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霊笛  作者: 野中
霊笛・第二部
21/72

第三章(2)

私は、自分が出た場所を考える。


「随分と、裕福なお家のように思いましたが、いったいどういうお屋敷だったのです?」

あそこに、玄丸が求める答えがあるのだ。

あの場所が? それとも、ひと? でも待って。

はじめに出た場所は座敷牢だった。しかも、外からカギがかかっていた。


―――――存在したのは、狂女一人。


どういうことだろう。

「西方一円に根城を持つ豪商のひとつ、と申しておきましょうか」

あそこには白鷺家の清孝の姿があった。

身分ある家系、というよりは、豊かさによって実質的な権力をふるう一族なのだろう。


思いついたように、八重が言った。

「…かの家には、一人娘がいるそうですが、お会いになりましたか?」

つい、口ごもる。

正直には、答えにくい。八重はほろ苦い表情で言葉を続けた。


「伝え聞くのは、重篤な病に罹患したため、嫁ぐこともかなわず、床に伏せって死を待つのみという噂のみですが」


裏の事情は知るものなら知っております、と八重は目を伏せる。

会ったことを隠す理由も見つからない。

私は息を潜めるように、小さく尋ねる。

「なぜ、あのように?」


「彼女は昔、高貴な方に恋をして、子を身ごもったのです」

ですが、と八重は首を横に振った。

「懐妊の最中、ならずものに襲われ、不幸が起こり…挙句、捨てられた、と伝え聞きます」

事情に、ひやりと心が冷える。

私は喉をついて上がろうとした問いに蓋をした。


気分のいい話ではない上に、これは下世話な好奇心だ。

ひとつ頷いた私を見て、八重は表情を改めた。



「刻限までに、霊笛をお持ちしましょう。お任せください」



やさしげに微笑み、悠然と言い切った。

たちまち幻のように、史郎の威圧が消え去る。

こほ、と咳き込んだのは、久嵐だ。

部屋の隅で、柘榴が大きく息を吐きだし、頭を横に振っている。


「任せた」


史郎は、ただ一言で応じた。

それきり、意識が完全にそこから離れたのが分かる。

忘れ去ったかのように。


本気で、史郎は八重にすべてを一任したのだ。

疑いも何もない。

一瞬で完璧に信頼した。ゆえに。


…八重が抱える責任は、非常に重い。やりがいがある、とも言えるだろうが。


八重は少し息苦しげな表情を見せた。

我関せず、と言わんばかりの態度で、史郎はくるりと煙管を回す。


やはり、いつもと違う煙管だ。


そのせいか、微妙に使い心地が悪そうに見える。

案の定、史郎は呟いた。

「この煙管も悪くねえんだが、いつものヤツの方がいいな」

見つめている私に気付いた史郎が、煙管を軽く振った。

言葉を促す。

「ん?」


「…どうして、いつもと違うものを?」


なぜか、史郎は面食らった。

次いで、はじめて何かに気付いた態度で、青柳伯と顔を見合わせる。

「そうか、形状が違ったから」

「悪いな、説明してなかった」

史郎は軽く言った。


煙管を持っている方の肘を伸ばす。

煙管が、私たちの身体から離れた。とたん、


「あ!」

私は思わず声を上げる。



煙管が、無骨な直刀に変わっていた。



その一挙動は、すぐ、答えを導いてくれる。

「宴の場を創った刀が?」

いつもの煙管なのだ。


よくできた、と言わんばかりに、史郎は唇の端で薄く笑んだ。


「あれは場を維持するのに必要なんだ。できた城の中央に今も突き立ってるだろうよ。抜くには凛の霊笛の音が必要だ」

それが、宴が終わらない、という理由の一つなのだろう。

「刀を、煙管にしているとは思いませんでした」

「煙管にしてた方が持ち運びに便利だからな」


便利。

その一言で片づけるには、いささか物騒な気もする。

私の視線の先で、直刀が瞬時に煙管へ変わった。


「悪趣味でしょ、史郎は」

私をからかうように、青柳伯が口を開く。

「いつもの煙管、いや違うか、あの刀はね、人外にとって特別不吉な、」

彼は、囁いた。


私の何かを試すような微笑みを浮かべて。




「真牙の太刀だよ」




え?

