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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション4 殺戮の地平線  世界生命終局管制機 アルファⅣ<ペイルライダー>
95/197

S4 <サイプレス>/人類隔離救世機構アルファⅢ

 一切が死に絶えていた。その部屋には何も残されていなかった。

 あらゆる選択の果てに暗闇があった。錆びた機械部品、不死病患者の放つ花の如き香り、そして潮風の匂いが、人間には理解出来ない複雑なパターンを形作って、室内を這い回る。

 全てが暗闇に寄り添うよう作り替えられていた。沈黙するのに最適な盲目。盲目でいるためにはうってつけの部屋。遠く響く細波の音色に包まれながら、一つの心臓だけが、己の鼓動を数え続けている。

 不滅を約束された肺は、今も呼吸を続けている。

 そこに魂は無い。心は無い。光無き世界に充満する永遠の孤独。あるいは千年紀の幸福。

 世界が致命的な綻びによって破局し、原初の光の果てに消え去るまで、そこに至福の王国は永久に在る。

 だが、繕うことなど許されない不可逆の変容は、厳然として残されている。

 事実、彼は風が室内に渦巻いて神代の呪文を唱えるのを許していた。

 見る影もない栄華の遺骸。棄却された文明の痕跡を、潮騒が冷たい指でなぞる……。

 

 誰かが世界の外側から、その暗闇をノックした。


『誰かいるのですか?』


 楽園に触れる手を払うようにして、暗闇に、不意に声が響いた。

 女の透き通った声だった。

 拡声器を通しているらしいその声は、廃百貨店に流れる場違いなアナウンスのようであった。

 声に反応して、呼吸が止まった。

 すぐに再開した。


『貴官の存在を、我々調()()()()()は既に検知しています。救助が必要ですか? 必要ならばそのまま。不要ならば、明瞭に意思表示をしてください』


 助けて欲しくないなら、自分を助けるなと言え。そんな拗くれた意思表示を求める声に、答えるものは誰もいない。意味を理解する誰かさえ、ここにはいない。


『それでは失礼します』という声と同時。

 ぱきん、と飴細工でも砕くような、音が鳴り響いた。


 数百年を鎖してきた障壁は、特筆すべきことのない無遠慮さによって、呆気なく突破された。

 眩いばかりの光が室内に流れ込む。

 陽光に照らされた室内が燃え上がるように白く染まり、形を奪われた暗闇へと、失われた世界の輪郭を赤く赤く焼き付けた。

 障壁として活用されていた窓には、枠しか残されていなかった。諸々の廃材やダクトテープ、エポキシパテ、そして展開された不朽結晶によって執拗に固められいた。

 所狭しと並べられたコンソールと錆び果てた通信機器、航路管制装置、破断したケーブル。

 朽ちて倒れた卓上カレンダー。

 無数のキャスター付きの事務椅子は下部がすっかり水に浸かってしまっている。


 そして椅子に腰掛けた状態で静止している一機のスチーム・ヘッド。

 音にも光にも反応しない。

 調度品はいずれ砕けて消える。

 無明の微睡みの淵を漂うこの機体と、誰かが生み出した壁だけが不滅であった。


 緩やかに朽ちていくだけだったはずの空間は、しかし否応なく外界と接続されていく。

 部屋の外側から淡々と突き込まれるのは、完全装甲された鎧の拳だ。

 それが低純度の不朽結晶連続体で構築された壁を砕き、水面へと破片を弾き出す度、光が機銃弾のように暗澹たる世界を容赦なく引き裂く。


 退色したカレンダーの全ての日付が、光と影に踊り、今はもう無い色彩をひととき呼び覚ます。

 水面を渡る波紋は穏やかだったが、そのうちに抱えるのは決して平穏ではない無言の歴史だ。


 黒々とした輝きがそこかしこに積まれている――床材に突き刺され墓碑のように立ち並ぶ不朽結晶の剣。使えなくなった剣は打ち捨てられている。コンソールにばらまかれた対人用散弾のショット・シェル。様々な機材の影に隠さされた錆びた金属塊には『こちらを敵に向ける』という刻印が辛うじて残されている。光が照らし出す。照らし出す。照らし出す……。


