第一章(2)
一瞬、空気も頭の中も真っ白になる。
ハナヨメ…はなよめ…花嫁?
ボタッ、と何かが畳を打つ音に、私は正気に返った。落ちたのは煙管だ。
目を瞬かせた私の前で、唖然としていた青年の目に、ゆるりと色が戻る。
双眸の奥で、ばちっと火が爆ぜたと思った刹那、
「青柳伯っ!!」
腹の底まで打ち抜くような怒声が壁を震わせた。
「どういうことだよ、あぁ?そのためだけに、人間の女攫ってきたってのか!」
「やだな、拾ったんだよ」
青柳伯は、飄然と言い放つ。
けれど私には分かった。
背後の彼が、今にも糸が切れそうなくらい、緊張していることが。
私は今にも心臓が止まりそうだ。
私の寿命に終止符を打ちそうな唸りが、足元を這った。
「なら拾ったところに戻して来い」
捨て犬のような言い草だ。
だが、反感はもたなかった。その通りだからだ。
史郎と呼ばれた彼は、話は終わったとばかりに煙管を取り上げる。
背を向けようとする彼に、青柳伯は食い下がった。
「いつまで独りでいるつもり?君に敵は多いんだよ。いい加減、婚姻すれば?」
「俺にはもう伴侶がいる」
尊大に切り捨てた史郎を、青柳伯は鼻で笑う。
「もう死んだじゃない。千年も前に」
とたん、史郎の目に宿ったのは、ぬめるような燐光。
それは、涙にも殺意にも見えた。
紛れもない暴力の予兆がそこに潜んでいる。
と言うのに、ふ、と史郎の全身から力が抜けた。
気構えていた私は拍子抜けする。
そこに、青柳伯が言い諭すような声を割り込ませた。
「彼女の霊力は、五千年生きた僕から見ても逸材だよ。無類のうつくしさと烈しさだ。彼女との婚姻は、間違いなく君の力を高めるだろう」
「だからって好きでもねえ女と契る気はねえよ」
「僕が心配なのは、史郎、君だけじゃないよ。彼女もだ。これだけの力だと、遠からず、下級の人外の餌になるだろうね」
私が理解したのは、会話の内容ではなく、私の安全、生命そのものが、史郎という青年に委ねられようとしていることだ。
このときの私には、それ以外、さして重要ではなかった。
意識を痛いほど凝らして、成り行きを見守る。
史郎は唾を吐くように言った。
「心配なら、お前が引き取れ、青柳伯。力で言うなら、お前の方が強ぇ」
「個々の力で言えば、そうかもね。それも、純粋な力でなら。潜在能力や、将の才も込みで言えば」
「すぐ使える力でなきゃ、意味がねえ。それにな、女の扱いも俺よりお前の方が手馴れてるだろ」
「僕にはもう奥さん両手で抱けないくらいいるからね。その上で、こんなに強い子がきたら、僕のほうが壊れちゃうよ」
一端言葉を切って、青柳伯は身を乗り出す。
「この邸のむさくるしさも放っておけないんだよね。潤いが必要だ。それにちゃんと掃除してる?」
私は拳を握り締めた。
ようやく、口を挟む糸口を見つけたからだ。
これだ。
自分のことが決められようとしているのに、任せっぱなしではいけない。
私は覚悟を決める。
「お前は俺の母親か」
史郎は憮然と煙管の煙を吐いた。そのとき。
私は、す、と腰を落とした。
膝をつき、きれいに正座の姿勢を取る。
まっすぐ背筋を伸ばし、しずかに史郎を見上げた。
目が合う。
とたん、史郎の双眸が色を変えた。
それまでは、得体の知れない生き物を見るようだったのに、荒地に花を見つけたみたいに瞠目する。
変化の理由は分からなかったが、私はそこにつけこんだ。
膝の前に指をついて、丁寧に言葉を放つ。
「はじめてお目にかかります、私は凛と申します。出身は、穂鷹の山裾にある、霊笛の村、宗家の末裔でございます。昨夜、青柳川へ転落しましたところ、運良く青柳伯に拾っていただきました」
深々と頭を下げた。
「お心を砕いていただこうなどと、勿体無いことは望みません。ただ、行く当てがございませんので、よろしければしばらくの間、こちらのお邸にお邪魔させていただきたいのです。
