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霊笛  作者: 野中
霊笛・第二部
22/72

第三章(3)

八重が、史郎に下げていた頭を上げた。

重荷を下ろしたように、ふぅっと彼女の全身から緊張が抜ける。

天井を見上げ、首を横に振った。


「なんと苛烈なお方。おそばに寄るだけで、全身が締め上げられるよう」

腕をさする。疲労しきった動作だ。

すぐ私を見、にっこり微笑んでくれる。

「では」


「はい」

躊躇うことなく、私は頷いた。

「ゆきます」

霊笛を持つ者の許へ。


相当、焦っている自覚はある。

はぐらかすように、八重は目を細めた。

「まあ、頼もしい。ですが、その前に」

言いながら、そばに置いてあったものをそっと取り上げる。


「どうぞ、お召し替えを」


彼女はそれを恭しく差し出した。

長着だ。

そこで、はじめて私は自分の格好を見下ろす。


まだ、夜着だ。


耳まで熱くなった。無言で、着物を受け取る。深く頭を下げた。

「ありがたく」

申し訳ないが、借り受けるほかない。


「お手伝い致しましょうか」

申し出に、私は首を横に振る。

着物を深く胸に抱き、隣の部屋に入れば、襖越しに八重の声が届いた。

「正直に申し上げます」

真剣な声だ。



「霊笛の君は、よく頑張りました。あの北王に、意見なさるとは。…儚げに見えて、芯のお強いこと」



「当然じゃ。わたしの主なのだからの」

柘榴は胸を張ったように応じるが、果たして、本気で主人と思っているものだろうか。

読めない。

私は夜着を肩から滑り落とした。

これも、八重のものだろうか?


