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霊笛  作者: 野中
霊笛・第一部
11/72

第四章(1)

ぽつ。


鼻先に弾けた感触に、私は跳ね起きた。

顔を上げれば、小雨が降っている。

いったいどれくらい、気を失っていたのだろうか。


月丸は、どこに。


急斜面の崖の底から、私は空を見上げた。

気絶する直前、はっきり目に映ったはずの群青が、今やすっかり曇天に覆われている。

時に雷が、雲を螺鈿に彩った。

あの時見えた、闇の焔は、湧きあがる雲を錯覚しただけだろうか?

暗がりの中、近くを探れば、石とは違う固い感触が掌に当たった。

笛だ。


私でも鳴らせた霊笛。


誰も奪いはしないのに、慌てて取り上げ、隠すように胸元へ押し込む。

私のものではない、預かりものだ。

なくすわけにいかない。


早くここから、上がらなければ。

だが、どうやれば抜け出せるのか。

まずは、歩き出さねばはじまらない。

目前の闇を睨み据え、私は手探りで進み始めた。

身体を打つ雨が体温を奪っているはずだが、そんなことは気にならないほど、意識が高揚している。


早く、早く月丸を見つけなければ。

ところが、大分進んだところで、前へ進む足の動きが鈍った。






―――――笛を吹けばいいのではないか?






先刻のように、月丸を思って。

そうすれば、月丸の力になれる。

そして月丸が、私を見つけてくれるだろう。


進むか、笛を吹くか。

戸惑い、胸元を押さえたとき、稲光が辺りを鞭打つように走った。

そのとき。

「誰だ!」


雨を縫って響いた誰何の声に、私は身構える。だが、

「征司様…?」

その、張りがある精悍な声には、聞き覚えがあった。


私の小さな声を聞き咎めたか、放たれた矢のように駆け寄っていた足音が、鋭さを失う。

「よもや…凛殿か?」

直後、雷鳴が大地を激しく揺さぶった。

腹の底に響くそれが過ぎ去ったとき、征司は闇に慣れた私の目に映る距離に現れる。

姿が見えて、ホッとした。同時に、焦燥に駆り立てられるまま身を乗り出す。

「征司様、お聞きしたいのですが、この近くで、十二・三の男の子がいませんでしたか?」


「…いたとしたなら、とうに雷に焼かれ、死んでおるな」

ギョッと見上げた私の目に、見下ろしてくる征司の顔が映る。

その表情が、幽霊でも見るような様相を呈していて、私はさらに驚いた。

「…征司様?」

「そなたは、死んだと思っていた」

一瞬、何を言われたか分からなかった。

理解するなり、愕然と目を見張る。

「私は、生きています」


「分かっておる。だが、つい先ほど、八代によって、あの、黒い霧の中に落とされたそうではないか」

つい、先ほど?

