2-12 祭礼のために その8-8 新しい朝のために
ミラーズとユイシスの意味ありげな指摘に対して、リーンズィの反応はシンプルだった。
精悍な面相にあからさまな希望の色を浮かべて、うずうずとしたのだ。
「そうなのか。そうなの。なるほど、私が使用している言語は聖句だったのか。それで、聖句だとどうなるの。すごい何かが起こったりする? 私にも無から猫が呼べるようになる……?」
抵抗感も違和感も、リーンズィの中には影も形も現さなかった。使用言語など、どうでもよいのではないか。それとも、使用言語が所謂『聖句』であることによって生じる、何か複雑な問題があるのか。不都合な方向へ想像を巡らせようとしても、不安よりは好奇心の方がずっと強い。彼女に尻尾が存在したならば、それはゆっくりと左右に振れていたことだろう。
人格的に未成熟でまだまだ成長の途上、この世には自分の知らないことのほうが圧倒的に多いと分かり始めたリーンズィにとって、無知は全く恥じることでは無かったし、未知の情報の入力には『よろこび』さえ存在する。ロングキャットグッドナイト風に言えば『ごまんぞく』を感じることが出来るのだ。
おやつを前にしてお座りを指示された猟犬のように、期待に胸を膨らませつつも、至って生真面目な顔で次の言葉を待っているリーンズィ。
何やら仄めかすような口ぶりをしていたミラーズはベレー帽の下でついに相貌を崩し、くすくすと笑い出してしまう。
一方で無帽のユイシスは、あてが外れたと言ったふうに憮然としていた。
「ね? 言った通りでしょう、リーンズィにとってそんなのは、やっぱり本質じゃないのです。自分が得体の知れない言葉で話しているなんて言われたって、ちっとも怖くないの」
『ふむむ。当機としては、もう少しアイデンティティが強固に形成されているのではないかと期待していたのですが。これではまだまだ子供と言わざるを得ません。言語はスチーム・ヘッドにとって魂の寄る辺にも等しい要素です。それにすら拘りを持たないという問題は、遠からず脆弱性に発展します』
「でもね、あたしの愛しいユイシス。国家だとかナショナリズム? だとかが称揚されていた時代はもう終わったではありませんか。言葉なんてどうだっていいでしょう。ふふ、我々が終わらせたのです。聖歌隊は時代と寝て、見事に寝首を搔いたのでした」
『信じられません。ショックです。まさか「時代」という超大物に、当機のミラーズが寝取られていただなんて』
「もっとも、私はもうユイシスの腕の中に転がり込んでしまった後なのですが。ふふふ」
「二人ともいったい何の話です?」
リーンズィが思っていたのと全く同じことをリリウムが口にした。リーンズィもまさにどういう話なのだろうと考えていたところだった。国家という枠組みの崩壊は、ただちにナショナリズムの崩壊を意味しないのでは? 思うところは極めて多いが、人類文化継承連帯はおそらくNationなるものを不完全ながらも受け継ごうとする組織であり、だいたいにして想像と理念によって維持される共同体としてのクヌーズオーエ解放軍を、この定義から解放された組織と見做す立場にも迎合しがたい。
疑問に思う点はどうやら似通っているらしい、とリーンズィは少しだけ親しみを覚えた。
「なしょなり? って? ……ヴォイニッチが好きだったゲームの名前に似ているような」
「そこは大事なところではないの。つまりね、リーンズィとリリウムは同じ言葉を使い、同じ地平で声を重ねる真の同胞だ、ということです」
「そういうお話でしたか! なしょなり? というのがよく分かりませんでしたっ」
そういうお話では無かった。そもそもスヴィトスラーフ聖歌隊の志向する『御国』というのは、ナショナリズム的な要素を一切含んでいないのだろうか。リーンズィは混乱し、もうそんな複雑そうなことはあまり考えないようにしようと思った。ミラーズにしたところで意味や背景をあまり理解しないままナショナリズムという単語を使っているような気配した。アルファⅡモナルキアの権限で思考ログを辿ると、やはりそういう具合であった。
とにかく一度リリウムに親愛の念を覚えてしまったのは事実なので、その後に続く「つまり、リーンズィ様はわたくしと同じ言語を選んで下さったのですね……やはり魂の奥底では繋がっているのですっ」という妄言は特別に聞かなかったことにしてあげた。
それにしても、ユイシスからしてみると『言語について全く関心が無い』というのが期待外れだったらしい。彼女としては、どんな反応が欲しかったのだろう。
リーンズィは自分自身を拡張する訓練のため、スタンドアロンでの思考を推し進めた。普段ならばモナルキア総体から情報を引き出して参考にするところだが、あれは人を神か悪魔か、さもなければダメ人間にする機械である。頼ってばかりでは根源的な成果が無い。ヴォイドから戴冠を正式に受けたエージェントとして、自覚が湧きつつあったのだ。
リーンズィとしては、言語について指摘をされたところで、どうあっても特別な感慨は本当に何も浮かんでこないのだ。思い入れがない、何の不便もない。アルファⅡモナルキアからの援護無しでも首輪型人工脳髄の翻訳機能だけで充足している。レーゲントたちのように、文字を読めない、理解出来ない、という状態でもない。『キジール』や『チェルノ』といった単語がロシア語で、『ロング』も『キャット』も『グッドナイト』も英語である、というところは問題なく取り扱える。書くにしてもおそらく可能であろう。そして、リーンズィはこれまで一切気に留めてこなかった。指摘されるまで意識したことさえ無かった。その程度の問題だったわけである。
リーンズィは内面を深く、深く走査するが、無駄であった。手がかりをまとめようにも、少なくともヴァローナの肉体に芽吹いたばかりの精神存在であるリーンズィには、国家に属していた記憶など全く無い。特定の文化圏に執着があるわけも無い。ましてや使用言語などに自我の錨を定めよと言われても、リーンズィの演算された心は忘れ去られた漂流船のように波間を揺蕩うばかりだ。
結論として弾き出されたのは、やっぱりどうでもいいのでは、という考えが七割。
レアせんぱいは何語で世界を見ているのだろう、同じ言語なら本当にさらに仲良くなれるの? という空想が二割。
残り一割は、確かに使用言語にさえ気付かないのは確かに大変だ、という控えめな問題意識。
だって、つまり、そんな基本的なことについて、悩んだことがなかったと言えるのだから、万事においてそうであろう。
「……悩むこと。それが大事? もっともっと悩まないと成長できない……?」
『肯定します。貴官はあまりにも悩みません。葛藤は擬似人格演算の精度を向上させ、知的活動の領域を拡大し、ひいては世界認識の規模をも更新します。リーンズィはウンドワートへのお土産や猫をモフモフすることによるストレス発散を求めるのではなく、アルファⅡモナルキア・リーンズィとしての個性の確立をこそ探求するべきです。貴官には元々人間性が存在しませんでした。新たに得た可能性世界を発展させるには、より多くを見聞きし、思索するほか無いのです』
嘲るのとも異なる、厳しい口調だった。
そうなのか、と少し気勢を落としたリーンズィに、黄金の髪の少女が羽根飾りを揺らして寄り添う。
