2-12 祭礼のために その8-4 聖少女の隷属者
ミラーズが過去の記憶と勝手に対峙して、無貌の騎士に一人で怒りを放射していた頃。
リーンズィはと言えば、相変わらず仰向けに倒れ伏せたままだった。
自体は着実に進行していた。殆どリリウムのなされるがままになっていた。
リリウムは肉体たるヴァローナと擬似人格たるリーンズィの両方に攻撃を続けていた。
生体部分はスチーム・ヘッドを単に実行するのみならず、人工脳髄という偽りの魂に与えられた肉の鎧でもある。言ってしまえばリリウムはその生体部分のクリアランスを全て掌握している状態だ。
殆ど剥き出しになったリーンズィの精神へ、リリウムの命令言語が甘やかな韻律で注がれていく。大主教の発する聖句は絶対的だ。意味も構造も持たないその言葉には、しかし微妙かつ繊細な音の高低や単語の連なりの中に、人間の意志を代行せしめる、極度に圧縮された命令が詰め込まれている。
しかもそれが、散らばった配下のスチーム・ヘッドと不死病患者によって拡大増幅され、都市そのものを聖堂のように扱って反響させ、全方位から鳴り響いて預言の実行を促してくるのだ。
リリウムの言動の穏やか、秘めやかに咲いた花のような息遣いに反して、この聖女の率いる軍勢、レギオンが放つ聖句はあまりにも暴力的だ。多少距離が離れてもさほど性能が減じていない。ユイシスを以ってしても聖句対抗手段を確立するまでに時間が掛かる。
これまでリーンズィを支えてきた大鴉の少女は、今やリリウムの攻撃を素通しする凶悪なバックドアと化していた。リリウム恋しさに苦しみ喘ぎ、膨大なノイズで思考演算の邪魔をする。
リーンズィに主導権はなく、ただただ愕然とするのみだ。
リリウムがいきなり不規則戦闘を仕掛けてきたことにも困惑するが、我が身が敵を利する道具になっている現実への抵抗感が強い。まさか己の意識が生まれる発端となった肉体それ自体がアルファⅡモナルキアへのバックドアになっているとは、と考えて、リーンズィは肉体の状態とは裏腹に泣きそうになった。泣くことさえ出来ないのだが。
現実問題として突撃聖詠服の留め具を戻すことさえ叶わない。冷たい空気に晒された肉体の、その象牙にも劣らぬ滑らかな肌は白く透き通り、リリウムのために浮かんだ汗が凍って、薄らと霜が降りている。
そして肉体の恒常性を完全に掌握されたヴァローナの発する熱で溶ける……。
どれほど情動を切除しても、ヴァローナはリリウムを求める。
リーンズィには、処理が追いつかない。
『ボディを予めハックされている、という状況は予想外でした。なるほど、確かに肉体に条件付けを施しておけば、人工脳髄を載せ替えた後も、特定の手順で心身反応を引き出せますね。サイコ・サージカル・アジャストは後手に回ることが前提の機能、生情報の飽和攻撃を用いれば、仕様上は突破可能です』
悔しさ半分、からかい半分といった面持ちで、天使のような少女のアバターが姿を現わす。物理演算をONにしてリーンズィの肉体を突く。無抵抗な子猫をつつき回して遊んでいるだけの年頃に少女じみていたが、ヴァローナという存在の脆弱性を確認する機械技術者の手つきだ。リーンズィとヴァローナ、そしてユイシスは運命共同体だ。それらの構造体の欠陥を捜査しているわけであるから、自分自身を破壊して楽しむ恐ろしいAIと言える。獅子身中の虫どころではない。
リーンズィは無声で統合支援AIに助けを求める。
> オーケーユイシス、私自身が知らないところで生じた肉体関係によって私の未来や未来について危機が迫っているのでどうか助けてほしい。
『うーん。どうしようかなぁ、迷っちゃうなー。もう彼女と婚姻とやらをすれば良いんじゃ無いかな。降参すれば壊されたりはしないはずだし。楽になれば?』