 部屋の片端に白骨、乾いた汚泥、肉と内臓の腐れた痕跡。

 もう悪臭さえ残っていない。

 全てが不死病の芳香に分解された後だ。

 葬り去られ、永久に誰も目にすることのない殺戮の歴史。


 侵入者は自分のボディが通るだけの開口部を作ると、足下に危険が無いか確認した。浸水が進んでいる。陽の赤を映して水面が揺れている。

 しばし無言でその惨状を眺めた。それから脅威の有無を確認した。大概のものは沈んでまるで使い物にならなくなっていたが、窓際にボールベアリング地雷が接地されているのを発見した時は、ぎくりとした。

 一つの窓にだけ設置している、というわけではあるまい。

 別に開口部を作っても同じだ。

 おそらくどこから侵入しても起爆するはずだった。

 回避する手段は無かった。

 意を決し、ぎこちない動きで室内へ侵入した。

 具足が水面を踏み砕き飛沫を散らす。


 爆発は起こらなかった。

 慈悲深くも経年と海水は、起爆に関する装置を破壊し、地雷を殺人という果てしなく重い任務から解放していた。


『心臓に悪いものです。……ま、掠り傷一つ負いやしねーですが』


 そのとき、反対側の窓際に仕掛けられていた地雷から、作動音が響いた。

 侵入者は身構えた。奇跡的に生きていた何かのセンサーが働いたらしかった。

 奇跡的に無事だった起爆装置。

 奇跡的に無事だった機械装置。

 人知れぬ暗闇にも奇跡は起こるのだ。

 誰一人救わないのだとしても、天文学的な確率の果てに、有り得べからざる未来を引き寄せる。

 いずれにせよ、海水に浸された火薬は、とうの昔に駄目になっている。

 奇跡とは、所詮そのようなものだ。

 奇跡の無秩序な積み重ねが導く未来に、世界を変えるような意味など生じ得ない。

 だから、それだけだった。

 予想されたような爆発さえ起こらなかった。

 

 侵入者は鎧の奥で深々と溜息を吐いた。


『まったくまったく……全くこの機械というやつらは、いつでもそうです。動くかと思えば動かない。動かないかと思えば動く。自由気まま、壊れるがまま。私たちと違って、いつだって楽をしてくれやがるでありますよ。そうあれかしと定められた役割があるなら、終わるまで終わるなってんですよね。人殺しの道具でも壊れれば無罪放免ってわけですか。それってズルくねーですか?』


 拗ねたような罵りに、しかし何の返事も無い。対人地雷は喋らない。誰に話しかけているわけでもない。彼女はいつでも一人で、だから、そんなことは百も承知だった。

 がちゃん、がちゃん、と足下を確かめるようにして具足を鳴らしながら、機体は歩みを進めた。

 つまずくことにだけ注意を払う。

 彼女が地雷に気を取られたのは、転ぶと起き上がるのに時間がかかるからだ。

 異様な姿をしたスチーム・ヘッドだ。巨大な卵から鎧の手脚が生えたような、酷く不安定なシルエット。騎士や潜水士に例えられる全身装甲型スチーム・ヘッドとは全く異なり、歪な楕円形の蒸気甲冑で上半身から股までをすっぽりと覆っていた。おまけに真っ黒な海藻や藻の類をそこかしこにぶらさげていて、祭事に臨むある種の狩猟部族の司祭のようだった。

 さながらギリースーツを身に纏ったハンプティダンプティ。

 鬱蒼とした暗い森であれば苔生した岩のふりが出来たかもしれないが、この場においてはいっそ無視することほうが難しい程の異物だ。

 しかし視線を注ぐものは室内に存在していない。


 ただ一機、スチーム・ヘッドがデスクの一角で、呆としていた。

 準不朽素材で編まれたジャケットには青い地球儀の腕章がある。

 全てが薄れ行く終わりの部屋で、『調停防衛局』の文字だけがまだ鮮やかだった。


『ああ、やっぱり同胞じゃないですか。えへん。えへんえへん……こんにちは。当機は敵ではありません。貴官の救援に来ました』


 毒づいていた時と同じ美しい声。

 いかにも平静を装った調子で、卵型の侵入者は告げた。


『当機は調停防衛局の特務エージェント。人類隔離救世機構アルファⅢ、<サイプレス>シリーズ、その16番目の機体です。可能な限りの人格資源を回収し、人類の活動拠点に届けることを目的に活動しています。当機の声が聞こえますか?』 


