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霊笛  作者: 野中
霊笛・第二部
23/72

第三章(4)

強い呼びかけに意識が沈んだ。


その表面が、音を弾く。

ガツ、と力と力がぶつかり合う強烈な音だ。同時に。


もうほとんど夢の中にいるような私の双眸に、分厚い背中が映りこむ。


誰かが、目の前に立っていた。

いつ、そこに滑り込んだのか。

ほんの瞬きの間に現れた。

こんな、大きな身体の持ち主は、

「無力な女子が」


―――――夜彦だ。

彼は、先ほど抜き身に構えていた太刀を鞘におさめ、身体の正面で真横に寝かせている。

それが、左右から迫る牙を止めるつっかえ棒になっていた。




「身を張るものではない!」




みしり、太刀が軋む音を聞いていないわけではないだろうに、夜彦は叱責を私に落とす。

他人のために我が身を危険に晒しながら、悲愴になるどころか、これだ。

死と直面してもなお、屈することを知らない果敢さに、呆れるべきか、驚くべきか。


背後に感じた風の動きは、柘榴だろう。

守ってくれている。私を。

その、―――――命を盾に。


ごめんなさい。


思う反面、あと少しと言う我儘な気持ちもある。

そう、あと少しで。

刹那。






―――――だぁれ?






微かな声が、鼓膜へ幻のように触れた。



(見、)


つけた!



間髪入れず、私はそれを捕まえる。

たちまち、ぐっと意識が引っ張られた。

そこへ。


声の許へ。


いきなり水底に潜ったような静寂が、耳を塞ぐ。直後。

泣き声が、聴こえた。

弱い、すすり泣き。


振り向けば、――――女の子が、泣いていた。


その子は、ひかりの繭にくるまれている。

華やかな袖が、そこから花束のようにこぼれていた。


水中は、毒で満ちている。なのに、この場所は。



水晶のように澄み切った水に溢れ、清らかだ。



ここは、湖の奥の奥、―――――核なのだろう。


いたのは、守るように、たくさんの花で飾られた少女がひとり。

(翠天師は…)

顔を巡らせようとするなり。

涙で濡れた少女の顔があげられる。


目があった。なのに、顔がよく見えない。

水で、揺れて。

つい、私は目を凝らした。






―――――お願い、もっと聴かせて。笛の音。


もっと思い出させて、と彼女は私に手を伸ばす。


―――――きれいなものを忘れそうなの。忘れたくない。






慌てて、私も手を伸ばした。

見過ごすわけにいかない。なぜか強くそう思った。

指先が触れる。ひかりの境界で。


固いと思った輝く繭は、しかし、呆気なく私の指を通した。

通らなかった掌に卵の白身めいた感触を覚えながら、少女と指を絡ませる。

とたん。




ばつっ!