弱り切った私は、肩身の狭い思いをしながら言葉を紡ぐ。

「恥ずかしながら、我儘なだけです。史郎さまは、よくお許し下さったものだと思います」

足袋を履き、心から反省した。

男性は立てるものだ。なのに、よりによって人前であのような。


消え入りたい気分で、裾除けと肌襦袢の上から、長襦袢を羽織る。

やわらかい香のかおりがした。

襖の向こうで、八重は低く笑ったようだ。


「本当のことを申しますと、霊笛の君のご協力はとてもあり難いお話なのです」

そう言ってくれるが、先程の私の行動は、思いあがったものとも取れる。

「八重さんの意見も聞かず、手伝いなどと、偉そうに申しました」

そっと腕を通した着物は、あかるい山吹色に染め抜かれていた。

「御迷惑でなければいいのですが」

足手まといになる可能性は、とても高い。

せめて、邪魔しないようにしなければ。


「そんなわけはございません。探し物は、誰の持ち物だとお思いです?」

八重は呆れたように言った。


そう。

そこだ。

探すべき霊笛、豊音は私の持ち物だ。


他人任せにしていいものではない。


小春も、きっと言うだろう。

―――――お役を果たしなさい。

花の刺繍のある着物に、萌葱色の帯を巻き、自分に言い聞かせていれば、八重はため息をついた。


「殿方は時に、行き過ぎなほど過保護ですね」


比較できる対象のあまりいない私は、安易に同意できない。

史郎は最初からああだ。

「…玄丸殿も、そうなのですか」

私は、つい尋ねていた。

八重の言葉に、実感がこもっていたからだ。

玄丸の無謀とも言える行動の源には、どうしても八重への気持ちが垣間見える。


それを、他ならぬ八重が感じていないわけがない。


八重は、真っ直ぐには答えなかった。

「慣れない転移の術で力を使い果たし、…おそらくしばらくは役立たずでしょう」

的を外した答えだ。

玄丸がどこにいる、とも言わない。


だが、玄丸は八重を守りたいと思っている。


彼女はここにいる。

逃げ隠れしているわけではないはずだ。

純粋に、動けないのだろう。

八重の言葉通り。

その状態が、彼にとって、一番の罰かもしれない。


「では、八重さんのお父様は、…どうでしたか」

いつもなら、私はこれ以上踏み入らない。

それでも八重に家族のことを尋ねたのは、先程の青柳伯の言葉の影響だ。




八重は人間と人外の混血。




しばらく、沈黙があった。

聞かなかったことにしよう、と私が俯く程度の長さは。

だが八重は、答えてくれた。


「ええ、私が生まれたばかりの頃は。父の心配を鬱陶しいと思わないでもありませんでしたが…家の中には、笑顔が、絶えなかった」


私は慌てて帯を整える。

中途半端に聞いていい話ではない気がした。


八重の言葉は続く。

「ただ、晩年は―――――そう、人間である父が老いを感じはじめた頃からだったかしら」

私は閉じていた襖を開いた。


寂しげに笑う八重と目が合う。

「両親は、心から憎みあって、罵り合って、揃ってぽっくり逝きました」

冗談めかした口調だ。

だが言葉の底で、何かを耐える気配があった。


私は襖の前で、正座する。

神妙に頷いた。

「では、二人は間違いなく、最期まで愛し合っておられたということですね」

八重が目を見張る。

柘榴は首を傾げた。

「憎みおうておった、と八重は申したぞ?」

その通り。

ならば、迷う話ではない。私は頷く。



「愛せなければ、憎めません。憎めなければ、愛せません」


ふたつで、ひとつだ。どちらも欠かせない。



愛情の裏には、憎悪がある。憎悪の裏には、愛情がある。

一方が欠けては成り立たない。

「…そんなことを言ったのは、霊笛の君がはじめてです」

八重は力なく、それでもさっぱりと微笑んだ。

その笑顔を見つめながら、私はなんとなく拳を握りしめる。


もう、ひとつ。




どうしても、聞きたいことがある。




私は口を開いた。

「失礼を承知で、お聞きしてもよろしいですか」

緊張に気付いたか、八重が居住まいを正す。

「あら、なんでしょう」


「お父様は、人間だったのですね?」


念押しに、八重が頷く。

尋ねていいものだろうか。

