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霊笛  作者: 野中
霊笛・第三部
29/72

序章

眼裏の闇の中、朽ちた白い花弁が過ぎった。

朦朧とした意識の中で、思う。




―――――誰か、呼んだ?




自然と瞼があがる。

今宵は新月。

闇の中、輪郭のはっきりしない天井がぼんやりと見えた。

前後して、鼻先を甘い香りが掠める。

梔子の香りだ。

現実でないことは、すぐ理解した。

もうあの花の季節は終わっている。


これは、記憶の中の残り香だ。


私はゆるく瞬きを繰り返した。

先ほど、眼裏に見えたと思った花弁も、確か梔子。


そういえば、数日前、出かける史郎を見送った足元で、あの花が散っていた。



夢に見たのは、そのせいか。



思い出すなり、涼やかな虫の音が、鼓膜を震わせる。


…今度こそ、現実だ。

耳を傾ければ、ぐっと意識が浮上した。

同時に、私は遠くに思いをはせる。


史郎も、聞いているのだろうか。


出向いた先の、南方で、虫の音を。







現在、北方の穂鷹山の主は屋敷を留守にしている。


史郎が億劫な態度で出かけて行って、もう十日が過ぎていた。


留守居はこの私―――――凛。

穂鷹公・史郎の妻であれば、当然の役目だろう。








ふぅ、長い息が唇からこぼれた。

私は無意識に胸元を寛げる。


今夜は、ひどく蒸していた。


眠ったと思えば、すぐ眼を覚ます。その繰り返しだ。

枕元に手を伸ばす。近くに置いていた手ぬぐいを取り上げた。

首筋を拭う。

最中、肌に張り付いた髪が気持ち悪くなった。


結局、身を起こす。


北方の山の上でこれほどならば、南方ではどれほどなのか。

史郎が汗をかくとはあまり想像できないが、放ったらかしにして身体を冷やしてはいないだろうか。


遠い場所の夫を案じつつ、私は蒸し暑さに朦朧としながら髪を束ねた。



高い位置でくくれば、首筋が少し涼やかになる。



ホッと息をついた。

すぐ、顔を巡らせる。


玄関の方向を見遣った。


この行動は、ここ数日でついた、私のくせだ。

史郎と、出会ってから。


これほど長い間離れていたのははじめてだった。


眼が覚めれば、落ち着かない。

史郎の不在が。

そわそわと考える。


史郎は人外だ。

帰ってくるのが、昼間とは限らないだろう。



気分転換に歩いて見て来ようか。



ここは、史郎がくれた、私の部屋。

部屋の隅で、鳥の羽音が聴こえた。

最近できた、私の同居人だ。

後押しされた気分で、そっと立ち上がりかけた。そのとき。




―――――ドン!




