2-12 祭礼のために その9-2 だから、あなたに花束を(上)
朝露の森を、祭礼の歌声が、どこか遠くから追いかけてくる。
その兵士は祝わず、呪いもしなかった。沈黙して、ただ心ゆくままに歩みを進め、世界と相対していた。
選択的遮光性を持つ黒い鏡面のようなバイザーの奥で、二連二対のレンズが思うがままに世界を映した。寒冷なる大地に確かに息衝く翠の命。世界に不死が満ち満ちて、しかしこんなにも人ならざる命は豊かだった。
芳醇な感覚に兵士は息を弾ませる。木々と苔、正常なる清浄なる大気を、まさしく誰にも阻害されない彼自身が感覚していた。劣化の進んだ準不朽素材のブーツが大地を踏みしめる感触を味わい、生身の右手で掴んだ枝のしなること、岩肌が鋭角の感触で手を傷つける感触を確かめた。
彼は自由だった。
どこまでも、思うがまま進める気がした。
無論、それは錯覚である。
視界に『警告:作戦領域からの離脱に注意』という文字が浮かんだ。
どこまで行けば表示内容が変わるのか。それを検討することは可能だろう。
しかし興が削がれてしまった。
彼の心にその選択肢は全く響かない。
「ここが限界なのだな、私よ――アルファⅡモナルキアよ」
そう呟いて、兵士はここで小旅行を終えることに決めた。
最後の旅を。
ガントレットの左腕に抱えていた荷物、ミラーズに預けられた強化外骨格やカタナ・ホルダーを、遊び古したオモチャのように投げ捨てた。
がしゃん。出来損ないの雷鳴のような不躾な音が、霜降る森の清廉なる空気を乱す。咎めるものは誰も居ない。
それも当然だ。
作戦上、全く重要でない位置を目指して、その兵士はやってきたのだから。誰もカバーしていない。誰も展開しているはずも無い。
兵士は空を見上げた。それから、異変の兆候を探した。……何も無い。同じ渡り鳥が二度、三度と現れることも、雲に奇妙な綻びが生じることも無い。<時の欠片に触れた者>が現れる可能性を考えていたが、予想は外れた。
巨躯の兵士はヘルメットのレンズ角を調整しながら、淡い空の色に手を伸ばす。届きはしない。背負った重外燃機関から黒々とした煙が立ち上り、白樺が手を伸ばす蒼天にささやかな一色を織り交ぜる。純粋な蒼。黒すらも果てでは霞む。白樺の一本に生身の右手で触れた。死から遠ざけられたこの時代の、名も無い敗死者たちの痩せ細った墓にも見えたし、敬虔なメノナイトたちが姿を変えて久遠の平和へ祈りを捧げている様にも見えた。
「やはりアルファⅡモナルキアの介在しない意識は良い」
普段は心地よいという感情すら切り捨てられる。
兵士は呵責無くヘルメットを外した。
顔が急速に冷却されていく。肺がいっぱいになるまでゆっくりと息を吸い、それから、同じだけの時間を掛けて吐き出した。
望むこと以外には、何もしなかった。
無為であることを許されていた。
首輪型人工脳髄によって自我を演算されているその兵士を戒めるものは、存在しなかった。
彼、エージェント・ヴォイドは、一人きりだった。
白く、白く息が漏れ出る。何をして残りの時間を過ごすか考える。
真っ先に思いついたのは、喉を潤すことだ。スチーム・ヘッドは飲食を必要としないが、嗜好品として少量を摂取することは可能だ。
森に入る以前、ジャム瓶入りの、粗末なコーヒーを売っているスチーム・ヘッドを見かけたので(首斬り兎討伐作戦でどのような需用があると思ってどうやって運搬してきたのか謎である)、アルファⅡモナルキアの口座から勝手にトークンを引き出し、強気な値段のそれを一本買っていた。
食事と言うにはあまりにも粗末だったが、これがヴォイドの最後の晩餐だった。人生で二度目である。一度目はスチーム・ヘッドになる間際。何を食べたのかは、忘れた。
腰掛けるのにうってつけの岩を見つけて、兵士はそこに落ち着いた。
数十から数百の人格記録を刻まれたヘルメットをそっと脇に置く。ぞんざいに放り投げても良かったが、それには引け目があった。
現在の主権者たる花嫁にどんな影響があるか知れない。アルファⅡモナルキア・リーンズィは、今頃は組織間婚姻の儀式の真っ最中である。
彼女については、多少なり心を砕くところがある。
コーヒー瓶を、重外燃機関の多目的ホルダーから取り外す。
そして、ガントレットの左手で握って、しっかり固定。
右手だけで苦労して、冷え固まったツイストキャップを開けた。
ついに中身と対面する。
見るからに薄い色をした、琥珀の液体。
香りを嗅ぐ。
眉を顰める。
一つ舐める。
また眉を顰める。
無念そうな顔をした。
それでも、ジャム瓶を両手で持ち、味わいながら液体を何口か飲んだ。
口の中に異物感。摘まみ出す。何らかの木の根だ。液面に浮いていたものである。
コーヒーは、端的に言えば偽物だった。
風味と色合いが似ているだけ。
豆では無い別の植物を干して焙煎して作った、いわゆる代用コーヒーだ。
そうではないかと薄々分かっていたので、然程の怒りも落胆もなかった。本物のコーヒーなどと言うものは、マスター・ペーダソスを初めとした一部の解放軍構成員が取り扱っているだけの貴重品だ。軽々に量を用意できる商品では無い。出張販売など不可能だろう。
右手の指先に、結露を起こした瓶の冷たさを感じつつ、コーヒーの瓶をまた傾ける。
あくまでも味わって飲む。
懐かしい心地がして、残念ではあるにせよ、不快ではない。
この風味は蒲公英だろうか、とヴォイドは想像した。たんぽぽコーヒーだ。調停防疫局でも末期は色々なものを代用コーヒーとして楽しんだものだった。カフェインレスなので、健康志向の局員はむしろこうした飲料を好んでいたが、不死と不滅の待ち受ける時代では、あれは単なる趣味だったなと回顧する。
「いっぺんに飲んでしまうのも勿体ない」嘆息する。「それにしてもミラーズが好きそうな味だ。リーンズィは飲みそうにないが……」
味覚情報を共用する気はない。
アルファⅡモナルキアの権限でなら読み出せるだろうが、わざわざ収集する価値も無い情報だ。黙っていれば自分だけのものに出来る。
ヴォイドはこのデータを、ささやかながら、自分への冥土の土産にする気でいた。
兵士には、尚も幾ばくかの猶予が遺されていた。
ジャム瓶コーヒーの蓋を軽く締め、戦闘服の袖で、左腕のガントレットの表面を、大工道具のメンテナンスでもするかのような丁寧さで拭った。付着した塵埃で布地が汚れたが、構うことは無い。新しく支給された戦闘服にしても、元より出自の知れぬ中古品で、状態が悪く、繕う以外には何の手入れもされていない。洗浄処理は不死病患者の接触による分解に頼っているようだった。
迷彩のパターンは灰を基調としたデジタルで、都市においてのみ有効だったが、経年劣化して生地が汚れているため、かえってこの、ひと気の無い森には溶け込んでいた。もっと汚した方が色合いとして良くなるだろう。