何かが千切れる音が弾けた。刹那。


私の目に、別の光景が映る。


絡めた指の感触だけを残し、周囲に闇の帳が落ちた。











見上げれば、満ちた月が地上を青く照らしている。


鮮やかな、月夜だ。


視界いっぱいをしめるのは、女の人の背中だ。

いや、印象に強く残るのは、艶やかな帯。

女の子は、彼女に呼び掛けた。


―――――ねえ、どこに行くの。そっちは湖、祭司の場所よ。


女の人は、振り向かない。ただ、優しげな声で繰り返す。


―――――なんで生きているの、あたしの子。だめじゃない、ちゃんと死んでいなきゃ。


あの人の迷惑になるのよ、と諭す声を、なぜか女の子は不吉に感じなかった。

ただ神秘的で、少し哀しいと思う。


―――――一人は寂しいの? なら大丈夫よ、お母さんが一緒に死んであげる。


その人が狂っていると女の子は理解していた。

なのに怖くなかった。


湖に沈められる時でさえ。

その柔らかい胸が、温かさが、安心さえくれた。



まるで本当の母のようだと思った。



実際、彼女は死のうとしていた。

女の子と心中しようとしていた。

一緒に、水に入ったのだ。そうしたのは、信頼もあったからだ。


その湖を棲みかとする人外に対する信頼が。


実際、翠天師はある程度の段階で、止めに入る用意があった。

ただし、そのとき、女の人の懐には。

―――――大量の毒が。


溺死より先に、女の子はその毒に殺された。


翠天師にもそれが唯一の誤算だった。

毒の存在が。






気付かなかった翠天師も毒に染まった。

動けなくなってしまった。


決定的な、瞬間に。






湖の主にできたのは、せめて、女の子の魂を、己の穢れの道連れにしないことだった。


故に女の子は、ここで守られているのだ。

むろん、女の人も死のうとしていた。だが。


行き違いがまたひとつ、起こった。

彼女は、事態にいち早く気付いた彼女の父親に引き上げられたのだ。

すぐさま、解毒剤が処方されたのは、彼女の父親が毒の本来の持ち主だったからだ。


彼女は救われた。











私は立ち尽くし、その光景を見つめる。


…でもなぜ?