「そうとも限りませんよ、ユイシス。人間性とは何かと問われれば、私ならば愛すること、祈り続けること、歌い続けることだと応えます。内面に向かって考えを巡らせることも大事だとは思います、でも世界の外側に存在する人々に向かって慈しみの心、憐れの心を育てていくことも立派な成長のはずよ。悩み続けるよりはゆっくりかもしれないけど、素直な心で色々なものを愛して繋がっていけば、リーンズィの魂は花を咲かせ、豊かな果実をつけることでしょう」
リリウムが全然よく分かっていない顔で「そうですそうですっ」と追従する。「愛さえあればいいですよねっ」という声には、聞こえないふり。
ミラーズたちの擁護は嬉しいが、リーンズィとしてはやはり、育ち盛りの猫のようにぐんぐん成長していきたい気持ちだった。固有の肉体がなくても、あるいは確立された来歴がないからこそ、どこか見知らぬ世界へ前進していきたいという願望ぐらいは持っている。
リーンズィには、まだ何も無い。どうしたってアルファⅡから受け継いだ思想は酷くおぼろで、かつてあった決意や葛藤でさえ「みんな仲良く」といった程度の矮小化された願いへと堕落してしまっている。
だけど、それではきっと、いけないのだろう。
自ら存在に至ってこそ一流のスチーム・ヘッドだ。聖歌隊には独自の認知特性がきちんと備わっているし、軍団長として皆に慕われているファデル、他には煙草に異常に拘るマルボロや、あるいはコルト少尉、レアせんぱいのような……様々な立派で尊敬出来るスチーム・ヘッドなら、そういった自我の構成要素についても、しっかりした考えを持っているに違いない。
自分もそのようになって、そしてレアせんぱいと肩を並べて幸せに過ごすのだ、とリーンズィは決意を新たにした。
ところで、人格を走査していて、少女は一つ気になる点を見つけていた。
「しかし、私はてっきり、自分は国際規格オーバードライブ対応型標準言語モジュールを使っているものだとばかり……」
ぽつり、と思い浮かんだ純粋な疑問を口にする。
「皆もそうなのだと思っていた。スチーム・ヘッドなのだから、その辺りは共通しているのものだと。でもそうとは限らない……そう、固定観念は駄目……ということなのだな?」
『情緒の醸成程度について上方修正します。投影について思い至るとは、意外にも高精度な自己認識です。そして自己分析も予想より進歩していますね。現に、貴官の思考形態は、国際規格オーバードライブ対応型標準言語モジュールによって開催されるものと類似しています』
即座に反応を返してくれたのはユイシスだけだ。他の皆は一様に首を傾げた。
ケットシーなどは顕著で、人形めいた顔にあからさまな「?」マークを浮かべている。
「こくさいきかくおーばー……って、何?」
「ケットシーには馴染みが浅いかも知れない。国際規格オーバードライブ標準言語モジュールは、英語を基礎として設計された人工の高速言語だ。意味の圧縮や省略に特化しており、形容詞なども少ない。非常に実戦的で、余裕が無い時でも意思伝達においてご満足できる。特に高速戦闘が可能なスチーム・ヘッドには国家を問わず多用されている言語基体、だったはずだ」
「つまり英語……? でもリゼちゃんはずっと東アジア共通語で話しているはず。皆も基本的にそう」
「うん?」今度はリーンズィが首を傾げた。
『ケットシーの言語基体が東アジア共通語に類似しているのは事実です。もっとも、エージェント・シィーはリーンズィと同様、国際規格標準言語モジュールの方を重視していましたが』
「お父さんこの言葉使ってなかったの? 心、つまり言葉でさえも祖国を裏切っていたということ? 確かに東アジア経済共同体っぽくない顔かたちをしていたし、やはり全ての部分が裏切り者……」
『貴官にしても東アジア経済共同体の居住者の典型的な容貌とはかけ離れていますが、自覚が無いのですか?』
「よく言われるけどヒナは模範的東アジア経済共同体市民だもん」
「その、全然分からないのだが、東アジア共通語というのが存在する?」
復唱してみるが、リーンズィには思い当たる節が全くない。どうしたところでそんな言葉は使用していた記憶が無い。
代わりに直感めいたものが働き、「君は東アジア共通語で話しているつもりなのか?」と問い返した。
「うん。ヒナは東アジア共通語で話してる」
「じゃあロングキャットグッドナイトは……」
「じゃあって何? それは英語。それぐらいはわかる。でも普段は東アジア共通語。皆も、そう。ミラちゃんだってそうだよね?」
「私ですか? うーん、そういう言語があるの? 初めて聞いたけど。東アジア……記憶がどれほど正しいか分かりませんが、どこでしたっけ、カンジ? とかが難しい地方ですよね。派遣された大主教は大変な苦労をしたと聞きましたが、シィーの世界だと色々と統一されて、開発されてるのですね」
「あれっ……東アジア共通語じゃない感じ……?」
リーンズィは驚いていた。この学生服姿の少女剣士は、やけに起伏の無い、淡々とした喋り方をしているとは思っていたが、他の機体とは全くの別言語で話しているつもりらしい。
実際にそうなのかもしれないが、思考を形作る聖句の効果ではあろうが、リーンズィからしてみると、特段別の言語とは認識出来ない。
「なるほど……エージェント・ヒナ、これは単純な話だ。私もリリウムもミラーズも、万能の非言語的言語である『原初の聖句』が使える。全部統一して翻訳してしまう。つまり、相手が何語を話していても全く区別が付かないということだ」
「どういうこと?」ケットシーはしかし、直後に首を振った。「ん、解説はいらない。ヒナは世界の広さを忘れてた。そっか、ここでは新しくヨーロッパ語とか覚えないといけないんだ……がんばる……」
「そういうことでもなく……ヨーロッパ語……ヨーロッパ語というのは無い……あるのか……? まぁそれはそれとして、東アジア共通語か。ユイシスの解析では、確かにそのような音を発しているようだけど、何故だろう……正直、あまり私と大差が無い話し方のような気がする」
『淡々としていて起伏が無い、という自覚がある。さらに評価を上方修正します。幼児ではなく児童程度の認知能力ですね』
「私は一秒ごとにぐんぐん成長している。なので、君が悪口を言っているのも分かる、ユイシス」
『これは失礼しました。ぐんぐん、ですか。ぐんぐーん』ユイシスはキジールの天使の美貌で、悪魔のように嘲笑った。『東アジア共通語についてですが、古中国語に似た形式の人工言語です。語順は国際規格言語モジュールと同一ですので、その影響かも知れません』
そこで「皆様、聖歌隊の信徒として汎スヴィトスラーフ語で話しているのではないのですか?!」などとリリウムが混ぜ返すものだから、リーンズィにはすっかり状況が分からなくなってしまった。
リーンズィがミラーズに尋ねたところ、スヴィトスラーフ聖歌隊の洗脳教育の一環でそういうものがあると教えて込んでいただけで、実際にはそんなものは存在せず、かつてキジールとして活動していたミラーズにしても、言語基体は普通のロシア語だということが分かった。
「えー、じゃあ世界の全てがスヴィトスラーフ聖歌隊を讃えているわけではなかったのですか……騙された気分ですっ、酷いですっ」
「ご、ごめんね、リリウム。まぁ騙していたのですけど」
「大人はみんな嘘つきなのですっ! 薄々『もしかして無いのかも……』と気付いていましたし、お母様の愛と言うことで今回だけ特別に贖宥を認めます」