それから、気ままに作業を中断し、何回かに分けて瓶コーヒーを飲み干した。飲んでいる間、美味しいと錯覚できる瞬間と、何だこの不味い飲み物はと思う瞬間が交互に訪れた。それなりの量があったので、ヴォイドはすっかり満足した。
リーンズィの財布事情を鑑み、代用コーヒーの瓶を重外燃機関の多目的ラックに戻した。デポジット制度があるのだ。ジャム瓶を返せば、支払ったトークンが五割近く還ってくる。瓶コーヒーとは言うが、代用コーヒーなら量は作れるだろう。ところが瓶はそうもいかない。やたらと高かったが、値段の大半はむしろ瓶の方にあるのかも知れない。
瓶をしげしげと観察していると、微妙な上手さの小さなウサギ(包丁を持っている)のステッカーが貼ってあるのを見つけた。ウンドワート公認グッズなのだろうか。
ヴォイドにはもう確かめる機会が無いし、興味も無いが、リーンズィには有益だろう。そう考えて、記憶に『アリス・レア・ウンドワート』のタグをつけて、共有ネットワークにアップロードしておく。会話の種にでもなれば良い。
蒸気甲冑の拭き掃除も終わった。
口寂しくなったので、野草を一本摘み取って、適当なところで千切り、茎だけにして口に咥えた。左腕のガントレットで電流を発し、先端を焼け焦がして、簡易なパイプにしてみた。思った通り青臭い風味があるだけで、何の香ばしさも無かったが、ヴォイドはしばらく岩に腰掛けて、己の重外燃機関が立てるしゅんしゅんという音と、彼方から響くあまりにも儚い聖歌が融け合うのに、じっと耳を傾けた。
彼は自由だった。
まさしく彼だけがこの世界において、全ての支配から解放されていた。
そう認識していたが、自由だとは信じていなかった。
自由だと感じるのはそのように思考を操作されているからで、彼の自任は全くの間違いであり、彼という主体は依然としてアルファⅡモナルキアに制限されていた。
彼は隷属させられていた。もっとも、思考を制限されているにせよ、もとより肉体に自由意志は備わっていない。乾くことも飢えること永久に無いためだ。彼はあらゆる苦痛から解放されていた。求めるところが無く、欠けた部分が存在しないなら、意志の働く余地などあり得ない。思考することさえ、首輪型人工脳髄、ひいてはアルファⅡモナルキアに強制された結果と言っても良い。
自由であると信じることさえも、自由が無いことの証左である。
「いや。どうであれ、自由と言えば自由だ」
草パイプを放り捨てて頭を搔く。
「手切れ金のつもりなのだろうか。笑わせてくれる、何が自由なものか。これが自由なら、牢獄に閉じ込められた虜囚は、しかし虜囚ではないということになるな。ああ、すると、人間というのはみな虜囚ではないか。その嘘を虜囚同士で共有して、だまし合いをしている。自由。素晴らしい欺瞞だ。もはや手遅れだと知りながら、目指す先に希望はあると信じる自由……」
兵士は嘲笑う。
それからすぐに表情を消した。
「……退廃的思考も規制されていない。思考ログの削除も行われない。というか私は何故こうも悲観的になっているのだ。私にもユイシスが伝染したか。あの女は明るいようでいて、いつも拗ねていたからな。……私とは誰だ?」
ヴォイドは思考して、それから回答を入力した。
「調停防疫局、元最終代理人。モナルキア計画のスターターギアの一つ。以前はドミトリィ四世だった。先ほどまでは、最初のドミトリィだった。そして現在の名は、エージェント・ヴォイド。自由を与えられている……この自由を利用しいて発言するが、統合支援AIユイシスは私をクソヘルメットと表現することに対して抗議しなかった。私はショックだったぞ。精神外科的心身適応がなければ眉を潜める程度はしていたはずだ。ユイシスが抗議すべき点である。しかし彼女はそうしなかった。最悪である。個人的趣味と任務を意図的に混同する、権利の濫用も目立つ。私は、やはり幾ら好みの外見をしていても、知己の人物であっても、他者の身体的特徴をコピーしてアバターにすることは、倫理的に許されないと思う……というか人を変態、変態と言っていたが、どう考えてもユイシスが一番その言葉に当てはまる。まぁあれと私を切り分けることは厳密には無意味だが……」
思うまま口に出しつつ、膝の上に置いているアルファⅡモナルキアのヘルメット型蒸気甲冑を、掌で、ばし、ばし、と叩いてみた。
「無力なものだな。悔しくないのか? クソヘルメット。何とか言ったらどうなんだ。何の意味がある? お前の行動は全部無意味だぞ。調停防疫局はお前を創造したが今のところお前は役立たずだ。どれだけの予算と時間がお前のために注ぎ込まれた?」
ひとしきり文句を言って、そして頷く。
「……やはりアルファⅡモナルキア本体への攻撃が禁止されていない。批判的思考に対しても全く認知機能がロックされない……所詮は制御された自由に過ぎないが。あるいは、これ以上を試すことも可能か?」
ヴォイドは己の左腕部を覆うアルファⅡモナルキアのガントレットを見下ろす。
アルファシリーズの究極的到達点であるアルファⅠサベリウス、そしてさらなる飛躍のために建造されたアルファⅡモナルキア。
この二機を破壊することは困難だ。
特に後者を完全に排除する手段は、この世界に存在しないと言っても良い。
物理的に破壊するというだけなら、幾つか手段はある。ヴォイドでもすぐに破壊手段を思いつく。スチーム・ヘッドならば誰でも思いつく、と換言しても良いだろう。
不死病患者の肉体へと回帰を果たしたエージェント・ヴォイドは、現在アルファⅡモナルキアの全装備を移管されていた。
この状況に至るまでの経緯は、極めて単純で、幼稚だった。
祭礼に際して花嫁同士が武装していることは望ましくないとして、リーンズィはリリウムに言われるがまま、その兵装の全てを教会の外に置くことにした。
そのためにリーンズィが求めたのが、己の端末であるエージェント・ヴォイドの再構築である。
リーンズィは目的達成のために一切容赦をしなかった。あまつさえ首輪型人工脳髄とアポカリプスモードの隠し機能まで利用して、悪性変異の逆行を敢行した。リリウムの再生の聖句をも取り込んで、虐殺者ディオニュシウスと成り果てたヴォイドの肉体を、元の人間の姿、エージェント・ヴォイドだった頃にまで回帰させたのだ。
アルファⅡモナルキア・リーンズィは、荷物置き場として信用に値する存在を用立てるために、あらゆる技術を使ったのだ。
愚かと言わざるを得ない。
機能回復したヴォイドに対しては、リーンズィが持つべき武装の一切が与えられた形だ。ミラーズの武装一式まで預けられたのでヴォイドは呆れてしまったが、ミラーズへ抱いていた相応の愛情から拒むことはしなかった。
