終章
―――――ここにいてもいいのだろうか。
脳裏で声が響き返った。
こだま?
誰の?
ううん、懐かしい。これは。
しばらく前の、私の感情だ。
ふと、笑いだしたくなる。
一人で飲み込んでいた想いが、いつの間にか遠くなっていた。
何をそんなに悩んでいたのか。
自身でも正体を見極め難かった枷は、気付かない内に自然と外れていたらしい。
自信が、できたのだろうか。
あるいは、覚悟が。
わからない。
ただ、これまで私はずっと、逃げ出したかった。
逃げなかった理由は、…浅ましいような自分勝手。
どうせ逃げられない、逃げても一人で生きられないと動く前から諦めていた。
束縛を、自ら選んだ。
でも、今は違う。
―――――私はここにいたい。
最初、この祈りを、私の我がまま、身勝手と思った。
けれどおそらく、まず必要なものは、これだったのだろう。
すべての基盤。
逃げたいという感情にあまりに馴染み過ぎていたから、最初は違和感があったけれど。
今、では。
―――――思考が、川のように流れていく。
浮き沈みする整合性のない考えに、私はおぼろげに自覚する。
これは、夢だ。
色んな光景が、うっすらと浮かんでは消え去る。それは、過去だ。
かつては村での光景ばかりだったそれに、穂鷹山での記憶が多くまじりはじめていた。
最近では、史郎が食事を共にしてくれる。
息抜きに丁度いいな、と言って。
無理をしているのでは、と勘繰る私を安心させるための言葉かもしれないが、それに私は甘えてしまっていた。
甘えついでに、もうひとつ。
今日の昼餉の後、どうしても気になっていたことを、とうとう尋ねた。
久嵐と行動を共にすることになった清孝や、その他の話がひと段落した折のことだ。
その記憶に、ぐっと私の意識は引き寄せられる。
気になっていたが、聞きにくかったこと。
それは。
私の問いを耳にするなり、食後のお茶をすすっていた史郎は、呆気に取られた。
まあ、そうだろう。
いきなり尋ねられても困る質問だ。
―――――なぜ、私たち夫婦は夜を共にしないのですか?
など。
しかも、女子から。
私としても、非常に言いにくかった。
だが、私は正攻法しか知らない。だから問いを、真っ直ぐ投げた。
何も知らなかった頃ならともかく、今は人間と人外の婚姻の危険性も理解している。
…つもりだ。
だが、ともすると。
それ以上の理由が、あるのかもしれない。
その辺りのことも、そろそろはっきりさせておきたかった。
自分の立場が、どうにも宙ぶらりんで落ち着かなかったから。
「…うン…」
思考をまとめるように、史郎はわずかに視線を横へ流す。
頭を掻いた。ひとつ、頷く。
直後、将棋の駒でも打つ勢いで、湯呑みを膳の上に置いた。
「よぅく、考えろや、凛」
史郎が、目を上げる。真っ直ぐ、私を見た。
続いた言葉は、私にとって、意表を突くものだ。
「俺らの力の彼我の差は、圧倒的だろ」
力?
少し、戸惑う。そんな話だったろうか。
だが、悩むことではない。頷いた。
人外と人間は存在が、根本から違う、と骨の髄まで理解している。
史郎は、一瞬、言いにくそうな顔になった。
刹那、何かを振り切った態度で、からりと言い切る。
「俺がお前の細っこい腰に乗ったが最後、てめぇ、死ぬぞ」
…。
……。
?
………!
「お、無表情か。いつもながら見た目に反して凛は肝が太ぇな。頼もしい」
無言の私に、史郎は真面目に頷いた。
一度、長く息を吐き出す。
不意に、寛いで表情で穏やかに私を見つめた。
「惚れた女を抱くんだ」
満月色の双眸が、物騒に細められる。
「伸しかかりゃ、殺す勢いになる。他の野郎が自分の女に対してどうかは知らねえが、俺はな」
なぜだろう。
その笑みに、背中が震える。恐怖ではない。
痺れに似たものが、そこから肉体の末端にまでぱっと散り広がった。
たった今、私は猛烈な告白をされたのではないだろうか。
だが冷静になる間はなかった。
「だからな、凛」
軽い調子で続けられた史郎の言葉に、一瞬思考が止まる。
「お前、俺に乗っかってみねえか」
え。
「教えてやっからよ。―――――なぁ?」
え。
え?
なに。
それって、どういう?
史郎は、低く囁き、促してくる。
「俺を好きにしてみな。凛なら、許してやる。凛だけだ。想像してみろ。…どうだ?」
これは、冗談?
どこまで本気なのか、分からない。
相手に好きにされる、のではなく。
(私が、史郎さまを?)
好きに、する?
