第三章(3)
そんな、穏やかな日が数日過ぎた、ある日。
私は、よりによって月丸を引っ叩いてしまった。
ほんの、軽く、だが。
月丸は、目を丸くして、私を見上げた。
私も驚いた。
きっかけはなんだったか。
そう、月丸が貴也に突っかかったのだ。
どうやら、笛の練習がうまく行っていないらしい。
笛自体が、上質だが気難しく、ひとつでも間違えば、音すら出せないそうだから、鬱憤もたまるだろう。
いつものことなのか、貴也はやさしくいなしていたが、挙句、
「実の親にも疎まれた俺だ、いなくなったほうがせいせいするんだろっ!?」
と月丸が言ったとき、ひどく傷ついた顔になった。とたん。
私は、手を振り上げていたというわけだ。
時折、カッとなったら止まらない自分が恨めしい。
叩くなり、勝手な話だが、私は泣きそうになった。
ギョッと息を引いた月丸は、飛鳥みたいに身を翻して、屋敷を飛び出す。
貴也に、追いかける、と言うのもそこそこに、私はすぐさま、月丸の後を追った。
とっくに日は暮れていた。
子供が一人で外に出るなど、危険なことこの上ない。
だが、出て行く寸前、貴也が教えてくれたとおり、月丸は屋敷裏の大樹の下に蹲っていたから、そう長く捜す必要はなかった。
「…月丸様」
呼びかけても向こうを向いたままの月丸に、私は深く頭を下げる。
「申し訳、ありませんでした。私が許せないようでしたら出て行きますから、どうか、お戻りくださ、」
「違う!」
慌てたように飛びついてきた月丸に、私は目を見張った。
「凛は悪くない。ただ、…その、凛が泣きそうだったから、どうしたらいいのか分からなくて飛び出した。ごめん」
早口に言った月丸に、嫌われてはいなかったのだ、と胸を撫で下ろす。
「…よかった。なら、帰りましょう」
「ああ」
先に歩き始めた私は、月丸がついてこないことに気付いて、振り向いた。
「月丸様?」
「あのな、凛。人外の地位の相続ってのは、大概、世襲制なんだけど」
思い切ったように口を開いた月丸が、やけに真剣で、私は改まって彼に向き直る。
「後継者が土地に認められ、名を受け継げば、先代に、土地の力は流れなくなる」
どういう意味か、一瞬考えた私は、あ、と目を瞬かせた。
月丸は頷く。
「つまり、後継者が現れたら、先代は死ぬ。だから、俺は跡を継ぎたくない。父上に仕え、盛り立てていくって言うなら、ともかく。でも」
手の中で弄っていた霊笛を、月丸は指の上で、くるりと回した。
「父上を死なせたくない眷族の連中が、俺を煙たがってて、それを黙らせるには、俺が跡を継ぐしかないって、言うんだ。父上が。…本末転倒だよなぁ」
自嘲気味に呟き、霊笛を、じっと見下ろす。
「俺みたいなガキ、父上の跡取りには不足すぎる」
「月丸様は、貴也様の、人を見る目をお疑いですか?」
心外で、私は目を丸くした。
月丸は弾かれたように顔を上げる。
だが、何かを言おうとして、結局何も言わず、俯いた。
私は言葉を続ける。
「貴也様はいい加減ではありません、どちらかと言えば、生真面目な方です。そういった方が、他者を従える立場である自分の跡目を、愛情や贔屓だけで、決めるものでしょうか」
そんなはずがない。
私は確信している。
共に過ごしたのは短い時間だが、言い切れた。
夜風が、沈黙を撫でていく。
月光の中、月丸はしずかに顔を上げた。
これまでの、幼い表情ではなく、決意を秘め、おとなびた顔を。
「そう、だった。莫迦だな、俺は」
ホッとして、月丸の手を取ろうとしたとき。
思わず、私は動きを止めた。
月丸の真っ直ぐな目が、息を呑むほど清冽で、刹那、心まで切り込まれる。
魅入られ、一時呼吸すら忘れた私の耳に、月丸の声が届いた。
「俺、凛が好きだ」
言葉が、身体の奥の、一番柔らかいところまで落ちる。
とたん、それは内側から私を引き裂いた。
一時、言葉をなくして、私は震える。
答えは、分かりきっていたから。
知っていたのに。子供の中にある、私と同じ孤独と絶望を。
飢えるほどに居場所を求める疎外感を。
それでも私は、
「お許しください」
拒絶する以外、思いつかなかった。
真っ向から毅然と、満月色の双眸を見つめる。
「私には、好いた方がおります。許されるなら、その方のそばにいたい」
言うなり、身体の奥から噴き上がったものに、心が攫われそうになった。
かなわないと分かっているのに、膨れ上がった衝動に、泣き喚きたくなる。
