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霊笛  作者: 野中
霊笛・幕間1
28/72

幕間

秋津宮。



その夜、私は宮の奥の間で座していた。

待つのに飽きて、手持無沙汰に濃紺の襟巻を掴む。

とたん、隣に座す容姿から衣装まで派手な青年が待ちかねたように微笑んだ。


「とうとう外されますか、長。お持ちしますよ? もう夏なのに、それはない」

「夏でもないのに毎日外見も中身も暑苦しいお前よりマシと思うがね」


「…ご歓談中、失礼を。そろそろ大皇さまがお出ましです」


そっと寄った女官が言うのに、ほら怒られた、と目を見交わしたときだ。

彼女は無言で、私の膝もとに結び文を置く。


あまりに自然な動き―――――気付いた者は、ほとんどいないはずだ。



私は、袖で顔を隠した女官を鋭く一瞥―――――彼女は一度平伏した。



そのまま、這うように壁際へさがる。

誰の差し金か。

急ぎの用件には違いないだろうが。

私は素知らぬ顔で、結び文を取りあげた。とはいえ。


嫌な予感しかしない。


どうにか、ため息を呑みこむ。

私は長い袖で隠し、固く折り畳まれた紙を広げた。

文面を追う。


…次第に表情が消失。

次いで笑いだしたくなった。



つい、深い微笑を浮かべる。



何を感じたか、奥の間のさらに奥にある、御簾の左右に控える見目よい近侍たちが、落ち着かなげに身を竦めた。

私の隣に座す青年が、宥めるように彼等を見遣る。


派手な袖で口元を隠し、彼は私を横目にした。

「文にはなんと? 長」

私は無言で文を折り畳む。

一度、強く握り込んだ。

次に開いた時には、そこにはもう文は影も形も残っていない。

じっと掌を見下ろせば、再度、促された。


「伊織さま」



「…凶事だよ」



私は片眼鏡の縁に触れ、自分たちの前に置いた三つの道具を見下ろす。






琵琶。


鼓。


…霊笛。


―――――大皇の御幸という儀式のはじめに必要な、霊威を宿す楽器たち。






「霊笛の、宗主がね」

それらを双眸に映し、乾いた声で続ける。


「死んだ」


遠い記憶の彼方から、懐かしい少女の明るい声がこだました。




―――――ねえ、伊織、あなたって、黄泉路の蓋をする岩みたいよねぇ。




「代替わりするそうだ」










また、ひとつ。


がちり。




魂に、頑丈な枷がはまる音を聞いた。
















× × ×
















時を少し遡る。


あの日、私はあぜ道を急いでいた。

それでも、目的の場所に辿りつく前にとうとう、空が泣きだした。


私は濡れた頭を振り、白い傘をさす。


梅雨は間近―――――今日の雨は、温かさより、寒さを運んできていた。

「今夜は、どこかに宿をとろうかな、夜彦」

濃紺の襟巻を片手で掻き合わせて呟けば、


「なりませぬ」


若い生真面目な声が、すぱん、と遠慮なく私の希望を切り捨てる。

「宗家に霊威ごと預けた霊笛を手にしたならば早急に都へ―――――秋津宮へ戻らねば」


図体に似合いの大きな声で言い放ち、夜彦も茶の傘を広げた。


足早にちらほら行き交う村人が、幾人か、驚いたようにこちらに視線を投げる。

相も変わらず、夜彦は、謹厳・実直、融通のきかない男だ。

私の弟子にしては珍しい。


鍛錬でひねくれるどころか、直情が鋼入りになるとは、岩も砕ける頑固さだ。


「大皇の御幸は梅雨が明ければ、すぐなのですから」

ただし、そう告げるときは、さすがに夜彦も声を潜めた。


悪いが、私は役目で自身を犠牲にするつもりは毛頭ない。


知らん顔で言った。




「雨の日の野宿は、老体にいささか厳しいのだよ」


「まずは老人らしくなさいませ」


「いいんだよ、お前が私のぶん、老人らしくふるまっているんだから」


「あなたの答えはときに論理が迷子だ」


「真実は誠実、論理は淫売」


「あなたはそんなだから、敵が…長、あれを」




不意に、夜彦が育ち過ぎの逞しい腕を上げる。

指さす方に顔を向ければ、片眼鏡に墓地が映った。


その中央付近に、降り出した雨に濡れながら立ち尽くす人影が見える。


のんびり歩きながら、私は声を上げた。

「こちらにおられましたか」


彼は、ちらほら白髪が混じり始めた髪を束ね、黙然と墓石を見下ろしていた。


ただ、真っ直ぐな背中には、亡き祖を悼む静けさは見当たらない。

満ちているのは、不退転の意志―――――決意だ。


望んで、土足で踏み入りたい雰囲気ではない。

だが、こちらにも急ぐ事情があった。


帯に括りつけた金目のカラスの根付を手持無沙汰に弄びながら、私は眼を細める。




「宗主」




細かな雨粒を頭上の傘で受けながら、思った。

数年前、会った頃より、随分と老けこんだようだ。


霊笛の宗主の名は、律。


彼は、顔だけで振り向いた。

記憶を手繰るように、目を細めたのは、一瞬。


すぐさま、身体ごと私に向き直る。


挙動、ひとつひとつが驚くほどに流麗だ。

彼が奏でる音そのままに。



折り目正しく一礼―――――頭を上げ、しずかに微笑んだ。



