第四章(3)
―――――敵は人外と通じている。
親からの教えのままに、人間に追われた人外たちは逃げた。
追ってくる人間たちの敵地へ、…必ず。
誰も疑問を持たず、繰り返し。
積み重なった行動は、やがて根深い疑惑へと成長し、―――――戦の礎となった。
つまり、…ずっと昔から、種はまかれていた?
―――――史郎が尽力し続けたこととは、正反対の、種が。
久嵐が、息を引いた。目を見張る。
「…なん、で、っ」
言葉を詰まらせ、彼は首を横に振った。
黒蜜の双眸に、ふっと苛立ちの険が宿る。
「説明が必要?」
黒蜜は、うんざり言い放った。
なんて莫迦なのと吐き捨てる。
黒蜜が放つ暗いものから久嵐を庇うように、清孝が前へ出た。
柘榴がその隣に並ぶ。
彼等と対峙するように、赤桐と鴉葉が黒蜜の前に立った。
「…ああ、よろしくてよ、そのみじめさに免じて、あやしてさしあげますわ」
一瞬で表情が変わり、黒蜜は嫣然と微笑んだ。
「人間たちが、望んでいたからです」
ひとへの悪意を隠さなかった舌の根も乾かない内に、まるで善意から行動したと言わんばかりの口調で言葉を紡ぐ。
「―――――戦いの、言い訳を」
ねえ、と黒蜜は首を傾げる。私を見た。
「人間と言う存在は、狂気そのものですわね。口で平和を語りつつ、手を後ろに回して、戦いの準備をしておりますもの。
真心は、いったいどこにございますの?」
「今話してんのは、てめぇの真意だ、骸伯」
史郎はうるさそうに手を振って、黒蜜の惑わしを一蹴する。
「てめぇの趣味の悪さは承知だが、今回は度を越してらぁ」
「よく言われますけれど、今回? いつのお話?」
黒蜜は、聡明だ。相手の言葉の真意など、本人以上に承知だろう。
承知で、ひらりひらりと言葉を翻し、結局何も答えない。
私は、史郎が指摘していることは、西方の人外の子らに伝わった教えの一件だと思った。
場に居合わせた者は皆、そう考えたはずだ。けれど。
冷淡に史郎は続けた。
「祭りの日」
私は目を瞬かせる。
史郎はまた、別のことを言おうとしていた。肝が冷える。
この上何を、黒蜜は行っていたのか。
面倒そうに、言葉が紡がれた。
「座敷牢の鍵を外しただろう」
一瞬私は、何を言われたのかわからなくなる。
黒蜜の闇色の双眸が邪悪に笑った。
「まぁ、怖い」
とたん、私の中でいっきに何かが繋がる。
媚びにべたつく声で、黒蜜が言った。
「黒蜜は、仕掛けただけですわ」
祭りの日、狂女の棲み家たる座敷牢の鍵は外れていた。いや。
―――――――外されて、いた。
「現状に至るまで事態を転がした責任は、」
狂女――――商人の娘は、そこからさまよい出た。
歩きだした彼女が求めたのは、何だったのか。
失った恋しいひとか。それとも。
…我が子?
いずれにせよ彼女は、白鷺家の重臣の娘と出会った。
けれど、なぜだろう。
商人の娘と白鷺家の重臣の娘の邂逅は、作為の結果ではない気がした。
そこまでは、黒蜜には操作できなかったはずだ。
黒蜜が人間に抱く嫌悪は、きっと本物だから。
狂った女に昔ひどい仕打ちをした相手が、死んだ少女の親であったか否かは、分からない。
だが、因縁が巡った、と感じずにはいられなかった。
黒蜜は、勝ち誇った声で言い放つ。
「…人間たちが負うべきではございませんこと?」
確かに、結果には黒蜜の悪意も関与はしているだろう。
あるいは。
関わった全員が協力して、この戦を起こしたように見えなくもない――――その考えに、鳥肌が立つ。
独り言のように、黒蜜が言葉を続けた。
「実際、喜んだ者も多ぅございますでしょう?」
刹那、死んだ少女の肉親が口にした残酷が脳裏に反響する。
―――――口実として、実に都合がよい。
あの刹那、私は恐怖に縮こまってしまったが。
…なぜだろう。
今日は、ふと冷静が立ち戻った。
腹の底から膨れ上がった何かが、私の唇から吐きだされる。
「望まない者も、いました」
思いの外冷静だったものの、自分の声を、遠く感じた。
…どうしても、考えずにいられない。
死んだ女の子。
ちいさな枝になった八重。
捨て身だった玄丸。
罪に放心した清孝。
慟哭もできずに立ち尽くす久嵐。
ねえ、どうしてこんなことになったの?
