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霊笛  作者: 野中
霊笛・第二部
17/72

第二章(1)

ひやり。


つめたい水に似た空気が、頬から足先までを撫でる。

肩が震えた。



(…朝…?)



今度ははっきりと、刺すような冷気が頬を掠める。

思わず身を縮めた。短く息を吸い、目を開ける。

「あ、起きた」

「起きたか」

とたん、幼い声が頭上から落ちてきた。私は飛び起きる。


まさか寝過ごしたのだろうか。


「わ」

拍子に、近くで驚いた声が上がる。

面食らった。

見れば、真正面で、十歳くらいの男の子がしりもちをついている。

呆気に取られた彼の隣には、正座をして向こうを向いているちいさな背中があった。

尻もちをついた少年と同年代だ。彼が、ふんと鼻を鳴らした。


「女性の寝顔を覗き込むなど不躾な真似をしているからだ」


二人を見比べ、私は戸惑った。なにせ。

「悪かったな。育ちが悪くって」



不貞腐れた少年は人外で、正座をした少年は人間だったからだ。



人外と人間が並んで座っている。あって不思議のない光景、ではある。

それでも、違和感があった。

私自身の立場も、他者から見れば、そうなのだろうか。

思えば今日まで、人外と人間が並んで立っている姿を見たことはない。

考えた後で、気付く。


まるで他人事だ。


「失礼しました。驚かれたでしょう」

正座をしていた少年が改まった態度で、私に向き直った。小さく頭を下げてくる。

「僕は蘇芳。コイツは久嵐。アナタは?」

「…私は、凛と申します」

ご丁寧に、と私も深く頭を下げた。

ゆっくり顔を上げる。

目が合った。


傍から見ていた久嵐が苛々と口をはさむ。


「まずは事情を聞くんじゃなかったのかよ」

蘇芳がく欄を横目に睨んだ。

「何事にも順序というものが、」

とうとう、久嵐は言いさした蘇芳を押しのけた。

きちんと正座をした私の膝に手をつく。


「なんでこんなとこに売られたんだ? 凛は人間だろ」

私は、じっと、好奇心にはち切れんばかりの久嵐の顔を見下ろした。

「売る…?」

「凛さんは、人外としてここに売られたのですよ」

彼の斜め後ろで、蘇芳がため息をつく。対照的に、久嵐が声を弾ませた。


「誰からどんな恨みを買ったんだよ」


蘇芳が、久嵐をじろりと睨んだ。

説明の段取りがあったのかもしれない。


攫われたと言う割に、私は縛られてもいなかった。首を傾げる。

「私が人間とわかったのはなぜです」

「「下位の人外に食われそうになっていたから」」

異口同音の答えに、正座した私は、一拍置いて頷いた。

なるほど、へたをするとこの目覚めはなかったのだ。


どうやら、得難い目覚めらしい。


ならば、再度生き延びるためにも、状況を把握しなくてはならない。

私は慎重に、周囲を見渡す。言葉をなくした。


あばら家だ。馬小屋よりひどい。天井が半壊している。



星が見えた。



夜? いや、星の位置からして、明け方だ。


壁はかろうじで残っているが、あちこちに隙間ができている。

先ほどの冷たい風は、ここから吹きこんできたのだろう。ほとんどの扉は床の上で朽ちている。

引き戸がひとつだけ残っていた。あれは出口だろうか?