史郎は、さばさばしたものだ。

「あれ以上の刀なんざねえだろうが」

能力重視で合理的。

これが史郎と言えば、そうなのだが。

説明を受けた通りなら、真牙の太刀、というものは――――五千年前、当時の北王を殺めた刃だ。

それを帯びるとは、…豪胆、と言うべきか。


「なんにせよ、たかが人間のつくったもんだ。真牙も人間。なにをそんなに恐れる」


私にとって、史郎の行動に、単なる怖いもの知らずとか、考えなしの無謀という印象はない。

いつも何か、意味があるのだ。

八重が、面白そうに目を瞬かせた。


「よく、北王は仰いますね。人間は石ころ同然と。ですが、」

余裕あるからかいが、彼女の唇に刷かれる。




「千年ですよ」




「あン?」


「天が、大地が、北王の誕生を認めた天花が夜中に輝き降ってより、千年――――アナタさまはずっと、人外と人間の和のために尽力なさった」


史郎は黙った。面倒そうに。






「結果が、現在の北方です」






そうだ。私は、目を上げた。

千年だ。

史郎は、王となってのち、千年、――――人外と人間の不和を改善しようと奔走した。


千年、諦めなかった。


「けして、人間を本心から見捨てたいと思ったことはないのではありませんか?」

八重の言葉に、史郎が顔をしかめる。


人外と人間の均衡は、きっと今も危うい。


西方の状況を体感した以上、もう知らないとは言えない。

どれほど繊細に注意していても、し過ぎると言うことはないのだろう。


「そして、人間の力を舐めているわけでもない」

舐め切っていれば、人間がつくった武器など、史郎は手にしない。

彼は正直だ。


自身が望まぬ無理を、己に強いたりはしない。


「真牙の刀を手にするのは、挑戦ですか? それとも、――――信頼の証?」

不意に、史郎が言った。

「デケェ夢を見た」

いつもの皮肉気な態度と縁遠い、いとけない口調で。

垣間見せたのは、悪戯気で無邪気な笑顔。


「それだけだ」


すぐ、退屈に倦んだ表情に変わる。

面倒そうにボヤいた。

「形代もある、宴は小春と征司に任せているから、まだもつな」

史郎は億劫そうに顎をしゃくる。






「まずは翠天師の片をつける」


「御意に」






青柳伯が軽く応じた。

たちまち、久嵐の表情が硬くなる。

「翠天師が、どうかしたのですか?」

つい、私は尋ねる。


おそらくは、その方こそが佐倉と白鷺の間に起きた問題の鍵になるはずだからだ。


そうなれば、久嵐が追われることもない。

だが、今の史郎のいいざまでは、処刑でもするようだ。

あのとき、翠天師について尋ねれば、佐倉家の蘇芳は言葉を濁した。

いや、誤魔化したわけではない。

すぐに答えられない様子だった。

それを思えば。




事態の鍵となるはずの翠天師の現状が、ひどく不透明で、…不吉だ。




史郎は隠さない。

即答した。










「狂った」










――――すぐには、理解が追いつかなかった。


一瞬、あの、狂ったように笑っていた女性を思い出す。

狂った? 人外が? それも、『師』の位階を持つ存在が。


史郎は冷静に断言した。




「始末するほかない」




私は目を見張る。

史郎は皮肉気に、喉の奥で笑った。