いきなり、巨大な岩でも落ちたような音が耳をつんざく。

思わず動きを止めてしまう。

音がした場所がとても近い―――――気のせいでなければ、部屋の前の廊下だ。


びりびり、畳が震える。


ばさっ、と翼が空気を打つ音がした。

すぐ、竦んだ私の肩に、鳥の爪が喰い込む。

同時に、



「がはははははは!」



闇の静寂の中、磊落な笑い声が破裂するような勢いで轟き渡った。

「いや参った参った! さすが北王、この影介を小石のように放り投げるとは!」

部屋の外、廊下の上で、むくり、巨大な影が立ち上がる。



まるで入道雲。



たちまち、獣のような異臭が熱気と共に立ち上った。

どうやら、人の形はしているよう、ではある。

ただし、周囲はひたすら、夜の闇。


相手の姿形が、はっきりしない。




現れ方から、人外であることに間違いはないだろうが。




しかも、臭気にまじる、鉄錆めいたこのにおいは。

「…血?」

呟くなり、私の全身が強張った。


―――――闇の中にいる相手の視線が私を貫いたからだ。直後、




「お初にお目にかかる、某は覇槍公・征司の従者、影介!」




威勢のよさに面食らった。

前触れなく、顔面に突風でも受けた心地になる。

構わず、相手は立ち上がった。

一言の断りもなく、ずかずか、室内に踏み入ってくる。


「他に類を見ないこの清浄さ、そなたが霊笛の君とお見受けしたが、相違ないか」


不思議と、怖くはない。

相手に邪気がないせいだろう。

あるのは、ただただ、驚愕。


私は深く考えもせず頷いた。


「はい」

とたん、影介と名乗った相手がふいごのような鼻息を吹く。

「ならば、御免!」


同時に、いっとき、私は眼が回った。

と思った時には。



「…はい?」



私は、畳を見下ろしていた。


どうやら、影介の肩に米俵のように担がれているようだ。

―――――布団で簀巻きにされた上で。

「え? あの?」


これはどういう状況だろう。


考えようとする間にも、影介はどかどか畳を蹴って、庭先に降り立った。

「無礼を許されよ。ときがないのだ、北の御寮殿」

影介の、おおらかに聴こえて、宿る切迫感が本物の声に、怒りは湧かない。


もっとひどい扱われ方をされたこととてあるのだ。

この程度では何とも思わない。


が、私は、連れ去られる予感に途方に暮れた。

これは誘拐だろうか。

困る。


「ですが私、穂鷹山の留守を任されて、」


彼にも事情があるのだろう。

だが私も史郎に任された役目がある。


こなせなくなるのはいやだ。


暴れるべきか、と迷った刹那、






「そなたの龍が」


影介の声が真摯に変わる。



「そなたを所望ぞ」






龍。


即ち、史郎


私は眼を瞬かせた。

梔子の幻が、脳裏を過ぎる。刹那。




「―――――夜中に、どういった了見ですか」




刃の切っ先を突きつけるような声が闇に響いた。

とたん、私を支える大きな身体が震える。

命の危機にさらされたような動きで、影介は振り向いた。

私も顔を上げる。


見遣った先には、長い廊下。


そこに、小ぶりの提灯を下げた愛くるしい童女が立っていた。

十歳くらいの女の子だ。

大きな目。ふっくらした頬。やわらかそうな唇。

ゆるいクセのある波打つ髪は、短く切り揃えている。


全体的に甘い雰囲気の童女だ。


仕草のひとつひとつが、小動物めいた愛くるしさであふれている。

だが、これでも力を持つ人外。



史郎の眷属にして、蝶の化身だ。



その彼女が、蔑みの眼差しで私を担ぐ相手を見ていた。

いや、見下している。


…こわい。


ばさりと羽音が聴こえた。

直後、夜中でもきちんとした格好の小春のちいさな肩に、鳥がとまる。


先ほどまで、私の肩にいた鳥だ。


簀巻きの中に巻き込まれていなかったことに、ホッとする。

「お許しあれ、小春殿」

たちまち影介は、緊張と危機感を漲らせた。

小春に対する警戒のようだ。


先ほどの陽気さは欠片もない。

彼は、生真面目に告げた。




「事態は緊急―――――そも、これは北王の命なれば」


「殿の名で、すべてが許されると?」




小春の声に、凄味が増す。

だが、問答は長く続かなかった。

小春は嘆息し、肩から力を抜く。

「…後日、」

彼女は、右手を前へ差し伸べた。



その手に掴まれていたのは、…霊笛・豊音。



「タコ殴りになる覚悟はしておくように。―――――ゆきなさい、豆乃丞」

刹那、小春の肩にとまっていた鳥が、舞いあがる。


私の方へやってくる最中、小春の手から霊笛を掴んで。



「おう、では、後日存分にの!」



言うなり。

影介は逃げるように地面をどん、と蹴った。

あ。

地脈が、開く。


見張った私の目に、頭を下げる小春の姿が映った。


「…穂鷹山の留守は、お任せを」

疑問が言葉になる間もない。

瞬きの一瞬ののち、小春の姿は消えた。



いや、空気が違う。景色が違う。――――気付けば、既に場所が違っていた。



唖然とした目の端に、白く輝くものが映る。

あれは、蓮の花だ。―――――白い、蓮。

岩。

水。


湿った、空気。



…ここは、いったい。



冷静に判断できたのは、そこまでだ。

「お頼み申す」

影介が抑えた声を、苦しげに震わせた。


「荒らぶる王を、お鎮めくだされ」


たちまち、全身が総毛立つ。

不吉な感覚に、冷や汗が吹き出した。


はじかれたように顔を上げる。

刹那。


見えた光景に、息が止まった。

同時に。




唇から、泣きそうな息がこぼれる。

歓喜の吐息だ。

だって。


―――――史郎が、いた。


視線の先。

はるか、遠く。けれど、見える場所に。






史郎が。


―――――いる!