「私の可愛い娘、大主教リリウム様は寛大であらせられますね」
「ん……? 待って。二人とも、どういう関係? 母? 娘?」
ケットシーには二人の遣り取りが理解出来ないようだ。
発話の内容ではなく、むしろ『お母様』や『娘』といった言葉に曰く言い難い顔をしている。
一歩引いてみれば、むべなるかな、戸惑うような異様な光景ではある。リリウムの顔つきは稀代の彫刻家にも再現は出来まいというほどに整っていて、それでいて表情が柔和なせいで幼く見えるが、発育は優れており、少女らしい清廉さを維持したまま女性らしい肉体美を獲得している。とても文字通り世界を籠絡せしめた大淫婦とは誰の目にも映らない。一方で、ミラーズはやせっぽちの少女である。どれほど清廉として美しく、どれほど表情が大人びていて、どれほど佇まいに退廃と気品がようと、彼女を経産婦と看破するのは不可能だろう。
注意して観察すれば、外見に類似性が存在するのに気付くかも知れないが、それでもミラーズが圧倒的に年下に見えるはずである。
「私たちは母と娘なのですよ、シーちゃん」
「まさか、リリちゃんより、ミラちゃんの方が年上? ヨーロッパの人の年齢、外見からはよく分からないけど……」
「ヨーロッパ人でもありませんが、私とリリウムでは少なくとも生年は18歳ぐらい違いますよ。ちなみにあたしが年上ね」
「ふーん。じゃあ稼働年数は? 肉体に引き摺られて内面が年を取らない、というのはヒナも聞いたことある。でも経験は年齢よりもずっと大事。だから、やっぱり稼働年数が実質年齢ということ。ある程度年数が行ってるなら、18歳ぐらいは誤差だと思う」
「そうね。時間経過が同じか分からないけど、再誕してから百年は超えてるわよね、リリウム?」
「そんなものでしょうか? もっともっと時間が……あ。お母様はクヌーズオーエの外にいらしたものね。この都市では時間が加速しているそうなので、わたしなどは三百年を超えていると思いますっ」
「忘れていました。そう言えば、そんな話を都市焼却機フリアエから聞かされていたわね。ふふ、娘に年齢を追い抜かれているのですね。不思議な気持ちです。今も昔も、私のリリウムはずっと可愛いらしいままですけど」
「お母様だって変わらず麗しくていらっしゃいますっ」
睦まじく愛の言葉を囁きあう二人に、ケットシーは膝から崩れ落ちそうになっていた。
「待って、百年!? 三百年!? それは……それは本当ですか?!」
「ほ、本当です」気圧されながらミラーズはこくこくと頷いた。数秒前までのケットシーと現在のケットシーが、どうにも乖離した存在に思えたのだろう。「シーちゃん、いきなりどうしたのよ……」
「それじゃあ、ヒナより、ワタシより干支六回分ぐらい上ということでしょうか?! 年齢を詐称していらっしゃったのですか?!」
「いえ年齢詐称でもありませんが……年齢詐称って。さすがに傷つくわね。何歳のつもりなのかと言われても難しいけど」
「失礼しましたそういう場合ではありませんでした申し訳ありませんでしたごめんなさい!」
ケットシーは怯えた様子で珍妙な口調で高速弁解を始めた。
「せせせせせせ先輩方ごめんなさい本当にごめんなさい、失礼致しました、ワタシ、お二人ともてっきり年下の方だとばかり……いえ、年下でも芸能の世界では芸歴が第一ですよね、生意気な口を利いたワタシをどうか許してくださいごめんなさいお願いしますタブロイド誌にだけは載りたくないんですめちゃくちゃ書かれるのでプライベートいちゃいちゃピクチャー流出とか相手にも迷惑かかるしワタシのお母さんのデマが出回るとかもう実家の実家とか昔の主治医の皆さんや他の葬兵たちにまでご迷惑が及ぶので本当に勘弁してほしいんですそういう脅されてるような状況でブン屋に新しいネタ掴ませたり政治家に不本意ながら枕とかそういうの絶対面面倒くさいし嫌だしどうかさっきの失礼な発言をタレ込むのだけは許して下さいっ」
死人じみた顔色が土気色にまで変わり、腰低くしきりに頭を下げてくる。
人形めいた顔立ちが必死さを悲壮に際立たせていた。そこまで表情が崩れても美貌が損なわれないため、そういった趣味嗜好の人間のために拵えられた特殊な愛玩物のようでさえある。
凄まじいまでの豹変、豹変と言うよりは弱体化といったほうが正しいだろうが、先ほどまでのどこかミステリアスな部分のある美少女的な側面はすっかりなりをひそめてしまった。
過去何があったのかあまりにも分かりやすいですね、とユイシスが解析する。
ミラーズもリリウムもこれは過去に何度も観たことがあるパターンだと判断したのだろう。
同情的な気色を浮かべて宥めに入った。
「だ、大丈夫よ。断じて年齢詐称してるわけじゃなくて……うん、再誕者は祝福されて、永遠に年若い花嫁でいられるわけだし……見た目通りだけど、見た目通りじゃなくて……歳のことをとやかく言うのは誉められたことでも無いけど……でもね、特に聖歌隊だと年齢は関係ないの。上下関係にも関係しないし、そんなこと気にしないで?」
「あのっ、あの、ヒナ様……口調変わりすぎじゃないですか?!」いちいちリーンズィと同意見の部分が多い娘であった。「もしかして大人の世界の人なんですかっ? スヴィトスラーフ聖歌隊ではそんな窮屈な身分は必要ないのですよ、檻の外にある世界なのですっ。さっきまでの素っ気ない感じの喋り方で大丈夫です! わたくしたちは一向に構いません!」
「ありがとうございます恩に着ますっ、アリガトゴザイマス……」ケットシーは最後に頭を大きく下げ、黒髪をかき上げ、鉢巻の下から垂れてくる汗を拭った。「ふぅ……営業トーク、疲れる……」
「それ営業トークなんですっ?! マオルエーゼル様のとかと全然違いますね……必死さ、本気っぽさが段違いです!」
「リリウム。マオルエーゼルのあれは、ぷれぜん、というらしいですよ」
「それもそうですけど、オークションの司会とかは売り込み、つまり営業トークなのだと聞きましたよ」
「オークション……ああ! あの時は大変でしたね。一晩でポールダンス覚えろとか無茶なことを言ってきて……」
「嫌だ嫌だと言いつつヴァローナは上手でしたねっ、ハルバードの練習はこんなことのためにしてたんじゃないって泣いてましたっ」
「ふふ、あれは可愛かったですね」
なんだか剣呑な話であった。そしてヴァローナのポジションがいったいどういうものだったのかリーンズィは気になり始めていた。ウンドワートことレアせんぱいは、背が高くて凜々しい顔立ちの女性が女性に対して優位に立つタイプの不健全動画を好んでいたはずだが、リリウムたちの会話からは、むしろヴァローナは下位に立たされていたような手触りがある。
きっと大人の世界なのだな、とリーンズィは思った。
「大人の世界……みんな大変なのだな」
リーンズィとて無縁では無い。だが、精神が確立されてまだ間もないので、全く以て呑気だった。スヴィトスラーフ聖歌隊のメンバーは皆悲惨な人生を背負っていると話には聞く。ヴァローナも大変な思いをしてきたのだろう、と己の肉体に触りながら漠然と思いを馳せる。
いつかヴァローナ本人とも話をしてみたいものだった。ヴァローナの人工脳髄が破損済で、かつリーンズィが肉体を占有している限り、どこまでも難しい話だが。
そのときである!