「本音では、放っておきてぇな」

「北王」

目を伏せた八重が窘める。

刃の切っ先じみた視線を、史郎は天井へ向けた。


「あーぁ、分かってるさ。…おい、犬っころ」

首を締め上げるような恫喝に満ちた声が、久嵐に突き立つ。

久嵐の顔色が、さらに悪くなった。

少年は唇を噛みしめる。


ぐっとこらえ、顔を上げた。睨むように、史郎を見つめる。


その態度は、畏怖に対する抵抗だ。敵意はない。

かと言って、阿ることもしない。

ふと、面白そうに史郎は視線を翻し、久嵐を見返した。


「追われた時、てめえはなんで、佐倉へ逃げた。…意図的だな?」


粗野な声は、気分がどこへ転がるか分からない口調で紡がれる。

思わずと言った態度で、八重が割り込んだ。

「この辺りの人外の子供は、親から真っ先に、こう教えられるのです」

あまり納得していない表情で、八重は言葉を続けた。




「『佐倉家に追われた時には、白鷺家の領地へ逃げ込め。白鷺家に追われた時には、佐倉家へ』」




そうすれば、人間の追手は追及の手を緩める、と。


その隙に彼等はもっと遠くへ逃げられる。

つまり、人間たちの不仲を利用するわけだ。

それは純粋に生き延びる知恵なのだろう。正論だ。けれど。


何かが引っ掛かった。

八重の表情が晴れないのも、その『何か』のせいだろう。


史郎は鼻を鳴らす。

気にくわない、と態度が言っている。

久嵐が、さらに岩のように身を強張らせた。



「今回は、鳥に追われたから花の中に隠れたってわけかい」



青柳伯が、気の毒なほど緊張している少年を宥めるように気怠げに囁く。

だが、久嵐には届かない。

少年は史郎を凝視していた。

恐ろしさの余り、目が離せなくなっている。


目を離せば、喉元に食らいつかれる、と言わんばかりだ。


史郎がいきなり、舌打ちした。

彼の、断罪するような態度は、やたらに周囲を打ちのめす。

億劫さを隠しもせず、言った。


「おい凛、こんなヤツ、殺した方がいいと思わねえか」




…いつもいきなり振るんですね?




「史郎さま」


その気もないくせに。

私は呆れて上目遣いに史郎を見上げた。

「悪ぃ」

史郎はちっとも悪びれない。

ふてぶてしい態度で投げやりに応じる。だが。


ふと、私は気付いた。

少し、周囲の委縮が軽くなっている。そうか。


どうやらこれは、史郎なりの気遣いだ。

彼は自身が謝罪する格好にもっていったわけだ。


確かに、この場で史郎を諌めることができるのは、一応、妻である私しかいない。


…青柳伯が見て見ぬふりをしている以上は。




ところで、どうするべきか。

それきり、誰も口を開こうとしない。




沈黙が、重かった。

身体が軋むようだ。


なんとかせねば、と思ったのは、久嵐が打ちひしがれて見えたからだ。


あまりの落ち込みを気の毒に思う。

同時に私は、違和感を覚えた。


無実というなら、胸を張っていればいい。



…何か、隠している?



それは、直観としか言えない。

私は手探りしながら尋ねた。

「ねえ、久嵐? アナタは、…人間嫌いですよね。なのになぜ、祭りに参加しようと思ったのですか」


言葉にすると、たちまち、不自然さが明確な形をとる。そうだ。



なぜ久嵐は、祭りの場所にいた?