何より、真実を聞く準備が、自分にあるのだろうか。


迷いを色濃く残しながら、私は尋ねた。




「…人外と契った人間には、人外になる道もあると聞きましたが、お父様はそれをお望みにはならなかったのですか?」




八重は一度、目をさまよわせる。

私の問いに、何がしかの得心がいった表情で。

「母はさほど力を持った人外ではありませんでしたので、難しかったとは思いますが…」

八重は遠い目になった。


「ええ、父はそれを望みませんでした。人間のままでいることを望んでいました」

すぐ、真っ直ぐに私を見つめる。

「ゆえに、人間のまま亡くなりました。共に逝けた母には、僥倖でした」

「人間でいることを望む――――望むだけで、人間のままでいられるのですか?」

驚いた。


一瞬、なんて単純な話だろうと思ったからだ。だが。





単純であればある程、実はおそろしく困難な話なのではないだろうか。


心は、簡単に自分自身を裏切ってしまうものだから。





「ご本人の、決意の問題でしょうね」


一瞬、八重は見透かす目で私を見つめた。

「頑固者だけが、人間のままでいるのです」

気を取り直したように、八重が明るく言った。


「さ、まずは、お食事にいたしましょうか」

八重は誰かを呼ぶように手を叩く。

直後、廊下の向こうから「はい、ただいまー!」という元気な声が響いた。

同時に、いいにおいが漂ってくる。


とたん、私のお腹が鳴った。

慌ててお腹を押さえる。顔が赤くなった。

考えてみれば、相当の間、食事をとっていない。


よいのですよ、と八重が微笑む。

「お腹がすくのは、健康の証拠。なにより、人間の身体は燃費が悪いでしょう?」

八重の、人を食ったような雰囲気が増した。

そのため、と言ってはなんだが、私はようやく、玄丸と八重のつながりに得心がいく。


うん、この雰囲気。確かに、夫婦だ。


「お腹を満たしましょう。そうすれば、もう少し冷静に策を巡らせることができます」

八重が、部屋の隅の柘榴を手招く。

「柘榴さまもご一緒に」

「呼ばれよう」

柘榴は悠然と頷いた。

八重がいそいそ立ち上がる。


「大勢でお食事って久しぶりです。玄丸は留守がちな上、眷属は付き合ってくれませんから…一人の食事は味気ないものですものね」


八重の眷属なのだろう、どこからか集ったちいさな童たちが生真面目に膳を並べていく。

手伝おうとしたら、いかにも一生懸命、という態度で拒まれた。

代わりとばかりに、抱えるように差し出された座布団を受け取る。

あ、どうも。


八重は朗らかに口を開いた。

「ところで、霊笛の君。霊笛を現在所有している者のことですが」

両手で座布団を提げ、私は彼女を振り向く。直後。


八重に、違和感を覚えた。

やたらと疲れて見える。

いや、疲労と言うより、これは…。

私が違和感の正体を見定める寸前、



「奥さま、奥さま、大変ですー!」



よく肥った子供が座敷に駆け込んできた。

八重の眷属の一人だ。

人型なのだが、本来耳があるところに薄い葉っぱが生えている。



「霊笛を持ってるやつ、とんでもないところへ向かったそうです」



半分ベソをかいて、八重の膝に突っ伏した。

跳ね除けるようなことはしないが、八重は厳しく叱責する。

「落ち着きなさい、お客人の前よ」


「とんでもないところ、とは」

柘榴が驚きひとつなく、のんびり口を挟んだ。

「何処かのう」


八重の眷属が、びくりと顔を上げた。



その目が、柘榴の角を凝視している。



殺すと脅されたような引きつった声で、答えは返った。

「す、翠天湖ですぅ」


「霊笛を持っている相手に近づいてはいけないという言いつけは守っているわね?」

八重が、私に鋭く目配せする。


翠天湖の主たる人外・翠天師は発狂している。

霊笛を持っているという人物は、何を思って、そんな危険な場所に赴いたのか。

「近付きたくても近づけません」

肥った子供が震えあがった。

首を横に振る。


「あいつ、強すぎます。本当に人間ですか」




「侍よ。忌々しい人種!」




八重の声は厳しく、疎ましげだ。

侍。


人間かどうか疑うほど強い侍?


