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霊笛  作者: 野中
霊笛・第二部
25/72

第四章(2)

「大丈夫だ」


清孝が、ぼそりと呟く。眼を伏せたまま。

久嵐の肩が揺れた。




「蘇芳さまの首は、一太刀で落とした。苦しまなかったろう」




慰めの、つもりだろうか。

ただ問題は、そこではない。

たちまち、怒鳴りたいのに怒鳴れない、ざわめく沈黙が久嵐を取り巻いた。

清孝は彼に、それ以上何も言わない。


なんにしろ、久嵐が責めているのは、己自身だ。


顔を上げた清孝は、闇の通路のような眼差しを史郎へ向けた。

「…そのように、して」

言葉は淡々と紡がれる。


「無抵抗な子供を殺しました」

懺悔の響きはない。ただ空虚だ。


「女を殺しました」

声の底に沈むのは、単なる事実を伝えるような無感動さ―――――しかし清孝は、混乱のただ中にいる。

清孝は、ここにいて、話しているが、意識は彼岸にある気がした。


彼の右手から、破れ笠が落ちた。

節くれだった指が、ぐっと太刀の柄を握り締める。

「――――強さの意味が、分からなくなった」

大きく、清孝は息を吐きだした。

泣きだしそうに震える息を。


「…花の盛りの頃、公が仰せになった通りです。オレはオレ自身から、復讐された」


自分自身からは、誰も逃げられない。


彼は途方に暮れていた。

しかし、清孝が語ることは、他人にはどうにもできない問題だ。

答えは、自得するよりほかにない。


居たたまれず、私は史郎を見上げた。

彼ならなんと言うだろう、と思ったからだ。

けれど。

彼は不思議そうな目で、清孝を見返している。

…これは。


あることに気付き、私は肩を落とした。

おそらく、史郎は自身が清孝に何を言ったか覚えていない。


それでも少しは記憶を探る顔をしたが、すぐどうでもよさそうな顔になる。



「その様子だと、あの主人と手は切れたな?」



私は思わず清孝の姿を見直した。

想像もつかなかったからだ。清孝が、一度主と定めた相手の元から出奔するなど。

第一、清孝は、そのようなことは一言も言っていない。


白鷺家と縁を切った、とは。


だが、このような状況で、目の前にいる以上、史郎の言葉は間違いないのだろう。

「…仰せの通り」

根なし草にございます、と清孝は疲労し切った顔で呟く。

史郎はからりと笑った。




「そりゃ万々歳だ」




満月色の目を細め、非情なことを言い放つ。

「『道』からずれた人間を司令塔に機能する化け物なんざ、始末する必要があったからな」

化け物と呼ばれた清孝の顔が、苦痛にゆがんだ。

俯いていた玄丸が、ぼそりと口を挟む。



「…白鷺におりますアレは、人間などではございませんよ」



柘榴が混ぜっ返した。

「ならば、人外かのぅ」


「同類扱いなど、汚らわしい」

小春が静かに断言した。

「アレは欲の塊にすぎません。人外にも道理はあります。そもそも」

彼女は早口に言い募る。

「男と言えば女、善と言えば悪、人間と言えば人外、世界は二元的です。言葉ゆえに」


「ですが、厳密にはそれらは同じもの」

玄丸は顔を上げた。

表情は静謐だ。

「言葉は便利な道具ですが、ゆえに罪深いものですな」


「考えてもごらんなさい。片方が欠けては、もう一方の存在は完全には説明できないのですよ」

小春は柘榴を睨む。

「故にもう一方に、片割れは常に含まれているのです」

「わかった、わかった」

柘榴は降参と言いたげに両手を上げた。


