるはずだけど」

「あらわたしは東宮と聞いたわ」

女官たちが、ちらと咎める視線を送ってくる。

たちまち、


「こら、おまえたち。高貴な方に関する噂話は品が良くないわ」


下女たちの中でも先輩格の恰幅のいい女性が窘めた。

まだ若い娘たちが、ぺろりと舌を出して肩を竦める。


懲りない者が、ならば別の話題とばかりに声を潜めて呟いた。


「それまでにどうにかなるのかしらね、盗賊騒ぎ」



…盗賊?



その言葉に、下女・女官の別なく、女性たちが寒気を覚えたように少し身を縮める。

「青海通りの商人の取締役一家が、皆殺しになったって話ね」

「本当に盗賊なの?」

「出入りの商人が、まるで獣の所業だって言ってたけど」


「―――――百鬼夜行って噂もあるわよ」


一瞬、冷たい氷の針が、心臓の奥を貫いた心地がした。






百鬼夜行。


一般に、人外たちの乱痴気騒ぎを、そう言う。そう、人外だ。

現れるのは、鬼ではない。

大地の精霊とも呼ばれる鬼が、実際百匹も行列を為すわけがなかった。

あれらは亡者にしか興味がない。


北方でその言葉は、陽気な行進、といった印象があった。


だが、南方ではどうだろう?

そもそも、人間における人外の認識は、南方は西方と同じく厳しいものと聞く。






「だからかしら。この間、実家に帰ったら、弟が『髑髏(しゃれこうべ)を抱く男』の童歌をはしゃいで歌ってて…」

髑髏(しゃれこうべ)を抱く男? 物騒な題材だ。それが、童歌?

西方の、朱首峠と同じようなものだろうか。思うなり、


「いい加減になさい!」


歳嵩の下女が、とうとう、厳しい声を張った。

「ここは南方―――――しかもこの離宮は名家、添石家の領土にあります」


叱責に、娘たちが身を竦める。



「武に優れた比嘉家も隣接する地です。狂暴な盗賊だろうと、得体の知れない人外だろうと、御幸の行事に関わる前に、滅ぼして下さいましょう」



女官たちの耳を、ありありと意識している口調だ。

女官たちは女官たちで、向こうを向いたまま声を上げる。


「どうかしら。御幸には武勇を誇る武官たちと祓寮・太刀式がいますもの」


「南方の野蛮人など、出る幕もないでしょうよ」


「いえ、いくらなんでも、壁程度には役立つのでは?」


…背中を向け合っているのに、睨み合う空気が漂う。

いたたまれない。

とはいえ、我関せずと作業している下女や女官も多い。


そのうちの一人が、むすびを作る私の手を見遣り、不思議そうに言った。


「あなた今まで、いた? 新人? 聞いてないけどなぁ。本当、色白よね」


今さらな台詞だ。

が、私はびっくりもしない。

炊事場に立って、まだ時間は少ししか経っていないが、一緒に過ごせばわかることもある。

南方の土地柄か、柘榴と似た褐色の肌の彼女たちは、相当大雑把…いや、おおらかだ。


案の定、私の返事を聞かず、隣の彼女は言った。


「離宮に入れたのなら、教養があるってことよね。どこのお嬢さま? もしかして商家?」

教養。

言われて、気付く。

確かに、ここは大皇家の離宮だ。


ある程度の作法を知らなくてはお話にならない。


「最近、『外』はどうなの? よかったら、話を聞かせてよ」


そう言えば、宗家でも下女はお使い担当の者以外は、外へ出る機会はなかった。

彼女たちもそうなのだろう。


だから、最近まで離宮の外にいたはずの私で、好奇心を満たしたいわけだ。


私が答える前に、今度はまた別の女性が身を乗り出す。

「添石の城も下女を募集してたはずだけど、そっちには行かなかったの? 離宮の方が条件いいんだ?」

彼女が得意げに言うのに、正面にいたふくよかな女性が、


「バカねー」

ため息をついた。

「なによ」


「添石の城には千華姫がいるじゃない」


幾人かの目が、私に向く。

とたん、ああ、と言いたげに頷いた。



「あの方、北方人は特に嫌いだものね、仕方ないけど」



南方の名家、添石家の名なら私も聞いたことがある。

だがその血を引く個々人の名となれば、地元出身ではない私の知識にはなかった。


肌の色が名家の姫と、なんの関わりがあるのだろうか。


「…もしかしてあなた、北方人?」

尋ねた彼女の口調に、嫌味はなかった。

淡々とした口調だ。

私は無言で頷く。

とたん、下女・女官の別を問わず、幾人かが小さく笑った。

呟きの断片が聴こえる。


「田舎者…」


どうやらバカにされているらしい。


とはいえ私は故郷の、心が晴れ晴れする田畑の光景や、優しい森林の中の木漏れ日を心から愛している。

それが田舎というならそうなのだろう。

私は単純に納得した。だが。


どうもこのまま黙りこむと、空気がなお悪くなりそうだ。


ひとまず、なにか話を。

変に気をまわして、焦ってしまう。


結果、言ったのが、



「お嫁に、来ました」



…壊滅的に説明の足りない台詞だ。

基本的に私は、普通の日常の会話能力が皆無と再認識する。


違う。



しばらく留守をしていた夫が南方にいて、昨日会いに来たと言いたかったのだ。



なのだが…。

嘘はついていないが、というか、性格的に嘘は無理だが、微妙に質問の意図と異なる答えを返してしまった。

何か言葉を足さなければ、と焦れば焦るほど、私は押し黙ってしまう。

にも関わらず。


驚いた声で、何人かが喰いついた。




「嫁いできたの? 北方から南方に!」




―――――だれが?