「嘘。欺瞞。営業トーク。真理を貶めるそれらの言葉に、猫たちが嘆いています……。ふしゃー……ふしゃゃー……聞こえますか、血に飢えた正義の猫の声が。これは偽りを切り裂く怒りの猫です!」
突如として、ロングキャットグッドナイトが無から猫を取り出して戒めようとしてきた!
知らない猫である! 偽りを切り裂く猫は、虎模様で鋭い目つきをして、爪も危険な輝きを持っており、心なしか毛並みのつやつやさも、何となく攻撃的であった……。
「ねこ……」
「これ結局何なの? 猫という扱いで良いの?」
「猫ではなく……これは<第八の戒め>っ!? そこまでの案件でしたかアムネジア?!」
「皆様、静粛に。真実の猫は昂ぶっておられます……この地に欺瞞が満ちているためです……」
「さっきは一緒に走ってきたのに今度は何も無いところから猫が!?」
「そこに反応するんです? どうでもよくないですっ? 猫の戒めの荘厳さを知らないのですか?」
「いや……あの辺りはもう十分味わったので今ここに在る猫を感じていたいだけだが……」
「やっぱりリーンズィ、ところどころヴァローナと似ていますね……可愛い……うう、この子がわたくしたちのものにならないんて……」リリウムは俄にもじもじとした。
「シームレスに私の貞操を狙わないでほしい。怖い。無理矢理は嫌。すごく峻拒」
「そこもヴァローナみたいでたまらないんです。ふふふ……だって、何も知らないというわけでもないでしょうっ? なのにそんなに初心なんですもの。ねぇ、試しにあと何回か接吻をしてみませんかっ」
「してみることは、ない」
ノー、と身振りまで交えて拒絶を表明する。
警戒に観念したのか、白銀の聖少女はミリタリードレスを揺らして溜息を一つ。
それからロングキャットグッドナイトから粛々として無言で猫を受取り、もふもふと可愛がり、ミラーズに渡し、猫を回されたミラーズは戸惑いつつ猫をもふもふとした。猫はごまんぞくした。リーンズィも回ってきた猫を壊れ物でも扱うかのように恐る恐る抱いて、あちこち撫でた。猫はごまんぞくした。リーンズィはよく分からないまま何となくケットシーに回した。ケットシーも何となく猫をもふもふとした。猫はさらにごまんぞくした。
そうして回された猫がロングキャットグッドナイトに戻ってきて、地面に降ろされ、最初に連れてこられた猫とじゃれ合った後、どこかに行った。
ごまんぞくして消え去ったのだった。
「……これ、何の儀式なのでしょうか、我が娘リリウム?」
「今のは猫和解の儀式です。猫セラピー活動の一環ですね……意地悪して遮ると<猫の戒め>が出たり出なかったりします」
『疑義を提示します』統合支援AIが割って入る。『理解が及びません。猫を可愛がると、不滅者への転換をキャンセルできると?』
「時と場合によりますよ? でも大抵は大丈夫。怖がることはないです。これぐらいなら基本的に戒めたちには変じないので……。猫をカワイイカワイイできるチャンスなので、ある意味むしろラッキーです? アムネジアなりの気遣いという説が濃厚ですねっ」
「そうです。リリウムは、まさに猫のおひげに触れ、真理の輪郭を知りました。これが真実です。猫は暖炉の前で丸くなり、囲むと人の心も丸くなるのです」
ロングキャットグッドナイトは両手を広げて、冬の空を押し上げるかのように、ぐぐ、と伸びをした。
「日だまりの如き暖かさに、猫は、ごまんぞくされました。喜ばしいことです。皆様の心のごあんぜんに大切なもの、それはカリカリのような偽りの言葉ではなく、生きたお肉のように新鮮な、まことの愛の言葉です。猫たちに注いだ愛こそが、偽証ではない真の愛です。人が猫を愛するように、己を愛し、隣人を愛すればとっても素敵なので。ハレルヤハ」
「ねこ……あっ、ねこ! そう! これ疑問だったんだけどちょっと構いませんか?!」ケットシーはまたもや口調を切り替えて呻いた。「あっ、ああっ……もしかして……こっちの地方だと、猫の商標権をこの猫回し職人さんが独占しているとかないですよね。いや、これはもう、まさにそういう雰囲気、ですよね。ケットシーは猫妖精だし、勝手に関連グッズを売ると怒られると考えてよろしいでしょうか?! 事務所に抗議が入って、ヒナにまた怒られが?! ど、どこと折衝をすれば許してもらえますか?」
「シーちゃん、どっちが素なの……っていうか過去にそんなことが怒られがあったの?! 聖歌隊じゃなくても色々あるわけね」ミラーズが複雑そうな顔をした。「民間組織の営利団体、大変ね……」
「迷えるケットシーに、せんぱい猫の影である、わたしキャットからのアドバイスです。猫たちは人が何を売り買いしても知らないので。ごあんしんです。ただ、東洋に伝わるキャットフード、かつおぶしなどには興味津々なのでした。何故なら人の手に成る猫の歓びのひとつなので。袋入りマグロスリミ・オイシイ・パッケージなどでもきっとごまんぞくです」
「わかりましたっ、今度拾ったら献上しますロングキャットグッドナイトさん!!」
「良い心がけなので。猫を愛するように人を愛すれば、皆がごまんぞくです。それを忘れないでください、ハレルヤハ」
「はいロングキャットグッドナイトさん! ありがとうございます!」
ケットシーの完全敗北であった。
クヌーズオーエ解放軍のスチーム・ヘッドを斬殺し続けたヴォーパルバニーは、裁きの猫の前になす術も無い。
東アジアで最強のウサギは、戦闘行為とは全く関係の無いところで敗北の結末を迎えたのだった。
「さてはシーちゃんこれ芸能の世界で相当揉まれてるわね……慰めてあげたくなってきました」
「大人の世界なのだな」
リーンズィは感心した。ケットシーですらここまで打ちのめされるのだ。貪欲で厳しい世界であった。
「ふむむ。しかし、やはりこれだけ話をしてみても、誰も何か特別に違う言葉を話している感じはしない……」
さりげなく聞き耳を立て、音声情報の解析をユイシスに依頼し、相当に注意を払って状況を確かめていたのだが、誰かの言語だけが異様に聞こえると言うことはなかった。
ロングキャットグッドナイトなどの単語は英単語と名前の二重の要素での理解となるが、それだけだ。最低限度、表層的には意味が理解出来る、という点では等しく同じだ。
悩んでいるとユイシスのアバターが溜息のジェスチャーをする。