私は化かされた気分で、実直な青年を見上げた。


あの日からもう、数日経ったではないか。


「どうやって抜け出して…、いや、それは、今はいい。無事でよかった」

「誰かいるの、征司」

おっとりと背後から聞こえた声に、私は目を丸くして振り向いた。

「青柳伯」

「え、凛ちゃんじゃない。無事だったんだ」

のんびり微笑む彼に、戸惑う。


今まで同じ場所に居合わせたところを見たことがなかったせいか、二人が揃うと、奇妙に落ち着かない。


迫力があるというより、不吉なことが起こったような。


「なにか、あったんですか」

「うん」

青柳伯が、苦笑した。

「史郎がキレちゃった」


頭上を指差す。

見上げた私は、思わず口元を押さえた。



周囲の木々の天辺を掠める位置で、闇色の蛇体がうねっている。



つい先ほどまではなかったはずだ。

黒い鱗は雷に燦然と輝き、固い皮に覆われた腹部は、呼吸しているのだろう、浅く起伏を繰り返していた。

どんな大木の幹よりなお太い巨体が、端から端まで見えないほど長く続いている。

「…いったい…、」


「これが、史郎の本性だよ」


青柳伯の言葉に、私は思い出した。

穂鷹公は、龍。


ああ、なんて。

遠い。


違いを悟っていても、このときほども、史郎に手が届かない無力さを味わったことはなかった。

「どう、すれば」

「ん?」

「どうすれば、声が、届きますか」

喘いだ私に、青柳伯と征司は、顔を見合わせる。

どこか、安堵した表情だと思えたのは気のせいだっただろうか。

「よかったよ、史郎を怖がらないでいてくれて」

「怖がるなんてことは、」

「ないことは、ない。人外と共存しつつ、人間は異端に容赦ないからな」

きっぱり否定した征司に、私は口を噤む。

青柳伯が、軽く征司の頭を叩いた。

「何をする」

「このおバカ。凛ちゃんも人間なのよ」

あ、と目を見張った後、征司は、すまぬ、と謝罪する。


青柳伯は微笑んだ。

「凛ちゃんが苦しむことなんて、なにもないんだよ。すぐ、史郎のところへ連れていってあげるからね」

青柳伯は、羽織の内に、私を招き入れた。


ごく自然な所作に、拒絶もできず、引き寄せられるがままの私の頭上で、青柳伯が征司を振り向く。

「じゃ、僕は行くよ。征司は悪いけど、周り、抑えてて」

「承知」

私の肩を片手で抱き、青柳伯は空いている腕を伸ばした。

雨の幕を掴むように。とたん。



その腕を中心に、周りの光景が渦を巻く。水面が、波紋を描くように。



空気がねじれ、ひしゃげる感覚に、見ていると頭が痛くなって、思わず目を閉じた。

耳元に、青柳伯の声が、近く遠くに揺らぎながら届く。

「ちょっと面倒なことになっちゃってるんだ。史郎のヤツ、正気なくしてる状態なんだけど、そこに八代が史郎の反対勢力集め始めてるわ、人間どもまでが龍に化身した穂鷹公討伐とか騒いでるわ、化身した史郎に引き寄せられた雑魚どもが、空から地中から押し寄せてるわで大変なのよ」

「討伐っ?そんな…っ。まさか、結水の方たちが?」

「そう、跡取りの二人がね。競って、山を登ろうとしてる。足止めしてるけど」


と言うことは、八代が波多野氏から望まれた絵図とは、違う展開になっているというわけだ。

いい気味だと思うより、悠斗への心配が勝った。

そして、それ以上に。

私は心沈んだまま尋ねる。

「史郎様が、どうしてそんなことに?」

「凛ちゃんがそれを言うの?本当に分からない?」


分からない。


史郎は確かに短気だが、どんな場合も、一点、静謐な正気がある。

激情に呑まれることはない。


頷いた私に、青柳伯は苦笑した。

困ったね、と。

「お…っと、これ以上進むのは難しいかな」

青柳伯の、にわかに緊迫感が増した声に私はおそるおそる目を開いた。

直後、先ほどと周囲の光景が変わっていることに面食らったが、すぐさまそれは、別の驚きに取って代わる。


木々の間に、八代の横顔が見えた。

かなり離れた場所にいるが、間違いない。

一息に、全身が警戒態勢に入る。気付いた青柳伯が意外そうに言った。

「凛ちゃんでも、誰かを嫌ったりとかするんだね」

「あの人は、史郎様の敵ですから」

明瞭に言い切った私に、青柳伯は目を瞬かせる。

「それも意外。白黒はっきりつけるんだなあ…うん、史郎ってば、ちゃんと想われてるじゃん」

満足そうに言って、青柳伯は目の上に片手で庇を作り、八代とその周りにいる者たちを見遣った。

八代たちが私たちに気付いた様子はない。

「この先に行けなければ、史郎様とは話せないのですか?」

「うん、まあ。史郎のヤツが、なけなしだけどまだ残ってる正気で、結界張ってさ、自分が飛び出すことも、相手が突っ込んでこれないようにもしてるわけ。今、穂鷹山を離れてみれば、山に龍が巻きついてるみたいに見えるだろうね。ただし、天候にまで及ぶ影響までは防ぎきれなかったみたいだけど」