一瞬、私は唖然となる。

この場合、私でしかないけど、そうなの?


どうやら私の意図しないささやかな創作が、女性たちの脳内で行われたようだ。



「度胸あるよー、あなた」


「慣れた生活捨てて南方に来るなんて」


「わたしなら北方に嫁ぐなんて無理」


「よっぽど魅力的なんだね、旦那さん」



何人かが感心とも呆れともつかない声で言うのに、私は内心、泡を食う。

嘘はついていないのに、私も初耳の話が私の経歴になっていっている。


硬直する内心と裏腹に、手だけは正確に動いているのがなんだか空しい。


私は彼女たちのおしゃべりを止めることもできず、聞き手に回った。

とたん、ちょっと悔しげな声が耳に届く。

「でも結局働きに出てるってことは生活が苦しいのよね」

「そんな夫は、甲斐性の面でどうなのかしら、ねえ」

思わぬ言葉だ。

私は眼を瞬かせる。


史郎と、甲斐性。


並べると、ものすごい違和感があった。そぐわない。

次元が違っているというか。

すっ飛ばしているというか。



思う間にも、あっという間に、北方から南方へ嫁いできた娘、という間違った認識が壮大な物語となって広まっていく。



勢いに押され、訂正の機会を失った私が言えたのは、ただひとつの真実。






「しあわせ、なんです」






あまり大きな声では言えなかった。

それでも、彼女たちの耳には届いたらしい。


一瞬、炊事場の中に沈黙が落ちる。


すぐ、ぱんぱん、と手を叩く音が響いた。

見れば、恰幅のいい古株の下女が、にこやかに微笑んでいる。


「幸せになったもん勝ちってことさね。さ、口より手を動かしな、おまえたち」


場を締めた彼女の表情は、あかるかった。

それに、…どうしたんだろう。



気付けば、このあとの厨房の雰囲気は、寸前より和やかになっていた気がする。



ふと顔を上げると薄暗かった炊事場に、外から明かりがさしこんでいた。

以降は棘を含んだ無駄話もないうちに、膳の支度が整っていく。


もうひと踏ん張り、といった頃合いに、



「そこの下女」



涼やかな声が、炊事場の中に投げられた。

中にいた全員の顔が、そちらに向く。


視線の集中を受けたのは、私と同年代の中肉中背の娘。

細身を袖なし肩衣と袴で包んだ姿は、隙がない。

彼女は手筒をした手を上げ、差し招く。

いかにも無造作な指名、と言った風情で。


私?


「こちらへ」

すぐ姿を消した彼女のことなら、私は知っていた。

と言っても、昨夜、湯殿へ案内してくれた、といった程度の知り合いだが。


確か名を――――真緒。

祓寮所属の…おそらくは、太刀式。

彼女の腰帯には、金目のカラスの根付が揺れている。









祓寮、とは。


この大地の中央に位置する、大神が降る地――――大皇のおわす秋津宮が配置された都に存在する、対人外組織。

おおまかには太刀式・術式のふたつに分けられる。


太刀式は実戦力であり、武具の扱いに長けた者たち。


術式は知識、そして理力を行使する術者たち。



力の行使は人外相手に限られているが、要するに、戦力だ。









慌てて手を洗い、炊事場の女性たちに頭を下げて廊下へ出た。

少し離れた場所にある柱の隣にすっくと立ち、彼女は私を待っている。

その、肩には。


「豆乃丞」


呼べば、緑の丸い小鳥が、ぴぃと鳴いて、羽ばたいた。

私の肩に移る。


霊笛は、いつも通り帯に挟んで炊事場に持ちこんでいた。


とはいえ、さすがに鳥は同伴できなかったのだ。


追ってこず、大人しく待っていたのは、置いてけぼりの理由を察していたのだろう。

もういいの? と言いたげに小鳥は小首を傾げる。






豆乃丞。


一見、ただの小鳥だが、これで私の眷属だ。

身体は緑。首から上が黄色。わずかばかりあるトサカの先は橙色、という全体的に賑やかな色彩をまとっている。


元は畑の豆。



そこに、巣から落ちて死んでいた鳥の死骸を埋めたところ、なぜか今の姿になった。






私の頬に、トサカをぐりぐり押しつけてくる姿に、癒される。

が、和んでばかりもいられない。

前掛けで手を拭う。

急いで真緒に駆けよった。


とたん、冴えた眼差しが私を射抜く。


勝手に部屋を抜け出したことを怒っているのだろうか。

よし、謝ろう。

思うなり、真緒が前触れなく頭を下げた。


「感謝する」


何に?

