2-12 祭礼のために その8-2 神恩頌歌
重外燃機関を背にして、仰向けに横たわるリーンズィは、魅入られたように空を、風に舞う薫り高い銀糸の髪を、繰り返し繰り返し聖句を囁いてくる白銀の少女、神に愛されし大主教を、じっと見つめている。
蒸気甲冑に包まれた左腕は服従を示すかのようにだらりと地に垂れ、ライトブラウンの髪の少女の肉体はリリウムに服従を示し、意識の側でプロテクトを解けば即座に征服者に縋り付くことだろう。
すぐ傍ではミラーズが両手の指を折り畳んで、静かに聖歌を奏でている。首の無い異形の騎士が、自我の無い重スチーム・ヘッドたちが、魂を手放して久しい不死病患者の虚ろな眼差しが、二人の少女に注がれている。誰しもの喉に神の声、大主教リリウムの与え給うた偽りの声。
神の言葉は雪のように静かに、しかし着実に降り積もる。
インバネスコート型の突撃聖詠唱は留め具を外されている。呼吸する以外のことが、リーンズィに出来ない。
祈りを捧げられる裸体はオーバードライブ起動後の反動によって血に塗れており、己を縛り付ける重外燃機関の上で身動ぎするその姿は、石の祭壇に捧げられた屠られた羊じみている。
ライトブラウンの髪をした少女の、その猟犬の怜悧さ、少年の潔癖さを備えた貌は蕩け、リリウムへの回帰を懇願している。リリウムの唱える聖句が高まり、頬を撫でられ、接吻されるたびに、切なげな息を返す。
一方で彼女の肉体に巣食う疑似人格たるリーンズィは、リリウムによる汚染に対して逆らい続けていた。肉体を脱力させているのは、明示的な行動を取ろうとすると、肉体と人工脳髄、ヴァローナという少女とリーンズィという少女の間に、決定的なコンフリクトが生じて、負荷が膨大なものになるためだ。
疑似人格の感情なら幾らでもマスク出来るが、肉体に染み付いた愛着を拭うことは、アルファⅡモナルキアにも困難な仕事だ。不可能では無いにせよ、脱却することに注力すれば、今度はそこかしこから聞こえてくるリリウムの聖句の漣に対抗するための演算能力を削がれてしまう。
例外的に起動した精神外科的心身適合が機能しているため、リーンズィの意識そのものは人口脳髄に保護されて、比較的明瞭だ。それを演算する肉体はしかし、脳内物質の奔流により、正気を失いかけている。
統合支援AIにもこの差異は修正出来ないらしく、結局リーンズィは清明な意識を保ったまま、人形の如くになっていた。
「……とっても懐かしくて、甘いですよ。ふふ、ヴァローナはいつまでも素直ですね」
つ、と二人の唇の間に繊細な線を引きながら、白銀の聖少女、リリウムが顔を離す。そして微笑し、冬の凍て付く街の片隅に甘い息を零し、大気を角砂糖の如く白く融かし、リーンズィの視界を淡く滲ませる。
蒼穹を映す雪花を閉じ込めた瞳に歓喜の涙、汗で濡れるリーンズィの髪に指を徹し、そっとかき上げ、宝物でも扱うかのように、その見知らぬ知己、馴染み深い初めて見る顔の頬を撫でた。
そして桜色の唇をもう一度リーンズィに重ねた。
「ふふ。懐かしいのに、でも、違う……。頭がどうにかなってしまいそうです、リーンズィ様。肉体はまさしくわたくしのヴァローナと同じなのに……本当に、どこまでもヴァローナとは違うのですもの。魂の色相が異なるとでも言えば良いのでしょうか。初めて出遭うのに、初めてではなくて、初めてではないのに、お互いのことがとってもよく分かっていて……ヴァローナが天使様へと再び生まれ変わるだなんて、ああ、わたしも」そっと己の細首を咥える首輪に手を当てる。「わたくし自身の言うことを丸きり信じていたわけではありませんけど、本当に本当だったなんて。これも聖父様のお導きでしょうか」
