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霊笛  作者: 野中
霊笛・第一部
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第一章(1)

目の底までしみる紅。


秋特有の澄明なひかりの中、鮮やかに降る色彩は、足元に錦の道を作っていた。

穂鷹山、その頂への道を先に進む男が、山道にそぐわない上品さで振り向く。

「休もうか、凛ちゃん」


彼と私の距離はかなり離れていた。

最初はもう少し近くだったのに。

前を見れば脚絆に包まれた二本の脚が見える。

目を合わせようと思えば、顔を上げるしかない。

勾配がそのくらいの坂が、先ほどからずっと続いている。


足を止め、私は首を振った。横に。


休憩するということは、それだけ時間を取られる。

出かけた頃はまだ薄暗く、大気は朝もやに包まれていたのに、蒼穹を支配する太陽は、もう中天にかかっていた。

私のことで、必要以上に彼の手を煩わせるわけにいかない。

「そっか、分かった」

苦笑して、男は前へ向き直る。


再び歩き出して、私は気付いた。立ち止まる前より、足が重い。よろめいて、私は目を丸くした。

すぐ立ち直せたが、息もかなり上がっている。

返事に声を出せなかったのはそのためだ。

休憩を申し出た男の真意にようやく気付き、申し訳ない気分で視線を彼の背に向けた。

彼は何も言わず、歩く速さを緩めてくれている。

小さく頭を下げ、私は歩くことに集中した。


披露困憊の私に対して、男はやたら涼やかで優雅である。

青とも銀ともつかない長髪を、さらりと風になびかせ、心地よさげに山道を行く。

それもそのはず、彼は人間ではない。






人外だ。

称号を青柳伯。


この、結水の領地を横断する青柳川の主である。






普通なら、ただの人間である私が彼と会うことは、生涯なかったろう。


人外には、人の世以上に明確な身分の序列があった。

力の強さによって、師、伯、公、王の称号がつけられる。

その上に、地名がつくのは、相手がそこを治める主ということに他ならない。

彼らに仕える眷族だ、と大概の人外が名乗りを上げることから考えれば、師、伯、公、王の称号を名乗る人外は並大抵の力の主でないことが容易に知れた。


師の呼称をつけられる者は、案外気さくに人と関わりを持つが、伯や公と呼ばれる人外が、人間と関わろうとするなど、滅多にないことだ。


先ほどまで弾んでいた息が少ししずまってきた私は、思い切って話しかけた。

「少し、よろしいですか、青柳伯」


「ん?休憩する?」

「いえ、そうでなく」


余裕がでてくると、鳥肌が立ってきた腕をさする。

山の動物か、やたら視線を感じるのだ。

不安な視線を周囲に飛ばしながら、私は気さくな人外に尋ねる。

「私を助けてくださるのは、なぜですか」


彼は振り向かず、軽やかに笑った。


右手を軽く頭上に振り上げ、舞うようにまた、身体の脇に下ろす。とたん。






怪鳥のような鳴き声が四方から大気を切り裂き、私は竦みあがった。






どすん、と地面に何かが落ちる音。足元が揺れた。

かと思えば、びちゃ、と水を叩きつけるような激しい音が鼓膜を打つ。


飛び出しそうな心臓と悲鳴を、口元を両手で塞ぐことで押さえ込んだ私は気付いた。

鳥肌がおさまっている。


先程より、沈黙の深さが増した山道で、青柳伯はおっとり言葉を放った。

「こういうこと、だよ」

「え?」


「気付いてたんでしょ。凛ちゃん目指して集まってきてた下級どもの気配に。ごめんね、今まとめて始末したから。

これで、しばらくは抑え利くよ。そろそろ史郎のところに着くし、史郎のところで結界に入れば、小物は入ってこれないから、もう大丈夫」

意味が分からない。


周囲は、一見しただけでは何も変わらなかったが。

青柳伯が、下級、と言うからには。

「山の、意思も持たない眷族たちが集まってきていたのですか?…私を目指して?」

「うん、そう」


「なぜです」


