2-12 祭礼のために その8-7 忘れ名の使徒、アムネジア
そう、遙か遠くから駆けてくるその小さな影は――
「ロングキャットグッドナイト!」
「えっ、例の方がいらっしゃったのですか!? どちらに?」
リリウムにはまだ分からないようだったが、強化を重ねられたヴァローナの瞳は完全にその姿を捉えていた。
ロングキャットグッドナイトは来てくれた。
リーンズィの祈りを聞き届けてくれたのだ!
やはり猫の人は虐げられたものの傍に寄り添う小さなぬくもりであることなのだなぁ……とリーンズィが得も言われぬ慨嘆に打ち震えていたのは十数秒のこと。
精神外科的心神適応が働くまでもなく、「どこです? どなたです? あっ、わたしにも少しずつ見えてきました!」というリリウムのそわそわした声が耳に入る程度に気分が落ち着いてしまったが、ロングキャットグッドナイトはまだ到着しない。
何故なら、彼女は走り続けている。
走り続けている。
走り続けている……。
ひたすら走り続けている!
必死に走り続けているように見えるが、一向に近付いてこない!
理外の理、超越存在としての、不思議な力の発露……というようにも見えない。
「えっ、これは……もしかして……単純に走るのがとても遅い!?」
リーンズィは困惑した!
一般的に、非戦闘用のスチーム・ヘッドでも身体能力は定命の人間とは比較にならない。走ることにのみ限定すれば、たとえ老人の肉体であっても、肉食獣のように疾駆し、しかも最高速度を落すことなく長時間走行することが可能となる。
こうした特性こそが、高高度核戦争その他の災厄によって電子機器が無力化された時代に、スチーム・ヘッドが戦場の伝令役として勇躍していた理由の一つだ。
しかし、十代の少女の肉体を使っているはずのその猫のレーゲントは、小柄で筋肉量が少ない点を加味しても、脚を動かすのがあまりにも遅かった。
ユイシスが解析した限りでは、時速換算で一五kmにも達していない。
定命の人間ならその状態で三十秒も走れれば御の字だが、スチーム・ヘッドなら非武装でもこの三倍の速度は出ないとおかしい。
「これはいったい……? 何かが、何かが起きている!」
「うーん。なんだか親近感を覚える足の遅さね。私にはとても分かりますよ」
同じ方向を眺めながら、しみじみとしてミラーズが呟く。遠い時代に思いを馳せた様子で、翠玉の瞳に瞼が降りて、欠けた月のように細まった。
しかし、生まれつき永久に不滅の肉体を備えていたリーンズィには、思い当たるところは一つも無い。
リリウムを両腕で抱き上げたまま、いつまでこうしていればいいのだろう……と思いつつ、金色の髪の乙女へと尋ねた。
「ミラーズ、スチーム・ヘッドなのに脚が遅いというのは、そんなにあること? 私は普通に走っても自動車と同じぐらいの速度を出せるのに……」
実際に自動車と駆け比べをした経験など無い。
だが己の通常の巡航速度である時速一〇〇kmは自動車並の走行速度だ、という知識はある。
「うーん、リーンズィには分からないかも知れませんね。生前そういう機能がダメになってると、再誕してからも感覚が戻ってこないし、身体操縦の経験も中々蓄積されないの。あたしの場合は、足の腱を切られたときのことずっと引き摺ってたから、歩くのも時々難しくなって……だから、なんだかあれぐらいの速度になってしまうのが分かります」
「お母様ほど貴い人なら、そもそも走る場面自体必要ありませんもんねっ。いつでも、ふふふ、天使様に抱かれているこのわたしのように……」
リーンズィの首に回した両腕をぎゅっと引き、幸せそうな頬をリーンズィの裸の胸にすり寄せる。
「いつだって誰かの腕に抱かれて移動していらしたもの。ふふふふ。やっぱりお姫様抱っこされるのって、とっても気持ちが良いですよね、お母様」
「自分の脚で歩くのも楽しいものですよ、リリウム。それにね、大好きな人に抱かれるから嬉しいのであって、抱かれるから、すなわち嬉しい、ではありませんよ」
「いいえ? 抱いて下さるのならば、わたしは誰のことでも愛しますよ?」
リリウムは不思議そうだ。
「愛すべき人も、未だ愛なき人も、わたしの腕の中では等しく愛すべき仔羊です。『怨敵を接吻をして歓待しなさい、しかし愛する者に痛みを与える方がまことなり。況んや愛する者への接吻はなお真実に近い』とお母様も仰っていたではありませんか。ならば、怨敵に奉仕して心から愛することが出来れば、それはすなわち尊き真実なのです……これは神様から授かった言葉。愛さえあれば関係が無いんですっ。もちろん、最初から愛し合っている人との触れあいも善いものですけどっ。そうですよね、リーンズィ」
ここで水を向けられるとは思っていなかったのでリーンズィはびくりとした。
「私のボディはともかくとして私と君はほぼ初対面なので同意を求められても困る……」
そんなーっ、と愛らしい顔を曇らせて嘆くリリウム。
隙あらば距離を詰めてくる美しくも恐ろしいレーゲントであった。
ただし、これも宝物でも抱えるような姿勢でリリウムを抱きながら紡ぐには、不適切な思考だ。
無力化が完了したため、地面に降ろしても問題ないはずなのだが、何故かそれをしたいという気持ちにならない。
ユイシスに一瞬だけ自分の思考をトレースさせ、自身の精神的構造の脆弱性を攻撃されている可能性を考え、その間の不自然な沈黙をミラーズに要請して埋めてもらう。
「……そう言えば、そんなことも教えていましたね」とミラーズ。「知っていましたか、リリウム。実は聖書にそんな言葉は無いんですって」
「そうみたいですね。ヴォイニッチも言っていました。でも、一般に流通している聖書に書かれていることだけが真実ではありませんよねっ? カルトとか言われても、真実は真実なので、気にしてはならないのですっ。ですよね、リーンズィ」
『美的感覚の基準がミラーズの外観に寄っているのだから、その娘であるリリウムに無意識的に好感を抱いてしまうのは当然では?』というレポートに目を通しつつ、リリウムに対して「えっ、知らない。何故いちいち同意を求める……」とまたも怯んでしまう。
「むー、どうして執拗にわたしを拒むのですか? ひとときも、心を同じくしたくはないと、そう仰るのですか?」
「そういうわけでもないが……」
ヴァローナという肉体をバックドアとしてのハッキング行為。そして人工脳髄への直接的な聖句攻撃。どちらにも思うところはある。
