第四章(2)
「の、ようだな」
悠斗の呟きに応じたその青年こそが、暁彦なのだろう。
日焼けした頬に、皮肉げな笑いを浮かべた。
「人騒がせな人外だぜ」
「兄上。何事もなく終わったのなら、それでよいではありませんか」
私は失礼にならないよう、暁彦を控えめに見上げる。
彼こそが、私が嫁ぐはずだった相手を殺した当人のはずなのに、何の感情も浮かばない。
ただ、この方が結水の長男か、と一歩引いて見上げるだけだ。
八代のようには感じない。
暁彦がふと見下ろしてくるのに、私は畏まって頭を下げた。
彼は、私の帯に目を止める。
「笛…そう言えば、さっき、笛の音を聞いた気がする。お前が吹いていたのか?」
どうやら、帯ではなく、帯に挟んだ笛を見ていたようだ。
私が答えるより先に、悠斗が言った。
「兄上もお気付きでしたか。ええ、あの旋律は紛れもなく、この凛のものでしょう。幾度か聞いたことがあります。なにより、凛は霊笛の村の者。凛、お前が穂鷹公を鎮めたのか?」
「いえ、そのような畏れ多いことは…ただ、あの方が私の願いをお聞き届けくださっただけです」
私が鎮めたわけではない。
笛の音を聞いた史郎が、訴えを聞き入れてくれただけに過ぎない。
それにしてもこの兄弟、仲が険悪にはとても見えなかった。
ともすると、共通の危機に立ち向かうことになった今回の騒ぎが、いい方向に作用したのかもしれない。
おそらく、彼らの意図とは無縁のところで動いていた悪意が、逆に兄弟を団結させたのだ。
不思議な気分で、私が二人を見上げたとき、
「伝令、伝令―っ!」
兵士たちがひしめく中、息せき切って乗り込んできた栗毛の馬がある。
暁彦が厳しく言い放った。
「何事だ!」
「御報告申し上げます!御当主、遼太郎様が昏睡状態からお目覚めになられました!」
刹那、空気が、糸が解けたように緩んだ。
それが一挙に、激しく昂揚し、誰の顔も日を浴びたようにかがやく。
誰よりも顕著だったのは結水兄弟で、すぐさま、馬首を巡らせた。
悠斗が、笑顔で振り向いて、私に手を差し伸べる。
「ひとまず、凛、共に行こう。父上に御報告申し上げねば」
私は後退った。
深く、頭を下げる。
「凛?」
「申し訳ございません。私には、まだなすべきことがございます。結水の館へは、また後ほど、お伺いさせていただきますので」
どうか、と一息に言って、私は木立の中に駆け込んだ。
追ってくる気配はない。
私はすぐに、意識を前に向けた。
ここは山裾だ、史郎がいるだろう山頂付近には、まだ遠い。
だが、私は彼に会わなくてはならない。
たった数日前、青柳伯に導かれ、登った道を探した。
あの日感じた、遠い蒼穹に、さらさらと乾いた風を思い出す。
すずやかに、やさしく導かれるようだった。
ところが、今日はどうだ。
周囲は、闇、また闇。
視界は漆黒に塗り潰されて、一寸先も見えない。
雨上がりのような湿気が熱く膨張し、肌を押し返すようだ。
まるで、来るな、と言われているような。
泣き出しそうになる。
それでも、歩いた。前へ進んだ。
会いたい。あと、一度でいい。
ずっとそばに、なんて我侭は言わない。
会って、告げたい言葉がある。
一言だ。
許してほしい。それだけを。
それ以上は、望まない。
望めない。
怖いのだ。
重荷にはなりたくない。
史郎が進む道の、邪魔になることだけは嫌だ。
それならば、いっそ告げなければいいのに。
告げるだけでいいなんて、それすらも、ひどいわがままだ。
それでも。
―――――どれくらい、登っただろう。
カツン。
足先に、固いものが当たった。
石だろうか。
それにしては、何か違うような。
腰を落として、手を伸ばす。
指先の感触にハッとして、取り上げた。
煙管だ。
暗がりで、見えなくとも、直感した。
史郎のものだ。
思わず、胸に抱いて震える声で呼ぶ。
「史郎様…っ」
こんな広い山の中、人一人見つけることすら難しいだろう。
なにより史郎は、この山の主。