私は面食らう。

感謝される理由が思いつかない。


真緒は真っ直ぐな姿勢に戻り、腰に下げた小太刀の柄に手をやった。

どうもその動きは、彼女の癖のようだ。

「昨夜、長から貴女のことは、協力者と聞かされていた。霊力の強さから戦力かと思っていたが、それだけではないのだな」

感心した態度で頷く真緒に、ようやく私は尋ねることができた。


「…なんのお話ですか?」

一度、当惑したように真緒は眼を瞬かせる。

すぐ、薄く微笑んだ。


「そう謙遜するな、先ほどの炊事場での事だ。見事だな。誰にでもできる働きじゃないぞ」


真緒は、態度のみならず、口調も少年じみている。

生真面目な態度に、からかいの気配はない。


とはいえ、何の話か、私にはいまいち見えなかった。

肝心なところを確認してみる。



「書き置きもせず、勝手に部屋を出ていったことを怒っているわけではないのですね?」



真緒はため息をついた。

「書き置きがなくとも、不都合はない。わたしとて、祓寮の者。太刀式とはいえ、戦いだけが能ではないのだ」

やはり怒られているのだろうか。

思いつつ、神妙に彼女の言葉に耳を傾ける。


「探索の術は簡単に行える。貴女の居場所はすぐ分かった。協力者と聞いていたとはいえ、客人に働かせるつもりは、なかったので迎えに行こうと思ったのだが」


それこそ、そんなわけにはいかない。

私にできることと言えば、雑用程度なのだから。




「長が『彼女は良薬になるよ』と仰った。結果、しばし放置の方針になったのだ」




薬って、なんの?