ユイシスは普段の丁寧語とは異なる言葉を漏らした。リリウムによる生体・精神への、同時飽和攻撃の影響が出ているようだ。
『エラーを検知しました。こほん。疑義を提示。貴官に未来や幸福という観念はあるのでしょうか』
> ミラーズやレアせんぱいと非常に深い交友が既にあるのは事実だが、リリウムとはほぼ初対面だ。攻撃してくる敵と幸せな未来は掴めない。
きぃん、と耳鳴りがして、リーンズィの知覚能力が加速する。
そこに嘲るような女の声が流れ込んでくる。
『疑義を訂正します。貴官という存在に、人間社会特有の観点や、対人法規、不死病患者における暫定的な法解釈を適応することは適切なのでしょうか。貴官は法律上どのように解釈される存在なのか、当機には判断出来ません。貴官に対する情報攻撃は少なくとも不死病患者に対する倫理規定には抵触しますが、物理排除が許可されるレベルでの保護義務違反とは判断出来ません。相手が非感染者であれば公衆衛生の観点から行為者を保護する名目で干渉することは可能です。しかし、今回の事例では両方共が不死病感染者となります』
そもそも不死病患者を法的にどう扱うか、という観点が非常に曖昧なのですが、とユイシスは付け加える。各国でガイドラインのようなものは設けられているにせよ、不死病患者という有史以来最悪の疫病患者を扱うにあたっては、人権という概念は無視するのが通例だ。
適切に扱わないと悪性変異、そして不死病のパンデミックを起こすため、結果的に人権をある程度保護するような状態にはなるが。
『この程度では、不死病患者の恒常性を著しく害する悪意ある行為と認定するのにも足りません。見かけ上、あなたは愛を熱烈に囁かれているだけなのですから。また、主本体たるスチーム・ヘッド、アルファⅡモナルキアへの攻撃とも見做されません』
> 何が言いたいの。私はオーバーライドでこの女の子にパンチする程度でも良いのだけど。
まだ分かりませんか、と嘆息が聞こえる。
『それすら不可能なのです。貴官には個人レベルでの正当防衛が認められない。ええ、貴官は人間ではないのです。そしてリリウムはまだ人間の延長線上にあります。人間ではない貴官は、人間であるリリウムに罪に見いだせない。スチーム・ヘッドに関するガイドラインさえ適応できません。だって、貴官には人間としての前歴が一切存在しないのですから、当然ですね。正当なスチーム・ヘッドの要件をそもそも満たしていないのです。よって、アルファⅡモナルキア・リーンズィは、当機や他方式のAIと同様の架空の存在であり、倫理的な保護の適応外と認定せざるを得ません。それを、どのような解釈で助けろと言うのですか? 当機としては妥当な解釈を持たないため、現在の事象は本当にどうでもよいのですが』
どっと流れ込んでくる情報に、しかしライトブラウンの髪の少女は別の意味で眩暈を覚えた。
> じ……人権の概念が適応されない?! こうやって押し倒されたらもうそのまま受け入れるしかない!? というか私はAIなのか!? 人権はどこにあるの!?
『人間ではない知性なら、AIでしょう。人権は、人間でないなら、無いですね。だいたいヴァローナの肉体とて純潔では有り得ません。貞操に拘るのもナンセンスではありませんか?』心が無い、あまりにも素っ気ない回答だ。『しかし当機としては、リリウムがどのようにアルファⅡモナルキアへの寝食を進めるつもりなのか、興味があります。これは学術とか関係ない当機の趣味です。当機は美少女だけの楽園を作りたいので、そのサンプルケースは是非とも集めたい。前は失敗したので……』
> 酷薄すぎるのでは!?
