第二章(2)
「何を言って、」
蘇芳が不快気に顔をしかめた刹那。
――――おぞましい絶叫が、四方を貫いた。
音源は、隣の部屋。
獣の断末魔の方がまだマシと感じるほどの、複数のそれに、一瞬聴覚がばかになる。
わん、と鼓膜が揺れた。直後。
人外の気配が、いっきに消える。代わりに静寂が満ちた。
死を連想する。
実際、たった今、隣室で燃えていた命の灯はすべて消えたのだ。
確信と同時に、死の怨念が闇の中、覆いかぶさってくる。
一瞬で満ちた気配の毒を吐きだそうとするように、全身に嫌な汗がにじんだ。
「…そちらに、おいでか。若君」
隣の部屋から、声が届いた。落ち着いた、厳格な声だ。
蘇芳の手が、私の袖から離れた。厳しい横顔で、誰何する。
「何者だ」
「失礼する」
死の静寂に満ちた部屋から、鞘におさめた刀を手に、一人の青年がぬっと現れた。
まず、長身だ。体格もいい。姿勢もいい。巌のように感じる。
暗がりで顔はよく見えないが、きっと生真面目な表情をしているのだろう。
彼は迷わず、蘇芳を見遣った。
「佐倉家嫡男、蘇芳殿、ですね」
「いかにも。…着物は町人のものだがな」
青年と向きあい、蘇芳は着物の襟を掴んだ。
相手は頷き、その場に膝をつく。
「申し遅れました。おれは祓寮・太刀式、夜彦と申す者。佐倉家領主のご意向により、参上した次第」
謹厳な目が、じろり、室内を一瞥した。
蘇芳が目的なら、彼に守られるように立つ私は部屋の置物のようなものだろう。
蘇芳に危険なしと判断したなら、その程度の扱いで勘弁してくれるはずだ。
半ば目を伏せ、私は夜彦の出方を待った。
祓寮。
存在は知っていた。見るのははじめてだ。
この大地の中央に位置する、大神が降る地――――大皇のおわす秋津宮が配置された都に存在する、対人外組織。
おおまかには太刀式、術式のふたつに分けられる。
太刀式は実戦力であり、武具の扱いに長けた者たち。
術式は知識、そして理力を行使する術者たち。
力の行使は人外相手に限られているが、要するに、戦力だ。
全員が証として、金目のカラスの根付を持っていると言うが、事実だろうか。
私は、冷静に身体の向きを変えた。
後ろの女性を隠すように立つ。
久嵐は人間だと言い張れば、うまく誤魔化せるかもしれないが、背後にいる女性には、角がある。
祓寮の人間が、人外に対し、どうでるか予想はつかない。
出来得る限り、物騒なことは避けるに限る。
「祓寮だと」
ばかな、と蘇芳が呻いた。
彼には、予想外の存在だったようだ。
「これ以上、人外を刺激してどうなる。『商人』を捕らえればそれで済む話だろう」
「では、若君はどうなさるべきと?」
「意に反し、囚われていた人外は解き放つべきだ」
解き放つべきだった、と蘇芳は過去形で言わなかった。理由は、ひとつ。
警戒を解かない久嵐の存在があるからだ。
とはいえ、蘇芳も慎重になっている。
久嵐が人外であると悟られるわけにはいかない。
「人外を解き放てばどうなるとお考えです?」
返す夜彦の声は、あくまで、淡々としていた。
「人外は禍の種子。生まれながらそのようにできているのです」
迷いない断定。
一瞬、息が詰まった。
私自身を否定された気になったからだ。
「そもそも」
夜彦が立ちあがる。空気が重くなったような威圧感があった。
「若君は、問題となっている人外を捕らえようとしている最中、この件に関わりになられたと聞きます。…件の人外は、いずこに?」
無視が難しい声だ。蘇芳はどう応じるか。ちいさな背中を見遣った刹那。
べちゃ。
隣の部屋から、濡れそぼった重いものが落ちた音が聴こえる。