喉が、腫れたように痛んだ。
この衝動が受け止められることはないのだ。永遠に。
それでいい。そのつもりだ。重荷になる気はない。
背負うものが多すぎるあの人の肩に、これ以上何を積み上げる気もない。
――――しょうがねえなぁ…。
史郎の乱暴な語調を、このとき、耳元に聴いた気がした。
想いが決して届かない確信が、その声を、凍えるほどつめたく鼓膜に届ける。
なのに、幻の声は毒のように甘く、彼を欲する身体に響いた。
私の眼前で、月丸が俯く。
艶のある黒髪が、ばさり、と顔を覆った。
彼の喉が、小さく鳴る。
咄嗟に私は、背後の幹に自分の背を押し付けた。
その行動に、自分が怯えたことに気付く。
怯える。なぜ。
目の前にいる少年は、繊細で傷つきやすい、ごく普通の少年だ。なのに。
「…く、く、く」
ふと見えた、月丸の口元が、弧を描いていた。彼は、笑っている。
「くは、は…っ、はははは!」
弾かれたように天上を見上げ、顎を仰け反らせて、月丸は哄笑した。
「はははははははははっ!」
喉が破裂するようなそれに、私は、総毛立つ。
自身の身体を抱きしめた。
彼の孤独が棘となって、私の全身を貫く。
私が月丸の手を取らなければ、ここまで深い孤独が生まれることはなかった。
こうして突き放すくらいなら、最初から手を取らなければよかったのだ。
私は痛みにじっと耐えた。
月丸に、傷を与えた痛みに。
息が苦しい。
泣きそうになった。
寸前、強く自制する。
自制、したのに。
思う端から、目元が燃えるように熱くなった。
あっという間に、それは全身に伝染していく。
するすると、頬を涙が濡らした。
顎から滴り、胸元に落ちる。
隠さなければと思うのに、強張りきった身体は動いてくれない。
拒絶したくせに、最後まで潔くなれない女など、放っていってくれればいいのに。
気付けば、しん、と耳に痛い沈黙が落ちていた。
月丸が口を閉ざしたのだ。
彼は、私を見ていた。
その顔は、笑んでいる。
引き攣った、笑みだ。
私は、すぐ悟った。
月丸は、笑ってなどいない。
双眸が、ぬめるような燐光を宿し、私を見ている。
ぎらぎらと、まるで憎むように。
「ひどい女だ」
視線の苛烈さに反して、声は切なく掠れていた。
「無欲なくせに。ただひとつ持っている欲が、…それか」
私は瞠目した。
無欲。私が?
そんなこと、考えたこともない。
ただ、こうまで強く、気持ちを変えられない、譲れないと思ったことははじめてだった。
月丸が、遠くを見るように目を細める。
絞り出した声を、歯ですり潰すように唸った。
「かなわないじゃないか。チクショウ…妬みで気が狂いそうだ…目の前にソイツがいたら、殺してやるのに」
「いけません、月丸様」
私は反射で身を乗り出す。
「そんなことをすれば、私はアナタを憎んでしまう。…私はどうしようもないんです。愛したら愛した分だけ、その人を害するものに愛情と同じくらいの憎悪を向けてしまう」
「言うな!!」
月丸の全身から放たれた怒声に、肌が痺れた。
竦んだ私を映した目が、罪悪感に染まる。
それを振り払うように頭を振って、月丸は背を向けた。
「聞きたく、ない」
私は唇を噛む。
迂闊さを罰して、力を込めた。
また、傷つけた。
月丸が駆け出す。
その手元から、落ちたのは、笛だ。
拾い上げ、帯に挟みながら追いかけようとした私の前に。
月丸との間を遮るように、闇より濃い、影が降った。
それは、体温を持っていて、
「…え?」
跳ね返され、尻餅をついた私が面食らった間に、覆い被さってくる。
とたん、頚骨が軋みを上げた。
首を踏み潰さんばかりの重圧がかかり、鼓膜が腫れたように痛んだ。
遠くから、月丸が私を呼ぶ声が届く。
私は、死に物狂いで、周囲の地面を手で探った。
固いものが、指先に触れる。
咄嗟に引っ掻いた爪が痛むのも構わず、掴んだそれを、がむしゃらに突き上げた。
直後。
空を割るかと思う大音声が、大気を揺らした。
怒号とも絶叫ともつかないそれを聞くと同時に、私の頬に、なまぬるい液体が散る。
腕で這うように後退しながら、顔を上げた私は、圧し掛かっていた影の全容を見た。
男だ。
その片目が、血の海になっている。
八代。
思わず呟いたが、声にはならなかった。
かわりに、みっともなく咳き込む。
手にしていた血塗れた石を、汚いものみたいに投げ捨てた。
震える膝を叱咤しながら、立ち上がろうとした私の腕を、横から、誰かが攫う。