『よく言われていました。てへ』
棒読みだった。てへ、ではなかった。
『率直に申し上げて貴官の営みについて関心がありません。アルファⅡモナルキアは究極的には一繋ぎのシステムですからね。私の愛しいミラーズのような出自ならともかく、システムから生まれてシステムが育てた貴官は、ほぼ当機と同一の存在ですし、当機は当機のことを知り尽くしています。だから当機の一部がハッキングされた程度は、本当にどうでも良いのです。大主教リリウムは、なるほど、見事に陥穽を尽きました。肉体を丸々バックドアとして使うという発想は調停防疫局にはありませんでしたから。しかしながら、無意味です。リーンズィはアルファⅡモナルキアではあっても、アルファⅡモナルキア総体ではない。大局を動かすような影響を、リリウムは与えられません』
> 自分自身を助けてあげたいとは思わないの。
『我々は仲の悪い双子の姉妹のようなもの。嫌いあいすぎて互いの顔も知らない有様。そしてこの解釈では当機が完璧に姉、貴官が完璧に妹です。そんな姉としては、あまり好きでは無い妹がどこで誰と何をしていようが、どうでも良いと思いませんか?』
> この短期間でたくさんお姉さんと呼びたい人が出来たが、君が一番酷い姉だと言うことは分かった。
『いずれにしてもボディ、ヴァローナの側は、既に陥落しています。この点も非常に悩ましい部分です。ヴァローナの側に抵抗の意思が備わっていれば、それを援護する目的で介入が可能なのですが、当機としては阻止行動に移る大義名分がないのですよ。交信は以上です』
知覚が正常な速度に回帰し、リーンズィ、リーンズィと名を囁くリリウムの指が肌を這う……。
思わぬところで難題に直面してしまった、とリーンズィはノイズに抗いつつ、困惑する。
自分が人間ではないだなんて。
確かにリーンズィは、人間ではない。
外形的には人間と解釈され得るとしても、内実としてそうではない。
精神性の基幹部分はエージェント・アルファⅡに由来するが、彼あるいは彼女にしたところで、生前の履歴というものは皆無だ。それを継承したリーンズィの振る舞いの大半はヴァローナの借り物、肉体とその持ち主だった人工脳髄から読み出した非言語的な記憶でまかなっている。
アルファⅡとミラーズの結びつきが契機となってリーンズィの原型が創成されて以降は、唯一無二のリーンズィの人生経験ではある。
だが、それだけだ。リーンズィはどこまでその要素を辿ったところで、オリジナルの人間としての経歴も記憶も持ち合わせていない。絶対に人間ではない、人間として保護すべき要素が存在し得ない、ということを、他ならぬアルファⅡモナルキアが把握している。
リーンズィとしては些か不服なところだが、ユイシスの指摘通り、リーンズィはある種の人工知能として扱うのが適切な存在だ。
> ……では助けを呼ぼう。外形的には人間なので、そこを攻める。……さすがにこれ以上は……れ、レアせんぱいが泣いてしまう……レアせんぱいに申し訳が立たない……。
リリウムはどことなく楽しそうで、事実としておそらくはリーンズィの反応を愉しんでいる。その気になればこの程度の意識による抵抗は簡単に突破されてしまう。ヴァローナは、よほど念入りに愛されていたのだろう。それを思うと、あるいは最初の遭遇から罠だったのか。リリウムはアルファⅡモナルキアを肉体という鳥籠に見事に誘い込んだのかもしれない。放り込んだ。
だからこそ自分が、現在の意思決定の主体である自分ががんばらないと。リーンズィは耐える。誘惑に耐える。リリウムの腕の中に全てを委ねてしまいたいという、肉体由来の衝動に対抗し続ける。
> まだ、まだ大丈夫。私は大丈夫。リーンズィはレアせんぱいの後輩、レアせんぱいの妹。レアせんぱいのためなら耐えられる……! ユイシス、お巡りさんに電話をしてほしい。痴女に暴行されかけているということでどうにか。解放軍でもプライベート空間以外でこういう行為に及ぶのは良くないし互いの同意が無いなら罰せられるべきというガイドラインが出ている。
思えば今日一日でケットシー、リリウムと、二人もの少女に不埒な行為をされている。
私はミラーズと、そして何より、レアせんぱいのものなのに、とリーンズィはムカムカし始めた。それが唯一、生体脳でまともに紡げる不満の思考だ。
