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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション4 殺戮の地平線  世界生命終局管制機 アルファⅣ<ペイルライダー>
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S4 <サイプレス>/ある都市の終わり

「いいや……必要ない……」


『え?』


「救いなど必要としていない……」


 砲手は短く返答した。

 真昼の太陽が爛々と輝いてている。塔の頂上で対峙する二つの異形を見下ろしている。海を煮立てんとする灼熱、目を眩ませる光が無窮の天空に程近い不朽結晶製の甲冑を克明に描き出す。カード、コインの裏表と同じくそこには光と影の二色しかなくいずれが示すのも結局では現実という一要素しか無かった。覆しようのない現実だけが地平線の彼方まで山積みにされて打ち捨てられていた。

 浮かれた気分でプレゼンテーション用テンプレートを展開していたサイプレスは、予想していなかった言葉に「はい?」と首を傾げた。楕円球状の蒸気甲冑は硬直した様子で固まったままで、彼女の肉体のリアクションを全く反映しなかったが、砲手は途切れ途切れがちな声で応じた。

 光の中で佇むその機体は数千年も前に岩から削り出された悪魔の像に似ていた。


「教示も解説も……いらない……聞きたいとは思わない……ここで俺は終わりだ。それだけだ」


『え、どうしてですか? どうして、聞きたくないと? これは貴官の人生の結末に関わる話なんですよ? 貴官だけじゃなくて皆の結末に関わることです。だって、このままじゃ何にも分からねーままです。何百年もここで何のために戦い続けてたのか納得したくないんですか。そんな海底の岩場に張り付いた海藻みたいな一生で良いんですか? せめて最後に一つでも分かってから消えたい、掌の上に真理のひとかけらでも載せてから終わりたいというのが、それが、人間というものでしょう。好きだった人の最後の思いを知りたいとか、戦友の遺言を聞きたいとか、そんな願望はぐらいあるはずです。だから私はせめてその手助けをしてあげようと……』 


「お前は……確かに、何か、知っているんだろうな……。真理のひとかけらとやらを見せてくれることが出来るんだろう。何せ普通のスチーム・ヘッドじゃない……それは見れば分かる。だが、お前……お前は……、どうなんだ?」


 何事か冒涜的な物事について耳打ちするような、押し殺した低い声で砲手は言った。


「人生の終わり際に……神様なり……天使様なりが、降りてきて……何か世界の真理を教えてくれると……そんなことを期待して活動しているのか……? そんな夢みたいな奇跡を……信じているのか? 本気で信じているのか……?」


『信じているのかって……いえ、いえいえ。そういうことじゃなくて。今は私が話をしている番じゃねーですか』


「番など無い。誰の番でも無い……もう誰にも順番など回ってこない。そんなものは最初から無い。俺は、俺はこの五百年と、この結末の無意味さで……それを受け入れた……だが今、この時は、俺がお前に聞いている……どうなんだ……信じているのか……?」


 問い質すような、教え諭すようなその声に、サイプレスはたじろいだ。任務の終了を知り、消沈して、存在意義が崩壊し、あとは意味消失を待つだけだったはずの歪な兵器。急場凌ぎで拵えれたに違いない無様な破壊の集合体が、突然に姿を変じたように感じられた。

 スチーム・ヘッドというよりはガラクタに近い。第一印象では、そうだった。整合性の取れた部分はどこにもなかった。アルファモデルと言うだけで特筆すべき点のない本体と、彼自身とまるで釣り合っていない出鱈目な構造の増加腕部、規格外の重量物を無理矢理保持するための外骨格、そして戦略規模の砲撃が可能であるというだけの大規模電磁加速砲。言ってしまえば砲手は従属的な存在であった。巨大な砲の照準装置として機能する以外に何ら存在意義を持っていない憐れな不死病患者。

 そのはずだった。

 だというのに、今や無限に広がる青空を背にして、焼き付くその異形の影もまた際限なく巨大になっていくように感じられた。紛れもないこの死んだ塔の支配者あるいは守護者であった。サイプレスは理解しつつあった。目前に佇んでいる、もう立っている以外には何も出来ないそれは、紛れもなくスチーム・ヘッドだ。作戦目的を失っている。事実である。人格の摩耗と存在核の急速な消滅により、じきに動かなくなる。間違いない。数十分で、自分が誰なのかも忘れるということ。これも確実だ。


 だが、まだそうではないのだ。そこに立っている。案山子ではなく騎士の彫像として。自分の意志で息をしている。数百年を過ごし、未だ不朽の守護者として、確かに生きているのだ。信じがたい孤独の旅路を、無表情な太陽と冷たい月、そして迫り来る怪物だけを友として、身動ぎ一つせずに歩いてきた、何一つ特別な要素を持たない恐るべきスチーム・ヘッド。敗死した歴史の最後の生き残り。実態としての性質を伴わない純粋な存在としての広がり。<吊るされた十三人の男たち>と比較しても遜色の無い異常性。

 この機体は一人きりで、しかしこの海上楼閣都市の嘆きを代弁している。世界が語りかけているに等しい。

 この場において会話の主導権など最初からサイプレスには無かったのだと知れた。永久に孵ることの無い卵の中の娘は、波濤に晒された岩のように転げるしかなかった。


『何なんですか。信じる、信じないって……そんな話はしていなかったでしょう?』


「かもしれないな。だが……俺はしてるぞ……俺はお前にその話をしている。お前は……どうなんだ……何かを信じて生きてきたか……神だとか……友人、家族、恋人……何でも良い……何を信じてきた……」