「なぜって、そりゃ」

分かってるでしょ、と言いたげに青柳伯は振り向く。

ところが、私を見るなり、目を丸くした。






「何も分かってないって顔してるけど、…本当に分かってないわけ?」






「なにを、ですか?」


「えぇ〜…。その反応は予想外だな。とっくに分かってるものと思ったけど…あ、そーか、出身は霊笛の村だっけ。史郎の結界に守られてるトコじゃん」

良し悪しだなぁ、と気まずげに顔を前へ戻す。

ひとしきり首を捻ったあと、おもむろに言った。


「あのね、凛ちゃんはすごく霊力高いの。天井知らず。僕もそばにいるだけで影響受けちゃうくらいに。何も知らないなら、やっぱり史郎のところへ行くので正解だね」






私はそばの木に正面衝突しそうになる。






寝耳に水だ。

あり得ない。


私はずっと言われてきたのだ。






この身に、霊力は一滴も宿っていないと。






私の村は、通称、霊笛の村と呼ばれる。

場所は、今登っている穂鷹山の山裾だ。


祖先は、穂鷹山の主・穂鷹公の守護と引き換えに、穂鷹山を活性化させる霊笛を毎日吹くことを約束したという。

以来、村は苦難らしい苦難に襲われることもなく、平穏な毎日を送っている。


その村でも、私は霊笛の奏者の長たる宗家に生まれた。

宗家の出身であるからには、優れた奏者になることを望まれ、物心ついたときから笛の音に囲まれて、笛を手にして過ごしてきた。






ところが、私は霊笛を鳴らすことができなかったのだ。






ただし、普通の笛ならば、鳴らすことができる。長老は言った。

霊笛が鳴らないのは、私に霊力がないせいだろう、と。

人間、誰しも生まれつきに幾許かの霊力を持って生まれる。


それが、私にはない。


他ならともかく、霊笛を鳴らせないことは、霊笛の村、なにより宗家において、致命的な欠陥品であることに他ならなかった。呼吸ができないも同然だ。

即ち、最初から死んでいる。


私が産まれ、生きていることは、悪だった。


悪い子、役立たずどころか、邪魔者、と言われ続けた私にとって、有力な他家と血を交わらせる道具として嫁ぐことだけが、己の存在価値だった。

不満はない。

むしろ、役に立てるなら、望むところだった。

どんな相手に嫁ぐことになろうとも、些細なことだ。

誠心誠意、相手に仕えようと心に決めていた。




それを。

いきなり、天井知らずの霊力の持ち主だと言われても、ピンとこない。

はあ、と頷き、首を傾げる。

「しかし、私は霊笛を鳴らせないのですが」

「ああ、それはたぶん」

言いさした青柳伯は、ふと横を向き、真摯な顔になると離れた場所を指差した。

「あそこ。あそこには、近付いたらダメだからね。死ぬよ」

私はそちらを見た。

すると、真っ先に目に入ったのは、闇だ。

天上の太陽など知らぬげに、木々の間に凝った闇がある。

それは、息づくように蠢いていた。

心臓をつめたい手で鷲掴まれた心地になる。

言われるまでもなく、その場所は、死以上の不吉を連想させた。

「…はい」

私が無意識に震えると、安心させるような笑顔で青柳伯は振り向く。

「あそこはね、穂鷹の先代が亡くなった場所なんだけど、以来、あんな調子で…あ、ごめんね、大丈夫、安心して。史郎のところなら、本当、安全だから」


「…それが、これから私がお世話になる方ですか?」

「そうそう。気分屋で短気で扱いに困ると思うけど、好きに料理してやって。凛ちゃんなら、大丈夫だと思うんだよね。

似てるから。史郎の大切な人に。だから、大丈夫、ひどいことはしないよ」

「はあ」


「ほんと、大丈夫。一度了解もぎ取れば、あとはどうにでもなるんだ」

青柳伯はあっけらかんとしたものだが、私は気分が重くなっていった。

つまり、いきなり押しかけるのだ。無礼にもほどがある。

次第に項垂れる私の前で、青柳伯が身を乗り出した。


「お、到着!ここだよ、ここっ」


青柳伯は、疲労ひとつなく、身軽に駆け出す。

顔を上げると、いきなり視野が開けた。広場のような草地が広がっている。