そもそも自分は不滅者たちと何のために戦っていたのか? 色々とあるにせよ究極的にはレアせんぱいとイチャイチャしたかったからだ。この戦いが終わったらレアせんぱいと一緒にたくさん楽しいことをするのだ、という願望を踏みにじられている現状が許しがたい。
しかし、このリーンズィという人格は、誰に捧げられたものなのか。祭壇に捧げられた羊のような我が肉を思う。ヴァローナは自分ではない。自分は自分では無い。肉体は私のものでは無い。特定の誰かから抜き取られたわけでもない人格。
私はいったい何なのか。
思考が纏まらない。様々な断片を、銀色を髪をかき上げるリリウムの清らかな声が拭い去っていく。生体脳がノイズで震える。愛着を基本の構成要素として扱い、ヴァローナの肉体から振る舞いの多くを借用しているせいで、行いの主であるリリウムとの相性は極めて良い。
擬似人格<リーンズィ>に指先がふれるまで、あとどれだけ時間があるか。
『仕方が無いですね。それではその線で行きましょうか。二人ともコンテンツとしての価格が非常に高いので後で売りさばく算段だったのですが。解放軍の闇市での売り買いに支障が出ますが、そろそろ助け船を出してあげます』
> ……ちょっと待ってほしい。まさかとは思うがユイシス、私の知らないところで不健全動画コンテンツに重課金を……!?
『お小遣いの範囲内ですので全く問題がありません。あと当機は成年済AIですし。推測。お巡りさんというと、オフィサー・コルトのことでしょうか。妨害電波は収束しているようですが、相手は大主教リリウムです。コルト少尉と言えども対応は難しいかと』
> しかし意見ぐらいはしてくれるだろう。君と違って頼れるお姉さんなのだから。
『皮肉を検知。まったく、仕方がなくて出来の悪い妹ですね。検索を開始……発見しました。現在は猫と遊んでいます。幸せそうです』
ファデルからかすめ取った視覚がリーンズィに書き込まれる。黒髪を風に遊ばせながら、自由気ままに走り回る茶色い毛並みの猫を、コルト・スカーレットドラグーンは目を細めて眺めていた。時折とことこと近寄ってくるその猫を抱き上げ、くすぐってやり、ぬくもりを胸に抱きかかえて、眦から涙を零す。
『好きなように泣いていいんだぜ、コルト』
ファデルの声がする。コルトは首を傾げて「誰が泣いているって?」と不思議そうに言葉を返す。そして気ままに体をくねらせる猫のお腹に顔を押し当てて、深呼吸をする。それから、彼女らしくない呆けた顔で空を仰ぎ見る。思い出せない何かを思い出そうとして、暗い瞳からまた涙が溢れる。
> ……幸せそうならば、まだ苦しんでいるのならば、邪魔をしてはいけない。彼女はとても傷つき、疲れている。そのことを忘れていた。今の彼女は誰かを頼るべきなのであって、誰かに頼られるべきではない。
SCAR運用システムの発動は彼女に極大の負荷を与えた。街一つを歴史ごと焼却する重すぎる咎をコルトは背負ったのだ。それは無数の罪の一つだが、最後に待つのは首吊りの縄に他ならない。
彼女が自壊を選ぶまで、あと幾ばくも無いだろう。
リーンズィはコルトのことが嫌いでは無い。むしろ大好きに近い部類だ。だから、彼女のケアと、自分のあるのか無いのかよく分からない純潔を秤に掛けるなら、天秤は当然コルトのほうに傾く。
猫……ロングキャットグッドナイトが「裁きです!」と超越存在たちを解き放った今となっては、猫でありながら猫では無い非常に恐ろしい生き物だが……猫セラピーで癒されている最中だというのなら、それを脅かすのはコルトへの背反であろう。
白銀の少女が、リーンズィに触れる。慈しむような素振り。抵抗するだけ無意味なのかも知れない、とリーンズィは諦観さえ覚え始めた。これはきっと、かつての日常、ヴァローナが正気で、リリウムの愛を本心から受け入れていた代の再現なのだ。
この肉体はリリウムと互いを知り合い、全てを捧げるのが当然だと感じている。それを邪魔する権利が自分にあるのだろうか。
……でもこのライトブラウンの髪の少女の肉体を扱っているのは自分だし、と子供っぽく駄々をこねる。自分という人格はミラーズとレアせんぱいに捧げたものなのだ。そんな根幹的な事実を穢されるのは断固認められない。
リーンズィは重ねて、己の悲観に満ちた論理的思考に感情的に反駁する。このまま身を委ねては、どこか違うところに連れて行かれそうな気がする。そこは自分の向かう場所ではない。
レアせんぱいのところにぜったい帰るのだ。
そうだ、私が行けば良い!