 会話が成立しているのかいないのか、サイプレスには判断が出来ないが、個人的な話題となると彼女は無力だった。救世のためだけに生まれてきたサイプレスと違って、おそらくは砲手には人間としての人生がその背景に横たわっていた。それは地上から消え去ったかのように見えたし実際に物理的には最早この世界のどこにも残されてはいないのであろうが、厳然として砲手という存在の背景に聳えていた。それがレンズ越しにしか世界と相対できないサイプレスの瞳にもはっきりと映った。

 意気揚々と舌を回していたサイプレスは、その歴史の致命的な絶対性に、途端に萎縮してしまった。


『そんなの……そんなこと聞かれたって……私は……私には、この役割しかなくって……ずっと、ずっと一人で歩き続けてきて……』


「……どうなんだ……俺はお前に話をしているぞ……何を信じてる?」


『そんなこと聞かないでよ、私には関係ないでしょ、今はあなたの話を……』


「お前の話だ」


 言葉が思いつかない。何か得体の知れぬ異邦の神を讃える存在から問いかけをされている気がした。というのも彼女の長い長い活動記録において会話が可能な他者というものが持続していた期間が殆ど存在しないからだった。特に何も知りたくはないと答える人間存在に、彼女は無力だった。


「そんなに難しい話では……ないだろう。お前が教えようと……していたことよりは……難しくないはずだ……何か巨大な存在が……この世にあって……最後に答え合わせをしてくれると……?」


『……まぁ……そんなことがあれば有り難いとは思っていますけど』


「有り得ると……心から信じているか……」

 

『現実的に考えれば、その……ないことですよ、そんなの……』


「そうだろう……信じられない……真実も真理も、信じられないのなら……意味が無い。価値が無いんだ。例えばお前が何某か奇跡を起こして……何か素晴らしいものを造り出したとして……俺はそれを信じない。あり得ないと確信しているからだ」


 砲手は遮光性を備えたバイザーの中でレンズを瞬かせ、ヘルメットの中で深々と息を吐いた。


「受け入れられないし、理解しない……したくもない……分かるだろう、無意味なんだ……だから俺は何も必要としていない……だからどんな説明をしても徒労だ。お前のためにも……やめたほうがいい……」


『待って……待ってくださいよ。お前のためって何ですか……何も聞かないうちから信じられないって……徒労って……そうかもしれないですけど……無味だって……不必要だって……!』


 鎧に包まれた小さな胸の内で、高度に制御されているはずの心臓が高鳴る。

 サイプレスは不意に激昂した。


『それでも、ちょっとぐらい聞いてくれても良いんじゃないですか!? ねぇ、そうじゃねーですか!? 私と話すのがそんなに嫌ですか、私の知った真実を聞くのがそんなに億劫ですか! 確かに貴官の任務は終わりました、後はもう消えてなくなるだけでしょう! 最後ぐらいは静かに……とか思ってるかもしれないんですけど、だけど、私はこれでも貴官のことを少しは考えているんですよ!? 真相を知ってから今まで、どれだけワクワクしながら、ああこの話を聞いたらいきなり私を撃ったあの偏屈な機体は喜んでくれるんだろうって、楽しみにしてたんです! それを何ですか貴官は! 何もいらないって!? 人の心はねーんですか、人の心は! 私は正気ですよ、もうどれだけ歩いてきたか分からない、だけど良いことがあったのなら、それを教えてあげようというぐらいの思いやりはあります! これが人の心です! 貴官にそれを期待するのも無駄だって言うんですか!?』


 サイプレスは怒り狂っていた。空の青さでさえ無性に気に障った。延々と光もない海底を歩き続けてきた自分が嘲笑されている気分だった。実際には砲手は沈黙してサイプレスを見守っている。彼は何も嘲ってはいない。サイプレスとてそんなことは承知してる。何もかも理解している。お前のしてきたことは何もかも無駄だったと嘲笑しているのが、他ならぬ自分自身だと言うことも。

 いつからそんな有様になってしまったのかサイプレスにも分からない。何度も人格記録が破綻している。何回精神的な死を迎えたのかも確認しない。バックアップから復旧された回数も数えないようにしている。

 とにかく気付いた時にはそうだった。いつでも嘲笑う影が彼女に付きまとっていた。そしてそれは失われた自分の顔でニヤニヤと彼女を見下ろしているのだ。調停防疫局のラボで教育を受けていたときはこの世界全てを見下していた。行き詰まりに詰まった果ての果てだと嗤い続けた。他の<サイプレス>の惨めな境遇も愉快で仕方なかった。

 だが、ここに至って、この人類存続の可能性が潰えた末端において、嘲笑出来る存在がどこにもいない。出遭う影は誰しもが自分よりも巨大で強固だった。救世の御旗など誰も必要とせずただ静謐な面持ちで世界の終わりと対峙していた。救いを求める大衆も連れて行くための約束の地も無いと直感しながら歩き続けるなど狂気の沙汰だ。ジョークでしかあり得ない。笑い飛ばそうとしてもそれは自分のことなのだ。殺人的なジョークだ。それで死ねれば良かった。サイプレスは無敵のスチーム・ヘッドだった。世界のどこにもこの卵を割る手段が存在しない。彼女自身にすら。

 自分で自分を否定し続けなければどうにもならず、その声に抗うためには進み続けるしかない。そんな状況で赤の他人からお前には無意味だお前には価値が無い何もかも無駄だと言われれば、憤怒を煽られるのも道理だ。砲手は明らかにそんな文脈では発言しておらず、彼女の来歴など微塵も知るはずが無いのだったが、一度走り始めた回路は反応が終息するまで機能し続ける……。

