第一章(3)
沈着な宣言に、私の背に、本気で震えが走った。
殺す。穂鷹公を?
想像を絶した、それは禁忌だった。
それがなぜ、悠斗のためになる。
声に、がつん、と頭を殴られた心地に、後退ったとき。
「――――いたぞ、あそこだ!」
背に突き立った声に、反射で駆け出していた。
草履を履く暇もなかった足元で、足袋はもうボロボロになっている。
走って走って、結局、青柳川に突き当たった。
小船の一隻も見えない川へ、私は迷いなく踏み込んだ。
捕まって、慰み者になるくらいなら、いっそ、と。
秋の川はつめたく、すぐさま、足から脳天まで痺れたようになる。
水をかき分ける力も失った私は、呆気なく流れに呑まれた。
それでも、捕まらずにすんだことに、心の中で凱歌をあげながら。
薄闇に染まった記憶から意識を戻した私の瞳は、目の前をさらさらと流れる長い髪を映した。
川に沈んだ私を、どんな気紛れでか拾い上げたのが、この男、青柳伯だ。
上品な美貌が浮かべる微笑から悪意を読み取ることは難しかったが、さりとて善意からも程遠い表情だった。
言い方は悪いが、宗家の人間が、私を道具として見る目によく似ていた。
一目で人外と悟った私は、青くなった。食うつもりだろうか。
だが同時に、どうなってもかまわないと言う投げやりな言葉を心が叫んだ。
人間と人外。
本来ならば、身近に顔を合わせる相手ではないが、人間の世と人外の世は、密接につながっている。
一つにより合わされた縄のように。
よって、人外の世のことを、多少なりとも知っていなければ、子供とて生活に覚束ないことになる。
はっきりしているのは、人間と人外の理は異なるということ。
人外がどう出るか、私には分からない。
幸か不幸か、この青柳伯は変わりものだった。
単に好奇心から、花嫁衣装の娘が入水した事情に興味を持ったものだろうか。
いずれにせよ、事情を聞き出した後、青柳伯は言った。
この世で一番安全な場所に連れて行ってあげよう。
青柳伯の目が、確かな気遣いを湛えていたから、私は黙って頷いた。
どう転ぼうとこれ以上最悪なことにはなるまい。
それに、彼だけでなく、彼の奥方と名乗る八人の女性たちも親切だった。今着ている萌黄色の着物は、彼女たちが貸してくれたものだ。
青柳伯なら悪いようにはなさらないわ、安心しなさい、と彼女たちは言った。
彼女たちは、元は人間であったそうだ。
人外が力を高める方法として、婚姻と言う手段がある。霊力が高く、相性のよい娘を人外が攫い、妻とするのは昔からよくある話だ。
ただし、それも下級となると、喰うことで一時的に力を高める手段を取るらしい。
ともすると、だからこそ、青柳伯は人間に甘いのかもしれない。
そう言うと、青柳伯はやさしく微笑み、氷の言葉を吐いた。
――――アナタがただの人間だったなら、助けはしませんでした。
今更、貞節に何の意味があるだろうか。
自棄になっているわけではない。心の中は、穏やかに澄んでいた。
史郎は、ぽかん、と私を見た。
羞恥一つなく言い切った私を。
そういう顔は、険が消えて、幼い。
美貌とは言えないが、荒削りなまでに精悍な顔立ちが、みるみる険しくなっていった。
私のたった一言で、すべてを汲み取ったように。
「ふぅん?霊笛の村っつったな。宗家か」
く、く、く、喉を鳴らして笑い、胡坐をかいていた片膝を立てる。
「滅ぼすか」
言い捨て、立ち上がろうとした史郎に、私は慌てて縋った。
間近で視線がぶつかる。
「何かお気に障ったのなら、私を」
言いさし、私は息を呑んだ。
史郎の口元には、挑発的な笑み。
しかし、双眸には。
瞬間、私を縛り付けていた恐怖が、煙みたいに掻き消えた。
史郎の瞳は、ぎらぎらと飢えたようにかがやいている。
それは怒りだった。
私に向けられたものではない。私の身を案じるがゆえの、怒りだ。
理解すれば、恐れはしない。
私のために何を怒るのかまでは、読み取れなかった。
けれどこの人は、乱暴に見えてやさしいのではないか、と私はぼんやり思う。
すぐさま我に返って、申し訳ありません、と身を離した。
冷静に考えれば、一人で村一つ滅ぼせるはずもないのに、取り乱してしまった。
史郎の口から、やりきれないような嘆息が落ちる。
「自分より、お家大事、か。酷な生き方させやがる」
「腹が立っても、霊笛の村を滅ぼすのは君のためにならないよ」
成り行きに、満足そうに頷いた青柳伯が口を挟んだ。
「霊笛の響きは、穂鷹山の結界みたいなものだからね。第一、霊笛を吹くことを人間に任せたのは君自身じゃないか。人外の世と人間の世、離れすぎてもよくないって」
史郎が横目に睨み、うるせえ、と吐き捨てる。
すぐ私に目を戻した。
「でもよ、そんだけの霊力がありゃ、アンタ、ああ、凛だっけ。…凛は霊笛の村で大事にされたと思うんだがな。吹けば、かなり強力な力になったと思うぞ。そういや、たまに霊笛の音が聞こえるが、アンタの霊力が感じられたことはなかったな。なんで、吹かない?」
私は面食らう。先ほど、青柳伯はなんと言ったのか。
――――霊笛を吹くことを人間に任せたのは…。
その前に、伴侶が亡くなったのが、千年前だとも。