瞳の濫用によって緋色に染まったリーンズィの瞳を覗き込み、ほう、と息を零す。そして感極まった様子で立ち上がると、両手を広げながら口元をほころばせ、空に届きますようにと歌いながら、くるくると回り始めた。
「ハレルヤハ、ハレルヤハ、ハレルヤハ! スヴィトスラーフ聖歌隊に幸あれ! ああ天に在します我らの父よ、地におられます聖歌隊の父よ! どうか我らの前途に歓びの多くあらんことを! みんな幸せになりますように、ああ、みんな幸せになりますように!」
「……わ、たしに……」
ノイズ塗れの脳髄で、必死で思考を巡らせる。思考よりはむしろ正常な呼吸と発生のほうが困難だ。
「何を、求める、のだ……リリウム、君は何を求めるの……?」
「ただ、愛を!」弾む声で聖少女は答える。「接吻を、交歓を、婚姻を致しましょう。二つの心が一つに溶け合うまで混じり合いましょう、互いを思うだけで息が出来なくなるぐらいに、愛し合いましょう、皆を愛し、皆を幸せに導き、そして最果てへ、愛の果て、清廉なる千年王国を目指しましょう!」
そして膝をつき、身を寄せてさらに思考を塗りつぶすための原始の言葉、聖句の奔流をリーンズィへ流し込む。その情報負荷にリーンズィが喉を鳴らして震えるのを見て愉しみ、それから恋い焦がれる乙女の顔で囁いた。
「預言の天使様と結ばれる、その未来を信じてわたしは道を進んできました。正しい道を歩んでいるならば、いつか天使様が訪れて下さる。わたしの、わたくしどもの、その傍を歩んで下さるようになるのだと、信じておりました。わたしの『清廉なる導き手』としての歩みの正しさは、天使様と結ばれることでさらなる確実さを得るのです」
「わ、たしは……天使など、では、ない……」
「かもしれません」リリウムは帽子を押さえながら困ったように微笑んで小首を傾げた。「だけど、それでも良いのです。わたくしはあなたを天使であると信じます。信じられることこそが一番大切なのです」
リーンズィは恍惚とした顔で演説をするリリウムを眺め、しかし何万人をも同時に操る命令言語の直撃を受けてなお、正気を保っている。
透き通る蒼い瞳から目を逸らすことはしない。別段、リリウムの思想に興味があったわけではない。
原初の聖句と肉体の衝動の両方に抗うリーンズィには、そんな作業は大儀すぎる。
もちろん、ヴァローナの肉体は現在も熱狂の最中にある。目の前の聖女に跪きたいという動物的な衝動を抑え付けながら、スヴィトスラーフ聖歌隊の大主教、不明なアルファ型スチーム・ヘッド『リリウム』の装備状況を、努めて冷静に検めた。
観察すればするほど、白銀の聖少女が纏う軍隊調の行進聖詠服は異様だった。聖歌隊の装束は全て異様だが、飛び抜けている。黒い布地にぶら下げた得体の知れぬ勲章の数々、煌びやかな金銀の飾り紐。要素ではスヴィトスラーフ聖歌隊の一般レーゲントと大差は無い。だがその装備には明らかに隔世の技術と国を滅ぼしかねないレベルの資源が注ぎ込まれていた
リリウムの軍隊調行進聖詠服は完全に通常の衣服としてデザインされていた。
ミラーズの装備もだが、他の聖詠服においては、釦の数を限り、留め金に巧妙に隠し、少数のパーツによって、粗末な繊維状不朽結晶をあたかも通常の服のように演出している。その点において、リリウムのそれは全く異なる。
おそらくは普通の服と同じように着て、普通の服と同じように脱ぐことが出来る。
ただし、女性性を強調するための露骨な工夫が施されており、布地は外観のボリュームに反して薄く、均整の取れた完璧な肢体の外縁が、布越しにでも浮かび上がるよう細工されている。
着用者を過度にシンボライズすることに特化したその特徴は確かにスヴィトスラーフ聖歌隊らしい。