なぜあのひとは、外へ出られたのだろうか。

座敷牢には、鍵がかけられていた。

父親のあの様子からして、彼が娘を解放したとは思えない。

ならばどうやって、彼女は外へ出たのか。そして。



翠天師だ。


―――――まだこの時点では、自浄作用によって、毒からの回復はしばらくの時間があれば可能に見える。



なぜ、翠天師はここまで衰弱したのか。

ふ、と誰かが耳元で笑った気配がした。とたん。


また、視界が反転する。











行灯のぼんやりした明かりが満ちた部屋の中に、私は立っていた。


その中で、恰幅のいい男性が書物に向かっている。

端然と座した彼は、廊下に控える誰かと話していた。




「口実として、実に都合がよい」


感情のにじまない声だ。




底冷えのする、むごいような、酷薄な余韻が耳に残る。


その印象は、私の脳裏に別の声を蘇らせた。

―――――貴様はただ、穂鷹公を殺めればよいのだ。


去年の秋、結水の領地で、冷静にそう告げた頭巾の男の声だ。


そうだ。

この声は、あの声と似ている。

同一人物というわけではない。

だが、本質が。


理解するなり、私は耳を塞ぎたくなった。


きっと、このヒトはいやな言葉を口にする。

それでも、顔を背けたい衝動を、ぐっとこらえた理由は。


―――――私にこの光景を見せているのは、翠天師という確信からだ。




なにか、理由がある。




薄明かりの中、よく顔が見えない男は、悪びれない声で言い放った。






「あの子が死んでくれてよかった」






私は一瞬、息を止めていた。

心底、血の気が引く。

鉛でも呑み込んだ心地になった。


なんてこと。


強い女の子の泣き声が、周囲の闇を破る。水が揺らいだ。乱れる。











―――――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…っ。

痛切な響きは誰に対するものか。

この子は、自覚している。

自身の死が、戦の引き金となったこと。いや、もっと悪い。


…口実に、なったのだ。


罪悪感と言う名の癌が、彼女の魂を侵し始めている。

これだ。

これが、実際の毒以上に、翠天師を侵した毒なのだ。

翠天師は、守りたい相手に毒されている。


言い訳のように、頑是ない少女の声が続く。




―――――会いたいと願ったの。天へ昇る前にお父様に会いたいって…願って、しまった。




少女の願いを、翠天師は叶えた。

助けられなかった代わりに、せめて、と。


それが徒になったのだ。


私は、大きく息を吐きだした。




せめて、憎めたらよかったろう。


己の命を奪った相手を。


父親の非情を。




だが彼女は、決してそちらに決して顔を向けようとしない。



残念ながら、その優しさこそが、悲劇の連鎖を生みだそうとしていた。



女の子を守ろうとしている翠天師の清い最後の砦が、その暗さに沈もうとしている。

この守護の意識が消えてしまえば、もう終わりだ。

翠天師は、もう。


…いいえ。


ひかりを明滅させる繭を見つめ、私は絡めた指に、力を込めた。




そんなことには、させない。




私は泣きやまない女の子を見つめた。






いったい、どんな慰めが、彼女の胸に届くと言うのだろうか。

どんな言葉が、この子を癒せるの。

彼女の存在は、きっと久嵐の救いになった。

あの狂った女性にとっても。


だが、だからなんだと言うのか。



彼女自身の救いにはならない。



考えつくすべて、無意味に思えた。

過去は過ぎ去った。

もう取り戻せない。

やり直せない。

過去など、ここにはない、ただの幻だ。


それでも、囚われてしまう。


何をどう語れば、そこは幻の檻だと気付けるだろう。

気付いたところで、自力で出てくることは、とても困難だ。

―――――そう、誰がどれだけ考え尽くしても、無意味だ。答えは出ない。

たとえ本人でも。


なぜなら、思考と言うものは、答えの周囲をぐるぐると回るだけだからだ。

心の底から納得する答えには、いつまでも、辿りつけない。

なら。


逃げようもない事実から、進めていこう。






「ねえ、知っているでしょう」

私は女の子に呼び掛けた。

「アナタにはもう、肉体がないの」


誤魔化しようもない事実を、囁く。




「魂だけなの」




彼女はそれを、嫌になるほど自覚している。とっくに。

まずはそれを再度、突きつけた。そして。

私は告げる。


「なら、もうアナタに、頭はない」


考えろ、とは言わない。なにせ。

頭で考えたことは、結局のところ、推論だ。答えではない。

ぐるぐると思考が巡るだけ。

私は知っている。


最後の最後で、頭では役に立たない。


―――――理論が届かない領域が、確実に存在する以上は。

私の言葉がどこまで届いていたのか。

すぅ、と女の子の頭が消えた。

首から上が、いきなり滅する。


そうである以上、もう言葉が、音が、聴こえるかどうかは分からない。


だが私は思いを込めて尋ねた。






「さぁ、胸で、何を感じる?」






頭で考えたことは推論だ。けれど。


胸で感じたことは結論だ。



解答だ。



突如、かなしみが膨らむ。濁りない、純粋な哀しみが満ちた。

憎悪もない。

恨みもない。


一途と言えるほど、ひたむきなかなしみだ。


それが。

みるみる濃度を増していく、―――――その限界に至る寸前、一度、喘ぐように悶える。

刹那。


風が吹き抜けるように、いっきに澄み渡った。


瞬きすれば、ひかりの繭が消えている。女の子の姿も。

私がその場に座り込みそうになった、そのとき。






「退け、人間ども」






いっさいを鞭打つような容赦なく力に満ちた声が、皮肉の棘を纏って放たれた。これは。


「まかり通る」


史郎だ。

一息に、意識が身体に戻った。とたん、








―――――ヅ、ドンッ!!