だがリリウムは最初にして最後の攻撃機会を逸してしまった。もはやアルファⅡモナルキアの防壁は藁や木ではない。火に焼べても損なわれることのない永遠のものである。ユイシスとミラーズが同時に制圧にかかればリリウムなど問題にはならない。あらゆる意味で、リリウムはもうリーンズィの敵ではないのだ。
だからリリウムの誘惑に乗ろうが乗るまいが結果は変わらないし、同意したところで何かが起こるわけでも無い。リーンズィ自身が思うとおりにしか状況は動かない。
とは言え、エージェント・リーンズィ個人としてひとたび同調してしまうと、あっという間に籠絡されてしまいそうな、そんな予感がしていた。一方的な求愛には抵抗感があるものの、未だ幼いリーンズィは愛されるということそれ自体に脆弱性がある。そして肉体の奇妙な疼きは、おそらく確信を意味している。
確かに、今はリリウムの聖句も、手指も、ヴァローナの奥に在するリーンズィには通じない。ヴァローナのための言葉は、もうリーンズィには届かない。
では、彼女がリーンズィを知り、レギオンを使ってリーンズィ専用の聖句構造体、『大聖堂』を不可知世界に建設すればどうなるだろう。いや、大聖堂など不要かも知れない。先天的に植え付けられた嗜好の問題もある。
カルト組織の幹部であると言う点を無視すれば、リリウム自体はただこの世のものとは思えないほど美しいだけの少女で、しかもミラーズの面影がある。気を抜けばすぐに愛してしまいそうになってしまう。仕方の無いことだ。
リーンズィは至って冷静に自分の内面、空っぽの伽藍堂と向き合った。エージェント・アルファⅡに過ぎなかった旧バージョンのアルファⅡモナルキアならば抵抗出来るだろう。あれは、言わば煉瓦を積んで組まれた人格だ。堅牢さだけならリーンズィとは比較にならない。リーンズィは、弱い。弱くあることを選んだ。ミラーズやレアとの交流を通し、触れあって、愛を囁き合うことの歓びを、生物としての脆弱性を獲得した後なのだ。
アルファⅡモナルキアがどれだけシステム上の対策を立てても、リーンズィという一つの人格がリリウムを許容してしまっては、そこで終わりだ。
『提言。そもそも当機らの目的は、大主教リリウムを通じてスヴィトスラーフ聖歌隊に接触し、調停防疫局のエージェントとして協調を求めることです』
> それはそうなのだけど……。
『あまり無碍に扱うのも得策では無いですよ』
> そういうものか? そういうもの?
『誰だって好きになりたい人にずっと拒絶されると悲しいものです』
リーンズィは親に助言を請う子のように――ある意味ではその通りだが――ユイシスに何度も確認を取り、リリウムに対して最低限の同調を示すことに決定した。
「リリウムの意見についてだが、部分的にそう思う、ということでお願いする」
「どうしてそんなアンケートの回答みたいな返事なんですっ!? そんなにわたしと愛し合うのが嫌なのですか?」
「どちらかと言えばそうではない」
「またアンケートみたいな……なんだかスヴィトスラーフ聖歌隊のロゴ入り鉛筆がほしいだけの人みたいになってきましたね……いました、そういう人結構いましたよ……」
「ロゴ入り鉛筆があるの?」リーンズィは自分の気持ちに素直になった。「ほしい。たぶんオシャレなやつだと思うし、レアせんぱいのお土産にする」
「ううっ、それを求められても困るのですが……鉛筆なんて、朽ちてしまったか、ヴォイニッチに持って行かれたかのどちらかなので……というか、どうしてそんなところにばかり反応するんですかー!」
「娘たちが仲良くしているようで私はとても嬉しいですよ」ミラーズは曖昧に微笑んだ。「とにかくね、リーンズィ、好きなように脚を動かせると言っても、どう走れば良いのか、というのは感覚的に掴めないのです。あの娘、どなたかは存じませんが、こちらに向かっている子も、定命の時代から、走るのがあんまり得意じゃなかったのかもしれませんね」
「うん……おそらくそうなのだろう」
リーンズィは溜息を吐いた。
ロングキャットグッドナイトの姿はようやく風景の中の小さな違和感というレベルから、肉眼でも輪郭が辛うじて分かるかどうか、という程度になってきたところだ。
結構時間が経ったのに全然接近していない。
「まだかかりそうだな……あーめん、猫のひと。なむなむ、猫のひと。信じていても神の御国は降りてこない。だけど、猫は確かにそこに居る……どうか怪我をしない程度に早く来て欲しい」
「そんなに待ち焦がれていたのですか? その……ロングロングバケーション? みたいな名前の人は。頑張って走っていますけど……んん? あれ? あの娘ってやっぱり、そう、そうですよね……」
怪訝そうな表情を濃くしたリリウムと一緒になって、改めてロングキャットグッドナイトの接近を観察する。
とててててててててて。
そんな気の抜けた足音が聞こえてくるような、いかにも細々とした走り方であった。
だが、おそらくはそれで全力疾走なのだろう。簡素な行進聖詠服から伸びる生白い足、荒れ果てたアスファルトを踏み砕くには適さない肉付きの悪い両足を必死に回している姿からは、それが率直に伝わってくる。いじらしいほど懸命な走り方だ。
ヴァローナの瞳が、リーンズィの脳裏に、望む景色を描き出す。猫っ毛の少女の双眸、燐光を帯びた新月めいて不可思議な瞳の輝きが、見開かれて寒空の蒼を照り返す。息を切らし、赤らめた頬、濁るところの無い黒曜石のまなざしは、放たれた矢の如く、真っ直ぐにリーンズィへ……その胸には猫を抱いており、途中で抱いているのが疲れたのか何なのか分からなかったが、猫を頭の上に、ふにゃふにゃの王冠のようにふわりと載せている……。
だが、その脚はやっぱり、どうしても遅すぎた。
これまで、ロングキャットグッドナイトの出現には謎が多かった。
視界の外側に前触れ無く現れたり、高所から猫と一緒に飛び降りて墜落死したりと、何か超越的な能力があるものと期待されたが、しかしロングキャットグッドナイトは、今回はどうやら素直に陸路を走ってきたようだった。
不明な機能を有しているのは間違いないだろうが、さほど融通が利くものでもないのかも知れない。
「うーん、あの子、中々来ませんね。リーンズィ、続きをしませんかっ? わたしはリーンズィにもっと深くわたしを知って欲しいのですっ。悪しきものではないと確信してくださいませんか……?」
