第四章(2)
「大丈夫だ」
清孝が、ぼそりと呟く。眼を伏せたまま。
久嵐の肩が揺れた。
「蘇芳さまの首は、一太刀で落とした。苦しまなかったろう」
慰めの、つもりだろうか。
ただ問題は、そこではない。
たちまち、怒鳴りたいのに怒鳴れない、ざわめく沈黙が久嵐を取り巻いた。
清孝は彼に、それ以上何も言わない。
なんにしろ、久嵐が責めているのは、己自身だ。
顔を上げた清孝は、闇の通路のような眼差しを史郎へ向けた。
「…そのように、して」
言葉は淡々と紡がれる。
「無抵抗な子供を殺しました」
懺悔の響きはない。ただ空虚だ。
「女を殺しました」
声の底に沈むのは、単なる事実を伝えるような無感動さ―――――しかし清孝は、混乱のただ中にいる。
清孝は、ここにいて、話しているが、意識は彼岸にある気がした。
彼の右手から、破れ笠が落ちた。
節くれだった指が、ぐっと太刀の柄を握り締める。
「――――強さの意味が、分からなくなった」
大きく、清孝は息を吐きだした。
泣きだしそうに震える息を。
「…花の盛りの頃、公が仰せになった通りです。オレはオレ自身から、復讐された」
自分自身からは、誰も逃げられない。
彼は途方に暮れていた。
しかし、清孝が語ることは、他人にはどうにもできない問題だ。
答えは、自得するよりほかにない。
居たたまれず、私は史郎を見上げた。
彼ならなんと言うだろう、と思ったからだ。
けれど。
彼は不思議そうな目で、清孝を見返している。
…これは。
あることに気付き、私は肩を落とした。
おそらく、史郎は自身が清孝に何を言ったか覚えていない。
それでも少しは記憶を探る顔をしたが、すぐどうでもよさそうな顔になる。
「その様子だと、あの主人と手は切れたな?」
私は思わず清孝の姿を見直した。
想像もつかなかったからだ。清孝が、一度主と定めた相手の元から出奔するなど。
第一、清孝は、そのようなことは一言も言っていない。
白鷺家と縁を切った、とは。
だが、このような状況で、目の前にいる以上、史郎の言葉は間違いないのだろう。
「…仰せの通り」
根なし草にございます、と清孝は疲労し切った顔で呟く。
史郎はからりと笑った。
「そりゃ万々歳だ」
満月色の目を細め、非情なことを言い放つ。
「『道』からずれた人間を司令塔に機能する化け物なんざ、始末する必要があったからな」
化け物と呼ばれた清孝の顔が、苦痛にゆがんだ。
俯いていた玄丸が、ぼそりと口を挟む。
「…白鷺におりますアレは、人間などではございませんよ」
柘榴が混ぜっ返した。
「ならば、人外かのぅ」
「同類扱いなど、汚らわしい」
小春が静かに断言した。
「アレは欲の塊にすぎません。人外にも道理はあります。そもそも」
彼女は早口に言い募る。
「男と言えば女、善と言えば悪、人間と言えば人外、世界は二元的です。言葉ゆえに」
「ですが、厳密にはそれらは同じもの」
玄丸は顔を上げた。
表情は静謐だ。
「言葉は便利な道具ですが、ゆえに罪深いものですな」
「考えてもごらんなさい。片方が欠けては、もう一方の存在は完全には説明できないのですよ」
小春は柘榴を睨む。
「故にもう一方に、片割れは常に含まれているのです」
「わかった、わかった」
柘榴は降参と言いたげに両手を上げた。
「この世には、人間でも人外でもない存在がおるということじゃな」
「てめぇはヤバいほうに片足突っ込んでたんだぜ、西の侍。で?」
戻ってきて何よりだ、と史郎は煙管に口をつけた。
一服し、煙を吐き出す。
乱暴に清孝を促した。
「ここに来たのはんなちっぽけな報告が目的じゃねえだろ」
不意に、清孝が私を一瞥する。
刹那、その場で片膝をついた。
私に向かって。
深く、頭を下げる。
私は勢いに度肝を抜かれ、続く言葉に目を見張った。
「霊笛を」
清孝は、地面に向かって血のにじむような声を吐きだす。ただ。
そのときだけ、今日はじめて彼の声に猛烈な生気が宿った。
「お力を、賜りたく」
「―――――鬼が」
史郎の唇に、皮肉が刻まれた。
「生じたってなぁ? …戦場で」
私は戸惑って、史郎を振り返る。彼は、空を見上げていた。
表情から、その考えは読み取れない。
「敵が、仲間が、…死してなお、辱められ、苦しむ光景が辛い、か」
清孝の肩が、わずかに揺れた。
「凛殿の霊笛、ならば。浄化がかなうと」
「図々しいにもほどがあります」
小春が冷たく吐き捨てる。
隠すことのない侮蔑の瞳で、清孝を見遣った。
「血河を為し、未だ死体が山と積まれ、鬼が跋扈する戦場に、御寮さまを招くと仰る?