天変地異もかくやと思える轟音が耳をつんざいた。


大地が鳴動する。

さすがに息が詰まった。

身体がよろめく。

音が途絶えた。

思わず見開いた目に映ったのは。


―――――真っ二つに割れた、異形の姿。


その一方の上に、清孝は変わりなく立っていたが、唖然としていた。

あまりにも圧倒的な力の差をこうも見せつけられると、まずは思考が止まってしまう。


この無茶苦茶ぶりは、史郎でしかあり得なかった。


直後、水面が輝く。

「足掻くのはやめなね、翠天の」

飄々と人を食ったこの物言いは、青柳伯だ。


どこに、と顔を巡らせれば、伊織から少し離れた場所で、彼は片手を水につけていた。




「水脈に他の誰より深く根ざしている僕に、敵うと思う?」




「浄化、なされたのですか。…一瞬で」

伊織が穏やかに呟く。

一見、何の感情も伺えない。

太刀を引いた夜彦が、難しい顔で私を一瞥し、彼の許へ駆け戻っていく。

虎一は胡散臭そうに青柳伯を横目にした。


直後、私の足元にあった輝く蓮の紋様が消失する。

水に落ちた。

尻もちをつく。

幸い、この辺りは浅いのか、腰までしか浸からなかった。


青柳伯は、にっこり微笑んで、

「それで終わり、なんて、都合のいい話があると思う?」

棘だらけの声で言う。


とたん、毒の影響から解放されたらしい、その、水が。

「…引いて、行く?」


呟いたのは、誰だったか。

水が、どこかに引いていく。

いや、干からびていく。


私のすぐ隣で、ばしゃりとわずかに残っていた水を蹴る音がした。



「少なくとも十年は蘇らねえな」



乱暴な声の断定は、湖の水の話だろうか。

いきなり、腕を引かれる。

史郎だ。


「それでもマシな方だぞ、今、浄化しなけりゃ、百年はこのままだった。甘い処置だな?」

彼は、私を立ち上がらせた。

顔は、青柳伯に向けている。

青柳伯は肩を竦めた。

「かかったのは、百年以上かもしれないよ。…この濃度からして、毒は『毎日』撒かれていた。

一度きりなら、何カ月かすれば翠天師は自力で浄化できたろうに」


私の膝から、一瞬、力が抜ける。

史郎の腕にしがみついた。



毎日何を、していたって? 水を穢すなんて、人間にとって自殺行為だ。



なんのために、そんな、おそろしいこと。

「周囲の村落なんてどうなったっていい。僕は翠天を助けたかっただけだ。幸い」

青柳伯が、割れた異形を見上げる。


「霊笛であらかたの濁りは払拭されていたしね」


割れた異形の姿が、端から風化をはじめていた。

長い時間放っておかれたように。


完全に崩れる前に、清孝が滑るように飛び降りた。


と、異形の姿があった、ちょうど中心に。

置き去りにされた影のような姿が浮かんだ。

いや、不意に吹いた風が、すっと目の前で立ち上がったような清爽さがある。


長い、翠の髪。

真っ直ぐなそれは滝のように足元へ流れ落ち、途中で地と同化していた。

性別を判断しかねる半透明のその人は、夢から醒めたように顔を上げる。

ぐるり、周囲を見渡し、酔ったように微笑んだ。




『おや、お揃いで、どうなすったんです?』


「てめぇの大騒ぎで引っ張り出されたんだよ、翠天師」




史郎は歯に着せぬ物言いで応じた。

『はっきり言っちゃいやですよ、穂鷹公。ちょっとは言葉を濁してくれないと』

無粋な方だ、と翠天師はそれでも楽しげに笑う。胸の内に、淡い輝きを抱いて。


「翠天さま!」


水の縁で声を上げたのは、久嵐だ。

こちらへ駆け出そうと動く。

前後して、青柳伯が帯を掴んで引き止めた。

「は、はなし…っ」

久嵐は反射の動きで抵抗しかける。

途中で、怯えたように動きを止めた。


「そっちにいるのは祓寮の連中よ?」

彼を引きとめた青柳伯が、冷めた声でいなす。



「死にたいなら行けば?」



久嵐が唇を噛んだ。

青柳伯が帯から手を離す。

だがもう、駆け出そうとしない。

それでも、縋るような目を向けた少年に、翠天師は宥める微笑を向けた。


『青柳伯は、正しい』

すぐ視線を転じ、青柳伯を軽く睨む。

『ゆえに、手厳しい。…子供にはもっと優しくしてもよろしいのでは』


「冗談でしょ。減っちゃう」


青柳伯は鼻で笑った。

翠天師は楽しげに見返し、今度は史郎を見遣る。

やぶからぼうに言い放った。




『さて、公? この戦、止まりませんよ』


史郎が舌打ちする。


「今、戦へ向かう流れが緩やかなのは…俺ら人外の、春の宴の最中だからか」




対する史郎の言葉も唐突だった。

一見、脈絡がない。


戦と宴がどう関係しているのか。…いや?