「この世には、人間でも人外でもない存在がおるということじゃな」


「てめぇはヤバいほうに片足突っ込んでたんだぜ、西の侍。で?」

戻ってきて何よりだ、と史郎は煙管に口をつけた。

一服し、煙を吐き出す。

乱暴に清孝を促した。

「ここに来たのはんなちっぽけな報告が目的じゃねえだろ」


不意に、清孝が私を一瞥する。


刹那、その場で片膝をついた。

私に向かって。

深く、頭を下げる。


私は勢いに度肝を抜かれ、続く言葉に目を見張った。


「霊笛を」


清孝は、地面に向かって血のにじむような声を吐きだす。ただ。

そのときだけ、今日はじめて彼の声に猛烈な生気が宿った。











「お力を、賜りたく」











「―――――鬼が」

史郎の唇に、皮肉が刻まれた。

「生じたってなぁ? …戦場で」

私は戸惑って、史郎を振り返る。彼は、空を見上げていた。

表情から、その考えは読み取れない。

「敵が、仲間が、…死してなお、辱められ、苦しむ光景が辛い、か」

清孝の肩が、わずかに揺れた。


「凛殿の霊笛、ならば。浄化がかなうと」


「図々しいにもほどがあります」

小春が冷たく吐き捨てる。

隠すことのない侮蔑の瞳で、清孝を見遣った。

「血河を為し、未だ死体が山と積まれ、鬼が跋扈する戦場に、御寮さまを招くと仰る?

…我らの御寮さまは、浄化の道具ではございません。そもそも。


最も多く、死体を生産なさったのは、御身ではありませんか?」


ひどい死臭ですよ、と小春は袖で顔の下半分を覆う。

清孝は、無言だ。

小春の言葉が聴こえていないわけではないだろう。

ひたすら、彼は、待っているのだ。




―――――私の、言葉を。




すぐそばの久嵐が、縋るように私を見た。

柘榴が、私を横目に、問うように首を傾げる。

玄丸が、思考の読めない笑みを浮かべ、目を細めた。


私は唇を噛む。


是、と即答はできない。

戦場の浄化など経験はない、という不安もある。だが、それ以上に。




清孝の動向が、読めなかった。




戦場の浄化だけが、残ったたったひとつの望みと言わんばかりの様子に。

もし、浄化がかなえば。

清孝は―――――生を手放すのではないだろうか。

できるなら、彼の望みに沿うよう、動きたい。

けれど。


これでは清孝は、まるで自分の死に場所を探しているようではないか。


「凛」

空に何を見たのか、史郎が不意に私を呼ぶ。

結論できない自身が情けなくなりながら、私は頷いた。

「はい」




「鬼見物といくか」




言って、欄干を飛び越えた。

慌てて眷属の一人が駆け寄る。草履を差し出した。

史郎はそれを無造作に引っかける。


私は桶に残っていた水で、簡単に手を洗った。慌てて襷をほどく。

史郎に駆け寄った。

私に手を差し出した史郎が誰にともなく尋ねる。


「霊笛は」

「こちらに」

小春が、諦めたように布袋に入ったままの豊音を差し出した。


部屋に置いてあったのだが、いつの間にとってきたのか。

私は霊笛と交換に、身につけていた前掛けを小春に預ける。


史郎の手に右手を預け、私は彼を上目遣いに見上げた。




私が感じた清孝の危うさを、史郎が察していないわけがない。




それでも史郎は、清孝に応じることに決めたのだろうか。

史郎は不敵に笑った。

「請われたのなら、仕方ねえさ」

…史郎の心が定まっているなら、私も覚悟を決めるだけだ。


「これなら理の範囲内だ。それに」

史郎の視線が、西方へ流れる。






「…見逃せないこともできた。すべて、頃合いだ」






『すべて』?

