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霊笛  作者: 野中
霊笛・第一部
12/72

第四章(2)

「の、ようだな」

悠斗の呟きに応じたその青年こそが、暁彦なのだろう。

日焼けした頬に、皮肉げな笑いを浮かべた。

「人騒がせな人外だぜ」


「兄上。何事もなく終わったのなら、それでよいではありませんか」

私は失礼にならないよう、暁彦を控えめに見上げる。

彼こそが、私が嫁ぐはずだった相手を殺した当人のはずなのに、何の感情も浮かばない。

ただ、この方が結水の長男か、と一歩引いて見上げるだけだ。

八代のようには感じない。

暁彦がふと見下ろしてくるのに、私は畏まって頭を下げた。

彼は、私の帯に目を止める。

「笛…そう言えば、さっき、笛の音を聞いた気がする。お前が吹いていたのか?」


どうやら、帯ではなく、帯に挟んだ笛を見ていたようだ。

私が答えるより先に、悠斗が言った。

「兄上もお気付きでしたか。ええ、あの旋律は紛れもなく、この凛のものでしょう。幾度か聞いたことがあります。なにより、凛は霊笛の村の者。凛、お前が穂鷹公を鎮めたのか?」

「いえ、そのような畏れ多いことは…ただ、あの方が私の願いをお聞き届けくださっただけです」


私が鎮めたわけではない。

笛の音を聞いた史郎が、訴えを聞き入れてくれただけに過ぎない。


それにしてもこの兄弟、仲が険悪にはとても見えなかった。

ともすると、共通の危機に立ち向かうことになった今回の騒ぎが、いい方向に作用したのかもしれない。

おそらく、彼らの意図とは無縁のところで動いていた悪意が、逆に兄弟を団結させたのだ。

不思議な気分で、私が二人を見上げたとき、






「伝令、伝令―っ!」




兵士たちがひしめく中、息せき切って乗り込んできた栗毛の馬がある。

暁彦が厳しく言い放った。

「何事だ!」


「御報告申し上げます!御当主、遼太郎様が昏睡状態からお目覚めになられました!」


刹那、空気が、糸が解けたように緩んだ。

それが一挙に、激しく昂揚し、誰の顔も日を浴びたようにかがやく。


誰よりも顕著だったのは結水兄弟で、すぐさま、馬首を巡らせた。

悠斗が、笑顔で振り向いて、私に手を差し伸べる。

「ひとまず、凛、共に行こう。父上に御報告申し上げねば」

私は後退った。

深く、頭を下げる。

「凛?」


「申し訳ございません。私には、まだなすべきことがございます。結水の館へは、また後ほど、お伺いさせていただきますので」


どうか、と一息に言って、私は木立の中に駆け込んだ。

追ってくる気配はない。

私はすぐに、意識を前に向けた。


ここは山裾だ、史郎がいるだろう山頂付近には、まだ遠い。

だが、私は彼に会わなくてはならない。


たった数日前、青柳伯に導かれ、登った道を探した。


あの日感じた、遠い蒼穹に、さらさらと乾いた風を思い出す。

すずやかに、やさしく導かれるようだった。

ところが、今日はどうだ。


周囲は、闇、また闇。

視界は漆黒に塗り潰されて、一寸先も見えない。

雨上がりのような湿気が熱く膨張し、肌を押し返すようだ。






まるで、来るな、と言われているような。






泣き出しそうになる。

それでも、歩いた。前へ進んだ。

会いたい。あと、一度でいい。

ずっとそばに、なんて我侭は言わない。

会って、告げたい言葉がある。


一言だ。


許してほしい。それだけを。

それ以上は、望まない。

望めない。


怖いのだ。


重荷にはなりたくない。

史郎が進む道の、邪魔になることだけは嫌だ。

それならば、いっそ告げなければいいのに。

告げるだけでいいなんて、それすらも、ひどいわがままだ。

それでも。

―――――どれくらい、登っただろう。


カツン。


足先に、固いものが当たった。

石だろうか。

それにしては、何か違うような。

腰を落として、手を伸ばす。

指先の感触にハッとして、取り上げた。

煙管だ。

暗がりで、見えなくとも、直感した。

史郎のものだ。

思わず、胸に抱いて震える声で呼ぶ。



「史郎様…っ」



こんな広い山の中、人一人見つけることすら難しいだろう。

なにより史郎は、この山の主。

逃げようと思えば、姿を消すくらい、造作もない。

会いたくないと思えば、私を永遠に迷わすくらいは容易い。

ただの人間に過ぎない私など、簡単に迷う。






永遠に迷う覚悟なら、あった。






だから、足を鈍らせる恐怖は、ひたすら、私の身勝手から生まれる。


私の言葉など、想いなど、史郎には迷惑だ。

彼には、譲れない、裏切れない想いがある。それを知っていながら、私は。

心を告げれば、史郎はやさしいから、おそらく、私を傷つけまいとする。

それでも傷つく私に、史郎は傷つくだろう。


あきらめさせてほしいがために、傷つけてくれ、と私はやさしい人に要求しようとしている。


その酷さが、足を鈍らせた。

「ごめんなさい…ごめんなさい…っ」

早、泣いているような熱い息を吐きながら、煙管を抱きしめ、向かう場所も定めず、ひたすら足を進める。

とたん。






視界が開けた。






淡い光が目の端を掠め、人魂に見えた私は身を竦める。

あまい水のにおいに、目を見張った。

湖が、眼前に広がっている。


風さえまっすぐ通らないような山奥で、夜光虫漂う湖の水面に波紋が走った。


水滴の落ちる音に、私が顔を上げるなり、

「憎らしい女だ。なんで、戻ってきやがった…」

喉をしめあげるような声が、私の耳朶を打つ。

数歩先に、人影が見えた。


「それも、名前まで呼びやがってっ。会うつもりはなかったんだ、ここまで通すつもりはなかったんだ!腹ァ決めたつもりだったのによ…凛が呼んじまったから、全部パアになっちまった…っ」