「これは、伊織殿。お久しゅうございます」

歳経て一層、端正さの磨かれてゆくような彼は、急ぐでもなく、あぜ道へ出てくる。

私に懐かしそうに笑いかけ、



「あなたがこちらにおいでとは、この夏、大皇の御幸がある、という噂はまことのようだ」



黒い傘をさした。


歩き出す彼の隣に並び、私は尋ねる。

「情報源は、都の分家でしょうか」

宗主―――――律は、笑って流した。私も端から答えは気にしていない。

私たち祓寮にも、独自の情報源がある。


霊笛の宗家にもそれがある、と言うだけの話だ。


祓寮とは。

この大地の中央―――――大皇のおわす秋津宮が配置された都に存在する、対人外組織のことだ。

おおまかには、太刀式、術式のふたつにわけられる。


太刀式は、実戦力であり、武具の扱いに長けた者たち。

たとえば、斜め後ろに従っている、図体ばかり大きくなった子供―――――夜彦もそれだ。

背中に背負っている大太刀は、飾りではない。


術式は、知識、そして理力を行使する者たち。

どちらかと言えば、私はそれにあたる。


とはいえ、積み重ねてきたのは、功績より揉め事と問題だ。



履歴は、墨で真っ黒に塗り潰されていることの方が多い。



私が長なんて間違ってるよね、と秋津宮人事部官長にどれほど長く訴え続けたか分からない。


歴史は間違いの積み重ねだと返されて終わったのも、この間で何度目だったか。



真理だ、間違いはどこにでもある。

たとえば、

「ときに、宗主」

このたび訪れた、霊笛の宗家も、代々積み重なった曰く因縁でどろついた血統だ。

家系を紐解けば、よくぞここまで血が途絶えなかったものだ、と感嘆せずにはいられないほど血族間の争いが絶えない。


名家になればなるほど、人間の抱える欲望は増していくのだろうか。


それでも、こんにちまで宗家が長らえたのは。

雨が作る霧に半ば隠れるようにして見える穂鷹山を、私は遠く見遣った。


あの山に棲む人外の加護があればこそ、か。


「先代のお参りでしたか」

邪魔をして申し訳ございません、と謝罪する。

背後からも衣ずれの音が聴こえた。

夜彦も頭を下げたようだ。


宗主は、前を向いたまま、曖昧に首を振った。

肯定か。否定か。


わかりにくい。


「急ぐ事情は、お察しします。なにより、祓寮の方には、北方は過ごしにくい」

律の言葉に、私は苦笑をこぼす。

とくにこの村は、人外の加護を受けているのだ。


祓寮を煙たがる人間は多い。


ゆえに、というわけでもないが、私にとっては、人間も人外も、さしたる違いはなかった。

場所が変われば、敵味方が簡単に入れ替わる。


律は顔をしかめた。

「お役目を理解しようとせず、何も弁えない不心得者が時に現れます。すぐにも大皇家の霊笛を…」

言いさした彼は、顔を上げ、苦笑する。

「と申し上げたいところですが」


「雨脚が強くなってまいりましたね」


傘を打つ雨の強さに、揃って早足になった。

「しばし歩けば、大木がございます。そこで、休憩いたしましょう」




その大木なら、やってくる途中にも、目にしている。

木の根元に地蔵が鎮座している巨木―――――樹齢がどれほどか見当はつかないが、あの霊妙な雰囲気から言って、おそらく悠に千年は超えているだろう。


確か、立派な藤花が重く垂れ、ふぅわりと芳香を漂わせていたはずだ。


その大木に生い茂る緑なら、ここからでも見えた。


はるかに見遣れば、そろそろ水の入りだした水田に、雨がいくつもの波紋を作っている。

その中で、水面に映り込んだ穂鷹山が、歪んでは元に戻って、を繰り返していた。


のどかな光景―――――のみならず。




「村に訪れるたび、圧倒されます」

私はつい、呟いていた。


「村に満ちた、大気の清浄さに」


もう一歩進めば毒になる――――――そういった域の透徹さだが。

これだけ澄み切った大気は、他のどの地にもあり得ない。


「…霊笛の音が穂鷹公に届いている、その恩恵でしょう」

律は応じたが、妙に上の空だ。

私は首を傾げた。

「宗主?」


律は、我に返ったように、目を瞬かせる。

すぐさま、申し訳ありません、と心ここにあらずの態度を謝罪した。

彼は、気を取り直した態度で告げる。


「…実は私は、先程伊織殿と会う前まで、近いうち都へ参るつもりでした」


私は言葉に詰まった。


霊笛の宗主、その来訪。

この情報に、狂喜する者の顔がいくつも脳裏を過ぎったからだ。

純粋に腕を上げたいと願うものから、―――――欲望まみれのものまで。


霊笛の村の宗主。


その名は、重い。

いっとき教えを受けた、というだけでも、周囲から一目置かれるには十分だ。

欲得、計算づくの付き合いを、律はそれでも避けられないと思えば、想像だけでも、げんなりする。


「…講義には、希望者が殺到しそうですね」


と思ったのだが、律は首を横に振った。

「いえ、講義はおこないません」

はい?



「すぐに村へ戻るつもりでおります」



思わず、私は宗主の横顔を見直す。

分家の者たちの面倒を彼は定期的に見ていた。


その一環の行動かと思っていたのだが、―――――違う?