史郎の言葉に首を傾げる。彼は玄丸を一瞥した。

「てめぇが来たってことは、アイツは動いたんだろう?」

「今頃は―――――朱首峠に」

「ふん」

史郎が煙管を軽く振った。


刹那、それが刀に変わる。

史郎の手が、鞘を掴んだ。



真牙の太刀だ。



その鞘で、彼は大地を突いた。

「おい、何人か」

史郎の声を耳に聞きながら、私はいつもの感覚に身を包まれる。


脈動が開き、身を運ばれる感覚だ。






「同道してもらうぞ」






それは、強制であり、命令だった。刹那。

―――――生ぬるい風が、私の顔を叩いた。

生臭い。思うなり、


「柘榴」

面倒そうな史郎の声と共に、私は彼から引き離された。

「承知」

鋭い柘榴の声。次いで、浮遊感。

間髪入れず、



「久嵐!」



叱責に似た清孝の呼びかけ。

直後、私はやっと目を開け、―――――ギョッとした。

私は、随分高い位置にいた。地面が遠い。


予備動作ひとつない柘榴の跳躍力に、驚く間もなかった。

清孝が、久嵐の首根っこを引っ掴む。

私たちとは、逆方向へ跳躍。

彼等の姿を目の端に認めながら、私は息を呑んだ。




「史郎さま!」




思わず叫ぶ。

なぜって。

史郎の足元で、巨大な口が開いたからだ。

咄嗟に、彼へ手を伸ばす私を見上げていた史郎が、楽しげに呟いた。


「面白いじゃねえか」

視線を転じ、ぞろりと牙の生え揃った喉の奥を見下ろす。






「試してやるよ――――俺を呑み込めるかどうか」






あろうことか、史郎はそこへ、自ら飛び込んだ。とたん、

―――――がちんっ。

歯と歯が、噛み合った。

「史郎さま!」

史郎なら、心配ない。

間違いはない。


…知っていても!


全身から、血の気が引いた。

「いかん、凛!」

暴れた私を抱き止めようと、柘榴が咄嗟に腕に力を込め―――――ようとして、一瞬、迷った。


それもそうだ。




力の加減なしに柘榴が私を抱きとめれば、私の骨が砕ける。身がちぎれる。




だから、彼女は躊躇った。刹那。

私は、落ちた。


幸い、地面は近かった。

無論、立っているほどすぐ近く、とは言えない。


が、私でも受身をとれば、無傷で済む程度には。


転がる。立ちあがった。

―――――落ちた場所が地面だった、それだけでも幸運だったのだと気付くのは、すぐだ。

むせかえるほどのにおいが一帯に漂っていた。


死のにおいが。…腐臭が。


当然だ。

戦の後、ずっと死体は野ざらしにされていた。




肉体は腐り。


動物がたかり。


虫が湧き、―――――濁った沈黙が漂っている。




太陽の光が、死体の皮膚を、ふしぎと白く照らしていた。

その、合間を。

闇の霧を衣のように纏う巨大な岩のような姿が、酔っ払いのような足取りで歩いている。


その頭部と思われる部分には、あるモノがあった。






(角)






では、あれは。

寒気と共に、その名称を連想するなり、


「鬼、ですわ」

前触れなく、声が耳朶を撫でた。

しっとりと艶めいた声―――――ただし、低音。女性、ではない。


梔子に似たかおりがふわりと鼻腔をくすぐる。


弾かれたように振り向いた。…誰もいない。

怖々と、顔を戻そうとするなり、―――――手首を掴まれた。


驚く間もなく、






「ばぁ!」






背を抱かれた。

そのときにはもう、知らない男の人が顔を覗きこんでいた。


やさしげな美貌。ゆるく波打つ、長い黒髪。酔ったように、眠たげな半眼。

唇には誘いこむような微笑が浮かんでいる。


稚気に満ちた微笑を浮かべ、彼は言った。


「北王の奥方ともあろうお方が、なぜこのような不浄の場へ? 