「信仰は何事にも勝ります。いいえ、信じることこそが道を作るのだと言っても過言では無いでしょう! 世界はわたしたちが思い描くようにしか変わっていかないのです……リーンズィ、信じられないのならば、世界もまたわたしたちを信じてはくれない」リリウムの左手が己の胸をぎゅっと掴んだ。身を竦め、心臓の痛みを表現するかのように眉を顰めた。乳房の変形が服の上からでも分かる。
些か扇情的であるという点を無視をすれば、軍隊調の装飾を施した豪奢なマーチングバンド向け衣装だとしても通じるのは間違いない。
否が応でも退廃の雰囲気を醸し出してしまうミラーズや、中世のペスト医師もかくやという物々しいヴァローナの装備、また不朽結晶繊維の貫頭衣を纏うに過ぎない一般レーゲントとは、やはり比べ物にならない。
「……え、えーっと、リーンズィ? そ、そんなにじっと見ないで下さいませんか……? あのあの、見つめ合って愛し合うこと自体は好ましいのですが……さっきよりもあの、何だか熱心なような……いいえ、いいえ! 今はそんな場合ではなく!」ばっ、と両手を広げ、それから一抱えもあるような荷物を右から左へ移すようなジェスチャーを何度か繰り返した。「リーンズィ、わたしの天使様、あなたを天使だと信じることは誤謬では無く、むしろ真実へ向かって進むための祈りそのものなのです! 祈るとは疑わぬことでは無く、そうあれかしと祝福することなのです」
リリウムの不朽結晶連続体繊維装甲は、ただ単純に衣服としての完成度が高い。そして、それは間違いなく不滅だった。一辺の余地もなく、麗しき首筋を包む襟から、フレアスカートの奥で見え隠れする飾り細工の映えるショーツ、取るに足らぬ黒のソックスから、埃一つ触れることを許さぬブーツまで、永遠に朽ちぬことが約束されていた。
そして全ての部位にリーンズィの拡張視界には【超高純度不朽結晶連続体:破壊不可】の文字が赫赫と表示されている。ケットシーの海兵風の学生服よりも桁違いに高品質な装備だ。地上に存在するどのような武器であれ、この聖なる装束を貫くことは出来ないだろう。アルファⅡモナルキアの左腕なら可能だろうが、それ以外では決して壊せない。
たとえ不朽結晶製弾頭を極限まで加速して撃ち込んでも、彼女の軍隊調行進聖詠服には綻びの一つも生じ得ないのだ。
「あの、あのですねー……リーンズィ?」
無言で注視され続けているうちに、リリウムは一方的に照れてしまっていた。困っているという意思表示なのだろうが胸の下に両腕を回し、尺骨のあたりで乳房を強調するように持ち上げる仕草はキジール由来だろうか。
「放置されてしまうと、わたしも調子が掴みにくいのですが……もしかして、言葉を使わずに、わたくしを試していらっしゃるのですか……?」
リーンズィは返事をしない。気を引く程度なら問題ないが、はっきり言ってこの聖句遣いは脅威だ。ユイシスがブロックし続けているが言葉の一つ一つ、ブレスの一つ一つに人心を操るための符号が組み込まれている。返事をして彼女と向き合えば、どんな聖句を入力されたものか知れたものではない。
肉体に由来する衝動に自我を消し飛ばされそうだったので、ひたすら観察をした。……どこをどう見ても、リリウムの聖詠服には防御が無い。そこは他のレーゲントが纏う聖詠服と何ら変わりない。通常弾頭を浴びせれば衝撃が少女の柔肌を打ち据え、引き裂くだろう。至近距離で爆弾が炸裂すれば少女の肢体は容易く千切れ飛ぶ。頭部を保護する装備が無いに等しいため、頭部への攻撃はどんなものであれ有効だ。
限りなく貴重で、限りなく価値が無い。どうすればこのような装備を不朽結晶連続体で編むことが出来るのだろう。如何ほどの狂気が彼女にこの神聖にして不可侵の装束を与えたのだろう……?