…我らの御寮さまは、浄化の道具ではございません。そもそも。
最も多く、死体を生産なさったのは、御身ではありませんか?」
ひどい死臭ですよ、と小春は袖で顔の下半分を覆う。
清孝は、無言だ。
小春の言葉が聴こえていないわけではないだろう。
ひたすら、彼は、待っているのだ。
―――――私の、言葉を。
すぐそばの久嵐が、縋るように私を見た。
柘榴が、私を横目に、問うように首を傾げる。
玄丸が、思考の読めない笑みを浮かべ、目を細めた。
私は唇を噛む。
是、と即答はできない。
戦場の浄化など経験はない、という不安もある。だが、それ以上に。
清孝の動向が、読めなかった。
戦場の浄化だけが、残ったたったひとつの望みと言わんばかりの様子に。
もし、浄化がかなえば。
清孝は―――――生を手放すのではないだろうか。
できるなら、彼の望みに沿うよう、動きたい。
けれど。
これでは清孝は、まるで自分の死に場所を探しているようではないか。
「凛」
空に何を見たのか、史郎が不意に私を呼ぶ。
結論できない自身が情けなくなりながら、私は頷いた。
「はい」
「鬼見物といくか」
言って、欄干を飛び越えた。
慌てて眷属の一人が駆け寄る。草履を差し出した。
史郎はそれを無造作に引っかける。
私は桶に残っていた水で、簡単に手を洗った。慌てて襷をほどく。
史郎に駆け寄った。
私に手を差し出した史郎が誰にともなく尋ねる。
「霊笛は」
「こちらに」
小春が、諦めたように布袋に入ったままの豊音を差し出した。
部屋に置いてあったのだが、いつの間にとってきたのか。
私は霊笛と交換に、身につけていた前掛けを小春に預ける。
史郎の手に右手を預け、私は彼を上目遣いに見上げた。
私が感じた清孝の危うさを、史郎が察していないわけがない。
それでも史郎は、清孝に応じることに決めたのだろうか。
史郎は不敵に笑った。
「請われたのなら、仕方ねえさ」
…史郎の心が定まっているなら、私も覚悟を決めるだけだ。
「これなら理の範囲内だ。それに」
史郎の視線が、西方へ流れる。
「…見逃せないこともできた。すべて、頃合いだ」
『すべて』?