思わずもがいた、直後。


すぐ、異常に気付いた。


史郎の顔に、表情が、…皆無なのだ。しかも。




史郎は、泥とも血潮ともとれないどす黒いもので全身を汚している。




片手には、抜き身の太刀。

曰くつきの、真牙の太刀。


酸鼻で、凄惨な姿だ。


遠くから、悲鳴とも断末魔とも取れる声が、尾を引いて流れてきた。

それも、知覚が追いつかないほど、数多。


びくり、身が竦む。



ここで何が、起こっているの。



私は息を呑んだ。

…不意に。

史郎が、顔を上げる。

私を見た。

いや。


満月色のその双眸には、私が確かに映っているはず、なのに。





―――――史郎は、私を認識していない。




それがわかった途端。

ざわり、また、不吉な感覚が膨れ上がった。


今度私がもがいたのは、危機感のためだ。


簀巻きにされたみっともない格好の中、どうにか腕を引っ張りだす。

ついてきたはずの、鳥の名を呼んだ。


「豆乃丞」


とたん、差し出した私の手に、布袋が落ちてくる。

中にあるのは、霊笛・豊音。


私は、中の感触を確かめるように握りしめた。



史郎の周囲に、濃密な闇が沸騰し始めていると気付いたのは、この時だ。



とはいえ。

私にとって、闇の存在はどうでもよかった。怖くなんかない。


このとき、一番いやだったのは。






―――――史郎が私を見ていない、その一点のみだ。






こんなに近くにいる、のに。

…認識すらされないなんて。


何が起こっているのか知らないし、正直、どうでもいい。




けれど、史郎が私を見てくれないのだけはだめ。いやだ。


泣きそう。




私は袋から、豊音を引っ張り出す。

涙を堪え、鼻をすすりながら身を起こした。

たとえ、史郎に私が見えなくとも―――――この音、なら。



届く。



私は、霊笛に唇を寄せた。直後。

霊笛の音が大気を貫いた。

音を、矢のごとく放った直後、やっと私は気付く。


…ここは。



(―――――洞窟?)