図々しいお願い事とは思いますが、家事など、お世話させていただければと思います。本当にお嫌でしたら、出て行きますので、どうぞ仰ってください」
霊力の強さ云々は、私には分からない。
ただ、村を出た後、青柳川からこの邸までやってくる間、全身を舐めるような視線をそこかしこから感じていたことは事実だ。
総毛立つほど不気味だったが、あれは命の危機感だったのだ。
少なくとも、史郎や青柳伯にはそれがない。
今、冷静に考えて、残る人生を無事に生きたければ、史郎に頼る以外に方法がなかった。
だが、史郎がいやだというなら、どうしようもない。
史郎や青柳伯との出会いは、私にも降ってわいた出来事である。
やはり選択肢は最初から、命の危険があっても村へ帰る他、道は残されていないのかもしれない。
土下座する私の耳に、舌打ちが届いた。
びくりと背が震える。
畳についていた手で、拳を握った。
村へ戻るより先に、ここで殺されるかもしれない。
今更ながら、死への恐怖がわいた。
けれどそれは一瞬で霧散し、逆に胸を虚ろで満たす。
最初から、無駄だと言われていた生だ。
どこで終わろうと、意味などない。
思うなり。
風が動いて、私の耳を撫でる。
私の前に、誰かが座ったのだ。
「あー、嫌だっつぅかな…。年頃の娘が男のとこに転がり込むのはマズいだろうが。間違いが起きたらどうすんだ。もしくは、悪い噂とか。とにかく、顔上げろ」
乱暴な口調と裏腹に、気遣うようなことを言う。
促され、私はゆるりと顔を上げた。
そして、自身の意向を伝える。
平静を、欠片も乱すことなく。
「お望みならば、どうぞお好きに」
私はそのように言われて過ごしてきたのだ。
霊笛の吹けない、役立たず。
価値があるのは、宗家の血と、女であること。
女ならば、霊笛が吹けずとも、有力者の元へ嫁がせ、家同士の血を混ぜ、結束を固める道具にできる。
私にとって、女であることは単なる事実で、特に不満も侮蔑もなかった。
道具のように扱われるのだとしても、そんなものかと。
だから、どんな相手に嫁ごうとも、構わないと思っていた。
ただし、嫁いだからには、誠心誠意、お仕えしようと心に決めていた。
というのに、その相手は、昨夜目の前で死んでしまったのだ。
昨日、はじめて塗った白粉のかおりを思い出し、胸の奥がきゅっと痛んだ。
十六になって、やっと決まった相手だった。
三十年上の僧侶だ。数年前亡くなった父親より年上だった。
嫁ではなく、愛人として望まれた。それもそのはず、僧侶が結婚などできるはずもない。容貌や相手の下心など、私にはどうでもいいことだった。
私とて、重要なのは、相手が霊笛の村の有力者であることだけだったからだ。
話が持ち上がったとき、さして感慨もなく、むしろホッとして私は頷いたものだ。
これで、生まれてきた意味もある。役に立てる、と。
利害の一致した、その点では幸福な初夜の晩。
それが、昨夜だ。
白無垢を着た私は、寝所へ向かった。
胸中にあったのは、覚悟だ。羞恥や戸惑いはなかった。気に入られるよう、精一杯つとめよう。
戦場に向かう心地とは、あのような気持ちを言うに違いない。
ただし、寝所へ一歩入ったとたん、私は痺れたように動けなくなった。
夜具の上に、僧侶の身体が五臓六腑を引き裂かれ、打ち沈んでいたからだ。
血の海。
総毛立った私は、人を呼ぼうとした声を呑み込んだ。
静かすぎる。
――――まるで誰もいないかのような。
闇の奥から、むっと死臭が押し迫る不吉さに、喉が痙攣し、息が浅くなる。
気を抜くと叫び出しそうな口元を押さえ、私は綿帽子を振り捨て、息を殺して廊下へ飛び出した。
足音を忍ばせ、庭へ下りる。
庭木に隠れるようにして、邸の外へ向かった。
塀のそばに至ったとき、外から人馬の音が聞こえた。
「これで邪魔者が一人減ったな。暁彦様が次期領主になるのは、決まったようなものだ」
私は愕然とした。