チクショウ、と歯軋りの音。


叩きつけるような怒りに、それでも私は安堵した。

史郎が、そこにいる。

また会えた。

「史郎様」


「呼ぶな!」


怒声に頬を張られ、私は口を閉ざす。

史郎は繰り返した。

「なんでだ…なんで戻った。アンタ、あの男に惚れてんだろ」

「…あの男?」

思わぬことを言われて、目を見張る。

誰のことだ。

考え込む私に、史郎はあっさり答えを口にした。

「領主の息子…弟の方だ。惚れた男に会えた上に、帰ろうって言われたら、悩む、ことなんざ…」


史郎の声は、尻すぼみに消える。

私は驚いた。気付かれていたことに。


確かに、悠斗は私の初恋だ。ただし、淡い憧れに過ぎない。

遠くからしあわせを願うような、幼い恋。

激情の欠片もない、やさしい想いは、ひたすら慰撫するだけのもの。


私をとらえたのは、その感情ではなかった。幸か不幸か。

史郎は、いつもの天衣無縫な図々しさは鳴りを潜めて、はらわたを投げつけるかのような呻きをもらす。

「きっちり、人間の世へ戻すつもりだったのに、顔を、見ちまったら、俺は」

言われて、気付く。


史郎は顔を背けてた。

湖を向いて、私に左半身だけ見せて、その上で、向こうを向いている。

目をあわせてもくれない罰は、受けて当然だ。

これから私は、ひどいことを。


「戻ったことを、なぜ、と、…お聞きになられますか」

一歩、近付く。

私の草履が立てた石砂利の音に、史郎の肩が揺れた。

煙管を命綱のように握り締め、私はちいさく宣言する。


「私が戻ったのは、アナタを、傷つけるためです」


言った私の声は、笑っているようだった。

私は笑っているのか。

自覚はなかった。

ますます人でなしだ。いや。


もう、笑うしかないのだ。


史郎は何も言わない。

ゆら、と湖を見た。


薄闇にすかして見えた横顔は、嵐をはらんでいる。


ハッ、と皮肉げな口元から、鋭い呼気が漏れた。

それが突如、破裂するように喉から飛び出す。

次第に、嘲るような爆笑に変わった。

ただし目は、笑っていない。

笑いながら俯いた、と思ったときには。


「いいぜ、傷つけろ」


一息に距離を詰めた史郎が、私を覗き込んでいた。

透徹した満月色の瞳に、怯みそうになる。

史郎が傷つくということは、私が傷つくということだ。

戦場で太刀を合わせるとは、こういう心地のことを言うのだろうか。

死にそうなくらいの緊張に、息が浅くなる。

史郎は、私が何を言うのか、分かっているのだろうか。

双眸には、見透かすような諦観があった。


「…傷つくのは、慣れてらぁ。チッ、どうして本気になった相手とはこうなるんだかな…」


史郎は軽口を叩く。

でもお互い、真剣勝負をしているように、目が離せない。

動けない。

その、眼差しに。

傷ついた少年の瞳が重なる。

月丸。

私に想い人がいると知っていて、ぶつかってきてくれた勇気。


その勇気に、背中を押された気がした。

「…申し訳、ありません」


私の謝罪に、史郎の唇から苛立ったため息が落ちる。

それに負けず、しずかに続きを口にできたのは、月丸のおかげだ。






「私は、アナタが、好きです」






ふ、と史郎が口を閉ざした。

周囲の闇と沈黙が痛くなる。

全身を絞り上げるようだ。

心を穿たれる痛みを予測して、心臓がガンガンとこめかみで鳴る。

史郎は無表情で、私の頭の中まで探るような深い眼差しになった。


「嘘だろう」

掠れた史郎の言葉が、呆然と、私たちの間に転がる。

そんな言葉までもが痛くて、私は俯いた。

逃げようにも、気力を使い果たして、足が動いてくれない。