音が反響した。

巡る。

重なる。


…波動、が―――――増幅される。


刹那。




史郎が、固く目を閉じた。

痛みを堪えるように。


…そして、ゆっくりと、瞬く。二度、三度。




眉間にしわが寄った。

不機嫌な表情になる。


…あ、いつもの、顔。


面倒そうな態度で、史郎は片腕を上げた。俯く。

直後、何かを追いだすように、ばしん、と左のこめかみを押さえた。とたん。


バツッ。


太い繊維が千切れるような音を立て、闇が霧散する。



呆気ないほど無造作に。



のみならず。

私の周囲の空気まで、帯電するような感覚と共に弾けた。

細かい泡が弾けたようなありさまだったと思うが、衝撃は、相当だ。


肌が鞭打たれ、燃え上がったかとも思う。

目の奥に、火花が散った。


霊笛の音が乱れる。

思わずちいさな悲鳴がこぼれた。

反射で身を縮める。


咄嗟にきつく目を閉じるなり、




「凛!」




史郎に、呼ばれた。けれど。

その、たった一度の呼び声によって、さらに頭をしたたか殴られた感覚があった。


目が回る。


声、そのものが。

容赦ない力を孕んでいた。


これが、人外の王の力。











――――ここは、人間と人外が、共存する世界。


人外には、人の世以上に明確な身分の序列があった。

力の強さによって、師、伯、公、王の称号をつけて呼ばれる。

大概の人外の名乗りは、称号持ちである者の眷属の何某、だ。

と考えれば、彼らが持つ力・影響力の大きさは計り知れない。

ちなみに、称号の上に地名が付くのは、相手がその地をおさめる主ということだ。

師の呼称を持つ人外は、案外気さくに人間と関わりを持つ。

伯や公と呼ばれる者は滅多に人前に姿を現さない。まして。


王、ともなれば。










咄嗟のことに、北王たる史郎はうっかり力を制御し損ねたのだろう。

だけど。

ここで気絶したら。


―――――せっかく、会えた、…のにっ。



根性で目を開く。


とたん、視界いっぱいをしめたのは史郎の姿。ただし。



飛び蹴り、寸前の。






「てめぇヒトの嫁簀巻きにして担ぐなんざ地獄見る覚悟あってのことだろうなぁっ!」


加減なしの怒号で耳がばかになったと思う間もない。


「いや直接触れないにはどうしたらいいか某なりに考え」






影介の声が不自然に途切れた。

直後、私の視界が反転。


気付けば、何がどうなったのか、私は飛び蹴られて転がっていく影介の巨体を、冗談のように見ていた。


影介は、修験者の格好をした巨漢だ。

禿頭。強面。

壁にぶつかり、眼を回した姿には愛嬌があると言えなくもない。


―――――とまで見てとるなり、首を傾げた。


見渡せば、やはり先ほど感じたようにここは洞窟だ。

そのわりに、周りの景色がはっきり見て取れる。


光源はどこだろう?


彷徨った目が、答えを見つけるのは、すぐだった。

この、蓮の花だ。



ところどころに湧いている水の上でたくさんの白い蓮が咲き誇っている。


それに、壁一面に散らばる、雪のようなちいさな白い花。



それらが、呼吸するように闇の中で明滅していた。

「けっ。頑丈だな。頭もぐ勢いでいったのによ」

物騒な独り言は、史郎の声で紡がれた。

距離は、すぐそば。


いつの間にか、私は史郎に抱え上げられていた。


私を片腕で抱えた史郎に疲労した様子はない。

表情はどこまでも生気に満ちていた。

ただ、泥遊びでもしていた子供のように汚れている。

そもそも、史郎の全身を汚しているのは、泥どころではない。


生臭い贓物や血も混じっている。



このありさまでは恥ずかしがるより、不安が先立つ。



直後、私はようやく、周囲の状況に気がついた。

「…え…?」

異形の骸が、洞窟の地面一帯、所狭しと投げ捨てられている。

壊れた玩具のように。

なまぬるい血臭が鼻をついた。


かつて見た、戦場の後もかくやと思われる光景だ。

…本当に、いったい、何が起こっているのか。


私は、南方で問題が起こった、としか聞いていない。

詳細を尋ねるような真似はしなかった。

案内人として南方出身の鬼女・柘榴を連れていくと言った時もだ。



細かいところまで踏み入ったところで、私には何もできないからだ。



どうしても、臆してしまう。

そうこうしている内に、いまさらどう尋ねればいいのか分からなくなった。


自分の情けなさが、恥ずかしい。

とりあえず、まずここで自分ができることからすることにした。


「史郎さま、失礼します」


腹の下からまだ簀巻き状態の布団の中から、私と共に巻き込まれていた手ぬぐいを引っ張り出す。

それで丁寧に史郎の頬を拭った。

黙々と手を動かす私に何を感じたか、史郎は不思議そうに私を見上げる。

直後、いきなりニッと笑った。


「その髪型ははじめて見るな」


いきなりのことに、面食らう。

そう言えば、髪を束ねていた。

けれど、きちんと結ったわけではなかった。


つい、隠すように片手で押さえれば、



「印象が違って見える。新鮮だ」



真っ直ぐ、史郎は見上げてきた。

…悪い印象は、ないらしい。

おずおず手を下ろす。


とたん、何を思ったか、史郎が眼を細めた。


いきなり、威嚇するように尋ねてくる。

「俺がいない間、屋敷で何があった?」

唐突だ。

むろん、話したいことはたくさんある。

だが今はそんな場合ではないはず。


一瞬惑ったが、あ、と思い至る。


「髪を結っていたのは、蒸し暑さに眼が覚めたからです」


こんなふうにしているから、何かあったと思われたのか。

それとも、誰かと会っていたとでも?

なんにしろ、夜中に髪を結っているのは、私の場合、少し、違和感があるのは確かだろう。


私の反応の鈍さにか、史郎は苛立たしげに舌打ちする。

思わず私は身を竦めた。


何か、失敗しただろうか。


厳しい声で、史郎は言った。




「凛、いいか、俺がいない間にあったこと全部、必ず俺に教えろ」


「ぜんぶ、ですか」


「そうだ」




はい、と頷いたが、すぐ不安になった。


覚えていられるだろうか。

それに。

(…史郎さま?)

史郎の様子が、―――――なにか。


不安の正体を探ろうと、満月色の瞳を覗きこんだ、そのとき。


(え?)