たちまち、尖った視線が私を射抜いた。

やにわに、久嵐は立ち上がる。




「――――浮かれた人間どもから、なんか盗めねえかなって思ったんだよ!」




涙目で叫んだ。

久嵐は拳を固く握りしめた。挑むように。

「佐倉と白鷺の領地の境で祭りがあるのは、毎年の話だ」

肺腑を絞り出すように、久嵐は言う。


「楽しそうな声が耳触りで、ちょっとしたいやがらせでもしてやろうって、おれは」


一瞬、久嵐は息を呑んだ。

拳が震える。




「なのに、そんなおれの手を引っ張った女の子がいた。人間のくせに、一緒に遊ぼう、踊ろうって」




久嵐の頬に浮かんだのは、自嘲だ。


「一緒に踊った。楽しかった。本当だ」

八重が気遣わしげに彼を見つめる。

言いにくそうに、口を開いた。

「…久嵐の故郷は、白鷺家によって滅ぼされました。その時、この子は目の前で、ご両親と妹を亡くしています」


「誰かと一緒にいる感覚なんて、懐かしすぎてさぁ…」


泣き笑いの顔で、久嵐が歯噛みした。

「気付けば、…はぐれてた」

声ににじむのは、痛み。後悔。



「その子は、おれが楽しくて笑っている間に、いなくなってた」



ああ、この子は、久嵐は。

悲しんでいる。

悼んでいる。


彼女の死を。


久嵐が目を離さなければ、その子は死ななかったかもしれないのに、と。

彼の意識は、罪悪感に、蝕まれていた。






「そしたら遠くで、誰かが叫んだ。湖で、女の子が浮かんでるぞって…」






久嵐がきつく目を閉じる。大きく息を吸い込んだ。

涙を堪えるように。

「あの子が、きれいに着飾ってたって気付いたのは、死んだ姿を見てからだ」

きっと、本人が、きれいな生気に満ちた女の子だったのだろう。

だから、と吐き捨てるように久嵐は言った。


「人間に捕まってる暇なんかねえんだ。ここにじっとしてる間も惜しい。なぁ、いつ解放してくれるんだ」

ぐっと顔を上げる。

どこまでも決意に満ちた、悲愴な表情で訴える。




「おれは探さなきゃならないんだ。あの子を殺した奴を」


「見つけてどうする」




史郎の問いに、間髪入れず見せた久嵐の眼差しこそが、答えだった。

史郎の口の端に、笑みが浮かぶ。

怒りを無理やり笑いにかえたような、凶暴な微笑。

久嵐は、気付かなかったわけではないだろう。

だが、答えは投げやりなものだった。


「おれが何をしようと勝手だろう」


おそらく、久嵐は自暴自棄になっている。

史郎の答えは、さらに素っ気ない。


「当前だ。俺の知ったことじゃねえな」


八重が頬を押さえ、ため息をつく。

史郎は鼻で笑った。

「説教するつもりなんざ、さらさらねえよ。つまりな?」

嫌な予感を覚えた表情で、久嵐は身構える。

そんな少年を面白がって小突くように、


「これから言うことは、――――予言だ」


史郎は刀の変わり身である煙管で、つい、と久嵐を指した。






「この件、すべてが終わるとき、てめぇは死んだ方がましだって苦しみを味わう」






不吉な言葉だ。反して、史郎の声は奇怪なほど明るい。

台詞の内容と態度の落差に、久嵐も戸惑ったようだ。

ただの意地悪。冗談。

そうも感じる。だが。


それを口にしたのは、他ならぬ史郎、―――――北王だ。


「北王? それはどういう、」

「北竜公」

久嵐の呼びかけを遮り、史郎はぶっきらぼうに応じた。

もう話は終わり、と言った態度で、私から離れる。

ゆぅらり、面倒そうに立ち上がった。


いつもだが、身体が重い、と言わんばかりの動きだ。

この場がひどく窮屈だ、と言っているようにも見える。

動き始めると、おそろしく速いのだが、はじめが、どうにも。



思えば、史郎の本性は、龍だ。


確かに、部屋の中など、玩具箱に閉じ込められているようなものだろう。




「てめぇはそう呼べ」

ほとんど吐き捨てるように言った。踵を返す。

史郎は障子の方へ向かった。

私は慌ててその背に呼びかけた。

「どちらへ」


「翠天湖。大掃除だ。犬っころ、テメェもくるんだ。見届けろ」


「私も」

立ち上がろうとしたところで、史郎が振り向く。

「凛はここでいろ。玄丸と八重の結界の中なら安全だ。柘榴」

「うん?」

「守れ。その命を盾にな」

鬼女は穏やかに微笑んで、信じられない即答を返した。

「良いよ」


視界の隅で、当然のように青柳伯が立ちあがった。

――――置いていかれる。

私は首を横に振った。

「史郎さま」

先ほどまで史郎に包まれるようだった身体が、少し寒い。

ついていくのが駄目ならば、

「邪魔にはなりませんから、どうか豊音を探す手伝いだけでも」


「凛は」

障子に手をかけ、史郎は私に目を戻す。

「人里に下りるのは、好きか」

予想外の言葉だ。なぜここで、今、そのようなことを尋ねるのか。