「なら、この雨と雷は、史郎様が呼んだのですか」

私は思わず空を見上げた。

とたん、刃物めいた光が空を裂く。

「そう。…でもこうなると、どうしようかなぁ」


「あの」

考え込む青柳伯に、私は懐から笛を出して見せた。

「笛の音なら、史郎様に届くでしょうか」

「…うっわ、それ霊笛だよね」

どう思ったのか、青柳伯は目を見張る。

「名品だよ…なになに、史郎からもらったの?」


「あ、いえ。別の方のもので…預かりものです」

ふ、と私は木々の暗がりに視線を投げた。

月丸は、無事だろうか。

だが、とりあえず、今優先されるのは。

「どう、でしょうか」


「うん、いいと思う」

「…笛を鳴らせば、彼らに気付かれると思いますが、よろしいですか?」

「構わないよ。史郎が正気づくまで、保ってみせる」

八代たちを横目にした私に、青柳伯は何の気負いもなく言い放った。

その一言で、私は無理に不安と後ろめたさを取り除く。

青柳伯一人に、危険を背負わせる罪悪感から、目を背けた。


今は、集中しよう。

私は、笛に唇を寄せる。


史郎を、想った。


音が溢れ、零れ落ちる。

水が土にしみるように、深く清く、大気にしみていく。

とたん、ぷつん、と笛の音以外の一切の音が、私の意識から消えた。

雑念すべてを取り払い、笛の音だけに意識を凝らし、史郎に届け、と一心に奏でる。


取り乱すような、何が、彼にあったというのか。


問いかけ、元に戻ってほしいと祈る意思ばかりでなく、史郎の声を聞こうと耳を澄ませ、慰撫する。

どうか、どうか。

ここに、…戻ってきて。

刹那。






満月色の双眸が、痛みすら伴って、私を射抜いた。






目で見たわけではない。

感じた。

龍の、目。


顔面に突風が吹きつけたような感覚に、整然と動いていた私の指が乱れ、我に返って音が止まる。

ドク、ドク、と病のように激しく踊り始めた心臓を、服の上からぎゅうと押さえた私の目に、突如、飛来する刃の切っ先が映った。

咄嗟に腕を振り上げる。

短刀は運良く袖に絡んで地面に叩き落された。

「凛ちゃん!」


さっと血の気が下がった私の耳に、案じる青柳伯の声が遠くから届く。

逃げなければ。

でも、どこへ。

見渡せば、人外の遺体が、地面に点々と転がっている。

それを踏みつけ、複数の影が私に迫ってきた。


何か、武器になるものを。

切羽詰った私の視界を、刹那、何かが覆った。






「テメェら」

聞こえたのは、震えるほど懐かしい声だ。


「人間の、しかも女に、こんなトコ見せんじゃねえよ」






史郎。

私が確信すると同時に、青柳伯の声がおっとり響く。

「ようやくお目覚め?史郎、ちょっと人騒がせすぎるよ」

「アァ?勝手に騒いどいて、俺のせいにすんな」

私は、息もできないほど強く抱きすくめられ、顔を胸に押し付けられているから、名も呼べない。

もどかしくて身動げば、


「おとなしくしてろ」


耳元で、命じる声。

その向こうで、泥土が大量に撒き散らされるのと似た音。

それが止むなり、鼻先を掠めたのは、鉄錆のにおいだ。

血。


何が起こっている。


震えそうになるのを堪え、私は唇を噛み締めた。

史郎は周囲の有様を、私に見せたがっていない。

それは、彼のやさしさだ。

ならば、逆らう気も起きない。

けれど。


「…なんなの?その女、なんで生きてるわけ」


その声には、反射で顔を上げた。八代。


とたん、目に映った光景に、膝が砕けそうになる。

辺り一帯、血の海だった。

刻まれた数多の四肢が転がり、臓腑が木の枝に絡まって、曇天を見上げた死者の顔が雨に洗われている。


その合間、幽鬼のように、八代が立っていた。


倒れるのも縋るのも、かろうじで堪え、私はぐっと八代を睨み据える。

私の肩を抱いていた史郎の腕が緩んだ。

その安全な場所から、するりと抜け出し、私は史郎を庇うように立ち、八代を睨む。


「もう、やめませんか。傷つけあったって、何も生まれない」


言った言葉は、我ながらひどく軽かった。

正論過ぎるがゆえに、上滑りしている。