 目標の機体はぴくりとも反応しない。

 コンソール上の無線機や航路管制装置の画面を見ることに集中しているようだった。遮光機能のあるバイザーが仮面となって表情を遮っているが、その機体の先にあるのは事切れたモニタで、室内を舞う埃の影以外は何も映っていない。じっと耳を傾けているような仕草をしている。だが部屋にあるのは幽かなノイズさえ発することの無いスピーカーであり、客観的にその機体の取り組みは無意味だった。

 サイプレスは山積するガラクタの間を押し退けながら接近し、何度か呼びかけた。


『もしもし、もしもし? ……メディアが擦り切れたか、休眠モードか、どっちですかね。どっちにせよ死体ごっこをされてもつまんねーですよ。意識があるならお話ししましょう?』


 目標まで辿り着くと、ヘルメットに触れようとした掴んだ。

 不意にバイザーが光を照り返した。

 甲高い音が響いた。

 薄暗闇に白刃の軌跡。

 沈黙していたスチーム・ヘッドが、隠し持っていたナイフを振り抜いていた。


 意識的活動の気配は無い。事前に仕込まれていた防衛プログラムだろう。

 完璧な一撃だった。調停防衛局が標準装備としているナイフ、その切断能力は他の結晶兵器とは次元が異なる。柄の射出機構まで利用すれば、前時代の戦闘車両の前面装甲からエンジンブロックまで貫通可能だ。通常のスチーム・ヘッドだったならば、外骨格ごと割り断たれ、その首を水面に落としていたはずだ。

 だが、サイプレスにとっては羽虫が飛び上がったのとさして変わらぬ出来事だった。

 回避も防御も不要だった。

 ナイフは卵状の装甲に激突し、切断能力を発揮することなく砕け散った。


『首狙いですか。怖い怖い。当機の装甲でなければ酷いことになってましたよ。まぁスチーム・ヘッドならどう斬られたってすぐ繋がるんで、意味はねーのですけど……』


 ぼやきながらサイプレスは視線をコンソールに向けた。ありとあらゆる場所に傷が刻まれている。

 何かをカウントしていたのだろう。

 意味のある信号を受信した回数か。

 あるいはここで過ごした年数か。幾千の傷跡。

 語る価値も、繋いだ未来も無い、無意味な努力の集積。


『まぁ、どこの誰だか知りませんが、防衛局は貴官を評価しますよ。今までよく頑張りました』


 局員は反応しなかった。

 一刀を振るうだけのプログラムしか残されていないようだった。

 サイプレスは警告もせず局員の人工脳髄をハッキングした。

 予想通り、それはスチーム・ヘッドの残骸であった。人格記録は経年によって摩滅していた。単純にメディアが破損しているだけならばまだ救いようもあるが、無感覚と絶望、倦怠感によって塗り潰された人格記録は手の施しようがない。

 何もかもが著しく欠落しており、元の人格を復元することは困難なように思われた。

 サイプレスはそれらの燃え滓のような人間性の残滓をかき集めて、データを吸い上げ、己の運営する完全架構代替世界のデータセンターに移植した。

 処置を行う前後で、その局員には何の変化も無かった。


『再生されるかどうかも分かりませんが、こんなところでくたばるよりはマシってものでしょう。貴官も連れて行きます。まぁ五百年後には有用な人格記録かも知れねーですし。後はゆっくりと休んでください。人類が再起するか、世界が終わるまで、たっぷりと寝てくださればいいです。後は誰かがやってくれるでしょ……』


 脱力しているスチーム・ヘッドを両腕で抱え上げ、それから邪魔にならないよう、隣の席に移動させた。

 それから施設の調査に取りかかった。

 鈍重そうな見た目に似合わせぬ手つきで、ハンプティダンプティの兵士は、ガントレットの手指でコンソールの幾つかを操作した。しかし、主電源がダウンして随分と経っているようで、非常用予備電源も枯渇しているらしく、起動出来なかった。


『重要な構造物は電子機器も含めて不朽結晶で構築されている……んでしょうね。たぶん』

 ちら、と機能停止した局員を眺める。

『こんな粗末な機体でも結晶技術が使えるみたいだしそうじゃねーとおかしいです』


 サイプレスの球状装甲の内部で重外燃機関が唸りを上げる。排気孔が開放されて、花の香りがする血煙が噴出した。そうやって確保した電力を機材に供給して、仮初めの復旧を試みた。