不思議に思う私の前で、一人納得した真緒は、何度も小さく頷いた。


「…炊事場の雰囲気は、悪かっただろう?」

そこまで言われて、私はようやく『薬』の意味に思い至る。

だが、たいしたことができたとも思えない。

結局私は、他と同じように腫れものを放置しただけだ。


「あれだけできれば上出来さ」

俯いた私に、真緒は肩を竦める。

「実のところ、南方離宮の者と、御幸に同行した官たちの溝は深い。問題は、炊事場だけじゃないんだ。どうにか働きかけができればいいんだが、祓寮が動くと目立つのでな」


「やだな、些細な雑用は官に任せときなよ」


いきなり、からかうような男性の声がした。

どうじに、朝陽の中、私たちの上へ影が落ちる。





「なんもかんも祓寮で、なんて、働きたがりは夜彦で足りてるよ?」





え。


「夜彦さまも、南方にいらっしゃるのですか?」

先だって、西方で出会った祓寮・太刀式の青年の名に、私は顔を上げた。



とたん―――――私は、万色の花束を見た、と思った。



咄嗟に、眼を細める。

直後にソレは人間だと理解した。

こちらを笑顔で見下ろしていたのは、青年。とはいえ。



きちんと結われた長い髪は、赤、青、黄、緑…もはや元の色も分からないほどたくさんの色で斑に染まっていた。


とどめのように、琥珀のかんざしが一本刺さっている。


着物はと言えば、どう見ても、女モノ。



特別に染め上げたものなのか、大輪の花もかくやと言った配色に、眼がチカチカする。



どうやればここまで壮絶な派手さが生じるのかもはや奇跡と言わざるを得ないが、全体で見れば調和しているのが一番の謎かもしれない。

「綾月、お前は怠けグセがひどい」

目の端で、一筋の動揺も見せなかった真緒が、呆れたように彼を睨み上げた。

青年が、降参と言いたげに小さく両手を上げるのを尻目に、私へ視線を転じる。


「凛殿は、夜彦先輩を知っているのか?」

「へえー、凛ちゃんって言うんだ。おれは綾月。よろしくぅ」

いきなり、綾月が顔を覗き込んできた。


懐っこい小動物がじゃれてくるような、邪気のない距離の詰め方だ。


とたん、真緒の手が伸び、綾月の髪の一房を引っ張る。

「あ痛っ」


「綾月、ふまじめは見た目だけにしろ」


それほど強く握り込んでいなかったのだろう。

綾月はすぐ、髪を取り返した。


根元を押さえながら涙目で真緒を見下ろす。



「失礼だね。生まれ持った他人の顔にケチつけるなんて」



派手さに意識を奪われて気づかなかったが、綾月は造作もおそろしく華やかだ。

そして、意外と長身。

真緒は眼を瞬かせた。

思わぬことを言われた風情。


すぐ、見当違いのことを慰めるように言った。



「安心しろ。お前の場合、あまり顔は印象に残らない」



ああ、他が派手すぎるから…。


「もっと早くここに集合するよう指示していたはずだが、なんで遅れた?」

綾月が何か反論するより早く、真緒は話題を変えた。


計算ではなく、自然体――――――真緒は、どちらかと言えば、天然のようだ。


綾月は、子供のように唇を突き出したが、それ以上は何も言わなかった。

代わりに、懐から何かを取りだす。

「はい、お土産」


綾月は、真緒の前髪で覆われた額を指で突くようにして、それを押しつけた。

何か平らなものを包んだ和紙だ。


「…ああ、定期便の時刻か。そう言えば、綾月は今朝の担当だったな」

「そ。秋津宮から、陣を通して送られた荷物の中に真緒ちゃん宛てのがあったよ」


「わたし宛て?」


手に取り、真緒はたいして人目を気にした様子もなく、包みを開く。

「誰だ」

部外者が見ていていいのかな、と思わないでもなかったが、真緒も綾月も咎めない。

姉さん被りを外した私が悩んでいる間に、中から現れたのは。


「ああ、アイツか」

文字とも模様とも取れないものが書かれた短冊のような白い紙だ。

