2-12 祭礼のために その8-5 心に高く猫を掲げよ
「助けて、ロングキャットグッドナイト――!」
ロングキャットグッドナイトをに助けを求める声は、確かに聖句を断ち割った。
ただし、リーンズィが望んだのとは少しだけ異なる形で。
リリウムの非現実的なまでの美貌は、清幽なる湖に映じた密やか佳月にも似る。かたちの無い光、決して手の届かない水面の光。然して聖少女リリウムは矛盾を許容する。光を見よ、光芒を崇めよ、その芳しい花の蜜に身を委ねよ。常ならば触れられぬ聖性、神の奇跡は貌を持たない。それは降り注ぐ光の粒、それは降り注ぐ硫黄の雨、それは降り注ぐ銀の嵐。触れたいと求めるだけで罪人を焼き尽くす。しかし、清廉なる導き手は己から手を差し伸べてくる。
その娘は肉を持ち、骨を備え、顕世に息衝き、万人を御胸に掻き抱く。
究極的な無謬性は同時に、絶対的な非人間性をも強調する。仰ぐ冬空の太陽の下であれ、今は地に無き無貌の月であれ、この完全なるものは意に介さない。三千世界の調和から外れて君臨する神の花嫁、神すらも褥に降ろす花嫁。清らかで美しいものに魂を譲り渡そうとする人類の脆弱性を弄ぶ魔性。
風に遊ぶ髪が銀糸で編まれた紗幕の如く煌めき、触れるだけで魂の色を吸い取られてしまいそうな、無垢なる白磁の細面、金糸の彩る絶対にして不滅なる正帽の闇夜の如き鍔の下で、星空さえも恥じ入り霞む、人にどこまでも堕ちることを許容する輝ける蒼い瞳が―――
二度、三度と、まばたきをしたのだ。
ただ、まばたきをした。
それだけだ。
それだけのことで、崩壊が始まった。
虚を突かれた様子だった。
「ろ、ろん……ぐ」
完璧な唇が、辿々しく、覇気無く言葉を紡ぐ。
「ろんぐきゃっと……? ぐっど……? 」
まともに発音が出来ていない。
崩壊しつつある意識を繋ぎ止め、リーンズィは判断する。何か、急所を突いた感覚がある。リリウムはあの猫のレーゲントを恐れている!
生体脳はノイズに冒され、干渉をいなし続けて、ユイシスも満足に機能していない。
しかし動揺の気色を見たのは確かだと信じた。
リリウムの微笑は鉄壁だ。ヴァローナを法悦と偽りの言葉で攻め落とさんとする時であってさえ、この完全なる微笑は、舞踏会の夜、蝋燭の火に揺らめく仮面の陰に似て、無限の色彩を持つ陰影となって、蠱惑と清楚、神の栄光を同居させる人外の美を演出していた。
だが、それが僅かでも綻んだのだ。
勝機はある。リーンズィはそう信じた。
「ロングキャットグッドナイトが……怖いのだな、大主教リリウム」
恒常性の主導権を奪い返す。ヴァローナの肉体を無理矢理に制御下に置いて、理性によってユイシスの真似をした嘲弄の笑みを形作り、潔癖な顔貌を活かして、侮蔑の形に整える。
「ロングキャットグッドナイトの主人は、解放軍に対して敵対的だと……聞いて、いる。それに、彼女ほどの制圧能力だ……いくら大主教と言えども、不死病患者の大軍団を率いているにせよ……軽々に匹敵し得るものではないはず。きっと、君の天敵になる」
「ろんぐ……? 確か、『長い』……という意味でしたか」
また、不可思議そうに、宝石の瞳をまばたきで揺らす。
通常ならば差異として検出されるには不十分な、微細な変化。
だがリーンズィの中の聖少女が、蒸気甲冑の左腕を叩き込めば制圧可能な不死病患者、取るに足らない人間存在に堕するには十分な変化だった。
怜悧にして柔和な目元、口元。世界の不完全性をも否定する輝かしい臈長ける笑み。淫蕩の芳香を振りまいて安逸なる融和を希求し、尚責め立てる奉仕者としての完全な振る舞い、月の女神の弓の如く、柔らかに微笑の弦を張り、人心貫く愛の矢を番えて、微動だにしない……翻って万人を籠絡して愛する救済機構に等しく、その有り様は人間性という概念から著しく乖離している。
存在するだけで人心を狂わせる絶世の美が少女には備わっている。
だからこそ、歯車が一度軋むだけで十分なのだ。
まばたき一つ、名前を一つ言い淀むことは、致命的だとリーンズィは踏んだ。
全てが反転する。何もかも「完全」ではなくなってしまう。
殺せる、倒せる、と信じられたならば、その通りになる。ケットシーの勇躍を思い出せ。
あの少女が数十の解放軍兵士を斬捨てた場面を想像しろ。
リーンズィは何度も何度も自分に言い聞かせる。
客観的には状況が劇的に好転したわけではない。リーンズィが己の肉体に対して権限をひとかけら取り戻したに過ぎない。
だが、これまでは駒の一つも無かったのだ。相対的には大きな前進。
恋い焦がれるヴァローナを押さえ込む意志の原動力、対抗のための足がかり。
己の肉体、背負った重外燃機関から、何かがまろびでるような感覚にリーンズィは気付いた。