瞳の奥、何かが隠れた感じがした。

同時に、…なぜだろう。






いつか聞いた祖の男、真牙の言葉が脳裏に響く。


―――――魂が、傷ついたな。






先ほどの、闇といい。


実は史郎は、とても危ういのではないか。

思うと同時に、


「しろうさま」


私は彼の名を呼んだ。

一語一語、史郎の身体にしみこませるように。とたん。


史郎は、眼が醒めたように瞬いた。


一瞬、苦い顔になる。

ゆるく頭を振って、

「おい、凛」

命じる。




「抱き締めろ」




すぐには、何を言われたかわからなかった。

首を傾げれば、

「聴こえなかったのか」

剣呑に、史郎の双眸が細められる。

直後、びりっと苛立ちのにじむ声で、



「抱き締めろつってんだ!」


怒鳴られた。私は慌てて、


「はい!」



史郎の頭を胸に掻き抱いた。

とたん、史郎が背筋を小さく震わせる。

長く、息を吐いた。


満足げに笑う。


「それでいい。俺は両手がふさがってんだから」


史郎は片腕に私を抱いて、片手に太刀を持っていた。

それは別にいいのだが。


私には、ひどく居心地が悪い状況だった。

なにせ、私は先ほど目覚めたばかりだ。

髪はぐしゃぐしゃ。

顔もきっと酷い。


胸元など、だらしなく寛げたきりだ。


先ほどの史郎の吐息が肌に直接触れた感触に、妙にぞくぞくすると同時に、自身のみっともない格好に気付いた。

よりによって、史郎の前で。

泣きたくてたまらない。


だいたい、寝汗がひどかった。

この状況は猛烈に恥ずかしい。


内心、さめざめ泣いていると、


「相変わらず仲が良いな、ご両人」

明るい声が、斜め前から届いた。

聞き覚えのある声だ。


このひとも南方に来ていたのか。


私は胸に史郎を抱いたまま、顔だけ横に向けた。

「征司さま」

いたのは、覇槍公・征司だ。


彼もその痩身を、何とも知れない体液で汚している。


しかし、転がって気絶した影介を猫の子でも摘まむように持ち上げた様子からして、弱っている様子はない。

「久しいな、凛殿。春の宴以来か。毎度だが、頼もしい平静さだな」


私の心の半泣きは、顔面まで伝わっていないらしい。


征司は影介をひょいと肩に担ぐ。

なんらかの気配を探るように、洞窟を見渡した。


その視線が、不吉な悲鳴が重なる闇の彼方へ固定される。


「史郎殿、残念だが、凛殿は連れて行けないぞ。…まだ、時間がかかる」


「南方ゆえなぁ?」

征司に続いた楽しげな声は、私の真後ろから響いた。

はじめて聞く声だ。

そのせいか、声の近さにぎょっとなる。


史郎の頭を抱えたまま振り向けば、



「はじめてまみえるな、霊笛の君。会える日を心待ちにしていた」



にこにこと微笑む佳人が、私の顔を嬉しそうに見上げていた。

すっきりとした水干姿。


周り一帯が凄惨な状況と言うのに、ただひとり、素知らぬ風情でこぎれいな出で立ちだ。


男性だが、典雅で柔和な所作は、ひどくやさしげだった。

紡ぐ言葉も、おっとりしている。

「貴女の伴侶をこの地に引きとめてしまい、申し訳ないことだ」

すまない、と彼は眼を伏せた。


「ここは南方―――――南王ならともかく、他の王が王の力を使うのは理を乱す。

それ以外の力で事態に対処するほかないから、時間がかかるのだ」


どうやら、状況を説明してくれているらしい。




が、相変わらず、肝心の『事態』の内容がわからない。




わかるのは、状況は急を要するということ。


ここまでの連れて来られ方からして、察せられる。


もっと詳しく、と説明を求めたいが、ゆっくり話しこむ間はきっとない。

代わりに私は、彼が感じているらしい申し訳なさを軽くするよう、言葉を紡ぐ。

「へいき、とは、言えません、けど」


はじめて会うこのひとに、おそらくは人外だろう。

親しげで、敵意はない―――――けど、誰?


しげしげと彼を見下ろしながら、私は言葉を続けた。




「がまんできなかったら、会いに来るから、かまいません」




史郎が、胸元で苦笑する。

私を見上げていた青年は、袖で口元を隠した。

いかにも品よく微笑む。

「愛らしいばかりでなく、勇ましいのだな。ますます、良い。この、野放しの王をよく躾けてやってくれ」

「おい」


「さて、申し遅れた」


史郎の咎めを聞き流し、彼は、史郎に抱きあげられた私を見直した。

片手で自身の胸元を押さえる。

わずかに頭を下げた。






「吾は火滝という。北竜公の侍従である」






ヒタキ。侍従? 史郎の?


