第四章(1)
ぽつ。
鼻先に弾けた感触に、私は跳ね起きた。
顔を上げれば、小雨が降っている。
いったいどれくらい、気を失っていたのだろうか。
月丸は、どこに。
急斜面の崖の底から、私は空を見上げた。
気絶する直前、はっきり目に映ったはずの群青が、今やすっかり曇天に覆われている。
時に雷が、雲を螺鈿に彩った。
あの時見えた、闇の焔は、湧きあがる雲を錯覚しただけだろうか?
暗がりの中、近くを探れば、石とは違う固い感触が掌に当たった。
笛だ。
私でも鳴らせた霊笛。
誰も奪いはしないのに、慌てて取り上げ、隠すように胸元へ押し込む。
私のものではない、預かりものだ。
なくすわけにいかない。
早くここから、上がらなければ。
だが、どうやれば抜け出せるのか。
まずは、歩き出さねばはじまらない。
目前の闇を睨み据え、私は手探りで進み始めた。
身体を打つ雨が体温を奪っているはずだが、そんなことは気にならないほど、意識が高揚している。
早く、早く月丸を見つけなければ。
ところが、大分進んだところで、前へ進む足の動きが鈍った。
―――――笛を吹けばいいのではないか?
先刻のように、月丸を思って。
そうすれば、月丸の力になれる。
そして月丸が、私を見つけてくれるだろう。
進むか、笛を吹くか。
戸惑い、胸元を押さえたとき、稲光が辺りを鞭打つように走った。
そのとき。
「誰だ!」
雨を縫って響いた誰何の声に、私は身構える。だが、
「征司様…?」
その、張りがある精悍な声には、聞き覚えがあった。
私の小さな声を聞き咎めたか、放たれた矢のように駆け寄っていた足音が、鋭さを失う。
「よもや…凛殿か?」
直後、雷鳴が大地を激しく揺さぶった。
腹の底に響くそれが過ぎ去ったとき、征司は闇に慣れた私の目に映る距離に現れる。
姿が見えて、ホッとした。同時に、焦燥に駆り立てられるまま身を乗り出す。
「征司様、お聞きしたいのですが、この近くで、十二・三の男の子がいませんでしたか?」
「…いたとしたなら、とうに雷に焼かれ、死んでおるな」
ギョッと見上げた私の目に、見下ろしてくる征司の顔が映る。
その表情が、幽霊でも見るような様相を呈していて、私はさらに驚いた。
「…征司様?」
「そなたは、死んだと思っていた」
一瞬、何を言われたか分からなかった。
理解するなり、愕然と目を見張る。
「私は、生きています」
「分かっておる。だが、つい先ほど、八代によって、あの、黒い霧の中に落とされたそうではないか」
つい、先ほど?
私は化かされた気分で、実直な青年を見上げた。
あの日からもう、数日経ったではないか。
「どうやって抜け出して…、いや、それは、今はいい。無事でよかった」
「誰かいるの、征司」
おっとりと背後から聞こえた声に、私は目を丸くして振り向いた。
「青柳伯」
「え、凛ちゃんじゃない。無事だったんだ」
のんびり微笑む彼に、戸惑う。
今まで同じ場所に居合わせたところを見たことがなかったせいか、二人が揃うと、奇妙に落ち着かない。
迫力があるというより、不吉なことが起こったような。
「なにか、あったんですか」
「うん」
青柳伯が、苦笑した。
「史郎がキレちゃった」
頭上を指差す。
見上げた私は、思わず口元を押さえた。
周囲の木々の天辺を掠める位置で、闇色の蛇体がうねっている。
つい先ほどまではなかったはずだ。
黒い鱗は雷に燦然と輝き、固い皮に覆われた腹部は、呼吸しているのだろう、浅く起伏を繰り返していた。
どんな大木の幹よりなお太い巨体が、端から端まで見えないほど長く続いている。
「…いったい…、」
「これが、史郎の本性だよ」
青柳伯の言葉に、私は思い出した。
穂鷹公は、龍。
ああ、なんて。
遠い。
違いを悟っていても、このときほども、史郎に手が届かない無力さを味わったことはなかった。