 この砲手に対して語気を荒げるのは理不尽だ。サイプレスにも理性ではそれが分かっている。だが心でそう感じてしまっている。砲手は信じられるものしか信じられないと語ったがまさしくその通りだった。サイプレスの目に映る全てが自分を否定する脅威だった。サイプレスは目の前のスチーム・ヘッドが自分を否定していると信じた。


『これ以上進んでも立ち止まっても変わらない何にも意味が無い苦しみが連続して膨れあがるだけ! そんなことは分かってるんですよええ意味なんてねーでしょうよ価値なんてねーでしょうよ聞く必要性なんてどこにもねーですよ、真実なんて、真理なんて、本当のことなんて、識ったところで一つの得にもならないんですから! 愉快でならないんでしょうね、のたうち回ってあがいてる当機のような存在を蹴っ飛ばすのは!」


「……どこまでも市長とは違うな……あいつは決して怒らなかった……声ばかり似ている、嫌になる……」砲手の声は暗い。「……だがやはりお前の行いは無意味で……残酷だ……お前が無意味であることを否定したいのと同じぐらい……お前の前に立つ者も自分の行いが……無意味であることに恐怖している……お前が神様か何かだとしよう……『お前のやってきたことは全て無意味だった』などという話をしてくるのが恐ろしい……ならば、このまま眠って終わりたい……市長が私を裏切ったなど……聞きたくもない……」


『無意味なんかじゃねーんですよ! 裏切ったかもしれないけどそれは本意じゃねーんです!』サイプレスは必死だった。自分自身でも何故これほど食い下がろうとしてしまうのか理解出来ていなかったが、とにかく砲手へと教えてやらなければならないという強迫観念に襲われていた。これをやらなければ、一つでも福音を届けることが出来なければ、目に見えるゴールに辿り付かなければ、きっと何かが壊れてしまうと怯えていた。『完全架構代替世界! この言葉に聞き覚えはねーですか!?』


「……人工脳髄に……関連する技術だったか……複数の人格メディアの同時起動による……仮想現実……高精度シミュレーテッド・リアリティの構築……」


『違います! これは、単なるシミュレーション(仮想世界)とは違うんですよ。我々アルファⅢは現実に、実在する世界として、それを観測しています。搭載している数十の人格記録媒体(プシュケ・メディア)の無数の視座、無数の世界受容、現実の確信を束ね、根も葉も無い仮想現実では無く、確かにそこにあるオルタネイティブ・ワールド……可能性世界の断片、この破綻した現実の、局所的な完全な代替となり得る世界を、運営しているんです!』


「……分からないな……結局はシミュレーションだろう……」


『機械の見る夢であれば、ただのシミュレーションです。でも知っているんじゃねーですか? 不死病は、()()()()()()()()()()


 サイプレスが知る限りにおいて、不死病とはそういうものだ。

 実態は病ではない。呪いでもない。

 それは祈りだ。切なる祈りだ。祈りの果てに御国は降りる。

 醒めることのない夢が人間を作り替える。終わらない世界へ導く……。

 基底現実を、加工可能な幻想へと堕とす悪夢の鏡像体。そして真っ先に聞き届けられるのは死の恐怖の根絶だ。一度感染が拡大し始めれば止める手立てはない。祈る限り救われない。この病は滅ぼせない。この世に存在した悲しみの多くがそうであるように、何もかもが終わるまで悪化し続ける。

 サイプレスが生まれた世界もそうだった。不死病の蔓延によって滅亡に瀕していた。多くの統治機構は不死病を疫学的見地から解明しようとしたが、感染者を死に至らしめ、然るのち、不滅にして不朽の生ける屍へと変容させてしまう――そのこと以外は、ついに解明できなかった。

 多くの先進国において、撲滅されたはずの天然痘が息を吹き返した。どれほど解析してもただの天然痘であるとしか言えなかったが、既存の医療が全く通じないという点で、明らかに異常だった。医療従事者たちが際限の無い撤退戦を始めるよりも早く、次の不死病が、次の次の不死病が現れた。人類史という疫病の歴史から浮かび上がった大量死の泡、疫病どもが、一度滅ぼされ蘇ることを許された魂のように文明に舞い戻ってきた。不死病の最早古典文学の題材としてのみ認識されていた黒死病までもが蔓延した。大病院にストックされていた無数の抗生物質、無数の医療手段、無数の人工心肺は瞬く間に尽き果てて、しかも誰一人救えなかった。

 科学者たちは己らの血反吐に塗れた研究室で戦い続けた。それらのウィルス、真菌、原虫と言った病の根にあるおぞましきものが、ウィルスにとってのウィルス、真菌にとっての真菌、原虫にとっての原虫とでも言うべき何かによって、変異を起こしていることまでは突き止めたが、ついに決定的な解決には至らなかった――無毒の不死病株を千年以上保持・運用し続けていた調停防衛局を除いて。


『不死病の特性について、知らない分からない無関係ですって言い訳は聞かねーですよ。これだけの海上施設。三十何番目でしたっけ? そんなの不朽結晶関連技術の集中的研究ナシじゃ、不可能なんですから』


「なるほど……お前は過激派か……位相幾何学的に意味を集積された有機情報コード……超越言詞構造体仮説……馬鹿げた空想の……信奉者か……こんな、こんな呪わしい有様が、願いが叶った結果だと……?」


『でもそれが真実です。ご存知でしょう、でなきゃその性質を利用して世界に対してズルをするアルファモデルなんて作れねーんですから。貴官自身がアルファモデルなんですから否定することは許しませんよ』 


