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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
89/197

2-12 祭礼のために その9-1 ある祭礼の風景

 遠い季節。

 忘れ去られた時間のどこかに、暴風雨の夜があったらしい。

 抜け落ちた天井から降り注ぐ陽光は氷雨のごとく透明で、冷たく、清廉に、空気を濡らしている。

 腐り果てて落ちた床板と混じり合う土塊。もはや地面とも床とも呼べない無名の虚無に、三々五々、路上にぶちまけられて拾う者のいない遺品のように、密やかに咲く花弁の鮮やかさ。

 長く忘れ去られていた儚き花の愛らしさはーー

 この祭礼の日、誰しもの目に映った。

 無数のブーツ、無数の具足、無数の偽りの魂が、花々を避ける。

 そのささやかな祝福を、踏みにじってしまわぬように。

 この神無き丘、命無き時代、魂失せたる朽ちた教会で。

 不滅の装束に身を包み、少女達は一心に歌を奉じる。

 不滅の甲冑に身を包み、兵士たちは壇上を見つめる。

 己らの主に。

 仰ぐべき大主教に。

 新たに連なる兵士の群れに。

 


「……花ばかりを見ているが、祭礼は退屈だったか」


 少女の黒い瞳。

 血の赤と闇以外には何一つ知らぬと言うその瞳に、今は紫の花が映る。

 言われて、少女は我に返ったようだ。

 呆と落としていた視線を上げて、声の主、白銀の甲冑騎士の兜、その格子の隙間から覗く無機的な視線を伺い、それから、ちらり、と参列者を見渡した。歌声の響くこの祭礼の場で、誰しもが式典に集中しているわけではない。だが、俯いてばかりなのは彼女だけのようだった。

 

「ごめんなさい。二人に集中しないといけないよね。でもここのカメラ、ヒナを映してないし、こういう式典って前座が退屈で苦手」


「糾弾しているわけではない。私も然程、関心が無い。だから君を見ていた」と兵士は率直に告げる。「<首斬り兎>ともあろうものが、隙を晒して何を気にしているのか、その方が余程重大事だ」


「兎じゃないもん。ブランケット・ストレイシープ。公募愛称はケットシ-。視聴者の皆が付けてくれたヒナの名前」ブランケットとは名ばかり、肩から膝先までを隠す調停防疫局の旗を軽く揺する。背負っていたカタナホルダーは、ここにない。「足下に花があったから見てるだけ。クロさんはどうして式に集中しないの。リリ先輩とリズちゃんの結婚は嬉しくない?」


「人間の婚姻と出生は、これを祝うべきである。私は思想ではなく通俗的な観念からそう判断する。また、アルファⅡモナルキアについて、エーリカ隊は高く評価している」白銀の兵士は淡々と応答した。「しかし今回は組織間の結婚であるからして、解放軍に加入した組織が一つ増えたに過ぎず、従って、こうまで盛大に迎え入れる必要があるとは思えない。当機に賛意は無く、式典への参加は、エーリカ隊長の代理にすぎない」


 そのスチーム・ヘッドの回答は、どこまでも無機的であった。

 コードネームはクロムドッグ。先の討伐戦において、まさしくケットシーによって殺害された機体だ。ケットシーによって切断・無力化された蒸気甲冑は、不朽結晶連続体に備わる恒常性の働きによって、外殻部に関しては、自己修復が完了していた。内部機構は完治しておらず、着込むのがやっとの状態だが、オーバードライブを起動しない限りは、その形状を保てるだろう。


「ヒナは、二人の結婚式がどうでもいいわけじゃないよ。ヒナは嬉しいからこの花を見てる。テレビの中の結婚式はいつでも綺麗で素敵で、恋人たちはいつでもお祝いをされている。ヒナも業界人だから結婚式は嬉しい」


 歌声に揺れる紫色の花弁の名前を、水兵服姿の少女は、囁くようにして唱えた。


「この花はクロッカス。『愛の公開』。正しい作法は知らないけど、きっと祭礼にはお似合いの花。嬉しいからこの花に気がつく。嬉しいから見ていたくなる」


 かつて病床で知った名前、知った花言葉、知った色艶。

 昔は兎に角、本ばかり読んでいた。

 クロムドッグは黙して花々を眺めた。


「では、これらの花は全てクロッカスか」


「違う。例えば、そこの花はスミレ。『貞節』と『愛』。色は似てる、でも全然違う、似てるけど違う花がたくさんある。どれも祭礼には似合いの花だけど。形が全然違うのに、見分けが出来ないの? クロさんは花の咲かない地方の出身なの?」


「差異は分かる。だが差異の意味するところは分からない。花や歌について、我らは盲目に近い」


 祭礼の片隅で、彼らは密やかに声を交す。クロムドッグもケットシーも、数刻前まで殺し合っていた事実に全く頓着が無い。

 生粋の戦闘用スチーム・ヘッド、それも長期間安定して戦闘が可能な機体には珍しくない傾向だが、彼らは些か極端な部類であった。


「こちらの花もクロッカスか?」


「そっちはゼフィランサス。でも変。全部、少しずつ変。この土地は、花の咲く時期とか……植生がちょっとおかしい」


「ふむん。私には何がおかしいのか分からない」とクロムドッグが喉を鳴らす。「君は意外と物知りらしい」


「ヒナは普通。クロさんが物知らず」


「我々は世界に対し盲目である。我らがエーリカ隊長の言葉である」

 

 和やかなようでいて、異様な会話ではある。

 互いが互いの正体、経歴、どのような死闘を繰り広げてきたか、忘れ果てたかのようだった。教会に入る前、ケットシーはカタナを番兵役に躊躇無く預けた。クロムドッグもスタン兵器さえ起動していない。

 ケットシーは己が事実上の捕虜の立場にあることを理解しているのか、いないのか、甚だ怪しいところではあったが、クロムドッグの態度に引き摺られている面が強かった。彼は命令に従い、ケットシーへの敵愾に類する感情を、完全に滅却していた。模範的戦闘用スチーム・ヘッドである彼の認知能力には、戦闘用スチーム・ヘッドの病理を煮詰めたかのような、些かならぬ偏りがある。

 端的には、任務に忠実。悪し様に言えば万事に無関心。クヌーズオーエ解放軍を取り纏める軍団長ファデルや、大主教リリウム、そして直属の上司であるエーリカや、敬愛するコルト少尉が要求しない限り、何事にも特段の悪心を払わない。怨恨もまた、抱かない。

 ケットシーという少女型スチーム・ヘッドにしてもそれは同じだった。

 彼女は数刻前、クヌーズオーエ解放軍によって激しく拷問された事実を、全く問題視していなかった。

 一切が無意味だからだ。



 クヌーズオーエ解放軍の一部は、行軍の傍ら、ケットシーに対して激しい拷問を行った。<首斬り兎>に一方的に破壊されたスチーム・ヘッドたちが、蘇生後に怒りのまま突撃、電撃的に彼女を略取し、無抵抗な彼女を打ち倒し、暴行を加えた形である。

 事態が発覚したときには、しかし事態は既に終息しており、というのはそれらの残虐行為は四半刻にも満たない時間で終了したからだ。

 レーゲントたちが沈静化の聖句を唱えるまでも無く、実行犯たちは瞬く間に怒りという名を美酒から醒めてしまった。己の痛みに報復する、不当な攻撃を受けた仲間たちの代弁をするという、劇的な正義、報復を正当化する論理によって突き動かされた甘やかな激情は、早々に失せていった。

 強烈な仲間意識や被害者意識による報復であって、元々が、そうした残虐の性向を持つ人格では無かった――それも一因ではあるが、この屍の時代において凍て付かないものは存在しない。