律は晴々と口を開き、

「御幸があるのなら、少し予定を先延ばしすることになるでしょうが、分家ではなく、秋津宮にお伺いし、」

とんでもないことを言った。






「―――――宗家代々における、霊笛の護の任を解いて頂こうかと」






夜彦が、背後で息を引く。

怒気が膨れ上がった。弾ける寸前、私は片手を上げて止める。


「宗主、霊笛の護の任は」

出した声は、つい、厳しいものになった。



「大皇家の勅命―――――よほどの事情がなければ、解くことなどゆるされません」



律は微笑んだ。

寂しげな笑顔。潜むのは、頑なな意思だ。


ゆえに、…察してしまう。


私はため息をつく。

吐きだした息は重かった。



「…よほどのことが、起きている、と、そういうことですか」



夜彦が、ぎりぎりで自制する。

沈黙を深めた。


「この時期に」


ひどくつらい重荷を下ろした表情で、彼は頷く。

「伊織殿とお会いできたのも、天の声のひとつのようにも思えます」

私は空を仰ぎたい心地になった。


なぜ私は、こういった場面にばかり出くわすのか。


あまたの世間の問題を私に突撃させる天の声には、さすがに恨み言の一つも言いたくなる。



給料はいつ下さるんですかねえ…いえ、休暇でもいいですよ。



「実は今、宗家の本家の中には、―――――いないのです」

私の苦い顔には素知らぬふりで、律は言葉を続けた。





「霊笛の音を聴きとれる者が。できるのは、演奏のふり程度」





――――――…。


現実逃避できないなら、せめて前向きになれる情報を引きだしたい。

仕方なしに、私は尋ねる。

「分家はどうです?」


「有望なものが少数…ですが、この体たらくでは、逆にお役目に支障が出るのは必然」



ちょっと待ってくださいね、と私はそこらの道端で座り込みたくなった。



霊笛を、宗家に預ける理由は一つ。

研ぎ澄まされ、磨き上げられた宗家の技能をもって奏でられる音に、道具を毎日洗わせるためだ。



音を識り、音に飢えた道具は、次に奏者が手に取ったとき、最上の音を奏でると言われる。



大勢の奏者を抱え、いくつもの霊笛を所有する宗家は役目にうってつけだ。

そのはず、だったのだが。






―――――奏でられても、音を聴けぬ奏者では意味がない。


音が聴けぬでは、楽しくない。面白くない。



つまり、奏者は霊笛を愛せない。






「宗家で、…音を聴けるものは、わたしと妹で最後となるのでしょう」


妹。

その言葉に、内心、驚いた。

確かに、宗主には腹違いの妹がいた…はずだ。

内情を直接耳にしたことはないが、醜聞なら、いやでも耳に入ってくる。


曰く、先代の妾は先代の娘と言ってもいいほど歳が離れた女だった。


曰く、先代は彼女を座敷牢に閉じ込め、誰の目にも触れさせなかった。


曰く、女は流れもので、出生すら定かではない―――――。


実のところ。

私は、その話も律から聞きたいと目論んでいた。

だが、彼からその母子のことを聞いたことは、今まで一度もない。

だから、驚いてしまった。


どのように話を振るべきかと思っていたが、



(このような話になるとは)







思い出すのは、この桜の季節に、出会った少女。


凛。

秋津宮に出入りすることを許された私ですら、今まで耳にしたこともないほど、極上の音を奏でた娘だ。






あれほどの名手を今まで見た覚えがなかったのも、宗家にて秘されていたというなら、納得もいく。


「ですが、最近、私は思うのです。もしかすると」

私の思惑など何も知らない律は、淡々と言葉を紡いだ。