その一言で、すべて合点がいったからだ。
霊笛の村にも、結水の跡取り争いの波紋が及んだのだ、と。
霊笛の村は、結水家の領地内にある。
結水の領主、遼太郎は、現在重い病に臥せっていた。跡取りが決まっていない彼には、二人の息子がいる。
正室の子、長男・暁彦。側室の子、次男・悠斗。
二十歳と十九歳のこの兄弟は、犬猿の仲だ。
いや、本人同士のこころはともかく、周囲がそうさせている。
長子相続が世の常、しかも正妻の子ならば、問題なく暁彦が跡目に指名されると思う。そう簡単に割り切れなかったのは、悠斗を産んだ側室が、重臣の妹であったからだ。
悪いことに、悠斗は優れた資質も兼ね備えていた。
暁彦とて、愚鈍と言うわけではない。ただ、血気盛んで好戦的、口は悪く態度も大きいとくれば、行状の荒さが目に付き、古参の重臣たちは苦い顔を隠しきれなかった。
その点、悠斗は、柔和で温雅な優等生で、やさしく思いやり深く理知的である。かと言って、御しやすいわけでもなく、己の意見は貫き通す。
どちらも器の大きさは並ならず、人望があり、結水の領地内は現在、真っ二つに割れていた。
私は個人的に、悠斗を支援していた。
視察の名目で、幾度か悠斗が村を訪れた折に、世話をさせてもらったことがある。その折に、親しく声をかけてくれるようになった。
きっかけはなんだったか。
やはり、笛であったように思う。
霊笛ではないが、月夜に、誰もいないところで笛を吹いていたとき、悠斗が声をかけてきたのだ。
心地よい音である、と。
私は慌てた。そこは本当に人気がないところで、だからこそ私でも堂々と笛を鳴らせたのだが、領主の息子が夜一人で散策をしてよい場所ではなかったからだ。
混乱のままに叱りつけ、夜道を先導する私に、悠斗はおとなしくついてきた。
優等生といわれるが、彼にはこういう考えなしのところがある。
つい叱ってしまったことに、あとで青くなったものだが、悠斗が気にした様子はなかった。どころか、私を世話係に指名するようにさえなった。
私が僧侶との関係を快諾したのには、相手がこの悠斗の側に立っていると知ったことも理由の一つだ。
悠斗の味方と言うだけで、私は相手を好意的に見れた。
悠斗自身が領主になることを望んでいるかいないかは分からないけれど。
それが、殺された。
おそらくは、暁彦の手勢に。
何が起こったか、事態は明白だった。僧侶は暁彦の勘気に触れたのだ。
のうのうと邸の中にいれば、私とて殺される。
どこをどう走ったか分からないが、気付けば私は邸を出て、森の中を走っていた。
見つかるのは時間の問題だったろう。
愛人の娘が、僧侶の寝所へ消えたことは大勢が見ている。
どうせ悲鳴を上げると見張りもつけずにいたのだろうが、いつまでもそれがないことに訝しむのは、すぐに違いない。
それまでに、より多くの距離を稼がなくては。
逃げねばならない。けれど、どこに?
家はダメだ。
すぐに見つかる。
なにより、家人たちは、私をようやく厄介払いできたと安堵していたのだ。
暁彦の手勢を見れば、庇うどころか、知らぬふりで私を差し出すに決まっている。
村から離れるように、私は森の中を駆けていた。
背後で、村が騒がしくなったことに気付いていたが、意識を向けることが怖くて、ただ前だけを見ていた。
そのうちに、ふ、と人の声を聞いた気がして、慄いた。
立ち止まり、荒い息を無理に押し殺す。
見つかったのか。
かみ殺される寸前の鼠みたいに、私は必死で周囲を見渡した。
闇の中、木々の隙間に彼らが見えたのは、そのときだ。
頭巾を被った男と、尖った骨のような隻眼の男。
皺が刻まれた目元から、初老らしいと思われる頭巾の男が、錆の浮いた声で重く言った。
「…悠斗様の御為だ」
「果たして、そううまく行くかね」
隻眼の男が軽く肩を竦めるのに、頭巾の男は明瞭に言い切った。
「いかせる。貴様はただ、穂鷹公を殺めればいいのだ」