お会いできることは、黒蜜、心底嬉しゅうございますが、もう少し、

危機感をお持ちになった方がいいと、僭越ながら申し上げておきますわね」


低い男性の声で紡がれる柔らかな物言いに、私は一瞬、言葉に詰まる。

どう見ても、男の人だ。

口調がどうでも、女性ではない。


だが私は呆然と、その名を口にしていた。






「…骸伯?」


「黒蜜、とお呼びくださいな」






こうなると、もう驚きも麻痺してくる。

人外は、人間の価値観から軽々とはみ出す。

年齢を一定させないどころか、性別をも行き来する者が存在する。

何をもってすれば、正しく対象を認識できるのか、分からない。

直感で対応するのがやっとだ。


そう、『彼』を黒蜜と確信するのは、感覚に過ぎない。


油断のならないこの雰囲気こそが、まさに黒蜜そのものだ。

猛毒じみた魅惑の力も、また。

命そのものが、存在を拒絶したがっているような。


だが、初見で感じた、嫌悪とも悪寒ともつかないその感覚が、今は薄い。


そんなことより、史郎の方が気になる。

私は黒蜜から身を離そうとし、―――――だが、背を抑える力は、思いの外強かった。

支える、というよりは、拘束だ。

動けない。


「離して下さい」

私は史郎がいなくなった足元へ気をやりながら、上の空で訴える。

「史郎さまをお捜ししたいのです」

彼は――――黒蜜、と名乗った男性は、私の態度を気にも止めない。

唇を尖らせた。




「それにしたって、完全に意表をつけたはずですのに、ちっとも驚かれないのですね?」


「骸伯」




本当のところ、このひとには私の反応は眼に入っていないのではないか。

ふと、そう思った。

目を合わせても、黒蜜自身の夢の中にいるような感覚がある。

手応えがない。


「そんなだと、いけませんわ」

唐突に、黒蜜の整った顔が鼻先まで近づいた。

「…この、きれいなお顔を、歪めてみたくなる」


「そこの」


不意に、耳朶を風が掠める。

「凛から手を離した方が長生きできるぞ?」

柘榴の声だ。

黒蜜が、声なく笑う。楽しげに。刹那。




黒蜜の首筋ぎりぎりで、火花が散った。




刃と刃がかみ合ったのだ。


「ほぅ」

小太刀をもった柘榴が、流血を思わせる物騒さで呟く。

「受けてのけるとはの」

黒蜜のすぐそば。


赤い短髪の少女が、クナイで柘榴の小太刀を受けている。


噛み合う刃は、びくとも動かない。ひどく静かだ。

だが凄絶な力がこもった拮抗―――――その均衡が崩れる寸前、






赤桐(あかぎり)(あるじ)殿(どの)






柘榴越しに、新たな声が飛んだ。

柘榴の目が動く。

「避けてね」


警句にしては、気の抜けた声。


同時に、柘榴の背後に、黒い影が見えた。

斜めに走った光は、…刃!