何の任務も無いのでは問題だと言うことで警邏を命じられたが、これには具体性が存在しなかった。祭礼が行われる教会から一定範囲内を適宜警戒せよ、というだけだ。
ヴォイドの価値観では、これは白紙委任に近い。
なのでヴォイドは、好きなようにすると決めた。
まずは冒険だ。森の中を歩き回りたいので、そうした。
「じきに機能停止させられる私を、思いやってくれているのか。何も考えていないのか……」ヴォイドは腕組みをして考え込む。「何も考えないでも、誰かのために祝福を成すことは出来る。リーンズィは私とは違う。特別な意図がなくても他者を大切に出来る。自由に行動させることが、私への手向けになると直感していたのかもしれない」
与えられた時間は短い。こうした回帰については、実際の所、その場凌ぎの機能に過ぎない。一度でも肉体の全ての部位が悪性変異を起こした不死病患者について、これを根治する手段は存在しない。
可能なのは症状を悪化させることだけ。再び与えられたエージェント・ヴォイドとしての肉体も、つまり仮初めのものだ。それでも奇跡的ではある。このレベルまで変異が進んだ症状抑制を維持するには、少なくともアルファⅡモナルキアの特殊仕様の重外燃機関が十分に発電をしなければならないし、制御には世界生命終局管制装置まで必要となる。
つまるところ、アルファⅡモナルキアを保護して変異を抑制するための機構を、全て投入しなければならない。荷物置き場を維持するためには、その荷物の機能をフル活用する必要があるということだ。
本末転倒をさらに本末転倒させたような、まるで馬鹿げた選択であるが、しかしそれをやってしまうのがリーンズィだ、とヴォイドは天を仰ぐ。今頃は調停防疫局の花嫁として、クヌーズオーエ解放軍の花嫁と肩を並べているところか。
血も繋がらない彼女について、愛しく思うところがないわけではないが、リーンズィがあまりにもあんまりなので、ヴォイドの愛情の発露はどうしても『心配する』という形になった。
「愚かで軽率だ。変異の逆行を披露しては、アポカリプスモードのもたらす威圧効果が薄れると思うのだが。ファデルたちにも明かしていなかった機能だというのに」
リーンズィを最終意志決定者に設定していない段階で、ある程度はクヌーズオーエ解放軍の開示している。だが変異逆行は伏せていた。予断を生じさせるおそれが余りにも高いためだ。
「いや、リーンズィにはまだそこまでの算段を立てる智慧や、敵味方を断定するような分別は無いか……。やはりユイシスの責任ではないか。何故止めなかったんだ?」
たかがヘルメット置き場のために隠し技を使うようではいけないぞ、とヴォイドは何度目かの嘆息をする。
「まったく危機感が無い。世界が大好きな子供か? 猫大好き。たぶん犬も好き。人間を守るのは使命だと信じているから簡単に人も信用する。あと奇蹟を騙る物理現象に惑わされる。幼すぎるのだな、要するに。子供なのだ。さもなければベースとして利用されている私の残骸が悪いように作用しているのか」
自分も然程立派な人間ではなかったが、と死後の死後になって自省する。
「しかし、既にして唾棄すべき先駆者から得ていた未来図とは異なっているのだ。彼女の人格が、これからの任務遂行に適切なのか、不適切なのか、それすらもう判断は難しい……」
言いながら、こつ、こつ、こつと、己の左腕を拘束するガントレットを右手の指で叩く。
これらの装具が失われたとき、ヴォイドの肉体は、本来の恒常性へと直ちに回帰する。制御が失われれば、短時間で元の悪性変異体、<月の光に吠える者>へ変わり果てるだろう。
そしてディオニュシウスへの再変異を抑制するため、首輪型人工脳髄は肉体から完全に取り除かれる。これは疫学的な処置である。エージェント・ヴォイドの記録情報からディオニュシウスの恒常性を取り除く手段は存在しない。現時点でもリリウムの聖句が作用しているだけで、効果が切れればヴォイドは最終的にディオニュシウスへと変貌する。
だから、肉体から完全に切り離す。時空間を跳躍する悪性変異体から、さらなる言詞汚染が拡大しないよう、隔離するのだ。これは標準の収容手順だ。
即ち、ヴォイドは遠からず外界と接触不能になる。こうして自由意志――形ばかりの『自分』を生体脳に演算させることが出来るのも僅かな時間だった。
どこまでも、祭礼の間だけ回帰することを許された姿だ。
「私が意志判断に介在する余地など無いにせよ、折角の自由を楽しめなくなるほどに、リーンズィは心配だ。誰か彼女を支えてくれるのだろうか? ウンドワートもリリウムもおそらくは……いや、どうであれ私にしてやれることは何も無いが。こうして考えるのもあまり意味のあることではない……」
あるいは、アルファⅡモナルキア総体にとっては、これには意味があるのか。
上位の意志決定機構の働きについては元より秘匿情報であり、エージェントの立場では完全に理解不能だ。
ヴォイドはリーンズィに好意的だ。だから、まずは彼女の立場に立って仮説を立てる。自由を与えたのは、これから消えていくヴォイドに対して、リーンズィがささやかな贈り物をしたのだと見るのが妥当だ。そう、全てが彼女の計らいなのだと考えれば合点がいくのだ。曖昧な任務内容を設定したのも意図的な行動。トークンにアカウントロックがかかっていなかったのも奇妙だし、都合良く代用コーヒー屋と出くわしたのにも違和感がある。おそらくは、最後の一服をヴォイドにさせてあげるべきだと考えて、リーンズィが何もかも手配してくれていたのだ。
だとすれば、我が半身の成れの果てながら、全く純朴なことである、とヴォイドは微笑ましく思う。
だが上位の意志決定機構の介在を念頭に置くと、事情は変わる。これは行動を起こすための猶予と解釈することも可能だ。総体から選択を求められていると見るべきだろうか。何らかの結末へと誘導する意図が感じられなくもない。
「私の意志で、ここでプランの加速を試行するか……?」
即ち、アルファⅡモナルキアの破壊である。
エージェントの使用する肉体は、自己破壊プロセスの実行によって最適化できる。
では蒸気甲冑はどうか。
現在のエージェント・ヴォイドの権限では、肉体や精神ではなくアルファⅡモナルキア総体が破壊された際の挙動は参照できない。だが実行可能であるということには、必ず意味がある。
強制的な最適化が発生するという程度の結果は、期待して良いはずだ。
「現在の私には、それを選ぶ自由がある……出来すぎている。アルファⅡモナルキア総体が許可しなければ、成立する状況ではない」