 コンソールに光が灯る。サイプレスがよしよしと満足そうな声を出したのも束の間、直接入力のポートがどこにもないことに気づき、鎧の腕で接触式画面をちまちまそろそろと操作する羽目になった。


『ここは……なるほど。海上移動型完全環境循環都市アズール・ミレニアム・ファクトリー。こっちの調停防衛局にも建造計画はあったし、もしかしてそうなのかなと思ってはいましたけど、本当にそうだとは。へぇ。それの第三十八前進拠点ですか。いや第三十八って……何です……? こんな大層なものを最低でも三十八個も? えっ、じゃあここ割と上手いこと行ってる時間枝ですか……こんなザマで?』


 サイプレスが記録している限り、これは氷河時代を乗り越える代償として訪れる日射の時代に対応するべく計画された人類維持施設の一つだ。

 人類を数百年保護するための箱船であり、最新鋭の技術を惜しみなく投入して築かれた、無数の楼閣の集合体である。


『いや、どう見ても滅んでますけど。冗談じゃねーですよ……』


 サイプレスは全てを見て来た。

 海底の楼閣都市の基底部から、そのまま両手両足だけを使って這い上がってきたので、全容をまさしく手触りで理解していた。

 都市区画は完璧に水没しており、とどめとばかりに不朽結晶製の外壁が一部破壊されていた。内側から外側へと貫通している孔もあれば、その逆の孔もあった。海底活動に特化したスチーム・ヘッドが何百機も配備されていたなら話は別だが、おそらくは夥しい数の水棲型悪性変異体が出入りした痕跡だ。

 千年紀をも超えるべく設計されたはずのこの都市が、何年の時を過ごして今に至ったのか、サイプレスには分からなかった。気の遠くなるような年月が都市をこの破局へ追い込んだのかと推測していたものの、ブラックボックスに残されていたデータによると、状況はより深刻だったらしい。


 海面上昇のレベルは都市を築いたアーキテクトたちの想像を上回るものだった。それに複数の大規模気象変動が重なって、ファクトリーの船着き場は極めて早い段階で使用不能となったようだ。施設の下部から都市区画までは半世紀も保たず海中へ没し、都市機能の背骨である大規模原子力発電設備が沈黙したとき、人類の生存圏として終わりを迎えた。

 その前後に大規模な動乱があったようだが、その辺りの記録はかなり上位の権限によってブラックボックスからも消されていた。

 語るに堪えない大量死が、削り取られた歴史から血を流していた。


『最終的には上層階の冷凍睡眠設備に五千名を収容することに成功。これが本当なら上出来です。こんなヘンテコな都市、全部台無しになって、一人の人格記録も残ってなくても、それが普通なんですよ……最後で標準手順を行えただけで偉いってものです。それだけのプールを確保出来たなら大成功です』


 その過程で何万人を殺したのだとしても、と無感情に付け加える。

 都市区画は、サイプレスの予想では数十万人が生活する規模だった。あるいはそれ以上だったかも知れない。いずれにせよその全てを海上の楼閣たる都市上層へ移すなら、一人一人試験管に入れて磨り潰しでもしない限り、スペースが足りない。

 削り取られたのはまさしくその、数十万人を五千名に減らす大事業についての記録だ。

 末期には当然様々なインフラが機能停止していたことだろう。自然な大量死や、計画的な人口削減、不死病化した病原菌の散布が行われた可能性もあるが、思い通りに進まなかったのは、部屋に山積みされた銃火器と白骨死体からも見て取れる。


『さて、そもそもここは何の部屋だったんですかね、っと……』


 情報が確かなら、都市全体の管制室、その末端の一つだった。特筆すべき点があるとすれば、一般的な区画から直接アクセス出来る、唯一の管制室だということだろう。

 そしてこの管制室から操作を行わなければ、上層階、即ちコントロールタワーへ移動するための連絡通路は開放出来ない。

 だからこそ封鎖されたのだとサイプレスは理解した。五千名を収容した時点で他の住民が全滅していた可能性は低い。どれだけの難民が発生し、どれだけの家族が救いを求めて上層を目指したのか。