史郎の言葉に首を傾げる。彼は玄丸を一瞥した。
「てめぇが来たってことは、アイツは動いたんだろう?」
「今頃は―――――朱首峠に」
「ふん」
史郎が煙管を軽く振った。
刹那、それが刀に変わる。
史郎の手が、鞘を掴んだ。
真牙の太刀だ。
その鞘で、彼は大地を突いた。
「おい、何人か」
史郎の声を耳に聞きながら、私はいつもの感覚に身を包まれる。
脈動が開き、身を運ばれる感覚だ。
「同道してもらうぞ」
それは、強制であり、命令だった。刹那。
―――――生ぬるい風が、私の顔を叩いた。
生臭い。思うなり、
「柘榴」
面倒そうな史郎の声と共に、私は彼から引き離された。
「承知」
鋭い柘榴の声。次いで、浮遊感。
間髪入れず、
「久嵐!」
叱責に似た清孝の呼びかけ。
直後、私はやっと目を開け、―――――ギョッとした。
私は、随分高い位置にいた。地面が遠い。
予備動作ひとつない柘榴の跳躍力に、驚く間もなかった。
清孝が、久嵐の首根っこを引っ掴む。
私たちとは、逆方向へ跳躍。
彼等の姿を目の端に認めながら、私は息を呑んだ。
「史郎さま!」
思わず叫ぶ。
なぜって。
史郎の足元で、巨大な口が開いたからだ。
咄嗟に、彼へ手を伸ばす私を見上げていた史郎が、楽しげに呟いた。
「面白いじゃねえか」
視線を転じ、ぞろりと牙の生え揃った喉の奥を見下ろす。
「試してやるよ――――俺を呑み込めるかどうか」
あろうことか、史郎はそこへ、自ら飛び込んだ。とたん、
―――――がちんっ。
歯と歯が、噛み合った。
「史郎さま!」
史郎なら、心配ない。
間違いはない。
…知っていても!
全身から、血の気が引いた。
「いかん、凛!」
暴れた私を抱き止めようと、柘榴が咄嗟に腕に力を込め―――――ようとして、一瞬、迷った。
それもそうだ。
力の加減なしに柘榴が私を抱きとめれば、私の骨が砕ける。身がちぎれる。
だから、彼女は躊躇った。刹那。
私は、落ちた。
幸い、地面は近かった。
無論、立っているほどすぐ近く、とは言えない。
が、私でも受身をとれば、無傷で済む程度には。
転がる。立ちあがった。
―――――落ちた場所が地面だった、それだけでも幸運だったのだと気付くのは、すぐだ。
むせかえるほどのにおいが一帯に漂っていた。
死のにおいが。…腐臭が。
当然だ。
戦の後、ずっと死体は野ざらしにされていた。
肉体は腐り。
動物がたかり。
虫が湧き、―――――濁った沈黙が漂っている。
太陽の光が、死体の皮膚を、ふしぎと白く照らしていた。
その、合間を。
闇の霧を衣のように纏う巨大な岩のような姿が、酔っ払いのような足取りで歩いている。
その頭部と思われる部分には、あるモノがあった。
(角)
では、あれは。
寒気と共に、その名称を連想するなり、
「鬼、ですわ」
前触れなく、声が耳朶を撫でた。
しっとりと艶めいた声―――――ただし、低音。女性、ではない。
梔子に似たかおりがふわりと鼻腔をくすぐる。
弾かれたように振り向いた。…誰もいない。
怖々と、顔を戻そうとするなり、―――――手首を掴まれた。
驚く間もなく、
「ばぁ!」
背を抱かれた。
そのときにはもう、知らない男の人が顔を覗きこんでいた。
やさしげな美貌。ゆるく波打つ、長い黒髪。酔ったように、眠たげな半眼。
唇には誘いこむような微笑が浮かんでいる。
稚気に満ちた微笑を浮かべ、彼は言った。
「北王の奥方ともあろうお方が、なぜこのような不浄の場へ?