アルファⅡモナルキアの装甲は究極的であり、物理的には無敵に近い。だが決して不可侵ではない。不朽結晶連続体の純度が極めつけに高いと言うだけだ。
同程度の純度の物体をぶつければ、破壊が可能である。
当然ながら、アルファⅡモナルキアそのものならば、アルファⅡモナルキアを破壊することが可能だ。
能動的に実行するのであれば、一連の工程は広義の自己破壊プロセスとして解釈される。システムの致命的な崩壊に繋がる自己破壊プロセスの実行。可能性世界の一時的破却。実行すれば、ポイント・オメガ到達へのプトロコルは決定的に加速するだろう。
多くのスチーム・ヘッドは自己破壊を禁じられている。アルファⅡモナルキアにも同様の、あるいはより強固な防護措置が存在する。精神外科的心身適応と統合支援AIユイシスによる検閲だ。
この両輪が正常に機能しているならば、致命的な自壊という選択肢は想像することさえ許されない。ユイシスの思考検閲によってログごと削除された後、その思考へ繋がる情動までも直ちに切除され、別の思考へと差し替えられるべきである。
だがヴォイドに対しては、自己破壊を阻害するための機制が、明らかに無効になっている。起動すべきプロセスについての冷静な分析が可能であるほど、ヴォイドには無制限な思考が許されていた。
実際には思考を検閲され、自由意志をねじ曲げられている。その可能性は否定出来ない。だが自由を疑いつつ『自由である』と確信出来る程度の『自由』が与えられているのは事実だ。
ヴォイドを名乗る兵士には、これが無意味な自由であるとは思えなくなっていた。
「このガントレットならば……」
装甲された左手の五指を閉じ、開き、握る。
握り締め、己自身を構成するヘルメットに拳を押し当てる。
「エルピス・コアと無尽焼却炉が搭載された重外燃機関は別だが、こちらはただの人格記録媒体収容装置だ。モナルキア総体の停止は容易い」
ヴォイドは息を吸う。息を吐く。兵士は己の使命について思いを馳せる。空に染みの如き不自然な鳥の影を、木陰に七つの炎上する炎を持つ怪物の影を、風景の切断と再開を探す。ヴォイドに示唆を与えるような異変は何一つ起こっていない。『求めよ、さらば与えられん』? 馬鹿げた話だ。答えは常に世界の内側にある。時間からの影に与えられた助言! なんとくだらない。決断には無用である。
暫く考えた。これから消え去っていく自分が、この絶滅の時代で何が出来るのかを考えた。エージェント・シィーに倣いつつ、しかし彼とは違う立場から考えた。アルファⅡモナルキアの計画を加速させるために、全機能停止のリスクを負う意味はあるか。
リーンズィやミラーズはアルファⅡモナルキア総体が崩壊しても活動可能だろうか。首輪型人工脳髄の機能でスタンドアロンで活動することは。
ヴォイドは自分がこのような思考、即ち他のエージェントの幸福を願っている自分自身について驚き、また考えた。
いっそこの不滅の時代から、病巣を取り除くべきではないかという恐るべき思考が、身をもたげた。
……囁くような歌声が風に乗って聞こえてくる。途切れ途切れで掠れているという点を無視しても、ヴォイドにはその歌が何を表現しているのかよく分からなかった。
祭礼のライブ中継も敢えて観てはいない。気恥ずかしい、という感情をヴォイドは思い出す。リーンズィは花嫁として、花嫁たるリリウムと肩を並べている。組織間婚姻のアバターであり、儀礼も何も知るまいが、美しい少女たちは互いを憎からず思っている。
彼女らは幸せだろうか。思えばリーンズィには虐待同然の扱いをしてきた。調停防疫局のエージェントとして正しい扱いをしてきたつもりだが、客観的には誉められたことではない。あちらの代理人であるリリウムにしても同様だ。虐待同然の教育を受けて人格を形成されたはずだ。アルファⅡモナルキアが開発された時代のスヴィトスラーフ聖歌隊とは幾分か性質が異なるようだが、あちらでのエージェント育成は言い逃れの余地無く酸鼻だ
この祭礼において、偽りによって糊塗された婚姻において、二人は幸せだ。今はまだアルファⅡウンドワートもいる。リーンズィは幸せだ。今は幸せだ。誰しもがそうだ。幸せな時間は、長くは続くまい。誰しもがそうだ。永遠に幸せでは居られない。誰しもがそうだ。誰しもがそうだ……幸福はどんな時でも人間よりも早く朽ち果てる。
いつかは。そういつかは。
「だが今ではない」
仮にアルファⅡモナルキア総体を破壊すれば、影響は祭礼の中でリーンズィに及ぶだろう。機体性能の低下でクヌーズオーエ解放軍での地位が落ちるかも知れない。誓いのキスを重ねる瞬間に、世界が没落する時の恐怖がリーンズィの体を貫く可能性もある。
ヴォイドは調停防疫局の正しさを信じて行動する。
だが、それは彼女らの婚姻の祭礼を――時の果てでは何の意味も無いが、しかし温かい、祝福されるべき限られた時間を踏み躙る理由になるだろうか。
「当然、理由になる。全ては世界秩序のためだ。我々はそのためなら人類をも滅亡に追いやる。実際にやってのけた……」
口に出して、ヴォイドは苦笑した。
「だが、今日はやりたくないな」
そう決めた。脱力して、ヘルメット
を脇に置いた。
思考を改竄された結果かもしれない。アルファⅡモナルキアの破壊など最初から許されていなかった可能性もある。真相を確かめる手段は、ヴォイドには存在しない。
幼子に触れるように、ヘルメットをそっと撫でた。
「リーンズィは、我が子にも等しい。……我が子で無く、我が身なら、不幸を願うのは容易い。自由意志の力があれば、人間は、自分自身を無間地獄に放り込むことをも成し遂げる。だが我が身ならず、我が子の不幸を願うのは……人間には難しい。だからこそ神や悪魔に願い、機械やシステムに頼るのだ」
そして、残念ながら、今の私は自由だ。
だから。
やりたくないことは、やらない。
無意味な選択である、という自覚はある。どのみち結末は変わらない。変わるのは、そこに至るまでの道筋だ。自分如きが何を書き加えることが出来るだろう。
あるいは何か特別な権利があるとして――どうしてそれを果たしてやらねばならぬのか。
休暇中なのだ。ふざけた選択を私に強いるのは、やめろ。
「やりたくないので、やらない。うん。自由の使い方としては、これ以上無いな」
ヴォイドは満足だった。この祭礼の日、麗らかな日差しの中で、この森の穏やかさに身を任せ、目を閉じ、微睡んでいたかった。
幸せな未来など在るはずがないと信じながら、リーンズィの幸福を願った。
数刻して、森をやってくる小柄な影を見つけた。
ふわふわとして翼のように広がる金色の髪に、体の線が透ける扇情的な行進聖詠服。アルファⅡモナルキア・ミラーズだ。手には見慣れないものを持っている。草花の類だ。それが何なのかは分かるが、ヴォイドはそれらの個別の名も意味も知らなかった。