崩れ落ちないようにするのが精一杯だ。

とたん。


「俺も、…アンタに惚れてる」


――――今度こそ、私はその場にへたり込んでしまった。


咄嗟に声もない。

口元を押さえ、俯いた史郎が私の前にしゃがみ込む。

そのまま上目遣いに私を見た。

視線が合うなり、私は反射で呟く。




「本当ですか」

「そりゃ俺の台詞だ」




史郎は猜疑心に溢れた顔をしていた。

私の頭の中も同様だ。

こんな場合に。



甘さよりも、混乱気味の疑惑が私たちの間に渦を巻く。




想いが同じだなんて、今まで想像すらしたことがなかった。

それも、どうやら、お互いに。

煙管を握り締める手に力がこもった。

「で、ですが、史郎様には、昔から好きな方が」

「好きだ。決まってる」

返答は、迷いない。

自分で訊いていながら、私はざっくり斬られた。


「…っ、私はそれを知っています。知っているから、最初に謝罪をして…っ」

涙目になった私に、史郎は目を丸くする。


かと思えば、ふ、と気負いが抜けた笑みを見せた。

嬉しそうに。

何が嬉しいのか。

私が泣く寸前にまでなったとき、史郎が慌てて手を伸ばした。

頬に触れる直前、手が止まる。


「な、触れて、…いいか」

私は唇を噛んで俯いた。

史郎の本音が見えない。

触れられたい。触れられたくない。

そのどちらも、私の本音だ。

答えられなかった私のそばで、迷った掌が、そうっと頬に触れた。


あたたかい。

拒絶もできないどっちつかずの私に、史郎はゆるく緊張を解いた。

「悪ぃ。違うんだ。あの人のことは、まだ好きだけどよ、凛とは違う。もっと、穏やかで、最初からあきらめた感じってーか…」

ふ、と私は直感した。


私と同じだ。

おそらく史郎のそれは、私が悠斗に抱くそれと、同じなのだ。

私が悠斗のことを考えたのと、同時だった。

史郎の声が低くなる。

「そういうアンタはどうなんだ?」

「…わ、たし、ですか」

大きな掌が、両方から顔を包んだ、と思ったときには、有無を言わさず顔を引き上げられた。

痛みに悲鳴を上げる首筋に、顔をしかめた私を、間近から史郎は覗き込む。

「なあ?あの男が好きだろう?俺みたいな狂った化け物より、普通の人間の、上等な男の方が、ずっと」


皮膚が粟立った。

血の気が引く。


史郎は笑っていた。

せせら笑うようで、まったく笑っていない、あの、いつもの。

皮肉げで、痛々しい。


自分の言葉に傷つきながら、うっとりと、史郎は。

「違います」


「どうだか」

「悠斗様は、私の憧れで、」

好きとは違う、と言いさした瞬間。

私は星空を見ていた。

押し倒されたのだ。

背と後頭部に砂利を感じて、痛みに息を詰めるなり、

「言うな」


胸に、威嚇するような声が押し込まれた。

心臓が凍りついたかと思う。

そう、これが史郎の本性だ。


先ほど、けろりと八代たちを誅戮した、酷薄が。


けれど、それすら今は、愛しい。

私だって、似たようなものだ。

史郎に牙を剥き、傷つけた彼らを、決して許すことはできない。

死んで当然だと思う。


私の苛烈に呼応するように、史郎は私の胸に強く額を押し付け、煮えたぎる声で続ける。


「…ソイツを、殺したく、なる」


私は息を呑んだ。

ばちっと目の奥で火が爆ぜたような感覚のあと、月丸のギラつく双眸が脳裏を過ぎった。






――――妬みで気が狂いそうだ…目の前にソイツがいたら、殺してやるのに。






似過ぎている。

だが、まさか、そんな。

私が声を失ったとき、史郎が突如、頓狂な声を上げた。