周囲の耳に私の声はどう届いたか、その場にいた全員が、なぜか口を閉ざした。
幾人かが、ぎょっとしたように私を見たが、構っていられない。
しずかに史郎の隣に進み出る。
「戦いを」
私を映す黒蜜の双眸が細められた。探るように。
もしかすると、それは私の表情なのかもしれない。
私は、黒蜜がどういうつもりなのかを知りたい。
黒蜜は、狂的だ。
ただなにか、違和感があった。
狂気は上辺だけで、内側には冷たく凍えた冷静な芯がある。
黒蜜の在り様すべてを否定し、拒絶するだけなら簡単だ。
だが、知ることができなければ、対策の取り様がない。
同じことの繰り返しになる。だから。
理解したい。
「おれは」
すぐそばで、呆然と声が上がった。
「望んじまった」
久嵐だ。
見開いた目で戦場を映し、喘ぐような息をこぼす。
真の闇がにじむ黒蜜の目が、強く拳を握る少年の姿を一瞥した。
「あらなぜ、それを後悔なさるの?」
喉の奥で低く笑う。
「さぁ、よく御覧なさいな。これが、あなたの望んだ光景ですわ」
「…違う…」
久嵐は、血がにじむような声で唸った。
「違うものですか」
鬼が跋扈する戦場を、黒蜜は陶然と振りかえる。
「うしなってはじめて、理解できるものでしょう?
当たり前のものがある、そのちっぽけな現実が、ほんとうはどれほど尊いか、うつくしいか、幸福か」
かわいそうなほど自身の心を責めることを隠さない久嵐と対照的に、清孝の表情が、不吉なくらい無にかわる。
何も感じまいとするように。
黒蜜は極まったように息を吐きだす。
「その感覚の、刺すほどの心地良さと言ったら」
「ならば」
狂気を抱き寄せる黒蜜の言葉を、私はしずかに遮った。
「罪も喪失も、祝福ですね」
当たり前にある存在が幸福と言うなら、それは。
「世界は幸福で満ちているということを、知れたのですから」
…そういう、話。
だけど、それを腹の底まで理解したなら、もう二度とその人は、誰も傷つけようとはしないはずなのに。
そう、できないのは。
自身の痛みにばかり、囚われてしまうから。
私には、それを責めることができない。
だって、私にもその気持ちはよく分かるから。
ふ、と黒蜜は目を見張った。
はじめて見るもののように私を見つめ、首を傾げる。
「王のうしろに、…今日は隠れないのですね?」
表情だけ見れば、ただの疑問のようにも聴こえた。
だが、間違いない。
これは。
(挑発)
「はい。ですから、骸伯も」
決して、問いに真っ直ぐ答えない黒蜜が口を挟む前に、私は鋭く言葉を挟んだ。
「狂気の後ろに隠れないでください」
不意に、黒蜜の表情が歪む。
たった一瞬だったが、それは確かに、怒りだった。
そしてこの怒りの正体は。
―――――自身を守るための、もの。
唐突に気付いた私は、目を見張る。
このひとは、もしかすると。
しかし、黒蜜が何かを言う前に、
「凛殿」
虚空を見つめ、清孝が諦念に満ちた声で呟いた。
聞く者を、奈落に引きずり込むような声だ。
「なんであれ、罪は、罪です」
「黙れ、鬱陶しい」
にべもない断言は、史郎のものだ。
「言っておくが、西の侍」
不機嫌な表情で、史郎は続ける。
「罪は、人間の創作だ。それも、権力者側のな」
大きく腕を動かし、史郎は太刀を肩に担いだ。
「大勢を従わせるために、実に都合がいい鎖とは思わねえか」
「…っ、しかしっ」
「あのな、頭で考えるな。筋肉バカが」
史郎の罵倒は容赦ない。
傍で耳にするだけで怖気づいてしまう。
「てめぇが戦いの最中、一番に使うのはどこだ?」
史郎の言葉に、清孝が眼を瞬かせる。