私の脳裏に、一人の青年の姿が閃いた。




―――――さ、参りましょう。家までお送りいたします。




涼しげな笑顔の彼は、白鷺家家臣、清孝。

まず、間違いない。


私はつい、口を挟んだ。

「なぜ、清孝殿はそのような場所に向かったのです?」

八重は苦笑した。

「そう、お知り合いでしたね。…おそらくは、」

彼女の目元が、わずかに険しくなる。


「祓寮から協力を要請されたのだと推測します」


「協力?」


「祓寮がこの地を訪れたのは、佐倉家のご機嫌伺いなどではありません」

八重の眷属は、身を震わせた。






「翠天師を祓うためです」






真剣な答えに、私は大きく息を吐きだす。


考え込まなくてもわかる話だ。

位階持ちの人外が発狂した。

なら、祓寮は動く。


当たり前の、法則だ。


だがそこでなぜ、清孝が関わってくるのか。

「あの方は、白鷺家の家臣と名乗りましたが、祓寮と関わりが?」

「そこまでの調べはついておりませんが、そうですね…昨日、祓寮の者が佐倉家からの要請により、嗣子の救出に向かった際、

同道を無理にねじ込んだと聞いております」

ではその際に、なんらかの交換条件がだされたか、いずれにせよ、関わりができたのだろう。


とすれば、彼が翠天湖へ向かったのは。



―――――私も、原因のひとつということになる。



ただ、まだわからないことがあった。

なぜ清孝はこの地にやってきたのか。その点が、不審だ。

彼は、佐倉家に敵対する白鷺家の家臣だ。


両家の関係が危ういこの時期に、どのような理由があって、佐倉の地を訪れる必要があるのか。


「…そもそも彼は、私が転移で現れた屋敷にいました。ですが、ここは、白鷺家と敵対する佐倉家の領地です。

なんの関わりがあって、清孝殿はあの屋敷に」

私は眉を潜めた。

八重が目を見張る。


「あの侍が、商人の屋敷に? 商いの客人としてではなく? …どこで侍と知り合いになったのかと思っておりましたが…」

「彼がいたのは」

言葉の途中で、私は不意にある可能性に思い至る。

先ほど、八重は言ったではないか。


―――――彼女は昔、高貴な方に恋をして、子を身ごもったのです。


一瞬、私は上の空になる。

呆然と呟いた。

「…屋敷の裏庭です」

商いの客が散策するには、あまりに場違いな場所だ。

どちらかと言えば、内向きの場所。


「それは」

八重は、呻くように言葉を潰した。

私と同じことを想像したんだろう。

一方で、ほぅ、と面白がるように柘榴が厚い唇の端を吊り上げる。

「かの家の一人娘は昔、高貴な方に恋をして身ごもったと言うたのぅ? ふむ、あの侍は若かったし、高い身分とは言えなさそうじゃから…」

酷薄を感じさせる簡単さで、柘榴は疑惑を口にした。


「推察するに、侍が仕えておる白鷺家の重臣が、火遊びの相手と言うことかえ」


清孝は、その名代、と考えればつじつまがあう。

重い沈黙に、空気が塞がった。

それを破ったのは、八重の眷属だ。


「あの!」

私たちを見渡し、不安に揺れる言葉を紡ぐ。



「翠天湖には北王も向かわれたとお聞きしております。…どう、なるのでしょう?」



我に返る。

胃の腑が重くなったのは、私だけではないはずだ。

とんでもない状況だった。

役者が揃って、和やかな話し合いですむはずがない。


八重が眉を潜める。

「かち合った際に霊笛を傷付けられると問題ですね」

眷属の頭を撫で、八重は冷静に呟いた。




「そうなればわたくしは北王に始末されてしまいます」




困ったこと、という顔は、たいして深刻ではない。

やはり、八重と言う人は図太いのだろう。

なんにしろ。

やることは、決まった。


そっと告げる。

「では、八重さん。力を貸して下さい」

気負いなく立ち上がった。






「私をそこへ送って頂けませんか」






私を、八重が唖然と見上げる。


私の目的は、はっきりしていた。

霊笛の奪還。八重を死なせたくもない。それと。

…あと、ひとつ。

どうしても、知りたいことがあった。


「…危険を、ご承知?」

すぐ、八重は厳しい顔になる。

怖いもの知らずの子供の遊びを窘める態度だ。

「翠天師は発狂し、暴走しております」


それが?

落ち着き払って見下ろせば、なぜか、八重は少し怯んだ。

私はすぐ、合点した。

ああ、そうか。


行く先に暴走する人外がいると思えば、足を止める理由になると思ったのか。


けれど私に、恐怖はない。

狂った人外を見たことがないからだろうか。

でも怖かったとしても、きっと私は。


なによりそこには―――――史郎がいるのだ。

だから、へいき。




そう言えば、聞いていないことがあった。


「翠天師はなぜ、狂ったのです?」




八重は諦めたように目を伏せる。私が意見を翻さないことを、察して。

「…毒を撒かれたのです。湖に」

毒。湖に? 一瞬、眩暈を覚えた。


そんな愚行、誰が。…いや?


頭の隅で、何かが引っ掛かった。

毒をまかれたのだとしても、人間一人が持ちこめる量など高が知れている。

それなら、自然の自浄作用で、浄化は追いつくはずだ。


対象は、湖だ。ちいさな水たまりではない。


だが、詳細を尋ねている暇はなかった。第一、無駄な質問だ。

私が為すべきは、犯人探しではない。


自身の目的に、意識を絞る。

まずは、豊音を取り戻す。

そして、かなうなら。

思いさした、刹那。








―――――ッ!!








獣の咆哮がすぐ耳元で巻き起こったような感覚が駆け抜けた。

わんと脳が揺れる。

思わず後ろを振り向いた。


いや、もっと、ずっと彼方から、その衝動は私を貫いていく。


おぞましい波動だ。悪寒に身が震える。

憎悪の牙で周囲を千々に噛み荒らし、果てには己すら食いつくすような。


自滅的、な。


八重が苦しげに呟いた。

「翠天師…もう、こんなに…」

私は歯噛みする。

これが、翠天師の意識なら。

正気が残っているとは思えない。


滅ぼすしかない。潰すしか。で、なければ。




もっと多くの命が消える。




けれど。

顔を戻して、私はまっすぐ八重を見つめた。

「あの方々の目的は明白です」

祓寮にしろ、清孝にしろ、―――――史郎たちにしろ。

なんのために翠天湖に集う? 八重は頷いた。


「翠天師の、…滅び、ですね」

「ならば、その動きは読めます」

私は彼等に協力しない。

だが、邪魔もしない。

「目的が別にある私は、その合間を縫って動けばいいのです」


「手ごわい男どもを手玉に取ろうと言うのかえ? 面白そうじゃが、はて」

座していた柘榴が、楽しげに声を弾ませる。




「凛の目的は、なんぞ」




八重が顔を上げた。

私を見上げ、目を見張る。

柘榴が、どこか好戦的に目を細めた。

「霊笛だけ、とは思えん気迫じゃぞ」


そんなの、決まっていた。

それが一番いいから、と簡単に翠天師が叩き潰されてしまえば、消えてしまうもの。

それは。






「真実です」


「とは?」






柘榴が首を傾げる。うん、そうだね。

言葉が足りない。

「私は、知りたい。祭りの日、」

このままでは、答えを得られない。戦が起こるねじれた理由を。

久嵐も知らないと言っていた。戦の発端。平和の均衡を崩した、ささやかな一点。

私は厳かな気分で言葉を続けた。



「―――――誰が、少女を殺したか」



誰も見ていない。

今回の、戦の中心にいるのに、名さえ語られない。








―――――死んだ女の子。








その後に起こった出来事と比べれば、彼女の存在はちっぽけと誰もが切り捨てている。

誰もが見捨てているものが、私には気になっていた。

かろうじで久嵐がそちらを見ていたが、彼の心を噛むのは、己の後悔だ。


翠天師がいなくなれば、それこそ浮かばれない。

語られなかった以上、真実は文字通り、葬り去られる。

なにせ翠天師は、すべて見ていた。絶対に。ならば。



…本当に、何も、しなかったのだろうか。



ただ、見つめていたのだろうか。手をこまねいて?