どうにかしてダメージを与えられれば聖句で肉体を支配されている現状からは脱出が可能だろう。
装備として他に目立つのはランドセル型の蒸気機関だが、他のレーゲントと同じく何か楽器のようなものと一体化している。不可思議なのは額の人工脳髄に接続するケーブルの類が見当たらないことだ。
「そう、そういう趣向なのですか。完全に理解しました! 凝り性な方だったなんて」理解していない笑みでリリウムが頷く。「ふふ、リーンズィ。そんなにまじまじと、熱く、激しく、見つめないでください。ああ、わたしの不浄な心の底まで透けて見えるのでしょうか……? わたしだって、これでも必死にわたくし自身を律している最中なんですからね……?」
二人が見つめ合っているのを見て、良しとしたのだろう、ミラーズがこほん、と可愛らしく、それでいて年長者らしい咳払いをした。
「初対面のあいさつは、もう不要でしょう。リリウムもリーンズィも、もうこの場で互いを知り、婚姻儀礼を執り行うつもりなのですね? 場所が場所なので不埒な気もしますが、良いことだと思います。契りを立てるのは、早ければ早いほどと言うもの。逃げ出される前に捕まえてしまうのが鉄則です」
「はいお母様!」赦しを得たことが嬉しいのか、リリウムは声を高くした。「ぎゅっと抱きしめます。抱きしめて、お互いを深く、深く知り合って、わたし無しでは生きていけなくなるぐらいに愛を捧げようと思います」
「ええ、リリウム。存分に愛を歌いなさい。だけどリーンズィは、あの子はまだ多くの愛を知りません。あなたの与える恋慕は大きすぎるの。壊してしまわないように、十分に慮るのですよ?」
「もちろんです、お母様。だってこれから生涯ずっと一緒なのですから! 全ては幸せな体験で無いといけません。あ、でもわたしはヴァローナのことよく知ってますけど、リーンズィはわたしのことあんまり知らないのですよね……ちゃんとヴァローナじゃなくてリーンズィのペースのことを考えないと嫌われてしまいそうです……」
リーンズィは聖句を打ち消しながら左派枠に思う。それ以外にもっと考えないといけないことがあるのではないか……? ミラーズに無声通信を行うと、金色の髪をした幼い娘は溜息を吐いた。
「ところで、先ほどからリーンズィ様からの抵抗が著しい気がするのですけど……[
「聖句を浴びて、びっくりしているのでしょう。大丈夫、リーンズィは大主教リリウムと同盟を結ぶためにここまで来たのですから、あなたを拒む理由なんて無いはずですよ」
なるほど、それは道理だ。確かに、ここで大主教リリウムと交わることが恙なく進めば、自然と調停防疫局とスヴィトスラーフ聖歌隊の間にコネクションが生じる。その点だけは間違いない。
しかし別に見ず知らずの美少女に服従しに、ここに来たわけでは、ないのだが……?