「とろくさしてんなよ、夜彦ぉ。ガキに用があんなら、とっとと連れて出てけ」
続いた声に、私は身を固くした。まだ、隣の部屋に、誰かいる。
「オレはここにいるって噂の大物に用があるんだ、邪魔だデカブツ」
入り口を塞ぐように立っていた夜彦が、一歩室内に入った。
道を開けるように横に避ける。
同時に、隣室にいた人物の姿が見えた。
相手は、背を向けている。その腕が、大きく動いた。
ぐるん、手の内で大きく回ったのは、槍。
そこからずり落ちた何かが、びちゃびちゃと床で跳ねる。
槍を肩で担ぎ、彼は顔だけで振り向いた。
「なんだぁ?」
凶暴な目が、私たちを認め、退屈そうに瞬く。
「女に、子供か。ふん、怪我はねえのか?」
男は大股に隣の部屋を横切った。
壁に手をかけ、こちらの部屋を覗き込んでくる。
「おい、虎一」
「あんな、夜彦。てめぇは前置き長過ぎなんだよ」
虎一と呼ばれた男は、ざっと室内を見渡した。
好戦的な笑いが、薄い唇に浮かんだ。
闇の中でも双眸が、ぎらぎらと光って見える。
ひどく痩せているから、飢えた気配が強い。
おそらくは苛めるようにして限界まで絞られた肉体は、鞭のようにしなやかで、いつどのように動くか、読めなかった。
「はん、そっちの女はともかく、隅の野良犬みてぇなガキは」
久嵐を見るなり、ゆら、彼の身が前方へ微かに傾いだところまでは、見えた。刹那。
「人外だなぁ?」
部屋の隅で、火花が散る。
――――キィン、鋼と鋼がぶつかり合う音が鼓膜を打った。
ぶわり、大気が熱気を孕む。膨らみ、破裂したそれが、私の全身を叩いた。
何が起こったか瞬時には分からない。
「庇うかよ!」
真っ先に聴覚を刺し貫いたのは、虎一の怒声。
「――――西の侍が、人外を!」
腕を振り払うように、虎一が槍を横薙ぎにした。
それをいなすように受け流したのは、
「この子を、今殺されては困るのだ。公に」
清廉な雰囲気の、若者。彼は。
「また、個人的な知り合いでもある」
白鷺家家臣、清孝。
私が現れた座敷牢のある屋敷で、そう名乗ったヒトだ。
烈火を思わせる一撃を受けたと言うのに、何事もなかったような涼しい顔をしている。
いつそこに現れたのか、部屋へ入った気配すら感じ取れなかった。
そもそも、どこから入ってきたのか。
驚愕したのは、何も私だけではなかったらしい。
「清孝殿っ!?」
一瞬、蘇芳からおとなびた仮面が外れる。
「白鷺の家臣が佐倉の領地で何をしている。このような時に…殺されても文句は言えんぞ」
「事情がございます」
清孝は穏やかに答えた。私を見遣る。
「彼女がここに売られた責任の一端が、オレにもあるので」
「白鷺の者がやりそうなことだな。さっさと滅ぼされてしまえ」
暗い声を放ったのは、黙りこんでいた久嵐だ。
背後から向けられた悪意の棘に、清孝は少し苦いような、やさしい表情になった。
すべてを受けとめようとするような。
ところが、清孝は久嵐と目を合わせようとはせず、相手にもしなかった。
「彼女を無事ここから連れだせば、佐倉の領地を出ていきます」
にこり、明るく微笑み、端然と刀を鞘へ収める。
夜彦たちに丁寧に頭を下げた。
「夜彦殿、虎一殿、同道させて頂き、感謝いたします」
「面白い強さだが、いけ好かねえな、アンタ」
虎一が舌打ちをこぼす。
どうも、となぜか照れたように笑った彼は、当然のように私へ手を差し伸べる。
「遅くなりました。申し訳ありません。さ、参りましょう。家までお送りいたします」
私は確信した。
このまま彼に従えば、無害に外へ出られる。だが。
少し、遅かった。