そのときいったい、何が起こったのか。


私は、知りたい。


遠く、この場にいても感じる、熾烈なほど乱れ切った波動を全身で感じ取ってみる。

避けず。

逃げず。



反発するのではなく、あるがまま、吹き抜けていく風のように波動に身体を通過させる。



そうして。

…推察すれば、もう翠天師に正気は欠片も残っていないとも思う。

知ったところで、何も変わらないかもしれない。

けれど。











死んだ少女、その一点で何かがひどく絡まり、縺れている。


風が蟠り、水が淀んでいた。


解けるのはきっと、―――――真実だけだ。











諦めるのは、まだ早い。

私は何も、試していなかった。

北王の妻として相応しい行いを、という気持ちは、このとき、とても遠かった。だが。


湧き上がったのは、その使命感に似た、祈りに近い気持ちだ。


「八重さんを、死なせたくもありません」

自身に言い聞かせるように頷けば、八重はうろたえた。

私の動作は軽く見えたろうか。

少し困って、言葉を重ねた。


「だから、動きます」


「な、なにも、霊笛の君がそこまでされることは」

「八重さん」

私は八重の言葉を、しずかに遮った。




「お願いします。―――――送って、下さい」




私は八重に手を差し伸べた。隣に、柘榴が立つ。

その肉厚の唇が、笑んでいた。


「剛毅、剛毅! 良いな、凛は本当に、良い」


子供じみた無邪気な口調。

柘榴は待ちかねる態度で視線を転じ、八重を促す。

「わたしたちは脈動を渡れぬ。力を貸してもらわねば」

「ですが」

「のう、言い訳が必要なら、霊笛を持つ侍を使えばよい。翠天湖にいるのだろ? 行かねばならなかった、そう言えば良いのじゃ」

八重は、あきれ果てた顔で鬼女を見上げた。


目を閉じる。

大きく息を吸った。

深く息を吐きながらゆっくりと目を開ける。


視線が、まっすぐ私に定まった。

心は決まったようだ。

でも、どちらに?


「わたくが最も使いやすいのは、地脈。このうつし身で渡れるのも、地脈のみです。ですがこれほど気が揺れていては、地脈を使えません」


八重の口調は、鋭く早い。

本性が樹木と言うなら、まず、本当の話だろう。

「では、水脈はどのような状態でしょうか。向かう先は湖なわけですし」


「湖なればこそ」

八重は首を横に振った。




「水脈こそ、もっとも乱れております」




言われてみれば、その通り。浅はかだった。

私はすぐ気を取り直す。

「では、風脈はいかがでしょう」

「他よりまし、ではありますが」

それも危険には変わりないと言いたいのだろう。

八重はわずかに呻く。私は頷いた。

「では風脈で」


「軽いですねっ!? …もう、風脈の扱いは、わたくしが最も苦手とするところなのに」

悪さを見つけられた優等生めいた表情で、恨めしそうに八重は上目遣いになる。

「それでも?」


「なんとかなります」

「先に、あなたがただけ、現場に放り出すことになりますよ。あの、それでも?」

「けっこうです。責任は、私に」


「…いえ、連帯責任でしょう、これは」

諦めたように八重は微笑んだ。

迷う前に、と言いように、間髪入れず、片手を上げた。

「では」

突如、視界いっぱいを光が埋め尽くした。

思わず目を閉じる。






「―――――ご武運を!」






八重の言葉を聞いた、と思った時には。

ごう、風の悲鳴が耳朶のすぐそばを切り裂いた。


たちまち、浮遊感が身体を襲う。

目を見張った。



視界いっぱいを、果て知らずの青が埋め尽くす。



私はどうやら、空中で放り出されたようだ。

冷静に自覚する。


(あ、失敗したんだな)