それだけで、真緒には思い当るところがあったらしい。

上から覗き込んだ綾月が、首を傾げる。

「それって、変声の呪符? 子供騙しだなぁ」


「場合によっては役に立つ」

「この仕事に必要なのか?」



「いや?」



真緒と綾月は、揃って首を捻った。

先に答えを見つけたのは、綾月のようだ。


「アイツ真緒ちゃんに嫉妬してるからなぁ」

「嫉妬でなぜこの呪符につながるのかわからないが、同僚に嫉妬してどうする。戦線において、そういった感情は怪我の元…命を落とす羽目になりかねない」

「あーほら、そういう正論とか、太刀式なのに研究の才があるところとか、夜彦にかわいがられてるところとか…」

少し遠い目になった綾月は、やがて一つ頷いた。


「この呪符は、彼なりの、…ちょっとズレたイヤミとか挑戦とかそんなとこじゃないかな?」


「呪符とてタダではできない。妬み程度で、そんな手の込んだことをするか?」

綾月が肩を竦めた。

真緒は一枚手に取る。


「秋津宮に戻れば、返すか。そのとき、礼を言えば、問題ないだろう」

「ヤメテ。それすっごいイヤミに取れる」


「どうしろと」

ため息をついた真緒が、ふっと顔を上げた。

私と眼を合わせる。

「符の知識はあるか?」

私は首を横に振った。

真緒は頷く。指で縦長の呪符を横に挟んだ。


「使い方は、こうだ」


呪符の真ん中あたりを唇にあてる。次いで、

『子供騙しでも意外と役に立つ』

放った声は、男性のもの―――――しかも、






「おれの声だな」






夜彦の声だ―――――と思った端から、同じ声が庭から飛んだ。


弾かれたように、廊下から庭を見遣る。

いつからそこにいたのか。


春先と梅雨の頃に見た長身が、うっそりと佇んでいた。


体格もいい。

姿勢もいい。

巌のように感じる、この気配。


間違いなかった。



「夜彦先輩」



眼を見張った真緒を見遣り、夜彦は生真面目に言う。

「悪さはするなよ。真緒なら、間違いないだろうが」

「当然です」


「やっほ、夜彦。夜勤お疲れ様―」


冷静に頷く真緒の隣で、綾月が気楽に片手を振った。

頷いた夜彦は、大股に庭を横切ってくる。


真緒は手元の呪符を見下ろした。

「だが本当に、今回はわたしには必要ないな…そうだ」

何を思いついたか、真緒は呪符を和紙の包みごとぶっきらぼうに私に差し出す。


「やる。一枚で数回は遊べるだろう」


おもちゃのような物言いだ。

とはいえ先ほどの言い方から想像するに、簡単に作れるものではないのでは。


だが、この空気。

受け取る以外の選択肢がない。


爆薬を扱う気分でおっかなびっくり受け取れば、


「そういえば凛ちゃんて、祓寮の手伝いしてくれるんだっけ」

綾月が笑った。

いっきに周囲の華やかさが増す。

「うんうん、見れば見るほど霊力たっかいなー…、期待してるよ、頑張って!」


「お前がどれほど楽をしたいかは、理解した」

すぐそばの飛び石の上に立った夜彦が、呆れたように言った。

「だがその娘、迂闊な扱いをするな」

夜彦は遠慮のない目で私を見上げる。


「後悔するぞ」


「意味深だねぇ? で、そのココロは?」

「詳細は長に聞け。だが、…なるほど」

相変わらず、不躾なくらい強い目だ。

「報告がてら、帰還後即刻長の元へ、という命令があったのは貴女『も』理由か」


『も』?


引っ掛かりを覚えないでもなかったが、伊織が何と言ったか知らない私が、何を言えるわけでもない。

戸惑って、俯いてしまう。

前掛けをぎゅぅと握った私の前に身を乗り出すようにして、


「一人で納得する前に説明を要求しまーす。長がまともに答えるとは思えないしー」

綾月が明るく手を上げた。

同僚をじろりと見遣り、夜彦はわずかに唸る。

「この娘のところに、お前がなぜいるのかわからん」

「オレは長にこの子の衣装を整えてやってくれって頼まれたのさ」


そうなの?