「ノー……。わたしはもう屈しない。見よ、あれが救うものである」
リーンズィは胸に抱きついているリリウムに対して、無闇に得意げだった。
だって、ロングキャットグッドナイトはとにかく来てくれているのだから。
「本当に尊い人とは、困っている人のところに、あのようにしていつも懸命に駆けつける。それがきっと一番尊い愛の在り方なのだ。君のように、人を押し倒して無理矢理愛を流し込むのとは全然違う」
「え? 何を仰っているのですか?」リリウムは当惑した。「わたしとあの子は確かに違いますが、方向性としては概ね変わりませんよ? 少なくとも、わたしと彼女の意見は猫要素以外ほぼ一致しているのです」
「……つまりリリウムとしても猫と和解するのが一番良いと言うこと?」
「いいえ、あの、うーん。猫関係がですね、やっぱりわたくしたちの中でも評価が割れていて……そこの辺りが、彼女が大主教たり得ない理由なので……そもそもリーンズィは彼女を理解しているのですか? 何か話の前提が噛み合っていないような……」
リリウムは状況を飲み込めていないようだ。
さらりと聞こえた大主教という言葉にリーンズィは少しだけ面食らったが、しかしロングキャットグッドナイトにしても、自身が不滅者であり、しかもあれほどの規模の不滅者を従えているのだから、大主教クラスのレーゲントであっても当然のようにも思えた。もちろん、大主教リリウムには劣るだろう。だが他のレーゲントとは比較にもならないはずだ。
リーンズィはリリウムと語らい、戯れに口づけを求められてはそれに応え、応戦する目的で逆に求めたりした。「やり返しても別に抵抗の意思とかにはなりませんからね」とミラーズに耳打ちされてからは頻度を減らしたが。
「少しずつリーンズィのことも分かってきましたよ……?」腕の中で聖女が艶めいて微笑む。「レーゲントの体は、言葉で飾るもの。体がわたしを受け入れると言うことは、言葉もわたしを受け入れていると言うことですっ。ねぇリーンズィ、もう時間の問題です。やはりそういう運命なのです。さぁ、一つになりましょう?」
腕力や戦闘力は問題にならない。
やはり肉体接触という点でリリウムに一日の長がある。
リーンズィの心に波紋が生じ始めた、そのとき……。
「リズちゃん……リズちゃん……それ以上は放送コードに引っかかる……」
などと、背後からひそひそと囁いてくる少女がいた。
「あっ、それともこれって、大事なところ? じゃあヒナが参加しても良い? あとさっきのいっぱいの人たちはもう帰ってこない?」
「いつからそこに!?」
リーンズィはビクッとした!
「えっえっ、どなたです?!」
リリウムはリーンズィの背が高いせいで背後の闖入者が見えない!
「お母様、そこにどなたかいるのですかっ?」
ミラーズはようやくセーラー服の少女の存在に気付いた!
「あっ! あなたはあの……すごく速い人! すごく速い人じゃないですか! シィーの娘さんの!」
ミラーズは彼女の名前を忘れていた!
三人は己らの視界の死角にこっそりと潜り込んでいた少女剣士をようやく発見した。
死人めいた白い肌に、冷たい光を取り込んで艶めく死んだ二つの瞳。
大型のカタナ・ホルダーを背負った水兵服姿のスチーム・ヘッド。
妄想狂の英雄、ケットシーである。
『警告。不明な移動体を検知しました。もう遅いですが』とユイシスから事後報告が入る。『オーバードライブにて、推定三〇〇倍加速で接近してきたものと推測されます』
「ケットシー、君もてっきりレギオンに紛れて撤収したものとばかり思っていたが……」
「おや、親しげですねっ。天使様やお母様のお知り合いなのですか?」
リリウムはリーンズィから片手を離し、恥じらった様子でさっと己の裸の胸元を隠した。
そうしてリリウムは歩み寄ってきたケットシーに対して、帽子を抜いで会釈した
「お見苦しいところを失礼しました。わたくしはスヴィトスラーフ聖歌隊の大主教を拝命しております、『清廉なる導き手』のリリウムと申します。あなたは……?」
「どうも、ヒナは東アジア経済共同体で最強のスチーム・ヘッド、葬兵のケットシーです」
意外にもケットシーは黒髪と鉢巻を揺らしながら折り目正しく礼をした。
「何でずっと抱き合ってるの……? どうでもいいか。うん、またすごく綺麗な人。あなたはリゼちゃんと仲が良いみたいだし、特別にヒナのことヒナって呼んでも良いよ。さっきの人たちは、皆リリウムさんの専属のスタッフ? あんなに沢山の人員を連れて歩いているなんてすごい。こんなところでリゼちゃんとすごいこと始めたのは驚いたけど……」
「まっ、待って欲しい。もしかして、ずっと、どこかに隠れて、見ていたのか? 邪魔者だからリリウムに排除されたとかではなく?」
何の話? とケットシーは無表情に、視線だけで問うてくる。
「人聞きが悪いですよっ、リーンズィ。進路上の障害物と、特別にアリス様はレギオンの皆様に排除して頂きましたが、誰も彼も見境なく聖句で無力化していたわけではありません。そもそもこんな方のことは初めて見たのですから、ターゲットにすること自体出来ませんっ」
「えっと、よく分からないけど、ヒナは人がいっぱい来て怖かったから近くのビルに隠れてた……」
「テレビスターなのにいっぱい人がいると怖いのか!?」
「だってカメラ越しとかステージ上ならともかく、人って存在してると視線に圧が出るし。気持ち悪いし、純粋に怖い。けっこうじろじろ見られるし……百人とか千人とかの前でこんな防御力低い服装してるのも恥ずかしいし……」
「ヒナ様と仰いましたか。素敵な服ではありませんか、全く恥ずべきところはありませんよ?」
「ありがとう、リリウムちゃん。リリちゃんで良い? 良いよね。でも仕事着ならまだしも、普段着としてはこのショーツは過激すぎるし、あんまり見られたくない……」
ケットシーは臆面も無くスカートをたくし上げて中身をリリウムに見せた。
リリウムが若干顔を赤らめて「う、腕の良い縫製局員がいるのですね……」と息を漏らし、やや気まずそうに目を逸らした。
「ね? そうでしょ? 出来は良いの。でも、これを自分が知らないうちに誰かに見られるの、ヒナ的には割と恥ずかしいんだよね……見せる分には良いんだけど……」
「見せるのは良いのか」リーンズィは困惑した。