どう言えば、止められるのか。八代のことは気に入らないが、史郎が関わる以上、退いてほしかった。


たとえ敵対していても、八代が傷つけば、史郎も傷つく気がしたのだ。


身近な存在だったからこそ、憎み合わずにいられなかった、そんな雰囲気が、二人にはあるから。

「かなしく、なるだけです」


「アンタさ」

八代は穏やかに笑った。

彼の、棘がない表情を見たのは、これがはじめてだったけれど。






「史郎を殺されても同じことが言えるの?」






たちまち、私の中から怒り以外の感情が失せた。

ほんの、一瞬だ。

しかし八代は見透かした。

「だよね?許せないよね?だったら、おれが史郎を許せない理由も分かってよ」

なのに八代の顔には、これまでのような毒がない。


子供が手放しで泣いてるような顔をしていた。


「史郎は、先代穂鷹公を殺したんだ。…許せるわけ、ないでしょ」

私は目を見張る。

人外が、地位を後継すると言うことは、先代の死と同じ意味だ、と月丸が言った言葉を思い出したのだ。

だから、史郎が殺した、と言ったところで、実際手にかけたわけではないだろう。


そしてそれは、人外が繰り返してきたことで、何も史郎だけの罪ではないのだ。

それが理由で史郎を恨むのなら、そんな仕組みの世界こそを呪うのが正しいだろう。

おそらく、八代は分かっている。

自身の感情、その大部分は八つ当たりに過ぎないと。

それでも。


「その通りだ。恨め。憎め」


八代の躊躇を蹴飛ばすように、史郎が私の前に出た。






「俺も同じだぜ、八代。お前とこの世で会うのは、もう終いにしてぇんだ」






史郎は振り向かない。

代わりに、黙っていろ、と無言の重圧をその背から感じ取れた。

口から飛び出すのは、お互いの否定ばかり。

それでも、二人は認め合っている気がした。


私は、縛されたように、史郎の背中から目が離せない。

その視界を、突如後ろから覆われた。

ギョッとする耳元で、青柳伯の、声。

「見たら、ダメだよ。…戻れなくなる」

どこに、と問う間もなく、ごとん、と鈍い音がした。私は、


「ごめんなさい」


謝罪と同時に、青柳伯の手を引き剥がす。

私とて、同じ場所に立ち合わせたのだ。

一人だけ目を逸らすのは卑怯だと思った。


前を見据えた目に、映ったのは。

ゆっくりと、首のない八代の身体が倒れる光景だ。

血は一滴もこぼれない。

足元に転がったその頭部からも。


私と目が合うなり、八代の顔が、ニィ、と笑った。


刹那、闇に溶けるように灰と化す。

「見ちゃったねぇ」

「何やってやがる、青柳伯」

いつものように、尊大だが、きわめてしずかな史郎の声に、青柳伯は苦笑した。

「勘弁してよ。…分かってるからさ」


やさしいはずの青柳伯の声に、私はやおら不安になった。

危機感ではない。


いきなり仲間はずれにされたような疎外感、妙な孤独を感じて、居たたまれなくなった。

直後、

「ごめんね。ありがとう。…さようなら」

青柳伯の声と共に、目の前に見えていたはずの史郎の背が、瞬く間に霧で包まれたように薄まり、ボヤけた。


咄嗟に、手を伸ばしたとき、

「…お前は、凛?」

面食らった声が、耳に届く。

瞬きすれば、私はさっきまでとはまったく違った木立の合間から、馬上、鎧で身を固めた男たちを目に映していた。

その中の、一人。

一際うつくしい馬に乗った青年が、馬首を返して近付いてくる。

やさしげな顔立ちには、見覚えがあった。

私は目を丸くする。






「悠斗、様?」


「どうして穂鷹山にいる?危険だと分かっていただろう」

「…だが、おい。穂鷹公…龍が消えてるぜ?」

その場で最も、気性が荒そうだが、剽悍な馬の手綱を握る青年が、はるかに穂鷹山を見上げながら、しずかに言った。

私も悠斗も、周囲の者も、はっと頭上を見遣る。

あれほど近かった雷が遠ざかり、雨も止み始めていた。


「…お鎮まり、あそばしたか」






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