顔を上げれば、胸を張る綾月が見えた。

夜彦は彼を、絶望的な眼差しで見上げる。


「ばかな…お前に任せるとどんな相手も孔雀にされてしまう…」


「オレは世界を華やかにしたいだけだ!」


伊織は何をどこまで手配しているのだろう。

知らない間に方々へ話が回っているような状況に、私はついていけない。

固まるばかりだ。


「まぁでも」

綾月が、柔和な目で私を上から覗きこんでくる。

ふわと微笑んだ。

「まずは髪を梳きますか。ぼさぼさだよ」

綾月の手に、手品のように櫛が現れた。

それを横から真緒が取り上げる。


「男が婦女子に容易に触れようとするな。わたしがやる」


彼女は私と彼の間に割り込んだ。

縁側の端に座れと手振りで示される。

素直に従った後、私は首を傾げた。

髪を梳くくらい、自分でできる。

「あ、自分で」


言う間にも、もう櫛の歯が私の髪を滑っていた。

私の後ろで膝立ちになった真緒が、首を傾げる。

「何か言ったか」

「…いえ…」

甲斐甲斐しい手つきで、真緒が髪のもつれを解いていった。


合間に、頭上で夜彦と綾月が低い会話を交わす。

「で? 昨夜、様子はどうだった」

「やはり、もっと南を目指しているな」

「じゃあ間違いないな。狙いは古戦場跡、か。一番の問題は」

「連中の進路に、この離宮があることだ。ただ…」

「気になることでも?」


「どういうわけか、この三日で数が減ってきている」


礼儀正しく聞かないふりをしようかと思ったが、三日、という言葉に意識が彼等の会話に持っていかれた。


確か昨夜、征司が物騒なことをさらりと言っていた。




―――――三日、殺し通し。




まさか、夜彦たちが話しているのも、同じ件だろうか。

綾月が、庭で直立する夜彦を映す目を細めた。

「…ふぅん? 今までは増える一方だったのに? 気のせいでなく?」


「ああ。理由が見えんのが、すっきりしないが…」

「だけど、数が減ってくれば、別の動きがはっきりし出すんじゃない?」


「そうだ。やはり連中、アレを隠れ蓑に使っている」


「はん、外道そのものの考えだけど…妙だね」

「そう、今までの連中の行動を考えれば、何かが違う」


「捕まえた一人が、新しく加わったヤツがいるって騒いでたらしいけ…ど…」


考え深げに俯いた綾月と、私の眼が合う。

とたん、彼はぽかんと口を開けた。

息がとまったのかと心配になるほどの間、その顔で固まっていた綾月は、

「おい、綾月」


夜彦が不審気な声をかけるなり、口を閉ざす。

直後、真顔で叫んだ。




「―――――白!」




私の対する言葉のようだが、何を言いたいのか読めない。


「そうだな、やさしい風合いの生地に藍の花を染め抜いた着物にしよう! 真緒ちゃん、髪はそのままで」

忙しなく瞬きして綾月を見直していれば、背後で真緒が呆れたように言った。

「顔立ちが露わになった途端…現金な男だな」


「どうとでも言ってくれ。都でも滅多にいないね、なにこの原石。磨かず放っとくなんてできない…っ。にしても長ってばどこの姫様攫って来たんだか」

頬を上気させ、うっとりした綾月の顔は色気があって魅力的だ。

が、その眼差しを私に向けられると、どうも落ち着かない。


「でもちょっと無表情過ぎるなぁ。ほら笑って。この場をいっきに華やかにして!」

真緒が、綾月に対して、犬でも追い払うように手を動かした。

「姫なら、添石家の千華姫がいるだろう。美しさで言えば、大陸でも一、二を争う方だ。観賞用ならそっちで満足していろ」


「わっかんないかな」

苦い薬でも呑んだように、綾月は顔をしかめる。

「ホンモノの美ってのは、容姿だけが問題じゃないんだよ。内側は確実に表面ににじみ出るの! どうよ、この子目に見えてひかってるじゃないか! 千華姫もおきれいだけど」

暴言が続きそうだった綾月に、落ち着け、と言いたげに夜彦が掌を向けた。


「そう言うな。千華姫には近いうちに、もう一度お会いすることになるそうだ」

「なんで!」

綾月が、子供が癇癪を起こす勢いで叫ぶ。


ただ、本気でないのは、演技じみた態度でよく分かった。




「不審があるそうだ」




綾月の態度を受け流した夜彦が、考え深げに自身の顎を撫でる。

「一味の首領に会った時の証言にな」


一味の首領、という言葉に、ひやりとしたものを感じた。

あまり、よい相手ではない印象を受ける。

ならずもの、のような。


名家の姫が、そんな相手と、どういう理由で会ったというのだろう。


おそらく、平和な状況ではなかったのではないか。

しかし、なら。


そういった状況を、正直に語らない理由はないと思うのだが。


「まさか」

真緒の声が低くなった。

「よりによって、栄えある祓寮の御調べに対し、…虚言を?」


その隣で綾月は苦笑する。



「オレから見れば態度は明らかにヘンだったもんなー。やっぱりって言うか」



「だが嘘をつく理由とはなんだ。自身に不利となるだけだろう」

真緒が至極正論を口にした。


「そう、理由が分からない。ゆえにな」

夜彦は、先ほど自分がやってきた方向を顎でしゃくった。


そちらを見遣れば、木立の向こうに…複数の人影が立っている。




「真実の下調べのために、まずあの方々が呼ばれた」




夜彦は無骨に告げた。

真っ先に私が認識できたのは、伊織の姿だ。


細身。片眼鏡。優しそうな顔立ちの、初老の紳士。


他のだれよりも、柔和な雰囲気をまとっている。というのに。

侍らしい男たちを後ろに連れて進む姿に、少しも迫力負けした様子がないのが不思議だ。


「あれは」

髪を梳く手を止め、眼を凝らした真緒が、不意に驚いた声を上げる。

「添石と比嘉、両家の若君では」

「うっわー」

綾月が、潜めた声ではしゃぐ。


「やっぱすごいよ、長ってば。名家の嫡子二人、早朝から呼び出しなんざ、命あってのモノダネだよなフツー。度胸違いすぎ」


その通りだ。

だが伊織は思いつきややけっぱちで、そういうことをやってのける浅はかな人物ではないように思える。

おそらく、勝算をモノにしてから動くひとだ。


南方の名家、添石と比嘉にとって、伊織の一声はそれだけ威圧と魅力があったということだろう。


とはいえ。