どうにかするべきはリリウムでは無い。自分自身だ。
簡単なことだった。一瞬だけでも恒常性を回復させられればリリウムの手からは逃げられるではないか。どうにかして主導権を奪い返せないだろうか。
『打開方法を検索します。可能な解釈を模索中。……筋肉が弛緩しています。戦闘機動に支障が出ると判断。生命管制の優越により、電気ショックを起動。3,2,1……』
リーンズィの肉体が跳ねる。リリウムが驚いた様子で飛び退いた。
視界が明滅し、淡い煙が全身から立ち上る。ヴァローナの肉体の恒常性が乱れた。肉体は単純だ。愛に対して簡単に綻ぶし、強い衝撃を与えれば否が応でも緊張を示す。感覚の断絶と注意の拡散、それは付け入る隙に他ならない。
電気ショックで痙攣した肉体に対して、リーンズィは生命管制の介入レベルを強化する。恒常性を規定の値にまで強制的に回復させてオーバードライブを起動。
一気に距離を取って……。
そうやって主導権を奪い返そうとしたところで、リリウムの白い手指はたやすくリーンズィの生身の右手を掴み、その甲に口付けをした。鮮やか舌先が肌をなぞる。
ただのひと舐めで恒常性は再び崩壊し、生体脳は快楽物質の嵐によって全ての思考を捨て去った。
「焦らないで。わたくしどもは、これから婚姻の契りを結ぶのですよ? 預言の時が来たのです。それなのに、どうしてそれほどに荒ぶるのですか。どうか大人しくそこに横たわってください、優しく、激しく、心から愛します。だから、わたくしたちと一つになりましょう……?」
白銀の聖少女が耳打ちして、切なげに囁く。
リーンズィではなく、ヴァローナが脱力する。
いよいよリーンズィの感知している世界から、力という力、反抗心という反抗心が抜け落ちてしまった。
今のは原初の聖句だ、と遅れて理解する。通常言語に偽装された原初の聖句を不意打ちで人工脳髄に流し込まれたのだ。調停防疫局のエージェントは原初の聖句に対して一定の耐性を持っているものだが、リリウムはその障壁さえ易々と突破してくる。
只人がこれほどの力を扱えるとは思えない。何か支援装置が必要なはずだった。リーンズィは揺れる視界でリリウムの首元を見つめる。自分と全く同じ形式の、しかしどこか古びた外観の首輪型人工脳髄。
あれが簡易ながらも支援AIとして彼女の能力を強化しているのではないか……?