「どう、すれば」
「ん?」
「どうすれば、声が、届きますか」
喘いだ私に、青柳伯と征司は、顔を見合わせる。
どこか、安堵した表情だと思えたのは気のせいだっただろうか。
「よかったよ、史郎を怖がらないでいてくれて」
「怖がるなんてことは、」
「ないことは、ない。人外と共存しつつ、人間は異端に容赦ないからな」
きっぱり否定した征司に、私は口を噤む。
青柳伯が、軽く征司の頭を叩いた。
「何をする」
「このおバカ。凛ちゃんも人間なのよ」
あ、と目を見張った後、征司は、すまぬ、と謝罪する。
青柳伯は微笑んだ。
「凛ちゃんが苦しむことなんて、なにもないんだよ。すぐ、史郎のところへ連れていってあげるからね」
青柳伯は、羽織の内に、私を招き入れた。
ごく自然な所作に、拒絶もできず、引き寄せられるがままの私の頭上で、青柳伯が征司を振り向く。
「じゃ、僕は行くよ。征司は悪いけど、周り、抑えてて」
「承知」
私の肩を片手で抱き、青柳伯は空いている腕を伸ばした。
雨の幕を掴むように。とたん。
その腕を中心に、周りの光景が渦を巻く。水面が、波紋を描くように。
空気がねじれ、ひしゃげる感覚に、見ていると頭が痛くなって、思わず目を閉じた。
耳元に、青柳伯の声が、近く遠くに揺らぎながら届く。
「ちょっと面倒なことになっちゃってるんだ。史郎のヤツ、正気なくしてる状態なんだけど、そこに八代が史郎の反対勢力集め始めてるわ、人間どもまでが龍に化身した穂鷹公討伐とか騒いでるわ、化身した史郎に引き寄せられた雑魚どもが、空から地中から押し寄せてるわで大変なのよ」
「討伐っ?そんな…っ。まさか、結水の方たちが?」
「そう、跡取りの二人がね。競って、山を登ろうとしてる。足止めしてるけど」
と言うことは、八代が波多野氏から望まれた絵図とは、違う展開になっているというわけだ。
いい気味だと思うより、悠斗への心配が勝った。
そして、それ以上に。
私は心沈んだまま尋ねる。
「史郎様が、どうしてそんなことに?」
「凛ちゃんがそれを言うの?本当に分からない?」
分からない。
史郎は確かに短気だが、どんな場合も、一点、静謐な正気がある。
激情に呑まれることはない。
頷いた私に、青柳伯は苦笑した。
困ったね、と。
「お…っと、これ以上進むのは難しいかな」
青柳伯の、にわかに緊迫感が増した声に私はおそるおそる目を開いた。
直後、先ほどと周囲の光景が変わっていることに面食らったが、すぐさまそれは、別の驚きに取って代わる。
木々の間に、八代の横顔が見えた。
かなり離れた場所にいるが、間違いない。
一息に、全身が警戒態勢に入る。気付いた青柳伯が意外そうに言った。
「凛ちゃんでも、誰かを嫌ったりとかするんだね」
「あの人は、史郎様の敵ですから」
明瞭に言い切った私に、青柳伯は目を瞬かせる。
「それも意外。白黒はっきりつけるんだなあ…うん、史郎ってば、ちゃんと想われてるじゃん」
満足そうに言って、青柳伯は目の上に片手で庇を作り、八代とその周りにいる者たちを見遣った。
八代たちが私たちに気付いた様子はない。
「この先に行けなければ、史郎様とは話せないのですか?」
「うん、まあ。史郎のヤツが、なけなしだけどまだ残ってる正気で、結界張ってさ、自分が飛び出すことも、相手が突っ込んでこれないようにもしてるわけ。今、穂鷹山を離れてみれば、山に龍が巻きついてるみたいに見えるだろうね。ただし、天候にまで及ぶ影響までは防ぎきれなかったみたいだけど」
「なら、この雨と雷は、史郎様が呼んだのですか」
私は思わず空を見上げた。
とたん、刃物めいた光が空を裂く。
「そう。…でもこうなると、どうしようかなぁ」
「あの」
考え込む青柳伯に、私は懐から笛を出して見せた。