お会いできることは、黒蜜、心底嬉しゅうございますが、もう少し、
危機感をお持ちになった方がいいと、僭越ながら申し上げておきますわね」
低い男性の声で紡がれる柔らかな物言いに、私は一瞬、言葉に詰まる。
どう見ても、男の人だ。
口調がどうでも、女性ではない。
だが私は呆然と、その名を口にしていた。
「…骸伯?」
「黒蜜、とお呼びくださいな」
こうなると、もう驚きも麻痺してくる。
人外は、人間の価値観から軽々とはみ出す。
年齢を一定させないどころか、性別をも行き来する者が存在する。
何をもってすれば、正しく対象を認識できるのか、分からない。
直感で対応するのがやっとだ。
そう、『彼』を黒蜜と確信するのは、感覚に過ぎない。
油断のならないこの雰囲気こそが、まさに黒蜜そのものだ。
猛毒じみた魅惑の力も、また。
命そのものが、存在を拒絶したがっているような。
だが、初見で感じた、嫌悪とも悪寒ともつかないその感覚が、今は薄い。
そんなことより、史郎の方が気になる。
私は黒蜜から身を離そうとし、―――――だが、背を抑える力は、思いの外強かった。
支える、というよりは、拘束だ。
動けない。
「離して下さい」
私は史郎がいなくなった足元へ気をやりながら、上の空で訴える。
「史郎さまをお捜ししたいのです」
彼は――――黒蜜、と名乗った男性は、私の態度を気にも止めない。
唇を尖らせた。
「それにしたって、完全に意表をつけたはずですのに、ちっとも驚かれないのですね?」
「骸伯」
本当のところ、このひとには私の反応は眼に入っていないのではないか。
ふと、そう思った。
目を合わせても、黒蜜自身の夢の中にいるような感覚がある。
手応えがない。
「そんなだと、いけませんわ」
唐突に、黒蜜の整った顔が鼻先まで近づいた。
「…この、きれいなお顔を、歪めてみたくなる」
「そこの」
不意に、耳朶を風が掠める。
「凛から手を離した方が長生きできるぞ?」
柘榴の声だ。
黒蜜が、声なく笑う。楽しげに。刹那。
黒蜜の首筋ぎりぎりで、火花が散った。
刃と刃がかみ合ったのだ。
「ほぅ」
小太刀をもった柘榴が、流血を思わせる物騒さで呟く。
「受けてのけるとはの」
黒蜜のすぐそば。
赤い短髪の少女が、クナイで柘榴の小太刀を受けている。
噛み合う刃は、びくとも動かない。ひどく静かだ。
だが凄絶な力がこもった拮抗―――――その均衡が崩れる寸前、
「赤桐、主殿」
柘榴越しに、新たな声が飛んだ。
柘榴の目が動く。
「避けてね」
警句にしては、気の抜けた声。
同時に、柘榴の背後に、黒い影が見えた。
斜めに走った光は、…刃!
「柘榴!」
反射で、私が出した力はどのくらいだったのか。
からかいの拘束はたちまち、解けた。
次いで私は柘榴に手を伸ばし、
「あ」
当然だが、逆に柘榴に突き飛ばされた。
近寄らせないのは、当たり前だ。
危険なのは私ではなく、柘榴の方なのだから。
私の目の端で、柘榴の身体が反転。するりと相手の懐に踏み入った。
勢いもそのままに斜め下から、小太刀が閃く。
刹那、そこに柘榴の全体重が乗った。
刃が、相手の胸元に真っ直ぐ吸い込まれる――――寸前。
相手が、後ろへ跳んだ。
黒髪、隻眼の男だ。無精ひげ。蓬髪、やせぎすで黒づくめ。
鋭利と言うより、ひょうきんな動きに一瞬呆気に取られた時、
「鴉葉!」
先ほど、赤桐と呼ばれた少女が、黒蜜を庇うようにしながら叱責の声を上げた。
「遊ぶな!」
「だって、美人を殺すなんて拷問だよ」
彼は飄々と応じる。殺されようとしている最中に。
豪胆なのか、図太いのか。そこへ、
「女を相手にしにくいなら」
すっと清爽な声が割り入った。合わせたように、柘榴が動きを止める。
彼女の眼前、滑り込んだ人影は、
「オレと手合わせ願おう」