『……まだ理解しないのですか。人工脳髄に封入された言語基体には多かれ少なかれ聖句が関与しているということです。エージェント・リーンズィに関しては人格の基礎となる前史が存在しないため、殊更にそうした要素が強くなる。事実はそれだけのことです。現在の傾向では貴官はどこまで行っても小さな女の子から成長出来ないと警告しておきます』
「そういうものなのか……そういうものなの?」剣呑な考え方をすれば、調停防疫局は色々なところにバックドアを仕込んでいるらしい、ということは漠然と分かるのだが、そこ止まりだ。「それで、そう。最終的に思考が聖句だと何か困るの?」
『いいえ、特に支障はありません。貴官のアイデンティティーを揺るがす目的だったのですが、響かなかったせいで、すっかり雑談になってしまいました。予想より困ってくれないので、改めてがっかりと申し上げておきます。がっかりさせることに関しては一流のスチーム・ヘッドですね。ウンドワートやペーダソスの手でもっと理知的な人格に仕上がっているかと期待しましたが……』ユイシスは本当に残念そうな声を出した。『もっとも、自覚していなかったのも無理からぬ事象ではあります。大抵のスチーム・ヘッドは人工脳髄に多機能言語辞書機能名目で翻訳能力が付与されていると認識しており、相手が強調しない限りは、聖句もその他の言語も区別しません。聖句使いからその他に発信する場合も、また然りです』
「つまり話し合うためのパワーが私には存在したのであった……? 仲介にぴったり……調停防疫局のエージェントらしくなってきたのでは?」
『思考がポジティブになのは好ましい傾向ですが、知能が猫レベルまで低下しては意味が無いと忠告しておきます。簡素な聖句による言語越境は、エージェントとしては通常程度の能力です』
「いいえ、ふわふわ空の人。リーンズィは猫に近付きつつあると言えます。猫は愚かではないのです、何故なら賢いので。人間より真実にずっと近くて、それらはむしろ猫のおひげの上に乗っているのです。触れあい、温め合えば、そこにごあんしんの国が生まれるのです」
『いいですか、こんなレベルになってしまっては任務に支障が出ますよ』
「聞きなさい、聞きなさい、電子のひと。あなたには猫の真理が見えています。なのに、分からないふりをしています。猫の国では、皆様が寂しげに鳴いています。折角の仲間が知らんぷりをするのです……」
ロングキャットグッドナイトはしょんぼりしたが、ユイシスは『仲間? 何を……これは。見誤っていたのは、当機ですか』と常ならぬ動揺を見せた。『大主教ヴォイニッチの作成した不滅者、でしたか。まさか原初の聖句だけでこの水準に達することが……猫の国、皆様とは……そこにいるのですか?』
「はい。ここに在り、かつて在り、そして未来に在ります。わたしキャットは、猫たちが幸せに暮らす猫の国の見る、綿毛の上の夢なのです」
『当機としては驚愕を禁じ得ません。貴官の存在は特記事項として記憶領域に情報を格納しておきましょう』
喧嘩と勘違いしたのだろう。わたわたと慌てながら割り込んできたのはリリウムだ。
「ユイシス様、アムネジアは正しいことを言っていますよっ。わたしたちは、分かりあえるのですっ、リーンズィ。遅くはありません、わたしと一つになりましょう! きっと神の御国は近付いて、素晴らしい奇跡が起きるはずですっ」
リリウムが白銀の髪を翼のように広げ、満面の笑みで胸を開けてきた。
猫の人が可哀相だなと思っていた隙を狙って、猛烈な親愛の聖句が注ぎ込まれる。全ては心理攻撃への布石だったのだ。油断ならぬ娘である。しかも防壁を少しばかり貫通することまでして見せた。
これまでの会話でパターンを解析し、もうリーンズィを堕とすための『言葉』を編み上げたらしい。
リーンズィは聖少女の胸に飛び込んでみたいという緩やかな衝動と戦いながら、器用に思考の矛先を切り替えてみせる。
この戦いの中でリーンズィは成長を重ねていた。ぐんぐんと大きくなる猫の如くである。本当に実りがあるかどうかは不明だが。
奇蹟、という発話に着目して、チラと先ほどから所在なさげに佇んでいるアルファⅡモナルキア・ヴォイドの成れの果て、貌の無い騎士ディオニュシウスを見た。
奇蹟の存在を声高く叫ぶならば、常ならぬ現象を起こせぬのならば嘘になる。
調停防衛局の作成した特務仕様型局地殲滅用変異体は幾重にも調整と変異を重ねられた特級の悪性変異体である。生み出したリーンズィ自身が後悔を覚えるほどに封印の難しい症例だ。
だからこそ、これで上手く切り返せるはずだ。
ライトブラウンの髪の少女は、白く変色しはじめた毛先を触りながら告げる。
「私は強く賢く、猫のようにしなやかに成長したので、もう惑わされない。君の大言を鋭く見抜けるのだ。君、応え給え。奇跡とは言うが、しかし君は彼一人悪性変異体から元に戻せないではないか。そんなのはとても信じられない」
「おや、そんなことでよろしいのですか? たかが目に見える程度の奇蹟如きでご満足なのですか。お安いお話、簡単なお話です。では証を見せましょうっ。おいでなさい、騎士よ」
ディオニュシウスは聖句に命じられるがまま前進して、ミラーズの目前で跪いた。
リーンズィは唖然とした。ディオニュシウスはセキュリティ上のリスクを低下させるために、極めて限定的な命令しか受け付けないよう設定されている。具体的には彼の花嫁たるキジールの声以外には反応しないはずであり、強引に防壁を突破しようとすれば、対象は調停防疫局準拠のファイアウォールによって致死性の破壊を得るはずなのだ。リリウムはそれを呆気なく突破してしまった。
白銀の聖女の詠唱が神無き地に積もる。
形の無い旋律が軽やかに空気を揺らす。
一度は解体されかけた言詞の大聖堂が、白く煙る吐息とともに不可知の世界で鮮烈な輝きを取り戻していく。意味も文脈も持たない、形ばかりを整えられた言葉の奔流が見えない大津波となって、その虐殺の悪性変異体へと押し寄せ、人工脳髄たる<青い薔薇>の変異筋組織をまず冒した。細胞の一片にまで根を張る相克矛盾の茨、その出血を強いる戒めの言詞が、強制的にその結合を阻害された。歌声は染み渡る。誰とも結びつかず、誰も束縛せず、誰も傷つけないことを許された。時渡りの権能を司る蒼い炎の頭部が清浄なる呪いを吸い上げ、永久に彷徨い続けるその罰を許された。硬化した外皮を音の波が撫ぜて慰め、終わりのない戦いの終わりを幻想の風景として紡いだ。