「柘榴!」


反射で、私が出した力はどのくらいだったのか。

からかいの拘束はたちまち、解けた。

次いで私は柘榴に手を伸ばし、

「あ」


当然だが、逆に柘榴に突き飛ばされた。

近寄らせないのは、当たり前だ。

危険なのは私ではなく、柘榴の方なのだから。


私の目の端で、柘榴の身体が反転。するりと相手の懐に踏み入った。

勢いもそのままに斜め下から、小太刀が閃く。

刹那、そこに柘榴の全体重が乗った。


刃が、相手の胸元に真っ直ぐ吸い込まれる――――寸前。


相手が、後ろへ跳んだ。

黒髪、隻眼の男だ。無精ひげ。蓬髪、やせぎすで黒づくめ。


鋭利と言うより、ひょうきんな動きに一瞬呆気に取られた時、

(からす)()!」

先ほど、赤桐と呼ばれた少女が、黒蜜を庇うようにしながら叱責の声を上げた。




「遊ぶな!」


「だって、美人を殺すなんて拷問だよ」




彼は飄々と応じる。殺されようとしている最中に。

豪胆なのか、図太いのか。そこへ、

「女を相手にしにくいなら」

すっと清爽な声が割り入った。合わせたように、柘榴が動きを止める。

彼女の眼前、滑り込んだ人影は、




「オレと手合わせ願おう」




清孝だ。

立ち止まりもせず抜刀―――――気付けば、刀は振り抜かれていた。

いつ抜いたのかすらわからなかった。と言うのに、

「うわっ、怖っ」

鴉葉と呼ばれた無精ひげの男は、生きている。


あの一刀をかわしてのけた。身を沈めて。


悪いが、生存していることが冗談のような攻防だ。

鴉葉は、必死の形相――――それすらどこかしら演技めいていた。

相対する清孝に、

「へえ」

意表を突かれた様子はない。


どころか、心底楽しげに頬をほころばせた。

「良かった。大根じゃなさそうだ。簡単に斬られるのはなしですよ?」

「待った、侍相手にんな約束できっこな…ってぇ!」

空ぶった清孝の刃。



それが、いきなり垂直に落ちる。



鴉葉は辛くも横へ転がった。それもかわしきる。

一方で、業を煮やしたように赤桐が一歩踏み出した、そのとき。






―――――大地が揺れた。






鼓動をひとつ、打ち鳴らすように。間髪入れず。


大地から噴水の勢いで闇が噴きあがった。

まるで濃霧。それが、一帯に立ち込める。

巨大な何かが、足元で渦巻いた。身が竦む。

異変に気にも止めず動いているのは、鬼たちばかりだ。

「これは…」

惑い、清孝は周囲を見渡した。

離れた場所で佇んでいた久嵐が、暗く呟く。


「北竜公だ」


打ちひしがれた彼は、うつろに周囲を見渡した。

戦場の後に残るのは。


彷徨う鬼。


腐り果てた人体。


汚れきった鎧。


壊れた武具。


折れた旗。


贓物をぶちまけた馬。




―――――それらいっさいを平等に受け止める大地。




久嵐の両手が、胸元を強く握り込んだ。

「こんな結果、…おれは望んでない」

ひとりごちるの姿は、今にも壊れそうなくらい、孤独だった。


今すぐ駆け寄って抱き締めなければ、ばらばらになってしまう。

ふと、私は久嵐にそんな危機感を覚えた。

けれど。


私は、奥歯を食い縛る。

知っていたからだ。


いくら親しげに笑いかけても、久嵐は私に気を許しているわけではない。


彼の胸の内には、何重もの鉄の扉があった。

そのすべてに、扉の数の倍以上の鍵がかかっている。


誰の腕が久嵐を抱き締めたところで、そのぬくもりは本当の意味で彼には届かない。

彼が抱える孤独は、あまりに深かった。



そこまで深くしたのは、―――――彼自身だ。



その扉を打ち破るのは、久嵐自身を破壊しかねない荒療治か、…時間が必要だった。


思うなり、私は目を見張る。

誰かに、似ていると思った。

でも誰に。

とたん。


幼く無力な久嵐の姿が一瞬、記憶の中の姿と重なった。それは。





―――――月丸。






幼い日の、史郎の姿だ。


拙い選択を繰り返し、間違った答えばかり選んできた久嵐の姿が、――――彼に重なった。


なぜ、そう感じたのか。

私がその感覚を慎重に見定める寸前。


ずん、腹の底を盛大に打つ音がして、地面がせり上がった。

咄嗟に足を踏みしめ、直後、虚を突かれる。

大地は、静かだ。

だが、気のせいで済ますには、奇怪なほど現実味のある感覚に、首を捻った直後。


いきなり日が陰った。


同時に、何かに呼ばれた心地になる。自然と顔を上げれば、そこには。








「…龍―――――…」








私は、無意識に呟いていた。

戦場の真上、その、…大空で。

龍が舞っている。






北方。


穂鷹山の主にして、人外たちを統べる四柱がひとつ、…あれが、北王。






巨体を悠然とくねらし、彼は大空を舞っていた。

はるかに見上げ、それにしても、と内心冷や汗をかく。


―――――以前、ここまで巨大だっただろうか。


「相変わらず、闇をまとっておいでですわね。殻のように」

呟いたのは、黒蜜だ。

「…ご存知ですかしら?」

大空を踊る龍を焦がれるように凝視し、黒蜜は熱に浮かされたようにひとりごちた。






「北王が落とす鱗は、純白ですわ。虹の光を放つ、それはそれは美しい代物」






え?