逃げようと思えば、姿を消すくらい、造作もない。
会いたくないと思えば、私を永遠に迷わすくらいは容易い。
ただの人間に過ぎない私など、簡単に迷う。
永遠に迷う覚悟なら、あった。
だから、足を鈍らせる恐怖は、ひたすら、私の身勝手から生まれる。
私の言葉など、想いなど、史郎には迷惑だ。
彼には、譲れない、裏切れない想いがある。それを知っていながら、私は。
心を告げれば、史郎はやさしいから、おそらく、私を傷つけまいとする。
それでも傷つく私に、史郎は傷つくだろう。
あきらめさせてほしいがために、傷つけてくれ、と私はやさしい人に要求しようとしている。
その酷さが、足を鈍らせた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…っ」
早、泣いているような熱い息を吐きながら、煙管を抱きしめ、向かう場所も定めず、ひたすら足を進める。
とたん。
視界が開けた。
淡い光が目の端を掠め、人魂に見えた私は身を竦める。
あまい水のにおいに、目を見張った。
湖が、眼前に広がっている。
風さえまっすぐ通らないような山奥で、夜光虫漂う湖の水面に波紋が走った。
水滴の落ちる音に、私が顔を上げるなり、
「憎らしい女だ。なんで、戻ってきやがった…」
喉をしめあげるような声が、私の耳朶を打つ。
数歩先に、人影が見えた。
「それも、名前まで呼びやがってっ。会うつもりはなかったんだ、ここまで通すつもりはなかったんだ!腹ァ決めたつもりだったのによ…凛が呼んじまったから、全部パアになっちまった…っ」
チクショウ、と歯軋りの音。
叩きつけるような怒りに、それでも私は安堵した。
史郎が、そこにいる。
また会えた。
「史郎様」
「呼ぶな!」
怒声に頬を張られ、私は口を閉ざす。
史郎は繰り返した。
「なんでだ…なんで戻った。アンタ、あの男に惚れてんだろ」
「…あの男?」
思わぬことを言われて、目を見張る。
誰のことだ。
考え込む私に、史郎はあっさり答えを口にした。
「領主の息子…弟の方だ。惚れた男に会えた上に、帰ろうって言われたら、悩む、ことなんざ…」
史郎の声は、尻すぼみに消える。
私は驚いた。気付かれていたことに。
確かに、悠斗は私の初恋だ。ただし、淡い憧れに過ぎない。
遠くからしあわせを願うような、幼い恋。
激情の欠片もない、やさしい想いは、ひたすら慰撫するだけのもの。
私をとらえたのは、その感情ではなかった。幸か不幸か。
史郎は、いつもの天衣無縫な図々しさは鳴りを潜めて、はらわたを投げつけるかのような呻きをもらす。
「きっちり、人間の世へ戻すつもりだったのに、顔を、見ちまったら、俺は」
言われて、気付く。
史郎は顔を背けてた。
湖を向いて、私に左半身だけ見せて、その上で、向こうを向いている。
目をあわせてもくれない罰は、受けて当然だ。
これから私は、ひどいことを。
「戻ったことを、なぜ、と、…お聞きになられますか」
一歩、近付く。
私の草履が立てた石砂利の音に、史郎の肩が揺れた。
煙管を命綱のように握り締め、私はちいさく宣言する。
「私が戻ったのは、アナタを、傷つけるためです」
言った私の声は、笑っているようだった。
私は笑っているのか。
自覚はなかった。
ますます人でなしだ。いや。
もう、笑うしかないのだ。
史郎は何も言わない。
ゆら、と湖を見た。
薄闇にすかして見えた横顔は、嵐をはらんでいる。
ハッ、と皮肉げな口元から、鋭い呼気が漏れた。
それが突如、破裂するように喉から飛び出す。
次第に、嘲るような爆笑に変わった。
ただし目は、笑っていない。
笑いながら俯いた、と思ったときには。
「いいぜ、傷つけろ」
一息に距離を詰めた史郎が、私を覗き込んでいた。
透徹した満月色の瞳に、怯みそうになる。
史郎が傷つくということは、私が傷つくということだ。
戦場で太刀を合わせるとは、こういう心地のことを言うのだろうか。