ある事実に気付き、私は目を見張った。




―――――人間と人外の世界は、密接に関わり合っている。


基本的で、単純な話だ。




だから、宴の間は戦へ転がる動きが鈍くなるのだろうか。

だが、それは。

史郎は忌々しげに言葉を続けた。


「宴は今日、終わる。…宴が終われば、事態は加速するだろう」

清孝が、不思議そうに首を傾げる。

「なぜです?」


「あぁ?」

史郎の面倒そうな反応を気にした様子もなく、清孝は言葉を続けた。

「アナタの言いようでは、その宴とやらが続く間は、戦が遅れるように聴こえる」

史郎は荒く息を吐き出す。

「わからねえか」

一瞬、狂気に近い笑いが彼の顔に貼りついた。

ただし、それは一瞬――――すぐ、諦めたような、疲れたような感情が浮かんだ。

諦念の表情で、史郎は静かに答える。


「人外の世と人間の世は緻密に関わり合う。世界が二元的であるが故にな」


片方が豊かなら、もう一方も豊かだ。

一方が幸福なら、相手も。ゆえに。


―――――一方に戦が起これば。


「ひとの世の戦は、」

ひそり、と清孝が尋ねた。

「人外の世に、どのような影響を?」


「想像は答えじゃねえ。だから今は何も言えん」

史郎は、不明瞭な言葉を嫌う。


確かに、人間の世の戦は、人外の世に不吉を呼ぶだろう。


だがそれが、どういった形で現実となるかは、誰にもわからない。

史郎は突き放すように答えた。




「現れたもの、現実がすべてだ」




直後、不意に何かを思い出したように、史郎は清孝を振り返る。

「…ついでだが、西の侍」

「はい」

「てめぇは、主君が命じればなんでもするのか」

「はい」

「心に沿わないおこないでも?」


「はて」

清孝はやさしげに微笑んだ。

「侍とは主の影。悩むことなどございましょうか」

「ならなぜ」

史郎は、横目で久嵐を見遣った。


「以前、そこのガキを見逃した? 人外の村。殲滅が命だったと記憶するが」


久嵐がぐっと唇を引き結んだ。

まさか自分へ話が向けられるとは思っていなかった、という態度だ。

ただ、史郎の疑問は、彼の疑問でもあったのだろう。


睨むように清孝を見遣った。


清孝の顔からは、笑みが消えない。

表情として現れているそれが、逆に本心をきれいに隠す仮面になっている。

「本気で従うなら、一人残らず殺すべきだったろう」

史郎に、清孝の態度を気にする様子はない。


傲慢なほど大胆に、言葉で斬り込んでいく。


「てめぇがした報告もおかしい。無事、『全滅』したとある。ところが、その犬っころは生き残ってる。これはどういうこった?」

清孝は答えない。代わりに、尋ねた。

「…なぜ、命令や報告のことまでご存知なのです」

応じたのは、青柳伯だ。



「聞きたいのは、言葉通り、なぜ知っているのか、ということかな? それとも」

意地の悪い笑みが口元に閃く。


「それを知っていてなぜ動かなかったのか、と言っている?」



清孝は微笑を浮かべたまま沈黙した。






「言っとくが、俺が理を無視して動けば、文字通り、天変地異が起こるぞ」






怖いことをさらりと言って、伊織を指差す。

「そこの片眼鏡のジジイがそれが事実と知っている。本来、俺は下手に動けん」

言って、史郎は私の頭を、ぽんぽん、と軽く叩いた。


「今回関わったのは、理由があったからだ」

伊織が肩を竦めた。その斜め後ろでは、夜彦が控えている。

伊織が惚けた表情で言った。


「人外の世も、コトだらけのようで」


「くくっ、楽しいだろ?」

物騒に笑い、史郎は煙管を回した。

「おい、西の侍」

「はい」

煙管の先で、史郎は清孝を指し示す。

「ひとつ告げておく」


面倒そうに史郎は言った。




「自分の心を殺し続ければ、近いうち、貴様は殺した自分の心に復讐されるぞ」




清孝がわずかに目を見張る。


それ以上は言わず、史郎は視線を転じた。

湖の水面にゆらぐ翠天師を睨み、厳しい声で言った。



「逆にな、てめぇは、ちったぁ足掻け」


『成るだけですよう。成るように』



その人は、私に顔を向ける。

『ねぇ?』

同意を求められた。困る。私は霊笛ごと着物の裾を握り込んだ。

「な、なんとかなりませんか」

影のように揺らめく翠天師は、一瞬目を丸くした。

くすくすと小さく笑う。


『素敵なお方。清い音を届けて下すって、ありがとう』


だが、くれたのは、答えとも助力の約束とも違う、感謝の言葉だ。

『感謝します。まるで世界が変わったような気分ですよう、なんて清々しい』

翠天師は、胸深くに光を抱き直し、天を見上げる。


