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霊笛  作者: 野中
霊笛・第二部
13/72

序章

ゆっくりペースで続けていこうと思います。よろしかったらおつきあいください。

雲が近い。私は一瞬目を疑った。

落下を予測し、我に返る。

だが、いつまで経っても墜落の感覚はなかった。瞬間的に強張った背中には、地面の感触がある。


どうやら私は、地面に転がって桜の枝を見上げているみたいだ。


頬を掠めた優しい感触の正体は、淡く色づいた花弁だ。

空まで投げ飛ばされたわけではないらしい。

安堵と同時に、呆気に取られる。猛然と咲き誇り、散り降る桜に圧倒された。

穂鷹山では花すら、散る光景も儚さより潔さが勝る。

美しさに命を吸われそうだ。直視できず、目を伏せた。


たちまち、万朶の花の景色が頭の中で音に変わる。言葉より早く。

渇くように思う。笛を吹きたい。霊笛を。思うなり。



「死にます?」



小鳥のさえずりに似た愛らしい声が、鼓膜を震わせた。

咄嗟に拳で地面を殴って飛び起きる。

間髪入れず、空気を切る音が背を掠めた。私は死に物狂いで前へ出る。直後。


どすん。


巨大な岩が落ちた音がして、地面が振動――――土埃が舞った。

見えない手に突き飛ばされた感覚に、よろける。たたらを踏んだ。

振り向いた視線の先で、右手に赤銅色の籠手をはめた六歳くらいの女の子が、ゆっくり立ち上がる。


彼女の名は、小春。

大きな目。ふっくらした頬。やわらかそうな唇。ゆるいクセのある波打つ髪は、短く切り揃えている。全体的に甘い雰囲気の童女だ。

仕草のひとつひとつが、小動物めいた愛くるしさであふれている。だが、


「逃げるのだけはお上手になられましたね、御寮さま」

台詞はイバラ。棘には下手をすると致死量の毒が含まれる。最初は嫌われているのかと戸惑った。だが、小春の毒舌は万人に平等だ。私にだけではない。

私はお手製の道着の裾を払う。息を整えた。まだぎこちない構えを取る。


「続きをお願いします」

私はある程度、自力で自身の身を守れるようになる必要があった。そのための鍛錬だ。ぼんやりしている場合ではない。

「御寮さま」

小春は首を横に振った。なってないな、と態度が語る。構えのことかと思ったが、どうも様子が違う。

「下僕のわたしに対していつまで敬語を使うおつもりですか。威厳をお持ちなさい」

あ、そこか。

小春は毎日同じ言葉を繰り返す。頑是ない童女に言い聞かせる口調で。

見た目こそ童女だが、渡世の時間は私より小春が長い。私は従順に頷いた。

努力ならしていた。ただ結果が伴っていないだけだ。すみません。


「ご忠告申し上げます、御寮さま。御身は――――気高き北王さまの伴侶でございます。ご身分を、その意味を、一日でも早くご理解くださいませ」


――――ここは、人間と人外が、共存する世界。

人外には、人の世以上に明確な身分の序列があった。

力の強さによって、師、伯、公、王の称号をつけて呼ばれる。大概の人外の名乗りは、称号持ちである者の眷属の何某、だ。と考えれば、彼らが持つ力・影響力の大きさは計り知れない。

ちなみに、称号の上に地名が付くのは、相手がその地をおさめる主ということだ。

師の呼称を持つ人外は、案外気さくに人間と関わりを持つ。伯や公と呼ばれる者は滅多に人前に姿を現さない。まして。

王、ともなれば。




――――自己紹介が遅れた。


私の名は、凛。去年の秋、縁あって人外の妻となった。私自身は普通の人間だ。だが。


夫の史郎は、穂鷹公にして北王である。北竜公と呼ばれることもあった。




現在、人外に存在する王は、彼ただ一人。全盛期には四体存在したようだ。

現在の、王の出現率の低さは、世界の混沌を示していると聞く。

護身術のみならず、人外の世界の知識を私に教えてくれる小春は、冷静に続けた。

「御身の言動一つが、災厄の引き鉄となりかねません。御心に常にお留め置き下さい」

小春は人外、蝶の化生だ。はじめて蝶としての姿を見たとき、美しい花が思わぬところに咲いていると驚いたものだ。


小春をはじめ、史郎の眷属は多い。

この邸に訪れた当初、あちこちから視線なら感じていた。だが、彼らの姿を見たことは一度もなかった。私が彼等とはじめて顔を合わせたのは、本当の意味で、私がこの邸に迎え入れられた後だ。