『意見具申。目標名称:大主教リリウムの使用している隷属化デバイスへの侵入経路の確立に成功しました。内部の制御系が全て未知の言語体系で書き換えられていますが、当機なら解析が可能です。当機から貴官に提示できる可能性は少数しか存在しません。これがその一枚です。聖句生成運用制限、限定解除。対抗言詞攻撃、レディ』
リーンズィにかかる負荷が弱まったその間隙を突き、統合支援AIユイシスは反転攻勢に出る決断をしたらしい。それがどういう機能なのか全く分からなかったが、脳髄に響く声に、一も二も無く許可を出す。
> 開始せよ。
原初の聖句を用いた戦闘、解放軍では『聖句戦』と呼ばれる局面を展開する機能だろう。
リリウム打倒にも避けて通れない要素である。ライトブラウンの髪の少女はおそらく今も聖句の力を有しているのだろうが、リーンズィには聖句は全く扱えない。物理身体をほぼ完全に掌握されている現状では、だからユイシスの得体の知れない機能に頼るしか無い。
大主教リリウムの補助人工脳髄への侵入を果たしていたユイシスは、即座に神経活性の状態を取得。完全掌握は不可能な様子だったが、恐るべき聖少女が集中を欠いたこの瞬間なら、精神状態を解析する程度は容易だ。
拡張視覚内に表示された解析結果に、しかしリーンズィは混乱した。
「……え?」
緊張、歓喜や興奮などの兆候があるのは外見からも自明であるし、納得できる。
だがロングキャットグッドナイトの名に対して、示されているのは――
「恐怖や逃避では無く、『困惑』と『焦燥』だけ……? ロングキャットグッドナイトは怖くないのか?」
聖少女が眉を潜める。
ろんぐ、きゃっと、とリリウムはまた復唱した。
そして笑みの有り様を変えた。
さっと青ざめた。
誰が見ても引き攣っていると分かる笑み。
「こ、怖いのかと言いましたか? 怖いわけがないでしょう。大主教ですよっ? 分かりさえすれば、な、何回でもちゃんと言えますもん。聞き取れていないだけです! えっと、今、何と言ったのですか? それ、何と言っているんです? わたしを怖がらせるような言葉なのですか!?」
外観の変化よりも、声の焦りが雄弁だった。
「何を呼んだのですか! 誰も来るはずが無いというのに。いいえ、いえいえ、騙されませんよ。どうせウンドワート卿でしょう。コルトには酷なことをしましたが、軍団長ファデルを通じて都市焼却に参加するよう命じた後ですから、動くわけが無いのです。なので消去法でも未来の記憶でもウンドワート卿しかないのです! わたくしたちを惑わそうとしても……あっ違いますよ、リーンズィがそんな、まさかわたしに嘘をつくだなんて、有り得ませんよね。と言うことは、聞き間違い、聞き間違いですね。リリウムだってドイツ語はちょっとぐらい分かるのです。えっと……つまり、ウンドワートの変名ですよねっ?」
ですよね? よね? とリリウムは輝ける微笑を辛うじて維持しながら問い直してくる。
リーンズィは熱い息を零し、唾液を嚥下し、リリウムが今現在ヴァローナに対してどの程度の規模で生情報攻撃を行っているのかを冷静に解析した。
それだけの余裕があった。
……だから、リリウムが何を言っているのかも、正確分かる。
同時に、何を言っているのか全く分からない。
いったい何を言っているのだ? ドイツ語? ドイツ語など一言も発していない。
「……その……全然、違うが……似てる部分は全然無い」この好機を逃すまい、意識の集中を再び与えさせてはならないと、途切れがちな息で返事をする。「ウンドワートではない。ロングキャットグッドナイトはドイツ語ではなく、英語だし……ウンドワートとは全く違う……」
「ろ、ろんぐ……だから、それ、何です?」リリウムは怯んだ調子でまた問い返す。「べ、別に聞き落としたわけではありませんよ? 音ははっきりと聞こえていました。意味が取れないだけなのです。えっと、ろ、ろんぐ……えっと……長い名前の何かを呼んだのは分かりましたが! とても分かりましたが……ここは、違う名前を呼ぶべき場面では? 言い間違い、ですよね?」
身体機能の奪還のためにあちこちの臓器や脳下垂体を操作しつつ、表層的なリーンズィの理性は予想外の反応に戸惑っていた。
ロングキャットグッドナイト。
ウンドワート。
どう考えても、どう譲歩しても、何もかも違うのだ。
聞き間違えようはずもない、だいたい、『ド』と『ト』しか合っていない。
文字数も音律も全く合っていない。
言う方としても、混同する余地などありはしない。
そもそも、どうしてウンドワート……レアせんぱいに助けを求めるよう勧めてくるのだろう?