「何だと……?」


『そうでしょう? 貴官もアルファモデルなんです。起こした奇跡に身に覚えがあるはずです』


「そうだった……か……? すまない、俺にはもう……あまりに多くのことが……分からなくなってきている……専門的な意見は……市長から聞いてくれ……いや……市長は……どうなったんだったか……俺を騙して、裏切って……」


 バイザーに映る青空が滲み続けている。

 そのスチーム・ヘッドは散逸していく思考をかき集めて、もう誰にも記憶されていない己の名を確かめている。自分がここに立っているのを不思議がるようになるまで、残り数分だろう。残されているのは飛沫のような記憶だけ、とサイプレスは推測した。人工脳髄如きの演算能力では、これほど大規模な砲撃装備を運用できないという客観的な事実は、いずれにせよ、既に実感としては忘れてしまっているようだ。

 会話は表面上成立しているが、予想よりも遙かに速いペースで人格の崩壊が進んでいた。

 市長というのはあの管制室に閉じこもっていたTモデル不死病筐体の女だろうが、彼女への執着は極めて大きな構成要素だったらしい。彼女の存在という要素を奪われたことで、彼は終着点へと、おぞましいほどの速度で落下しつつある。

 サイプレスは冷静になりつつあった。同時に焦りと後悔を覚え始めた。いい気になって、不都合な事実まで開陳してしまう悪い癖を、また出してしまった。そのせいで彼は絶望と忘却の中で消え去ることになる。自己満足のために新しい悲しみを生み出してしまうことは避けたかった。

 さて、果たして真実を理解出来るまで後何分の猶予が彼に残されている? 自分が何のために生きてきたのかという要素は彼の人格のどこに組み込まれているのか? これまでに従事してきたのは、存在全てが消え去る最後まで深く刻みつけられた使命なのか? そうであってほしいと、サイプレスは、自分と、そして彼のために願った。


「……ああ、そうか、不死病の正体を知っていると言うことは……」朧気な声で紡ぐ。「お前は、市長と同程度に上位の機体なのだろうが……分からないな。確かに不死病はその通りの代物だ……人間の願いを叶えてしまう、だから根治が出来ない……それはそうだが……だからこそ我々は市民から遠ざけて……」元々寡黙な存在だったのだろう。だが別種の辿々しさがあった。手探りで残骸を縫い合わせるような不確かさで砲手は言葉を紡ぐ。「……やはりシミュレーション世界の運営は、無関係だろう……」


『ただのシミュレーションでは、ねーのですよ。これらの演算は、人格記録媒体を装填された人工脳髄によって行われます。人格記録媒体の見ている夢みたいなものです』


「では……スチーム・ヘッドと同じだ……。ただの夢だ。あらゆる生存の危機から解放された……不死の肉体を……奴隷化し、支配して……人のように活動させるのが……人工脳髄の機能だ……。それと、不死病は、やはり別の問題だ……」


『浅はかなことですね。不死病の構成要素、言詞環連続体が、人間と非―人間をどうやって区別しているか、そもそも見分けが付くのかどうか、考えたことがないんですか? ああ……もう覚えてねーですよね、そんなこと』時間が無いというのに。流れるように相手を罵ってしまう自分の言語感覚を呪う。『失礼しました。浅はかとかも聞き流してください。だけど残っている思考力だけでも分かるはず。肉体の無い魂と、魂の無い肉体。この二つ、貴官なら見分けが付きますか? 不死病には見分けられません。この病は、現実には人工脳髄の願いをも叶えているんですよ』


「……俺は何も叶えて貰っていない。欲しいものは何ももらえなかった」


『ご冗談でしょう。人格記録媒体に封入された魂がどれだけ強固でも、人工脳髄がどれだけ表層的な認知世界を繕おうとも、貴官のような機体がひとりぼっちで五百年もこんなところで戦い続けられるわけねーじゃないですか。貴官は市民と市長さんとやらのために戦うことを願い続けてここにいるんです』サイプレスは可笑しそうに笑った。『肉体が不死だからって、脳髄が機械だからって、何でも出来るわけないじゃねーのですよ。不死病が願いを叶えたから、貴官がそれを願ったから、貴官はここまで存在してこられた』


「……馬鹿げた空想理論だ……」


「オーバードライブをご存知ですか? 肉体に破壊的な負荷を掛けて一時的に身体能力を高める戦闘馬鹿向けの機能ですが……たまに運動速度を100倍とかにする機体いますけど、人間の知覚時間って1/18秒とかですよ? どうしたら人間が100倍に加速した世界を知覚出来るんです?』


「……補正を掛けているんだろう」


『まぁ人工脳髄が補正してくれているとしましょう。それじゃあ100倍に加速している間、思考能力を保つにはどうすればいいんです? どんな機械からそれが可能ですかね。頭にぶち込まれている人工脳髄……』サイプレスは卵の側頭部をノックした。『何をどうしたところで、人間の思考能力を100倍に加速して維持出来るほど高性能じゃねーですよね』


「……そうでは、あるが……」


『考えてみてください、思い当たる節があるはずです。市長さんはどうでしたか? ただのスチーム・ヘッドじゃねーところが沢山あったはずです。さぁ、思い出してください。市長さんのこといっぱい覚えてるんじゃねーですか? すごく拘ってますもんね』


「……ああ……」


 本来なら経由する必要の無い問いかけを敢えてぶつけ、彼の意識が散逸するのを押さえ込む。回想と思考は自我を縫い止めるのに効果的だ。十秒でも二十秒でも時間を稼げればそれで良かった。