それでもどうにか、

「はい」

躊躇わず、答えた。

「そうか、そりゃよかったな」

史郎の声が弾む。顔が微笑んだ。だが、目は。


「…って言えりゃよかったんだがな。すまん」

史郎は大きく、息をついた。

やりにくそうに頭を掻く。



「その答えだけで腹ん中がドロドロになる。だから、基本、それは許可できねえ」



―――――『それ』は許可できない。つまり。




凛が外に出るのは許可できない、ということだ。




史郎の真意は見えにくい。

だが、拒絶されたことは分かった。

いつもなら、素直に従う。史郎の望みだ。けれど。


「一人だけ安全な場所にいて」


何もしないなんて、できそうにない。

「…逃げるなんて嫌です。今までみたいに」

悩ましい。どう言えば、伝わるんだろう。気持ちと言うものは。

私は懸命に言葉を選んだ。


「戦いに行けずとも、どうか霊笛を、…豊音を探す手伝いをさせてください」


待っているだけではだめだ。

動かなければ。

でなければ、いつまでも自信が持てない。



史郎の傍で、こんな、情けないままでいていいはずなんて、なかった。



「お前は逃げてなんかねえだろ、今まで、一度も」

驚いたように、史郎が私に向き直る。

「受けて立つだろ、どんなことにも。危なっかしいくらい真正面から」

そうだろうか。

なんとなく、目を伏せてしまう。


「戦い方には、色々ある」

史郎は噛んで含めるように続けた。



「今までお前は、自分を守ったんだよ。守るために、戦ったんだ」



その言い方で、分かった。

史郎は、知っている。

霊笛の村で、私がどのような扱いを受けていたか。


知っているのは、ともすると、私が知らないところにまで及ぶかもしれない。


「待つこともひとつの闘いだ。耐えろ」

史郎はいつも明快だ。

隙がない。…隙が、ないなら。


「だめなら」

私はしずかに立ち上がった。

見下ろす史郎の目が鋭くなる。




「一人でも、動きます」


「くどい」




声の冷たさに、身が竦んだ。

怒らせたいわけでもない。

望んで、逆らいたいわけでもない。

それでも。


―――――じっと待ってなどいられないのは、私の未熟さだろうか。


進んだ先で、再度、史郎は踵を返した。

大股に、私に近づいてくる。


途中、その腕を伸ばした。私の顔へ。


私は動くこともできない。

頭の片隅で、ちらと思う。




これでは、昨日と立場が逆だ。




「力づくで言うなりにさせられたいか」

――――できるのだ。史郎には、それが。


史郎の掌が、私の目元を覆うとしているのが分かった。


掌越しにひかる、満月色の瞳。

一瞬、恐怖にわけがわからなくなる。ぎゅっと目をつむった。同時に。




破れかぶれの力で、恐怖の束縛を振りほどく。そして。






私は抱きついた。


強く――――――史郎の右腕に。






直後に、逃げる選択もあったと思う。

すぐ、できないな、と結論が出た。

はじめに逃亡の選択肢があったとしても、私は捨ててしまったと確信が持てる。


史郎から逃げることなんて、私にはできない。


史郎が息をつめたのが分かった。

すぐ、唸るような声がふってくる。








「怖くねえのか」








どんな答えが正解か、私には分からなかった。

知っているのは、史郎を誤魔化すことはできないということだけだ。


のみならず、この恐怖の中では、嘘をついてあげることもできない。


私は助けてと訴えるような震える声で答えた。





「怖いです」


「怖ぇなら離れろ、寄るな」





史郎の声に、苛立ちが弾ける。とたん。








腕にしがみついていた私は、史郎に振り払われていた。








彼には、わずかな力だったろう。

けれど、元から足に力が入っていなかった私は、無様に畳にたたきつけられた。


打った半身が、ジンと痛んだ。

だが構ってなどいられない。


慌てて起き上がった。

史郎は、と見上げる。


去る気配はない。


真っ先に安堵した。

史郎が本気で去れば、私に追う術はない。


次いで、様子がおかしいことに気付く。


史郎は唖然としていた。

私は首を傾げる。


彼は唇を引き結んだ。身を翻す。




「あ、」


考える前に、腕を伸ばした。





中途半端な姿勢で後ろから縋りつく。


史郎が、足を止めた。唸る。

「はなせ」

「お許しください」




「はなせつってんだろ!」




怒声は、まるで落雷。


容赦なく私を貫く。

けど、今度は竦まない。


逆に、私は自身を鼓舞された気になった。叫ぶ。






「いや!」






これは、喧嘩だろうか。

頭の片隅で何となく思う。仲直り、できるだろうか。…して、くれるだろうか?