変化は劇的だった。頭部を形成していた蒼い炎の変異体、ウィルオーウィスプは、キャンプファイアに火を付けたあと一顧だにされずバケツの水に浸されたマッチ棒のように、躊躇いも遺さず、瞬く間に掻き消えた。続いて植物由来の筋組織が収縮と逆行を開始、外殻たる甲冑状の皮膚組織まで巻き込んで浸食せしめる。甲冑の部位もまた、外側から飲み干すようにして青い薔薇の組織を取り込んでいき、相食んで砕き合い、千切り合い、共生関係の破綻が、飾り窓に走る罅のような形で顕現し、やがて砕け散った。
ディオニュシウスは、そうして、あっという間に。
信じられないほど呆気なく、終わった。
強制的に、あるべき恒常性を規定され、回帰させられた悪性変異体は唸り声を上げ、膨脹した肉体が押し潰されていく感覚に絶叫し、それすらもリリウムの紡ぐ鎮魂の聖句によって、形を一つに整えられてしまう。
無限の愛を構造として抱え込む、囁くようにして奏でられる甘い音色の渦へと飲み込まれていく……。
遺されたのは、どこにでもいる<月の光に吠える者>、ただの歩き狼だ。自分で潰したはずの頭部はまさにそこにあり、おぞましい刀へ変じたはずの片腕は元通りに生え揃い、赤いランプを点滅させる隷属化デバイスはその殺戮を呼ぶ黙契の獣に飼い慣らされた獣のように仕立て上げている。
『エージェント……ヴォイド……再起動プロセスを終了。制御権限掌握。これよりアルファⅡモナルキアの指揮下に入る』
ざりざり、と歩き狼の首輪型人工脳髄から男の声がした。
『大主教リリウム、彼から聞いていた通りだ。彼女の原初の聖句は限りなくオリジナルのそれに近い。あるいは、この即効性は彼女をも超える』
統合支援AIが即座に反論した。『異議あり。当機には自由が無いだけです。リリウムと比較して決して劣っているわけではありませんよ』
『劣っておらずとも、使用が非推奨ならば、それは無いのと同じではないか。ユイシス』
かすかな対立の空気に、ケットシーとミラーズが視線を冷たくしたが、リーンズィにはそんな余裕は無い。
「そんな……」驚いて目を回しそうになってしまう。「こんなことが……アポカリプスモードで生み出した悪性変異体は元に戻せないはずなのに! もはや後戻りは出来ない、これを使えば世界は悪くなる一方、だからこそアポカリプスモードと呼んでいるのに……こんなに簡単に……!」
「ふふーん。だからこそ大主教なのですっ。人々を安逸なる聖域へ導くために扇動し続ける。癒えない傷を癒やせないぐらいでは、務まりませんのでっ!」
リリウムは大仰な仕草でくるりと回し、銀色の髪をふわりと氷雪の大気に舞わせた。そして腰を軽く落して目線を下げ、上目を使いながら、些か大き過ぎる正帽で敬礼をしながら蠱惑的な笑みを浮かべた。
「ふふ。預言の意味を測りかねていましたが、リーンズィとヴァローナは、なるべくして一つになったのだと分かってきましたっ。あなたわ気持ちを揺さぶられる基準がとっても即物的! 目に見える真実だけを追い求める姿勢も清廉ではありますが……卑俗な奇蹟がお望みならば、幾らでも見せて差し上げますよ? わたしとともにあれば、毎日が奇蹟の連続になると預言しておきましょうっ。毎日が感謝祭なのです! そしてーー」
「毎日が新しい朝なのです」ロングキャットグッドナイトが言葉を繋ぐする。「リリウム様はきっとあなたにごまんぞくを振りまきます。たくさんの愛があなたの心のねこを眠りに誘うでしょう」
「さぁ、どうでしょうっ、リーンズィ様! どうかわたしと一緒に……」
「素晴らしい。君は非常に素晴らしいスチーム・ヘッドだ。救世主を名乗る相応しい」
リリウムの言葉を待たずしてリーンズィはずかずかと距離を詰め、両手をそっと包み込み、優しく上下にふった。
「悪性変異体さえも非暴力によって鎮圧せしめるとは! 調停防疫局は熱烈に君たちスヴィトスラーフ聖歌隊との協調を所望する!」
「ええーっ!?」リリウムは予想の百倍以上リーンズィが絆されてしまったのでむしろ驚愕した様子だった。「あのっ、あのですね、いくらなんでも目に見える奇蹟に心動かされすぎではありませんかっ?! ヴァローナですか!? ヴァローナでした!」
「さっきから思っていたのだがヴァローナ、もしかして私が思っていたよりもクールで聡明な人物では無い……?」
「……リーンズィ様も心してください、輝くものはだいたい全部宝石じゃなくて、氷とか、お酒とかの瓶のガラス片とか、瓶ジュースの王冠ですよっ。いえ王冠はクヌーズオーエではお金の代わりになりますがそれはそれです。ヴァローナはちょっと綺麗なものにはすぐ憧れてしまって……いいえ、陳腐と言えどもわたくしどもの奇蹟は本物ですし……綺麗なものをただ信じられる心もまた美しいとは思います。けれども、リーンズィ様にもわたくしの真の想い、目指すべき地平を分かって頂けましたようですね。今度こそ、今度こそお願いを致します。わたしと一つになりましょう?」
「拒絶する」打って変わって、リーンズィは即座に斬り捨てた。
「……どうしてですか? わたしの外観や言動に、悪なるものを感じるのですか」
「君は、私の美的価値観で言えば、非常に好ましい。行為には難点があるが、邪悪だと断じるほどではない。レーゲントとしての君の能力は、百万言を費やしても能うものではない。君は素晴らしい存在だ。信じるに値するかもしれない」
「それなら……!」
「でも、私という個性は、もう既にレアせんぱいに捧げてしまった。だから、君とまことの心で愛し合うことは、出来ないのだ」
「……」リリウムは黙り込み、それから、微笑を浮かべ、目を伏せ、リーンズィを見上げ、また目を伏せた。それから、泣きそうな声で「そう、そこも……我が使徒ヴァローナと変わりないのですね。潔癖で強情、心が移ろいやすいのに、神を愛するのと同じぐらい、ただ一人を愛する……」と呟いた。
聖少女の微笑みは、それでもどこか、誇らしげで。
その寂しげな蒼い海の眼差しに、ライトブラウンの髪の少女は、感傷を覚える。
だが、仕方が無いのだ。好きな人はもう、決まっている。命をともにしたいと信じた相手は。リーンズィは自分の心臓を、自分の精神に由来する感情のうねりを、どうすることもできない。リーンズィの演算領域の温かい部分には、いつだって物憂げで神経質そうで起源が悪い、白髪赤目の少女が、確かに息衝いている。
レアせんぱい。
アリス・レッドアイ・ウンドワート。
誰よりも強くて、誰よりも臆病で、誰よりも乱暴で、誰よりも優しくて。