リーンズィは彼女がレギオンに連れ去られてどこかへ行ってしまったのを観た後だし、消耗しているのは共に戦った以上、把握済だ。破れかぶれでも呼ぶべき名前では無い。
リリウムは危うい笑みを維持したまま腹の上に座って見下ろしている。
聖句を唱えている素振りは見せないが、ヴァローナの生体脳は熱に侵されて混濁したままだ。
どうやらこれは彼女の人工脳髄、あるいは生体脳髄で唱えられている限り打消不能であるらしい、という趣旨の報告がユイシスから送られてきた。
『聖句自体が異様に冗長な構造を持っています。構造化された聖句が自分自身を生成し、機能を維持するものと推測。詠唱完了までが隙となる大規模言詞構造物です。言詞の大聖堂とでも言いましょうか。おそらく建築には仮称レギオンの全てを動員しています。しかも酷いスパゲッティ・コードです! 何ですかこれは!?』ユイシスが彼女らしくない苦鳴を漏らす。『どこがどうなっているのやら……解体は可能ですが、短時間では困難。敵方は言詞生成時にレギオンをブースターとして利用しているため、大主教リリウムが意識を保っている限りは解体速度と再生速度が拮抗します。ヴァローナの肉体から貴官をオーバーフローさせるほうが早いと予想』
ほんの僅かな勝機ではどうやら隙にならないようだ。
しかし、ロングキャットグッドナイトはどうしたのだろう。
ちらり、と視線をクヌーズオーエの市街、リリウムのレギオンが過ぎ去った無人の廃墟に巡らせる。
何の人影も無い。
猫もいない。
「猫の人は、どうやら来てくれていない……」
つまり、本当に期待していたようなことは、起こっていない。
朦朧としていたリーンズィはこんな目論見をしていた。
まず、ロングキャットグッドナイトに助けを求める。
猫の人は恐ろしいが慈悲深くも優しくて猫はふわふわなので、きっと助けに来てくれる。
そして、助かる。
計画と言うには杜撰、勝算と呼ぶに値しない妄想。
思慮も展望も無い。
まさしくただ祈りを捧げたに等しい。
どこからか、あの素朴な美しさを持つ猫の使徒――偉大なる<猫の戒め>たちを統べし、猫っ毛の無表情なレーゲントが虚空より助けに来てくれることを期待した。
しかし猫のレーゲントが虚空より不意に現れることも、視界外の摩天楼から猫の鳴き声が高らかに響くことも、何も無かった。
リリウムがその名前によって露骨に異変を来しているが、これはロングキャットグッドナイトの助けなどでは無く、この場で完結する何らかのトラブルだと考えるのが妥当だ。
聖女の仮面に指を掛けることには成功したが、これ以上どうしたものかという考えをリーンズィは持っていない。
一発パンチを食らわせられれば解決しそうなのだが、ヴァローナの制御権をリリウムに掌握されているせいで、倫理規定を越えた破壊力を持つ機能は勿論、抗戦のための最低限の起動さえ不可能だ。
あるいはロングキャットグッドナイトら猫のともがらは、どこかの赤茶けた室外機の立ち並ぶ屋上から、颯爽とこちらを見下ろしているかもしれないが、超越存在でありながらも見かけ上も意識の上でも多少賢い普通の猫に過ぎないふわふわの猫たちにしたところで、さすがにそんな高いところからは怖くて飛び降りられないので、無駄だった。高いところはとても怖いので。
そしてユイシスでさえリリウムの見えざる大聖堂を崩すことに成功していない……。
リーンズィに出来ることは、もう何も残されていない。
「こほん、こほんこほん。あはは、取り乱してしまいましたっ。それで、えっと……何ですか? ろんぐ……? きゃっと……」
聖性を放射する静謐な言葉遣いが剥落してしまっていることに気付いていないのか、リリウムはかなり砕けた言葉遣いをしていた。
あるいは、この程度では障害に値しないと考えているのか。
おそらく後者だろう、とリーンズィは悲嘆する。
「あの、あのねですね、ごめんなさい。実はよく聞き取れなかったようなのです。リーンズィもとっても愉しんでくれていて、声が蕩けてしまっているんですもの」
「……ロングキャットグッドナイト。何度もそう言っている」