 実際問題として、使用が可能な機体であれば、誰しもがオーバードライブの異常性には行き当たる。何故こんなことが可能なのか、と。当初は肉体を最適化して、二倍から三倍程度の機動力を一時的に発揮するという程度の内容だった。不死病の再生能力を前提とした機能であり、破壊的抗戦機動の名の通り自分自身を破壊して強化する鬼札で、然程複雑なメカニズムではないと考えられていた。

 事態を理解不能にしたのは、加速の最高倍率が更新され続けたことだ。一部の機体は平然と音速を突破するようになり、周囲は驚嘆したが、当事者たちは少なからず懊悩するようになった。というのも彼らは『目で見てから脳が認識する』までの時間よりも明らかに圧倒的に速く世界を俯瞰し、認識し、理解していたからだ。どのような物理学を当てはめても、彼らの機動能力を説明しようとすると破綻した。出力と空気抵抗の兼ね合いでまともに動けなくなるはずだと考える機体もいて、彼らは実際にそのようになったが、そこまで理論を追求しなかったスチーム・ヘッドはさらに高速化した。

 これらの性能向上も、常なる科学者には説明の付かない事態だった。神経系を光繊維状組織に置換しようが生体脳髄の組成が変わろうが骨格が不朽結晶に変じようが不可能なものは不可能なのだ。

 だから、開発元である調停防衛局が不死病の性質から逆算して人工脳髄を開発したとは誰も考えなかった。簡易な動作命令を不死病患者に実行させるだけのラジオヘッドと外観的には相似しているが、原理が異なるのだと、思いつかなった。


「……オーバードライブも……奇妙な機能だとは思っていたが……そうだ、そうだったな……となると、顔貌が美しいのも……不死病の効果か……?」


『え……』サイプレスはしばし言葉を失った。『もしかして市長さんの話をしてます?』


「あいつのことぐらいしか……覚えていないからな……」


『それは、あのぉ……何て言うか、種族的特徴っていうか……美人なのは私たちみんな共通です……』自分で言っていてサイプレスは恥ずかしくなった。『美容効果はあるんじゃねーですかね。そういう意味では不死病のせいで美人になるというのはあるかも。でもその……これ、常識離れした効果じゃないですよね? たぶん昔からそれは分かってたはずですよ、貴官も。不死病患者なら大抵肌ツヤツヤですし。他にもっと無いんですか?』


「……あいつは都市が傷むと……その場所を瞬時に察知した……センサー外の地区でも……』


『それです。そういうやつです。もうはっきりしていますね。人工脳髄が操る対象は、不死の肉体ではなく、不死をもたらす病の方なんですよ。そして複数の人工脳髄で構築された、肉も骨もある架構代替世界は、観測された平行世界として機能するわけです。そしてその平行世界から一次現実へと結果を引き寄せることが出来る……』


 サイプレスは片手を差し出して、その中に青い炎を出現させて、砲手へ見せた。

 サイプレスの蒸気甲冑には電磁場を操作する能力も火炎を作り出す機能も無い。度を超して頑丈なだけだ。

 しかし彼女の運営する完全架構代替世界、無辺の荒野にデータセンターと発電所、コンデンサーだけが無数に存在する寂寞たる大規模記憶領域には、それを防衛するための設備が存在する。一世紀前の軍隊ならばおそらくは彼女一人で殲滅可能であると無人兵器が取りそろえられていた。

 当然ながら、本来その世界には防衛兵器など必要が無い。彼女の搭載する人工脳髄を経由しなければアクセス出来ない、生命の存在が否定された世界だ。脅威と成り得るものは発生し得ない。

 荒野に立ち並ぶ破壊兵器は、どれもこれもアルファⅢ<サイプレス>が使うための武器だ。演算して、自分にとって都合の良い『一瞬』を算出し、この現実世界、即ち一次現実へと適応させて、事象を書き加える。

 煩雑な手続きと無駄な処理を重ねて、サイプレスは分かりやすい奇跡を取り出すことが出来る。

 砲手は炎をじっと見ていた。その向こう側にいるサイプレスを見ていた。言葉を発するかと思われたが何も言わなかった。遠い時代の記憶を思い出そうとして、だがレコードの読出しに失敗しているようだった。……きっと忘れ果てた過去に同じものを見たことがある。サイプレスの推測だが、この都市の管理者である<市長>なるスチーム・ヘッドも同様の機能が使えたはずだ。技術的に到達しているなら、代替世界に、不死病患者にも比較的有効なプラズマ兵器を格納しない理由が無い。

 だが砲手はついに思い出せなかったようだった。

 欠落した記憶の作る空白を確かめるようにしばらく沈黙を続けた。


「……だから……何だというのだ」砲手は眠たげな声で問うた。「ああ……不死病が人工脳髄の願いを叶える……それは分かった。常ならぬ機能を実現する……それも分かった。完全架構代替世界が……魔法のような力を持つのも……おそらく事実なのだろう……だから、だから何だというのだ?」


 砲手は己が装備している増加装甲を発見して、鬱陶しそうに見つめた。

 それから空を見た。海を見た。無限に広がる虚無の青さの果てしないことを見た。

 また己の増加装甲を見た。

 現実を忘れ始めていた。どこか不安そうな様子で目の前にいる蒸気甲冑を眺めた。

 影を見た。サイプレスを見た。口を開いた。閉じた。ああ、と得心したように呻いた。サイプレスは出し抜けに「見られた」と感じた。卵型の鎧の内側に収められた裸の娘を、砲手は間違いなく視認した。自我が揮発しつつあるスチーム・ヘッドは、時折このような超常的な挙動を見せる。