矛盾をひとりぼっちで抱える気高い少女。
クヌーズオーエ解放軍の英雄。
いつでも心に思い描くだけ勇気と熱をくれる人。
リーンズィはとっくに彼女にぞっこんで。
彼女を脇に置いて誰かを愛するなど、そんな器用な不貞を働く道理は、考えられない。
「……実を言えば、君がどうしてそこまで私に拘るのかにも疑念がある。調停防疫局を解放軍に取りこみたいだけと言うことであれば、こうして話し合うだけで問題ないはず」
「これは、わたしだけではない、他ならぬ……わたくしの。あまたの世界を渡り歩いてきた、このわたくしの悲願なのです」そっと、己の首輪型人工脳髄に触れる。「今はわたしの中に融けてしまった、どこかの誰か。肉も骨も無く、名前さえ欠けて堕ちた、御遣いの零番。彼女は形も言葉も想い出も失って、それでもまだあなたを求め続けています。彼女は迷える仔羊の群れに過ぎなかったスヴィトスラーフ聖歌隊に最初の息を吹きこんでくださった、まことの神の名を知る女性です。彼女に収録されていた救世の記録は、幾度となくスヴィトスラーフ聖歌隊に助言を与えてくださいました。そしていつでも、天使様に会いたいと、わたしの魂の中で、泣いていたのです……彼女の願いを叶えたい、わたしの願いを叶えたいと、わたくしたちは願ってしまいました。謝罪するべきだとは思います。けれども、どうしてもこの熱情を抑えきれないのです」
「君の首輪型人工脳髄に収録されているのは、おそらく私が他の代替世界で救出したカイン型スーパーキャリアだ。私ともしても無碍に扱うのは本意では……」
「今ですっ!」
一瞬の付きを突かれてしまった。
リーンズィは瞠目した。リリウムは素早い動きでロングキャットグッドナイトにお腹を撫でられてごまんぞくしていた猫を抱き抱えて、高く掲げたのだ!
「ふふふふふ。第七の猫、<姦淫の戒め>を手に入れました! このネコチャンにお願いして、夢見る不滅者を呼んで貰えば、もう凄いんですから! リーンズィなんてメロメロのイチコロなんです!」
「変わり身が早すぎるしこれは猫の不正使用なのでは!?」
ロングキャットがノン、と喉を鳴らす。「猫は望まれた猫たちなので。それゆえ、嫌ならすぐに逃げ出してしまうのでした」
第七の戒めとやらは逃げ出す素振りなど全くない。
それどころか、目をかっと見開いて、「うにゃー!」などとやる気十分であった!
どのような不滅者が現れるのかは不明だが、阻止しなければならない。
リーンズィは瞬時に判断した。
破壊的抗戦機動を即刻起動。
神速の歩法でリリウムの背後に回り込んだ!
そして少女の両脇に手を通して持ち上げて、猫をさらに高く掲げさせた!
猫を掲げる少女を掲げたのである!
「ああー!? 背が! 背が高くなってしまいましたっ!?」
「私は成長を実感している。君をさらに持ち上げてみたが、この場合、猫は誰にものになるのだろう」
「て、適切に返されてしまいました……! リーンズィ様はわたしごと猫を持ち上げている。つまり真に猫を持ち上げているのはリーンズィ様……! <第七の戒め>が正しい主人として認めるのは、リーンズィ様ですっ」
「うにゃー……」
「あ、ヒナ、これ昔映画で見た。背後の取り合い。ドッグファイトというやつ」
「いいえ、キャットファイトなので」
「キャットファイトも違うんじゃないかしら」
三人は一瞬の攻防戦をのんびりと眺めていた。そうしているうちに、リリウムはそろそろと地面に降ろされた。
猫を逃し、振り返って、ライトブラウンの髪の少女に縋り付く。
「で、でもリーンズィ、スヴィトスラーフ聖歌隊と協調したいなら、やはり拒絶の一択では不誠実ではありませんか。わたしら、リリウムは既にあなたに心を開いています。そして、ともにあるから、ともにあってほしい。わたくしの願いは、それだけなんです。わたくしは、あの子は、交換条件も出していないのに」
「しかし、レアせんぱいを裏切ることは……」
リリウムをそっと、優しく、壊してしまわないように抱きしめながら。
赤い目をした少女は呟く。
「もう、私には、出来そうに無いのだ……」
聖女もまた、視線を落とす。
「……わたくしも、無理強いすることは出来ません。この未来は、実は見えていました。だからこそ強硬手段に出たのですから。最初の聖句戦でリーンズィ様の心を射止められなかったなら、もう二度と振り向いてはくださらない。分かりきった未来です……なのに諦めきれない。わたくしをどうか、どうか愚かと嗤って、赦してください」
意外にも、真っ先に理解を示したのはロングキャットグッドナイトだった。
「猫と猫は愛し合います。そして激しく縄張り争いをし、時には血を流すこともあります。猫にも夫婦があり、あるいは親子があり、猫を燃やして遊んでいた暴力の民よりもずっと深い愛情を持っています。その関係はごあんしんであり、ごまんぞくであり、猫と人と神との関係のように、決して冒されてはならない神聖で温かくて、か細い繋がりなのです。愛は無力です。だから、愛は尊ばなければなりません。濡れた子猫をブランケットでくるむ。そんな優しさだけが、愛を泥まみれの大地から掬い上げます」
「……アムネジアは、リーンズィの味方になるのですね?」
「猫は味方でなく、敵でなく、ただの心ゆくまま遊びに遊び、お昼寝をして過ごす生き物。彼らのごまんぞくを妨げることは、猫に仕える人間たちでも、決して許されることではありません。ですが……」
ロングキャットグッドナイトは薄く微笑んだ。
「猫を世話する人々が結びつくことを、猫たちは気にしない。気づきもしないので」
「うーん?」ミラーズはケットシーに水を向けた。「猫を世話する人々って飼い主のことかしら」
「はっ、猫せんぱいは聡明。猫は飼い主が誰と結婚しても気にしない。言われてみればそう」
「……個人では無く、組織間で結婚をせよと、猫の人はその道を指し示している……?」
「まさしくそうなので。愛はお家に、心は人に。けれど、お家同士では愛を表現できません。それをリーンズィとリリウムが代わって体現をするのです。二人は愛し合う二人となり、互いを思いやり、それでいて愛し合っているのはお家です。心と体は、庭先でくつろぐ猫のように自由なので」
「リーンズィ様」リリウムは蒼い瞳を荒れ波の海のように煌めかせる。「わたくしではなく……わたくしがスヴィトスラーフ聖歌隊の化身ならば、仮初めにでも、愛して下さいますか?」