以後、私が担当していた家事はすべて、彼らが一手に引き受けてくれている。道理で、部屋の隅に塵一つ落ちていなかったはずだ。代わりに私は、彼等の役割の差配を任されるようになった。それぞれに個性があり、合った仕事を与える作業にはすぐに慣れたが、手持無沙汰になって途方に暮れるのはすぐだった。


落ち着かなかった私は、史郎に許可をもらって邸の一角に畑を作った。

豆。菜の花。ふきのとうや筍は、山裾付近まで下りていけば採れる。

自身の食べるものくらいは、自分で賄いたいと思った。


眷属たちの反応は微妙だ。小春に至っては渋面を隠さない。眉間にしわが寄っていても愛くるしい彼女は、一度何かを言いかけた。

止めたのは、私の畑に大笑いをした青柳伯だ。青柳伯は、人外――――この、結水の領地を横断する青柳川の主である。

そして、史郎と私を引き合わせた張本人だ。

「いいんじゃないかな。さすが凛ちゃん。冒険家だねぇ。うん? 史郎が許可したんなら僕からは何も言うことがないよ。ほらほら、小春ちゃんも難しい顔しなーいの。何事も勉強でしょ? 楽しみだねえ、どんなふうにどんなものが『生まれるか』」


育つか、の言い間違いだろう。


野菜のみならず、植物を育てる、という発想が、人外にはあまりない。

人外は基本的に食物を必要としないからだ。特に、ここ、穂鷹山のような霊域においては、むせかえるほど濃密な霊力がある。人外はそれを取り込んで問題なく活動できた。

史郎も食事の必要はない。

凛が来たばかりの頃は共に食べてくれたが、あれは気遣いだったのだろう。最近ともに食事する機会がないことから、ようやく気付いた。


「そもそも御寮さまは、」

小春のお説教が、長い一歩を踏み出しかけた、その時。

「凛! 昨日の手紙はどこにしまったんだ、てめぇ!!」

相手を突き飛ばすような声が邸中に轟いた。私は前にのめる。小春がため息をついた。

「お稽古は、ここまでに致しましょう」

ままごと遊びはこれで終わり。子供の遊戯相手に終止符を打つ大人の態度で宣言する小春の声も、私の意識にはあまり残らない。邸に向き直る。駆け出した。とたん。



「アァ?」



壊す勢いで障子が開く。縁側にぬっと人影が出てきた。脅迫じみた存在感に大気が軋む。

それは、巨大な獣が身を起こしたような感覚に似ている。身が竦むのは、反射だ。だいたい現れただけでもう、皮膚が痺れて痛い。


姿を見せたのは、一人の青年だ。

乱れていると言った方がいいほど、着崩した着物。申し訳程度に肩に引っかけた羽織。骨ばった手には煙管。整った容貌は、甘いというより鋭利な凶器にしか見えない。

毎日、不機嫌以外の感情を探すのが困難な顔の中、獰猛な満月色の双眸が私を射抜いた。

「ちんたらするな。呼んだらとっとと来い」

「はいっ、ただいま参ります、史郎さま」

「遅ぇ。チッ、夜まで鍛錬するつもりか、おい」

口とガラはとことん悪いのに、どんな所作も品がいいこの青年こそ、私の夫だ。彼はこれが常態である。怒っているわけではない。乱暴な言動になら、私はすっかり慣れた。


ただ、なぜこの言動で、育ちのいい若者に見えるのかは未だに謎だ。


史郎は腰を屈めた。転びそうになりながら駆け寄った私と目の高さを合わせる。