問いかけを、やはりミラーズは無視した。
リーンズィにとりあえず理解出来たのは、ミラーズにもリリウムを止める気は全くないということだ。ここで愛娘がリーンズィ、ひいてはアルファⅡモナルキアを支配してしまおうとしていることに、一切疑問を抱いていない。アルファⅡモナルキアへの反意などでは無く、純粋にそれが一番良く、一番正しいのだと信じ込んでいる。それがスヴィトスラーフ聖歌隊流なのか、ミラーズ/キジールに特有の思考様式なのかは、判別がつかない。
「十分に丁寧に優しく優しく……イメトレだと良い感じです、お母様!」
「いいえ、まだ配慮が足りていませんよ」ミラーズがやっと助ける気になってくれたようだ。機転を利かせた一言があるはずだ。「リーンズィもこんなに大勢がいるところでお互いを知るのはきっと困るでしょう。あの子も二人きりというシチュエーションを大切にする純情な少女なのです。そろそろあなたの軍団を移動させるべきだと思いますよ」
してほしい配慮と違う。
ミラーズは慈母の微笑みで囁き、背伸びをして、リリウムに接吻をする。寄り添って触れあう二輪の花は、軍勢の整列する物々しい廃棄市街でも、ある種の光輝を放って見えた。
リリウムはミラーズの実子ということだったが、見た目は二人ともさほど年の変わらない少女で、いっそミラーズの方が幼いほどだ。
しかしスチーム・ヘッドの年齢や性質とは見たとおりの物ではない。リリウムはミラーズに抱擁されて、それで満足したようだった。
「それもそうですね! お母様はいつでもわたしたちのことを思って下さっているのですね……」などと嬉しそうに返事をしている。
抱擁し、接吻し、聖句を流し込んで相手の精神的な高揚を一定のレベルで固定する。聖歌隊の一般的な行動だ。
己を見守るミラーズの手を握ったまま、白銀の大主教は声高く歌い始めた。
白銀の少女の清明なる歌声に、周囲の聖歌隊のレーゲントたちが呼応する。スターター・ロープを引く。背負われた簡素な蒸気機関が深窓の令嬢の如く嘆息し、機械の肺腑が呼気を零す。それら命無き機械の肺と直結する不朽結晶で創造された楽器群。歌う以外には何も出来ない白痴のメカニズム。狂える科学者が継ぎ接ぎにした死体さながら、乱雑に結合されたガラクタの金管楽器、正確にはその模倣体の集合。
聖歌を奉じる少女らは、手足に運命の糸の如く絡まる仕掛け糸を手繰る。配管が組み替わり、熱を帯び始めた蒸気機関から、高熱の呼吸を吹き入れる。途端、甘やかな息は灼熱の蒸気の奔流へと変貌する。大小様々な楽器郡が、恥じらう乙女の心臓のように、息を吹き込まれて歓びにわななく。
そして地が揺らぐ、空が揺らぐ、わたし・あなた・■■■の境界線を融かす音楽が響き渡る。楽は共鳴して都市を震わせて、ことごとくを、その地に在る一切を、存在しない魂までをも揺り動かす。
それは形無き歌だ。無秩序にして完全調和の交響曲。神と人間がかつて共に生きていた時代の祈り。まだ言葉すら知らぬ人々は、風雨の足跡に慈雨の神の吐息を感じ、鄙びた森のざわめきと小鳥たちの囀りに聖霊の戯れの声を聞き、木を割り裂く雷鳴に荒れ狂う大神の怒りを見出した。そしてそれらは己自身を神として奉じる聖句そのものであり、尾を噛む蛇の如き自己参照の円環であり、魂は無く、感情は無く、ただ神と頌歌だけがそこにある。
ならば、それは真実の祈りに程近い。人が在るより前に既に地に響き、人が去った後も変わらず天に捧げられる、この惑星が事切れるまで永久に終わることの無い、真なる祈りの歌だ。一つの邪念、悪心、悪魔の囁きは、入り込む余地がない。音楽を演ずるとは畢竟、それら究極の祈りを模倣する過程で生まれた、紛い物にして真なる祈りの様態である。聖句を混ぜ込まれた究極の祈り。祈りは願いを連れて空の果てにまで響き渡る。