「さ、差は大きいですよ? 見せるのと見られるのでは全然違いますし!」リリウムが謎のフォローに入った。
「そうですよ、気持ち的に全然違うのよ、リーンズィ」
現在は活動用のレギンスを装着しているミラーズからも擁護の声が上がる。
同情的な気持ちが優勢らしい。
ケットシーはうつろな目を幽かに輝かせて首肯した。
「さすがお父さんの弟子。ミラちゃんはよく分かっている。生のステージだとどこからどう見られてるかも把握できないし、あと自分と無関係な人間がいっぱいいると、うん、生理的に怖い……今撮影されてる感じもしないから、なおさら怖い」
「い、意外と繊細なのだな……」
「ヒナだって血の通った人間だもん」
何度も言われたことがある、といった顔でケットシーは溜息を吐く。
「一流のスターにはプライベートなんて無いって言うけど、見て欲しいときと見ないで欲しいときはあるもん」
線引きに微妙に分からない部分はあるものの、完璧に狂っているのかと思えば、人間性の残骸程度はあるらしい。
考えてみればエージェント・シィーの娘は、元々は彼の記憶通りなら、病院暮らしの箱入り娘である。
見知らぬ人間――不死病患者ではあるが――数千人が周辺に密集しているという状況自体が耐え難いのかも知れない。
「ずっとあの辺のビルから見てたけど、何だか空気が落ち着いてきたから、あっ、今日はもう収録終わりなのかな、と思って出てきたの。でも、まだ違うの? あと誰か向こうから来てるよね。不死身の猫さん。今は、あの猫さん待ち? 他にあの子に脚、無いの? ヒナは今は何の役も貰ってないだから、必要ならあの子、ヒナが運んでくるけど」
「えっ。しかし、仮にも君が何度も何度も斬り殺した相手だが……」
「?」ケットシーは首を傾げた。「あっちもプロだから気にしてないし、だいじょうぶ」
「だいじょうぶか否かを決めるのは君では無いのでは?」
「天使様、ヒナ様。あの子は斬り殺されたぐらいなら、ちっとも気にしないので、大丈夫ですよ」
「ほら。リリちゃんも大丈夫だって言ってる」
「色々あるのだな……」リーンズィはリリウムを抱いたまま無の心になった。「離れたいのに離れられない。ずっとこの姿勢というのも危機感があるので運んできて欲しい。彼女なら聖句の拮抗したデッドロック状態を解けるはず」
「ん。行ってくる」
ケットシーがオーバードライブを起動した瞬間に、ロングキャットグッドナイトが目の前にまでやってきた。ケットシーに運ばれたわけではなく、唐突にワープしたわけでも無い。
ここまでまさに走ってきたという様子だった。
「あっ、勝手に来た……。あの狼の鎧の人とかと同じ原理っぽい?」
ロングキャットグッドナイトは、どうやらケットシーのオーバードライブに相乗りしたらしい。
考えてみれば他のスチーム・ヘッドの演算に割り込んで存在を成立させている不滅者なのであるから、最初からミラーズ辺りにオーバードライブを依頼していれば、ロングキャットグッドナイトを手助けできたのだ、とリーンズィはようやく思い至った。
「ぜー……。ぜー……。お、おはよ……ございま……ま……まちなさ……待つのです……け……ケンカは……めー……」
「ね、猫のひと……」
「お、おはよご……ぜぇぜぇ……おは……けほっ……おはようござ……けほけほっ……うええー……」
ロングキャットグッドナイトは花の香りがする汗を流しながら、えずいた。
ケットシーが背後に回り、心配そうな面持ちで背中をさすり、猫のレーゲントはされるがままだ。本当にわだかまりは全くないらしい。
不死病患者であるがため、胃に内容物はなく、吐瀉した胃液すら甘露の如くではあるが、当人が苦しそうなので、ただただ憐れだった。
少女はぷるぷる震える腕で連れてきた猫を掲げようとして、がっくりとその場に膝をついた。
「猫のひとっ!?」
絶句するリーンズィにユイシスが耳打ちする。
『報告。不死病患者と言えども、専用のソフトウェアや生命管制が無ければ無限に走行出来るわけではありません。復帰は早いにせよ無理に走り続ければ相応に消耗します』
「はう、はうあ。はうあー。つ、疲れましたので……」
ロングキャットグッドナイトはどことなく諦めた顔つきで、抱えていた猫をその場にそっと置く。
猫は何だか裏切られたように硬直した。にゃー、とリーンズィたちに訴えかけようとするかのように鳴き、二本足で立ち上がろうとして、すぐに、へなり、と四足を地に着けた。
不満そうにふんすふんすと息をした。
それから、急かすように鳴いて、ロングキャットグッドナイトの聖詠服をよじよじとする。
だが、ぜいぜいと肩で息をするほど困憊していては、無理があろうというものだった。
「大丈夫?」「大丈夫なのですか?」「だいじょうぶ?」リリウムとリーンズィ、そしてケットシーは図らずも唱和した。それぞれ一瞬だけ視線を合わせた。
目が合った一瞬の後に、リリウムが顔を寄せてきたので、リーンズィはすかさず視線を逸らす。
ミラーズが「というか、あなたたちはいつまで抱き合ってるのですか?」と素朴な疑問を口に出した。
「だ、だいじょぶ……ぜぇはぁ……ぜぇはぁ……ぜぇはぁ……だいじょぶですが、しょ、少々お待ちください。猫ならざるわたしキャットは、サバンナの大きい猫の如く駆けること能わないので……ふう。けほけほっ……」
「猫のひと……そんなに無理をして……」リーンズィはリリウムを揺り動かす。「見よ、義のひと、愛のひととは、こういうひとのことを言う。分かるだろうか」
リリウムは真顔で頷いたが、どこか釈然としない様子だ。
「ええ、もちろん彼女は、義のひと、愛のひとでありますよ。リーンズィはよく物事の本質が見えていますねっ。まぁ、彼女は何というか、半分ぐらい? 猫ですけど……。というか、どうしてリーンズィがこの子の心配をしているのですか? あー、そう、やっぱりそういうことなのですねっ……あー……分かってきました……」
何かしらの陥穽に気付いたらしく、リリウムは緊張した面持ちで口元を引き結んだ。
口を開こうとしたところで、また噤んだ。
「いいえ、いいえ。きっと妄想です、妄想っ! だいたい、それは後で追及すれば良いことですねっ。こちらのほうが大事なこと。我らが使徒が自分から必死で走って出向くなんて、何かあったに違いありませんし。先にあの子から話を聞くべき場面ですっ」
おや、とリーンズィは細い眉を寄せる。
奇妙な言葉が聞こえた気がした。
我らが使徒?