いきなり、史郎が何かを思い出したような声を上げた。

「あ? まさか今日が初対面か?」

私はぎこちなく頷く。


それ以前に、私は史郎に侍従がいるという話は聞いたことがない。


第一、去年の秋からこっち、一度も彼を見たことがなかった。

一年近く離れていて、侍従と言えるのかどうか。

思ったところで、あ、と声がこぼれる。



ヒタキ、―――――火滝、だ。



脳裏で、音と字面が重なった。

そのひとなら、知っている。

会ったことはないが、



「文を、史郎さまによく送って来られる、あの」


私の言葉に、火滝は穏やかに目を細めた。

「霊笛の君がご存知とは、光栄な話だな」



「文と言うより、一応報告書だな。いちおう」

「引っ掛かりのある物言いをするではないか、主」

史郎は私の腕の中から、うんざりした視線を火滝に向ける。


「いやなら報告書にわけのわからん和歌や駄洒落を入れるな。…違う、それより」


話が脇に逸れるのを遮るように、史郎は太刀を一振りし、鞘におさめた。

「一度、穂鷹へ戻れと言ったろう。無視するから、こうなる」

火滝は素知らぬ顔でそっぽを向く。



「春の宴には伺った」



その言葉に、あ、と私と史郎の声が重なった。


「そこには主の偽物がいた」

ちらり、視線だけがこちらを向く。




「本物は西の騒動に関わっておいでだったとか」




最後まで聞かず、史郎は呆れかえった声を上げた。

「てめぇ、間の悪さにまた磨きがかかったな」

どれだけ? と思ってしまったのは、いつも皮肉な史郎の口調が戸惑うほど真面目だったからだ。

火滝も特に言い返さない。


「吾は情報収集の任で常に諸国を旅している」


寂しげに言葉を続けたが、なんだか、わざとらしい。

「その命さえなければすぐにも戻るものを」




「嘘つけ、てめぇのは単なる放浪癖だろうが」




すかさず史郎が言葉を挟んだ。

直後。




断末魔が重なる遠くから、とうとう、何かが崩れ落ちた轟音が、這うように響いてきた。




一瞬、皆が沈黙する。

火滝が史郎に顔を向けた。

「主、嫁御の胸が心地良いのはようわかるが、そろそろ手放さんとな」

史郎が唸った。


「こんな気持ちいいのをどうやってだ」


いかにも相手を殺しそうな物騒な声で言われても、恥ずかしいより、怖い。

「凛殿を危険に遭わせたくはないだろう」

征司がまだ破壊音の続く洞窟の彼方を見遣った。


「それに、西の二人と柘榴殿が先行している」


「だが、脈動のこの乱れよう…しばらく、北へは行けんな」

どうやら、私の動向を相談しているようだ。

手間をかけるのは本意ではない。

遠慮しながら、彼等の会話に割り込んだ。


「でしたら私、歩いて帰」


「あ?」

すぐさま史郎に凄まれた。

私は眼を逸らす。


距離もあれば、旅をするにはお金もかかるとわかってはいるのだが、自分の動向が話題になるのは、どうにも落ち着かない。


「そう言えば」

征司が遠い世界の出来事を話すように言った。




「南方へは、今、大皇の御幸があったはずだ」


「となれば」

火滝が手をポンと打ち合わせる。


「護衛として太刀式が動いたな。アレが居るぞ。守護にはもってこいだ」




「アレか…」

史郎が皮肉気に笑った。

「ただの狸じゃねえか」

「いや、立派な狸だ」

「尾はないがな」

尻馬に乗った二人をじろりと睨み、史郎は不機嫌に言う。


「それが危険な中で一番マシな選択か。…仕方ねえ」


「決まったな」

征司が頷く。

火滝が、無邪気に自身を指差した。

「では、霊笛の君は吾が送ろう」


「てめぇが?」

史郎が不満げに眉を寄せる。

火滝は素知らぬ顔で言った。

「吾以外は全員、斬るたび血や贓物を浴びている」


「地下に潜って今日で三日は戦い通し…いや、殺し通しだしな」


征司が平然と物騒な言葉を付け加える。

火滝は肩を竦めた。


「そんな姿で人前に出るのか?」


史郎は嫌そうな顔になる。

だが、反論はしない。

「途中で目的を忘れんなよ」