堕落した神を慰める鼓笛隊の、そのドラム・メジャーのような服装をしたリリウムが、いよいよリーンズィを逃すまいと決めたのだろう、裸の腹の上に跨がり、上体を倒し、しなだれかかる。
仕立ての良い滑らかな生地に、紋章をあしらった釦が整然と打ち込まれ、軍服然とした飾り布が華奢な同隊の胸元を慎ましく飾ってる。白銀の少女はおそらく数千万人の命に匹敵する聖詠服を纏っており……当然のようにそのジャケットを脱ぎ捨てようとしていた。リリウムの口づけは優しく、温かく、鋭い刃のようにリーンズィの意識を解体していく。
「……大主教リリウム。どうか、どうかやめてほしい……」せめてもの抵抗に、懇願する声音で喘ぐ。「わたしは、私はこんなことは望んでいない。少なくとも、私という存在の構造を、曝け出したくない。わたしをあばかれたくない……君に見られたくない」
「ふふ、最初にわたくしをあの裁きの日にあばいたのは、天使様ではありませんか。このわたくしを縛ったのも天使様です。わたくしを閉じ込めるこの首輪は……」とリリウムは薔薇の微笑みで問い返す。「まさしく天使様が贈って下さったもの。わたくしどもの婚姻は、遠い過去、遠い世界、ここではない時間で、とっくに決まっていたのです。その頃からわたくしどもは、婚姻を結んでいた。それが今日、ようやく肉の体で祝福を得るのです。どうして融け合うことを拒むのですか? わたしは、わたくしたちは、今日、この日、この場所で、長い長い時間を越えて、結ばれるのですよ……? それはとても素晴らしい、素晴らしいことなのです」
まともな理屈の通じる相手ではない。理性では分かる。それでも逆らえない。理性は針の刀にもならない。ヴァローナの危機意識を呼び覚ますためのキーが、リーンズィに無い。
大主教リリウムはあまりにも強大な聖句遣いだ。
一言一言を、信じてしまいたくなる。
きっと天国に、本物の千年帝国に連れて行ってくれると、信じてしまいそうになる。
赤く変色した瞳を彷徨わせていると、リーンズィの人工脳髄に渦巻く強烈な不安を読み取ったのか、リリウムの表情に不意に陰りが差した。リーンズィの裸の胸にそっと寄り添い、そのまま抱き寄せる実際には背の高いリーンズィの方が、彼女を抱いている形になるのだが、リリウムは確かにリーンズィを搔き抱いてた。
リリウムは上目遣いにリーンズィを見上げた。
息が詰まる。リリウムは聖なる少女という観念において、完成されていた。冬の最初、一際に冷えた朝の窓外、降り積もってなだらかな平原を形作る初雪の如き、触れるだけで損なわれてしまいそうな滑らかな肌。永久に手折られることなど無いと信じさせてくれる偽りの薔薇の淑やかな緋色が、愛らしき目元、薄肉のかんばせを彩る。
大主教リリウムはその完璧な面相を笑みの形に崩し、リーンズィの胸元に頬を寄せる。
そろり、そろりと呼気が這い上がる。
そしてリーンズィとぴったりと視線を合わせた。
ヴァローナの瞳が起動したことに気付いた時には、手遅れだった。
視覚からの情報浸食を受けてリーンズィの意識が瓦解した。何も見えなくなった。太陽が見下ろしている。背には永久に忘れ去られた夏の日の、目が醒めるときの空のような淡い蒼。幾星霜を彷徨いてついに帰るべき港を見ず寄る辺ない夜の畔で途方に暮れた未明の月のような淡い蒼の空。遮る物のない、剥き出しの眼球のような太陽にきらきらと、流星のように白銀の御髪が輝く。神に愛されし少女の蒼い瞳には全てが映っている。人の命が始まる前の清らかさの裏で淫欲と愛着、疑いようのない真実の愛が波打っている。太陽が見下ろしている、銀色の髪が紗幕のように視界を遮る、清聴なる朝の光にも似たまぶしさの中で、リーンズィの瞳には、リリウム以外には何も映らない。