 まだ死にたくなかったはずだ。ありとあらゆる手段を遣ったはずだ。

 破壊テロ。組織的襲撃。管理側から離反して民衆の側についたスチーム・ヘッドもいただろう。

 暴力によって拓く以外に未来は無かった。

 もっとも、悲惨なのは仮に開いたとしても、おそらくその先に救いなど無かったであろう、ということだが。

 ともあれ、調停防衛局は五、千名を救うために唯一の連絡通路を鎖したのだ。


 確認すると、中央管制機の設定では全通信設備が『非常時救援要請』の状態で固定されていた。

 サイプレスの蒸気甲冑にも高度な通信機が内蔵されており、それらは稼動開始から数百年を経た今でも正常に稼動していた。

 彼女が最初に水平線の彼方にこの海上都市を発見して、海底を進み、上陸するまで、実に五年以上の歳月を費やしていたが、そのような通信は期間中に一度もなかった。

 アズール・ミレニアム・ファクトリーのそうした設備は、沈黙してしまったようだった。


 だが、確かに救援を待っていたのだ。

 夥しい量の犠牲を出して守り通した人類資源五千名――そしてまだ生きていたのであろう、見捨てられた人々。

 それら全部を救い出してどこかへ連れて行ってくれるような、おとぎ話の中にしか現れないような、救世主の到来を待っていた。

 サイプレスは別世界の同胞、調停防衛局のスチーム・ヘッドに、レンズを向けた。

 察するに、この機体は籠城をして、ずっと『その時』が来るのを待っていた。

 近辺の敵を皆殺しにし、管制室を制圧して、部屋の内側から不朽結晶を張り巡らせ、誰もこの部屋に入ってこないようにした。救難信号が途絶えないように、応答することを聞き逃さないように、暗闇の中で戦い続けた。絶対に誰かが来てくれると信じた。

 おそらくは完璧に精神が不可逆的変質を迎えるまでずっとコンソールを睨み付けていたはずだ。

 どんな『その時』を期待していたのかは分からない。

 五千名もの人間に加えて山ほどの難民を救えるような集団など存在しているわけがない。

 だが待ちわびた。

 確実に言えるのは、やはりそんなものは、結局来なかったということだ。


 何もかも無意味だった。

 由縁の知れぬ灯台守は無意味な生涯を過ごし、機能停止した。


『機能停止するまでの任務遂行なんてくだらねーですよね。でも当機らは機械とは違う。与えられた役割は……終わるまで永遠に続く。機械が羨ましいですよね。壊れたら終われるんですから……』

 淡々とぼやき、即座に思考を切り替えた。

『しかし、冷凍睡眠設備って。気になるな。この灯台守氏が閉じこもって何年経ったのか、ちょっとわかんねーですね……』


 冷凍睡眠設備の正体については、あたりがついていたが、現実は見るまで確定出来ないものだ。思っているものと異なる場合、それはどの程度の年月、使用に堪えられる仕様なのか。

 コンソールにはデータが無い。衛星軌道開発公社の技術を引き継いでいるなら、百年は確実だ。彼らは恒星間航行のための技術を真剣に研究していた。このような完全環境循環都市を建設出来る技術水準なら、二百年、三百年でも希望はある。

 だが五百年や六百年を超えられるとは思えない。

 名前不詳の灯台守がセキュリティを改竄した時点で、ほぼ全てのカウンタが意味を失っていた。建設されてから何年経つのかすら不明だった。辛うじて参考になりそうなのは、海面上昇の度合いだ。

 コンソールから得た情報によれば、この管制室は海抜300m程の地点に作られている。

 ところが、波音がどうしても耳に触る――それだけではない。

 あまつさえ、この部屋においてさえ、澄んだ水が具足の膝辺りにまで到達しているのだ。

 視界にこの都市の外壁を登攀し、破れそうな強度の不朽結晶壁を発見するまでの間の記憶を再生して確認する。実際の海面上昇は、精々250m程だったが、いったい何がどのように作用して何年経てばこのような常識外れの変化が起こるというのか……。

 ここまで海面が迫ってくるという状況自体が異常なのだが、サイプレスはさらなる問題にはたと気付いた。それでも海まで幾らか距離があるはずのこの管制室に、どうして水が溜まっているのか。

 三度も滑落して酷く苦労した。ようやくこの部屋に辿り着いたのが嬉しくてあまり気に留めていなかったが、これは極めつけの異常事態だ。


 卵型のスチーム・ヘッドは室内を隈無く見て回った。上層階や下層階からの漏水は然程ない。都市としては死んでいたが、不朽結晶を建材に使っているのだから、建造物としての寿命はまだある。