「笛の音なら、史郎様に届くでしょうか」
「…うっわ、それ霊笛だよね」
どう思ったのか、青柳伯は目を見張る。
「名品だよ…なになに、史郎からもらったの?」
「あ、いえ。別の方のもので…預かりものです」
ふ、と私は木々の暗がりに視線を投げた。
月丸は、無事だろうか。
だが、とりあえず、今優先されるのは。
「どう、でしょうか」
「うん、いいと思う」
「…笛を鳴らせば、彼らに気付かれると思いますが、よろしいですか?」
「構わないよ。史郎が正気づくまで、保ってみせる」
八代たちを横目にした私に、青柳伯は何の気負いもなく言い放った。
その一言で、私は無理に不安と後ろめたさを取り除く。
青柳伯一人に、危険を背負わせる罪悪感から、目を背けた。
今は、集中しよう。
私は、笛に唇を寄せる。
史郎を、想った。
音が溢れ、零れ落ちる。
水が土にしみるように、深く清く、大気にしみていく。
とたん、ぷつん、と笛の音以外の一切の音が、私の意識から消えた。
雑念すべてを取り払い、笛の音だけに意識を凝らし、史郎に届け、と一心に奏でる。
取り乱すような、何が、彼にあったというのか。
問いかけ、元に戻ってほしいと祈る意思ばかりでなく、史郎の声を聞こうと耳を澄ませ、慰撫する。
どうか、どうか。
ここに、…戻ってきて。
刹那。
満月色の双眸が、痛みすら伴って、私を射抜いた。
目で見たわけではない。
感じた。
龍の、目。
顔面に突風が吹きつけたような感覚に、整然と動いていた私の指が乱れ、我に返って音が止まる。
ドク、ドク、と病のように激しく踊り始めた心臓を、服の上からぎゅうと押さえた私の目に、突如、飛来する刃の切っ先が映った。
咄嗟に腕を振り上げる。
短刀は運良く袖に絡んで地面に叩き落された。
「凛ちゃん!」
さっと血の気が下がった私の耳に、案じる青柳伯の声が遠くから届く。
逃げなければ。
でも、どこへ。
見渡せば、人外の遺体が、地面に点々と転がっている。
それを踏みつけ、複数の影が私に迫ってきた。
何か、武器になるものを。
切羽詰った私の視界を、刹那、何かが覆った。
「テメェら」
聞こえたのは、震えるほど懐かしい声だ。
「人間の、しかも女に、こんなトコ見せんじゃねえよ」
史郎。
私が確信すると同時に、青柳伯の声がおっとり響く。
「ようやくお目覚め?史郎、ちょっと人騒がせすぎるよ」
「アァ?勝手に騒いどいて、俺のせいにすんな」
私は、息もできないほど強く抱きすくめられ、顔を胸に押し付けられているから、名も呼べない。
もどかしくて身動げば、
「おとなしくしてろ」
耳元で、命じる声。
その向こうで、泥土が大量に撒き散らされるのと似た音。
それが止むなり、鼻先を掠めたのは、鉄錆のにおいだ。
血。
何が起こっている。
震えそうになるのを堪え、私は唇を噛み締めた。
史郎は周囲の有様を、私に見せたがっていない。
それは、彼のやさしさだ。
ならば、逆らう気も起きない。
けれど。
「…なんなの?その女、なんで生きてるわけ」
その声には、反射で顔を上げた。八代。
とたん、目に映った光景に、膝が砕けそうになる。
辺り一帯、血の海だった。
刻まれた数多の四肢が転がり、臓腑が木の枝に絡まって、曇天を見上げた死者の顔が雨に洗われている。
その合間、幽鬼のように、八代が立っていた。
倒れるのも縋るのも、かろうじで堪え、私はぐっと八代を睨み据える。
私の肩を抱いていた史郎の腕が緩んだ。
その安全な場所から、するりと抜け出し、私は史郎を庇うように立ち、八代を睨む。
「もう、やめませんか。傷つけあったって、何も生まれない」
言った言葉は、我ながらひどく軽かった。
正論過ぎるがゆえに、上滑りしている。