にやり、史郎が唇の端で笑った。
「いちいち思考してねえだろ」
清孝が反射的に片手で押さえたのは、腹部。
―――――丹田。
「強くなるために、一等に鍛えた場所は、どこだ。そこで考えろ」
清孝は俯いた。わだかまりが消えた様子はない。だが。
目が覚めた表情をしている。
「ま、細かいこたどうだっていい」
不意に、史郎の口調が、明るくなった。
「骸伯、てめぇを裁く必要があるって年寄りどもはうるせぇが、それもあとだ。…まずは」
史郎が太刀で、淀んだ空気を真横へ薙ぎ払った。
形状はただの刀――――なのに奇怪な気迫が、熱風のように私の頬を打つ。
「おい、犬っころ」
鞭打つ呼びかけに、久嵐は夢の中に立っているようにのろのろ振り向いた。
「どうにかしてえか」
この状況を、と史郎は戦場のあとを見渡した。
久嵐はぐっと唇を噛んだ。
史郎の声は、救いの声のようで。
反面、――――試練のような、厳しさがあった。
それでも縋らずにいられない。
そんな、必死の色が久嵐の双眸に宿る。
彼の中で粉々になった何かが、ざわり、と蠢いた。
不吉な蠢動ではない。あるのは、何かが始まろうとしている気配だ。
久嵐は、悔恨に満ちた双眸で、深く頷く。
先刻と、なんら変わった様子はない。けれど、確実に、久嵐の中で変動がはじまっている。
ことり、ことりと。
私はその正体を見定めようとした。とたん。
史郎の唇が、残酷なほど暴力的な笑みを刻んだ。
「なら、死の穢れは祓ってやろう。だが条件がある」
ほとんど命令の口調が、久嵐に投げられた。
「鬼はてめぇでどうにかしな」
その一瞬。
史郎の満月色の瞳が、重い緊張をはらんで沈んだことに気付けたものは、いったいどれだけいただろう。
久嵐が眼を見張る。
反論だろうか。口を開きかけた。だが、史郎は何も言わせず、
「凛」
私を呼んだ。
声の調子から、すぐ理解する。
求められていた。
霊笛を。
「はい」
布袋から、霊笛を取り出す。
史郎の様子は気になったが、問う間はなかった。
自然と唇に添えた。眼を伏せる。心が、無音になった。
騒がしい思考が、あっという間に遠のく。刹那。
―――――大地を音が奔った。
霊笛から、一直線に。
なんのために、史郎が私の音を求めたかすら、一瞬忘れかけてしまう。
けれど、それが一番いいのだろう。
史郎にとっても、私にとっても。
当たり前のように自然にきらめくこの音が、すべていいように導いてくれる。
「くく…っ」
すぐそばで、笑うように史郎の喉が鳴った。
うずうずと、彼の肉体の芯が疼くのがわかる。とたん。
史郎が動いた。
「…これだよ、これ!」
痛快、と言いたげに叫んだ。
満月色の双眸が輝く。
刃が、鞘から引き抜かれる。
着物の袖が翻った。
水を得た魚のように、軽やかに史郎の身が舞う。
―――――太刀と共に。
流麗と言うより、快活な動きだ。幼い少年を連想させる。
手放しに開けっぴろげで楽しげに、明るい拍子で史郎が汚れた大地を踏んだ。
回る。
飛ぶ。
太刀が躍る。
そのたびに。
…史郎の力が、大気に、大地に刻まれていく。
どこまでも、力強い。
彼の舞は『力』の舞踏だ。
一見、狂気じみた激しさを体現しているのに、本人は至って涼しげだった。
あかるく文句を口にする。
「どうせ全員、この世界からは逃げられねえぜ?」
独り言のように呟きながら、瞳が物騒に輝いた。
「腹ぁくくれや」
さして大きな声でもないのに、身体の底までずしりと響く。
鼻歌交じりに、大地を踏んで。
「ふん、頃合いか」
ふ、と深く腰を沈めた。