とたん。
すぐそばにある肉体の、少し高い熱を思い出した。
たちまち、その意味が変化する。
―――――目が回るかと思った。
「ん?」
身を竦めた。縮こまる。消え入りたい気分だ。
そっと俯き、なんとはなしに、顔を覆う。
たぶん、私は真っ赤になっている。
なにしろ。
―――――興奮、してしまった。
よくない。とても、よくない。はしたない。
「はっは」
史郎が、笑った。ずいぶんと、優しい声で。
「いいな、その顔。そうか、凛はそっちがいいか」
「う」
どっち? と惚けることもできず、言葉に詰まった。
おそらく、赤くなっているだろう私の耳朶を、史郎が悪戯気につまんだ。
独り言めいた囁きが続く。
「必要なら、必要な時に、必要な形になるさ。…焦れば、間違う」
そのまま下りた指が、あやすように私の髪を梳く。
とのとき史郎が零した吐息が、…とても。
よく、なかった。
やめてほしい。
思考があやしくなる。
「見誤らないようにしよう。…ときを」
見える光景が、史郎と私とではまったく違うのではないか。
そう思うのは、こんなときだ。
彼は何を、見ているのだろう。
知りたい。
史郎を、知りたい。
少しでも支えられるように。
自身の無力を悟りながら、強く願った時。
視界の中、いっきに闇が落ちた。
そのくせ。
足元が、ぼう、と明るくなる。
誘われた気分で、私は足元を覗き込んだ。
そこでは。
(これって…)
見たこともないうつくしいものがしずかに輝いていた。
礎は、円形の石。直径が、大人の身長ほどはある。
厚みは、ちょっとした木の幹程度。
無骨だが、精緻な紋様が施され、要所要所に方角を示す文字が刻まれている。
その表面には、幾重にも埋め込まれた色とりどりの貴石。
いかにも子供が無造作に置いて行ったと言わんばかりの不規則な配列は、しかし不思議と神秘的だ。
しかも、基盤の石は。
月光とも水中とも取れる青ざめた光の中で、浮いていた。
ばかりか、ゆっくりと回っている。
惚れ惚れと見下ろす。
まだ夢の続きの中だとはわかるが、ふと、思う。
ここはどこだろう。
夢だとしても、私はこんなもの知らない。
周囲はまっくらやみだ。
地下なのか。
蔵なのか。
それとも新月の夜なのか。
まるでわからない。
刹那。
隣で、足元を示す指が見えた。そして、声。
「あれが供儀の座だ」
弾かれたように顔を上げる。
いつの間にかそこに、青年が立っていた。
短い赤茶の髪。太い首。分厚い肉体には、獣の衣をまとっている。
野性がにおい立つような男くさい横顔―――――そのくせ、表情の静けさが知性を感じさせた。
じろりと私を横目に見た目は、鮮やかな青。
…青い、目。
私はつい、呟いていた。
「…蛮族…」
北方の伝承にこんな話が残っている。
五千年も昔、青い目をした一族が、北方をよく治め、栄えていたと。
だが彼等は時の支配者に不服従であったため、蛮族と忌み嫌われ、滅ぼされた。
私はそれを知ってはいるが、それはただの知識だ。
実際に、蛮族と呼ばれた存在を目にしたことはない。
彼等は、との昔に滅んでいる。
つまり。
「あなたは、誰ですか」
この青年に会ったのは、今がはじめてだ。
彼は音もなく私に向き直った。
「俺は真牙だ。お前は」
「凛」
反射で応じ、すぐさま目を見張る。
真牙?
「この状況はよくないな」
真牙はぼそりと呟いた。
至極無表情に。
怖いと感じるべきなのだろうが、纏う空気がひどく清浄で、自然と彼の物言いに耳を傾けてしまう。
「お前は自ら俺をこの場に招いたようだ。自らの夢に」
不器用そうな、ぶっきらぼうな喋り口で、彼は訥々と語る。
「無自覚で、これか。巫女の質だな。だが、駄目だ。狂いたくないなら、二度と俺を招くな」
招いた? 私が? 彼を?
その意味を、思う。
…答えは、すぐそこにあった。
「私は」
真牙を見据え、私は切実な声を紡ぐ。
「私の、所以を知りたいのです」
史郎を知りたい。
支えたい。
けれどそのためには、今の私では不十分だった。
そのくらいは、分かる。
私は私のことを、何一つ知らない。
母のこと、祖先のこと。
おそらく、それは避けては通れない道だ。
自身の地盤をきちんと築けていないこの現状では、史郎を支えるどころか自重で潰れかねない。
だからまず、自分のことを知らなければと思っていた。
その想いが、呼んだのだろう。
―――――真牙を。
「楽な道はない」
真牙の答えは、にべもない。
「異能ではなく、現実で、体験として己を学べ」
厳しい。
だが、私とてそのくらいは理解している。
真牙と接触してしまったのは、偶然だ。
この状況は、私が知らない私の力が、勝手に暴走していると解釈するほかない。
…ああ、これもまた、己の一部を知れたということで、貴重な体験ではあるのだろう。
「はい」
それきり、話は終わりと言うように、真牙は足元を見下ろした。
供儀の座を。目を細め、ひとりごちた。
「かつて、四柱の王がおわした頃とは随分と様子が違う」
彼の呟きに、私は首を傾げる。
王、という言葉にこもったからだ。敬意が。
「…ですが、あなたが殺したと聞いています」
八重の言葉を思い出す。
真牙は先代の北王を殺した。
「北王を」
ただ、八重が続けた言葉は、今思えば奇怪だ。
彼女は真牙を『人外の裏切り者』と言った。
おかしい。
真牙は、人間だ。
蛮族とはいえ。
―――――そんな彼が、人外の裏切り者、とは…辻褄が合わない。
人間を裏切った、と言うのなら、正しいと感じる。
そして。
真牙が北王を殺した、として。
残る三方の王は、…誰が?