清孝だ。
立ち止まりもせず抜刀―――――気付けば、刀は振り抜かれていた。
いつ抜いたのかすらわからなかった。と言うのに、
「うわっ、怖っ」
鴉葉と呼ばれた無精ひげの男は、生きている。
あの一刀をかわしてのけた。身を沈めて。
悪いが、生存していることが冗談のような攻防だ。
鴉葉は、必死の形相――――それすらどこかしら演技めいていた。
相対する清孝に、
「へえ」
意表を突かれた様子はない。
どころか、心底楽しげに頬をほころばせた。
「良かった。大根じゃなさそうだ。簡単に斬られるのはなしですよ?」
「待った、侍相手にんな約束できっこな…ってぇ!」
空ぶった清孝の刃。
それが、いきなり垂直に落ちる。
鴉葉は辛くも横へ転がった。それもかわしきる。
一方で、業を煮やしたように赤桐が一歩踏み出した、そのとき。
―――――大地が揺れた。
鼓動をひとつ、打ち鳴らすように。間髪入れず。
大地から噴水の勢いで闇が噴きあがった。
まるで濃霧。それが、一帯に立ち込める。
巨大な何かが、足元で渦巻いた。身が竦む。
異変に気にも止めず動いているのは、鬼たちばかりだ。
「これは…」
惑い、清孝は周囲を見渡した。
離れた場所で佇んでいた久嵐が、暗く呟く。
「北竜公だ」
打ちひしがれた彼は、うつろに周囲を見渡した。
戦場の後に残るのは。
彷徨う鬼。
腐り果てた人体。
汚れきった鎧。
壊れた武具。
折れた旗。
贓物をぶちまけた馬。
―――――それらいっさいを平等に受け止める大地。
久嵐の両手が、胸元を強く握り込んだ。
「こんな結果、…おれは望んでない」
ひとりごちるの姿は、今にも壊れそうなくらい、孤独だった。
今すぐ駆け寄って抱き締めなければ、ばらばらになってしまう。
ふと、私は久嵐にそんな危機感を覚えた。
けれど。
私は、奥歯を食い縛る。
知っていたからだ。
いくら親しげに笑いかけても、久嵐は私に気を許しているわけではない。
彼の胸の内には、何重もの鉄の扉があった。
そのすべてに、扉の数の倍以上の鍵がかかっている。
誰の腕が久嵐を抱き締めたところで、そのぬくもりは本当の意味で彼には届かない。
彼が抱える孤独は、あまりに深かった。
そこまで深くしたのは、―――――彼自身だ。
その扉を打ち破るのは、久嵐自身を破壊しかねない荒療治か、…時間が必要だった。
思うなり、私は目を見張る。
誰かに、似ていると思った。
でも誰に。
とたん。
幼く無力な久嵐の姿が一瞬、記憶の中の姿と重なった。それは。
―――――月丸。
幼い日の、史郎の姿だ。
拙い選択を繰り返し、間違った答えばかり選んできた久嵐の姿が、――――彼に重なった。
なぜ、そう感じたのか。
私がその感覚を慎重に見定める寸前。
ずん、腹の底を盛大に打つ音がして、地面がせり上がった。
咄嗟に足を踏みしめ、直後、虚を突かれる。
大地は、静かだ。
だが、気のせいで済ますには、奇怪なほど現実味のある感覚に、首を捻った直後。
いきなり日が陰った。
同時に、何かに呼ばれた心地になる。自然と顔を上げれば、そこには。
「…龍―――――…」
私は、無意識に呟いていた。
戦場の真上、その、…大空で。
龍が舞っている。
北方。
穂鷹山の主にして、人外たちを統べる四柱がひとつ、…あれが、北王。
巨体を悠然とくねらし、彼は大空を舞っていた。
はるかに見上げ、それにしても、と内心冷や汗をかく。
―――――以前、ここまで巨大だっただろうか。
「相変わらず、闇をまとっておいでですわね。殻のように」
呟いたのは、黒蜜だ。
「…ご存知ですかしら?」
大空を踊る龍を焦がれるように凝視し、黒蜜は熱に浮かされたようにひとりごちた。
「北王が落とす鱗は、純白ですわ。虹の光を放つ、それはそれは美しい代物」
え?