「手紙だ、手紙。昨日の、例の。どこやった」

まるで、盗んだ犯人はお前だと言わんばかりの口調だ。だが詰問しているというより、不貞腐れた子供のようにも見える。

この態度がかわいいと、小春にうっかり呟いた日、私は蔑んだ目を向けられた。



――――は? かわいい? あれは凶暴というんです。わかりました、教えるのは常識からですね。



「螺鈿の文箱にあったかと」

「そこは探したぞ」

「真下まで見られましたか?」

史郎は難しい顔になる。すぐ部屋の中へ引っ込んだ。

私は鍛錬でかいた汗を手の甲で拭う。小春が手ぬぐいを差し出してくれた。ありがとうと受け取ったあと、汗一つかいていない小春の姿に少し落ち込む。

すぐ、史郎が部屋の奥から引き返してくる気配があった。

不意に、わずかの風を肌に感じる。火照った肌にはありがたい。思うなり。


どっと桜が動いた。


たちまち、辺り一面、目も眩むほど力強い桜吹雪。

縁側に出てきた史郎が目を細めた。薄い唇に刷かれた皮肉は消えないが、満足げに呟く。

「春だな」




冬から続く、穏やかな時間。なんて、尊い。私は静かに頷いた。


「はい」




史郎は悪戯めいた顔で笑った。手にした手紙を、私にひらりと示す。

「見つけた」

「ようございました」

史郎が笑ってくれたら、私は嬉しい。とても。ひとつでも役に立てたならよかった。だから、微笑み返したつもりだけれど。


「ほんとにそう思ってんのか?」

史郎は首をひねる。満月色の目には疑いや不審といった暗い感情はない。

単純に不思議そうだ。え? 私は自分の頬に手を当てた。

なにかおかしな表情をしていただろうか。尋ねる前に、小春が言った。


「傲慢な殿が御寮さまに捨てられるのは時間の問題ですね」

「小春、主人に毒舌が過ぎると口に解毒剤を放り込むぞ」

常に喧嘩腰の主従だが、気安い関係なのは確かだ。睨み合った二人を見比べる私の頭を軽く撫で、史郎は小春に尋ねた。

「で? 小春、凛の被衣はできたか」


「わたしの腕と段取りをお疑いなら、屈辱ですけれど?」

小春の場合高慢な態度すら、子供が得意げになっているように見えて微笑ましい。彼女は自信満々に胸を張った。

「大丈夫です。被衣には、丁寧に呪を縫い込みました。大概の危険なら簡単に防げるどころか、御寮さまに手を出した者は、骨の髄まで後悔する仕上がりです」

はて、なぜか出来上がったものが鎧か呪いの道具のように聴こえる。被衣のはずだが。

史郎が挑戦的な口調で煽った。


「半端はやるなよ。春の宴で凛に必要なものなんだからな」

私は北王の妻として、人外たちの春の宴に出席する必要があった。

高貴な人外の奥方は、頭に薄物を被り、顔を見せない。

よって急きょ、私に被衣が必要になったわけだ。


新しい衣服、と思えば、普通に心が躍る。楽しみだ。贅沢だ、という気後れには、この際少し静かにしていてもらう。

本当は、他者の手を煩わせず、自身で縫いあげたかった。だが、呪を縫い込む、などといった芸当は、ただびとの私にはできない。もう少し、他者を使うことにも慣れなければとも思うが、そう簡単な話でもない。私は圧倒的に、経験が足りなかった。なにより。