どう言えば、止められるのか。八代のことは気に入らないが、史郎が関わる以上、退いてほしかった。
たとえ敵対していても、八代が傷つけば、史郎も傷つく気がしたのだ。
身近な存在だったからこそ、憎み合わずにいられなかった、そんな雰囲気が、二人にはあるから。
「かなしく、なるだけです」
「アンタさ」
八代は穏やかに笑った。
彼の、棘がない表情を見たのは、これがはじめてだったけれど。
「史郎を殺されても同じことが言えるの?」
たちまち、私の中から怒り以外の感情が失せた。
ほんの、一瞬だ。
しかし八代は見透かした。
「だよね?許せないよね?だったら、おれが史郎を許せない理由も分かってよ」
なのに八代の顔には、これまでのような毒がない。
子供が手放しで泣いてるような顔をしていた。
「史郎は、先代穂鷹公を殺したんだ。…許せるわけ、ないでしょ」
私は目を見張る。
人外が、地位を後継すると言うことは、先代の死と同じ意味だ、と月丸が言った言葉を思い出したのだ。
だから、史郎が殺した、と言ったところで、実際手にかけたわけではないだろう。
そしてそれは、人外が繰り返してきたことで、何も史郎だけの罪ではないのだ。
それが理由で史郎を恨むのなら、そんな仕組みの世界こそを呪うのが正しいだろう。
おそらく、八代は分かっている。
自身の感情、その大部分は八つ当たりに過ぎないと。
それでも。
「その通りだ。恨め。憎め」
八代の躊躇を蹴飛ばすように、史郎が私の前に出た。
「俺も同じだぜ、八代。お前とこの世で会うのは、もう終いにしてぇんだ」
史郎は振り向かない。
代わりに、黙っていろ、と無言の重圧をその背から感じ取れた。
口から飛び出すのは、お互いの否定ばかり。
それでも、二人は認め合っている気がした。
私は、縛されたように、史郎の背中から目が離せない。
その視界を、突如後ろから覆われた。
ギョッとする耳元で、青柳伯の、声。
「見たら、ダメだよ。…戻れなくなる」
どこに、と問う間もなく、ごとん、と鈍い音がした。私は、
「ごめんなさい」
謝罪と同時に、青柳伯の手を引き剥がす。
私とて、同じ場所に立ち合わせたのだ。
一人だけ目を逸らすのは卑怯だと思った。
前を見据えた目に、映ったのは。
ゆっくりと、首のない八代の身体が倒れる光景だ。
血は一滴もこぼれない。
足元に転がったその頭部からも。
私と目が合うなり、八代の顔が、ニィ、と笑った。
刹那、闇に溶けるように灰と化す。
「見ちゃったねぇ」
「何やってやがる、青柳伯」
いつものように、尊大だが、きわめてしずかな史郎の声に、青柳伯は苦笑した。
「勘弁してよ。…分かってるからさ」
やさしいはずの青柳伯の声に、私はやおら不安になった。
危機感ではない。
いきなり仲間はずれにされたような疎外感、妙な孤独を感じて、居たたまれなくなった。
直後、
「ごめんね。ありがとう。…さようなら」
青柳伯の声と共に、目の前に見えていたはずの史郎の背が、瞬く間に霧で包まれたように薄まり、ボヤけた。
咄嗟に、手を伸ばしたとき、
「…お前は、凛?」
面食らった声が、耳に届く。
瞬きすれば、私はさっきまでとはまったく違った木立の合間から、馬上、鎧で身を固めた男たちを目に映していた。
その中の、一人。
一際うつくしい馬に乗った青年が、馬首を返して近付いてくる。
やさしげな顔立ちには、見覚えがあった。
私は目を丸くする。
「悠斗、様?」
「どうして穂鷹山にいる?危険だと分かっていただろう」
「…だが、おい。穂鷹公…龍が消えてるぜ?」
その場で最も、気性が荒そうだが、剽悍な馬の手綱を握る青年が、はるかに穂鷹山を見上げながら、しずかに言った。
私も悠斗も、周囲の者も、はっと頭上を見遣る。
あれほど近かった雷が遠ざかり、雨も止み始めていた。
「…お鎮まり、あそばしたか」