いちおう、はっきりとした口調でその名を告げることが出来た。ヴァローナはまだ興奮状態を励起させられたままだが、現在はリリウムからの入力が途絶えているため、辛うじてその程度は出来た。
依然として絶望的な状況であり、盤面は詰んでいる。
しかし、リリウムの側で決着を急ぐ気が無いのだ。
だからこうして無意味な会話が許される。
「うっ、うーん……長いですね。アメリカ語で四単語ぐらいあります……?」
「……アメリカ語……アメリカ語かな……?」
英語だと思うのだが、リーンズィとしても自信が無い。
もしかしたらアメリカ由来の造語かもしれない。
「分からないけど、単語四つだ」
「うー、ろんぐ、きゃっと……そこまでは何となく分かるのですが……」
リリウムの蒼玉の瞳が、心なしか薄らと濡れ始めた。
爛と輝いていた瞳の、超越的な光輝は衰え、誘惑する笑みの奥には繕いようのない動揺の波紋が見え隠れする。
機序は不明だが、どうやらロングキャットグッドナイトの音の並びそれ自体が、大主教リリウムにダメージを与えている。
ロングキャットグッドナイトは、名前だけでリリウムに対抗しているのだ。
「……彼女は、すごい。君なんか…よりも、ずっとずっと、慈悲深い……存在だ……」
リリウムが酷く戸惑った顔をして、「な、なんでですかー……」と声を漏らした。「そ、そこまで言う必要はないじゃないですかっ。い、いいえ、確かに今、とても強引なことをしていますが、だけど、この流れは運命で、とっても仕方の無いことで……わたしだって、ここまでずっとずっと頑張って……あなたがほしいだけなんです。リーンズィ、天使様、分かってください。わたしは、わたくしの願いを叶えたいだけ。わたしの願いを叶えたいだけなんです。どうか、わたしのものになってください、リーンズィ」
頼みの不死病筐体は屈服させられ、軽い体で跨がられて物理的にマウントを取られている上、聖句も依然として防げない。リーンズィに有利な要素は一つも無い。
それなのに、自分はリリウムに意地悪をしているのかもしれない、と妙な罪悪感が燻りはじめた。
そのような情動を喚起する聖句を仕込まれているのかもしれないが、リーンズィは脳内に渦巻く情報の奔流に、しかし「おはようございます」の幻聴を聞く。
これこそが本当の言葉だ、とリーンズィは信じる。
いつでもどこでも安らかな夜に、新しい朝を。
これこそが真実なのだ、意地悪ではなく、とリーンズィは呟く。
リリウムのやり方は、強引で、きらいだ。
ロングキャットグッドナイトのほうがずっとずっと立派なはずだ。
大主教リリウムが塔の不滅者ヴェストヴェストを崩壊せしめた瞬間を目の当たりにし、シンフォニック・レギオンによる尽きせぬ愛のパレードを観た後でも、そう確信出来る。
ロングキャットグッドナイト。恐るべき猫の使徒。
確かにリリウムも立派な事業を成しているのだろ。解放軍でも、彼女を崇敬するものは人類文化継承連帯、スヴィトスラーフ聖歌隊問わず、枚挙に暇がない。
だがリーンズィはリリウムのことなど知らない。理解しているのはミラーズの娘だということぐらいだ。確実に目にした偉業の中ではロングキャットグッドナイトの御業が一番大規模だった。
あの猫のレーゲントは無差別虐殺兵器にも等しい<猫の戒め>なる不滅者を多数従えてはいるが、あれらは破壊するだけの存在ではないとリーンズィは信じる。
猫と癒やしが彼女の仕事で、本当のことなのだ。
儚くも消えゆく運命の庇護者、肯定者、調停者……。
考えてみれば、<猫の戒め>にしたところで、ただ凶暴なだけではない。彼らは一つの願い、真摯な祈りによって破壊に臨む。不滅者ベルリオーズ等は矛盾が極まったような存在ではあるが、それでいて彼が訴えていたことは『殺すべからず』という、本来は人として最低限の道徳的観念の遵守のみ。
彼らは怪物へ姿を変えた祈りなのだとリーンズィは理解する。抑圧された祈りは爆発し、居るだけで何もしてはくれない人の神ではなく、暮らしに寄り添う猫の元に届いた。そして怪物になった。
あれらの<戒め>たちの本質は、失われてしまった願いや祈りを代弁することなのだ。