 燃え上がるような激怒でさえ、すぐに凍えて、崩れ落ち、意味を失う。

 意識における意味の喪失は致命的である。全てが無意味になる。

 現実にも行動を遡って、全てを無意味化する。


「手脚を引き千切れ! 串刺しにして再生出来ないようにしろ!」


 無意味である。どのみち再生するし、恐怖は無く、ケットシーとて経験の無い損傷では無い。故国で正規軍のスチーム・ヘッドと戦うことになった際には、誰しもにありふれた身近な破壊であった。そしてその状態から形勢逆転する手法をケットシーは常に考えており、実行可能だった。


「苦しませろ! 生まれてきたことを後悔させてやれ!」


 無意味である。どのみち再生するし、苦痛は無く、ケットシーとて経験の無い虐待では無い。葬兵が組織として成り立つ以前には、悪性変異体に後れを取ればそのような目に遭った。いっそ懐かしいほどの辛苦であった。そしてその状態から形勢逆転する手法をケットシーは既に知っており、実行可能だった。


「こんなもんじゃ気が収まらねぇ。あらゆる屈辱を味合わせてやる!」


 無意味である。どのみち再生するし、屈辱は無く、()()()()()()()()()()()()()()

 彼らは人間から尊厳を奪い去るにはあまりにも人間的すぎた。状況も人格も、彼らの残虐な情熱を維持しなかった。ケットシーにとって予想外だったのは、彼らが己らの野蛮に対して、ある時点で猛烈な拒絶反応を示したことだ。ケットシーを拷問する工程の途中で、彼らはすっかり復讐を飲み干してしまい、自分から酩酊から醒めてしまった。

 無意味だからだ。


 苦痛に屈服して変節した人間が、またその変節を目のあたりにした人間が、苦悩し、悲しみ、また変節してしまったことに憤るのは、偏に彼らが『今、このとき、生きている命』だからだ。一回性を剥奪され、終わりのない命を強制された人々について、変節は究極的な生命の存続に対し何らの価値も持たない。

 不死病患者、特に戦闘用スチーム・ヘッドの場合は、それが顕著だ。肉体が壊れれば終わりという観念が欠落している。幾度となく死に、幾度となく蘇る。そうしているうちに自分に魂が無いことを実感してしまう。全てに意味が無いことが、論理では無く直感によって明らかになってくる。


 あるいは人間的な感性が正常に駆動しているうちは、拷問も有効だろう。しかしそれらが破綻すると同時に、彼らは精神的な不死性までも手に入れる。壊れた器という概念が壊せないのと同様、彼らもそれ以上は壊れなくなる。滅びることが出来なくなる。ゆっくりと終わっていくだけだ。

 

 事実、目を覆いたくなるような暴虐は、ケットシーに対し何の効果も示さなかった。彼女の生身としての人間性は、とうの昔に砕け散っていた。

 そうしたことが分かっているから、誰も止めなかった。正気の人間は一人も残っていなかった。無意味だと分かっているから、目を覆うことすら、誰もしなかった。


 猫を連れたどこかの大主教の使徒と目される謎のレーゲントや、他ならぬ大主教リリウムは、彼らを厳しく非難した。大いに恥じ入ったが、それ以上は咎めず、眉を潜めることもなかった。ケットシーの修復を手伝い、非礼を詫びたが、当のケットシー自身でさえ非人道的な扱いをされたという認識を見せなかったため、場の空気は暗黙裏に空転した。


 ただアルファⅡモナルキアだけが、この時代、この地域、この永遠と虚無の都市においては批准されておらず、誰も覚えていないような戦時国際法を引き合いに出して、極めて熱心に抗議した。どのような状況でも捕虜の虐待は容認されず、事態は平和的な交渉によって解決されるべきであるという主張を繰り返した。


 結果的には、アルファⅡモナルキアが大主教リリウムよりも法的に厳格な立場にあるということを示したに留まった。コルトが穏健派としての立場から一層高くアルファⅡモナルキアを評価したため、こうした価値観の持ち主が大主教リリウムと婚姻の儀礼を果たすのは妥当であろうという意識が、遅ればせながらクヌーズオーエ解放軍に浸透していった。



「それでは、裁判を始めましょう。葬兵ヒナ・ツジに対する裁判です!」


 大主教リリウムは祭礼の開催について通達した後、分隊長以上のレベルのスチーム・ヘッドを物理的・電子的に招集して、ケットシーをどう扱うべきかを定めるための軍事裁判を始めた。

 クヌーズオーエ解放軍に対して襲撃を繰り返したケットシーを問い質しながら、後方部隊の意見も交えながら、淀みなく交換を行った。


 それから議長を委託されたコルトが略式で判決を下した。

 曰く、「ケットシーはこれまでの苛烈な攻撃姿勢を完全に失っており、恭順の意志はないにせよ、独自の世界観によって我が軍を提携相手と認識し、友好的態度に転じていることから、これまでの遭遇戦は全て『不幸な事故』であり、穏当な教育と指導により是正が可能で、再発の畏れは無く、以てクヌーズオーエ解放軍としては<首斬り兎>事案は解決に至ったものと判断する」。


 ケットシーが意外にも粛々と責任を認めて謝罪したため、それで軍事裁判は閉廷した。

 特記すべき点は無かった。無論細部においては意見の食い違いが発生したが、それは賠償や補填についての責任をどこにどう求めるかという問題であり、身体刑どころか自由刑についても議論されなかった。アルファⅡモナルキアが報告したところによれば、ケットシーは斬ると確信すれば徒手でも不朽結晶を切断できるのであり、逃走を企図すれば事前に破壊しない限りは阻止する手段が無いのであって、そんな機体を拘束するのはナンセンスなのだ、というのが表向きの合目的的な判断材料だったが、<暗き塔を仰ぐ者>のような敵対者でないのなら、もう構わないだろうという態度が優勢だった。

 彼女は大いに殺戮し、スチーム・ヘッドを痛めつけたが、ついぞ一機も破壊していなかった。作戦行動中に五機のスチーム・ヘッドが行方不明になっているが、これらはヴォイニッチ派へ転向したとということが正式に確認された。稼働年数が長いスチーム・ヘッドにとって、人格記録媒体の破壊以外は些事である。

 決定的な審判を下す必要は無いだろう、というのが大勢の見解だった。

 


 実際の所、ケットシー虐待事案や悪性変異体との遭遇戦など、道中ではトラブルは起こったが、不死の兵士と歌姫たちは、至極和気藹々とした空気でその丘に辿り着いた。

 これだけのスチーム・ヘッド戦力と大主教の永続交響(シンフォニック・)機甲師団(レギオン)が展開している状況では、余程のことで無い限り、障害にはなり得ない。

 大主教リリウムが遠征の最中に見つけていたという廃教会は、どの攻略拠点の近くでも発見されるありきたりなもので、解放軍の大多数からは特別な施設とは見做されなかった。強いて言うならば、近隣に新しい前進基地、攻略拠点になり得る土地が存在する可能性のほうが遙かに重要だった。

 ただ、祭礼なのであった。

 婚姻の喜びに舞うリリウムや、その言葉の甘さに浮き足立つレーゲントたちを見て、兵士たちも皆どことなく幸せな気持ちになっていた。

 彼らは疲れていた。疲れ果てており、それだから、形のある祝福を肯定した。



 歌が響く。

 命無き時代、魂無き世界、熱無きこの血に鼓動が木霊する。

 リーンズィとリリウムは既に教会の壇上にたち、人工知性の調停防衛局エージェント、ユイシスとあれやかこれやと打ち合わせをしている。

 レーゲントたちが歌っているのは、まさしく前座であり、半分は手慰みだ。ケットシーも含め、収容できる限界まで他のスチーム・ヘッドも参列が許されていて、入りきれなかった機体には無料のライブ配信に参加する権利が与えられた。彼らは教会の周囲で警戒にあたったり、兵士もレーゲントも区別無く談笑したり、ケットシーから戦利品、あるいは慰謝料代わりに分捕ったり正式に割譲されたりした結晶武器を振り回して、時間を潰していた。兵種を問わず、不死病患者の面倒をのみ見ている機体もあった。彼らにとって使役される不死病患者とは忘れ果てた家族の残影であり、また同胞であった。