この部屋には私と少年二人しかいない。

が、壁向こうからざわめく気配を感じた。

…人外の気配だ。どんな相手がいるのだろう、と集中しかけた矢先、


「安心しろよ!」

久嵐が、少し乱暴に私の袖を引っ張った。

「おれがいたら、連中、寄ってこねえから」

誇らしげに笑う。顔ぜんぶがくしゃっと緩んだ。

確かに、久嵐にはそれなりの力があるように感じる。

誰かと比較ができるほど把握できる能力は私にはないが、事実よりも、その気持ちが嬉しい。

「ありがとう」


久嵐の頭をゆるく撫でた。獣のように固い髪だったが、艶がある。

久嵐は満足そうに目を細めた。くすぐったそうに首を竦める。

蘇芳がため息をついた。

「自分の戦果のように言うな。こちらに逃げ込んだおかげでもあるだろうが」


『こちら』。


言った蘇芳が顔を向けたのは、別の壁だ。ぴったりと板戸が閉め切られている。

先ほど、あの板戸が出口かもしれないと思ったが、違うのだろうか。

状況はまだはっきりしない。しかし、この二人が助けてくれたのは、間違いない。

私は蘇芳にも礼を言った。頭を下げる。

蘇芳はむず痒そうな顔になった。すぐ、表情を引き締める。


「ここは売買される人外、即ち、『商品』の管理所です。今、『商人』たちは不在ですが…外に、見張りがいます」

少年らしからぬ、疲れた表情で、蘇芳は言った。


「売買の対象が人間でなければいい、という話ではないのですが、残念ながら、そう考える者は多いのです」

「買う人が、いるのですか」

人外の売買など、北方では考えられない。

それとも、私が知らないだけだろうか。


「実際、売る方も買う方も、罰則は存在しません」

蘇芳は苦く頷いた。

「嘆かわしいことです。この、佐倉の領地で」

佐倉。驚いた。息を引く。

佐倉家といえば、



「ここは、西方ですか」



西方の名家だ。


蘇芳は胡乱な表情になる。

「確かに。大皇家しろしめす大地において。凛さんはどちらから?」

「北方…結水の領地、穂鷹山の、麓から…」

咄嗟に出生を答えた。途中、つい言葉を濁す。誤魔化した方がよかったろうか。

だが器用な嘘もつけない。困った。


悩む私と裏腹に、少年二人は純粋にただ驚いたようだ。

「北方では、人外と人間は対等と聞き及んでいますが」

蘇芳は目を丸くした。

「この組織は、そんな場所でも人攫いを? ――――問題は深刻ですね」

久嵐は口笛を吹き、手を叩く。

「北方から攫ってくるなんて、ばかだな。おれ知ぃーらね」

手を頭の後ろで組み、天井を見上げた。


「北王の目を逃れられると思うなよ」


「北王など」

蘇芳が顔をしかめた。



「伝承だろう」



私はどうにか、目覚め始めた頭で思考を巡らせる。

ここは西方なのか。

では、今そうだとして、私が最初に出た場所はどこだろう?

そこからはどうやら、移動したようだが。

座敷牢を思い出した。すぐ、気を失う前に聞いた若者の声が脳裏を過ぎる。

彼は、何と告げた? 確か、


(白鷺家家臣、清孝)


白鷺家! そう、確かに、そう言った。

佐倉家と並んで、西方で名高い一族だ。では私は端から西方へ放り出されたらしい。


場所は分かった。では、時間は? かつては遠い過去にいた。今は。


私は少年二人に意識を戻す。

仲がいいのか悪いのか、膨れた久嵐が蘇芳に言い返した。

「いるって。おれ、遠目に見たことあるし」

「ほぅ、いつだ。どこで。名は?」


二人の言い合いは、子供らしい喧嘩に発展しつつある。


さて、どのように尋ねれば、不審もなく、真っ直ぐに答えてくれるだろう。

「あの」

口喧嘩に割り込むのも悪い気がしつつ、私は久嵐にそっと尋ねた。

「人外たちは季節の折に集まると聞きますが、この春はどうなのです?」

蘇芳との睨み合いもそっちのけで、目を丸くした久嵐が私に顔を向ける。


「北方の人間は、そんなことも知ってんのか」

ひやりとした。人間には隠された習慣なのだろうか。

これで時間が知れるかと思ったのだが、逸ったかもしれない。

内心、警戒に満ちた私と違って、久嵐は屈託なかった。


「今は宴の真っ最中だな」


多少の疑問は、北方の人間、ということで目をつぶってもらえたのだろう。

「もう日が変わったし、二日目だ。おれも行きたかったな」

久嵐は恨めしそうに蘇芳を横目にした。

蘇芳が唇をへの字にする。なんだろう?