『ねえ、本当にありがとう。守りたいと思っていたけれど、この子の絶望にぜんぶ真っ黒になってしまいそうでしたから、困っていたのです。

貴女のおかげで守り切れた。…ねえ、―――――ありがとう』


なんだか信じられない気持で、私はそのひとを見つめた。




穏やか過ぎる。


こんな目にあって――――毎日毒を撒かれて、それでどうして、まだこんなに優しく微笑むことができるのだろう。




困っていた、そんな一言で終わらせられる事態ではないはずだ。


慈愛に似たものが、そのひとの――――翠天師の双眸にふぅっとにじむ。

『憎みそうになっていました。恨みそうになっていました。

そうせずに済んだのは、貴女のおかげですよ。なんて素晴らしい音色…心地良い…死すら』


翠天師が胸に抱いた輝きが明滅した。

呼吸するように。

合わせて、翠天師の姿がもっと淡くなる。


もうほとんど透明だ。

その姿を、厳格な命令が貫いた。




「答えていけ、翠天師」




史郎の声に、待ってくれと縋る響きは欠片もない。

翠天師の消滅を、悼み、惜しむ気配すら。

冷たいというわけではない。


状況を、腹の底まで受け入れた結果の、態度だろう。






「問題の日、何が起こった」






どういうわけか、つまらないと言いたげに、史郎の口元が歪んだ。

その隣で、私は目を瞬かせる。


史郎の質問は、予想外だった。

彼が知りたいのは、『毎日』毒を撒き続けた人間のことだと思った。




史郎は北王、人外の王の一柱だ。


師の位階を持つ人外を消滅させる原因の一つとなった所業をなした相手を、見過ごすとも思えない。




尋ねるとしたら、一番にそこだと思っていた。だが。

考えてみれば、そんな毒を手に入れられる人間など限られた存在だ。


では、知っているのだ。史郎は、それを行った人間を。だとすれば。


もしかすると、祭りの日に起こった出来事も、予測できているのかもしれない。

八重の屋敷で、私が玄丸に送られた場所を知った時に。


なら、彼が欲しいのは確約だ。

推測で動くわけにいかないから。




消えゆく翠天師の指が、つ、と上がった。私を指さす。


とても優しい笑みを浮かべて。




その場にいた全員が、私を振り向いた。

私は霊笛を強く胸に引き寄せる。

史郎を上目遣いに見上げた。


「凛」

史郎が、私の顔を覗き込んでくる。

覆いかぶさるように。

だが、特に急いだ様子はない。


「何か、聞いたのか」


私は首を横に振った。

「いえ、どちらかと言うと、…見ました。あの、翠天師の中に、亡くなった女の子がいて」

咄嗟のことで、うまく説明ができない。

思考も舌も絡まった私の背中を、史郎がやさしく叩く。


落ち着こうと大きく息を吸った時。




「いい加減にしとけよ」




刃じみた声が、鋭く場を引き裂いた。

史郎が相手を横目に見遣る。

それまで気配を消していたような虎一が、ゆらり、もたれていた木の枝から身を起こした。


ぞんざいに周囲を見渡す。

起こっている状況すべてが気にくわないと言いたげに。


「なんで人外と一緒にいて平和なんだ。ここにいるのは祓寮だろうが! そもそも」

視線が転じ、いきなり私を射抜いた。

「人外の女だぁ? お前、まだ人間みたいだが」


上から見下す姿勢で、嘲笑交じりの声が矢のように放たれる。






「人外と契りを交わす意味、分かってんだろうな。覚悟はあるのか。人外の理は人間とは違うぞ」






私は一度、瞬きした。

まさか私を思い遣った台詞ではないだろう。

虎一の眼差しは、どこまでも人外への恨みに満ちている。


ただ彼は知っているのだ。

私がつい最近知ったばかりのことを。


それもそうだ。

虎一は祓い屋。

庇護と恵みをうけながらも、人外と無縁に時を過ごした私のようなものとは違う。


「意味か」

私の背を抱いた史郎の目が、氷のような視線で虎一を射抜いた。

「部外者の小僧が知った風な口を利く」


「私は」


つい、史郎の袖を掴んだ。

視線を合わせ、言った。



「道は二つと聞きました。人外になる道もあれば、人間のまま共に過ごす道もあると」



玄丸の言葉。

青柳伯の意見。

八重の思い出。


彼等の言葉すべてが語っている。


このまま。

何も知らぬまま、流され続けてはならない。


私は、決さなければならなかった。




史郎に、誠意を示すためにも。




「…ふん」

史郎が鼻を鳴らす。

ちらりと青柳伯を一瞥したからには、すべてを承知のようだ。

知っていたというよりは、彼の洞察力がすさまじいということだろう。

「だとしたら、どうする」

史郎は私を見下ろした。他人事みたいに尋ねてくる。


―――――どうするって?