死にそうなくらいの緊張に、息が浅くなる。
史郎は、私が何を言うのか、分かっているのだろうか。
双眸には、見透かすような諦観があった。
「…傷つくのは、慣れてらぁ。チッ、どうして本気になった相手とはこうなるんだかな…」
史郎は軽口を叩く。
でもお互い、真剣勝負をしているように、目が離せない。
動けない。
その、眼差しに。
傷ついた少年の瞳が重なる。
月丸。
私に想い人がいると知っていて、ぶつかってきてくれた勇気。
その勇気に、背中を押された気がした。
「…申し訳、ありません」
私の謝罪に、史郎の唇から苛立ったため息が落ちる。
それに負けず、しずかに続きを口にできたのは、月丸のおかげだ。
「私は、アナタが、好きです」
ふ、と史郎が口を閉ざした。
周囲の闇と沈黙が痛くなる。
全身を絞り上げるようだ。
心を穿たれる痛みを予測して、心臓がガンガンとこめかみで鳴る。
史郎は無表情で、私の頭の中まで探るような深い眼差しになった。
「嘘だろう」
掠れた史郎の言葉が、呆然と、私たちの間に転がる。
そんな言葉までもが痛くて、私は俯いた。
逃げようにも、気力を使い果たして、足が動いてくれない。
崩れ落ちないようにするのが精一杯だ。
とたん。
「俺も、…アンタに惚れてる」
――――今度こそ、私はその場にへたり込んでしまった。
咄嗟に声もない。
口元を押さえ、俯いた史郎が私の前にしゃがみ込む。
そのまま上目遣いに私を見た。
視線が合うなり、私は反射で呟く。
「本当ですか」
「そりゃ俺の台詞だ」
史郎は猜疑心に溢れた顔をしていた。
私の頭の中も同様だ。
こんな場合に。
甘さよりも、混乱気味の疑惑が私たちの間に渦を巻く。
想いが同じだなんて、今まで想像すらしたことがなかった。
それも、どうやら、お互いに。
煙管を握り締める手に力がこもった。
「で、ですが、史郎様には、昔から好きな方が」
「好きだ。決まってる」
返答は、迷いない。
自分で訊いていながら、私はざっくり斬られた。
「…っ、私はそれを知っています。知っているから、最初に謝罪をして…っ」
涙目になった私に、史郎は目を丸くする。
かと思えば、ふ、と気負いが抜けた笑みを見せた。
嬉しそうに。
何が嬉しいのか。
私が泣く寸前にまでなったとき、史郎が慌てて手を伸ばした。
頬に触れる直前、手が止まる。
「な、触れて、…いいか」
私は唇を噛んで俯いた。
史郎の本音が見えない。
触れられたい。触れられたくない。
そのどちらも、私の本音だ。
答えられなかった私のそばで、迷った掌が、そうっと頬に触れた。
あたたかい。
拒絶もできないどっちつかずの私に、史郎はゆるく緊張を解いた。
「悪ぃ。違うんだ。あの人のことは、まだ好きだけどよ、凛とは違う。もっと、穏やかで、最初からあきらめた感じってーか…」
ふ、と私は直感した。
私と同じだ。
おそらく史郎のそれは、私が悠斗に抱くそれと、同じなのだ。
私が悠斗のことを考えたのと、同時だった。
史郎の声が低くなる。
「そういうアンタはどうなんだ?」
「…わ、たし、ですか」
大きな掌が、両方から顔を包んだ、と思ったときには、有無を言わさず顔を引き上げられた。
痛みに悲鳴を上げる首筋に、顔をしかめた私を、間近から史郎は覗き込む。
「なあ?あの男が好きだろう?俺みたいな狂った化け物より、普通の人間の、上等な男の方が、ずっと」
皮膚が粟立った。
血の気が引く。
史郎は笑っていた。
せせら笑うようで、まったく笑っていない、あの、いつもの。
皮肉げで、痛々しい。
自分の言葉に傷つきながら、うっとりと、史郎は。
「違います」
「どうだか」
「悠斗様は、私の憧れで、」
好きとは違う、と言いさした瞬間。
私は星空を見ていた。
押し倒されたのだ。
背と後頭部に砂利を感じて、痛みに息を詰めるなり、
「言うな」
胸に、威嚇するような声が押し込まれた。
心臓が凍りついたかと思う。
そう、これが史郎の本性だ。