 スチーム・パペットに関しては物理的に教会に入場出来ないため、『婚姻の祭礼』に参加することは、最初から認められなかった。やはりライブ中継で見ることのみを許された。


 ゲリラライブも同然の大主教リリウムの配信に対し、視聴権の獲得に高額トークンを要求された他の攻略拠点の信者たちは、大いに憤った。憂さ晴らしに、これら無料視聴を許可された勢は、大変なお叱りを受けた。

 当事者たちはと言えば、妬みや怒りを巧みにかわし、クレームのメールに対して煽ったり、優越を示したり、ポーラ・コーラ五本で視聴権を転売するなど無法な交渉を持ちかけたりしていた。そうしているうちに、事態を重く見た解放司令部が無償の配信チャンネルを開設したが、トラフィックとかの問題で画質が悪かったので不評だった。

 総じて、平和なクヌーズオーエ解放軍の一日であった。


 また、教会に入れなかった者を対象にして、ロングキャットグッドナイトを名乗る不明なレーゲントが「猫セラピーです。猫と和解するのです。猫を愛するように人を愛するのです」と謎の誘惑をしてきたので祭礼をそっちのけにして猫遊びに興じる者もいた。

 犬派スチーム・ヘッドたちが興味を示しつつ「イヌはいないのか?」と問うと一部の猫がかなり無理した様子で「にゃ……にゃわーん」といった具合で変な鳴き方をしたので、犬派は「いや無理しなくて良いから……」と焦ってしまった。


「っていうかにゃわーんって……」

「もしかして犬派リクエストを受け入れて……人語が分かるの!?」

「これ本当に猫? 猫っぽい違う生き物じゃない?」

「はい、これは猫なので。猫はいます。ご理解とご協力です」

「猫はいるのか……」犬派はご理解して、ご協力した。「まぁ猫はどこにでもいるものだったもんな、確かに。でもそれ言うなら犬もそうだし、どこかにいてほしいな……」

「どこかには犬もいると思いますので。いつかどこかで巡り会います」

「まぁ祈るのはレーゲント勢に任せるよ」

「祈るまでもありませんので。よろしいですか、皆様。そもそも犬は実質猫なので……」

「いや犬は犬だし」「犬は犬だよね」「実質とかじゃないんだよ。猫を否定するつもりじゃないが」「猫派は分別を持つべきだ。犬派は犬がいないのでいつでも深く悲しんでいる」

「にゃー……」

 掲げた猫が悲しげに鳴いた。ロングキャットグッドナイトは敗北した。


 一方で猫派は興奮していた!

『うおお、猫だ猫! 何十年ぶりだ見たの! うん? 最後に見たいのいつだっけか……最近見たような気も』「()()()()()」『気のせいか……』

『だ、誰か撮影してくれ! 猫が俺の肩の上に乗ってるんだ! やった、パペットになった俺が、最強兵器になった俺が、猫と猫たちとツーショットを……誰かカメラ!』

「しゅばばばば! 解放軍広報部参上! カメラと聞いて来いて! スヴィトスラーフ聖歌隊は撮られるだけじゃなく撮るのも得意なんですよ! まぁ私のはデジカメ? ですが』

『よしきたパパラッチ! めっちゃ撮ってくれ! 良い感じで撮ってくれたらその分だけ追加トークンを払うぞ!』

「あ、いやーーーでもロボと猫だけっていうのも華が無いですし撮る気になりません。上級レーゲント呼んできます。可愛い女の子とロボと猫。これが真理なんですねぇ」

『いやもういいから! そういう拘りは良いから! そうだ、広報部員だってレーゲントだ! 一緒に映ってくれれば……』

「ヤですよぅ。身内だと何か記念撮影感が出てつまんないんで」

『記念撮影なんだよぉ!? 猫が逃げたら手遅れだるぉ?! もう前金でトークン多目に払うから……! な! 頼むよ!』

『……よし……猫……猫を……撫でる……いくぞ……くっ……力の加減が……――アーーーー難しい! 僕をパペットから降ろしてー! 素手で撫でさせてー!! ヘカティはどこ?! 助けてー!』

「皆様動物に飢えておられますねぇ。はっ……これは……なんてこと! よ、よろしいですか、シャーデン様。ゆっくり、そのまま、動かないで。決して焦らず。オルガンを回さないで……。特に右足側のほう!」

『何だ? 当機に何が……この異物感……まさか当機の右足の吸気口に、猫が……?』

「はい。見てしまいました。猫が、この孔に、するするすると入っていくのを……」

『ええ、怖いな……! 猫どうなるんだ、吸気ファンは止められないし。ミンチは困る。レーゲントの細腕じゃ難しいだろうがどうにか引き出して……』

「……ああっ、あれっ!? ああーっ!」

『まさか手遅れか!?』

「左側の排気孔から出てきました」

『どうやって!? 内側のファンもそうだが、左、右の孔は別に繋がってないんだぞ?!』


 そんな騒ぎの中、意外にも人気を博したのはケットシーが連れてきた支援用パペット、ユンカースだ。

 それは彼女が自主的に開催したというか、キャットタワー的な何かと誤認され、猫の遊び場になってしまった結果、偶発的に発生した、猫同乗型メリーゴーランドであった。


「移動式遊園地! 移動式遊園地っスよこれ!」

「本当に移動式遊園地だったのか!」

『ノー。当機はメリーゴーランドとかでは無いのですが』


 残念ながら歩くメリーゴーランドだった。

 ケットシーの立場を向上させるために支援AIが独自の判断、ないし猫を振り払うための動作を誤解されてなし崩し的に開始したサービスであった。

 ユンカースが収録している音源を愉しみつつ、コンテナを座席代わりに、猫と遊びながら回転を愉しめるので、教会から抜け出してこちらで遊ぶ者も出始めるほどだった。

 不朽結晶装備を一通り失ってしまい、しばらくは鎧無しで暮らさざるを得なくなったハンターなどは、消沈しつつもコンテナの上で無料で猫と交流し、ごまんぞくした。

 クヌーズオーエ解放軍は、あれほどの災禍に見舞われながら、概ねごあんしんであった。




 リーンズィの見上げる先には十字架、聖性の不滅を祈念して黄金で鍍金されていたのであろう受難と勝利、復活の証は黒く煤け、あるいは曇り、あるいは腐食して、廃工場の片隅に放置された取るに足らぬ工作機械のごとく荒び、無限大であるべき光輝は去って久しく、不滅の信仰、その祈りの残骸が輪郭に残るのみだ。

 教会は遺棄されて久しい。

 さりとて歌声は響く。


「日曜のミサ思い出すなぁ」

「まさか死んでから結婚式に出る羽目にになるとは」

「香典とかいらんのかな」

「むしろ参列者に報酬があるべきだ」

「私はどっちかって言うと今日の分の埋め合わせの休暇が欲しいですね……」


 無数の甲冑兵士、無数の視線、無数の声が、調度品の腐れ果てた聖堂に整列し、不格好な十字架を見上げ、二人の花嫁を眺めながら、レーゲントたちの歌声に耳を傾けつつ、くだらない世間話をしていた。

 刑具を模したその象徴が壁に掛けられたのはほんの十数分前のことで、白銀の少女が拾い上げるまでは、忘れ去られた罪人の墓標のように、泥濘の中に沈んで、傾いでいた。十字架を壁に打ち付けているのは釘ではなく、分解された自動小銃から取り出された銃砲身だったが、そのこと自体には何らの意味もない。