たちまち、史郎の周囲へ、いっきに力が収束する。
(あ、くる)
感じた刹那、史郎は歯ぐきを見せて、獣のように笑った。
「―――――爆ぜろ」
太刀が、真一文字に振り抜かれる。
刃が吼えた。
そんなふうに感じたのは、膨れ上がった史郎の力が、刃の切っ先が描く軌跡のままに、戦場のあとを放射状に噛み砕いていったからだ。
いや、視覚の中では、何の変化もない。なのに。
一瞬で、周囲の色が塗り替えられたような変化を感じた。
「あらあら」
真っ先に、あきれ果てたような、楽しげな声を上げたのは、黒蜜だ。
「瞬きの間に、これほどの穢れを祓い除けられるのですね? …少しは常識を学ばれるべきですわ、北王は」
「んなこと言ってる場合じゃねえだろ、主殿」
焦った声をあげたのは、無精ひげの男―――――鴉葉だ。
周囲の状況に尻込みしながら、顔をしかめる。
「穢れがねえってことは、『連中』の餌がいきなり消えたってことだぜ?」
その目に映るのは、…鬼。
彼等は、唐突に消滅した穢れに、動きを鈍らせていた。
直後、清孝が刺すような声で私を呼んだ。
「凛殿!」
彼が何を言いたいのか。
わからないものは、いなかったろう。
「凛」
抜き身の刃を提げたまま、舞おさめた史郎は沈んだ声で促す。
「続けろ」
私はまだ、奏でていた。
霊笛を。
だってしょうがない。
状況は、まだ不十分だ。
―――――残っているじゃないか。鬼が。
鬼が消えない以上、まだ音を止めるわけにはいかなかった。
鬼たちの注意が、次々と集中し始める。
霊笛の音に。
穢れを食らう鬼が、正反対と感じられる霊笛の音に何を求めたのかは分からない。
なんにしろ、鬼たちが音色に魅了されたのは事実のようだ。
「北竜公!?」
霊笛を奏で続ける危険を察し、柘榴が非難の声を上げた。
なぜ続けろと言うのか、と。
黒蜜が目を細める。
「鬼を、…わざと残されましたわね?」
その指摘に、私も心の中で頷いた。
「王は、祓われませんの?」
これほどの力がありながら、という黒蜜の言葉に、史郎は答えない。
返事の代わりに、史郎の手の中で太刀が煙管に戻った。
満月色の双眸が、久嵐を見遣る。
「次はてめぇの番だ。犬っころ」
「…おい、冗談だろ」
久嵐が、唖然と史郎を見上げた。
彼は悠然と煙管の煙をくゆらせる。
話にならないとばかりに、久嵐は私に目を移した。
「やめろよ凛! それは鬼を呼んじまう!」
「もう遅ぇ」
史郎がしずかに口を挟んだ。
眼を伏せていても、私には分かる。
戦場いっぱいにある死体に匹敵する数だけ影のように跋扈している鬼たち。
その眼差しが、意識が。
すべて私に突き刺さった。
さぁ、彼等は獲物を視認した。あとは。
―――――捕獲し、貪るだけ。
「おかしいぞ、あんた北王だろ! てめぇの女を鬼に喰わせるつもりかよ!」
「どう思う」
史郎の声はしずかだ。しずかすぎる。
いやそうに、言葉を続けた。
「―――――取引は取引だ」
取引。
その言葉に、久嵐が眼を見張った。
そうだ、史郎は言った。
―――――死の穢れは祓ってやろう。だが条件がある。
久嵐が信じられない、と言いたげに、首を横に振った。
史郎は、死の穢れを祓った。
代わりに久嵐へ提示された条件は、
―――――鬼はてめぇでどうにかしな。
「おれはやるなんて言ってねえ!」
「ちっ。ならなんで、祓いを黙って見守った。…止めるべきだったなぁ?」
痛いところを突かれた顔で、久嵐は唇を噛んだ。
「俺は手が出せねえぞ」
史郎は続けた。
「とっととやれ」
状況のすべてに無関心な声で。
だが、…近くにいるせいだろうか?