なぜ、呼び出しは添石家の若君だけでなく比嘉家の若君にまで及んだのか。

千華姫は、添石家の姫のはず。


夜彦が独り言のように呟く。



「添石家と比嘉家の仲は良好だ。若君方もな。千華姫を含んだお三方は幼馴染であられる」



おそらく、南方の事情に詳しくない私に対して説明してくれたのだろう。

夜彦に頷き、木立の向こうを見守っていると、不意に。


侍たちが、一斉に伊織に跪いた。



否。二人だけ、立っている若者がいる。



よく見れば、その二人は他と身なりが違った。

身につけている着物も、上質の布でしたてられたことが一目で分かる。


片や、礼儀正しげだが怜悧な双眸の、どこか神経質そうな青年。


もう一人は、朗らかで子供めいた純粋さのある、けれど横暴さもうかがえる青年だ。


真緒が口を開いた。




「細身の方が、添石のご嫡男、永志さまだ。頭脳派に見えて、苛烈と聞く」

声を潜めて説明―――――次いで、綾月が言う。


「乱暴そうなのが比嘉家嫡子、国臣さま。おおらかだけど、絶望的に短気だってさ」




二人が交互に説明してくれるのに、私は結水家の兄弟を思い出した。

暁彦と悠斗が脳裏に浮かんだのは、名家の者がまとう空気が似通っていたからだろう。


伝え聞く話では、結水家は未だ後継ぎ問題に翻弄されているようだ。


今、目に移る名家の二人に、そういった問題は無縁に見えた。

将来を約束された、堂々とした姿だ。

身分ある彼等を呼びつけながら、少しも卑屈になることなく、なにより臆さず、伊織は談笑している。

対する二人の態度も柔らかい。


やがて、南方名家の嫡子二人は伊織に軽く会釈して、踵を返した。


続いて、周囲の侍たちが立ち上がる。

波が引くように立ち去っていく彼等を見送る伊織の横顔は穏やかだ。

にも関わらず。


「ぅーわ…」

綾月が逃げ出したそうに身を竦めた。

「長のご機嫌が斜めってるなぁ、あれ」


「だがなんらかの真実が見えたのなら朗報だ。何もわからんでは手の打ちようがない」


「ご命令あらば従うまでだ」

毅然とした真緒の声が聴こえたか、伊織が振り向く。

当然のように、こちらへ歩を進めた。

真緒が立ち上がる。

夜彦が、伊織に向き直った。


私も慌てて立ち上がる。


「ああ、お嬢さんはそのままで結構ですよ」

伊織が、私を見て苦笑した。

「そんなわけには」


「お願いします。でなければ、私があの方に殺される」


―――――比喩どころではない。

私は身を竦めた。

「…申し訳ありません…」


だからと言って、無理に押しかけた身としては、お客さま然としてもいられない。


それに、動きまわるのは性分だ。

夜彦の隣に立った伊織は柔和に言葉を重ねた。

「責めてはおりません。本音は、心おきなくお寛ぎ頂けるよう尽くしたいところですが、こちらもままならず、頼ってしまってもおります。力不足で、お恥ずかしい限り」

「え…あの、長?」

伊織の丁寧な態度に、不吉を覚えたように綾月が青ざめる。


伊織は、何かを察したように目を細めた。

それでも言葉を促す。

「なんだね、綾月」


「ほんとにどっかのお姫様、かどわかしてきたわけじゃないよな?」


夜彦が大きく息を吐いた。

伊織は笑みを深める。

「おまえこれから半日、情報収集に動きなさいね、あや」

綾月が一瞬、言葉に詰まった。

唇を尖らせ、突き出す。

「大人げないです、長」


微笑も口調もそのままに、伊織は命じた。




「早々に、出ろ」


「く…っ。わかりましたよ、もう」




「よろしい」

頷いた伊織は、思い出したように私を横目にする。

何かを考える間を少し置いて、綾月に目を戻した。

「そうそう」


「次は何ですかも―」

綾月がうんざり言うのに、伊織は意外なことを言う。




「こちらのお嬢さんも一緒にお連れするように」




「はいぃっ?」

綾月の声が裏返る。

夜彦が難色を示し、眉を潜めた。


「長、それは危うい」

私も、同意とばかりに、大きく首を縦に振る。

私に対し、伊織は困ったように微笑んだ。


「そうでもないと綾月は全力を出さないので、ご協力頂けると助かります」

そう言われても、私も困ってしまう。

協力するのは構わない、というより、協力できることがあるなら嬉しいが、―――――足手まといにしかならないと思うのだ。

「他にも理由はあるのですが…」


「理由、ですか?」

「それはもう少し落ち着いた頃合いに、お時間を頂きたいと思います」

伊織は、少し俯いた。

声が低くなる。




「…お嬢さんの母君に関わる話をさせて頂きたいので」




一瞬息がとまったのは、その件を伊織から話を振られるとは思わなかったからだ。

私が伊織の目を見直した時、


「…それは」

彼は、私が手にしていたものに眼を止める。

先ほど、真緒から押しつけ、もとい、譲られた呪符だ。


「使い方を、ご存知で?」

咎められるかとひやりとしたが、伊織は自然に尋ねてきた。

「あ、はい」

隠すことでもない。

私はすぐ頷く。


一枚取り上げ、先ほど真緒がしていたように指にはさみ、口元に寄せる。


声は…知り合いの声でも想像すればいいのだろうか。思うなり、




「待ってください」




苦笑気味に、伊織が口を挟んだ。

首を横に振る。

微かに息を吸ったばかりの私は、そのまま固まってしまった。

伊織は私を目に映し、優しそうに微笑んだ。



「今、誰の声を想像しましたか」



それは当然、いま、一番会いたい人の声だ。

私が思うと同時に、伊織の隣で、夜彦が難しい顔になる。


「まさか」


彼が何かを言う前に伊織が、穏やかなのに有無を言わせぬ口調で言った。





「あの方は、なりません」





私は眼を見張る。

いけないと言われたことより、二人に見透かされたことに驚いた。



もちろん、私の脳裏に、真っ先に浮かんだのは史郎の声だ。



とはいえ、さして表情は変わらなかったのだろう。

首を傾げた私に、念のため、と言うように、伊織はさらに言葉を重ねた。


「お嬢さんは、あの方を、この場の誰よりも正確にご存知です。そして、お嬢さん自身にも力がある。あなたは正しくあの方の声を生成するでしょう。…正しく。そう―――――」