泣きたい気分で思うなり、――――史郎の背中から力が抜けた。


そう感じてようやく、史郎の背中が寸前まで、強い緊張に膨らんでいたことに気付く。

「本気で引き止めてぇのかよ」

諦めたような、不貞腐れた声が惑うように私の鼓膜を揺らした。






「そんな弱ぇ適当な力で…舐めてるとしか思えねえぞ」


私は驚く。


「これで、全力ですが」






とたん、史郎はなぜだか、全身でため息をついた。

「…どんだけ非力なんだ」

俯き、片手で顔を覆う。


史郎がどんな顔をしているのか、背後にいる私からは見えない。


どういうわけか、威圧は薄らいでいた。

何か訴えるなら、今しかない。


私は懸命に、心に散らばる言葉をあさった。

探すのは、史郎を説得する言葉? 違う。


小手先だけのずるさは、彼に通じない。


そもそも、私は史郎に誠実でありたい。

伝えるべきは、自分の本当の気持ちだ。


私の真実って、なに? 内側に意識を凝らす。


…居場所がほしいと思った。

ただ、これには、ひどく自分勝手な理由があった。

怖いからだ。

独りになるのが。


それが、私。自分勝手。わがまま。認めよう。受け入れよう。だけど。


それ以外にも、理由はある。

――――居場所がほしい、と願っているのは変わらないけれど。

ただ。






今となっては、場所が、どこでもいいわけではない。






言葉は自然とわき上がった。




「一緒にいたいんです。胸を張って、一緒にいられるようになりたいんです」




史郎と。皆と。

だから、何かをせずにはいられない。



待ってなんかいられない。



ふと、思う。

私は霊笛の村で、同じように思ったことがあったろうか?

…断言できる。


私は、一度だって、そんなふうに考えたことはない。


それも、ひどい話だ。もし。

私が、真実、心から霊笛の村で居場所がほしいと望み、全力で努力すれば、あのような事態にはならなかったのかもしれない。




「それが、凛の望みか」




史郎の声が、氷のようだ。

問われたが、私は頷けなかった。押し黙る。

いつも、史郎に望みはないか、と問われるが、ここでこれがそうだと口にすることは、ずるい気がしたからだ。


史郎が、冷徹に言い放つ。

「はなれろ」


―――――だめ、なのか。

落胆し、それでも訴える声で呼びかけた。

「史郎さま」


「…わかった、つってんだ!」


持て余すような声を放ち、史郎は沈黙した。

私は目を伏せる。

諦めるしかないのか。


萎れそうになるなり、あれ、と首を傾げる。

史郎は、言った。




わかった、と。それは、つまり。




「…史郎さま?」


「とにかく、はなれろ。時間がねえんだ」

振りほどこうと思えばできるのに。

思った私は、すぐその理由に気付いた。

史郎は、失敗を恐れているのだ。

また、先程のように私を振りほどいてしまうことを。




なんだろう。場違いに、もう少し困らせたくなった。




そんな場合ではないと悪戯な気持ちをねじ伏せ、そろりと離れる。


俯いた視界から、史郎はすぐに消えた。ただ。

「俺はすぐに向かう。犬っころ、お前もだ。八重」

「はい」

「凛と共に動け」

「御意」

つい、ぱっと顔を上げる。

史郎の姿は、すぐ障子の向こうに消えた。


その耳が少し赤いような気がしたのは、気のせいだろう。

「あ、ありがとうございますっ。あの、お気をつけて!」


頭を下げ、もう一度顔を上げた時にはもう、史郎と青柳伯の姿はない。久嵐もだ。




柘榴は我関せずと言った態度で、障子の向こうを見ている。



●こぼれ話:彼女がそれをしない理由

八重「料理ですか、好きですよ」

八重「本体は味わえるようにできておりませんが、このうつし身であるならば」

八重「はい? いいえぇ、好きなのは、食べることです」

八重「作るなんてとんでもない」

八重「火の近くにいれば逆に料理されてしまいます」

八重「だってわたくし」







八重「木ですもの」

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