それならそれで、どうにかするしかない。

大丈夫。

放り出されるのには、慣れている。


しかし、どの高度に私はいるんだろう。


上下左右の間隔が曖昧な中、私はどうにか、地面と思われる方を見下ろした。

重力の手だけは、容赦ないほどはっきりしていたから。


たちまち視界に迫る、澄みきった水面。

…毒に満ちているとは思えない。けれど。

思わず口と鼻を両手で覆った。固く目を閉じる。―――――だが。







「違う、受身です!」







塞がなかった耳に、声が届いた。

誰? はじめて聞く声だ。切羽詰まっている。

いや、聞いたことは、ある? でもどこで。


思い出す前に、身体が動いた。


受身? 水面で? ならば。

迫る水面。

それを大地と考えればいいんだ。


幸い、それほど高い場所で放り出されたわけではなかったようだ。

私は無抵抗に落ちた。水面へ。

日々の鍛錬で、身体はもう、勝手に動く。


気付けば猫のように身を丸め、落ちていた。

衝撃は、ほとんどない。


本当、鍛錬ってだいじ。


転がる。その勢いのまま立ち上がった。

水の上に。違う。正確には。


―――――水の上、蓮の花に似た形の紋様が輝いていた。


その上に、私は立っている。

この光はなんだろう。

覗きこんだ刹那、―――――ぎろり、突如、水の中で無数の目玉が開く。


魚の丸い目だ。ただし、目玉だけ。




そこで、はじめて気付く。




湖の中に魚が一匹もいない。

命の気配がなかった。

「薄気味悪いの」

柘榴の声と共に、腰を攫われる。


あ、と声を上げた時、私の身体は浮いていた。

私を抱え、ぽぅん、と柘榴が跳んだのだ。

ひかる紋様が、たちまち崩れる。


さらにそれを破裂させるように、水柱が上がった。




鉄砲水めいた勢いで。


真上にいれば、死んでいた。




ひと飛びで地面の上に立った柘榴が私を下ろしてくれる。

土が、何ともいえない腐臭を放っていた。

じゅるりと足が滑る。

水柱から弾かれた水の雫が、光を弾き、輝いた。

一見うつくしい光景に見惚れた。とたん、




「何をしている!」




容赦ない怒声が、湖の向こう岸から飛んだ。

「はやくこの場を離れろ、死にたいか!」

怒声? いやこれは、もはや咆哮だ。とはいえ。


威嚇した上での脅しというよりは、塾の先生からの叱責という印象が強い。

怖くで逃げ出すより、謝らなければと言う気分にさせられた。


向こう岸を見遣れば、夜彦と名乗った祓寮の男が、大きな体躯を威嚇でさらに膨らませるような印象で、湖に向かって太刀を構えている。

身体ばかりか、声まで大きいのだな、と少し感心した。


その斜め後ろでは、小柄な老紳士が、苦笑のしわを口元に刻んでいる。

濃紺の襟巻に手をやり、私を見た彼は困ったように首を傾げる。

「…ご無事で何より」

何を言うか悩んだ沈黙を前置きに、彼はおっとりと言った。

なんとなく、気付く。


助けてくれたのは彼なのだ。


先ほど、水面で輝いていた蓮の花の紋様。あれは、彼が。

もしかすると、肩に負った傷のことを言っているのかもしれないけれど。


確信を持って、私は深く頭を下げた。

「助けて下さって、ありがとうございます」

老紳士は、微かに目を見張る。

なぜ驚くのだろう。

首を傾げれば、ホッとしたように微笑まれた。…どうして?


なんだか不思議な反応、だと思う。


彼は何かに納得した様子で頷き、私へ丁寧に一礼してくれた。

すごく洗練された動きだ。


「私は祓寮・術式、兼、長を務める、伊織と申すもの。貴女の名をお聞きしても?」

思わぬ自己紹介。その上で、こうも丁重に名を尋ねられると、少し恥ずかしくなる。


なんだか尊重されている心地に、落ち着けない。


私は少し、言葉に詰まった。

合間に、ひやり、冷気が頬に触れる。

見れば、私たちの間、湖の中央で上がった水柱が、氷っていた。

その端から、びしびしとひびが入っていく。

だとしても。


慌てても仕方がない。止められない。

即座に判断し、私は微笑む。

自分の胸を押さえ、のんびりと言った。


「申し遅れました。私は、凛と言います」


隣で柘榴がにやにやと笑っている。

夜彦の額に青筋が立った。


それぞれの思いに構わず、異変は続く。


ひび割れの音が大きくなった。

ただしそれは、単純に、氷が割れ砕ける音ではない。






ばしり。欠けた貝殻が現れた。


びきり。魚の尾びれがそよぐ。


ばき、白骨が。ぼきん、蛇の胴体が、亀の甲羅が、水鳥の翼が、…続々と半端なものが生まれ、積み上げられていく。




常識外れの速さで。






「これは、どうなっているのかな」

のんびりと言った声は、―――――あ。

目を見張った私は、顔を巡らせた。


清孝だ。どこに?