「こっちだ、凛!」
月丸だ。
引き摺られるように立ち上がり、月丸の後に続く。
背に、地の底から這い出したような声が追いすがった。
「…許さない…、殺してやる殺してやる殺してやる殺してやるよぉっ!!!」
そのときには、私たちは山に踏み入っている。
木々の間を駆けながら、月丸が謝罪した。
「ごめん。巻き込んだ」
「いいえ」
思わぬほどしゃんと声が出たことに、私はホッとなる。
よかった、喉は潰れていない。
「蚊帳の外より、巻き込んでくれたほうが、嬉しいです。邪魔でさえ、なければ」
「…なんでっ、そういう…」
苛立った月丸に、私は思わず口を閉ざした。月丸は、大きく息を吐き、口調を変える。
「アイツ…八代は、俺を殺したいんだ。前にも何度か、一人の時にこういうことがあった。けど、悪いヤツじゃない。アイツは、父上を尊敬しているから、俺がって言うより、後継者って存在が気に入らないだけだ」
「…そんな」
それは、月丸のせいではないのに。
思ったが、言えば、また月丸を苛立たせそうで、私は黙った。
あとは言葉もなく山道を駆け上って行く。
―――――どれくらい、駆けた頃だろうか。
私の弾む息が限界まで浅くなったとき、月丸が舌打ちしながら立ち止まった。
よろけ、私は膝が崩れる。
全身で息をつく私を見下ろし、息一つ乱していない月丸はハッとして唇を噛んだ。
「ごめん。病み上がり、なのに」
さっきから、月丸は謝ってばかりだ。
謝ることなんて、ないのに。
声も出せない私は、顔を上げ、ただ微笑んだ。
また駆ける、と言うなら、ついていくだけだ。心臓が破れるまで。
月丸は苦しそうな目をして顔を引き締め、首を横に振った。
「ここから先は、禁域だ。そこに突っ込むわけにいかない。けど、迂回してれば、追いつかれる」
月丸は一度、右手の闇を真っ直ぐに指し示す。
「俺だって、八代を食い止めるくらいはできるから。その間に、凛はあっちへ逃げろ」
とたん、月丸は身を翻した。
小さな背中は、あっという間にもと来た闇の中へ消えてしまう。
同時に。
思わぬほど間近で、怒号が上がった。
びりびりと肌を打つそれに、総毛立つ。
私の全身は縮み上がったが、放って逃げることなどできない。
だからと言って、駆け戻れば、私では足手まといになることが分かりきっていた。
唇を噛む。悔しさに、身体が火を噴くようだ。
何もできないのか。
守る、と言ってくれたあの子に、私は何一つ返せないのか。
傷つけるだけ、傷つけて。
そんな、莫迦なことがあるか。
切羽詰って、よろよろと立ち上がった私の帯から、ぽと、と何かが落ちた。
見下ろした私は、そこに救いを見つける。
唇を引き締めた。
飛びつくようにそれを拾い上げる。
月丸が持っていた霊笛だ。
息を整え、忙しなく指先で笛の造りを確認する。
―――――これなら。
私は、縋るように月丸が去った方向を見遣った。
霊笛は、人外に力を与えるという。
ならば、月丸を想って吹けば。
ふけないかもしれない?
いいや、そんなことを考えてはいけない。
できる。やるんだ。
無理やり、息を整える。
心臓を宥め、心を鎮め。
笛を唇に添わせ、指を滑らせた。
刹那。
玲瓏と瑞々しい音が乾いた大地を潤わせるように響いた。
思わず、叫び出したくなる。
できた!
胸が、歓喜に震えた。
私は、霊笛を鳴らすことができたのだ。
疲れ切っているのに、踊り出したくなった。
できなかった過去の自分を、この一瞬で許す気分になれたくらい、得意になる。
史郎には、聞こえているだろうか?
村には。
頭の片隅を掠めた思考を理性で押し潰し、私は乱れかけた意識を集中する。
月丸。
今、想うべきはたった一人だ。
どうか、無事で。
どうか、彼に力を。
私に霊笛を鳴らすことができたのだ。
これが奇跡なら、その奇跡を月丸に与えてくれ。
祈り、願い、望む。
そのとき。
私の視界を、鋭い銀光が一閃した。
それが刃の切っ先と悟るより先に、危機感に、足が地を蹴る。
後退し、笛の音が乱れたそのとき。
「―――――凛!」
無事な、月丸が駆けてくるのが見えた。
蒼白な顔色に、何があったのだ、と思った、刹那。
足が滑った。
陸の端を踏み外した感覚があって、身体が宙に浮く。
瞳に映った夜空の隅から、覗き込んでくる八代の顔を見た。
その背後で、大空を覆うように、闇色の炎が噴き上がる。
それが遠くなり、見えなくなった、と思ったときには、私の意識は途切れていた。