ようやくロングキャットグッドナイトが息を整え終えた。
すっくと立ち上がり、表情の淡い素朴な美貌を引き結び、待ちかねて早くもうたた寝し始めていた猫を抱き抱え、そして目覚めた猫をぐぐぐと掲げた。
「これは友愛の猫です。おはようございます、呼ばれて飛び出ました。猫レスキューです。救急ですか火事ですか」
リーンズィが返事をするより早く、思わぬ問い返しがあった。
「改めて尋ねます。我らが使徒、アムネジア、どうしてここへ? クヌーズオーエ解放軍の均衡を破ろうとするものが再び現れたのでしょうか。調停者であるあなたが、他の猫の手を借りようとするとは、一大事でしょう……」
リーンズィに抱かれたままの白銀の聖少女、清廉なる導き手は、罪を凍えさせるような冷然とした美貌を取り戻している。リーンズィの首を引き寄せて軽く接吻し、聖句を緩め、それから自分を降ろすよう囁いて促した。
ロングキャットグッドナイトを前にして、些か雰囲気が変わった。
解放しても問題は無いだろうとリーンズィは判断した。
それにしても、使徒、とはどういうことか。
現在使用している肉体、ヴァローナにしても、リリウムの腹心の部下で、スヴィトスラーフ聖歌隊での区分としては、使徒だったはず。そもそも使徒とはいったいどういった機体を指すのか?
ミラーズが無声通信で『聖歌隊の戦闘用スチーム・ヘッドとか、特別な信者のことよ』と注釈を入れてくれる。では、仮にロングキャットグッドナイトがリリウムの使徒なのだとすれば、自分とは関係の無い任務でここに来た可能性も、確かにあるのだ。
リーンズィは少しだけ寂しくなった。
聖少女の気風を取り戻したリリウムは、そっと霜のアスファルトに降りたって、ブーツの爪先を踏みしめた。リーンズィのために開いていた軍隊調行進聖詠服の釦を止め、露出していた肌を隠す。拍子を打つように爪先で何度か地面を叩く。
厳めしく揺れるスカートの裾の黒、呼吸に合わせて冷たく輝く金糸の装束が荘厳の気色を虚空から滲ませる。
猥褻さや愛らしさ、心の襞をこそぐ幼気な面影は微塵も無い。
その佇まいには、『清廉なる導き手』の名前を預かるに相応しい、神秘的な威風が備わっている。
リーンズィもまた卒然として正気を取り戻して、リリウムに剥がれた己の衣服を整え始めた。左腕部をアルファⅡモナルキアの蒸気甲冑で覆っているため難儀したが、ミラーズの助けで事なきを得る。
ふむふむ、とケットシーが突撃聖詠服の装飾に巧妙に隠されている釦の位置を観察していたのがやや怖く、貞操の危機を感じたが、致し方ない。
「危急の要件なのでしょう、疾く報告を。我が使徒、我らが使徒、アムネジア……アムネジア・ナインライヴズ。あなた自身が駆けつけるとは、余程の事態と見受けますが?」
指導者然とした口調で、朗々と歌うように問いかける。
それを聞いて、リーンズィはどうしても不思議そうな顔になった。
「やはり、我が使徒、と言っている? 君は彼女を知らないはずでは……?」
「知らないわけがないではありませんか」
不思議そうなのはリリウムも同じだ。
「どうして、知らないだなんて、そんな勘違いをしたのですか?」
「だって、君は彼女の名前を知らない」
「え? どうしてですか? とっても知っていますよ。アムネジア。アムネジア・ナインライヴズです。だって、彼女に朽ち名、レーゲントとしての洗礼名を与えたのは、わたしのお母様なのです。何十年、何百年の付き合いなのです。あなたこそ、彼女の名前を知っているのですか? 彼女の<戒め>は見たことがあっても、彼女自身を知っているかは怪しいものです。彼女特有の聖句の作用によって、見ても長い期間記憶に残らないはずなのですけど」
「うん?」
首の角度がさらに険しくなってしまう。
リリウムの発言や認知には、奇妙な点が多すぎる。
ロングキャットグッドナイトと何度言っても通じなかったのに、白銀の少女は、この猫のレーゲントを知っていると言い張る……。
対して、ロングキャットグッドナイトは、いつものロングキャットグッドナイトだった。
「はい、猫レスキューです」にゃー。「呼ばれて飛び出たので。とても一大事です」
「呼ばれて……?」リリウムは問い返す。「わたしは呼んでおりませんよ、アムネジア」
「はいリリウム様、呼ばれていません。わたしキャットは、リーンズィに呼ばれたのです」
「どういうことですっ!?」
猫っ毛のレーゲントは改めてリーンズィと向き合い、見上げながら猫を高く掲げた。
「おはようございます、ロングキャットグッドナイトです。猫たちは微睡みの中で確かに助けを聞き届けました。ここに猫がいます。もうご安心です。聖なる猫はいつでも泣いている人にそっと寄り添い、もふもふの恩恵を授けながらふみむみと体を踏んでその労を労います。怖いことはもう怖くないのです」
「えっ!? ろんぐ……えっ!? ええーっ!? 思い違いじゃなくて結局そういうことですかっ!?」
リリウムは膝から崩れ落ちた。
「やっぱりそういうことなんです!? 我が使徒アムネジア! あなたがつまり、ロン……ロロロンみたいなひとなんですねっ?! ヴォイニッチがあなたに贈った<ナイン・ライヴズ>とかの新しい朽ち名も、いったいどこに捨ててしまったのですか! ろんぐ……ろ……本当に何なのですっ、そのよく分からない音は!」
掲げられた猫が悲しげに鳴いた。
「とても辛い決断がありました。覚えていらっしゃいますか、解放軍がいまよりさらにたくさんだったころ。先の時代の猫和平で、わたしたちの名前は評判は地面に落ちて、踏まれたお菓子のように潰れてしまいました。みなが猫たちを怖がるようになったのです……。わたしキャットの猫の国では、ごあんしんとごまんぞくをお届けすることが出来なくなり、悲しみに包まれました。ですので、わたしキャットは、まいにちの新しい朝を迎えるために、まったく新しい名前を掲げることに決めたのです」
「ひどいですー! そんな報告受けてませんよ、アムネジアっ! あなたのその変な名前のせいで、け、計画が……大切な計画が狂ってしまったのですよっ? 天使様を捕まえれば、御国は確実に近付いたのにーっ!」
「ノンノンなので」ロングキャットグッドナイトは揺るがない。「最後の調停以来会っていないため、お伝えする機会が無かったのは当然です。わたしキャットは、ぱそこんがよく分かりませんし、条件を満たさないと存在を視てももらえないので、直接会わないと伝えられないのです。ですので、これがご報告となります。つまり悪いのはリリウム様なので」
にゃーにゃー! と猫が囃し立てる。
「聞こえますか、この抗議の声が。リリウム様はちっともわたしキャットに会いに来てくれませんでした。猫たちもどれだけ悲しんだことか。わたしキャットの悲しみは、猫たちの悲しみです。冷たいご主人様の顔なんて忘れてしまったと、小さな猫たちもご不満なので。わたしキャットがどれだけ寂しかったか、猫たちだけが知っています。わたしキャットは夜も眠らずお昼寝をして、猫たちと新しい名前を真剣に決めたのに、朝も夜もずっとずっとリリウム様はいませんでした。嘆かわしいことです。リリウム様は酷薄で、猫愛護の精神が足りていないのです」
さらにさらににゃにゃにゃーと猫が鳴き声で囃し立てる!