「……」
赤い瞳が、まぶたに閉ざされる。
赤い瞳が、まぶたに開かれる。
「出来ると思う。調停防疫局は、スヴィトスラーフ聖歌隊を愛し……いつ如何なる時でも傍に居ると、誓うことが出来る。我々は、君を愛し続ける。君が愛し続ける限り、私たちは鼓動を同じくする」
アルファⅡモナルキア・リーンズィは、そう宣言した。
聖少女の不滅の究極的な美貌に、その時、一筋の涙が伝った。
「ハレルヤハ!」少女は歌う。「ハレルヤハ、ハレルヤハ!」氷の結晶の如く涙を零し、ミリタリー・ドレスの裾を翻し、光溢れる春の街で曙光に歓喜を踊る流浪民のように、咲き乱れる花のように相貌を喜色で彩りながら、愛しい天使、愛しい少女の肉体、恋い焦がれた未知なる魂の、その手先を握り、倒れるようにして引き寄せ、舞踏の足つきで歓びを歌う。「待っておりました。天使様、わたくしは、待っておりました。この日を待っておりました。永久に歌いましょう、那由他の果てにまで愛の歌を導きましょう! ああ、リーンズィ様のお好きな歌がありましたね。歌いましょう、どこまでも歌いましょう、地に喇叭のが鳴り響き、偽りの預言者たちの影が伸びるようになっても、この輝きが不滅の軌跡となって、約束の地まで人々を導くでしょうっ!」愛しい人に接吻し、聖乙女は、ただ恋する者の吐息で言葉を紡ぐ。「歌いましょう、歓喜の歌を。天使様がわたくしたちに下さった歌を! Freude, schöner Götterfunken...Tochter aus Elysium!(無上の歓喜よ/秀麗なる神恩の頌歌よ/至福者の国に集いし聖少女たちよ)」
リーンズィは、少しだけ躊躇った。自分は未だ歌を歌いこなせる段階に至っていないからだ。ミラーズが拍子を取り、囁く声でリードしてくれているが、こういった文化に染まりきっていないリーンズィとしては、恥じらいの感情が僅かにある。だが、リリウムの熱に、上気した頬に、涙がきらきらと舞い散る目元に、秀麗なる白銀に浮かされて、リーンズィの心臓が震えた。
「べとれーてん、ふぁいえるとぅるんけん、ひむりーしぇーだいん、はーいりひとぅむ……」
「あは、あはは。リーンズィったら、ヴァローナとは違うのですね。でもとっても懐かしい声。わたくしに希望をくれた人の歌ですっ!」リリウムは盛んに接吻し、リーンズィに縋った。「今は構わないのです。ともに歌い、ともに琢磨し、ともに目指しましょう! 神なる声が響く御国へと!」
轟音を立てながら無数の巨影が到達した。
オーバードライブ可能なスチームパペット、軍団長ファデルたちの軍団だ。あちこちにレーゲントを抱えており、臨戦態勢とは行かなかったが、抱き合って涙を零している少女たちを見て、随分と面食らった様子だった。
『ロジー、こりゃどういうことだ? レギオンだけ先に来たから何事かと思ったら……なんだこりゃ』
「知らないわファデル。でも、リリウム様は……笑っておられるわ」
疑念を囁く彼ら、彼女らに、くるりと身を翻し、可憐にして豪奢な不滅にして不朽なる装束を旗のように広げ、リリウムは宣言する。
「善く来て下さいました、親愛なる同胞たち! 今ここにわたしの悲願は成りました!」
『嬉しそうなのは構わねぇがよ、ナインライヴズの不滅者やらなんやら、色々出てきて、しかもあんたのレギオンは来たのに、肝心のあんたはいねぇし、ユンカースのやつは一存でジャミング停止出来ねぇの一点張りだし、ほんと、大変だったんだよ。随分探したんだぜ。ああ……ナインライヴズもケットシーもいるじゃねぇか。最終的に穏便に片付いたなら文句はねぇけど、解放軍を納得させられる声明ぐらいは用意しといてくれよな、蒸気甲冑壊された連中も大勢いるわけだからな』
「それどころではないのです! 全軍に再武装と再前進の号令を!」
『な、何だよ。どうした、突飛なのはいつものことだがよ』ファデルは切迫した声を漏らした。『誰も彼もヘトヘトだ。それを承知で、しかしどうしても必要だという命令なんだな?』
「はいっ! わたくしたちスヴィトスラーフ聖歌隊は……この先にある廃協会、未踏破領域への進出を行い……そして調停防疫局の代表者、こちらのリーンズィ様と、婚姻の祭礼を実施致しますっ!」
『は?』ファデルは硬直した。『ボロボロなんだが、俺ら。だいいち、何か大袈裟な儀式するなら人数足りないって』
「大丈夫です! レギオンの皆様がいます! 治癒はわたくしの本気の聖句で何とかしましょう!」
『まぁあんたが本気出すんなら出来るだろうけど、急すぎねぇ?』
「思い立ったがラッキーデー! 聖父様の教えです!」
『あーダメだ、こりゃ止まらんわお姫様』
「婚姻って……婚姻ですか!?」巨人の腕の中でロジーが顔を赤らめる。「けっこん……ぜ、前例が出来たならもうあたしも……」
「待ってほしい。私たち……今日結婚するのか!?」
リーンズィも驚いた。そこまで話が進むとは予想していなかった。そもそも結婚式が必要なのか。正確にはスヴィトスラーフ聖歌隊と調停防疫局の婚姻、業務提携に近いはずだが。
「全軍、進撃! この喜ばしい日のために歌いましょう! 歌いながら、前進しましょう――!」
この日、クヌーズオーエ解放軍のケットシー討伐部隊は、何だかよく分からないうちにさらなる激戦地への前進を余儀なくされた。
発信者は解放軍の最高幹部は大主教リリウムである。逆らえるはずも無い。逆らいたくもならない。それが彼らが肯定した支配者、清廉なる導き手、大主教リリウムである。
だが、多くのスチーム・ヘッドは、このような言葉を残している。
――俺たちはボロボロだった。帰ってやりたいことが山ほどあった。でもあのリリウムが小さな女の子みたいに泣いて、笑って、喜んでいる。酷い目にも遭ったし、無茶苦茶言うなとも思った。それでも何となく幸せだったよ。全部帳消しになるぐらい、なかなか悪くない一日だったよ。
ああ、それはまるで。
限られた命を、希望を持って生きていたときのような。
「さぁ――どうか、わたしたちの祭礼を! 祝福に満ちたこの声を――新しい朝のために!」
こうして、祭礼が始まる。
誰も知らない、出来損ないの、形ばかりをなぞっただけの……。
しかし未来を祝福するための、真摯な祈りを携えた祭礼が。
それはこの地、この時代。
この絶滅した世界で無数に繰り広げられた光景で。
それなのに誰も目に映したことがない。
誰にも知られるはずが無かった一幕だ。




