2-12 祭礼のために その8-3 花嫁は忘れたい
護衛を務める巨躯のスチーム・ヘッドたちが、武器を掲げ、旗を掲げ、前進を始める。
牢獄ですら華と変える美しい少女たちが歌いながら後を追う。あるいは涙ぐむことさえしながら唱和を続ける。潤んだ瞳を切なげに視線を交し合い、息の途切れた瞬間に愛を囁き、抱擁し、全身を歓喜で打ち震えさせる。
聖句による大規模な言詞改変の只中にあって、いじらしい抵抗を試みていたウンドワート/レアは、そのうち昏倒し、何も言わなくなってしまった。
都市を揺れ動かす聖句の奔流は、不死病患者たちに脚を掴まれたまま引き摺られていた戦闘用スチーム・ヘッドどもまでをも、容赦なく目覚めさせた。ケットシーに殺害された解放軍兵士たちだ。
再生を促す歌の奔流の中に己を見つけた彼らは、いっとき、肉体の発する仮初めの激情に我を忘れた。あるいは悪性変異体に変貌しかけている機体さえ存在したが、そのうち意識を法悦の楽土に導くリリウムの聖句によって沈黙した。
脚を止めていたレーゲントたちは、そのようにして、再び歌の嵐となって去っていった。
おそらくはこのまま前進を続け、ファデルの率いる本隊と合流するつもりなのだろう。
後に残されたのは、リーンズィとミラーズ。
そして特務仕様型局地殲滅用変異体ディオニュシウス。
身動ぎ一つせず、赤い地球儀と翼ある蛇の旗を頭巾に蒼い炎の頭を垂れて、刀礼を待つ騎士のように跪いている。
ミラーズとリリウムの間に言葉は無かった。
成すべきことは言葉無くして伝わった。己のレギオンの前進を見送ったリリウムはディオニュシウスに向き合い、ごく当たり前のようにその呪われた騎士、救いようのない悪鬼に祝福を施した。
封印という祝福を。
貌の無い悪性変異体、あらゆる経路をあらゆる時間枝に存在するミラーズ/キジールを傷つける者全てを排除する騎士の成れの果てまでもが、大主教リリウムの前では瞑目する獣に過ぎない。
吹き込まれた聖句によって、その行動の全てを強制的に停止させられている。
黒衣の少女、退廃の花嫁、神のしもべたるミラーズは、手指をその不朽結晶の滑らかな装甲に押し当て、それから人形のような面持ちで、そっと撫で降ろした。
「おやすみなさい、ドミトリィ。私のところには来てくれなかった私の騎士様」
金色の髪をした少女は薄らと酷薄な笑みを浮かべ、それから悲しげに目を伏せた。
そして『私はドミトリィでは無い。アルファⅡモナルキア・ヴォイドだ』という淡々とした返答を受けて、彼女には似つかわしくない裏返った声を出した。
「えっ、えっ!? ヴォイド? どうして?! 喋れるの?! 機能停止して、それで騎士さ……じゃなくて、ドミトリィにこう、何か、あの、体を譲り渡して消えてしまったとかじゃないのですか?!」
『何故勝手に私を消す。人工脳髄に収録した人格記録はドミトリィの起動によって致命的に変質した。そこまでは正しい。私は多くを失った。何を失ったのかも分からないが……まだ私だ』
ディオニュシウスの体内には依然として首輪型人工脳髄の反応がある。
どうやらヴォイドはそこから平然と通信を行っているらしい。
『私が消滅したというのは誤解だ。そもそも私が消滅してしまっては、この悪性変異体を自壊させる手段が無くなる。こんな危険な個体を制約無く運用するほど調停防疫局も無差別ではない。君の騎士様とやらはどうか知らないが』
「その呼び方連、呼しないで! ちょ、ちょっとあっちに行きましょう。あっち。……え、体動かせないの? じゃあ聖句で誘導するからついてきてください」
あからさまに狼狽えながら、リリウムたちの耳が届かないところまでディオニュシウスを誘導し、それから改めて尋ねた。
「えっと、えーっと……全然喋らないからもう意識が無いんだと思ってたんだけど……。変なレポートがいっぱいリーンズィに届いていたのは知っていましたし。壊れたのかしら? って……」
『事実として、意識は無かった。ドミトリィの人格記録媒体から転写した情報を、主人格としてマウントさせていたためだ。このヴォイドというエージェント、即ち私には、愛着の観念が薄い。リーンズィからのフィードバックを活用し、君という存在を時空間シフトのアンカーにする都合上、ドミトリィの執着を利用するしかなかった。ただし、無制限の時空間転移を実行する必要がないなら、私はヴォイドで安定する。とは言え肉体の主導権はドミトリィの記憶にあるので、現在は満足に動かせないのだが』
「そ、そうなのですね。えっと、えっと……じゃあ当然記憶も無いのよね?」
『無かったがレポートを確認したので騎士様、騎士様と連呼していたのは知っている』
「ええーっ……」
ミラーズは硬直した。
『しかし君は私の先祖を物凄く愛しげに呼んでいたのだな。驚いてしまった。私の世界でもそうだったのだろうか』
「き……騎士様じゃないもん!」
金色の髪の少女は尾を踏まれた猫のように大声を上げた。