 相応しい釘も留め金もないが、銃はまだ残されていた。

 帰り道の安全が確保されているので、レギオンたちを武装させておく必要もないという判断も絡んだ。

 それだけの話だった。


 文明は失われて久しい。

 それでも歌声は響く。

 魂無き民も、文化をなぞることは出来る。

 

 廃教会には歌が満ち溢れていた。

 神を讃えるための歌が。

 平和を礼賛する歌声が。

 並び立つ無数の顔、老いたるとうら若き、男と女。

 そして不滅の騎士たちと、不滅の祈り手たち。

 皆思い思いに今回の祭礼について思いを馳せている。

 心はここにある。言葉はここに在る。

 一様にどこか、ここではないどこかを見つめている。

 即ち、未来を見つめている。


 魂は失われて久しい。

 そうまでしても、祈りは不滅であった。


 軍隊調行進聖詠服(ミリタリー・ドレス)の少女が一人、聖餐台の前に立っている。立会人たる母、永久に若く美しい年下の母と接吻し、打ち合わせをさらに進め、正しい手順ではない出鱈目な手順で式を断行すると決めた。壁に掲げられた十字架(元金細工職人のスチーム・ヘッドが拘りをもって磨いたおかげでピカピカだ)を背にして、声を張り上げて、旋律を伴う聖詠の誦経を始めた。

 雑談に興じていた兵士たちは息を潜めた。とうとうその時が来たことを悟り、祭礼に意識を集中させた。

 レーゲントたちも壇上の聖少女に共鳴した。

 声は渦巻いて熱狂を以て神を称え、雷霆の如き賛美で、教会の腐った梁や壁を揺るがした。

 

 永劫の平和と安寧、愛と歓喜を記念する歌が響く。

 神に届くように、神が己らの居場所に気付いてくれるように。

 虚無と劫掠を否定する彼女らの信仰は、しかし彼ら自身の心を、最初の聖父スヴィトスラーフが空想したほど、適切に動かしてはいない。理想通りの世界は到来していない。実際、クヌーズオーエ解放軍は泡の如く浮かんでは消えていく都市の鏡像体から僅かな取り分を得ることで運営されている組織だし、どこかで折り合いを付けるべきだった。

 唯一、過度の殺戮と略奪は避けるべきであるという、その一点に関して言えば、現在は理想を実践していると言って良い。しかし、それの価値観は生身の命を生きる人間からは、大きく隔たっている。変質した理想に意味はあるのだろうか? 神はそれを善しとされるだろうか。あるいは心から神を信じる者が、この地に如何ほど残っているだろうか。


 彼らの祈りに意味はないのだろう。

 もはや意味など、この世界のどこにも残されてはいない。

 だが、それでも祈りであることは確かだ。


 聖詠は、正統なものではなかった。

 その場には言語学者や神学者出身のスチーム・ヘッドが参列していたが、しかし誰もそれを指摘しない。どれほど歪で、壊れていて、客観的には無意味でも、それは確かに聖詠であり、それ以外の如何なる語を当てはめることも適切ではなく、いっそ冒涜的であるほどに、祈りに満ち溢れていた。

 祈りだけが存在していた。

 人に歌われ、空気を揺らし、誰かの耳に届く。その僅かな時間だけ存在を許される、神を称える以外には何の機能も持たない異形の接触言語。

 人間が聞き届け、祈りなのだと信じられる瞬間にだけ存在し得る、原初の祈りである。


 聖餐台の前、祈りの歌声の主旋律を奏でる少女は、花嫁としての輝きに満ちていて、しかし聖職者と言うよりは異邦の丘へ夜行列車の車掌か、さもなければ時代錯誤な装飾に彩られた鼓笛隊の先導者に似ていた。偉大なる存在の証明とその寵愛を証明するに相応しい白銀の髪、冬の空の陰りがちな目映さだけを汲み上げた清廉にして純正なる真実の光輝。

 蒸気機関と直結して安定した燃焼に成功した偽の燭台、寒々しい初春の太陽、落ちた屋根は職人気質の兵士やパペットによって割となりふり構わない補強が成されている。打ち砕かれた鏡が乱反射する歪んだ光、その場に存在する光という光に抱かれて香しく煌めき、震える空気に舞う小汚い埃の欠片すら彼女の髪に触れれば白に染まり、天使が送り届けた栄光ある翼の和毛へと変わる。

 崩落した壁から差し込む光に照らされた顔貌には殆ど非現実的な美貌が備わっていた。兵士たちも時折その横顔を眺めては嘆息する。

 心が朽ちても、魂が熱を失っても、真なる美はただ在るだけで死者の心臓の鞴を踏む。兵士たちはヴォイニッチとリリウムのどちらがより素晴らしいか気軽な口調で話し始め、いやヴァローナ、リーンズィもやっぱり跪きたくなるなどと言い始めた弾で性癖の話はしていないだろ何だよお前はなどと口論になりかけ、不躾な話はやめなさいと、そばにいたレーゲントに脚を蹴られた。順番に蹴られた。


 リリウムのスラヴ系の特徴を濃く残す顔貌はしかし、実際には如何なる民族の血を引いているのか不確かで、触れるだけで取り返しのつかない傷がついてしまいそうな白い面貌の上には、神秘的な怖気さえ覚えさせる、酷く儚い、それでいて無邪気な笑みが浮かんでいた。

 快活に見開かれた瞳は、神話の時代、究極的に清浄な海を漂っていたひとかけらの流氷から削り出された宝玉のように青く、魂ある罪人ならば一瞥されただけで恥じ入り、死を選ぶだろうという程に真っ直ぐに透き通り、潔白な慈愛に満ちあふれていて、

 その目は、歓喜によって涙ぐんでいる。

  

 その肉体に魂はない。

 さりとて、祈りはこの地に響く。

 この最果ての地に。

 終端の時代に。

 

 身に纏う黄金と暗夜の黒、ミリタリー・ドレスに矮躯を隠すその少女は、ひととき歌うことをやめた。

 己のスチームオルガンの始動装置に優しく接吻した。

 悩ましげに息を送り込み、幕を上げるようにスターティングレバーを引いて、機関を始動させた。排気孔から粘性の血煙が吹き出したのは一瞬のことだ。やがて透明な蒸気が噴き出したのをちらと見て、鍵盤へと滑らかに指を走らせる。

 アコーディオンに似た形状の機構の内部を高熱の蒸気が駆け巡る。

 永遠に朽ちぬことを約束された金属の管が高らかに歌声を上げた。レーゲントたちは慎重に合唱の内容をチューニングし、大主教リリウムの歌声のサポートに回る。

 いよいよ本格的に始まったと知ってか、兵士たちも厳粛な面持ちで静まりかえった。


 サイズに見合わないほどの暴力的な音声が、うらぶれた廃教会に、千年王国の幻影を在り在りと描き出している。


 それは盲目の神に捧げられた無声の頌歌だった。

 祈りではあるのだろう。

 この最果ての地に捧げられた、祈りではあるのだろう。


 立会人たるミラーズは娘の勇士に大層満足したようだった。

 高機動外骨格の戒めから解放された彼女は足下の花と同じく晴れやかに笑う。

 

 そして、不滅の聖性を体現するその白銀の少女の演奏を眺めている麗人が一人。

 彼女は、跪いている。ところどころが脱色され、白が目立つようになったライトブラウンの髪を持つ少女。

 歌うリリウムを、興味深そうに目を細める。

 跪いて、身を丸めてはいたが、背丈は詩歌いの白銀の少女よりも高く、おそらくは同年代の少女よりも幾分か長身だった。

 ある種の潔癖さと従順さを兼ね備えた目鼻立ちは、余分を削ぎ落とされた気高い美しさで、余人の知らぬ未明の谷を滑空する大型鳥類を連想させる。その勇壮な印象を裏切る線の細い頬に浮かぶのは、慢性の憂鬱だ。