白銀の聖女、永遠の聖処女、運命的な破滅者。彼女の胸、彼女の熱、彼女の愛に身を委ねれば、そこには楽園があるだろう、とライトブラウンの髪の少女は確信する。信じるのではない。確信する。少女の瞳は確かにその未来を見た。未来を歪めるほどの可能性がリリウムには存在している。
違う、洗脳されている、リーンズィに僅かばかりの残された欠片が絶叫する。ヴァローナの肉体は掌握され尽している、未来をも見る瞳はリリウムしか見ない、だから今は、ヴァローナが見たいものを見ているだけだ! ここにきて未来視の奇跡までもがアルファⅡモナルキアへの侵入経路と化してしまった。しかし、それでも、ああ、信じたくなってしまう! リリウムには確かに人を楽園へ扇動する天稟が、救世主の資格がある。世界をよりよく変えようという意志が、溌剌とした肉体から溢れ出ている。きっと何もかもに悦びがある。何もかも溶け合い、混ざり合い、歩み続けることが出来る。冒涜の未来。穢された希望。しかしそれ以外に何の救いが、歓びがあるだろう? この世で唯一信じられる終わらない歓喜の歌だ。
リーンズィすらその禍々しい光輝に塗り潰されかけていた。ヴァローナの情動を、疑うことが出来なくなりつつある。そこには嫌悪感など一つも無くて。きっと幸福感だけが世界に満ちている。彼女と共に栄光の道を進むのは、清廉なる導き手の隊列に加わるのは、素晴らしい日々に違いあるまい。
「……でも」でも、とリーンズィは唱え続ける。でも、でも、でも、でも……「でも、違う」
「どうしたのですか、リーンズィ。何が違うのです?」
「私がいたい場所は、ここではなくて……」
それでも、明滅する視界の、その暗闇の中でよぎるのは白髪赤目の、抱きしめるだけで照れて硬直してしまう、愛しい女性の姿だ。凜然として気高く、そのくせ目の奥に臆病さと愛憐を讃える小さな宝石。
長い夜を、二人で言葉少なく語らう。不器用な言葉遣いに耳を傾け、ささやかにお互いの熱を感じながら明け方を待つ。それからマスターのところで美味しい朝食を食べて、いつものように他愛の無い会話をする……。
リーンズィが本当に向かいたい世界は、聖少女と歩む栄光ある未来では無い。
スヴィトスラーフ聖歌隊と協調するというのがアルファⅡモナルキアとしての大目的だとしても、純粋な願いは、この胸に一つだけ
。
「私は、レアせんぱいといっしょに……!」
「いいえ、いいえ。わたくしと行きましょう? 全部忘れて、わたくしだけを、どうか見てください」
リリウムの声が響く。
構造化された数千もの聖句が、とどめとばかりに人工脳髄に打ち込まれた。
呆気なくリーンズィは融かされた。
リーンズィは人間では無い。人間にも満たない儚い存在。それは淡雪よりも柔らかで、聖少女の紡ぐ絶対言語の嵐の中で、形を保っていることは赦されない。
だから、ここで唱えるべきは、祈りだ。
祈りは誰にも砕けない。
何故ならば神はなく、楽園はなく、悪魔はなく、地獄はなく、裁き主はおらず……
何の意味も無い。
なのに、誰しもが祈らずにいられない。
救い主はいないのだろう。神の御国などありはしないのだろう。
だが祈りだけは決して否定出来ない。
そこにあるからだ。
誰しもが祈るために名前を持つ。存在しないかもしれない名前を信じる。
祈りに値する名前を、リーンズィも一つだけ知っている。
「助けて……」
リーンズィは喘ぐ呼吸を抑え込み。
最後になるかもしれない清廉な空気を味わう。
そして唱える。
救世主、その名前を。
儚くて温かいふわふわとした夢を守るその少女の名前を、リーンズィは既に知っている--。
本当に知っているのかどうだが分からないが、とにかく、叫んだのだ。
「助けて、ロングキャットグッドナイト--!」