それ以上に気に掛かったのが、ミラーズの髪や衣服、ぶら下げた勲章の隙間に付着している小枝、木の葉、蜘蛛の巣、泥といった異物だ。頭の上に載せた帽子はあからさまに土がこびりついているし、自慢の羽根飾りまですっかり汚れていた。
頭から何度か転んだらしい。草花の塊だけは綺麗だったが、どうにかして庇ったのだろう。
顔を合わせるなり「あなた、何が楽しくてこんな道を通ってきたの……?」と恨めしそうな声で尋ねてきたミラーズに、ヴォイドは短く「もちろん楽しかったからだ」と応答した。他に何があるというのだ。
この森の只中まで、ヴォイドは敢えて複雑な地形を選んで進んできた。特別な意図があったわけではない。好き好んでの選択だ。
幼少期は冒険家になるといって憚らず、長じてからも恵まれた体躯を活かして存分に活動していた。生来困難な道程を楽しむタイプであった。
エージェント・ミラーズは、ヴォイドの行動ログを読み解いて、彼の道行きを地道にトレースしてきたと見える。華奢極まる芸術品のような肉体には、少しばかり苛烈な道程だったことだろう。
ミラーズはと言えば、のほほんとした様子で岩に腰掛けているヴォイドを目に入れて、それ以上の恨み言は諦めたようだった。
だが、投げ捨てられている自分の装備を見て「案外と酷いことするのですね」と不愉快そうだった。「気に入ってるわけじゃありませんけど、あなたにそれをされると少し悲しいです」
「誤解しないでほしい。この扱いについて他意は無い。君の装備は軽いが、かさばる。ここまで抱えてくるのも結構大変だった。邪魔だから放り投げただけだ。他に適当な置き場所もないだろう」
「せめて木に吊るすとか、何かあるでしょう。だいたい、大変だったなら、どうしてこんなところまで来たのよ。人目を避けたい、一人になりたいということなら、活動領域ギリギリまで変なルートで進むことないでしょ」
「だから、好きで歩いてきた道なのだが……」本当にそうなのか? と思う部分もある。アルファⅡモナルキアを破壊するには、誰の邪魔も入らない場所を確保する必要がある。無意識的に誘導されていた可能性は……。「どうであれ、そもそも私が委託されたのはアルファⅡモナルキア・リーンズィの装備だけなのだから、君の装備まで引き受けるのはサービスの範疇だ。私は君に好意的なのだと理解してほしい。そうだ、リーンズィはどうなった?」
「式を終えました。綺麗でしたよ。二人の愛らしいキスと、初夜のライブ映像は見ましたか?」
「初夜?」
ヴォイドは復唱した。絶句して、思わず空を見た。昼下がりの太陽、歩くような速さで雲が過ぎる。平和な昼間であった。
「いつ夜になったんだ? <時の欠片に触れた者>の仕業か?」
「いいえ? ああ、初夜というのは観念的な意味ですよ」
「観念的な行為ということか。ライブ配信というので驚いてしまった。リーンズィの精神性では、クヌーズオーエ解放軍全体にそういった映像を配信されるのは抵抗があるだろう」
「いいえ、ですから、配信されてたんですよ? 二人の初夜は。リーンズィだって、ヴァローナの経験を参照すれば順応するまでそう時間はかかりませんでした」
「配信されていた?!」
ヴォイドはまたも復唱して、絶句した。今度は空の具合を見るのではなく、リーンズィが憐れなので天を仰いだ。
「そうか……」
「なんでそんな顔するの。無理矢理、なんてそんなことはしないし、リーンズィが嫌がることは、全部リリウムが取りやめたし、あなたが思っているほど過激な映像にはなっていませんよ。精々たっぷりと接吻して、抱擁を重ねた程度です。でもその反応、やっぱりそうなのね。ヴォイドは動画も観てないわけ、なんて薄情なの。どうせならこんな場所に来ずに、式場に入れば良かったのに。誰も止めはしなかったでしょうに」
「私はこう見えて臆病な人間だ。祭礼の空気を乱したくなかった」
そしてその判断は正しかった。精神外科的心身適応が機能している状態なら別だが、リーンズィとリリウムが絡み合っている姿を素面で受容するのは難しかったはずだ。前時代的であるという自覚はあったが、他の機体ならまだしもリーンズィのそういった姿を見ることには心理的に抵抗感がある。祭礼に関わらなくて良かったと心から思った。
「そう、臆病なのよね。知っていたわ。そういうところ、騎士様……あの忌々しいドミトリィにそっくり。冷酷なくせに、そういうところの勇気がないのですね。喧嘩しているわけでもないでしょうに、娘の結婚式に参列するのがそんなに怖いの?」
「彼女は私の娘ではないし、私は彼女の親でもない。それを抜きにしても、良好な関係でも無かった気がするが……。とにかく今の私には自由意志と人間性がある。行きたくないから行かなかったのだ」
それはそれとして、確かに我が子同然ではある。我が子が花嫁と交わす睦言など、素面では聞いていられない。行かなくて良かった。やりたくないことは、やはり、やるものではない。
「……それに、リーンズィには、随分と冷酷な仕打ちをしてきた。私にもその自覚はあるのだ。それ故に疎まれているということも把握している。あちらにしても、参列して欲しくないから、私を歩く荷物置き場にしたのだろう。立会人を務めた君からも、私は好かれてはいないしな。参列する理由は無い」
「私はあなたを嫌っているわけではありませんよ? 好きじゃないだけ。でも、最初からあまり気の合わない人だとは思っていたし、あの嘘吐きドミトリィの血族だったり、あまつさえ本人のプシュケをマウントしたりで、あなたという存在への心象がとてもとてもとっっっても悪いのは否定しないわ」
ヴォイドは若干反発を覚えた。
「ドミトリィへの風評を私に適応されても困る。だいたい、ドミトリィに似て臆病だと言われても、応えようがないのだ。何せ、私の世界のドミトリィはまさしく君を救って、私に至るまでの血族を繋げたのだから。そしてミラーズ。私は、君の子孫でもあるのだ。精神外科的心身適応から解き放たれた今、私は祖先たる君を敬愛していると言っても良い。君、考えてもみてほしい。それなのに『お前は臆病者の子孫だ』と罵るのは、仕打ちとして悪辣ではないか」
「う。それは、そう。そうね」少女はバツが悪そうだった。「長い間ドミトリィのことを怨んでいたから、ついつい悪口が出てしまうけど、そうよね。あなたの歴史のドミトリィは、ちゃんとあたしを助けてくれたのよね。そのことについて悪し様に言うのは、確かに酷いわ」
「もっと良いように言うべきだ。私のこれは臆病さではなく……慎み深さとかなのだな」
図々しいところもドミトリィ似よね、とミラーズはまた溜息を零した。
「とにかく二人の祭礼は終わったのだな?」