 何より目立つのは、鮮血の如き赤に染まりきった、未来を見通す二つの瞳。それが、神経質な性格に由来するのであろう思慮深げな天然の陰影に彩られ、神秘的な気配を漂わせている。あるじ(運命)から解き放たれた誠実なる軍用犬か、あるいは海原を渡るみちを選んだ黒い鳥のような、危うい気配と純粋さ、そして気高さに満ちた顔立ちのその少女は、しかし目の前で行われている荘厳な祭礼の風景に、事実としてしばし見とれていた。

 その瞳には、外観からは想像しにくい、無邪気な好奇心と、未知への欲望が煌めいていた。成熟の過程で時間に縫い止められた肉体とは不釣りな魂の窓から、幼い少女が外を覗いているかのようだった。

 それから物憂げに視線を伏せた。ただそれは、生まれついての容貌がそのような印象を生むだけで、特段に飽いたような色はない。

 緋色の瞳は他に何か気になることを見つけた様子だった。


 演奏に興じる大主教リリウムから、先ほど渡された聖典。

 正確には聖典の語句らしい文字が並べられただけの、劣化の進んだ見窄らしい藁半紙を眺めて、文字を目で追った。何が書かれているかは分かるが、いまいち理解出来ない。リーンズィは宗教的な問題にほとんど興味が無かった。

 そのうち破綻した教義の並ぶ紙面自体からも注意が離れたようで、藁半紙を裏返しにした。


 聖典の裏側、すなわち藁半紙の表面――粗末なチラシの本文に目を通した。


 それから、教会を打ち鳴らす聖なる音、聖なる声、神を称える言葉の一切が耳に入っていないという様子で、静かに音読した。


「ノルウェー国家安全保障局より、チョコレート糖衣青酸カリ最終配布のお知らせ。うん、やっぱり普通に読める。……十分な在庫がありますが、次回の配布は予定されていません。別途自決手段を希望される方は係員にお尋ね下さい。拳銃、神経ガス等少数の用意あり。二〇六八年、六月二十三日……午前中九時より。皆様、どうかよき終末を」


 祭礼の空気とはあまりにも似つかわしくない文言が、憂鬱さを讃えた鎮静の繊美な佇まいからかけ離れた、やけに決断的な語調で舌先から紡がれた。

 くすくすとレーゲントや解放軍兵士が困ったような笑みを零す中、気にした様子も無くライトブラウンの少女は首を傾げる。


「二〇六八年とは、何のことだろう。私がアイスランドに運び込まれたのが二〇四八年ごろ。では、今はいったい何年? 荒廃の程度から、二十年ぐらいの経過では無い気がする。もしかして西暦ではない可能性がある?」


「……それが分からないから市街をあっちこっち引っかき回してるんだよ」と最前列で祭礼を見守っていたマスター・ペーダソスが呆れた声を出した。「偵察軍じゃ望ましい傾向だし、興味があるのは分かるが、今聞くことじゃないな? リリウムが怒るぞ」


『肯定します。今は祭礼の最中ですよ、リーンズィ』


 それでもそうであった。しかし、これがもしもヴォイドなら、ユイシスに解析を要求していた頃だろうか。解析しろ、解析しろと偏執的に囁きながら……。

 レーゲントたちは一連の事象を微笑ましい中断として処理したようだった。聖詠を再開しようとしたが、銀髪の少女の指は止まったままだった。

 大聖堂のパイプオルガンもかくやという威厳に満ちた演奏は、ぷっつり途切れてしまった。

 リリウムからは、竪琴を弾く聖母のごとき面影は失われていた。


「ほらな。こうなるんだよ。結婚式ってのは厳粛でなくちゃならんのだ」


「そうなのか」


「俺もよく知らんが映画ではそういう感じだ」


「マスターは物知りなのだな……」と言っているうちにヒナからお役立ち式場情報、おそらくは彼女の国で使われていた冠婚葬祭についての情報共有メッセージが来たが、それらは紛うこと無きスパムメールだったので全部送り返した。

 いまや白銀の少女は不満そうで、淡い色合いの唇をひくひくと震わせている。


「あの、あのですねーっ!」


 思わず、と言った調子で大きな声を出した。それから、こほん、と咳払いをする。

 解放軍の面々には見慣れた光景だ。ファデルからは「あんま気にするもんでもねぇ」とメッセージが来た。

 この人を見よ、と言わんばかりの、聖性の誇示的脱落。

 『聖なる者』とかけ離れた、人なつっこそうな、年相応の少女の声。

 がらんどうの、真実朽ち果てたその聖堂に、澄んだ声はよく響いた。


「……それはいけないのではありませんか? リーンズィ!」


 リーンズィと呼ばれた少女は、ライトブラウンの髪を揺らし、まるで分からないという様子で首を傾げた。


「何となく……分かる」嘘だった。全然分かっていなかった。「でも何故いけないのだろう?」何故? とリーンズィは思った。


「おや、おやおや。わたしが、大主教たるこのわたし、リリウムがじきじきに説法しなければ、分かりませんかっ? まさかまさか! 分かりますね? 分かりますでしょう!」


 リリウムへと向けられたのは、しかし困惑と否定だ。


「本当のことを言うと、ぜんぜん分からない……こういうのは難しくて……」


 またケットシーからお役立ちメールが来た。スパムだった。全部ゴミ箱に振り分けた。


「えっと、常識で考えて下さい。今そういう場面でしたかっ? そういう剣呑な、冷酷極まる飛語を読み上げていいような? たとえば、チョコレート糖衣青酸カリであるだとか! 拳銃だとか! 神経ガスだとか! いいえ、いいえ、いいえ! 百歩お譲りして、聖典をひっくり返したことは、許しましょう。けれども、あまつさえ祭礼とは関係の無い、神の愛を蔑ろにするような文章を音読するなんて、許されると思いますかっ?」

 

 ばっ、と両手を広げて、小さく胸を反らし、じっとりとした青の視線を、ライトブラウン髪の少女へと投げかけた。


「許されないの?」


「これは、祈りの時間なのですよっ」


「祈りというのもよく知らない。でも、私はそれをそこまで蔑ろにしてはいないと思う」

 リーンズィは自分なりに誠実に応えた。イメージするのは常に猫の人のことだ。

「幸せはチョコレートの味をしている。少しだけ食べさせてもらったが、あれは猫と同じぐらいのご満足だった。この地を襲った安楽死のムーヴメントは、耐え難く悲しいことだ。しかし銃殺や絞首刑では無く、それはチョコレートだったのだ。終わり方を美しく、穏やかなものに変えようと、彼らは滅亡の未来を見据えながら決意したのだ。それは祈りだ。ある意味で、このお知らせは一層祈りに近い……」


 リーンズィの凜とした顔立ちは、銀髪の少女以上に無国籍だった。死の谷の影を歩む者特有のどこか穢れた空気が身の回りに渦巻いていたが、絵画の中の聖人にしか現われないような超然とした気配があり――どこか言い知れぬ隙が存在しているという点で、銀髪の少女と全く変わるところはない。

 それ故、胡乱極まる物言いにも、何故か神秘の色が付きまとう。周囲のスチーム・ヘッドは何となく丸め込まれたような顔をしていた。リリウムはそれにそっと視線を巡らせた。自分の意見よりは場の意見を優先したようだった。

 あるいは彼女に意見など無いのかも知れない。


「……いなくなった人々の祈りを肯定するのは、良いことですけど。あの、でも。いいですか、今回の祈りの主役は今回、あなた、そしてわたしなんですっ。もっと熱心になってほしいんですっ」


「そうなのか? ……そうなの?」


「そうなの? ではないです! 嘆かわしいことですぅ。わたしはハリストスの恩寵をその身に刻んで欲しい一心で、そう、あなたの魂に安らぎあれという心でもって! その聖典を託したというのに……!」