蒼穹を見上げた姿勢で、私は小さく息を呑む。
では、あの闇は何?
黒蜜は、小さく笑った。
間違えようもなく、そこには私を嬲る意図がある。気付いたのに。
「―――――即ち、本来の姿は闇に隠されておいでですのよ」
私は、黒蜜の言葉を無視できなかった。
反射的に私が黒蜜に理由を問いただそうとした、寸前。
話題になったのを察したように、龍が地上に鼻先を向けた。
間髪入れず、墜落の勢いで下降――――口を開く。直後、
―――――ッッ!
表現のしようもない音が、全身を突きぬけた。
これは鳴き声? 龍の?
いや、そんなに可愛らしいものではない。
咆哮だ。
丸裸にされたような心地になった。刹那。
ふ、と史郎が私の眼前に降り立った。人型で。
何かを確かめるように、私の顔を覗き込む。
とたん、笑った。
それこそ、久嵐よりよほど幼い子供のような表情で、遊ぶように地面を蹴る。
「やっぱりアイツ、俺を食えなかったぞ。ざまあみろだ」
ちょっとした遊戯に勝ったとでも言いたげな態度だが、言葉は物騒だ。
史郎を食べられなかった結果が、相手にとって何を意味するのかは考えない。
私はただ、安堵に胸を押さえた。
「…ご無事で、ようございました」
「おう」
史郎の大きな手が、私の頭を撫でる。くすぐったくて、身が竦んだ。
面白そうな顔で私たちを見ていた黒蜜に、史郎は猛獣めいた笑いを見せる。
「さすがに今回は、やり過ぎたな、骸伯」
「あら、怖いお顔」
黒蜜は、袖で口元を隠した。
鴉葉が、史郎の威に固まった赤桐を、隠すように引き寄せる。
構わず、史郎はよく通る声で告げた。
「満場一致で決定したぞ。てめぇの仕置きがな」
「ふふ、歳寄り連中は日和見ですものね?」
どういうわけか楽しげに微笑み、黒蜜は凍りつくような声で尋ねた。
「ですが、なぜ。黒蜜、毎日お遊戯に忙しいだけですのに」
史郎は一瞬、獰猛に歯を剥いた。
「お遊戯でも見逃せねぇのさ、てめぇのは」
吐き捨てるように史郎は指摘する。
「人間たちの憎悪を煽ったろう、骸伯」
「いやですわ」
黒蜜は、本気の嫌悪に顔をしかめた。
「人間と接触するなんて、想像だけで気色悪い」
「はン、だから子らに教えたのか」
史郎は鼻を鳴らす。
「佐倉の地で人間に追われたら白鷺の地へ逃げろと。逆もまた然り、だ」
久嵐が、弾かれたように顔を上げる。
見開かれた彼の目に、黒蜜の姿が映った。
先日、久嵐は同じ言葉を語った。
確か私はその時、…違和感を。
黒蜜は得意げに声を弾ませる。
「だって、それなら追われませんわ」
「…あーぁ、実に巧妙だよ」
いっとき、史郎の声が無感動に沈む。
二人の会話の意味が、次第に脳に浸透していくに従って、私の指先が冷えていった。
親から子へただ自然と伝わっていたのなら、生き延びる智慧と言えなくもない。だが。
――――何者かの意図を介して広められたものなら、その教えには。
ぞっとするほど明瞭に、人間への悪意が満ちていた。
人間が追えば、人外は敵地へ逃げる。それを見た人間がどう感じるか。
…黒蜜が想像できないはずはない。
黒蜜は、煽ったのだ。
人間同士。互いの、敵意を。そして、仕向けた。
憎悪し合うように。