続く久嵐の言葉はあてつけがましいものだった。


「けど世界の脈道を渡る力はまだねーし。北王が嫁さん迎えてはじめての春だ、豪勢だろうなぁ」

二人の様子も気になったが、私はこっそり安堵の息を吐いた。

久嵐が言う北王は、史郎だ。…史郎、だ。

間違いない。

史郎を思えば、嘘のように気持ちが落ち着いた。


冷静になれ、と自身に言い聞かせる。

意識して、ゆっくりと視線を固定した。混乱気味の思考が、たちまちしずかになる。




去年の秋、私は確かに時間を飛び越えた。


だが、時渡りの術など、相当困難な代物だろう。

しかも他者を、『ここ』に存在しない時間・場所へ招くなど、常軌を逸した力だ。

位階持ちでもなければ、きっとできない。


そして玄丸に、位階持ちたちに共通する、暴力と思えるほどの存在感は感じなかった。




希望的観測かもしれない。が、おそらく正しい。


では玄丸は、はじめから私を西方へやるのが目的だったわけだ。

出た場所にも意味があるのだろうか。


狂ったように笑う女性を思い出す。

彼は、私にどんな役割を期待しているのか。

とにかく、今は。


私は、久嵐に合わせるように頷く。

「このような場所に囚われていては、外に出ることも難しいですね。…囚われて、いるのですよね、私たち?」

言葉の途中、私は首を傾げた。

なにせ、子供たちには緊張感がない。悲壮感も。未来への憂いがない。生き生きしていた。


囚われているようには見えない。


どういう事情があるのか、少年たちはすぐには応じなかった。互いに顔を見合わせる。

その合間に、私はもう一つの疑問を口にしてしまった。

先ほどの話では、人外の売買のための、私たちは『商品』ということだったが、

「蘇芳くんも人間、ですよね」

なぜここにいるのか。


真っ先に、蘇芳が反応する。

「…久嵐は違うと分かるのですね?」

鋭い。今度は私が言葉に詰まる。すかさず久嵐が言った。


「だから人外と間違われたんじゃねぇの?」

私は二人を見比べる。


冷静に見れば、人間と人外、という以前に、違和感のある二人組だ。


友達、というには不自然だ。

ただの成り行きで知り合えるようには見えない。




蘇芳は育ちがよく、聡明――――ただし、人外に友好的とは思えない。


久嵐は自然体だが、勘がよさそうだ。迂闊に、人間に近づくとは思えなかった。




「まぁ、安心しろよな。蘇芳がこうなったら、佐倉家が動く」

久嵐の言いようでは、まるで蘇芳が佐倉家の重要人物のようだ。

私は蘇芳を横目にした。問いかけの眼差しになる。

やりにくそうに、蘇芳は目を伏せた。

久嵐は気にした様子もなく、もう終わった出来事を語る態度で退屈そうに欠伸をもらす。


「それを見越して、おれらはわざと捕まってやったんだ。すぐ解放されるさ」


彼等は意図的にここにいるというわけか。子供の悪戯にしては、危険すぎる。

蘇芳は遠まわしに自分の事情を口にした。

「こうでもしなければ、大人は動かない」

口調が言い訳じみていることを自覚しているのだろう、蘇芳の声が少し強くなる。

目を上げた。私を見る。

「愚策、悪手の自覚ならあります。けれどこの人外の売買、早急に解決する必要性を感じたのです」

双眸が、痛々しいような決意に満ちていた。

そのせいだろうか、しっかりした語り口を、逆に危ういと感じる。


「…今このような時に、と叱られると思いますが、覚悟の上です」

蘇芳の態度は潔く強い。誰かを守り、守り抜く決意が満ちている。

以前の私なら、確証なくも説得され、安堵していたはずだ。けれど。


どうしてだろう。


今の私には、蘇芳の言動がやたら不安に感じられた。

「けれどこのような状況だからこそ、人外の悪感情までも煽っている場合ではありません」

蘇芳は苦い顔でボヤく。

まるで領地を案じる支配者の態度だ。いや、まるで、ではない。おそらく、



「大変なんだな、領主の跡目って。面倒くせぇの」



――――そのもの、なのだ。

わざとらしく抑揚のない声で言った久嵐を、蘇芳は横目に睨んだ。

「面倒を作ったのは、貴様だろう」