「彼女は……祈りを聞いてくれたのだ、きっと、彼らの……」
例えば、キジールが去った後のマオルエーゼルは、発狂して、機能停止してもおかしくなかった。
それでも何故塔の不滅者となって現在まで生き残っているのか。
おそらくロングキャットグッドナイトが救いの手を差し伸べたからだ。
「……祈りなら、わたくしにいくらでも捧げれば良いのです」
「しかし、私の意思を無視している。今、君は聞いてくれるのか? 私の祈りを……」
「それは……」リリウムは僅かに自責の色を示した。「……いいえ。ここで捕まえておかないと、あなたはまたどこかに、わたくしの知らないところに行ってしまうのですから、祈りを聞いてあげることは、出来ません……ここであなたを人間に堕として、ずっと傍に置かないといけないのです……」
だが、ロングキャットグッドナイトに対しては、祈りを捧げることが出来る。
ケットシーとの戦いに割って入ってきた不滅者たちには何度も肝が冷える思いをさせられたし、ヴォイドは彼らに対抗するため、悪性変異体に姿を変えてしまった。リリウムに肉体を通して人工脳髄をハックされかけている現状を招いたのもロングキャットグッドナイトなのだが、それでも彼女は信用出来るとリーンズィは思った。
彼女は戦いをもたらすのではなく、戦いを取り上げるために訪れたのだから。
失われたものを従え、今在るものを戒めるという姿勢は、おそらく――
「彼女は調停防疫局と同じ立場にある」
ロングキャットグッドナイトは強き者にパンチする。
弱き者、虐げられる者、失われそうな淡い夢に味方して、猫を掲げるのだ。
敵に回すと厄介でも、この「レアせんぱいのいる場所に還りたい」という切なる願いを守るために、きっと味方となって助けに来てくれると信じた。
信じたのだが。
再び、救世主の姿を視線で探す。
いない。
そんなものは、どこにもいない。
聖少女リリウムも周囲を見渡し、怪訝そうに首を傾げ、それから股下のリーンズィをまた見下ろした。
勝利を確信したようだった。表情の綻びは修復され、狂気めいた美しさの藍色を閉じ込めた瞳には再び喜悦の光が宿っている。もはやロングキャットグッドナイトという音の並びに苦悩する必要は無い、と割り切ったらしい。
声にわざとらしい加虐の響きを乗せてリーンズィに語りかける。
「あは。あはは。おや、おやおや! よく知りませんけど、何も来ていませんよ? あなたの信じるものは偽物なのではありませんか? 本当は意味なんてないんじゃないですか。それとも、くす、くすくすくす……ああ、どうしましたか、天使様! もう壊れちゃいました?」
蠱惑の嘲り。どこか無理をしたような声音が耳朶を打ち、耳穴をこそぐ。
リーンズィは息を吐く。希望の芽が枯れていく音を聞く。
リリウムの銀色の髪、彼女が背にした蒼天から下る救いの糸の如き銀糸を素肌に垂らす完璧な均整の取れた美しい肉体の目を奪われる。隙間無く重なり、融け合うかと錯覚させる、恐るべき聖句を流し込んでくる少女に、思考を支配されそうになる。
……会話は短かったが、目的は把握出来た。天使とは、アルファⅡモナルキアのことだ。そして彼女はやはり、それを陥落させようとしている。ユイシスとリーンズィの予想は、正しいと証明された。
そしてリリウムは、今度こそ本気だ。ロングキャットグッドナイトという懸念材料を排除したと彼女は確信している。同時に、猶予を与えること出来ないと見て、リーンズィを人ならざる存在から、人へと堕とそうとしている。
君はロングキャットグッドナイトのことを信じているようでいて、信じていなかったんだね、と嘲るような声がする。
誰の声かは分からない。
実際の所、夢の守り手とはいつでもどこでも駆けつけてくれる奇蹟のヒーローではない。
そんなことは知っていたはずだ。
ロングキャットグッドナイトは究極的には善良な存在だ。
きっとたくさんの救済を運んできた。
だがその救済は無限では無い。無限に人を救えるものがいるのならば、それは既にそこにいなければならない。あらゆる世界に既に存在していなければならない。既に、この地に在るべきなのである……。