 誰も手入れをしなくても地盤が崩壊したりしない限り不滅の筈だ。

 窓側の閉鎖は粗雑だったが、管制室から内部の構造体へ、続く通路の方は完璧に塞がれている。ここから水が浸入してくる可能性は低そうだ。

 消去法で海水の進入口は一点に定まる。


『この海水は当機と同じく窓の方から入ってきやがったってことですか……』


 250mの海面上昇も異常なら、そこからさらに50mも上にある部屋に海水が溜まる理由が分からない。


『考えられるのは、今が引き潮で、満ち潮になったらもっと海面が上がるとか。でも50mの幅で海面が上昇したり下降したりするの、ありえねーと思いますが……』


 サイプレスに海流や自然環境を詳細に分析する機能は無い。海底を歩いてきたせいで上で嵐が起こっていても全く分からない。そうだ、何か凄まじい嵐でもあったのだろうか?

 そのうちある可能性に思い至って、サイプレスは慌てて窓外を確認した。

 海には人が知る形の生命は無い。海面から藻掻き苦しむ亡者の腕のように突き出された楼閣、悉く死に絶えて、不死なる人さえどこにもありはしなかった。どこかの楼閣の先端のテラスには据え付け式の万年蓄音機があって、知覚をフォーカスすると、古い時代の音楽を奏でているのが聞こえてくる。最初、サイプレスはその音源に誰か居るのではないかと考えて、そちらを目指していた。だが何も無かった。おそらく機械が作動したのは何万と積み重なる偶然が導いた単なるトラブルだった。何の意味も必然性も無い奇蹟。不朽結晶の蓄音機に、しかし誰が電源を入れたわけでもないのだ。

 どのような御業があれば存在しない人々を奇蹟で喜ばせることが出来るだろう。

 

 いずれにせよ都市は死んでいた。いくつかの超高層建築物は既に倒れている。

 いずれ全ての塔が倒れて沈み、誰もがそこに都市があったことを忘れ去るだろう。

 問題は都市の向こう、さらなる向こう、水平線だ。

 空に向かって一本の黒い塔が立っているのが見えるものの、それは今はどうでも良い。

 最終的には目指さなければならないが、他に用がある。

 蒸気甲冑の大口径レンズの倍率を最大限度まで上昇させ、人口脳髄で執拗に画像を補正することで、サイプレスはようやくその存在に気付いた。


 何かが空から吊るされている。天へ昇る最中でも、地に降りる途中でも無い。それは吊るされているのだ。何か人間のような形をした奇妙な影が逆さまの格好で垂れ下がっている。蜃気楼のようでもあるが、全てが実体であると仮定した場合、推定されるサイズは3000m。

 サイプレスはそれを見た。ぎょろりとした目がズタ袋のような頭部に七つ成っていて縦に裂けた口から乱杭歯が映え七つの葡萄の果実のような瞳がぎょろりとしてこちらを見つめておりズタ袋のような頭部からは雨のように血液が零れ落ちていて七つの泡のような目玉がぎょろりとして……。


 実体を理解しそうになって、サイプレスは慌てて思考領域を切断・廃棄し、認知機能をロックした。こいつは、あらゆる知生体にとって天敵だ。生身の人間なら肉眼で直視しただけで、骨と肉を消滅させられ、ぐにゃぐにゃとした皮と血と内臓の塊に変えられてしまう。

 あんな異様な存在は他にはあり得ない。


『アメリカ大陸最悪の悪性変異体、<十三人の吊るされた男たち>……! まだ単機みたいですけど……なんでこんなところに。ここたぶん百回目ぐらいに来たヨーロッパっぽいところの近海ですよ?! 冗談じゃねーですよ、全然住処が違うじゃねーですか! 何百キロ移動してきたんですかあいつ! あーもう、北米大陸を抜けて来た……ってことは全自動戦争装置はあいつを仕留め損ねて……なんでそんな……いや、そういうことですか』


 サイプレスは理解した。今自分がどこに立ち、どんな世界を歩いているのかを思い出した。

 恐怖。無敵のスチーム・ヘッドであるアルファⅢ<サイプレス>としては久方ぶりに感じる感覚だった。


『こんな悠長な施設を乱造してるんだから、全自動戦争装置の開発なんて進んでるわけがねーのでした。やつに対する封鎖網なんて完成してない。この世界はやつの独壇場ってわけですか……』