「だれが、人間と面倒なんか」

久嵐は鼻で笑う。


「関わることすらうざいってのに」


蘇芳は氷の眼差しを彼に向けた。






「どの口で言っている。貴様が白鷺の重臣の娘を殺したんだろうが! その一石が、」


唸るように蘇芳は言葉を続ける。


「世間でどれだけ大きな波紋を広げていることか」






佐倉。白鷺。

私は目を見張る。確か、宴の場で聞いた。


――――西方で白鷺と佐倉の間に戦の気配あり。


発端には人外が関わっていると言っていたが。

「殺してねえよ!」

久嵐が身を乗り出す。叫んだ。瞬間、慌てたように自分の口を押さえた。

遅れて、蘇芳も我に返った態度で目を瞬かせる。


二人は揃って、板戸の方を見遣った。


私もそちらへ目を向ける。

見張りがいると言っていたが、そちら側にいるのだろうか。

耳をすませる。

だが、返ってきたのは静寂だけだ。

慎重に確認した少年たちは、安堵の息を吐き出す。すぐ、剣呑な目を見交わした。


久嵐が弾かれた勢いで立ち上がる。

「人間どもが勝手に勘違いしたんじゃねえか!」

蘇芳に小声で食ってかかった。

「おれが、あの子が死んだって知ったのは、秋の祭りの最中、皆が騒ぎ始めてからだ」

不貞腐れた声が続ける。


「おれが見たのは、翠天湖に浮いたあの子の着物の華やかな袖だけ…悪いことが起こったら、全部人外の責任にされる。状況を見直そうともしやがらねえ」


蘇芳は表情一つ変えない。端然と立ち上がる。

久嵐の怒りに臆すことなく尋ねた。


「無罪というならば、当時、なぜ逃げた」


とたん、私の身に触れる空気の冷たさが濃度を増す。思わず身を竦めた。

どうやら、ちいさな守護者たちが寒さから守ってくれていたらしい。

真冬より格段にマシだが、夜明け前の空気はまだ相当に冷たかった。


守ってもらっていたのなら、喧嘩をどうにかしたいと思う。

だが、事情がよく飲み込めない。どう声をかけるべきだろうか。


わかる範囲で状況を整理するなら、次のようなことだろう。



現在、元々良好とはいえなかった関係の佐倉家と白鷺家は一触即発の状態にある。

その理由は、去年の秋祭りの際、白鷺の重臣の娘が死んだから。


白鷺家の方が、意固地になっているのだろうか。


そして、状況がこじれた問題の一件には、久嵐が関わっている。

なのに、久嵐はずっと逃げているということなのか。



私は額を突き合わせ、睨み合う二人を見上げた。

慎重に耳を傾ける。

「あの日行われたのは、佐倉と白鷺が代々共同で受け継いできた豊饒の祭りだった!」

よりによって、と蘇芳は唸った。悪夢を思い出すように。

「翠天湖は双方の領地の間に位置している。両家友好の祭りにはもってこいの場所だ。佐倉と白鷺の重臣が揃っていた…今考えれば、夢みたいな話だな」


どれくらい、両家の間の亀裂は深いのだろうか。


「貴様があのとき、佐倉の領地へ逃げ込んだから、白鷺の重臣の娘を殺したのは我らの手引と難癖をつけられる羽目になっている!」

頭の片隅が冷静になる。

玄丸は、これを承知で私を放りだしたのだろうか。


私が売られることまでは予想していなかっただろうが。

「人間は裏切りが挨拶だろ」

久嵐の声は冷たい。対する蘇芳の声は、乾いていた。

「おとなしく公の場に出ろ。逃げるな」


「だからお前はおれを捜してたんだよな。秋祭りから…ハッ、ご苦労なこった」

「僕だけじゃない。皆、血眼になってお前を捜している。真実を話せ」

「真実なんかおれだって知らねえよ」

久嵐は、唆すような暗い目をした。


「いい機会だ、表向きの仲良しごっこなんざやめて、白鷺を滅ぼしちまえ」


蘇芳は聞かない。

根気よく説得を続けた。

「無罪なら無罪で証言するんだ。疑惑が宙ぶらりんのままだから話が大きくなる」


「待ってください」

私は思わず片手を挙げた。

「事実を知りたいなら、」

久嵐から聞き出せないなら、他にも方法はある。

黒蜜が言っていたではないか。確か翠天湖には、

「翠天師に聞いてはどうでしょう? それとも人外だからだめですか」

「冗談でしょう」