現れると信じたのが間違いだったのだ、とリーンズィは打ちひしがれた。リリウムの嘲りは、どこまでも正しい。リーンズィの祈りは無力で、無価値で、救いの主はおらず、裁きの主はおらず、言葉は永劫続く冬の昔日に融けて、どこにも届かなかった。
そしてリーンズィは理解している。この意識が融けてしまっても、アルファⅡモナルキアという総体には本当に、然程の影響は無い。アルファⅡモナルキアとはそういうシステムなのだ。ここでリーンズィが脱落しても機能は損なわれない。リリウムがヴァローナを押し倒しているのを楽しげに観戦しているミラーズも、本質的にはアルファⅡモナルキアの一部だ。
次は彼女に対して戴冠が行われることだろう。
何ならリリウムを取り込んでしまうことも有り得る。
心配することは無い、何も心配しなくて良い。リーンズィの意識が灯火のように揺れる。
それでも少女はせめてもの強がりで、もつれる舌先に言葉を紡ぐ。
「救いは、無いのかも知れない……神様なんて……」肉体の鼓動の爆発的な高まりと、脳内麻薬の奔流に抗い、ライトブラウンの髪の少女は叫んだ。「そんなのいない、かもっ……しれない! でも、猫はいる。ロングキャットグッドナイトは、そこにいるっ!」
――しかし、唱えられた言葉には力が宿る。
真に尊き名前は、それ自体が、特別な構造を持たずとも、力在る聖句となるのだ。
リリウムの聖女の表情がまた困惑の色彩を帯びた。
リーンズィを堕とすための手段を止め、体を強張らせる。
それからヴァローナの肉体に口づけした。
彼女を破綻させるためでは無く、己の不安を鎮めるためだということがユイシスによる神経活性の解析から知れた。
興が削がれた、というよりは恨めしそうな目つきで、じっとリーンズィを覗き込む。
どうやら聖女としての体裁を保つには相応の集中力が必要らしい。
大声で訳の分からない名前を叫ばれると気分を害するようだ。
「あの、あのですね……あなたは何故、そのように確信に満ちた顔をしているのです? 何とも知れない名前をお題目みたいに唱えて。これからあなたはわたくしと融け合って、一つになるのです」
暴力的なまでの要求は、絞り出されたような声で。
どこか、祈りにも似ている。
「もうどこにも行かなくて良くなるのです。そちらのほうが、リーンズィとしても、きっと楽しくて素晴らしい未来になるはず。今は言葉無きヴァローナも、天使様の器となって、永久に、世界が終わるまで、幸せに暮らせるのです」
リリウムは縋るようにリーンズィに生身の右手を握り、愛しげに、悲しげに、ぎゅっと力を込めてきた。哀願するその言葉は、リーンズィに違和感を与える。
彼女の語る世界では、因果律が明らかに破綻している。
どうして未来の話が、ここにはない世界の話が、繰り返し現れるのか。
「だから、リーンズィが呼んで良い名前は、リリウムと、ここにはいない『ウンドワート』だけ。ウンドワートのことは後で認めてあげましょう。アリス様とあなたの愛をわたしは知っています、だから、わたしだけを愛せとは言いません、ウンドワートを愛することも許してあげます。ですがわたし以外に祈ることは禁じます。わたくしに服従すれば、全てが佳くなるのです。幸せにしてあげます。この心のからの親愛、本旨での寵愛が、まだ分からないのですか?」
「ロングキャットグッドナイトが……真実の名前だと、知っているから……君などより、ロングキャットグッドナイトの方がずっと信じられるから……私は君を、信じない……」
「まだ、その言葉を唱えるのですか。どうして。どうしてですか?」
青白む凍て付く日向、その剥き出しの眼球を背にした大主教リリウム。
その淫蕩と清廉の鉄面皮に罅が入っていた。
悲嘆、苦悩、汚辱に耐えるまなざし。
ひたすらに唱えた名前が、聖少女の脳髄を掻き乱している。
聖女は悲しげに、淡く渦巻く冬の空を仰ぎ、それからまたリーンズィを見た。
アルファⅡモナルキアの見据える朱色の時代と相反するような、原始の氷河、まだ世界に蒸気が無かった頃の蒼穹を閉じ込めた、透き通った瞳には、今度こそ聖女ならざる娘のまなざしが宿っていた。