「それは申し訳ないと思っていましたが、でもろんぐ……って、そんなー……」
リリウムの気勢はまた一瞬にして折れてしまったようだった。
「こんな未来があるなんて……聞いておりませんよう、わたくし……」
「やはりロングキャットグッドナイトは……このレーゲントは、リリウムの知り合いなのか? 知り合いなの?」
「だからっ、知り合いも何も、わたしの使徒の一人なんですっ!」
リリウムはリーンズィの問いに、ぐるぐると腕を回しながら熱弁した。
「いいですか、この子はただのレーゲントではないのですっ、すごい人なのですっ。お母様の代、先代リリウムの時からスヴィトスラーフ聖歌隊に仕えていた、最古にして最初の使徒……そして『徹宵の詠い手』と『清廉なる導き手』の両方に在籍を許され、そしてわたしとヴォイニッチの二人の大主教から二重に祝福を施された、権威あるレーゲント! その名も、アムネジア・ナインライヴズそのひとなのです!」
「アムネジア・ナインライヴズ」
誰? とリーンズィは思った。
「猫のひとがそんなふうに名乗ったことは一度も無いけど……」
「ま、まさか、ほんとうに捨ててしまったのですか? お母様とヴォイニッチから授かった朽ち名を?! だとしたら、わたしとしてもその……ごめんなさい、アムネジアを放置したわたしが悪いのですが……悲しいです……」
涙を讃えて蒼玉の双眸をオーロラのように揺らめかせる大主教を、ロングキャットグッドナイト――不滅者<ナイン・ライヴズ>、使徒アムネジア・ナインライヴズは、じっと見上げていた。
それから、素朴な美貌の無表情を珍しく崩して、ふと微笑んだ。
「アムネジアは今でもアムネジアですよ、リリウム様。しかし皆様の幸せのためには、ロングキャットグッドナイトという名前の運ぶ、新しい未来が必要でした」
猫のレーゲントは掲げた猫を降ろし、小さな体でリリウムを抱擁した。
「リリウム様の使徒はここにいます。しかし、今は皆様のごあんしんが、迷える魂のごまんぞくが大事なのです。そのために人の、レーゲントの、猫ならざる名前は、枷でした。もしかすると、かつてのアムネジアは、厳密にはもういないのかもしれません。でも、わたしキャットを慕う猫たちはここにいるのです」
一連の動きで最も動揺を示したのは、あるいはリリウムではなく。
ミラーズだったかもしれない。
「えっ、待って。この子があのアムネジアなの? 嘘でしょ? どこが? どこがアムネジア? いつも黒髪で三つ編みで伊達眼鏡じゃなかった? あともっと巨乳だったわよね!?」
「えっ、お母様にも分からないということは……まさか別人っ!?」リリウムは電撃に撃たれたようだった。「抱き心地はアムネジアそのものですが、偽物ですかっ?!」
「いいえ、リリウム様。ロングキャットグッドナイトはすごく本物なので。メイドインきゃっとです」
「だ、だから、何ですか、そのロロロみたいな長い謎の言葉……? 仕方ありません、交歓により確認させてもらいます! 長いあいだ会っていませんでしたし、偽物の可能性ありますよねっ! 今の解放軍では規則違反ですが古式の挨拶をさせて貰いますっ」
聖少女はロングキャットグッドナイトに接吻して、抱擁し、愛の言葉を交しあい、それから身を離した。自分の番では無いと判断してか、一連の動作をただ眺めていただけのケットシーが「わー……」と声を出して仄かに耳を染めた。
「ん……やっぱり完璧にアムネジアです! ろんぐろんぐナントカって何ですっ?」
「とってもほんものなので」ロングキャットグッドナイトは照れたのか少し茹だっていた。「リリウムはいつも愛が大きいです……」
「……本来のレーゲントって、みんな挨拶みたいにあんなことするの……!?」
リーンズィは衝撃を覚えた。
我知らず顔を赤らめて後ずさる。
聖歌隊の実態を自分は未だ理解していなかったのだ。
先ほどのリリウムから全く敵意や悪意を感じなかったのも当然だ。
これが挨拶ならば、大抵のことは挨拶であろう。
「声と肉しか信じないのがスヴィトスラーフ聖歌隊の流儀ですからね」とミラーズは懐かしそうだったが、それ以上に二人の遣り取りに敏感に反応していた。「でも……アムネジアって……やっぱりあのアムネジアよね。襲名とか二代目じゃなくて。信じられない……」
ロングキャットグッドナイトは脚に纏わり付く猫を足だけであやしながら頷く。
「はい。アムネジアは今も昔もわたしキャットだけです。キジールに、リリウム、それにわたし……また三人一緒ですね。」
猫のレーゲントはリリウムから身を離し、目を細めた。
「キジールはミラーズで、わたしキャットは今はロングキャットグッドナイトですが。どれだけ聖句をかけても、やはり忘れて下さらないのですね」
ミラーズは唖然としながらロングキャットグッドナイトに歩み寄る。猫っ毛のレーゲントは両手を広げて彼女の肉体を迎え入れた。抱き合い、接吻し、愛の言葉を交しあい、互いに触れた。
「か、香りは言われてみれば、似てるし、仕草も何となく……。でもやっぱり明らかに別人ではないですか!? だって、アムネジアのほうがわたしより背が高かったし、やっぱり胸もお尻ももっと肉付きがよかったはず。何より、そんな歌い方しなかったもの。肉体を乗り換えたの……?」
ぴっ、と人差し指を立てながらユイシスの幻影が漂う。
『否定。スヴィトスラーフ聖歌隊のスチーム・ヘッドは、人工脳髄と人格記録媒体の仕様上、使用するボディを変更できません』
「そ、そうですよね、私のユイシス。だいたいこの子、不滅者でしたっけ、それだから人工脳髄がどこにもないの……? 体がどうこういう話じゃなくて……底の底から書き換えられてるような感じがします」
リーンズィは誰に水を向けたものか迷って、呟いた。