「伊織殿。オレは殺すのが仕事です」

目を上げれば、…いた。

夜彦の背後にそびえる杉の樹上で、しゃがんだ清孝は頬杖をついている。


「これはオレの専門から外れているようですが、太刀でどうにかなるものですか」

とたん、横から、

「死ぬまで斬りゃいいんだよ」

すべてを叩き伏せる声が乱暴に飛んだ。

柘榴の口元から笑みが消える。


「得意だろーが」


ぶん、大気を殴る音がした。

夜彦から少し離れた場所で、虎一が槍を回す。

この状況を前にしてどこまでも戦意に満ちた眼差し。


ところで。


彼は自らを、祓い屋と言った。

私は首を傾げる。

なぜ、彼は祓寮と行動を共にしているのだろう。

祓寮と祓い屋は似て非なる存在だ。


祓寮の者は、相応しい学問を身につけ、公的機関に属する、いわば選良だ。

祓い屋は違う。


野に存在する人外を駆逐する力を持つものであることは確かだが、祓寮ほど公の存在ではない。

術はすべて我流であり、律法に縛られず、凶暴だ。

金次第で何でもする、という噂もある。


性質ゆえに祓寮と祓い屋は衝突が多い。


共に行動している姿は珍しい。


若者二人の言葉に、伊織は微笑んで顎を撫でた。

「頼りにしております。お二人の武は、一流」

その目がすぐ、私へ翻る。

思索する目で私を貫いた。


「…お嬢さん」


一瞬間を置いたのは、私を何と呼ぶべきか、悩んだからだろうか?

何を考えているか分かりにくい笑顔で、彼は続けた。




「ご助力、願えますか」




他三人の青年は、束の間、面食らう。

私もだ。けれど。


非力な娘に、本気で助力を願うわけもない。


勝手に動かれるより、手元に置いた方が安全と思っただけだろう。

隙をついて行動するつもりが、どうやら、巻き込まれたようだ。なら。

「はい」

私は迷うことなく頷いた。同時に、

「では、」


何か言いさした伊織の言葉も聞かず、駆け出す。

目の前の、湖へ。

室内から突然、外へ跳んだのだ。履物もなく、足袋越しに感じる砂利が痛い。

だが、構ってなどいられなかった。


巻き込まれた?









ならば―――――巻き込み返すまで!