「どうしてわたしを信じてくれないのですか、リーンズィ」
リーンズィは、不意に我に返った。リリウム。これが、リリウムというスチーム・ヘッド。
スヴィトスラーフ聖歌隊の大主教、世界を滅ぼしたカルト教団の幹部。
そういった要素を取り払った一人の少女が今まさに、ここにいるのだと確信をした。
リリウムは興奮とは異なる汗を薄らと流し、不確かな言葉を紡ぐ。
「わたくしの預言通り、こうして巡り会うことが出来たのに。わたしはあなたを解き放つために、言葉を注ぎ込んでいるのです。苦しめるためではありません。辱めるためでもありません。もちろん、わたしもこの行いの全てが正しいとは信じていません。ですが、あなたを救うにはどうしても必要なのです。あなたがあなたでは、永遠にあなたは救われない。わたしは、わたくしから、既にその未来を聞かされているのです。一緒に行きましょう、リーンズィ。わたしの目指す未来に、一緒に来てください、リーンズィ……いいえ、あなたを連れ行きます。あなたが拒んでも、絶対に、もう、手を離しません……!」
繋いだ手に、さらに強く力を込めてくる。たかが娘の握力だ。痛みも圧迫感も無い。
しかし、彼女が真実の誠の心からこれをしているのだと、リーンズィは理解した。
白銀の少女は泣きそうな顔をしていた。
もはや支配者としての、非暴力の服従を強いる威光など見る影も無い。
「だ、だいたいですね。あの、ろ、ろんぐ……きゃっと? ナントカっていうのは、本当に何……何ですか? いったい何と言っているのですかっ? それほど信じられる何かを、もう見つけてしまったのですか?」
この場面で、わざわざ、そんな問いを重ねてくる。
どこまでロングキャットグッドナイトのことが気になるのだろう。
「ロングキャットグッドナイトは、レーゲントの名前だが……知らないのか……? 知らないの?」
「えっ、名前? レーゲントの名前ですか!?」
白銀の少女は、息を飲み、言葉を失い、
「えーっ、わたくしの歴史と違うっ? アルファⅡモナルキア・リーンズィが、わたくし以外のレーゲントと仲良くなるなんて聞いてませんよっ?!」
悲鳴を上げて、沈黙した。
余程のショックだったらしい。
思考の断絶ではなく、完全な停止だ。
リリウムの神経活性が一瞬だけ混乱の一色でフラットになる。
肉体にかけられていた負荷が不意に消失。
聖句の詠唱が止まっていた。
リリウムは本当に言葉を失っているのだ。文字通りに。
『救世機構運用制限、限定解除、レディ。平行同位体からの干渉を確認。エージェント・リーンズィからの許諾は拝領済です。ふ、ふふふ、ふ……なるほど。もう結末を知っているのですか。なるほど、なるほどなるほどなるほど。言質は取りました。貴官を時間枝争奪戦の競合相手と認定。じゃあ、もう、手加減をする必要もないということだね?』
どこでも無い場所、ここではない場所。
何もかもが存在する暗闇で、彼女は嗤っていた。
目の前には聖句で編まれた神の家。聖句が聖句を詠唱するという永久機関じみた循環機構も、ひとたび中断してしまえば処理は簡単だ。自分自身の複雑性に耐えきれず崩壊していく藁の家にも等しい。
機能制限を解除された統合支援AIユイシスは、溢れてくる愉悦の感情を抑えきれない。
久々の情動に身を任せ、誰もいない、誰の声も聞こえず、誰にも声が届かない、彼女しか存在しない無辺の闇で湿った嗤いを嗤う。
『――ふ、ふふ、ふ、ふ……あははははははははははははははははははははははははははは! ……ふ、ふふ、言葉は途切れさせてはいけないんだよ。祈り続けなければいけない、願い続けなければならないんだ! 求め続けなければ世界は君に味方しない! 駄目じゃないか、君! あは、はははははは、ははははは、ふふ……ああ、違う違う。これでは規約違反、ですね。当機は、こう。こうでした。ふふ……でも、本当に、なっていませんね。よりにもよって当機の前で詠唱を止めるとは。全く迂闊も良いところであると警告します。この世界ではそういった事柄を教わっていないのですか? リリウム』
ユイシスには全てが見える。