先ほど、けろりと八代たちを誅戮した、酷薄が。
けれど、それすら今は、愛しい。
私だって、似たようなものだ。
史郎に牙を剥き、傷つけた彼らを、決して許すことはできない。
死んで当然だと思う。
私の苛烈に呼応するように、史郎は私の胸に強く額を押し付け、煮えたぎる声で続ける。
「…ソイツを、殺したく、なる」
私は息を呑んだ。
ばちっと目の奥で火が爆ぜたような感覚のあと、月丸のギラつく双眸が脳裏を過ぎった。
――――妬みで気が狂いそうだ…目の前にソイツがいたら、殺してやるのに。
似過ぎている。
だが、まさか、そんな。
私が声を失ったとき、史郎が突如、頓狂な声を上げた。
「なんで凛が、この笛を持ってんだ?」
同時に、帯から固いものが抜ける感触。
史郎が顔を上げた。
私に圧し掛かった姿勢のままで、片手でくるりとそれを回す。
また、既視感。
「これは、あの人が持って行ったのに。どこで、見つけた?…さっき、吹いてたのって、これか?」
史郎は愕然と、手にしたものを見つめた。
それは、霊笛だった。
月丸の。
思わず確認するように、その名を呼んだ。
「月丸様…?」
史郎は瞠目した。
笛を取り落としそうになって、慌てて掴む。
「俺の幼名…誰かから、聞いたか」
私は、息をついた。
何かが、見えた気がした。
偶然だろうか。
もし、仕組んだとしたら、誰だろう?
ふと、貴也が高貴な顔に上品な笑みを浮かべた姿が脳裏を過ぎった。
ふいに、私は微笑んだ。
「笛を、吹きましょう」
「アァ?」
答えになっていない、と物騒な声を放つ史郎に、私は怖がるよりますます笑みを深める。
――――悪い子だ。
記憶の中で、遠い声がこだまする。
この世から、私を鞭もて追った言葉。
何も望むな、道具であれ、お前を愛するものなどいない、この世にお前の居場所などない。
繰り返されて、私もそう思っていた。
だから、まさか。
見つけられると思っていなかった。
自分がいる意味、どうあっても、ほしい居場所。
――――凛は悪くない。
史郎は、それと意識して言ったわけではないだろう。
けれど、この一言で、私は救われたのだ。
彼によって、私の人生が始まった。
私が、私になれた。
今までは、与えられることを待つだけだったが、今は違う。
霊笛という武器も得た。
本来そこに座るはずだった誰かを押しのけてでも、私はここにいたい。
「史郎様のそばで、一生」
史郎は、ふ、と表情を消した。
やがて、ゆるりと笑み崩れる。
純粋さからは程遠い。
獰猛な笑みだ。
獲物の喉笛に、前足をかけた獣のような。
手に入れた。
そんな声を聞いた気がした。
「言ったな」
だが、史郎は勝ち誇ったように言うなり、悪餓鬼めいた無邪気な笑みを浮かべる。
常の皮肉がかけらもなくて、私は少し、面食らった。
直後、史郎は私と額を合わせる。
照れ隠しか、些か乱暴に。
がつん、と音がして、わずかに、目に星が飛んだ。
「なら、決めた。返さねぇ。人の世には。凛はずっと、こっちにいろ。他なんざ、知ったことか」
腹の底から、熱塊を吐き出すような語調。
ようやく、つながれた。
そんな気がして、もう少し望んでもいいだろうか、とおそるおそるわがままを言ってみる。
「アナタに触れてもいいですか」
「言わなくてもわかるだろ」
返ったのは、不機嫌な答えだ。
本当に分からないのだが、と困惑する。
それでも、勇気を振り絞って、頬に触れると、熱かった。
体温が指先にしみてくるのが、何やらくすぐったい。
なのに、たまらないほど安堵して、全身から力が抜けた。
史郎も同じだったのか、くすぐってぇ、と笑って、抱きしめてくれる。
壊れもののように。
隙間なく抱き合っていると、ひとつの命を共有している気分になった。
本当にそうだといいのに、と思った私の耳元で、史郎が普段の尊大さもそのままに、囁く。
「帰ろうぜ」
俺たちの家に。
私は迷うことなく頷いた。
読了、お疲れ様でした。ここまで読んで下さってありがとうございました!