夫婦、と言ったところで。…私たちは、まだ。




手ぬぐいを無意識に握り込んだ手が視界に映った。私は目を瞬かせる。いつの間にか、俯いていた。

いきなり、史郎がその場にどっかと腰を落とす。胡坐をかいた。私の顔を覗き込む。

「俺ら人外の大きな会合は四回ある」

何を言おうとしているのだろう。戸惑いつつも、真っ直ぐな満月色の瞳に、私は息を呑んだ。視界の端で、史郎の指が四本立てられた。


「春は宴、夏は祭り、秋は豊饒の祝い、冬は死と再生の儀式」


一本一本、指が折り畳まれる。

「春の宴は、俺は主席に座すことになる。凛は当然、隣だ。つらいか」

出席はやめるか、と言わない史郎に感謝しながら、私は即答した。

「隣に史郎さまがいらっしゃるのです。何一つ、不安はございません」



ないのは、覚悟ではない。自信だ。私は、史郎の隣にいていいのだろうか。



私が、史郎の邸に住まうようになったのは紅葉が盛りの頃だ。

既に季節が巡った。

冬の儀式には、参加している。ただし、遠目に。公にその場に立つことは、少し事情があって難しかったのだ。

静謐な儀式の光景は、未だ眼裏に焼きついている。

真っ白な雪景色。透き通った凍える闇。設えられた舞台。格調高く厳かな舞。

思わずひれ伏したくなるような荘厳さ。思い出すだけで震える。

あのような場の中心に座すと考えれば、想像だけで気が遠くなった。だが、私は。

逃げるより、立ち向かいたいのだ。

煙管をくわえ、けどよ、と史郎は言った。

「望みを言うくらいは、いいんだぞ。今も何かを堪えたろ」

びっくりした。私は慌てて顔の前で両手を振る。

「そんな。お気になさらず。私などのわがままで、史郎さまのお耳を汚すわけには」

「ばかか、お前は。むしろ、言え。聞かせろ。聞きたい」

願いをすべてかなえてやる、と言わない辺りが史郎だが、彼に言うと何でもかなえられそうで少しこわい。

子供が新しい玩具を期待するような目で、史郎は楽しげに尋ねる。


「俺に望むことはあるか」


史郎の望みだ。

私は頑張って考えた。すぐ、途方に暮れる。今以上の何があるだろう。

史郎と小春が、なぜか私を注視している。困って、結局私は首を横に振った。

「ありません」

落胆させるだろうか。恐る恐る見れば、史郎は退屈そうに表情を消す。

小春は盛大なため息をつき、ぱん、と手を叩いた。

「さぁさ、離れ難いのは分かりますが、殿、御寮さまのお時間をしばしくださいな。鍛錬直後です、早く着替えませんと風邪をお召しになってしまいます」

煙管を手に、史郎が立ちあがった。悠然と煙を吐き出し、私を流し見る。

「後でな、凛」


「はい」

怒った気配はない。ない、けれど。

私の惑いを断ち切るように、小春がきびきびと言った。

「殿は軍装に手を通しておいてください」

踵を返した史郎は手を上げて応じる。私は戸惑って、小春を見下ろした。


「軍装、ですか」

人外に? と首を傾げる。

人外たちには、徒党を組み兵士同士でぶつかり合うと言う印象がない。格上から下の者に至るまで個人主義だ。一個の目的でまとまることなど可能なのだろか。

軍隊という言葉が、彼らにはそぐわない。

「大昔、何度か人外たちの世におおがかりな戦が発生した名残ですよ。それなりの格を持つ人外たちは、顔見せと会議の時だけ、軍装を身にまといます」

小春の説明を背に、部屋の障子に手をかけた史郎が呟く。


「軍装が出てくると季節がひとつ、巡ったってぇ気がするな」


小春に先導され、進む私は桜を見上げた。私一人、軽く隠してしまいそうな花の雨。

邸で見るはじめての桜に心を呑まれそうだと感じる理由は、私にまだ戸惑いがあるせいだろうか。




ここにいても、いいのだろうか、と。


ここにいたい、という身勝手な望みだけを支えに、惑いを呑み込んだ。




私の耳に、史郎のボヤきに似た呟きが届く。

「やれやれ。面倒だが、数日後には」

私は史郎を振り向いた。

肩が小さく跳ねたのは、剣呑な気配を感じたからだ。


これから殺し合いを始めようと宣言するに似た口調で、史郎は静かに告げた。






「宴だ」



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