「では、私にもご協力ください!」


彼等と私の目的は違う。

自身の目的を遂げつつ、まるごと解決できれば一番いい。だとしても。


できなければ、仕方がない。それでいい。どうなるかは、成り行き任せだ。


黙って待っていれば、迷ってしまう。

迷えば、竦む。

その前に、私は動いた。

止める間なぞ与えない。



岸を蹴る。



「な」

声を詰まらせたのは、誰だったか。

だが私の身体は、先ほどと同じ紋様の上に乗っていた。


ちらり、向こう岸の伊織を見遣る。

穏やかな、涼しい顔をしていた。

一見、予想通りと言いたげな態度だ。


迷惑をかけているな。頭の片隅で、思う。だが、足を止めたりしない。


道をつくるように次々とうまれる、ひかる紋様の上を、私は真っ直ぐ駆け抜ける。

「よせ、とまれ!」

叫んだのは、夜彦だ。


この場合、彼の反応が真っ当。


けれど私に、足を止めるつもりはない。






だってこれが、最短距離だ。


霊笛への。






「ははっ」

柘榴の、破裂するような笑い声が、すぐそばで弾けた。

「そなたどう動くか読めたためしがないぞ、凛。ついてゆくのがやっとじゃ」

それにしては、平静な声だ。


視界の隅に映る足元の私の影が、別の大きな影に覆われる。


でも、見上げたりしない。

「…この…っ」

向こう岸で腕を薙ぎ払うように動かしたのは、虎一だ。


空気を割いて飛んだのは、クナイ。

「ふん」

柘榴が鼻で笑った。




「気にくわん男じゃが、よい足止めよの」




刹那、猛烈な破裂音が頭上から降り注ぐ。

―――――ォォォオオオォォ…

低い木霊めいた音とともに、何かの名残がぱらぱらと身体に落ちた。


それらを掻きわけ、私はひたすら向こう岸を目指す。

ひかる紋様を生みだしているだろう伊織と呼吸を合わせるなど意識の外に、私は駆けながら杉の木の上の清孝を見上げた。



「清孝殿!」


唖然としていた若者が、夢から醒めたように瞬きする。目があった。叫ぶ。


「―――――笛を!」



すぐ、伝わったのが分かる。

清孝が立ちあがった。

袷に手を入れ、そこから無地の布袋を取り出す。


細長い紺色のそれは、白い紐で上下を縛られていた。

中にあるのは、間違いない。






豊音。






つい、目が輝いた。


私の気持ちが伝わったか、清孝がやさしげに微笑んだ。

「売り飛ばされそうになっていたので、かの商人には秘密で預かりうけておりました」

…それは、ある意味、横取りした、と言えないだろうか。

どうもこの人は、優しげに見えて、危険人物だ。


「先日お返ししようと思っていたのですが、機会がなく――――」


ふ、と清孝の視線が動く。

たちまち、彼の顔から表情が消えた。

片手が、腰に佩いた刀に触れる。


唇だけで笑み、彼は低く告げた。




「今すぐ、お返し致します」




その唇に、布袋を挟んだ。

と見るや否や。

「え」

私には一瞬、彼が消えたように見えた。違う。跳んだのだ。


湖目がけて。


清孝が空中で鯉口を切った。

私が見上げた先で、青空を背景に、彼は危なげなく身を捻る。






直後抜刀――――何者かにそこへ導かれたかのような正確な軌道を描いた刃が、巨大な蠍の尾に似たものを私の頭上で根から断ち切った。






最中、私の頭上に、豊音が落ちてくる。


慌てて足を止めた。

斬り捨てられた蠍の尾が私の腕を掠めて落ちる。


よろめいた。


それでも、私はどうにか、豊音を受け取った。

一度、強く胸に抱きしめる。

すぐ意を決した。紐を解く。豊音が顔を見せた。


何事もなかったかのように。


足元には、毒の湖。すぐそばに狂った異形。

こんな状況だと言うのに、私は驚くほど冷静になった。

私はその場で改めて異形に向き直る。


鼻を麻痺させるような腐臭を放つそれを、はじめて真正面から見つめた。

毒に満ちたそれがより以上に強力な毒を生みだしているのだろうか、大気が目に沁みる。


異形の上に、平然と身軽に着地していた清孝と目があった。

彼に深くお辞儀する。

視界の隅で、内臓の塊めいたものを柘榴が握りつぶしているのが見えた。

が、それに卒倒している暇はない。



私は笛を構えた。



幼い頃からずっと続けていた所作だ。

吹いたからと言って、どうにかなると言う確信はない。

ただ、思った。もし。


翠天師に少しでも正気が残っているのなら、音に、反応してくれるのではないか。


何の確信もなかった。

しかし失敗したところで、何も失うものはない。

なら試すだけ。

胸の内が静謐に満ちた。刹那。




―――――笛の音が、大気を鋭く引き裂いた。




清く尊い響きが、私を通して流れ出す。

気のせいだろうか。

異形の動きが、いっとき、鈍る。同時に。


その意識が、いっせいに私へ向いたのが分かった。


体積を増していく異形の姿が、苦悶するように私に向き直る。

ただし、どこが正面かは分からない。

けれど私は音を止めない。

最後まで吹ききる以外の選択肢はなかった。


最中に、気付く。

豊音の音が、異形を苦しめていた。

理由は、すぐ察した。

異形を構成するすべてが、乱れ切っているからだ。騒がしい。

対して、豊音の音は。


端正で、静かだ。


感覚としてしか語れないそれがもし肉体を持っていたとすれば、一方が一方を組み敷き、従わせることができるか否か、の息詰まる戦いとも言えたろう。

そして、それを純粋に『力』として換算できたなら、豊音がわずかに勝っていた。


その上、余力もある。ゆえに。

現在、目の前の異形は窮鼠だ。

相手を追い詰める方法は、私の好みではない。

加減すべきか。

方向性を変えるか。


調べの流れを変えようとした時だ。


突如、目の前にまっくらなほら穴が開いた。

桃色にぬめる肉。

その縁に、骨。あれは、牙だろうか。


剣先のように尖ったそれが、何重にも重なり、―――――いきなり二つに割れた。


それらが、私の左右から迫る。その時だ。







…手応えがあった。







すべてに届けとばかりに響かせていた豊音の音が、キン、と澄んだものを打ったのだ。

異形の中にあったそれは、笛の音に反発しなかった。つまり。


周囲の、嵐のような乱れに影響されていないものが、異形の奥に、ある。ならば。


逃げるわけに、いかなかった。

意識を凝らす。




どこ。ねえ。

もう一度。


望んでくれるなら、この音を呼んで。



●あとがき

読んで下さった方、ありがとうございます。

第三章は(4)まで続きます。

第二部は第四章・終章でラストとなります。

気分が向かれましたら、お付き合いいただけると嬉しいです。

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