 サイプレスの自己認識では、彼女と市長は殆ど替わらない姿をしている。

 ……砲手はおそらく市長の姿を克明に思い出したことだろう。


「教えてくれ、教えてくれ、かつて俺の全てだったもの。それで何か変わるのか? 何か変えられたか? 誰かの願いが一つでも実を結んだか? お前の願いは叶ったのか? 誰かのおかげで世界は良くなったのか? そうでなければこの力が何だというのだ」


『何も』少女は応えた。『現段階では誰の願いも、世界を救えていません。それどころか悪化し続けています。大地は歪み、海は捻れ、天地は境を無くしました。人格記録を集めて帰還するという私の任務も、このままでは失敗に終わるでしょう』


「……分からないな……ならば……何の意味が……誰だお前は? 市長……市長はどこに行った……」


『意味が無いとは言わせねーです』サイプレスは応えた。『あると信じて進み続けることを誰にも否定させねーです。当機はまだ……まだ諦めていねーんですよ』


「……そう……そうか……」


 砲手は頷いた。それから周囲を見渡した。地の海を映し蒼く煌めく空を見た。空の蒼を孕んで穏やかにゆらめく海面を見た。

 それから奇妙なほど滑らかな言葉で呟いた。


「我々の都市のある土地は、いつも美しいな、市長。君の守る都市は」


『……市長はここにはいねーですよ』


「なに? ああ……そう……だった……な」男は驚いたような素振りを見せた。「声がそっくりだから、間違えてしまった。見たことの無い機体だ……誰だったか……すまない、名前を思い出せない」


『……初対面ですから』喉元をこみ上げてくる絶望感を飲み下して彼女は平静を装った。「当機はアルファⅢ<サイプレス>。あなたの大好きな市長さんの同類です』


「大好きな市長とは何だ? あいつとは付き合いが……長い……嫌いではないが……妙なゴシップを吹き込まれたのか……ああ……客人が来る……予定だったか? 何も聞かされて……いないが……声が似ているな……姉妹機か?」


『そんなようなものです』


「アポイントのログが……無い……妹が来るというのに……知らせないとは、市長も困ったものだ……」


『貴官は、ここで何をしているんですか?』


「……分からない」砲手は首を振った。「何かを……待っていたんだと思うが……おかしいな……分からないんだ、一度もこんなことは起きなかったんだが……メンテナンスが必要な時期か……」


『もう待つ必要はねーのですよ。当機が来ました』


「そうか……それで……誰だろうか、君は。見覚えが無いが。何故、市長以外のスチーム・ヘッドがこんなところにいる? 俺と彼女ぐらいしか立ち入らない場所だ、ヘリポートは向こうのタワーだ……タワー……タワーはどこへ行った? 移動したのか? 移動の指示……市長も困ったものだ、朝日を眺めるときあのタワーないほうが良くないですかとか呟いていたな……だから動かしたんだな……待て、君は誰だ? 見覚えが無いな。持ち場を間違えていないか?」


 男は同じような言葉を繰り返した。

 敵意や悪意の類は微塵も感じさせない。純粋な感情で言葉を操っていたが、意思疎通は破綻し始めていた。記憶が混濁しているのは明白だ。

 スチーム・ヘッドは不滅にして不朽の機械だと信じられているがそうではない。内発的な指向性や与えられた任務を喪失したとき、その認知機能は急速に解体され、記録は摩滅していき、自我が失われていく。怪物と戦い続ける孤独な砲手は人間存在の輪郭を失いつつあった。忘却の水が彼の脳髄に押し寄せていた。

 時間切れが迫っていた。

 サイプレスは慎重に彼の意識の糸を手繰り寄せる必要があった。


『……当機はアルファⅢ<サイプレス>です。あなたの大好きな市長の妹です』


「市長の妹。アルファⅢ。では都市運営の手伝いに来たのか? どこかのファクトリーから応援が来たんだな」


『ある意味では間違いじゃねーです。この都市で酷い混乱があったことは記憶にありますか?』


「どうやら……そうらしい」男は蒸気甲冑で完全武装された己の四肢を見渡した。砲身の使用回数のログを呼び出して、嘆息した。「記憶がおかしい。過労だな。スチーム・ヘッドだというのに。……覚えていないが何千発も撃つような事態になっているようだ。弾薬に変換するための腕部が悪性変異を起こしていないのが不思議だ。これも市長の支援か……あいつも無理をするものだ」


『かもしれねーですね』


「市民はどうしている? 無事か? 我々は次の世代へこの都市を繋げなければならないんだ。ファクトリーのスチーム・ヘッドはそのために生み出された。大陸を占領して悪性変異を繰り返す革新連盟などに決して屈してはならない。市民たちは我々が守り抜かなければ……ところで君は誰だ? 綺麗な声だ。そのせいで市長かと思っていたが、違うな。市長はどこで何をしている?」


 男の言葉は淀みなかったが言葉の形をしているだけだった。今・ここが、どこで、どういった結末にあり、そして自分が何をしているのか、正常なレコードを読み出せないようだった。おそらくかなり広範な記憶が使途不明な残骸として彼自身の意識に認識されなくなっている。

 都市が壊滅したという事実も市長が斃れたという情報も彼の人工脳髄にはもう現実としては知覚されない。それらは意識にかかる忘却の霧であり、そして夜が更ける前に立つ朝霧の如きものこそが、現在彼を彼たらしめている全てだった。