「聖典。私には史料……よく言って史料の一つにしか見えない……」


 リーンズィは腐食の進んだチラシの表と裏を何度もひっくり返した。


「そうだ、リリウム、聞いて欲しい。我々は重大な事実を発見したのだ。裏面の文章には非常に高い価値がある。二〇六八年か。この記述が正しいならば、我々がアイスランドに逃れてから最低でも二十年が経過していたことになるが、誰にも全く、そんな自覚はないらしく……! <時の欠片に触れた者>の活動範囲を推定するのにとてもお役立ちなのでは?!」


 子供のような熱心さで訴えかけるリーンズィに、「またお姫様が怒るぞ」と兵士の列から囃し立てる言葉が飛んだ。


「そういう話もしていないのですが! あの、駄目だとは言いません。でもそのお話は後ででもいいじゃないですかーっ。真面目に奉神礼に参加してくださらないと、困るのですが! わたくし、泣いてしまいますよっ?」

 既に涙目であった。

「いいえ、いいえ、いいえ……あなたがそういう存在であることを、神の恩寵をまさしく体現していた存在であることを考慮していない、わたくしの落ち度でしょうか……? まぁ、救いの訪れていない時代の、使い古しの紙を使ったのは配慮が足りなかったのかも知れません。けれども、ええっと、あのですね、わたしは、この祝福の時代で、なおも使命の囚われ人として、罪業の惨禍に身を投じている、その気高い姿勢に、せめて神の御慈悲があるようにと……」


 銀髪の少女もまた熱心な身振りで、とにかく悲しみの感情を表現しようとしていたが、動きがあまりにも大袈裟で、何か前衛的な劇団の奇妙な踊りのようだった。


 それが余程可愛らしかったのだろう、空中に浮かんでいるユイシスのアバターが嘲りの笑みと共に問いかける。


『通達します。大主教リリウム、当機が代わりにスピーチを行いましょうか?』


「わたしの主催なのに、それじゃ意味がないではありませんかーっ!」

 

 リリウムは虚空へと指をさして、熱心に弁を振るった。


「ユイシスさん! これは笑い事ではないのですよっ。今まさに信仰が試されてようとしているのですから。そう、わたしは、これしきのことで怯んではならないのですっ。我らが神よ、親愛なる聖父よ! ご覧あれ、私の心の動かざることを……! どうかお聞き下さい、御言葉に傅く献身を、御言葉を受け入れる知恵を! 御言葉を……御言葉を貫く力を、このわたしにお与えください!」


「ここまで彼女が信じるのだから、神様というのも実在していて……それはもしかしたら支援AIのようななのかもしれない」リーンズィもまた虚空へ問うた。「そうだ、ユイシス。リリウムには神様が見えているのでは? 神経情報の解析を」


『貴官には不要でしょう。花嫁になる人間の心根を覗き見ても、待っているのは冷ややかな生活ですよ。無知であればこそ幸せと言うこともあるのです、当機としての見解を述べるならば、神なるものがいるのならば、これほど混迷とした状況になっていないかと』


「でも私にとって支援AIの十分なサンプルケースは君しかいないし……私としては、仮に君が神様なら、世界はここまで混迷とした状況に普通になると思う」


『理解します。言いますね。貴官も成長していますね。誰の影響でしょうか。どうしてそんな心ないことを? ウンドワートでしょうか。この後待ち受けている36時間連続初夜の配信映像を視覚ウィンドウから取り除けないように細工しておきましょう』


「うん? 何だそのプログラムは……聞かされていないが……」


「ええ、ええ。わたしの信仰は、悪徳と厭悪の中で穢されようと、必ずや成聖の血と肉に天国を相続するでしょう!」リリウムは一人で勝手に自棄になったようだった。「うう、聖父スヴィトスラーフ様、どうかお許しください。わたしは、わたしはこの未明のともがらを、心から愛しているのです。どのように導けば良いのです? どのようにして神の御国の威光で、かの者の蒙を導けば良いのですか? ああ! これはどのような試練なのですか……」


「はいはい、そこまでにしなさいね」と立会人を務めるミラーズが溜息を吐く。「これから二人で仲睦まじく解放軍の運営に携わっていくのです。式場まで来て喧嘩していては、この先が思いやられます」


「でもお母様! リーンズィが真面目に取り組んでくれないのですっ!」


 自分が怒られている! リーンズィはようやく状況を完璧に理解した(つもりになった)。

 そしてヴァローナの瞳をうろうろとさせて、存在しない理屈を探して、それからユイシス流の屁理屈を思いついたようだった。


「聞いてほしい、リリウム、大主教リリウム。スヴィトスラーフ聖歌隊の一翼を担う者よ。要するに、私がこの聖典と真摯に向き合って、内容を頭に入れさえすれば良いわけだろう」


 リリウムは眉を顰めて、恨み言を操るのをやめたが、まだ不服そうだった。


「……そういう、神性を軽視する、即物的な物言いをする場面でもないと思いますがっ」


「良いから、聞いてほしい、リリウム。私のプシュケ・メディアにチラシの裏の……聖典の文章自体は記録されたわけだから」……ホワイトアッシュに彩られた髪をかき分け、ヴァローナの破損した人工脳髄を、こんこん、と指で叩く。「神の言葉であるところの聖典は、文字通り私の血肉とか……知らないが……そういうのになったのでは?」


「ん? うーん……」大主教を自認する白銀の少女ははっとした。「そう! そうですよ! あなたは今、案外良い線を行っていますよ!」


「あー。リリウム様、今回も雑な解決に落ち着いたな」

「でも大事なことは実現はさせちゃうんだよなぁ。大体マジで奇跡的だし、過程はどうでもいいわけよな。まぁ俺らとしては最終的に幸せそうにしてくれるんなら別にどうでも……」

「こら、静かにして。神託も奇蹟も、本質はより良い世界を招き寄せると言うことなんですよ。それを迎える時は粛々としているべきです」

「リリウム様のことは疑いはしないよ。あの人は信じていい人だ。たまに頼りないけどな」

「そこが良いんじゃ無いですか。信じたくなりますし、守りたくなります」

「どいつもこいつも分かってないなぁ……」後ろの方で腕組みをしている兵士が言った。「彼女の大聖堂が、彼女の運営する理想国家が見えているのは、もしかして俺だけか?」

「またかよ」

「大聖堂とかわけわかんないこと言ってんじゃねーぞ」

「俺にははっきりと見えるが?」

「お前はそんなんだからリリウム様の半径3m以内に接近するなと言う判決を出されて人工脳髄にもそういう設定を施されてるんだぞ、式に参列する栄誉だけ大人しく噛みしめてろ」

「は? 判決を出されたのは事実だとしてもトークンを払えば依然として生体拝領も可能なんだが?」

「いいかないいかな君の設定値は相場の千倍ぐらいの額なんだから実質的にお断りされてるんだけど分かってるのかな再調整が必要かな必要だね再調整するね」

「げッ、あなたはヘカトンケイル?! いつのまに……ぐわあああああ」


 リーンズィが耳をそばだてていると、そのような和やかな会話が背後の参列者から聞こえてくる。

 どうにもこのリリウムという少女は、日頃からこんな調子であるようだ。聖女の顔で理想を説き、少女の顔で親しみを演出する。そして最後には否定しようのない『結果』で人々に己の大主教としての身分を示し、目指す先に清廉なる御国があると信じさせる。

 これも人間の心の城壁を崩すための作為的な仕草なのかもしれないが、不滅の聖性を、そのわちゃわちゃとした身振りから思い出すことは、なかなかに難しい。ただ、虚無的な祈祷を奏で続ける魂なき信徒たちは、「これが俺たち/私たちのリリウム様なんだよなぁ」という顔をしていた。