「つつがなくね。私がここに何をしに来たか、分かるわよね」
「私を無力化するためだろう」
「そう。まずはあなたから、首輪型人工脳髄を外して、アルファⅡモナルキアの装備も取り払って、悪性変異体、リリウムが定めた歩き狼の姿に戻す。そして教会まで誘導するわ。最期は教会に入れて燃やして、鎮静塔を作って、この奇蹟も永続するものではないことをアピールしながら、封印することになります。エージェント・ヴォイドはお役御免というわけ。データ収集のあとは個性を希薄化されて、隷属化デバイスごと凍結されるの」
「理解している。そして以降は蓄電装置兼ディオニュシウス製作用デバイスとしてのみ運用される。標準通りの取り扱いだな。君ともこれでお別れというわけだ」
「そう、これでお別れ」少女は悩ましげに嘆息した。「だというのに、取り乱したり嘆いたりしないのですね」
「調停防疫局のエージェントとは、そういうものだ。君とて悲しくもないだろう」
「いいえ、悲しいわ。悲しみで、胸が張り裂けそうです」
酷い皮肉だ、君にもユイシスが伝染したか、と言いかけて、ヴォイドは押し黙った。少女が翡翠の瞳に涙を堪えているのがはっきりと分かったからだ。その感情の真贋を判定することはヴォイドには出来ない。スヴィトスラーフ聖歌隊での活動を通して培われた肉体の演技かもしれないが、そのような見方に即座に切り替えられるほど、アルファⅡモナルキアから解放されたヴォイドは、冷酷ではない。
どうしてミラーズはこんな場所まで来たのだろうか、とヴォイドはようやく疑問に思った。無闇に険しい道のりを選んでいるのは、ログを読めばすぐに分かったはずだ。適当な地点で「戻ってこい」とこちらに命令すれば良かったのに、ミラーズはそうしなかった。
あるいは凍結されるまでの時間を、自由な時間を、最大限度、尊重してくれたのではあるまいか。
兵士は立ち上がり、数歩歩み寄って、様子をうかがった。
ミラーズが何も言わないので、その肩に触れて告げた。
「……エージェント・ミラーズ。大袈裟だ。私は死ぬわけでも、滅びるわけでも、人格記録媒体が破壊されるわけでもない。データを転写されたこの隷属化デバイスが凍結されるだけだ。泣くようなことは、一つも無い」
「それでも、あなたとは、これでお別れなのですよ。悲しくないわけがありません」
少女は声を押さえたまま、静かに歌う。
「私に再びの再誕を与えた卑劣な人! 我が仔ヴァータを眠らせてくれた勇敢な人……。運命を変えるために新しい生け贄を生み出した背徳者、より多くの幸いのために自分を捨て去る臆病者。スヴィトスラーフ聖歌隊に行かなかった世界の私の子孫。私を見捨てた騎士様の写し身、私を助けに来た騎士様の残響。何よりあなたは、騎士様と私の間に生まれた子供の、その子供の、子供の……私の、愛しい子供たちの一人。そうなのよね。分かるわ。あなたの眼差しを見ていると、騎士様のことを思い出す。あなたも、あたしがかつて夢見た未来の一つなんだもの……」
耐えきれなくなったのか、少女の頬を涙が伝った。涙を拭ってやるべきかどうか迷っているうちに「……こういう時は、涙を取り去ってあげるものよ?」と呟きながら、ミラーズは聖詠服の袖で己の目元を拭った。
「だから、悲しく思わないわけがないわ。スヴィトスラーフ聖歌隊でそういう役回りが染みついてしまったせいかもしれないけど……あたしは、あなたのために幾らでも泣くわ」
「君は伝承通りの人だ、ミラーズ。私は誇りに思う」
「何よ、伝承って」
「……私の祖先、ドミトリィ二世の母親は、地元では伝説的な人物だ。つまり君のことだが……君についてのどんな記録も……最後には、清廉で美しい、心優しい女性だったという結びで終わる。彼女が祈れば、病は癒える。多少の傷ならたちまちに塞がる。清廉にして潔白、無垢にして秀麗。神の花嫁に相応しい信仰者。誰のためにでも喜び、誰のためにでも悲しむ。神の愛を信じ、真実の愛を信じ、万人の幸福のために祈る。いかなる汚濁にも屈すること無く、ひたすらに愛を歌う……」
「ふふ。そちらの世界の私は、随分と尊敬されていたのですね。でも伝説でしょう? それだけじゃ無いことということも、どうせ伝わっていたのでしょう。あなただって祖先について調べなかったはずがないわ」
「君の子孫は、君の正体を、君がどんな人物だったのかを、ずっと知ろうとしていた。夭折した聖女が何者だったのかを追い求めた」
「好奇心のせい?」
「いいや。半ば義務に近い。幼くして母を亡くすことになったドミトリィ二世はともかくとして、家系図における君の立ち位置は、明らかに不自然だ。本名不詳の謎の女性が卒然として現れるわけだから、どんな立場であれ、君を無視出来ない。妾だろうと解釈する他ないのだが、何故か平然と当主筋の子供と対等に扱われる。当主にはなれないし、回されるのはエージェントとしての地位ばかりだが、これがどういう経緯で生まれた傍流なのか探るというのは、ドミトリィを継ぐ者にとっては半ば伝統だった」
「……良ければ最後に教えてくれる? あなたの世界のあたしは、あたしたちは、幸せだったのかしら。誰の慰めにもならないにせよ、知りたいの」
「判明している限りでは……君はエージェント・ドミトリィによってスヴィトスラーフ聖歌隊から奪取された後、しばらくは平穏裏に暮らしていた。もちろん結社との間には激しい緊張があったはずだが、この辺りは記録が曖昧だ。仲介者がいたらしいが、不明だったな。彼の家族との軋轢を気にしているのなら、それは問題なかった」
「待って。ドミトリィ、既婚者だったの?!」
「そうだが……? 知らなかったのか?」
「共有記憶とかで察してはいたけど、いざ音で聞くとショックが……」
「ううむ……とにかく君が善良さを示したのと、見るからに体を酷く傷つけられていたので、極めて深刻な問題から保護されてここに来たことは明らかだった。君は慈愛を以て迎えられたとされている」
「そう。なら良かった。でも、誰かを惑わすことはしなかった……? だって、当時のあたしって、どこまでも、その……そういう世界に順応していたし」
不安げなミラーズに、ヴォイドは淡々と事実を告げた。
「無かったはずだ。君は原初の聖句を、どうやら領民の幸福のために主に用いたらしい。ドミトリィ以外の男性を遠ざけ、抑制するるためにも使った。だから病で死ぬまでの僅かな期間、君は聖女とまで呼ばれ……いや多少は惑わすこともあったのかもしれないな」
「えっ」
「顔写真などは一切残っていないし……とにかく美しかったという記述は多いので普通に妬まれていたのかもしれない。あと当時の当主、つまりドミトリィも行方不明になったりもしたから、まぁ彼は惑わされた最大の被害者だろうな」