交響機甲師団の音楽は規模こそ圧倒的だが、あらゆる意味で紛い物だ。不滅の造花を戴く少女たちの演奏は辿々しく、決して精妙なものではないし、神と人の境界線を問う音楽家の苦悩の一分さえ、汲み取れてはいない。
だが大主教リリウムの紡いだ原初の聖句、その絶対遵守の祈りの波動は、それら拙い演奏技術を補って余り在る。リリウムの聖句は無限に編まれ続ける音楽的な構造の内部で反響され、合わせ鏡の如くその言詞を転写増殖させていく。この世に音の届く限り、人の肉に声の届く限り、あまねく全ての地へ、リリウムの切なげな吐息、神への焦がれと祈りの歌は広がる。
純真の祈りでは無い。神による神のための頌歌では無い。願いを込めた卑しい人の祈りだ。神に願うための淫らな祈りは、しかし聖少女の唇に紡がれて、あるいは純真なる祈りよりもさらに真実に迫る。祈りとは古びた紙切れのようなもので、どのような言葉もその黄ばんだ紙面では滲んで読めなくなる。
だが聖句は決して拭えない。滲まない。消え去りはしない。星空を削り落とすのが不可能なように、リリウムの言葉は盲目の闇にさえ燦然と煌めく。
信じる心は、希う言葉は、その狂信的な激情が息づく限り、褪せないのだ。
スヴィトスラーフ聖歌隊の操る音楽とは、そうした絶対不滅の暴力的頌歌を拡散するための道具である。それ故に彼女たちの蒸気機関は武器では無い。祈り、歌い、見えぬ支配者に賛美を示すための、第二の喉とでも言うべき装具である。
世に足りぬのは祈りだ。幾億の人が希うときになって、彼ら民草はようやく天上の神が人間を虫けらと同じように等閑視していることに気付く。それに慈悲を求めるのは、まこと困難な話である。何しろ人には祈る手も祈る口も祈る肺も祈る魂も足りていない。天上の神の目には六十億の民ですら少なすぎて見えない。百億の祈りすら風に消える囁きのようなものだ。
ならばそれを道具で補うのは当然のことだ。人は機械を使うために生まれ、機械を使うために進化してきた。そしてその道には常に信仰の灯火があったのだ。信仰の機械化は当然の帰結であろう。
人の肺腑で歌を紡ぎ、機械の肺腑で音楽を奏でる。祈りの言葉は都市に満ち、魂無き不死病患者どもの脳髄に潜り込み、彼ら無垢の不死病患者の喉までをも楽器群の一つに取り込む。彼らは神を賛美するともがらであると同時に、神を讃えるという一点に機能を絞られた機械となるのだ。
リリウムの歌は都市を渡り、死灰をざわめかせ、死ぬことを許されない魂無き者どもの肺からもあふれ出す。
大音声の聖句合唱が木霊する都市で、倒れて空を仰ぎながら、快楽の衝動に悶える体を黙殺しながら、しかしリーンズィは確信する。
それを聞き届ける神などいるまい、いるはずもない。
裁き主はきっとこの死なずの有耶無耶を見捨てたもうた。
彼女らの祈りは無意味だ。
指摘するまでも無い。それはきっと誰もが知る事実。誰もが知る地獄。不滅の我々に魂など無い。肉体を駆動させるのは演算された擬似人格、偽りの魂。救われるべき霊魂が無い……。
誰もが知らないふりをする現実。
寄る辺ない祈りの群れは、しかし神を讃える。裁き主を讃える。
あとどれほどの祈りを積み重ねればヤコブの梯子の代わりになるか?
問うまでもない。問う必要も無い。
その時を信じてただ祈るだけだ。
幾千の祈りを積み重ねる。
幾億の願いを束ねて空に放つ。
彼女らの歌が柱となる。
やがて大宇の彼方、那由他の果てにまで届くだろう。
必ずや神の御国に届くだろう……。
そう信じさせるだけの光輝が、リリウムの交響機甲師団には備わっていた。