「なんで凛が、この笛を持ってんだ?」


同時に、帯から固いものが抜ける感触。

史郎が顔を上げた。

私に圧し掛かった姿勢のままで、片手でくるりとそれを回す。

また、既視感。






「これは、あの人が持って行ったのに。どこで、見つけた?…さっき、吹いてたのって、これか?」






史郎は愕然と、手にしたものを見つめた。

それは、霊笛だった。


月丸の。

思わず確認するように、その名を呼んだ。


「月丸様…?」


史郎は瞠目した。

笛を取り落としそうになって、慌てて掴む。

「俺の幼名…誰かから、聞いたか」


私は、息をついた。

何かが、見えた気がした。





偶然だろうか。


もし、仕組んだとしたら、誰だろう?

ふと、貴也が高貴な顔に上品な笑みを浮かべた姿が脳裏を過ぎった。

ふいに、私は微笑んだ。

「笛を、吹きましょう」

「アァ?」

答えになっていない、と物騒な声を放つ史郎に、私は怖がるよりますます笑みを深める。


――――悪い子だ。


記憶の中で、遠い声がこだまする。

この世から、私を鞭もて追った言葉。






何も望むな、道具であれ、お前を愛するものなどいない、この世にお前の居場所などない。






繰り返されて、私もそう思っていた。

だから、まさか。

見つけられると思っていなかった。

自分がいる意味、どうあっても、ほしい居場所。


――――凛は悪くない。


史郎は、それと意識して言ったわけではないだろう。

けれど、この一言で、私は救われたのだ。

彼によって、私の人生が始まった。

私が、私になれた。


今までは、与えられることを待つだけだったが、今は違う。

霊笛という武器も得た。

本来そこに座るはずだった誰かを押しのけてでも、私はここにいたい。


「史郎様のそばで、一生」


史郎は、ふ、と表情を消した。

やがて、ゆるりと笑み崩れる。

純粋さからは程遠い。

獰猛な笑みだ。

獲物の喉笛に、前足をかけた獣のような。


手に入れた。


そんな声を聞いた気がした。

「言ったな」

だが、史郎は勝ち誇ったように言うなり、悪餓鬼めいた無邪気な笑みを浮かべる。

常の皮肉がかけらもなくて、私は少し、面食らった。


直後、史郎は私と額を合わせる。

照れ隠しか、些か乱暴に。

がつん、と音がして、わずかに、目に星が飛んだ。

「なら、決めた。返さねぇ。人の世には。凛はずっと、こっちにいろ。他なんざ、知ったことか」

腹の底から、熱塊を吐き出すような語調。


ようやく、つながれた。

そんな気がして、もう少し望んでもいいだろうか、とおそるおそるわがままを言ってみる。

「アナタに触れてもいいですか」

「言わなくてもわかるだろ」

返ったのは、不機嫌な答えだ。


本当に分からないのだが、と困惑する。


それでも、勇気を振り絞って、頬に触れると、熱かった。

体温が指先にしみてくるのが、何やらくすぐったい。

なのに、たまらないほど安堵して、全身から力が抜けた。


史郎も同じだったのか、くすぐってぇ、と笑って、抱きしめてくれる。

壊れもののように。


隙間なく抱き合っていると、ひとつの命を共有している気分になった。

本当にそうだといいのに、と思った私の耳元で、史郎が普段の尊大さもそのままに、囁く。


「帰ろうぜ」

俺たちの家に。





私は迷うことなく頷いた。









読了、お疲れ様でした。ここまで読んで下さってありがとうございました!

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