 変異体の進路はこちらだという確信がある。<十三人の吊るされた男たち>について、分かっていることは多くない。極端な言い方をすれば、本当に悪性変異体なのかすら判然としないのだ。

 事実としてあるのは<十三人の吊るされた男たち>は大津波や大地震を上回る壊滅的な大災害だということだ。見て理解しただけで、人間は人間でなくなる。厄災の化身だ。だからこそ破壊されることの無い機械の守り神をなんとしてでも拵える必要があったのだが、この時間枝は何故かあの怪物の封じ込めを行っていないか、失敗したらしい。


『よくねー状況ですよ、これは、実際。何が起こるか分からないし、ああいう手合いにはあんまり干渉したくねーんですけど……でも当機が追い払うしか……』


 その時、突如してサイプレスの視界が真っ白に染まった。

 一拍遅れて衝撃波が総身を叩き、世界が爆裂する音が不朽結晶で固められた窓をも震わせ、打ち鳴らした。


『はあああ!? 何事ですか!?』


 サイプレスは卵型のボディを乗り出して、あらゆる視覚レンズを活用して全方位を確認した。顕著な変化が現れていたのは空だ。蒼穹を貫くようにして焼け焦げた空気の渦が見えた。

 極限まで出力を高められた超大口径電磁加速砲がしばしば描き出す業火の通り道だ。

 発射地点はおそらくアズール・ミレニアム・ファクトリーの最上階。

 その事実にまず息を飲む。

 弾丸が何を狙って発射されたのかは、すぐに分かった。水平線の彼方に存在していた<十三人の吊るされた男たち>が粉々に引き裂かれて、その大質量を維持したまま落下し、海面に叩き付けられて、核兵器の爆発もかくやという規模で飛沫を上げているのが見えた。


 押し退けられた海面がこちらへ波紋を――桁違いに巨大な波紋を広げている。

 あまりにも影響が甚大すぎる。

 これは津波になるだろう。

 ああ、それでこの部屋が浸水しているのだ、とサイプレスは理解した。

 推測に過ぎないが、最悪の変異体が現れるというのは、この時間枝、この水上都市においては、一度限りの致命的な嵐では無い。

 単なる災害に過ぎず、そして世界を覆い尽くす巨大な影を貫くための槍が、この上にある。

 きっと何度も何度も撃墜しているのだ。

 そして墜落した変異体のせいで大津波が起きる……この部屋にまで海水が侵入するほどの。


『しかし、誰か……まだ上にいる、ということですか』


 ここからでは到底視認することは出来ない。無線で呼びかけても応答が無い。

 だがあんな大口径電磁加速砲の運用も維持も知生体でなければ出来るものでは無い。

 廃棄都市と断じていたが、どうやらまだ戦っているものがいるようだ。


 当面の問題は大津波をどう凌ぐかだ。仮に気が狂ったとしか言いようが無い高さの波が来たら、窓の不朽結晶を破って作った進入路から、一気に海水が流れ込む。

 サイプレスが死ぬことは無い。蒸気甲冑も無事だろう。だが揉みくちゃにされて外に放り出される可能性を考えると頗る気が滅入った。登攀は本当に大変なのだ。胴体が蒸気甲冑によってコミカル二頭身に完全に固定されているせいで、手脚の可動域が従来機より狭くなっている。

 慣れたものだがキツいものはキツい。


『波が到達するまであと何分ぐらいですかね。開けた穴は閉じねーと……ああ、悪いですけど、ご同輩には犠牲になって貰いましょう』


 サイプレスは管制室のスチーム・ヘッドを引き摺り、地面に引き倒した。

 それからヘルメットを毟り取った。

 しばし、硬直する。その素顔には見覚えがある。艶めいた黒髪に漆黒の眼差し。何ものも見ていない細面、左右対称に近い人形のような美貌に、サイプレスは見覚えがある。


『ああ、なんだ……Tモデル不死病筐体じゃねーですか。お姉さんですかね。妹ですかね』


 服を脱がせ、全裸の女体をそっと抱き抱える。基本となる顔立ちはもちろんのこと、肌の弾力、乳房の張り、芸術的な脚線に至るまで、サイプレスは熟知している。

 それは、彼女自身が歪な鎧の中に封印した、己自身に他ならないからだ。

 卵の内側には、この華奢な女性の肉体が収められている。

 アルファⅢ<サイプレス>シリーズもまた、Tモデル不死病筐体を使用した機体群だった。


『どこかの誰か、いつかの私。よく、頑張りました。つまらねー未来になってしまいましたが……それでもあなたは最後まで戦い抜きました。この真っ黒な独房で、任務を全うした。機械なんかとは違う。その不滅の肉体で魂を燃やし尽くした。私はあなたを誇りに思います。後は、私に任せて、いつでも、ゆっくりと眠ってください。あなたの魂に安らぎのあらんことを……』