私の言葉に、なぜか蘇芳がギョッとなる。


「翠天さまは、神格です。大皇家に降る大神と同じ。人外ではありません」


私は面食らった。これが、西方の考え方か。しかし、それならなおのこと。

「翠天師は人間に友好的と聞いています。問いを、少なくとも無視はしないでしょう。

問題の事故がそこで起きたなら、主の翠天師はすべてをご存知のはず」

「それが…」

蘇芳は気まずそうに視線を逸らした。


話を切り上げるように、久嵐が苛ついた声を上げる。


「何度も言うけどよ」

握った拳を横に薙ぎ払った。すべてを拒絶するように。

「人間が人外の立場に立った判断なんてするわけねえ。身に覚えもないのに責任負わされて問答無用で殺されるのがオチなんだよ!」



「なら死ね」



訴えを、蘇芳は一言で切り捨てた。

あまりの言葉に、私はギョッと蘇芳を見遣る。

苛烈な言葉は止まらない。

「それで大勢が助かる!」

無論、久嵐も言われっぱなしではない。


「覚悟があんなら、テメェが死ね!」



「できるならそうする。だが、僕の命では贖えないんだよ!」



…これでは、苛立ちをぶつけ合っているだけだ。

前向きな解決方法とは思えない。

なにより。

私は思わず、強く言っていた。

「取り消しなさい」

声が、自然と低くなる。

二人は我に返ったように、私を見下ろした。


「誰かに面と向かって言っていいほど、『死』は軽くありません」


厳しい声が、怒りのたまった腹の底から自然と押し上げられる。

とたん、二人はバツが悪そうに目を逸らした。

すぐには、意固地さが消えないのか、二人は互いに謝罪しようとはしない。

蘇芳が言う。


「とにかく、この件が終われば、城に付き合ってもらうからな」


意識したような傲慢な態度で。

…ここまで、ということだ。『今』は。

耳に痛い沈黙が落ちた。

重い荷物を投げ出すように、久嵐が無言で腰を落とした。


蘇芳は立ち尽くし、黙りこむ。


私は二人を見比べた。

…できれば、すぐにでも穂鷹山に帰りたい。正確には、史郎の元へ。

だがこれでは、そうもいくまい。




――――玄丸が何を欲し、私をこの地へ運んだのかは分からない。


分からないことは、しかし、何もしない理由にならなかった。

玄丸のような意見を持つ者たちを納得させるには、どうすればいいか。


成果が必要だ。


状況をなんとかできる、と自惚れを抱けるわけもないけれど。

せめてもう少し、情報を仕入れることくらいはできるはずだ。

分に相応しい程度の、何らかの努力くらいならできる。




私は帯に手をやった。それは、クセだ。

指先で、霊笛に触れたら、安心できる。

だが。


(…え?)


指が、空振った。

さぁっと全身から血の気が下がる。

俯き、目でも確かめた。ぐらり、視界が揺れるほどの衝撃を受ける。

ない。


霊笛が――――豊音の姿が、消えていた。




そうだ。私は、売られたのだ。


何か金目のものを持っていれば奪われるのはごく自然の流れ。




一瞬、息が止まった。胸元で冷たくなった手を握りしめる。

息が浅くなっていく。ふらり、何かに操られる気分で立ち上がった。


「…凛さん?」

蘇芳の呼びかけにも、まともに応じられない。

むしろ、名を呼ばれたことは、起爆剤になった。



「さ、探さなきゃ…!」



気持ちに背中を押される格好で、駆け出す。

ぼろぼろの床を踏みぬきそうになりながら、板戸に向かった。

そこが出口のように見えたから、真っ先に目指す。

「え、凛…っ」

焦った久嵐の声も、どこか遠いところで聴いた。


「っだめだ、そこは!」


冷静なら、もっと慎重に行動できただろう。

だが、豊音が手元にない。

その事実は私を、大事な家族が攫われたような、いてもたってもいられない惑乱状態に追いやった。


板戸を開け放つ。出口と思って。


だがそこは、行き止まりだった。

あったのは、狭い部屋だ。押入れのような。なにより。






――――そこに、『何か』が、いた。






「…え?」


闇が蹲っている。いや。ひと?