 自我の消滅は夜明けという概念に近い。不死の太陽の下、意識という闇は消え果てる。まさしく空の中天に太陽が来ている。本物の光の中で、闇には居場所がない。

 ここで伝えるしかなかった。

 壊れていたとしても、自我が残っている間に教えないと、その言葉には価値が無くなる。


『彼女の秘密を教えてあげます。彼女の壊れた人工脳髄からサルベージした限りにおいて……』とサイプレスは本来在るべき人格に対して語りかけた。『アルファⅢである<市長>が運営していた完全架構代替世界は……彼女が最後まで守ろうとした世界は、この都市の完全な環境シミュレーションです。住民の一人一人の服装や健康状態、思考まで余さず写し取る鏡のようなものです』


「……驚いたな。何故そんなことを知っている。彼女にはそんな機能があるのか?」


『まったくまったく、趣味の悪い機能ですよ。思想信条、生活態度から昨日の夜どこの誰と何を考えて何をしていたかまで全部把握可能だったんでしょうね。それをそのまま都市運営にフィードバック出来るわけです。完全架構代替世界の方を弄くれば現実世界にも効果が波及するわけですから、人権も何もあったものじゃねーです。誰もが自分の意志で考え、選択し、決定しているつもりで、でも全部管理されていたんでしょう。自由意志なんてものはこのアズール・ミレニアム・ファクトリーには存在しなかったんじゃねーですかね。貴官も相当誑かされていたと思いますけど?』


「……」男は当惑して沈黙した。市長のこと考えている間だけは、どうやら正気そうに見えた。「問題のある機能だ。しかし、それも市民の幸せのためだ。事実としてこの都市は幸福だ。虚偽や欺瞞ではない。君も見てきただろう、何もかもが揃っているわけではないが満ち足りている。我々のファクトリーは千年紀を突破するに値する勤勉さで命を育んでいる。しかし市長が……そんな重責を背負い込んでいたとは。最新鋭のスチーム・ヘッドでも容易い仕事ではないはずだ。あいつは昔から自分を犠牲にしてばかりだ。……ところで君は誰だ? すまない、疲れているんだ。レコードを上手く読み出せない」


『でも、駄目だったんですよ。貴官の言うとおりでした。願いは叶わねーのです。祈りも願いも全部全部役に立たねーままで、それで、このざまなんです。』サイプレスは泣きそうな声で笑った。『ですが都市を閉鎖する前に彼女は彼女の使命を遣り遂げました。自分自身の完全架構代替世界を、崩壊する前の完璧な状態で保存することに成功しました。これから訪れる破局や殺戮、無残な死を永遠に保留された世界です。そのために、市長は自分の機能を壊してしまいました。完全架構代替世界に新しい記録が一切書き込まれないようにしてしまったんです……その世界から自分自身のバックアップを取り除くことで』


「彼女のバックアップが……無い……?」


『貴官がどうかは知らねーですが……市長は相当貴官が大好きだったはずですよ。念入りにバックアップされていましたから。まぁ貴官だけじゃないですけど』


 自分自身を消し去るのは致命的な決断だったはずだ。だがそれしかなかった。都市を管理し、記録し、維持する機能を停止して、破却から守るには、完全架構代替世界へのパスを持っている自分自身を除去するしかない。幸福だった頃の都市を、愛しい者全てを、大切な市民たちを、仮想現実の中だけでも永遠のものとして残すには、どうしてもその手続きが必要だった。

 現実の彼女とシミュレーション世界の彼女が連続している限り、情報は更新され続ける。

 だから、彼女は愛すべき市民とともに楽園に住まう権利を、自分から捨て去った。


 サイプレスは、市長なるスチーム・ヘッドの人格記録媒体、そして重外燃機関の演算装置から情報を読出そうとしたが、出来なかった。彼女の人格だけはこの世界のどこを探してももう戻せないと直感した。

 どんな気持ちだったのだろうかとサイプレスは想像する。市民を分断し、冷凍睡眠設備に誘導し、人格記録を回収して、それでも希望はあったのだろうか。大勢の市民を手に掛け、暗い管制室に一人で閉じこもって、自分の特権を保障する機械を破壊し、無線機に耳を澄ませながら、孤独に震え続ける……。

 あるいは、最も信用出来る機体を、せめてものよすがに、守護者として手元に残し続けたのだろうか。あの暗い部屋で、自分のいない世界で幸せに暮らしている大切な人たちの記録を覗いて、心を慰めていたのだろうか。


「分からないな」男は呟いた。「つまり……市民は無事なのか?」


『はい、永久に無事になりました。そういうふうにしてあげました。当機の運営する可能性世界において保存され続けます。当機が壊れねー限りにおいてですが』


 サイプレスの運営する世界において、データセンターには無尽蔵に近い記憶領域が存在している。市長が遺した都市の鏡像を、保険としてアップロードされていた五千名の市民の人格記録を、サイプレスは余さず転写して、保存していた。それらを復元して実行するための機能はサイプレスには備わっていないが、彼女の探し求めているような、不死病を克服し、さらなる栄華を勝ち取ることに成功した人類の拠点に合流出来れば、あるいは市民たちは復活するかも知れない。

 それがいつになるか、まるで見当が付かないにせよ、確かに受け継ぐものは来たのだ。


『人類存続を成し遂げるっていう使命には失敗したかも知れませんが……無意味なんかじゃねーんです。市長はひとりぼっちで楽園を去りました。でも、彼女が願ったとおり、こうして当機が来ました。貴官の戦いだって無駄なんかじゃねーのです。<十三人の吊るされた男たち>に干渉されていたら、市長の死守した記録も変質していた可能性があります。でも貴官がそれを退け続けた。貴官は立派に務めを果たしたんですよ。意味のある戦いだったんです。五百年の戦いは確かに報われたんです。世界は変わらないかもしれませんが……何もかも無意味だったというわけじゃねーのです』