私の背後には、今、――――鬼がいる。
迂闊にここを離れるわけには、
「まぁ、待てよ」
びゅ、と空気を切る音がした。
私と清孝の間、割り込むように、槍が振り下ろされている。
「なぁ、女」
虎一が顎を引いた。笑って、上目遣いに私を見遣る。
「何隠してんだ? 素直に出してみせな。そしたら、人間のアンタは助けてやっから」
処構わず噛みつくケダモノが牙を剥いた雰囲気に、身が竦む。けれど。
私は大きく息を吸った。
血の生臭さが鼻をついたが、むせてなどいられない。
背を伸ばす。
真っ直ぐ、虎一を見返した。
「アナタ方が入ってきたからには、見張りは倒されたのですね」
震える足は、きっと闇が隠してくれる。
幸い、声は冷静だった。
私の確認に、虎一は一瞬面食らう。鼻白み、面倒そうに夜彦を見遣った。
果たして、彼は頷く。
私は続けて尋ねた。
「では、『商人』も捕らえられたと考えても?」
「何を扱っていたにしろ、外道の所業だ。しかるべき刑に処せれられような。生きていても、生涯、牢から出られんだろう」
私は冷静に頷いた。そして、呼びかける。
「だ、そうですよ」
後ろの女性に。
「アナタに命令をする者は、もういなくなりました」
それは、ちょっとした賭けだった。
角を持つ彼女がどう出るかは読めない。そうである以上。
――――まずは、彼女に命じるという『商人』の存在が鍵と思った。
『商人』がいなくなったなら、彼女はどう考え、どう行動するだろう?
彼女のことを知らない以上、出たとこ勝負だ。
そもそも彼女はどういうつもりで『商人』に従っているのかすら、私は知らない。
弱味を握られ、無理やり従わされているなら、まだやりやすい。
これで自由だ、と逃げてくれたら、問題はなかった。
だが、恩やなにがしかのしがらみがあり、情が絡むのなら厄介だ。
「――――それは困ったのぅ」
ゆら、背後で女が立ちあがった気配がした。
私以外の全員が、虚を突かれたように私から彼女へ眼を移す。
直後、角を見たか、夜彦と虎一が瞠目した。
清孝のみが平静だが、彼の場合、何を考えているのか読みにくい。
「いなくなった時、どうすればいいかは聞いておらぬゆえ」
聴こえたのは、途方に暮れた呟きだ。
さて、どう出る。
全神経を、背後の彼女に集中させるなり、
「わたしはこれから、どうすればよいのじゃ?」
耳に届いたのは、ひどく無邪気な問いかけだ。
私は一瞬、唖然となった。言葉もない。
虚を突かれ、できた思考の空白に、じわじわ理解がしみてくる。
なんてことだ。
彼女が『商人』に従った理由が、分かった。
ただ命令されたから、だ。
本当に『命じられたから』、ただそれだけの理由で、彼女は『商人』に従ったのだ。
ぞっとした。
何もかもを明け渡していると言うよりも、きっと彼女には、目的がない。
ただ生きている。ただ、在る。
『商人』とやらに従った理由など、単純に、それ以外はどうでもよかったからだ。
放っておけば、彼女は無害な存在だ。
だが、野放しにすることは、この上なく危険なのではないか。
彼女の反応は、予想外だった。
――――それでも私は死に物狂いで考える。
おそらく、理を説いても無駄だ。では、本能に訴えるのは?
私は低い声で、勝負を仕掛けた。
「死にたく、ないでしょう」
震える指を握り込む。
状況をどこまで理解しているものか、彼女は、
「うん?」
相変わらず楽しげに、私を見た。じれったい。
同時に、危うかった。とても。
相手をからかっている大人のように見えて、これは、子供だ。
だが、焦っては必要なものを取り逃がす。どうしようか。
唆す?
同情を引く?