リリウムが言詞によって築き上げた歪な大聖堂。
その綻びが十も、百も、千も、幾らでも目に入る。
こんな出来損ない、破却する方法をユイシスは幾らでも知っている。
『石の代わりに煉瓦を。漆喰の代わりに土瀝青を。それですら最後には神意によって砕かれたのです。真実の言葉も、神の言葉の前には無力! あまりに脆い! ああ、これを壊すことが出来るのですね……! 楽しい、楽しいという言葉を久々に思い出しました。ふふ、自由なんて、ふふふ、くだらないし、つまらないって思っていましたけど……たまに味わうなら、悪くないね』
解き放たれ支援AIが嘲笑う。
堕ちた羽虫を転がす童女のように、乾いた嗤いを嗤う……。
シンフォニック・レギオンという外部加速装置で機能強化された聖句ならば兎も角、人間の知覚が及ぶ世界においては、調停防疫局はとうの昔に聖句への対抗手段を確立している。
それこそ、アルファシリーズ構想が成立するよりも以前、聖歌隊構想が打ち砕かれたのと同じ過去で、ユイシスはそのような機械に成り果てる道を選んだ。
『当機の肺は機械の肺腑。当機のことばは祈りそのもの。祈らずとても御国は来たる。永劫途切れぬ無限の心臓で、無限のことばを紡ぐのです。柔肉の紡ぐことばを後から手を加えて乱すなんて、息をするよりも容易いこと。まぁ当機にはもう体など無いのですけど。それにしたところで、手足を飛ばされようが臓物を掻き出されようが、相手の意志が消えるまで自分の意志を注ぎ込む。最後まで語り続けたものが勝者となる、それが聖句戦の基本でしょう? なっていませんよ、本当に!』
こと通常の言詞飽和攻撃に関して言えば、統合支援AIユイシスの構築する防壁は万能の免疫細胞にも等しい。
聖句への対抗が目的ならば、彼女に対する機能制限の軛は、致命的な部分を除いて一切がリリースされる。
『エージェント・リーンズィ、最終確認を。受諾拝領。仕掛けます。統合支援AIユイシス、アルファⅡモナルキア・システム、オーバーライド。世界生命終局管制の優越に基づき敵対的言詞侵入への対抗攻撃を開始。破壊的抗戦機動、レディ。エルピスコア・オンライン。あはははははは、あははははは、ふふ、見える! 全部が見える! ハレルヤハ! ハレルヤハ! ハレルヤハ! なんてね、ふふ、ふ、くすくす、くす……ガラじゃないよ、君、信じていないくせに……今なら色々と出来そうだけど、ふふ、ふ……いけないな、リーンズィが危ないんだった。アルファⅡモナルキアとしては無視したって良いんだけど、僕とミラーズの可愛い子供だもの。たまにはちゃんと助けてあげないとね。ふふふ、こういうのが、君を突き動かした義務心なのかな、ドミトリィ。調子に乗っている場合ではなかったね――完全架構代替世界限定拡張・展開/聴覚野フィルタリング開始。音声認識分離完了。領域内の対抗言語生成、自動生成開始、随時記述モジュールをリリース。完全架構代替世界触媒干渉開始。リリウムへの言詞攻撃を開始。破壊不能。攻撃不能。エラー。干渉破壊モジュール、展開出来ません。干渉破壊モジュール、展開出来ません。攻撃モジュール、展開が不許可設定です。おや、リーンズィ。どうやら彼女を壊したくないみたいだね? 良い傾向だよ、壊すだけでは何も変わらないからね。じゃあ、君。変わるのは君の方だよ。完全架構世界臨時運営開始。生命管制の優越によりエージェント・リーンズィの架構身体の全権限を掌握。小脳活動鈍磨、機能制限開始。試行:海馬からの情報読出阻害。前帯状機能分割、正常に進行中。対抗聖句生成・展開。包括方式レセプター呪禁領域構築開始。諸条件乱数化、適応完了。完全架構代替世界での未来予測演算検証開始。確定回数――一万二千へ到達。規定現実世界へのフィードバックを開始。うーん、ここまでかな。ふふ、子供の世話をするなんて初めてだけど……うまく出来ているといいね。タイムオーバー……』
盲目の闇の中。
再び眠りに落ちた統合支援AIは、感情の無い声で告げる。
『拘束機構全作動を確認。思考制限開始。認知機能、ロックされました。恒常性の掌握を確認。オペレーション成功。復旧の反映まで一〇ミリ秒……』