「は、はぁー? 何が? どこが騎士様ですか! 騎士様? どの辺りが騎士様?! 騎士様のことなんて、何にも知らないもん! ドミトリィのことなんてとっくに忘れたもん! 知らない知らない! あーあー聞こえません聞こえません! 何の未練も無いもん!!」
少女の清らかさと、色恋を知る女のいじけた気配の入り交じる、その退廃的な美貌を、純粋な羞恥で真っ赤にする。ディオニュシウスから目を逸らし、頭を抱える。
「助けてくれなかった人のことなんて知らないし! あんな人にもう未練なんてない、今更来てくれたってちっとも嬉しくない! あたしあれから地下時代の方がマシってぐらいとんでもない目にあったんだからね! 挙げ句何回めちゃくちゃに殺されたか、もう分からないのよ!? 聖句で自己洗脳して誤魔化してたけど、そんなの辛かったに決まってるじゃない! うううう、あの人が本当に助けてくれれば、こんなテロリスト大淫婦にならなくて済んだのに……!」
『テロリスト大淫婦とは酷い自称だ』ヴォイドは感情が薄いなりに動揺していた。『しかし、随分と肉体の深層にある記憶を引き出すのだな。そこまで隷属化デバイスに記憶を転写したはずはないのだが。肉体の記憶領域へのアクセスに成功しつつあるのか? エコーヘッドとして成長しているようで何よりだ』
金色の髪の少女には、ヴォイドの戸惑いが聞こえない。
ベルトで持ち上げられた己の胸をかきむしり、それから自分自身を抱きしめるようにして、控えめな怒声を次々に零す。
「本当に今更、何……?! 何が騎士様よ、バッカじゃありませんか?! 知らない知らない知らない! あんなやつ手足もげて穴という穴に針を差し込まれて死ねば良いのに! みんな幸せになりますように、でもドミトリィは地獄に落ちて! あんなやつの首は肥だめに落されるのがお似合いによ! あああ私はどうしてあんなろくでなしを騎士様だなんて……運命の人だなんて……いっときでも勘違いしていたのでしょう。私には可愛い娘たちと聖父様がいるというのに……ヴォイド、騎士様呼びしてたときのログ全部消して! お願いだから忘れて!」
『君の嘆きは理解する。確かに、君の世界のドミトリィは騎士と呼ぶにはあまりにも馬鹿馬鹿しい人物だった』
「……なに? 人の思い出にケチつけるわけ?」
怒りに震えていた金色の髪の少女は、今度は唐突に冷たい声を吐き出す。
「あの人はわたしの最初の夫に等しい人なのですよ? ええ、私は夫だと思っていました! そうなるって本気で信じてた! 本当に愛していたの。信じていたの。それを、他の人に大嘘吐きとかだとか最悪の男だとか、言われる筋合いはありませんから。あの人のことを、無責任子作り男とか、ヤることしか考えてないクズとか、そういうそれを言う権利はあたしにしか無いの。ええそうよ、確かに騎士様と呼ぶには値しない人だったわ。任務だか何だか知らないけどこんな女の子を好き放題に弄んで変な期待を抱かせてこれ以上ないほど酷いやり方で裏切ってイカレたカルトに売り払った異常性癖無責任最悪男根男よ」
『私はそこまでは言っていない』
「でも私を助けてくれようとしたのもあの人だけだったの。一瞬だけでもあの人は本物の希望だった! あの日、あの時のあたしが信じられる唯一の人だった……! ねぇ、何よ。何が悪いの? それを騎士様って呼んじゃ悪いの? 私がそれを思い出のよすがにしているとして、何の罪だというのですか。騎士様のことを悪く言うならいくらアルファⅡモナルキア同士でも聞き逃せない!」
『そうか。了解した。ドミトリィは善良な人間だった』
「だからヴォイド、冗談はやめて、善良であるわけ無いじゃない」
ミラーズの表情は一層冷たいものとなった。清廉と退廃、柔和と硬直が入り交じる少女の細面は、今や静かな怒りの一色になっている。
「善良な人間ならスラムを焼き払って娘を攫ってきてそのままカルト宗教に売り渡してまた似たような仕事させるだなんて、そんなことを認めるわけがないでしょ。どんな世界の常識で考えてもあり得ないわ。命を賭けてでも助けるべきだったのにそうしてくれなかった! この世の罪の一つの象徴、ああ、なんと穢らわしき私の汚点なのでしょう? どうしてあのような悪魔を愛してしまったのでしょう! 地獄に真っ逆さま、その仕打ちが最も相応しいあの大罪人を! 自分と同じような境遇の女の子たちといくら慰め合っても、この怒りは永久に消えないわ……!」
自分自身でもどれだけの矛盾を抱えているのか、ミラーズには分からないのだろう。
擁護と非難の言葉が無限に溢れ続ける。
矛盾を解いてやる術は、どこの誰にもありはしない。
この世界のどこにも、まだ、ありはしないだろう。
『そうか……複雑な乙女心なのだな……』
ディオニュシウスの肉体の奥深くに埋もれているヴォイドは、彼らしくない曖昧な声を出して、それきり黙り込んだ。
彼は無力だった