できれば可能な限り、最良の選択肢を選びたい――――落ち着いて。
私は、胸辺りで浅く渦巻いていた呼吸を、意識して腹まで落とした。
「彼等はあなたを殺そうとします」
緊張は消えない。
だが、深い呼吸は空回りしがちな思考を鎮めてくれる。肝を据えた。
「祓寮とはそういう存在です。ご存知でしたか」
「祓寮? どこぞで聞いた気もするのう」
知らなかったのか。正確には、興味がないのだろうが。
私は状況に、棘を投げ込むことにした。
「おとなしく、殺されますか?」
「おい…なんだ、あんた」
虎一が剣呑な眼差しを私に向ける。
それも仕方がない。私は、鬼である彼女を煽っている。
とはいえ、私の目的は、そこにはない。
彼女がどうなろうと、彼らがどうしようと私には関わりがないというのは、事実だ。
このまま立ち去ってしまえばいい。
そう思うし、それが正しい。
だが、いやな予感が消えない。
この場に私が立っている、…居合わせた、これも何かの縁だろう。
せめて、何も望むもののないような鬼女の意思に、方向性をつけようと思った。
以後の彼女の行動が、読みやすくなるように。
読めたなら、…私たちも、逃げようがある。
「そうさな。…ここも、そろそろ飽いた」
細い指で、彼女は鎖を掴んだ。とたん。
鎖は軽く引きちぎられた。蜘蛛の巣でも払うように。さして力が込められたようには見えなかったのに。
誰かが息を呑む。
「ゆくかのぅ」
呟いたその手が――――私の手を握った。
幸い、恐怖はなかったが、彼女の意図が読めない。
私は相手を見上げた。
「ここには遊び道具が山ほど『居った』。壊れやすかったが、楽しかったのぅ。じゃがとうとう全部、壊れたらしい」
頑是ない子供のような微笑みが返される。
どうやら彼女にとって、対象は『物』に過ぎないのだ。
人外も、――――人間も。もしくは…彼女自身すら。
私を見下ろし、彼女は楽しそうに、目を細めた。
「わたしを見ても怖じず、臆さず、嫌悪も抱かぬ人間ははじめてじゃ」
最前まで背にしていた壁に、彼女はそっと触れる。押しやるように。とたん。
―――――ゴッ!
腹の底まで響くような音がした。
土ぼこりが立つ。
どんな力が生じたか、土壁が壊れていた。
埃を巻いて風が吹きこんでくる。
「そなたは持ってゆく。人形遊びも楽しそうじゃ。だいじにしよう、壊れるまでは」
食うと言われないだけましかもしれない。
だから、私は平静でいられた。
連れて行かれるのもこの場に残るのも、危険性では同じに思える以上、どちらも同じだ。
私に選択の余地はなかったが。
彼女はひょいと外へ向かう。私は大人しく従った。刹那、
「はっはぁ!」
腹の底から楽しげな声が上がった。虎一だ。
女性が足を止める。私もつい振り向いた。
視界の端を、ぶん、と暗がりを横に薙いだ槍が映る。
「見つけた。大物ってのぁ、鬼か。相手に不足なし! 邪魔すんなよ、夜彦」
夜彦は厳格な表情で、目を閉じた。
「言われずとも、それは今日の祓寮の役目ではない」
「祓い屋には関係ねえよ」
槍の切っ先が、角を持つ女性に向けられる。
「オレは虎一! 祓い屋だ。鬼よ、名乗れ。聞いてやる」
威勢のいい口調が、言葉の途中でがらりと雰囲気を変えた。静謐に。
満ちたのは、落ち着いているというより、少しの刺激でも簡単に爆発しそうな物騒さを孕んだ静けさだ。
女は目を伏せた。
「わたしは柘榴」
そっと片手で角に触れる。
「南方の生まれじゃ」
目を上げ、退屈そうに虎一を一瞥した。まるで興味のない顔だ。
それきり、前を向き、歩きだす。独り言のように呟いた。