「―――――我が宗家の血は、私の妹というあの存在を結実させるために続いていたのではないか、と」


本人は清々しげだが、なにやら不吉な言葉だ。

「宗家の役目は終わった、と?」

「おそらく、――――」


「失礼を承知で言わせて頂きますが」


しかし、それならなにゆえ。

「それほどの技量を持った妹君を、なぜ、今まで表へ出さなかったのですか?」


なにより、伝え聞く話では、宗主の妹は先年の秋、お家騒動に巻き込まれ、身罷ったと言うではないか。


律の答えは、明快だった。




「『アレ』が霊笛を奏でられなかったからです」




私は面食らう。

霊笛を、奏でられない?


では、宗主の妹は、あの少女ではないのだろうか。


凛、では。




それにしては、凛はこの地に重なり過ぎる。




「ですが、霊笛を奏でられないと告げたアレは、よほど潔い。対して、私の息子たちは」


宗主はため息をついた。落胆の息だ。

「音が聞こえぬ、と言ってきたものは、一人もいないのです。あろうことか、妹を貶めながら、アレの言葉に安心していた。―――――あなたが霊笛を奏でれば音が鳴る、そう告げる彼女の言葉に」



「失礼します。お二方」



それまでずっと黙っていた夜彦が、控えめに声をかけてくる。

「…先客が、おいでのようです」


気付けば、大木の、随分近くまで来ていた。

足をゆるめる。顔を上げた。


確かに木の根元には、地蔵の他、二人の人影が見える。


背の高い方は、被衣を頭から引っ被り、気怠げに幹にもたれかかっていた。

胸元で組んだ腕が、北方には珍しい褐色だ。

顔は見えないが、どこか野性的な生命力の強さを感じさせた。


小柄な方は、こちらに背を向け、大地を白くけぶらせる雨をしずかに眺めている。

後姿に、不思議と気品があった。


どちらも娘のようだ。


すぐ、彼女たちも、足音に気付いたらしい。

しずかに振り向いた。

刹那。


―――――私は瞠目した。


隣で律が呻く。

「…凛…」


一度見れば、二度と忘れられないだろうと思わせる可憐な少女は、大きな目を瞬かせる。


相変わらず、この世に属するとは思えないほど清浄さが結晶したような娘だった。


纏う色彩からして、質が異なる。

たとえば、髪の黒。

純粋な漆黒は、これほど鮮やかに目に染みいるのだとはじめて知った。

肌の白さなど、内側から、輝きを放つようだ。

唇は淡く色づいた花弁、ちいさな爪は、薄桃色の貝殻と言ったところか。


血肉をまとい、呼吸しているのが間違いとしか思えない。


これでいて。

私はつい、西方の出来事を遠い目で思い出す。



―――――身体を張った無茶をやってのけるのだから、人はみかけによらない。



彼女は、私たち三人を順に見遣った。

何を考えているのか、その表情は動かない。


しずかに、身体ごとこちらに向き直った。


所作は、見惚れるほど優雅だ。同時に、隙がない。

そのまま、しとやかに、頭を下げる。


木の下に、ぎりぎり入る位置で、律は足を止めた。


傘を閉じ、感情が消えた声で言う。



「死者が、化けて出てまで、恨み言を言いに参ったか」



この様子からして。


どうやら、凛が律の妹で間違いないようだ。


私は気楽に木の下へ入り、傘をたたんだ。

夜彦は戸惑った態度で、木の外で傘をしたまま立ち尽くしている。


こんな時に遠慮しても仕方ないだろうに。


一息つけば、無感動だが鋭い視線を頬に感じた。

見れば、木の幹にもたれかかった娘に凝視されている。


その双眸は、…鮮やかな真紅。


間違いない。

彼女は西方で出会った、あの、




(鬼女)