ここまで登ってくる間、木々に囲まれていた閉塞感は意識しないが相当なもので、久しぶりに胸いっぱい息を吸えた心地になった。

それ以上に。


私は目と口を丸くして、塀越しにその邸を見遣った。

山奥に突如、塀の端が見えないほど広く、大きな邸が現れたら、誰だって驚くだろう。

穂鷹山の山頂付近に、こんな邸があるなど、聞いたこともない。


呆然と突っ立っていると、一旦邸に入った青柳伯が引き返して、早く早く、と私の手をひいて歩き出した。

「史郎―っ。来たよ、入るよ!」

玄関で草履を脱ぎ、返事も待たずに青柳伯はずかずかあがり込む。

「ささ、入って入って」


我が家のように私を促し、青柳伯は手近な部屋に入るなり、私から手を離して伸びをした。

おそるおそる後ろに続き、部屋に入れば、なんとはなしに、ほぉ、と息を吐く。


不思議だ。


この部屋ばかりでなく、邸全体が清浄で新鮮な気配で満ちている。

どこか、村の空気を思わせた。こちらの方が、格段にうつくしいが。

私の安心に気付いたのか、振り向いた青柳伯は座布団を勧めた。

「ま、とりあえず座りなよ。怖い家主が来る前に、体力少しでも回復しとかないとね」

どこまでも気楽に、彼が言うなり。






「アァン?」






不機嫌な声が、鼓膜を鞭打った。

瞬時に、全身の皮膚が痺れる。

肌の上を微細な電流が這い、ぐっと締め上げられる感覚に、私は振り向いた。


追いつめられた小動物の動きになってたろう。


最初に見えたのは、細い煙だ。煙管から、眠たげに立ち昇っている。






廊下に通じる障子に、もたれかかる影があった。






いつの間に現れたのか、着流し姿の青年が立っている。

ぎらぎらと獰猛な双眸は満月色、口元には、嘲笑寸前の皮肉な笑み。


彼は、着崩し、大きく開いた紺色の袷に手を突っ込み、もう片方の手に持った煙管で、室内の青柳伯を指した。


「なんでここにいやがる、青柳川の道化。訪問の先触れもなしによ。礼儀知らずが」


声を荒げたわけではない。

なのに私は、崩れ落ちそうになった。

低い声に、落雷が落ちたような衝撃を覚えたのだ。

眼差し一つすら、雷の重さで大気を割り砕く。

そのうえで、じわじわ毒が侵食していくように、男の凄味が空気に滲み出す。

それは、抜き身の刃物のように私に斬り付けてきた。


火のついた導火線。


それが、私の彼に対する第一印象だった。

私にできることといえば、彼が爆発しないように息を潜めることだけだ。

名前のとおり、風に揺れる柳のように手応えなくすり抜けるような青柳伯も、さすがに刺し貫かれたか、話を逸らしはしなかった。

紅の房がついた扇を、ぱらりと広げる。その影に、苦笑した口元が隠れた。


「おや、不機嫌だね。いいじゃないか、お父上の代からの付き合いなんだし」

「呑気に囲碁打つ気分じゃねえんだよ。用事があるなら、とっとと済ませな」

がりがり、頭をかいて、自身を宥めるように煙を吸う。煙管の吸い口を、乱暴に歯で噛んだ。


その音にすら竦んだ私に対して、付き合いの長さか、青柳伯は臆すどころか、笑んだ。

今度はその笑みに、私は慄く。

その青柳伯の微笑に、してやったり、という意図が透けたのは、なにも私だけじゃなかったようだ。

鎌首もたげた蛇みたいな印象の青柳伯に、胡乱な目になった青年が、煙管を口から離した瞬間。






ぐい、と青柳伯は私を引き寄せた。






いきなりのことに、たたらを踏んだ。

そのとき、はじめて私に気付いたと言った満月色の目が、私を見た。


瞳の鋭さが、忘れ難いほど鮮やかに心に刻まれる。


蛇に睨まれた蛙の気分だ。腰を抜かさなかっただけ、上等だった。

目を逸らさなかったのは、負けん気からではない。

視線を外せば、食いつかれそうな危機感があったからだ。

見張った目を、瞬きさせることもできない私の肩を背から抱いて、青柳伯が爆弾発言を投下した。






「史郎、連れてきたよ、君の花嫁さん」







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