「つまり、アムネジア? というレーゲントが居たの? ミラーズがキジールだった頃から……?」
「そう、居たのです」金色の髪の乙女は頷く。「事と次第によっては彼女が大主教ヴォイニッチの座に着いていても不思議ではありませんでした。でも……なんか、こんな子じゃ無かったのですけど。体は別にしても、とっても賢くて、喋り方もこんなにのんびりしてなくて、はきはきしていて……口喧嘩になるといつもあたしが負けていたわ」
「はい、わたしキャットはお喋りでした。キジールを泣かせたような記憶がほんのりとあります。でも毎晩キジールに鳴かされていたのもわたしキャットなので」
「そ、そうだったわね。うん、あの、確かにそうでした、けど……でも知らない子の可愛い顔と声でそういうこと言われるとちょっとびっくりしますね……」ミラーズは目を泳がせた。「とにかく、聖句に頼らず、弁舌の立つ子でした。信徒の学者の話に生真面目に耳を傾けていたイメージが……。リリウム、どうしてこんなことに? 私が去ったあと、何があったのですか?」
「……使徒アムネジアは、解放軍によって魂を穢されました」愁い顔で視線を落す。「当時の解放軍の過激派は、歩く地獄でした。多くのものは心に平和を求めていましたが、しかし同時に忌まわしい殺戮と略奪の縛鎖の囚われ人でもありました。聖歌隊は彼らと合流し、聖父様の教えに従ってどうにか取りなそうとつとめたのです。しかし、平定は混迷を極め、アムネジアも献身に献身を重ね、自己犠牲に自己犠牲を重ね、そうしているうちに摩耗して……疲れ果ててしまいました。だから新しい名前を得る必要に駆られたのです」
「あなたとわたしで施した『再生と歓喜』の祝福を貫通されるほど痛めつけられたの? なんて酷いこと……」ミラーズは眉根を寄せた。「それで、加護を強化するために他に新しい祝福を施したのね? そんなことが出来るのはヴォイニッチだけだと思うけど」
アルファⅡモナルキアのシステムをアンロックされたリーンズィには、祝福が何を意味するのか理解出来る。祝福というのはリリウムがレギオンを指揮し、聖句を増幅させ、その恒常性を保つために循環させている『構造化された聖句』のことだ。
聖句によって組み上げられた特殊なソフトウェアのようなものであろう。それは人格記録媒体や人工脳髄を対象とせず、不死病患者の恒常性それ自体に機能を組み込む。
「まさしくその通りです、お母様――いいえ、今はミラーズ様でしたね。当時、アムネジアとヴォイニッチが共同研究していた祝福式、天の御国に召されたものたちを、さらなる真の不滅の高みに導くための言詞機構、その試作版である『ナイン・ライヴズ』を彼女に使用したのです。すると思いもよらぬことが……」
「聖なる猫」
リーンズィの中で点と線が繋がった。
「そして、聖なる猫が現れたのだな?」
「あー……聖なる猫をご存知なのですね。それなら話は早く……ならないのです……」
聖女の顔に疲れが浮かんだ。
「結局実験は上手く行かず、アムネジアは全く動かなくなり、当時は健在だったヘカトンケイルⅦによって、えっと、人格記録媒体の不可逆的変質? 平たく言い換えると、偽りの魂が散逸してしまったのだと診断されました。その後は解放軍穏健派の拠点だった廃協会で保護され……三日ほど経ってから……よく分からないのですが、アムネジアがいなくなり、突然この子になりました」
「聖なる猫は!?」
「猫はいます!」
機械的に単語に反応したらしく、ロングキャットグッドナイトは猫を掲げた。
ケットシーがおそらく何も考えずにそれを受取ると、猫っ毛のレーゲントはハッとして硬直した。そして猫を手放し、ケットシーがそのふわふわの獣を手慣れた様子でなで始めたのを見て、「猫のぬくもりは心のぬくもりとだいたい同じぐらいのポカポカだと猫の福音書にも記されているのです。猫の祝福のあらんことを……」などと口走り、ごまんぞくした。
「ねこ……猫はいるのだな……?」リーンズィがホッとした。
「騙されないでください、これは猫じゃ無いですよっ! これは猫に似た……半分ぐらいは猫だと思うんですけど、猫じゃない何かですっ!」リリウムはわたわたとした。
話の輪に入れないケットシーが、猫で遊びながら、そのもこもこをぐいぐいとリリウムに近づけてくる。
猫は己の使命を思い出したのか、リリウムに何かにゃーにゃーと訴えだした。
「あっごめんなさい、猫ですっ。猫ですよねー? にゃー? にゃー?」
懸命に猫語でコミュニケーションを取ろうとするが相互に全く意思疎通は出来ない。
頑張りと悲しみと慈しみの融合した、異文化交流の縮図だった。
「うーん……たしかにあのっ、猫、猫は猫だと思うんですけど、獣臭もしませんし、あと変身するじゃないですか? 猫なわけないでしょう……でも……猫なんですよね。子作りも代替わりもしますしっ。あればですけど、ちゃんとごはんも食べますもんね。ねーっ。にゃー?」
「その辺りはもう承知しているので問題ないのだった」猫から現れた不滅者たちの脅威はリーンズィにしっかりと刻まれている。「しかし、それでは、聖なる猫はいったい……?」
「それが全っ然分からないのです。当時は生きている猫が本当にいましたし、アムネジアもよく可愛がっていたのですが、別に何かそんなすごい猫はおらず……殺されれば死んでしまう、か弱い毛玉たちだったので……」
頭痛を堪えるような仕草で目をぐるぐるさせているのはミラーズだ。
「ま、待って……どういうこと? この子になったって、何? アムネジアと入れ替わりでこの子が出てきたってこと? 何それ?」
「入れ替わりで出てきた、まさにそんな感じだったみたいです。わたしもミッフィーに『アムネジアがいねぇ! あと知らないレーゲントが教会をうろついているけど誰?』と問い合せをされて、初めて存在に気付いたのです……」