「吾に任せるのが不安なら、もう少し上手な殺し方を覚えることだな、未熟者」


「うるせぇ」

どうやら、すぐにでも移動させられそうだ。

人外の行動の唐突さを知る私は、慌てて口を挟む。


「史郎さま、あの」

見下ろせば、満月色の双眸が、真っ直ぐ私を見返した。

史郎の決定なら、従うだけ、だが。

心配は、消せない。信頼、していないわけではないのだが。


せめて、と私は心を込めて言葉を紡ぐ。



「…ご武運を」



とたん、史郎の顔に、思わぬほどやわらかい微笑が浮かんだ。

「おう」


「では、主」

穏やかに、火滝が告げる。

「連れていく」



―――――拍手を打つ、乾いた音が聴こえた。直後。



今度は、すぐそばに温もりを感じた。…体温? 誰の。


というか、今度は、どこに出たのだろう。




私はつい、眼を細めた。




先ほどまで洞窟にいたせいだろうか。

室内に満ちたひかりが、眩しかった。


そう、室内だ。


私は今、広く清潔な部屋の中にいる。

思わず顔の前に手をかざせば、すぐ近くに行灯が見えた。


ひかりに眼が慣れてくる最中、




「久しいな、伊織」




火滝の声が聴こえた。

彼はどうやら、行灯の傍に立っているようだが、…伊織?


一瞬、思考が止まった。


どうなっているのか、ちょっと状況についていけない。

なにせ。

私が知る伊織という名のひとは、祓寮の長だ。


祓寮は、人外と敵対する組織。


人外の王が、守護に、と送り出す先にそんな相手がいるとは、予想の範疇外だ。

いや、史郎は危険とも言った。


完全な安全は、約束されていないということだ。




「さて、君は吾の敵かな?」

火滝の声は、声こそ柔らかだ。が、なぜだろう。


火滝の態度に史郎と通じる傍若無人さを、私はこの時初めて感じた。



「火薬と知って、火を放つ趣味は私にはありません」



確かに、聴こえた声は、かつて聴いた伊織のもので間違いない。

声調は、穏やかだ。しかしこちらも底知れない。


突然現れた二人に驚いただろうに、動揺をちっとも伺わせないのだから。


なにより。

その声を、私は身体で感じられた。

先ほど感じたすぐそばの、体温を思う。

これは。


つまり。



私は、伊織の膝の上にいるということ。



反射で身が強張る。

宥めるように、肩に何かをかけられた。

受け止めるように手で掴む。

それは、羽織りだった。しかも、上等の。


伊織が言葉を続ける。


「それ以前に」


肩にいた豆乃丞が羽ばたき、私の膝に降りた。

羽織りの肌触りの良さに、なんとなく前を掻き合わせる間にも、私越しに会話が続く。




「王の奥方を人の膝の上に放り出すとは、私に対する殺意でも?」


「今、南方の地上で一番安全な場所を、と思っただけだ。ま、許せ」




不意に、火滝の声から感情が抜ける。


「預けてゆくぞ、丁重に扱え」





去る気配に、私は慌てて顔を上げた。





火滝と眼が合う。

彼は、極上の笑みを見せた。


「霊笛の君。後日、必ず迎えに参ります。…今しばし、ご辛抱を」


恭しく頭を下げる姿は、驚くほど品がいい。


と見えた時には、煙のようにその姿はかき消えている。

いきなり沈黙が落ちた。

分かっている。

伊織とて、迷惑だろう。


気まずい。


とはいえ、いつまでもこの状態でいるわけにもいかない。

私は膝の上の豆乃丞を両掌で包み込み、胸に抱きあげながら言った。




「あの…そろそろ私、自分の足で立ちますね?」




簀巻きで持ち運ばれるのは、私には合わないようだ。

ちらと上目遣いに見上げれば、伊織は一瞬、双眸に猛烈な同情を過ぎらせた。

何か、察するものがあるらしい。


「真面目な提案ですが、お嬢さん」

彼の片眼鏡がひかる。


伊織は、深刻な声で言った。








「どうです、このまま被害者の会でも開きませんか」




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