「ああ、『殺し合った』」
真牙は、さっぱりと応じた。
後ろめたさなどひとつもない。
「そして死ぬ寸前『夫婦になれた』」
――――――…??
口調の淡白さに騙されそうになるが、おそろしく凄絶な話を聞いた気がする。
いや、真牙の言葉が事実だとして、何が起こればひとつに繋がるのか、想像がつかない。
「現在の北王は…健やかにお過ごしか」
悩む私に、真牙が言いにくそうに囁いた。
「どう見る、俺のかわいい娘」
俺の、かわいい娘?
私の祖という彼が言うのだ。
私の、ことなのだろうが。
この青年に言われるのは、違和感がある。
色々と理解が追いつかない頭で、なんとか私は頷いた。真牙は薄く微笑む。
懐かしそうな、泣きだしそうな目をして呟いた。
「蒼穹を、北王の白い龍身が舞い踊る。あの奇跡を見ることは、―――――俺にはもうかなわないが」
ふ、と私は眼を見張った。
白い龍身。
彼は、そう言ったの?
かつての北王のことだろう。
北王は、代々白い龍体なのだろうか。
確か、史郎も本当は。
でも、
「現在の北王は」
咳き込む勢いで、私は前のめりになる。
咄嗟に、真牙の衣を両手でつかんだ。
「闇を、纏っています」
真牙が眉を潜めた。重い眼差しで、私を見下ろす。
「あれは、なんですか」
不吉に思えて仕方がない。
「…闇を…」
一瞬、真牙はきつく目を閉じた。
ゆるり、瞼を持ち上げたときには、孤高の獣めいた風格を鎧のようにまとっている。
「魂に、傷が残ったな」
「傷?」
真牙は、いっさいを受け止めるような深い青い瞳で、ぶっきらぼうに言った。
「俺の裏切りで、先代の北王は狂った」
ふぅっと私の全身から血の気が引いたのも、仕方がない。
なにせ。
―――――翠天師の狂気を、私は知っている。
目の前の青年は、誰かを狂わせるほど酷い裏切りをするような人物には見えない。
でも、待って。
今している話は、史郎の話だ。
先代の話ではない。
私の疑問に気付いたのだろう。
真牙は何かを言いさした。
が、ふ、と頭上を見上げ、諦めたように全身から力を抜く。
最後に、私を一瞥した。
「魂は、巡る」
その声を確かに耳にした、刹那。
―――――私は寝具の上に、飛び起きていた。
一瞬、どこにいるのか理解できない。
惑乱の中、どっと全身から汗が流れ落ちる。
両手で、胸を押さえた。
動悸が激しい。
懸命に息を整える私の耳に、不意に衣ずれの音が届いた。
ぼんやり、顔を上げれば、…おろした御簾の向こうに、人影が見える。
何かが麻痺している感覚に、頭を振った私は掠れた声で声を絞った。
「…だれ」
「おや」
笑みを含んだ、柔らかな声が御簾越しに届く。
ふしぎと、警戒心はわかなかった。
それに、
(どこかで、)
聞いた、声だ。
「失敗したな。寂しくはないのに懐かしさについ、…迷いこんでしまったようだ」
ゆらり、御簾が揺れる。
影が、撓んだ。
「未だ幼い愛しいひとよ」
それは、私への呼びかけだったろうか。
「もし望むなら、我を呼べ。子守唄をさえずってやろう」
直後。
すぅ、と全身を涼しい風が通り抜けた気がした。
一瞬で、身体が軽くなる。
「あの…?」
御簾の向こうに声をかけた。
だがその時には、影は消えている。
少し、躊躇し、すぐ私は寝具から立ち上がった。
御簾をそっとめくる。
やはり、そこには誰もいない。
―――――…そこに、誰かがいた。
声を、かけてくれた。
その記憶すら、夢の断片のように切れ切れになっていく。
不自然なほど、簡単に。
また、頬に感じた涼風に、湿った土の香りを感じ、ようやく意識がこの場所に戻ってきた私は大きく息を吸い込んだ。
…春が、終わる。
もうすぐ、夏だ。