そんなの。











千年。


この方が生きた間、望んだことを考える。


行動を考える。

そう、したら。


「私は」

答えなんて、ひとつしかない。











「人間でいます」











史郎が放つ嵐に似た神通力の渦中で、自分がどうなるのかなど、想像もつかない。

傍で生きていかなければ、知ることもできない。

その前に、このヒトを失ってしまうかもしれないけれど。


噛みしめるように宣言した。



「私は、人間でいます」



い続けられるのか。

それすら、確信が持てない。


だがそれこそ、もっとも史郎の望みに沿うことなのだと、私は確信していた。


ならば、私はそう在り続けることができるだろう。

正直、怖い。

「私は」

必ず史郎を悲しませる。

人間であれば、史郎より私が先に死ぬのは、自明の理。


確実に置き去りにする恐怖に足が竦む。

長く生きれば生きたで、独り老いを晒す哀しみもあるだろう。だけど。






「人間のまま、史郎さまをお慕いし続けます」






私は宣言した。

胸を張って。

人間と人外。


同じ世界にあって、異界に住んでいるような、遠い隣人。


史郎は、その衝突を避けようと、ずっと努力してきた。

互いに、良き隣人たろうと関わってきた。だから。











私たちが、人間と人外でも、幸せな夫婦になれるのだとその前例になれたなら。


互いの死が、めでたしめでたし、で括られる物語となったなら。











史郎が、目を細めた。

「堂々と、宣言か。先に死んで、俺を置いていきますって、よ」

掠れた声で呟く。


「お前ほど俺を泣かすのがうまいヤツはいねえな」


私は、人間で在り続ける。

人間の目で、人外を見続ける。


価値観の違いに、時に、精神が壊れそうになるけれど。


「俺は」


私を見下ろす史郎の目は、ひどく静かだった。




「凛を奴隷にするつもりはない。お前は自由だ。俺の主張にただ傅くだけの女なら」




史郎は笑った。

彼らしい、皮肉めいた色の濃い微笑。

だが今日はどこかが痛むような表情で。



「妻に、と望んだりはしない」



独り言めいた声で呟き、気を取り直したように胸を張る。

「お前は俺を一番に考えた。なら俺もお前を一番に考えるだけだ」


大きな掌で、私の頭を、少し乱暴に撫でた。






「たから、…それでいい」






『寿ぎましょう』


透き通る声で、翠天師が告げる。

湖を振り向けば、…もうほとんど見えなくなっていた。

魂の明滅も薄らいでいる。

『比翼連理の契りがとこしえに続きますよう』

声が、最後にほろりと溶けた。


感じた刹那、その姿は完全に消え失せている。


「大丈夫だよ。完全にいなくなったわけじゃない」

青柳伯が、私たちの方へ足を向けた。

泣くのを堪えているような怒った顔の久嵐を、隣に伴って。




「凛ちゃんのおかげで消さずに済んだからね。また、蘇るよ」




顔でにっこり微笑み、鋭い視線で祓寮の人たちを見遣る。

「湖が完全に浄化された時に、さっきの翠天師とはまったく違う存在として、だけどね」

私が生きている間にそれはかなうのだろうか。

天を見上げれば、太陽が傾き始めていた。

赤く熟すにはまだ時間はあるが。思うなり。



「…ックシュ!」



くしゃみが飛び出した。