「骸が母よ。父は死霊。それでも生まれ、生きておる」
「なら墓もいらねえな」
興味の欠片もない、というよりも、潰す害虫を見る目で鼻を鳴らし、虎一が床を蹴る。
「ここで終われ」
放たれた突きの鋭さに、風が巻き、空気が破裂した。刹那。
右肩に灼熱が走る。
右肩に。
私の肩に。
次いで、背に衝撃があった。壁にぶつかったのだと遅れて気付く。
「く、ぁっ!」
肺から息が押し出され、声が漏れた。
改めて、理解する。
虎一の槍が、私の肩を貫いていた。
考えもしなかった行動――――いや、ある意味、正しい選択だ。
柘榴は私を連れて行こうとしている。
彼女に直接手を出せないなら、足止めのためにも、意表を突くためにも、これが一番効果的だ。
「虎一!」
責める声は、夜彦のものだ。
あまりのことに、子供たちは反応できずにいる。
清孝は動かない。おそらく、彼は冷静に判断した。私を狙った一撃は、単なる足止めだと。
清孝は、それを許容した。
次の攻撃に有効なら、彼も手段を選ばないひとなのだろう。
閃いた虎一の刃が次に狙うのは、柘榴だ。
ただ夜彦は、そのために取った虎一の手段を受け入れられる人間ではないようだ。
肩から乱暴に、刃が引き抜かれた。
肉を引き裂き、凶器が抜け落ちる感覚に、どっと冷や汗が吹き出る。
眼の端で、私の血に濡れた刃が、柘榴の頭部に吸い込まれようとしていた。
振り向いた彼女の口元が笑みに歪むのを、視界の端に捉える。
柘榴は簡単に死なない。
その確信と行動は別ものになった。
「…だめ!」
私と柘榴の手はまだ繋がれている。咄嗟に、引いた。
意表をついたか、がくんと柘榴が姿勢を崩す。頭部の位置がずれた。
何もない空間を、虎一の槍が貫く。
私は。
疎まれ、異端と蔑まれる経験なら、よく知っている。
罪悪感に身を竦ませ、傷つくくらいなら何も感じないようにと私は鈍重になった。
逃げたのだ。
結果、そのツケがいまになって回ってきている。
けれど、柘榴は。
堂々と、している。
そこは、理不尽の仕打ちに失っていい精神ではない。
手助けなど、余計な世話だったろうが。
虚を突かれた柘榴が体勢を崩すなり、手をつないでいた私も引っ張られた。
壊れた壁から、外へ転がり出る。
倒れた私と柘榴の頭上で、もう一度、槍は空ぶった。
だが虎一は、それ以上の無様は見せない。
戸惑い一つなく大気を舞った槍の軌跡は、うつくしい。
合間に。
虎一の獣じみた視線が翻った。
咄嗟に跳ね起きた私を射抜く。
コレは獲物だという意思を、飢えた視線に感じた。
身が竦みそうになる。
だが、動けなくなれば。
――――そこで、終わり。とはいえ。
動けたとしても、わずかな時間稼ぎにしかならない。
なにせ、身を守るものなど何もなかった。それでも。
私は睨んだ。虎一を。槍を。
助けなど望むべくもない。
第一、誰かが滑り込める間合いではなかった。
虎一の身体に隠れ、振り上げられた槍の軌道が見えなくなる。
どこから死の風が吹くか、静かな気持ちで待ちながら、いや、見極めようとしながら、私は小さく呟いた。
「史郎さま」
助けを求めたわけではない。
呪文のようなものだ。
強くなるための。だが。
――――それだけではすまなかった。幸か不幸か。
不意に、いっさいの音が消えた気がした。とたん。
虎一が俊敏に私から距離を取る。
出会い頭に、猛獣に出くわしたような表情で。
彼の視線は、正確には私を素通りし、私の背後を見ていた。
実際、その刹那、すべてが沈黙したのだと気付いたのは、痛いほどの静寂の中、苛立ちの棘にまみれた舌打ちが聴こえた時だ。