 やや躊躇った。

 しかし女の脚を掴み、自身の代替世界から目標存在に対して小規模干渉を実行。

 窓の方向へと投擲する。

 肉体は窓に衝突すると同時に変形を始めた。それは溶解と再構築のプロセスだった。柔らかだった女の肉体は徐々に無機質な色彩に変貌し、形を失い、粘性の触腕で窓枠を探って覆い被さり、硬化していく。不朽結晶の壁と化した局員に人間の面影は無い。

 変貌したのは、世界の始まりから立っていたかのように振る舞う、見事な一枚の壁であった。

 やがて地揺れのような狂気めいた咆哮が轟き、世界を揺るがす大波が塔に衝突して、躯体が悲鳴のように軋む音を奏でる。

 今度こそ一滴の侵入も許さなかった。

 局員を作り替えて創造した壁は暗闇の中で完璧に役割を果たした。

 サイプレスはその破壊の渦が過ぎ去るのを待った。安全であると確信してから、走査して入手していたマッピングデータを頼りに、光の射さない密室を歩いた。名残惜しそうに局員の被っていた人口脳髄搭載型ヘルメットを拾い上げる。


 構造物内部へと続く不朽結晶障壁を蹴破る。

 幸いにも結晶製の無尽灯が煌々と通路を照らしていた。暗闇の中を手探りで進む必要はなさそうだ。

 丁度、口の無い鮫のような水棲型の悪性変異体が一匹徘徊しているのに出くわした。


「うわっ、こんにちは。死んでくださいね」


 いかにも格闘戦に不向きな卵型のスチーム・ヘッドは、自由な左手で、無造作にその固体の頭を掴んだ。猛烈な電磁波を浴びせ神経パルスの発火を人格記録データとして吸い上げたあと、そのまま焼却した。いずれ再生するだろうが何百年かかるかは知らない。彼女にとっては関係の無い話だ。

 どうせ短期間でこの都市を離れる。


 気がかりなのは最上階で迎撃任務に従事しているらしいどこかの誰かのことだ。

 先ほど存在を終わらせた局員とは、どういう関係だったのだろう。

 彼女の遺品は、このヘルメットは、何か交渉や交流の材料に使えるだろうか?


『しかし、そうですか、そうですか。まだ生き残っている人がいるんですね。分からねーもんです。頑張ってる人はいつでもどこにもでもいるもんです……』


 俄然、遭うのが楽しみになってきた。どれだけの期間、ここで戦い続けているのか。

 何か有益な人格記録が手に入るかも知れない。

 そう言えば身だしなみを整えるのを忘れてましたね、と考えて、持ってきたヘルメットにアクセス。己の姿を客観視して、そこら中海藻塗れの己の姿に絶句する。


『怖っ、海のオバケじゃねーですか! これだから徒歩海底移動は。こんなの悪性変異体と間違えて撃たれてしまいますよ、いや気付いてよかったですよ本当に』


 完全架構代替世界から干渉して、全身から海藻を焼却した。

 現れたのは純白の曲面装甲を持つ奇怪なスチーム・ヘッド。如何なる場所にも傷一つ無く、不朽の装甲は曖昧な光の中で淡く輝いている。両手には一つの武器も無い。銃も、剣も備えていない。胴体には青い地球儀の文様。全ての争いを調停するWHOの武装外郭団体『調停防衛局』の紋章だ。


『ちょっとは見栄えがよくなりましたかね。交渉ごとなら素顔晒した方がウケいいんでしょうが脱げねーってのが困りものです』


 上層階続く分厚い隔壁を焼き切りながら、アルファⅢ<サイプレス>は意気揚々と脚を進める。

 どこまでも進み続けること。

 道中にある全てを救い、有り得るはずも無い新天地へ誘うこと。

 それこそが調停防衛局の創造した無敵のスチーム・ヘッド――

 人類隔離救世機構アルファⅢ<サイプレス>に与えられた任務だった。

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