伊織は声を潜める。






「その力までも」






あ。


全身から、血の気が引いた。

表情は動かなくとも、さすがに顔色は変わっただろう。


「…分かりますね?」

私の目に何を見たのか、伊織はわずかに肩の力を抜いた。


「呪符が媒介するのは、記憶です。正確であればある程、呪符が、あり得ない力を拾って暴走してしまう」


伊織の忠告を噛みしめるように頷いた私に、彼は生徒に語りかけるように続ける。

「理解の上で、さて―――――実践してみましょうか」

途中でがらりと口調が変わった。

眼を上げれば、伊織は悪戯っぽく微笑んでいる。

唆すように。


厳しく制止することで制限を設けた上で、試してごらん、とあっさり許可を与える。


結局のところ伊織は、寛容で、精神的に、ものすごく大人なのだろう。

にも関わらず、時に、妙に子供じみたところがあるのも事実だ。


いいのかな、と臆する気持ちが私の中にうまれていたが、危険を承知していることが大事なのだろう。


考えてみれば、呪符はまだ口元にある。

なら、やってみよう。

私は眼を伏せた。


声。


記憶を繰って、様々なひとの声を呼び起こす。



史郎という選択肢が消えた以上、誰でもいい気はした。



けれど、どうせ試すなら。

また、聞きたい声、がいい。


聞きたい、けれど、…かなわないひと。




―――――母の笑い声が、意識の底から浮上した。




けれどすぐ、泡のように消える。

聞いた話から想像するに、あのひとはそれなりの霊力の持ち主だったのではないか。

となれば、彼女の声も迂闊に呪符を通して再現できない。なら。


私は慎重に唇を動かした。




『…ご迷惑を、おかけします』


―――――響きのいいしぶい声が、口元から放たれた。




とたん、私は弾かれたように呪符を遠ざけてしまう。

まさか本当に、再生されるなんて。


わかってはいたが、知識と経験とは別ものだ。


改めて、驚いた。

私の驚きを感じ取ったか、豆乃丞が私の首筋にぴったり寄り添ってくる。


一瞬、記憶を探るような眼をした伊織が、小さく頷いた。



「先代の…いえ、先々代の、声ですね」



その言葉に、ちくり、と胸が痛んだ。ちいさく疼く。

「…はい。父さまの」


伊織は、父を、知っているのか。


そして、父のことを、先々代と言い直したのなら。

―――――知って、いるのだ。




今では先代、と呼ばれる兄の身に、何が起こったか。




思った通り、彼は顔を曇らせた。

「先代のことは―――――ご愁傷さまです」

兄の声を選択しなかったことで、伊織には何か察するところがあったようだ。

彼が、霊笛・宗家の動きを把握していないわけはないとは思っていたが、もしかすると私より成り行きには詳しいかもしれない。


私は、小春から、ただ結末を伝え聞いただけ。

だが、小春に詳細を聞く気になれなかったように、伊織にも尋ねる気にはなれなかった。



現在の、霊笛・宗家は、もう私にとって何のかかわりもない。



「ご丁寧に、ありがとうございます。伊織さま」

言うなり。

伊織は私を制止するように片手を上げる。



「どうぞ、呼び捨てで」



私は一瞬、言葉に詰まった。

だが、なぜだろう。


伊織の口調は優しげと言うのに、たまに、他の選択肢は存在しない、という気にさせる。


命令されているような。

頷くしかないような。

伊織は私の返事を待たず、言葉を続けた。




「長の私を呼び捨てる以上、祓寮の者は皆、そのように」

「そんな、」


「お嬢さんが私に何かを尋ねたいなら、これが交換条件です」




にっこり、強引な言葉を口にするのに、私は唖然となる。

…どうも、伊織は我を通すならどんな手段も厭わないひとのようだ。

「あとは、そうですね」

伊織は奥へ続く渡り廊下を指差す。

「あちらから奥へは入られぬよう、お願いします。御幸の関係者以外は皆、立ち入りを禁じられておりますので、お嬢さんも、どうか」

「はい」

「それから」

伊織は懐に手を入れ、ちいさな布袋を取り出す。


「お嬢さん、手を」

促され、私は両掌を上向けて前へ差し出した。

先ほどの呪符の束を数枚、乗せたまま。

伊織はその上に、


「炊事場のお仕事、お疲れ様でした」


懐から取り出したばかりの布袋を置いた。少し、重い。

横から覗きこんできた綾月がお、と嬉しそうな声を上げた。

「お給金かー」


私は思わず息を呑む。


綾月が、我がことのように胸を張った。

「もらっとけって。正当な対価だ」

「そんな、い、頂けません…っ」

慌てて返そうとした時には、伊織はすでに踵を返している。


「南方は初めてでしょう。まずは、気晴らしをなさってきてください」


しかもゆったりしているようで、歩調は早い。

背中が、信じられない速度で遠ざかっていく。


慣れているのか、夜彦が素早くその後ろに従った。

私が返す言葉も思いつかない内に、伊織は足を止めないまま笑顔で振り向く。


「条件を呑むかどうかは、戻られてからお聞きします」



まさか、呼び捨ての話ですか。



思う間にも、では、と伊織は一方的に話を切り上げた。

とたん、その背は、あっという間に見えなくなる。


忙しない態度と言うわけではない、むしろおっとりしているようなのに、なぜだろう。



口を挟むすきがない。



掌の上に布袋を乗せたまま私はしばらく、見えなくなった伊織を見送る姿勢のまま固まっていた。

見かねたか、

「あまり気にするな」

真緒が慰めるように私の肩を叩く。

「長は複雑な方なんだ」


「あれはひねくれてるって言うんだよ」


綾月が、大きく伸びをした。二人を見遣り、私はすこしくすぐったくなる。

彼等は伊織を貶しているようで、

「…信頼、しているのですね」


そういった気安さを感じた。


二人は顔を見合わせる。たちまち、複雑そうな顔をした。

「うん、まぁ…どうかな?」


一瞬微妙な気配が周囲に漂う。


それを払拭するように、綾月はいきなり声を張った。

「まずは朝ご飯だ、二人とも。そのあと、凛ちゃんはお着替えだな!」

綾月が、やる気満々で、びっと親指を立てる。


「最高の衣装を見立ててやるよ」


「綾月は、離宮の衣装部屋の鍵を持っているんだ」

真緒が付け足した言葉に、私は言葉を失った。


離宮の衣装。


それは私などに解放していいものなのだろうか。

なんだか想像を絶した。



畏れ多い心地から目を逸らし、あまり考えないようにして、私は綾月に深く頭を下げた。



「よろしくお願いします」


私としては、下女の着物のままでいいのだが。

とはいえ、使用人には仕える家ごとに、制限が設けられているものだ。

離宮の下女にも外出に厳しい制限がある可能性は高い。


ならば、着て出ていくわけにも行くまい。


顔を上げれば、どういうわけか、唖然とした綾月と目があった。

私の肩で、豆乃丞が首を傾げる。

問う目で見上げれば、


「いやなんというか、凛ちゃんて動きがいちいちこう、淑やかと言うか印象深いというか…」


綾月は不安そうに真緒を振り返る。

「えぇー、真緒ちゃん、本当に誘拐とかしてきてないよね、ウチの長…」

「言うな。やりかねない。だが、面倒は嫌う方だ」

真緒は、こめかみをおさえて言った。

「あ、そうか。まあそうだよね」


「そうだとも」

へらりと笑う綾月に、真緒は真面目にひとつ頷いて見せる。

「さて、わたしは凛殿を部屋へ連れていく。綾月はさっさと働け」


「はーい」

綾月はいっとき、肩を落とした。

が、踵を返した時には、もう足取りは軽い。

「これもお仕事お仕事っと。それじゃまた後でー」


綾月は、一瞬、満面の笑みで振り返った。



とたん、ぶぁっさぁ、と花束を投げかけられた心地になる。



…本当に、派手な人だ。


特別華やかな後姿を見送る間もなく、真緒が振り向いた。

「わたしたちも行くか」

私は頷いた。

急に静かになった空気の中、客室へ向かえば、心が落ち着いてくる。


とたん、どうしても考えてしまう。




(史郎さまは、無事だろうか)



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