足音と気配を殺して移動したのを、警戒されたようだ。

彼女は、厳しい顔で何かを言いさした。同時に。


―――――私は、自身の唇の前に、指を一本立てる。



(しずかにしていましょう)



今は、争っている場合ではない。

何を考えたかは分からない。

が、彼女は大人しく眼を伏せた。


すぐ、自分以外はこの場にいないような、無関心の態度になる。


「あにさま、凛は、生きております」

頭を下げたまま、少女は、ぽつりぽつりと告げた。

「輿入れの日、そこは血の海となり果てましたが」


凛は顔を上げる。

以前から感じていたが、驚くほど表情がない娘だ。


そのぶん、端正さが余計、作り物めいて見えて、背中が寒くなる時がある。



「お前の葬儀は終わった」



宗主は冷徹に突き放した。

「生きていようといまいと、最早宗家にとって、お前は他人だ」


私は内心、首を傾げる。

彼の厳しさは、行き過ぎたものに思えたからだ。

―――――何か、理由があるのだろうか。

そうしなければならない理由が。


まさか、どう扱っていいのか分からない、ということはあるまい。

…いや、あるのだろうか?


それに。

…喜んだ様子もなかった。

先刻、驚いた様子ではあったが、その態度も少し妙だ。


死者に出会ったというよりはむしろ、―――――なぜ来たのか、と責めるような。


そう…まるで、端から生きていることを知っていたようだ。

凛はと言えば、兄の態度を気にした様子もない。


「心得ております。ただいくつか、お聞きしたいことが」

臆さず、言葉を続ける。


「私の輿入れは、…いわば公然の秘密と言えるものでした。にも関わらず、あの日、殺戮は決行された。それはすなわち」

凛は囁くように言った。




「霊笛の宗家も狙われた、ということ」




結水家の、家督争いの話なら有名だ。


今もって、表だった動きがない分、徹底的に陰湿な流れがあるようだ。

確か、先年の秋、穂鷹公が乱心しかけた折、兄弟中の修復は成った、と噂されていたが…未だ周囲は不穏のようだ。

おそらくは、家族間の相談のうえ、跡目は決されることになるだろうが、油断は禁物の綱渡り状態と聞く。


律の表情は動かない。

ひたすら、冷ややかだ。



「憶測でものをいうな。たとえそうでも」



兄妹の対話にしては、刺々しいというよりは、変に淡々としている。

他人行儀、というか。

そこまで考え、私はようやく確信を持った。


互いに、どう接していいかわからないのだ。


…頭が痛い。

思うなり、また、兄は妹を突き離した。


「お前には関係のない話だ」

あ、そんな言い方は。


傍で聞いているものがしまったと思う端から、妹は従順に頷く。


「はい」


…あぁ。

ため息交じりについ、私は額を押さえた。

不器用、というか。

傍で見ていて、もどかしい。


それにしても。


ずっとこう突き離されていたというなら、凛は、よほど言葉や感情を押し殺して生きてきたのだ。


ゆえに、だろうか。




あれほど、霊笛が雄弁なのは。




律は、会話に終止符を打つように、問う。

「それだけを告げに蘇ったか?」

「…今日、参りましたのは」

凛の言葉は、次第に途切れがちになる。

しかし、どうにか続けられた。


「今まで、お世話になったお礼と」


直後、大きな瞳が、一途なほど真っ直ぐ宗主を見つめる。

私はふと、顔をしかめた。

…あの目は、少し、よくない。

あんな、隠していることまで暴いてしまいそうなほど強い眼差しは。



「お別れを、申し上げに」



律はまた、反射のように切って捨てた。

「それらは貴様の婚礼の日に済んだ話だ」

これでは、また、はいと答えて終いだ。

さすがに声をかけるべきか、と思ったその時。


「ですが、やり直したいと思ったので、参りました。これは、私のわがままです」


凛はまた、深く頭を下げた。

宗主がはじめて、虚をつかれた態度でおし黙る。

「あの日、私は形式で言葉を口にしました。今日は、違います。…あにさま」

丁寧に頭を下げたまま、凛は言った。


万感の思いを込めて。






「今まで、ありがとうございました。それから、―――――さようなら」






本当に、単なる当たり前の言葉。ゆえに。


率直に、胸に届いた。