「ようやく、呼んだか」
この数カ月、私の生活の中に当たり前のように織り込まれた声が耳に届くなり、心が浮き立った。
状況にも関わらず、もう家に帰った気分になる。
ほとんど痛みを忘れ、振り返った。刹那。
怒声に顔面を叩かれた。
「遅ぇ!」
目を瞬かせる。
最中に、しっかりと史郎の姿が目に映った。
いつもの着流し姿だ。ただし、前をきちんと合わせている。
肩にひっかけた羽織りは、鴉の濡れ羽色。
裾に金色の落葉がたまった模様のそれは、あまり目にしたことはないが、上質の布で作られたものだと分かる。
私はつい、微笑んだ。
怒鳴られても嬉しかった。
史郎に会えた。
「申し訳ありません」
「迷惑そうだな」
…………………喜んでいるようには見えないらしい。
忌々しそうな史郎の反応に、思う。
私の表情筋は死んでいるのだろうか。
そっと無事な手で頬に触れてみる。
そんなばかなことを考えるのは、肩を貫く激痛のせいだ。
余所へ意識を向けていないとのたうちまわりたくなってしまう。
私の態度をどう取ったのか、毒気が抜けた態度で息を吐き、史郎はちいさく呟く。
「いや昨日一回呼ばれたな」
そういえば、と私は頷いた。
相当惑っていた時だ。
「とぎれとぎれだったが…一体何が」
不自然に、言葉が切れる。
満月色の双眸が、剣呑に眇められた。
「アァ?」
眼差しが、私の左肩を射抜く。
「聞くが」
「はい」
「なんだ、それは」
このとき、史郎の感情をしっかり把握しなかったのは、私の痛恨の失敗だ。
私は、混ぜっ返していると取られかねない答えを返した。
至極真面目に。
「怪我をしました」
「ほう? 何で」
単純に、槍で、と答えかけた私は、ようやく状況を察した。
これでは子どもが親にする告げ口だ、という以前に、史郎を煽るだけだ。
そう。
怒っているのだ。
史郎は。
彼がいないところで大きな傷を作った私に。
青ざめた。
「どうした。答えねえのか」
力の入らない右腕の痛みを置き去りに、私はそっと頭を下げる。
「申し訳ありません」
「阿呆が」
史郎の呟きは、静かだった。なのに。
いきなり、私の足から力が抜けた。
その場に座り込む。
巨大な鉄槌が、いきなり空から降ってきた感覚があったのだ。
膝を折り、両手をついた。
凄絶な重圧に、歯の根が合わなくなる。
怖い。
「なんもかんも遅ぇんだよ、お前は」
刹那。
私は咄嗟に、助けを求めて周りを見渡しそうになった。
拳を握りしめて堪える。
恐怖の対象は史郎だが、史郎ではない。
彼こそ私が全身全霊をかけて、奉仕すべき存在だ。
私は、顔を上げた。
真っ直ぐ、史郎を見返す。
だから私はこのとき、他の者がどんな状態になっていたか、知らない。
私の中で、史郎だけがすべてだった。
史郎だけが、世界だ。
「おい、凛」
しずかな呼びかけすら、まるで落雷。
「迂闊だったな」
思わず、私は傷口を強くおさえた。
きつい視線から、隠したかった。
かなわないと知っていても。
史郎が笑ったのが分かった。
だが、そこにあるのがどんな感情か、私には読めない。
おそらく、自嘲、が一番近かった。
●こぼれ話:彼女がそれをしない理由
柘榴「生まれは、南じゃ」
柘榴「南方のどこかじゃ」
柘榴「南なのは間違いない。いや、覚えておる。でなければ、南と断言はできぬ」
柘榴「どうでもよいではないか、地名など…うぬ」
柘榴「どっちの方角か? おう、そうよな、…あっちじゃ!」
柘榴「なんと! 指さしているのは、東、とな…」
柘榴「な、ならば」
柘榴「うん? 言葉だけで十分伝わった?」
柘榴「…さ、さよう、なら、よい。うむ」