表面上平静だが、史郎の苛立ちが感じられた。
「なんで」
久嵐は、はらわたを吐きだすような声で叫んだ。
「なんでおれなんだよ!」
「望んだからだ。てめぇが」
史郎の声に、雷に似た怒りの波動がにじむ。
「てめぇは漫然と生きながら、死を望んでいる」
「あんたがおれの何を知ってるって言、」
「自覚しろ、クソガキ!」
殴りつけるような史郎の叱責に、久嵐は声を呑んだ。
「また置いていかれるのが怖いから、独りでいたか? そりゃいいさ。ただの臆病者なら、害はない。だが、てめぇは反芻してたろうが」
「な、にを」
気圧されたように久嵐が一歩下がる。
史郎は、重い声で続けた。
「喪失の記憶を、自身の故郷を滅ぼされた時の記憶を。ずぅっと、な。強く、つよく。みっともなく過去にしがみつきやがって」
一瞬、久嵐は息を止めた。
そこに、刃のような史郎の声が刺さる。
「―――――それが、てめぇの周囲に死を呼んでいる。…まだ繰り返すのか?」
史郎は、見限るように目を伏せた。
心底、面倒そうに言葉を続ける。
「知っているな。鬼は消せねえ」
「―――――なら、どうやれってんだ!」
久嵐はほとんど混乱している。
史郎は取り合わない。
ただ、厳しく一言。
「還せ」
久嵐は首を横に振った。わからない、と。だが。
「知っているはずだ」
史郎は何の説明もしなかった。代わりに、
「はやく」
声から、どんどん感情が消えていく。
「やれ」
「チクショウ!」
久嵐は私たちに背を向けた。刹那。
鬼たちの姿が歪む。
水に溶け崩れるように、大気の中、靄のような形でいっとき、わだかまった。直後。
凝った闇が私目がけ、殺到する。
久嵐が叫んだ。
「やめてくれよ、もう…やるならおれをやれよ!」
「だめだ」
惑乱した声を、涼しい声が遮った。
久嵐の前に割って入った影がある。彼を守るように。まるで、一陣の風。
―――――ひとつの恐れ気もなく、清孝が。
「なんでだよ!」
久嵐は、彼の行動の意味を見誤ることはなかった。
何より、清孝は探していた。
…死に場所を。
それ以外の理由も、ある。
もうひとつ。
なにせ、久嵐は。
―――――清孝が唯一、守れた命だ。
「ハッ、本気で、無力でいたくないなら、犬っころ」
史郎が、煙管で虚空を示した。久嵐が、血走った目でその先を追う。
「標を掴め」
史郎が、ひどく面倒そうに呟いた。
「音を」
刹那。
久嵐はがむしゃらに、霊笛の音に寄り添った。
常軌を逸した集中―――――ヒリつくそれを私が体感した直後。
突如大気が、真っ白に爆発した。
吹き飛ばされる。
そんな確信まで抱く衝撃が全身を殴った。
いや。
私ひとりなら、四肢をばらばらになっていた。
よろける程度で済んだのは、史郎が庇ってくれたからだ。
気付けば私は、史郎の胸に転がり込んでいた。
それでも霊笛はしっかりと握りしめていた私の頭上で、史郎が低く笑う。
「手のかかるガキだ」
言葉の割に、勝ち誇るような響きがあった。
感じ取ったとたん。
獣の遠吠えが、大音声で場を圧した。
皮膚が痺れる。
暴力的というより、どちらかと言えば音楽的なそれは、すぐそばで湧き起っていた。
視界の端を、銀色が掠める。
いえ、白銀?