ほんの、二呼吸、三呼吸ほど、だったろうか。

わずかの間沈黙した律が、ゆるり、と雨の膜の向こうにそびえる穂鷹山を見上げた。


「…ここのところ、ほぼ毎日」

独り言めいた声に、凛はぎこちなく頭を上げた。

「穂鷹山の上から、霊笛の音が、降ってくる」

静かな声に、伏せていた彼女の眼が上がる。

「あれは」

律が、目だけで妹を見下ろした。


「…お前だろう」


ふぅっとわずかに、凛の眼が見張られる。

気をつけて見ていなければわからない、ほんのかすかな変化だ。

「はい」

凛は、ちいさな声で肯定――――――律は、わずかに頷き、彼女に背を向けた。

また、穂鷹山をはるかに見上げ、囁く。




「…よくやった」




声の響きが誇らしげだと思ったのは、気のせいだろうか。


凛は眼を瞬かせる。

叱責を待つように小さくなった姿は、律の背中に隠れるようだ。


すぐ目の前にある兄の背に、何を思ったか。

凛は感情の起伏が薄い声で、ぽつりとつぶやいた。



「あにさまは、小さな頃、よく迎えに来て下さいました」



「…なに?」

前を向いたまま、律は眼を瞬かせる。

「誰も来ない隠れ家で、暗くなるまで練習して、挙句、寝込んでしまった私を」


「覚えがない」


凛は落ち着いた動きで、首を横に振った。

「他の誰でもないあにさまが。必ず…来て下さった」

今度は、律は何も言わない。


「だから私、わざとそこで寝入っておりました」


いとけない物言いに、兄は苦笑した。認めるように。

知っていたと言わんばかりに。


目を伏せ、凛は続ける。






「父さまの腕。母さまの胸のぬくもり。そして…あにさまの背中」

消え入るように、告げた。


「これらが、私の家族の思い出です」






一瞬、律が息を呑む。

ゆえに。

凛は、来たのか。


微かな思い出に、淡い慕情に、別れを告げに。



新しい道を、後ろ髪引かれることなく進むために。



不意に律は、何かを振り切るように歩きだした。


気付けば、雨脚の勢いは弱くなっている。

律は振り向きもせず、木の下から出た。傘をさす。


私は凛と鬼女に黙礼―――――彼を追って、木の下から出た。


あとから夜彦がついてくる。

揃って傘をさし、歩きだした。



「あにさま」



凛の呼びかけは、ひどく頼りない。

とはいえ、彼女が何を考えているのかは読みにくかった。


だが、兄たる宗主には通じたのだろうか。

彼は足を止めず、告げた。




「さらばだ、凛」




私はつい、後ろを振り向く。

やはり、凛の表情は見えなかった。


彼女が深く、頭を下げていたからだ。


私は顔を戻す。

律の方は見ずに、何事もなかった態度で口を開いた。

凛とはまったく、関わりのないことを尋ねる。


「先ほど仰られた大皇への奏上の件、…お身内はご存知で?」



夢だ。



何とはなしに、私はそう思った。

先ほどの、凛との逢瀬。

あれは。


…夢だったのだ、と。


なにしろ、あれは。

現実の生臭さに、汚したくない光景だった。




幻想的な、藤の花房。


濃密な花の香り。


優しい雨音。


その中に佇む、無垢な少女。




同じように思ったか、律は自嘲をこぼす。

「まさか」

淡々と続けた。


「あれらにはもう、霊笛は権威の道具にしかすぎません」


「実際」

私はさらりと返す。


「ただの道具です」


律には悪いが、私には、これらは単純に道具にしか過ぎない。

愛情も執着もなかった。

うつくしいが、ただそれだけだ。


律は息だけで笑った。




「ゆえに、あなたはこのような仕事を拝命するのですよ、伊織殿」


「まったく、迷惑な話で」




「あなたのような方は稀です。なので、心づもりも話せようもの。ですが」

身内は駄目だ、と彼は首を横に振る。


醒めた目で告げた。









「もし、息子たちに話せば、私はあの子らに殺されるでしょう」
















× × ×
















「東宮を?」


「難しいか」

「確実さを求められたなら」

ぱちん、と御簾の奥で鳴ったのは、扇の音だろう。


私の前から、三種類の楽器は、既に引かれ、奥の間へ消えていた。


「そうか。伊織が言うなら、この話、しばし保留しよう」