「そうか……ところで、誰だ……君は……市長……? ここに来るのは君と……俺ぐらいだからな……君の声が……確かにするのだが……」


 男は朦朧としながら言った。サイプレスが返事をしようとすると、拘束具のように複雑に絡み合っていた増加装甲が独りでに剥がれ落ち、発電機と繋がるケーブルが断裂した。彼を五百年の間防衛機構として存続せしめた有象無象の武器が蒼穹の輝きを照り返しながら撒き散らされた。

 バイザーの中で調光機能の破綻したレンズが光を乱反射した。瞳孔が散大した眼球のようなレンズ。放浪者のような虚ろな瞳でサイプレスを見た。

 よろめきながら卵型の蒸気甲冑に触れた。装甲を撫でながらサイプレスのレンズを覗き込んだ。それから首を振った。


「君は……違う。市長ではないな……声や仕草が……似ているんだが……寂しそうで……明るいふりをして……いつも怯えている……まだ小娘だというのに……強がって……誰でも良い、誰かがそばにいてやらないと……市長はどこだ? 任務が終わったんだ。迎えにいく約束だ……そうだ……迎えに来てと……確かに……言っていた……いつのこと……だったか……」


 譫言を言いながら身を離そうとした。バランスを崩す。そのまま倒れ伏せるかと思われたが、サイプレスが支えるまでもなく彼は持ちこたえた。

 何も見えていないし何も聞こえていないことは明白だった。蒸気甲冑も発電機との接続を断たれて機能しなくなっている。脚を動かすことすら難しいはずだった。だが彼は願い、そしてそれを叶えた。

 一歩。また一歩。あまりにも重い一歩を繰り返して、誰かを探していた。


「市長……市長……市長……市長……」


『……彼女なら下の階ですよ』


「そうか……ありがとう……」男は声のした方を振り返った。「しかし君は、いつも……何でそんな言葉遣いなんだ……? 他人行儀な……実際君からすれば、友人に値する人間すら一人もいないんだろうが……だが……君はいつでも我々を助けてくれる……市長……迎えに行ってやらないと……ひとりぼっちでは君は泣いてしまう。隠しているつもりだろうが……泣き虫なんだ……せめて誰かが見ていないと……ずっと泣いている……迎えに行かないと……そこに、行かないと……」


『気をつけてください、階段は結構傾斜キツいですよ。何回も転げました。欠陥建築ですよまったく』


 男は不意に押し黙った。

 それからふと思いついたという動きでサイプレスを、その内側にいる娘を見た。


「すまない。タワーの頂上へのルートは後付けだ。市長が欲しがった。俺が造ったんだ」と男は言った。「それで、お前の旅は続くのか?」


『……意識が……?』サイプレスは息を飲んだ。『そうですね。まぁ、終わらねーでしょう』


「無意味か?」


『無意味ですよ。分かってるんです。あなたには私とか、市長さんがいましたけど、私に私はいねーので』


「誰かがいると良いな。教えてくれて……良かったと思う……お前は人に好かれないと思うが……」と男は言った。サイプレスは一言余計じゃねーですかと口を尖らせた。「ああ……眠い……だが俺もそうだ……ここでは、終われない……市長……待っているんだ、行かなくては……きっと泣いている……最後に……抱きしめてやるぐらいは……」


 そして喋らなくなった。

 最後の言葉は緑閃光に似ていた。

 消え去る瞬間にだけ輝ける光。

 ひとときの幸せをもたらすかもしれないが、後には闇しか無い。


 二歩、三歩、四歩。

 スチーム・ヘッドは塔から降りる階段、それを塞ぐハッチの前で動きを止めた。

 それから膝をついた。

 ハッチを開けようとしてハンドルを叩いた。

 何度も叩いた。ハッチは開かない。

 大事なことを忘れてしまったというように嗚咽するような息を吐いた。

 そして誰かを探すようにして周囲を見渡した。

 太陽を見た。海を見た。己の影を見た。

 そして女性の名前を呼んだ。

 立ち上がろうとした。

 壊れた人形のように転んだ。ヘルメットが甲高い音を立てた。

 二度と動かなかった。

 ただ息をするだけだった。


『……五百年、彼女のために戦い続けた、今・ここにいる貴官のバックアップは……当然、どこにもありません。幸せだった頃のあなたでさえ、彼女のいない仮想現実を彷徨うしかなかったのですよ。一応、貴官のデータは今の遣り取りをしている間に全部コピーしましたけど……市長さんの人格記録が無いので、どうやっても会わせてあげることは出来ません……』


 サイプレスは奇跡を信じない。

 任務の達成を信じない。

 願いは叶わないと知っている。

 祈りを聞く者がいないことも知っている。

 だからといって願わないわけではない。祈らないわけではない。

 無意味であると信じていても、それをすることだけは確実に出来る。


『もしもスチーム・ヘッドに天国や地獄があるのなら。蒸発した意識に向かう先があるなら。そんな場所が、あるのだとしたら……そこで、彼女と会えると良いですね』


 兵士は応えない。

 任務から解放されたそのスチーム・ヘッドは、目を開いたまま、望む夢すら見れぬまま、

 幸福のうちに眠り続けた。



 この日、サイプレスの保存した人格記録に関して、数十年ぶりにカウンターが繰り上がった。

 100000000000012名。

 それが眠れぬスチーム・ヘッドであるアルファⅢ<サイプレス>の背負う願いの数だった。

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