「仕事かのぅ?」



チャリ。


夜明け前の暗がりに響いたのは、鎖の音。

錆びた鉄のにおいが鼻をついた。私は我に返る。

壁を掴み、身体の勢いを殺した。


星明かりの下、鉄にも見えたのは、褐色の手足――――不意に、衣ずれの音がした。

相手が顔を上げたのだ。真紅の双眸が欄と輝く。


女性だ。二十歳前後だろう。

歳の割に、老成した雰囲気の彼女は、部屋の隅で、片膝を抱えていた。手足は、鎖につながれている。

ところが彼女は、それ以上に注目すべきものを持っていた。


その額。生え際に、見慣れないものがあったのだ。





ちいさく白い、ふたつの、





「…つの?」





失礼な話だが、私はつい、凝視してしまった。

対する女性は、隠さない。

堂々とさらしたまま、楽しげに目を細める。


「鬼を見るのは、はじめてかえ?」


私は黙って彼女を見下ろした。

確かに、鬼など見たこともない。話に聞くだけだ。

亡者を食らう天災――――ただしそれによって怨念を浄化する、あれらは大地の精霊だ。

確かに、彼女は人間ではない。かといって。

人外でもない。


自ら口にしたように、鬼――――精霊でもない。


かといって、死霊、亡者ともまた違う。

なにせ彼女は、肉体を持っている。





そう、彼女は、何でもなかった。





この世にあるどんな定義も当てはまらない。


その点だけで言うならば、確かに、鬼、という言葉が彼女には相応しかった。

「そなた『商品』じゃろう」

答えない私に怒るでもなく、楽しげな声で、彼女は言う。


「頼むから、お戻り。逃げるなら殺せと言われておる」


頼む、といいつつ、媚びの一つもない、ある意味ふてぶてしい態度だ。

繋ぐ鎖の存在など意味はないと感じるほど、自由で自然体。

いったい、どういう女性なのか。

興味はある。だが今。



(探さないと。豊音を)



そのためには、まず何が必要? 私は帯のあたりで拳を握った。

まずは、ここから出なければならない。自力では無理だ。

いや、試してみなければわからないが、命を確保するための最低限の準備はしておかなければならない。


私は真っ直ぐ、女性を見下ろした。




このひとは、『使える』だろうか。


一番にそう考えた自分に嫌気がさす。




あとでなにがしかのお詫びをしよう。機会があれば。

湧いた罪悪感を、今は流す。

彼女は鎖につながれている。しかし、さきほど、はっきりと言った。


逃げれば『殺す』と。


口調に躊躇いはなかった。

平静さが、言葉が嘘でも脅しでもなく、語っているのは事実だと聞く者に思い知らせる。

ならば。


私の沈黙が長かったせいか、真紅の双眸が、不思議そうに揺らいだ。

とたん、老成していながら、童女のような無垢さが漂う。

「凛さん、だめです、そいつは」

袖を、後ろから蘇芳が引かれた。


「見たとおり、鬼です」


女性が、薄く笑う。…見た通り?

確かに、角はある。角を持つ存在は、この世には鬼しかいない。

だが私には、やはりしっくりこなかった。


「どういうわけか、『商人』に絶対服従です。…僕たちはただ待っていればいい」


確かに、待っていれば、助けはくる。




――――佐倉家の跡目たる蘇芳の助けは。




彼等は蘇芳の救出者ではあるだろう。ただし。

同時に私の助けであるとは限らない。

蘇芳のことは疑っていない。だが。


蘇芳に頷き返し、一方で、私は久嵐を横目にした。

彼は一瞬、バツが悪そうな顔になる。目を逸らした。


…どうやら、私と同意見らしい。察するなり、




―――――ざわり。




向こう側にいる人外たちの気配がささくれ立った。

久嵐が顔を上げる。彼は驚いたように息を呑んだ。


異常な気配に、私も思わず隣の部屋の方を見直した。

感じたものは、敵意や殺意というよりむしろ、


「恐怖…?」


心臓を凍らせるような怯えが、隣室に満ちていた。

「お、おいおい…まさか、これ…!」

久嵐が飛び上がる。全身の毛を逆立たせた子犬のように、身を低くした。

壁に張り付く。

呆気に取られる素早さだ。

蘇芳が目を丸くして振り向いた。


「どうした、久嵐」

「くっそ、舐めてた…!」


久嵐が忌々しげに蘇芳を睨む。





「身分ある人間ってのは頭ん中までとんでもねえな! 佐倉の殿様はここの人外を一網打尽にするつもりだ!」




●こぼれ話:彼がそれをする理由

久嵐「やだよ、正座なんて。なんでわざわざ?」

久嵐「礼儀作法ねえ。それで腹が満たせるならしてやってもいいけどよ…」

久嵐「は? ば、ばっかじゃねえの! できねえわけねえ…だから違うって!!」

久嵐「そんなわけねえだろ、あるかよオレに、」




久嵐「弱点なんか!」




久嵐「見てろ、一日中だってやってやらぁ!!」


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