衣ずれの音に、私は頭を下げる。

大皇の退室だ。



これでお役御免、と一瞬浮かれたのが、よくなかった。




「ときに、伊織。―――――見つかったそうだな」




大皇が何を言わんとしているのか。

思考しようとした隙を、突かれた。










「澪の代わりとなるものが」










―――――息が止まるほど驚いた。


ただ。

伊織以外は、誰のことだと言わんばかりの顔で、目を見合わすばかり。


そうだ。


その名を、意味を、知るものはほとんどこの世から去っている。

なのに。


誰だ。




大皇は誰から聞いた?




いや、遡れ。

問題は、それ以前だ。


誰が、誰に話したか。


話したのは、おそらく、その意味を知るものではない。

その言葉を聞いた者が、運悪く、『知っている者』だったわけだ。

思い出せ。


私は確かに、迂闊にも外で、澪の名を出した時があった。


その時その場にいたのは、誰だ?





夜彦? 違う。彼の興味は、あくまでお役目にある。


清孝? 違う。あの侍は、それどころではない。


では。






(―――――祓い屋か!)






虎一だ。






あの男ならば、納得はいく。

長くその仕事をこなす彼等が、後ろ暗いところのある貴族と関わり合いがあるのは、定石だ。


「供犠の座は回った。西王も顕現したと聞く。猶予はない」


退室しながら、もののついでのように大皇は命じる。

「大神の器」

この大陸の最高権力者は、低く重く告げた。




「連れて参れ」




顔を伏せていて良かった、と思う。

動揺を悟られずに済んだ。

代わりに。


何も言えなかったわけだが。


去りゆく気配に、心の中で囁く。

(その娘の背後には、龍の眼がひかっております)

本来ならば。




私に、語るつもりはなかった。


澪のことは。


引いては、凛のことを。




面倒事はどうせ、私に降りかかってくるのだ。


ひとつでもコトを減らせられるなら、それに越したことはない。

にも関わらず。



結局、大皇の耳に入ったということは。



頭を一つ振った。

立ち上がる。

「伊織さま」


「行くよ」


踵を返した。

仕方がない。

まずは、周知からだろう。



澪の名が意味するもの。



すべてはそこからだ。






かつて彼女は、私を常世の黄泉路へ続く道に蓋をしている岩石にたとえた。






常世と現世、双方が向こうから誰も入ってくるなとその岩に、誰もが鎖の縛めを施すと聞く。


彼女は私に、朴念仁と言いたかったのか。

記憶の中の澪は屈託なく笑っていた。




―――――岩は、黙ってずっと見つめているわ。常世と現世、双方を。嫌になるほど知り尽くしながら。もう嫌だと投げ出して、飛んでいけばいいのにね。




彼女は、いつだって突拍子もなかった。

岩に翼などない。

面白味もない答えを返した私に、澪は眼を見張った。


―――――飛べるわ。岩だって。ただ、飛ぼうとしないだけ。


秋津宮の通路を通れば、すれ違う官たちが、次々頭を下げていく。

文官、武官、女官、…貴族。



澪の言葉は、正しいのかもしれない。



霊笛の宗主の死。

それを聞いて、この世はこういうものだと私は単純に考えた。

私は、世界の限界を、自身で決めてしまっているのだ。


不自由の枷を、自分ではめている。



誰より自由に焦がれながら。



―――――澪は違った。

本当に、飛び立ってしまった。

そして、花となったのだ。






その果実が、―――――凛。






なぜだろう。


何かが密やかに動き始めている気がした。

凛が、現れてから。


腹の底が、落ち着かない。




とはいえ、どうやれば、龍の懐から、その玉を盗めるだろう?




それこそ、翼でもなければ難しそうだ、と、私は不可能を笑った。


「ま、それはまた出会えた時にでも考えましょうかねぇ…。また、会えたなら」











このとき、私は確信していた。


彼女と、再び出会うことはない。


だが、その予測は。


















近い将来、裏切られることとなる。









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