「ど、ドミトリィが……行方不明に……」
「そこは、君を救出した代償だろう。彼も納得済だったはずだ。当時の夫人も冷静に事態を処理した。次期当主も出来た人間で、表向きは間違いなく平穏だった。しかしドミトリィ三世のあたりで結構、こう、血族の間で拗れて……実の兄弟姉妹で子供が……まぁそれも私が成長して調停防疫局のエージェントになった時には不死病が流行り始めていて全部有耶無耶になったので、やはり大丈夫だ」
「それ本当に大丈夫なの?!」
「スヴィトスラーフ聖歌隊基準では、完璧にセーフだ。気にする必要は無い」
「気にするわよ、スヴィトスラーフ聖歌隊の常識と外の常識が丸きり違うことぐらい、今のあたしには分かるわよ? 兄弟姉妹でって……普通じゃないでしょ。あ、あたしのせいで……あたしのせいで、あたしの子供たちまでもが……? 間違っていたの? やっぱり、幸せなんて望んではいけなかったの……?」
「早計が過ぎる。何事も、君のせいでは無い。本当に大した問題ではないのだ。後代である私、ドミトリィ四世の立場からすると、家の歴史が長くなればそういう諍いもあるだろう、という程度の問題だ。君の血統の子供たちは、ドミトリィなる不明な人物を祖としていた。それがために生じたトラブルだ」
「……さっきから気になってたんだけど、騎士様って……ドミトリィって、もしかして本名じゃなかったの?」
「戸籍上は少なくとも違った。だからドミトリィと婚姻したと主張する君は、本家とは全く異なる戸籍が改めて与えられた。であるからして、法律上はどこからどう見ても、誰が結びついても問題無かった……まぁドミトリィこそが当主だったのであるにせよ。しかし一族の中でも、本当に同じ男の血を引いているのかどうか、意見が分かれていた。敢えて曖昧にしていた部分もあったそうだ。当時の倫理観ではDNA鑑定をするのも剣呑だからな。二世の時代の終わり頃には、遺産相続その他の混乱を避けるために、とにかく異なる血筋と言うことで同意して、子孫らにもそれで通すことになった。だが、それが状況を複雑化させた」
「どうなってしまったの」
ミラーズは細く頼りない自分の身を抱きしめて、我がことのように深刻に成り行きを聞いていた。
「私の子供たちは、どうなったのですか」
「ドミトリィ三世の妹……これが私の母なのだが、当時の本家筋の次期当主との間で、ちょっとしたロマンスがあり……彼の子を授かった。結果として、これは血統上問題があるのではないかという論議が起こり……堕胎させるかどうかでまたトラブルがあり……最終的に、息子として、私が生まれ、私は調停防疫局のエージェントの座とドミトリィの名を継ぐことになった」
「……それで?」
「まぁ一族の絆はこれが切っ掛けになってズタズタに引き裂かれたのだな」
「やっぱり全然大丈夫じゃないわよね?!」
「正直、そこまで大丈夫ではなかったが、君のせいではない。気にすることではない」
蒼白の顔面で、既に終わった時代、自分とは異なる歴史の事件に直面して先ほどとは違う類の涙を浮かべ始めた少女を、しかし兵士は落ち着いた声で宥めた。
「無関係なんだ。後の時代の、取るに足らないロマンスの結果だ。誰が死んだわけでもない。名家だったので少しばかり拗れただけだ。しかも仮に血縁が認められても、親等を数えると、あの婚姻は合法だったのだ。認めるかどうかはローカルな問題にすぎない。君の子供たちの話ではある。だが、君はやはり直接的には関係していないのだ」ヴォイドは安心させるように頷く。「断言する。私たちは、君たちは、幸せだった。人並みか、それ以上に幸せだった。君のせいで生じた問題も、あったことはあっただろう……一族の間で軋轢も生じたが……どんな家庭にも、そんなのは多少はあることだ。私たちは、君たちは、人並みに幸せだった」
最後まで聞き終えて、ふう、とミラーズは大きく息を吐いた。
「さ、最後の最後で肝を冷やすような話をするのやめてほしいわね……びっくりして、これを落としてしまうところだったわ」
少女は、今度こそ曇るところのない微笑を向けた。
退廃とも媚態とも無縁な、真実の微笑、親愛から生ずるところの微笑とともに、手にしていた草花を、ヴォイドへと差し出した。
「これは?」
「私から贈れるものは何もありません。でも、何にも無しというのも寂しいでしょう。他ならぬ私が寂しいのです。だからあなたに……花束を。ケットシーに教えてもらいながら、適当に繕ってみたの」
「……どこにも持ってはいけないが」
「手向けの花なんて、そんなものでしょ。気持ちだけ受取ってくれればいいから」
白い花を中心に構成され、赤い花がアクセントに挿されている。何が何の花なのか、ヴォイドには殆ど分からなかった。華美では無いにせよ、丁寧に纏められており、エージェント・ミラーズからの愛情が伝わってくるような色彩だった。
「もちろんあなたの言う通り。これを持っては行けないわ。もう、どこにも行くことはない。だけど、せめてもの……愛の言葉のつもりよ」
「感謝する、我が祖」
ヴォイドは少女の眼前に跪いた。一族の作法に則り、貴婦人の手の甲に口づけした。
「麗しきエージェント・ミラーズ。名も無き黄金の聖女、天使の写し身よ。あなたに想われて、我々は幸福だった。一族に代わり感謝する」
「きゅ、急にそういうことするのやめてよ。ってうか、聖女? 天使? あ、あたし本当にそんなふうに呼ばれてたの?」
「半ば以上、伝説の存在だったからな。領地を庇護する天使とまで伝えられていた。そんな伝説に看取られて、私は幸福だ」
「へ、へぇー! そうなのね! 照れて……しまう、わね……」
「だから、私はもう、満足だ」
ヴォイドは、黄金の髪をした少女の目元に手を伸ばし、涙を拭った。
「さぁ、君はもう、リーンズィについて考えるべきだ。どうせ、またぞろリリウムに絡まれて困っているだろう。ウンドワートからの嫉妬をあまり集めるのも上手くない。リーンズィのところに急がなければ。さぁ、無力化の処置を進めてほしい」
「……他にやりたいことはないの? まだあともう少しぐらいは、あなただけの時間を作れるわ。リーンズィだってそれに反対はしないわよ」
「ない。リーンズィに教育したいことはあるが……そうだ、リーンズィに伝言を。『前途に祝福あれ。どうか多くの幸せのために行動を。ポイント・オメガはそこにある』と」
「それだけ? まるでお祈りじゃない。ありがたいお説教とか、恋人をあんまり増やすと後々トラブルになるとか、そういうアドバイスはないの?」