「だんだん分かってきた気がする……」


「そうですかそうですか!」リーンズィの呟きを勘違いしたのか、リリウムはご満悦の表情だ。「それでは、何が分かったのでしょう!」


 誰もがリーンズィの切り返しに注目していた。

 リーンズィは一瞬で理解したことを捏造した。なむ、猫の人。そうあれかし、猫の人。


「えっと……つまり、この聖典は私たちが想像しているよりも遙かに真理に近い場所にある。猫は何故真実なのか。それは猫が神の教えに近しい場所に居るからで……このチラシもまた猫的と言える。つまり普遍的な真実なのだ。聖句は絶対だ。そして聖句が刻まれた以上、この安楽死薬配布のビラも、聖典の一部として属性を獲得する。気がする。それを音読したということは、究極的には祭礼を強化したとみなして良いのでは?」


「……なかなか良い発想です! それです、それでいきましょう! ハレルヤハっ。あなたの内にある聖なる教えの萌芽は、主の威光の元に枝を伸ばしています!」


 リリウムはリーンズィに抱きつこうとして、目の前の聖餐台に阻まれてつんのめった。その拍子に火の付いた燭台を倒した。銀髪の少女は慌てて手を伸ばして台を支えた。熱した蝋に手を焼かれて「あつっ、あっ、熱いですね!? 蝋は溶けているので熱いです!」とよく分からない悲鳴を上げた。

 しかしかつて大鴉だった少女は燭台が倒れる前の段階で立ち上がり、手を伸ばしていた。

 白くなり始めた毛を揺らしながらら、さっと彼女の手から燭台を取り上げた。

 目を丸くした白銀の少女の頭を片手で抱き寄せ、赤い瞳にその顔を映しながら、軽く接吻した。


「熱いのならば、私に頼れば良い。だいじょうぶ。私たちは調停防衛局とクヌーズオーエ解放軍。それらの化身としての花嫁。いつだって助け合う。これぐらいは私に頼ってほしい」それから、しばしの沈黙。「そういうものでは、ない?」


 レーゲントたちからひそひそと息を弾めてて話し合っている。彼女の発言が、何人かの琴線に触れたらしい。


「リーンズィはたまに心地よいことを言いますね……こほん。取り乱してしまいました。祭礼に入る前にやるべきことがあります。さぁリーンズィ、我らが来たらざる同志、殺戮の地平線から訪れた煉獄の代弁者よ! 時は満ちました。あなた自身の痛悔機密と参りましょう。これまでにあなた冒してきた罪の告白をなすのです!」


「えっ、結婚式ではないのか……」リーンズィは読み込んでいた『お役立ち! ケットシーのハッピーウエディング集』と異なる展開に直面した困ってしまった。「しかしリリウム、私は信徒ではない。こういった儀式は信徒でなければ無意味なのでは」


「再誕者リーンズィ。お聞きなさい……」少女に目に、暗黙の真理を語る奇怪な神聖の輝きが再来した。そして歳を経た神父のドッペルゲンガーであるかのように厳かに呼びかけた。「あなたが使っている肉体は我が同志、使徒ヴァローナの所有物です。であれば、あなたは使徒ヴァローナの神の花嫁としての性質を通して、とうに神の御胸にあると言えます」


「言えるかな……?」言えない気がした。


「言えるんです! あの、あのですね。わたし、確信しました話の腰を蹴るのは……悪い癖です! 話の腰を、こう……えいっ、えいって」銀髪の少女はぎこちない動きで、何も無い空間を蹴るジェスチャーをした。「それはいけないところだと思いますよ!」


「話の腰を蹴るという表現は初めて聞いたがそういう表現があるの?」


「ええ、ええ、そうです! そういうところ! そういうところですよ! なんで変なところだけヴァローナと似てるんですっ?! ……えへん、えへん。これはわたしにとってもギリギリの妥協なんです。もしも受け入れられないと仰るなら、わたしもこのお話はなかったことにしても良いのですよ? 最終的にわたしは、わたくしがリーンズィ様の御側に居られるなら、それで満足なんですからっ!」


 考えるまでも無かった。確かに不躾なことを言い過ぎた、とリーンズィは反省した。「うん。分かった。私が悪かった」降参した、という調子でこっくりと頷き、両手を挙げる。「別に張り合う気はない。私はただ、こういう行事には不慣れで、混乱してしまったんだ。許してほしい。許してくれる?」


「ええ、ええ、もちろん許しますとも!」豊かな白銀と、それを覆い被さる黒と金に彩られたウエストポイント帽が、舞い遊ぶ小鳥の羽のように弾んだ。「赦しを与えることこそが、大主教たる我が身に与えられた神命なれば!」つぼみが綻ぶような、見る者を惑わせる艶やかな笑みを浮かべる。「さぁ、わたしの身を通し、父なる御名の元へ告白を。この地に至るまで、あなたはどのような旅路を辿ってきたのですか? どれほどの罪を犯してきたのですか? 主は全てを見ておられます。そして、真に悔い改める者には、必ずや慈悲を給うことでしょう……」


 リーンズィはその時初めて笑みを浮かべた。

 苦笑だった。それも、すぐ無表情に戻った。


 そうして首に取り付けた金属製の首輪に触りながら「リリウム。君は私が、何か……立派な大冒険をしてきたと思っている?」と、どことなく茶化すような口調で言った。

 リリウムは小首を傾げた。


「だって、それは、そうでしょう。現代まで活動を継続しているスチームヘッドですから、数十年の稼動期間があるはずです」


「まさか。そんなはずはない。生後一週間というところだ、私は」


「え」銀髪の少女は狼狽したようだった。「えーっと、これ、じゃあ、もしてかして痛悔機密とかじゃなくて、聖洗とかになるんですかね……? うう、幼児洗礼はやったことがないのですが……」


「君の論理を適応すると肉体が既に洗礼を受けているので、ご安心だ」


「うーん、そう、そうですよね……重要なのはあなたではなく、魂の持ち主である肉体の性質なのですから……じゃあ良いということにしましょう」


『秘匿回線にて報告。精神活性を取得……解析終了。大主教リリウムの振る舞いは、80%以上が意図して出力されたものです。これは彼女の真の姿ではありません』


> 元より聖句による大聖堂などと言うものを背負っておいて真の姿も何も無いし、私は実際にこの聖女のふりをした女性に手篭めにされかけたので、そんなことを報告されても困る。


『それもそうでした』


> というか花嫁の内心探るのは善くないと言ったのは君では。


『当機の独断なので何の問題もないですよねっ」


> 適当な口真似は後で怒られるし死後裁きに合う。


『AIに死後は無いのでやはり問題が見当たりませんね』


 しかし、リリウムが全くこのような人間でないとは、天使を装う悪魔であるとは、やはりリーンズィには信じられない。信じたくなる人間ではあるが、誰の目にもその本性は見えないのではないか

 

「……多種多様な機体を統べる解放軍の長。やはり愛される人物で無ければ象徴として君臨できない……?」とリーンズィは疑問を口にした。何度か瞬きをした頃には、そうした疑念は消え去っていた。「彼女は聖少女なのだ。そう信じられているし、そうであろうとしている。それ以上のことは私と彼女の間に、果たして必要だろうか?」


 大主教リリウム。

 その顔と名前を、リーンズィと名付けられた少女は知っていた。

 知っていたはずだった。出会う前から、生まれる前から、彼女のことを知っていた。白銀の少女の顔と名前は、かつて存在した全ての組織が把握していた。

 天使の似姿のような可憐な狂信者。そのように創造された期待。全世界の敵であるべきもの。

 虐殺者、スヴィトスラーフ聖歌隊。その幹部の一人……。


 だというのに、リーンズィには目の前に居る愛らしい少女がまさしくそれだと、確信が出来なくなっている。

 直立不動の状態で、一秒の休みもなく聖詠を続けている人々……大主教に意思をコントロールされた感染者たちに、そっと目を向ける。彼らは本来ならば、自分の意思では指一本動かすことも出来ない。意思それ自体が備わっていないからだ。