ほとんど全身濡れそぼっている。

春とはいえ、冷える。

ついでに。


おなかもすいた。


無意識に身を寄せていた私をさらに抱き寄せ、史郎は言った。

「そろそろ向かうか」

「小春ちゃんのお小言はおっかないしねえ」

青柳伯が久嵐の首根っこを引っ掴んだ。

史郎が私の身を抱いたまま、首を巡らせる。




「…悪いな、八重。戦は止まらん」




え。

八重?

どこに、と思うなり、彼が見遣った木陰から、女性が現れた。


「避けられぬものなら、受けて立つのみです」


彼女は、藤色の着物の上に、淡い印象の牡丹が刺繍された白い肩掛けを、品よくまとっている。だが。

私は思わず目を見張った。

彼女は、着物の袖で皺の刻まれた口元を隠す。


「これが、わたくしです。霊笛の君」


面立ちは、八重だ。間違いない。

だが、髪に白いものが増えていた。皺も。




「面倒な女、と申し上げたでしょう?」




かといって、恥じる様子もなく、双眸は少女のように輝いている。

「この姿は、仮のもの。一日で咲き誇り、散る花です。…子を為すこともできませぬ」



一日で歳老い、また、翌日には一から生まれる―――――そういう、ことだろうか。



異形とは思わなかった。

そうであるなら、その通りに受け入れるまでだ。ありのまま。

八重は私にやさしくしてくれた。

それで十分だ。


私はただ、思った言葉を返した。


「また、お会いしましょう」


八重は一瞬、目を見張る。

刹那、きれいな顔が、泣きそうに歪んだ。

木の影に隠れるようにしながら、彼女は告げる。

「宴の成功をお祈りいたします」

「おう」

史郎が頷いた。

青柳伯が、超然と周囲を見渡していた柘榴を差し招く。


翠天師の消滅が影響してか、消沈している久嵐の頭を乱暴の掻き回し、史郎は顔を巡らせた。

「伊織」

穏やかだが、何を考えているのか読みにくい顔を向けた彼に、史郎は低い声で告げる。











「供儀の座が回るぞ」











伊織が目を細めた。

いきなり、大気が濃密になった心地がして、私は一瞬眩暈を覚える。






供儀の座。


聞いたことがある。

人間と人外の力の均衡を計る道具だと。

それは、大皇家が居を構える地下に厳重に保管されている、とも。


それが、動く。


どういうことだろう。






得体の知れない空気をまとった伊織は、早口に言った。


「危うい意味を持ちます」


「動かすのは俺じゃねえ」


「止めることは?」


「不可能だ」


「人間と人外の戦をお望みか」


まるで剣戟を交わすような、鋭い応答。


物静かな中に、恫喝を込め、伊織が言った。






「王よ、如何に!」






王。

その言葉に、夜彦が目を見張る。

虎一が唖然と史郎を凝視した。


人間たちの言動など意に介した様子もなく、史郎は嘲笑う。

そして、場に落とされたのは、






「なに、―――――新たな王が生まれるだけさ」






爆弾。

刹那、足元が輝いた。

(…あ、)


水脈が開く。


史郎は不敵に笑んだ。

「…まぁ、楽しみに待っていようぜ?」

漆黒の、史郎の羽織の袖が翻った、と見えた時には。






私たちは水脈の中へ飛び込んでいた。






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