「申し訳ありません、先に質問させていただいて、よろしいですか」
「お。なんだ、言ってみな」
枯れそうになるほど勇気を振り絞った発言は、思わぬほど気さくに促された。
一礼して、尋ねる。
「史郎様は、この邸を見る以上、お大尽のようですが…、青柳伯と同じ、人外の?」
「あ、ごっめん、ごめん。話してなかったね」
青柳伯がさらに気さくに返した。
「それ、穂鷹公」
指差された本人は、粗略な紹介を面白がるように尊大な笑みを見せる。
私の全身から、血の気が引いた。
穂鷹公。
つまりは、この穂鷹山の支配者である。
人間の世の話ではない。
人外の、主。
私の村に、遠い昔、霊笛を吹くことで、様々な災厄から守ろうと約定を残していった気高き仙。
それが、目の前の男だと言うのか。
震え出すのを堪えながら、私は目を伏せた。
「申し訳ありません。私は、霊笛が吹けないのです」
私は、かなりの覚悟で自己申告した。
約定に従えなかった者が、村にいたこと。
それを叱責されるか、殺されても仕方ないと思った。
ところが、穂鷹公は何を気に止めた様子もなく、子供みたいな質問をする。
「ヘタなのか」
「…技巧面は、普通かと思います。ただ、普通の笛なら音が出るのですが、霊笛となると、音が出ないのです」
鋭い目がぱちぱち瞬き、丸くなった。
「うっそだろ…いや、待てよ。…ああ、そーか、そういうことか」
一陣の風のように凪いでいながら、業火を宿した苛烈な瞳が、すい、とわずかに私から逸れる。
満月色の双眸は、なにもない空間を映した。
そこに、見えない何かがあるように見つめる。
とたん、刃物めいて鋭い史郎の顔に宿ったのは、柔和なぬくもり。寒い日、つないだ手から感じるやさしい体温みたいな。
「こんだけ、きれいで強けりゃ、仕方ねーか。あのな、凛。アンタが霊笛吹けないならそれは、霊力が強すぎるせいだ」
「つよい、ですか?」
やさしい目をそのまま向けられ、私は身じろぐ。
居たたまれない。
史郎の視線が遠くを見ていて、そのやさしさが向けられる対象は私でないと分かったせいだ。
それに気付かない史郎は、声も穏やかに変わる。
苛立ちが溶けた所作で、煙管をくわえた。
「ん、ああ。分かんねぇ?霊笛の方が質まで悪すぎたってことさ。凛はなにも悪くねえ」
とたん、私の全身が、薄く痺れる。
村で、ずっと言われ続けてきた言葉が、思わぬ強さで蘇った。
――――悪い子だ。
宗家に生まれながら、霊笛を吹けない出来損ないの私は、恥であり、汚点だった。
なのに、史郎は。
悪くない?私が?本当に?
両極端な言葉が、私の心臓を貫いた。
一瞬呼吸が乱れる。私は腿の上で、強く拳を握った。
誰かの、何かのせいにするつもりはない。
すぐに、史郎の言葉が信じられるわけもない。
ただ、このときほんの少しだけ。
少しだけ、心の重い部分をそっと掬い上げられた気がした。
「…あの笛がありゃ、凛も吹けると思うんだけどな…どこにやったか。あー…、と」
ふ、と史郎の表情が翳る。
やりにくそうに頭をかいた。
「アイツが持ってったんだっけか…」
「あの人のこと?」
座した私の頭上から、青柳伯がひょい、と覗き込んでくる。
彼がにこっと無邪気に笑うなり、史郎はげんなり半眼になった。
構わず、青柳伯は言う。
「どう?キミも思ったんでしょ、似てるって」
「お、前っ。会ったことねえだろ、なんで似てるとか分かんだよ」
史郎は目を剥いた。
青柳伯は肩を竦める。
「そりゃ、キミとキミのお父上は彼女に会わせてくれなかったよ?おかげで顔までは見れなかったけど、遠目にちらっとね。で、どうするのかな」
油断も隙もない、と吐き捨て、史郎は私に目を戻した。
私は結果を待つだけだ。それに従うために。
史郎は忌々しそうな顔になる。
「チッ、分かったよ。好きにしろ。ったく、嫌なところまで似てやがる」
「じゃ、表向きだけでも、凛ちゃんは君の奥さんって事で」
「え?」
目を見張る私に、青柳伯は一本立てた人差し指を左右に振った。
「でないと雑魚どもに食べられちゃうよ。北王の奥方なら、迂闊に手出しはできない」
「好きにしろ」
史郎はなんでもないことのように、繰り返す。
私はなんでもないことのようには、聞き流せなかった。
「ま、待ってください、北王…って。史郎様は、穂鷹公でしょう?」
青柳伯は目を丸くする。次いで、困ったように笑った。
「史郎はね、穂鷹公であると同時に、北王でもあるんだよ」
人外には、人の世以上に明確な身分の序列があった。
力の強さによって、師、伯、公、王の称号がつけられる。
この五千年の間、王と呼ばれる存在に至っては、長い人外の世にも、ほとんど現れたことはない。
それだけ広大な土地に主として認められなければならないからだ。
大地がそんな支配者を認めること自体、滅多にない。
ただし、現在はたった一人、人外の世に王が存在すると聞く。
結水の領地など目ではない、この大陸の北方一円の大地が、主と認めた存在。
かの存在は、千年、北王として君臨し続けている。
その、ひとが。
…目の前に、いる。
至極面倒そうな史郎を前に、私は卒倒したくなった。