 彼らを支配し、敬虔な信徒としての振る舞いを刷り込んでいるのは、紛れもなく眼前の、銀髪の愛らしい少女なのだ。人知の及ばぬ外道の技法。『原初の聖句』。この常軌を逸した能力こそが、彼女が大主教の位階を与えられている証である。


 そして何よりも、重要な事実がある。

 聖少女リリウムに傅くレーゲント。

 彼女たちと意見を同じくする戦争の犬、継承連帯のスチーム・ヘッドたち。

 彼らは善も悪も残されてはいないこの世界で間違いなく大主教リリウムを信じようとしている。

 その結果を導き、ここまで彼らを存続させてきたのは、他ならぬリリウムの献身の賜物なのだ。

 なるほど、全ては無意味だ。全ては無価値だ。

 リーンズィがその事実を忘れたことはない。

 もはや全てが手遅れだ。

 それでもなお諦めていない者たちが、まさにここに立ち並んでいる。

 彼らの背後にも、数百、数千、数万の単位で、結集している……。

 だからこそ、アルファⅡモナルキアの総体として、この未知なる大主教と向き合うことに決めた。


「そう長い話じゃないんだ。最初、私は移送先のグリーンランドのノード基地で目覚めた。そうして飛び立ったんだ。おんぼろの戦闘ヘリに我が身を預けて、極寒の北極海へと飛び立った。気の狂った渡り鳥みたいに……そうするしかなかったんだ」


 白銀の少女、リリウムは、真剣な眼差しで訥々としたその告白を聞いていた。

 彼女の首にも、リーンズィと同じ隷属化デバイスが取り付けられている。封入された偽りの魂は全く違う。いつかどこかで結節点が存在しただけの、異なる二つの人格記録。それらは本質的には別物だろう。

 それでも、見つめ合う二人の、揃いの首輪は、運命の囚われ人の証にも似て、埃に曇る陽光の下、揃いの婚約指輪のように輝いていた。


「私の任務は三つ、たったの三つだけだ。各地の旧国際保健機関事務局の安否確認、遭遇したあらゆる戦闘への介入と調停。そして……ポイント・オメガへの到達。そして私は……アルファⅡモナルキア、エージェント・アルファⅡとエージェント・ミラーズの二人に愛されて生まれた」


 あらゆる歴史は朽ち果てた。

 あらゆる催事は失われた。

 あらゆる生誕は拒絶され、あらゆる葬列が散逸した。

 全ての未来、全ての苦難、全ての時間は久遠の地平へ遠ざかり。

 神の御国は来たりて、神はこの地にあらず。


 目指す先は彼方。

 最果てを逃れ、さらなる地平を目指す。

 辿りついた先に楽園など無いかもしれない。

 行き着く先は、単なる殺戮の地平線かも知れない。

 だが、命尽き果てるまで、進み続けろ。

 蒸気機関(スチーム・オルガン)の鼓動に従って……。

 声が枯れるまで歌い続けろ。

 


 アルファⅡモナルキアが全てを話し終えるのに、時間はかからなかった。

 辿々しい言葉。生誕してからこれまでの短い時間の記憶など、大した内容になりはしない。


「それでは天使様は、リーンズィ様は」とリリウムは呟いた。「病を制するものであられるのですね。獣に再び道を示される者であられる……」


「あるいは、そうかもしれない。しかしこの手は、獣の血で穢れている。救うべき者を、永遠に苦しむ獣たちを、私は書き換えることしか出来ない」


「違うわ、リーンズィ」金色の髪の天使が歌う。「あなたは我が仔を救ってくれた。穏やかな眠りを与えてくれたの。あたしを奴隷にした点については目を瞑ってあげる。とにかく、その一点においては、あなたの本質なんて関係ない。行動だけが、形在る奇蹟だけが、この世に遺された本当のことなのよ」


「ああ、それでは」白銀の少女は微笑む。「やはりわたくしたちの出会いは、父なる神が与えて下さった天命なのでしょう。あなたは、運ばれているのです」


 レーゲントたちが聖詠を一層高らかに、それでいて抑制した声音で、通奏低音の如く世界に宣告し、身に纏う楽装蒸気甲冑を打ち鳴らし、祝祭を加速させいていく。

 

「それじゃ、僭越ながらあたしが二人を見届けるわ」と退廃の聖女は笑みを零した。


 心からの祝福で願望を輝かせながら。

 エージェント・ミラーズは問いかける。

 

 金色の天使は告げる、「その健やかなるときも、病めるときも――」

 ……人は、この永久の不死から逃れる術を持たない。人は、この不滅の病から逃れる術も持たない。

 だからこそ、病に支配された世界で、だから、不滅の終わりまで、歌い続けるべきである。

 かつて詩人はこう言った。『健やかなる運命は、ついに我がものにあらず』。

 しかし歌い続けろと彼は言った。


 金色の天使は告げる、「今日、この日に勝る歓喜のときも、今日、この日に勝る悲嘆のときも、財宝にその目が眩むときも、一切れのパンにすら御著を期待せざるを得えない日も――」

 ……永久は、しかし永久では無い。刻々次第に状況は変化し、前進するだろう、後退するだろう。善くあれかしという願いと裏腹に、世界は悪くなり続けるかも知れない。 

 かつて詩人はこう言った。『我ならず望み、我ならず望みを失いね』。

 だからこそ望み続けろと彼は言う。


 金色の天使は告げる、「これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けーー」

 ……崇高な感情であれども、それは灰の柱に等しい。いとも容易く打ち崩される。この不滅の時代において、偽りの魂だけが常に破滅に晒されている。明日の自分の心すら、斜陽の今日には見えはしない。

 かつて詩人はこう言った。『躊躇わず弦を鳴らし、悲しみを謳え』。

 待ち受けるのが破局だとしても、臆すること無く愛せよと彼は言う。


 金色の天使は問いかける、「死が二人を分かつまで。汝の伴侶にーー真心を捧げると誓いますか?」

 ……この不死の時代、この不滅の時代、この絶滅の時代、この虐殺の時代に、永久の愛を誓うこと、それを守り抜くこと。無限に勝利し続けるよりも尚困難だ。明日には反目し、殺し合っているかも知れない。

 かつて詩人はこう言った。『運命の強き一撃は、破滅の渦(力ある人)をすら打ち砕くが故に』。

 信じ続け、歌い続け、来たるべき全滅の時代に立ち向かえと彼は言う。 

 

 連理を願った花嫁たちは、息を潜め、互いの言葉を探った。

 大主教リリウムは応える。「ええ、誓います」

 アルファⅡモナルキアは応える。「理解する。その契約に従う」

 だから二人は、極めて古典的なプロトコルにより、口づけを交した。

 互いの不滅を助かめるように、衆目を憚らず交歓を果たした。

 

 祈りなどありはしない。

 祝福などありはしない。

 偽りである。象られた祝福である。

 だが、彼女らはここに誓ったのだ。

 この約束の丘に。

 打ち捨てられた祝祭の地に。


「だから、あなたを愛します、許します、リーンズィ」と少女は笑った。

「だから、君を守り続けよう、君を信じよう、リリウム」と少女は笑った。

 その肉体に魂はない。まことの祈りなどあるはずもない。

 さりとて、祈りの声はこの地に響く。

 この最果ての地に。

 終端の時代に。


 それは盲目にして白痴、無知無能の神に捧げられた、せめてもの栄光の詩。

 神になど届かない。

 誰にも届きはしない。

 だが、それでも――祈りではあるのだろう。


 調停防衛局とクヌーズオーエ解放軍は、この日。この時。この丘で。

 この絶滅の時代において……。

 確かに運命共同体と成り果てたのだった。

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