蒼穹を見上げた姿勢で、私は小さく息を呑む。

では、あの闇は何?

黒蜜は、小さく笑った。


間違えようもなく、そこには私を嬲る意図がある。気付いたのに。

「―――――即ち、本来の姿は闇に隠されておいでですのよ」

私は、黒蜜の言葉を無視できなかった。


反射的に私が黒蜜に理由を問いただそうとした、寸前。


話題になったのを察したように、龍が地上に鼻先を向けた。

間髪入れず、墜落の勢いで下降――――口を開く。直後、






―――――ッッ!






表現のしようもない音が、全身を突きぬけた。

これは鳴き声? 龍の?

いや、そんなに可愛らしいものではない。


咆哮だ。


丸裸にされたような心地になった。刹那。

ふ、と史郎が私の眼前に降り立った。人型で。

何かを確かめるように、私の顔を覗き込む。

とたん、笑った。


それこそ、久嵐よりよほど幼い子供のような表情で、遊ぶように地面を蹴る。




「やっぱりアイツ、俺を食えなかったぞ。ざまあみろだ」




ちょっとした遊戯に勝ったとでも言いたげな態度だが、言葉は物騒だ。

史郎を食べられなかった結果が、相手にとって何を意味するのかは考えない。

私はただ、安堵に胸を押さえた。

「…ご無事で、ようございました」


「おう」

史郎の大きな手が、私の頭を撫でる。くすぐったくて、身が竦んだ。

面白そうな顔で私たちを見ていた黒蜜に、史郎は猛獣めいた笑いを見せる。

「さすがに今回は、やり過ぎたな、骸伯」


「あら、怖いお顔」

黒蜜は、袖で口元を隠した。

鴉葉が、史郎の威に固まった赤桐を、隠すように引き寄せる。

構わず、史郎はよく通る声で告げた。




「満場一致で決定したぞ。てめぇの仕置きがな」




「ふふ、歳寄り連中は日和見ですものね?」


どういうわけか楽しげに微笑み、黒蜜は凍りつくような声で尋ねた。






「ですが、なぜ。黒蜜、毎日お遊戯に忙しいだけですのに」






史郎は一瞬、獰猛に歯を剥いた。

「お遊戯でも見逃せねぇのさ、てめぇのは」

吐き捨てるように史郎は指摘する。

「人間たちの憎悪を煽ったろう、骸伯」

「いやですわ」

黒蜜は、本気の嫌悪に顔をしかめた。


「人間と接触するなんて、想像だけで気色悪い」


「はン、だから子らに教えたのか」

史郎は鼻を鳴らす。




「佐倉の地で人間に追われたら白鷺の地へ逃げろと。逆もまた然り、だ」




久嵐が、弾かれたように顔を上げる。

見開かれた彼の目に、黒蜜の姿が映った。

先日、久嵐は同じ言葉を語った。


確か私はその時、…違和感を。


黒蜜は得意げに声を弾ませる。

「だって、それなら追われませんわ」


「…あーぁ、実に巧妙だよ」


いっとき、史郎の声が無感動に沈む。






二人の会話の意味が、次第に脳に浸透していくに従って、私の指先が冷えていった。






親から子へただ自然と伝わっていたのなら、生き延びる智慧と言えなくもない。だが。

――――何者かの意図を介して広められたものなら、その教えには。



ぞっとするほど明瞭に、人間への悪意が満ちていた。



人間が追えば、人外は敵地へ逃げる。それを見た人間がどう感じるか。

…黒蜜が想像できないはずはない。

黒蜜は、煽ったのだ。


人間同士。互いの、敵意を。そして、仕向けた。






憎悪し合うように。






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