「じゃあこの子、アムネジアとは限らないんじゃないの……」
猫のレーゲントはぐぐ、と両手を広げた。
「ロングキャットグッドナイトは50%の確率でアムネジアなので。わたしキャットは猫の影、皆様をごあんしんの世界に導く聖なる猫のしもべ、猫に集いし疲れてしまったたましいの道標……神様はすべての争いを止めるためにお膝から猫を遣わされ、もふもふせよと仰っておられるのです」
まるで意味が分からない。
リリウムなら分かるのかと言えば、どうやらこの白銀の聖女にも、ロングキャットグッドナイトの言動は理解しがたいようだった。微妙に目を逸らしている。
「……ご、ご覧の通り、言ってることは全然分からなくなってしまいましたが、解放軍から内紛を根絶するという意志は変わっておりませんし、事実彼女は大きく貢献しました。そしてこのレベルの忘却と覚醒の聖句を<大聖堂>無しで歌えるのは、聖歌隊全体でもアムネジアだけなのです……。ヴォイニッチと色々調べたのですが、やはりこの子はアムネジアが変身した姿なのだろうということしか……」
「でも、奇妙なのだな」リーンズィはふと疑問を口にする。「猫、猫、猫……少なくともアムネジアと言えば、猫なのだな? ならばロングキャットグッドナイトとアムネジアはすぐに繋がるはず……リリウムは何故すぐにそれが分からなかったの」
「ヒナ様」とリリウムがこっそりと尋ねる。「リーンズィ様は今なんと仰いましたか? ゆっくりと区切って復唱して頂けませんか?」
「?」ケットシーは首を傾げた。「えっと……ろんぐ、きゃっと、ぐっど、ないと」
「ろんぐ、きゃっと、ぐっど、ないと。ふむふむ、英語で『長い』『猫』『良い』『夜』という意味ですね? それを四つ連ねて、『おやすみを守る長い猫の騎士』というところですか」
「はい、リリウム。ようやく呼んでくださいました。おはようございます、ロングキャットグッドナイトです。いつでも新しい朝なのです」
「良い名前ですね、ロングキャットグッドナイト。ロングキャットグッドナイト、ロングキャットグッドナイト……よし、言えるようになって、聞こえるようになりました! これで意味もばっちり分かりますっ。でも次に改名するときは事前に教えてくださいね……?」
特に不思議ではなかったが、不可思議な光景だった。リリウムが突然『ロングキャットグッドナイト』の言葉の連なりに理解を示したのだ。
「ミラーズ、彼女はいったい何を?」
「リリウムは本物の聖句遣いなのですよ」
かつて母だった少女は嘆息する。
「彼女は聖句によってのみ世界を理解し、聖句によってのみ言葉を紡ぐことが出来ます。英語であれロシア語であれ中国語であれ、彼女の耳には聖句で翻訳された形でしか届きません。彼女は言葉なくして世界を騙り、言葉なくして世界を理解するの。でも例外はあります――それが名前。『ことば』とは違う、独立した意味と音の連続体。一つの文脈を内包した外なる世界にも等しい韻律……」
「彼女はロングキャットグッドナイトという意味を認識出来ていなかった……?」
「そういうことね。ロングキャットグッドナイトなんて出鱈目な意味の塊は、あの子の世界には存在しない音だったはず」
だとすれば、アムネジア・ナインライヴズと猫、そしてロングキャットグッドナイトが全く結びつけられていなかったのも頷ける。
彼女にはそれぞれが全く関係性の無い、得体の知れぬ、全く異なる音としか聞こえていなかったのだ。
「百万人の祈りよりも、ただ一人の知らぬ名前を聞く方が、彼女には格段に難しいのです。意味を知り、音を知り、そういった手順を踏んで、ようやく誰かの名前を唱えられるようになります。名前だけは、聖句の及ばない世界での意味の連なりですからね。英語もロシア語もスペイン語もフランス語もヒンドゥー語も中国語もドイツ語も……どんな言葉であれ、祝福されない只人の言葉は、あの子には難しすぎる。だから、労苦を惜しまず真実の心から名前を呼ぶこと、それが彼女のまことの献身なのです」
「しかし、それでは……彼女はいったい、何の言葉を? 現に私たちと会話が成立しているし、聞き取れない、理解出来ない言葉など一つも……」
リーンズィはこれまでリリウムとの会話でひとときも意思疎通の不和を感じたことは無かった。彼女の言葉は、まったく自然な物としてリーンズィの『ことば』として届けられていたのだ。
彼女の語る言葉全てが、意味も文法も構造として持たない聖句だったのだとしたら、果たしてそれは人間の操る言語と言えるのか?
自由意志によって発せられた、実体ある偽りのたましいの言葉だと言えるのか……?
それを聞いて、金色の髪の乙女は艶然と笑んだ。
「あなたと同じ言葉よ、リーンズィ」
「私と同じ言葉?」
「リーンズィ。あなたはいったい、自分が何語で話してきたと思っているの? あなたはずっと得体の知れぬ聖句を操って、それで、何も知らないような顔をしているのですよ……?」
「私が……?」
虚を突かれて、リーンズィはしばし思考を停止した。
アルファⅡモナルキアに魂は無く。
目的は無く。楽園は無く。ポイントオメガは遠く。
辿り着く場所は無く。望まれた未来は無く……。
始まりの日、神は言われた。「光あれ」。そして光があった。
しかしアルファⅡモナルキアには何も定められない。
一つの言葉も与えられてはいない……。
『あなたは何を話している気でいたのですか?』
ユイシスの嘲りだけが、リーンズィの空っぽの心に爪を立て、ゆっくりと引き裂いていく。しかし痛みがない。痛む心が無い。
リーンズィに語ることが許された世界は、まだどこにもない。