輝きが、星屑のようにきらめくそれは体毛だ。獣の。
私が思わずそれを見直した時。
「千年前、北王が選定された時、天花が降ったと聞いておりますわ」
これがそうなのですの、と黒蜜の面白がるような声が耳に届く。
「…まさか今、王の選定が成されるとは」
すぐ近くに見える、白銀色の毛皮。
狼の姿をかたどる巨大なそれを。
赤、青、黄、白…、万色の花が飾り立てている。
思わず目を上げる。
花が降っていた。
青空から。
あとから。あとから。
その、中央で。
白銀色の巨大な獣が、天へ向かって吼えている。
昇る。
のぼる。
咆哮が、どこまでもどこまでも、…のぼっていく。
鬼の姿はもうない。
「まさかあの、みすぼらしい子供が『そう』とは、思いませんでしたわ。…西は、やりにくくなりそうですこと」
投げやりな黒蜜の言葉に、私は面食らった。
では、この巨躯をもつ白銀の狼が、―――――久嵐、とでも言うのだろうか。
そして、彼が。
西王。
確かに、史郎は言ったばかりだ。この間。
―――――新たな王が生まれる。
久嵐が、王?
確認しようと黒蜜を見遣る。だがもう、その姿はどこにもなかった。
従っていた二人の影ごと。
視界の端では、私たちから少し離れた場所にいる柘榴が楽しげに狼を見上げている。
清孝は蒼穹を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「ふん、この、寝ぼすけが」
私にだけ聴こえる声で、史郎が呟く。
けれど、その身体が。
微かに、震えている。
見上げたが、史郎は目を合わせてくれない。
あさっての方向を向いたまま、ただ小さく、囁いた。
「くそ、キツかった…。こんなじゃ、俺は玄丸を責められねえな」
あ、と私は声をこぼす。
そうか。
史郎が言っているのは。
私を、囮のように使ったことだ。
私はつい、微笑んだ。
史郎の顔に手を伸ばす。
無礼だろうか。思ったものの、肌に触れたい欲求の方が勝った。
怒られたなら、その時はその時だ。
掌で、そっと彼の頬を覆った。
史郎は一度、わずかに息を詰める。だがすぐ、息を吐いた。深く。
彼は避けない。
良かった。
「お疲れ様です」
労いなど、史郎には必要ないだろう。
やることなすこと、できて当然だ、と思っている節が、彼にはある。
労いは、ともすると、史郎には侮辱かもしれない。
だが、失敗の許されない状況で、結果を出さねばならないのは、心にひどく痛いと思うのだ。だから。
史郎は、少し不貞腐れたように言った。
「本気でそう思うなら、褒美をくれ」
目を瞬かせた私を、史郎は面白そうに見下ろす。
わざとらしいくらい偉そうに続ける。
「なあ、本当にねえのか」
「何が、ですか」
「俺に望むことだよ」
まさかまた、聞いてくれるとは思わなかった。とはいえ。
…褒美をくれ、と言ったのは史郎なのに、なぜか私へのご褒美になっている。謎だ。
「えぇ、と」
私の表情に何を見つけたか、ふと、眼を細めた史郎が、頬に触れた私の手を掴む。
ぐっと身を屈め、顔を覗き込んできた。
「ん、なんだ。…言ってみな」
どうしてだろう、史郎はとても楽しそうだ。
「なぁ?」
「あの。い、一緒に」
八重の屋敷を思い出す。
結局、彼女が振る舞ってくれた食事は手をつけられなかった。
あの邸は、今どうなっているだろう。眷属たちは。
だが、私は今ここにいる。史郎もだ。
共にいられるのに、遠慮をしてどうする。
想像もしたくないが、手遅れになってから後悔しても何にもならないのだ。なら。
「…い、一緒に、ご飯を、…食べてほしい、です」
思いきる。直後にもう、後悔した。
弱気に付け足す。
「あ、一回、一度で、いいので」
史郎は眼を見張った。
「なんだぁ?」
「だ、め、…ですか」
「違う」
落胆を隠せず、肩を落とした私に、史郎は怒った声を上げる。
「それっぽっちでいいのか? 他愛ねえな」
どういうわけか不満げな史郎の顔を、私はおそるおそる見上げる。
目があった。
たちまち、史郎がさらに笑み崩れる。照れくさそうに。
と思うなり、いきなり額に額がぶつけられた。
照れ隠しにしても、ちょっと痛い。
「ま、いい」
ちいさな声に、身が竦んだ。
すぐ、史郎は誓いにも似た厳粛な声で囁いた。
「かなえよう」
読んで下さった方、ありがとうございます。
終章にて、第二部完、となります。よければもうしばらくお付き合い頂けると嬉しいです。