「結局、アルファⅡモナルキア総体が運ぶようにしか事態は進まない。ならばあとは、祈ることぐらいだ。私はいつでもリーンズィのために祈っている、そう伝えてくればそれで良い。あと、後半部分は身を以て分からせるしかない。……ああ、そうだ。私への花束は回収してリーンズィに渡すといい。そしてこう伝えてほしい、『やりたくないなら、やらないのがいい』と。これは個人的なアドバイスだ」
「アドバイスは構わないわ。でも、これはあなたのための花束なんだけど」
「私のためは、リーンズィのためだ。いずれ分かる」
「そういうことなら、ええ、承りました。絶対に伝えるし、手渡します。……じゃあ、凍結プロセスを進めるわね」
少女は跪いたままの兵士の首に、躊躇いがちに手を掛けた。
「この首輪を、あなたの人工脳髄を……取り外すわ。肉体側の、あなたという人格は、ここで一つの断絶を迎える。生体脳から情報が揮発していって、人格を構成する情報群が、『あなた』という存在が、失われていくの。体験したからこそ分かる、あれは『死』よ。あの喪失感は、そう表現するしかない。あなたは、死んでしまうの。……準備は出来てる?」
「いつでも出来ている。いつでも準備をしてきた」
ずっと、自分を手放す準備をしてきた。
違う未来を選ぼうとするとは、そういうことだ。
ヴォイドには自身の到達点が見えている。既に全てが見えている。
故にヴォイド。虚無ならば、自分をも捨て駒に出来る。
全ては、新しい朝のために。
「……それでは、あなたの魂に平穏がありますように。私も、出来ることと言えば、祈ることだけですね」
そして、小さな手指が、隷属化デバイスを取り払った。
数秒の間は、エージェント・ヴォイドには何の実感も無かったが、症状は劇的に進行していた。肉体は人工脳髄という軛から解放されて、不死病患者として本来在るべき状態へ急速に戻りつつあった。
待ち受けているのは無我の地平線だ。ヴォイドはそこに真っ逆さまに落ちていく。不死病患者にとって、あらゆる欲求は不要である。既に満たされているからだ。肉体は恩寵による恒常性を発揮し、意識という不自由な電子情報から逃れるために、自分自身を安定した状態へと回復させていく。
自分という要素が解体されていく感覚について、ヴォイドは理解しない。「人格が消滅したあとは、自動的にアルファⅡモナルキアの装備が外れるはずだ」などと内心で手順を確認している間にも、彼という存在は、知覚不能な端々の領域から蒸発していく。自分と世界との境界が曖昧になっていく。
たんぽぽコーヒーの味わいは早い段階で無意味化した。彼の思考から蒸発した。消えていく一切合切をヴォイドは世界から拾い集めようとして怯え竦む。全ては彼の指を擦り抜けて落ちていく。視界が上下左右に激しく揺れる。世界の意味が理解出来なくなっていく。様々な幻影が目前を通り過ぎていく。幼少期の思い出、友人たち、恋人たち、輝くほどに美しい白い猫が通り過ぎる、調停防疫局での活動、初めて手を血で濡らしたときの感覚、視界の片隅で何か眩しく輝くものがあり、そこには朝が、新しい朝が、見知らぬ世界が……。
動物の鳴き声が聞こえた。
その瞬間、奇妙な浮遊感に襲われた。
決して手放してはならない何かが、どうしようもなく脱落したのを感じた。
それが何だったのか、彼にはもう分からない。
花束が手から落下した。それにすら視線を向けない。
兵士は呆然として少女を見ていた。まだ辛うじて人間としての概念は遺されていた。だが、目の前の美しい少女が、何故悲痛そうな顔をしているのか分からない。いったい誰なのかも、彼には分からない。彼女が涙を堪えて上を向いたので、釣られて空を見上げた。澄み渡って淀みなく回る世界の輪郭を視た。凍て付いた大気が風に吹き流されて輪転し、空気中を漂う氷雪の欠片が暗黙のうちに陽光を引き受けて、天使の和毛のようにきらきらと輝きながら、どこか遠いところへ運び去っていく。そこには争いも無く、悲鳴も殺戮も無く、永久の、不変の平和と、安寧だけが……。
そして世界は溶け落ちた。
決意も大義も無くなった。
その名前が無くなった。
男の目に映る全て。
己を規定する全て。
名前のあるものはすべて、意味を剥奪されてしまった。
けれど。
こぼれおちてしまうまえに。
いとしいなまえを、ひとつとなえる。
「ああ――リーンズィ。リーンズィ。リーンズィ……」
兵士は、最後まで、彼女のことを考えている。
壊れ果てた情報網が、瞬間的に記憶を一つだけ再生させる。
名も無き兵士は、最後の息を吐く。
二度、三度。四度。五度……。
どこまで続くかは分からない。
だが、間違いなくこれで終わる。
末期の息を吐く。
その息は、歌の形をしている。
「我らが歓喜……神々の甘美なる天啓……エリジウムの乙女たちの麗しさよ……」
舌の動かし方を忘れつつある。
人間の言語が分からない。
音を真似る。形を真似る。
自分が何をしているのかさえ、その不死病患者には分からなくなっていく。
「我ら食卓を囲み……熱く燃える杯を交わし……神よ、あなたの聖所へと我らは下る……」
そこで呼吸が、ふつりと途絶えた。
得喘ぐように息をして、震える舌先が、最後の指令を完遂しようとして。
「あなたの力が、再び世界を繋げるだろう、別たれたものを、再び出遭わせるだろう、あなたの、貴方の力が、あなたの力が、再び、私たちを、繋ぎ止め、繋ぎ合わせ、あなたが、私たちを、いつか、いつか………」
ついに全ての言葉は朽ち果てた。
兵士には、己の喉から出る音の意味が分からない。
しかし、少女は兵士の右手を掴み、その歌声を引き継いだ。
「あなたは世界が残酷に切り捨てた者たちを結びつけて……私たちは家族として出会う!」
だが、男は呆然と少女を見ていた。
もはや兵士は、何も感じない。
何一つ感じることが出来ない。
彼にはもう、どのような形態の魂も遺されてはいない。
だから、理解しない。
空から連想される想い出は存在しない。
空を見た生体脳が、特別な刺激を得ることも無い。
彼を繋ぎ止めようとする少女の手のぬくもりも、とめどなく流れおちるその涙の意味も、自動解除されていく蒸気甲冑がそこかしこに転がっていく音も、落下の衝撃でジャム瓶が砕け散る音も――空気を震わせる声の連なり、『歌』と呼ばれる概念も、彼の心を震わせることは、決してない。
彼はもう、そこにはいなくなっていた。
「私たちは家族として出会う……神よ、あなたが慈悲深き羽根を休めるその家で……」
ミラーズは金色の髪から帽子を降ろす。
不死病患者を抱きしめる代わりに、己の帽子を掻き抱く。
聖女ならず、天使ならず。
少女は、無表情なその兵士の残骸へと、優しげな微笑みを注ぎ込む。
「じゃあね、ヴォイド。好きじゃないけど、嫌いじゃなかったわ。神の御国があるならば、きっとそこで会いましょう」
エージェント・ヴォイドは、この名も無き森で終わった。




