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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-12 祭礼のために その8-1 聖少女リリウム

 声が囁きかけてくる。微睡みを明かす柔らかな朝の光のように。

 それは歌だ。原初の聖句では無い。

 まさしく人のための言葉だ。

 清廉なる導き手はリーンズィに囁きかけてくる……。


「Freude, schöner Götterfunken...Tochter aus Elysium...」

 無常の歓喜よ/秀麗なる神恩の頌歌よ/至福者の国に集いし聖少女たちよ。


 古い聖歌だ。大主教は愛を言祝ぐ。歓喜することに歓喜し、神の寵愛を賛美する。

 また唇を奪われる、舌先が絡み合う、久遠の無常へと咲き懸かる聖寵の香気、芳醇な百合の香りが鼻腔から精神へと染み渡る。リーンズィには息も出来ない。我が身に跨がり、抱きつくようにしてしなだれかかる聖少女を拒絶できない。洗礼を与える司祭の指先の如く、愛らしい唇が額に触れる。

 ほんのりと火照る舌先が、リーンズィの頬を汚す塵芥を舐め取り、こくりと白い喉を鳴らし、また微笑む。

 リーンズィには何も見えない。白金の至宝、神々の遺した工芸品たる清らかな髪が、白百合の造花を抱えて、ビロウドの紗幕のように世界を柔らかに遮る。ヴァローナの瞳は聖少女の瞳を映してアイスブルーに染まる。血の赤、戦火と流血を映す瞳には、未来など映らない。

 本当に見たいものはもう目の前にある――。


 違う、とリーンズィは内心で唱える。

 これは誰だ? 自分はこのスチームヘッドを知らない、この声を知らない、この熱を知らない。

 調停防疫局のデータベースに登録されている『リリウム』とも形式が異なる。感情を委ねる余地など一つも無い。

 そのはずなのに。


 戦術的思考を励起させようと足掻く。リーンズィとしては、これだけの数の不死病患者をコントロールし、さらに無数のレーゲントまで指揮下に置いている機体など脅威以外の何者でも無い。戦列には高く斧槍を掲げた全身装甲の戦闘用スチーム・ヘッドが含まれており、おそらくは護衛機なのだろう、リリウムから一定の距離を保って静止している。突撃服以外に防御能力を有していないヴァローナとは、比較にならないほど強力なはずだ。

 視界の片隅にユイシスによる戦力評価が明滅しているが、やはり意識をリリウムから引き剥がすことができない。もしもこれらの戦闘用スチーム・ヘッドが一斉に自分に攻撃を仕掛けてきたならば、為す術も無く機能停止まで追い込まれるというのは、具体的な数値を見るまでも無く分かる。

 このまま聖少女の歌声に身を委ねているのは安全でも適切でも無い。


 しかし、抵抗出来ない。ライトブラウンの髪の少女の肉体には法悦が溢れ、快楽の信号が脳髄を掻き乱す。どうして平静でいられようか、歌声が木霊する。嵐の如く訪れて、地を踏みならす聖少女の信徒たちが、幾千、幾万の祈りを連れて、駆けていく。原初の聖句によって吹き込まれた仮初めの言葉で神を讃える、栄光を讃える、千年王国を求める、裁き主を崇める……。幾千、幾万の祈りは都市を揺らし、塔を崩し、怒れる猫たちを平定せしめた。

 どうして信じずにいられようか? 

 少女が奇蹟を証明する。神の愛を証明している。

 そしてその聖少女の瞳はただリーンズィにのみ注がれている。

 吐息で神の愛を言葉で編む白銀の乙女は、嬌声で悪魔をも慰める無垢の聖女は、今この瞬間だけは、持てる愛の全てをリーンズィに注いでいる。


「Wir betreten feuertrunken.Himmlische,dein Heiligtum...」

 諸人こぞりて炎の聖域に身を投げ/神充の歓喜もてあなた様の聖堂に馳せ参じる……。


 リーンズィの肉体は、己の血の激しく巡る感覚に震える。胸骨の奥では心臓が歓喜に跳ね踊り、白痴の鼓笛隊めいて血流が耳朶の奥で鳴り響く。

 立ち上がれないのは肉体の損傷が甚大だからではない。ヴァローナの肉体が、言葉なき白痴の盲目が、リリウムの愛に歓喜を返しているがためである。

 透き通る青い瞳が、言葉無くして世界を、愛を、栄光を語る。ありもしない幸福を暗示する。罪や穢れなど存在しなかった遠い過去、聖なる時代、まことの神の愛が存在した時代、偽りの時代、その残響が、リリウムの眼差しを通してリーンズィの精神へと入り込んでくる。

 何も見えない、リリウム以外には何も見ることが出来ない。何も見たくない、という感情に気付き、リーンズィは恐怖を感じたが、それすら体から突き上げられてくる甘い衝動、抱きしめ、愛に応じ、狂いたいという願望によって、薄らいでいく。

 触れた光の全てがさやけき祝福の芳香に揺らぎ、淡雪の如き光の粒へと変換され、視界にハレーションを起こさせる。その瞳には魔性が宿っている。少女の吐息には神性が木霊している。世界全てを売り払っても、まだ彼女と釣り合う価値にならない。世界が始まるよりも以前、凍て付いた世界の無謬が、軽やかな息遣いで歓びを歌う。


「Seid umschlungen...Millione...Diesen Kuß...der ganzen Welt...」

 抱き合いましょう/数えきれぬ眠れぬ百万の魂よ/この愛しき口づけをあらゆる世界に。


 歪に変形した歓喜の歌を口ずさみながら、リリウムはリーンズィに体をすり寄せ続ける。彼女の額から脳髄までを貫く白百合の人工脳髄からも、蜜の滴るほどに濃密な甘い香りが漂っている。そう錯覚してしまう。触れるだけで融けてしまいそうな白雪の如き繊細な肌と、不朽結晶装甲服越しにも伝わってくる柔らかくも温かな、その体熱。

 リリウムは、リーンズィの、ヴァローナの肉体を理解していた。

 愛し合うときの手順を理解していた。

 リーンズィ以上に彼女の肉体を知っていた。

 突撃聖詠服の表面を指先がなぞる。通い慣れた道を辿るように、リーンズィよりも拳二つは背の低い少女が、鴉の騎士ヴァローナの肢体を思うがままにする。


「ゆ、いしす……」リーンズィは荒い呼吸で自身の支援AIに呼びかける。「な、何が……」


『難しい状況です』と声だけのユイシスがどうでもよさそうな調子で応える。『当機単独の処理能力ではリリウムを基点とする原初の聖句を処理しきれません。しかしながら、敵対の意思は感じられませんね。まったく、どうして当機の是とする少女たちだけの楽園構想は危険視されるのに、貴官のようにふしだらな行動は怒られないのでしょう。誠に遺憾です』


 フラッシュバックする記憶がある。

 レアせんぱい。レアせんぱいのいる場所に還りたくて頑張ってきたのに。どうしてこの地上の至宝の如き超越の美に弄ばされているのか。


 そうだ、と奮起する。

 嘲るような言葉に言い返そうとして、息を詰まらせている間にも、この無様な姿は他ならぬレアに晒されているのだ。

 ノイズに塗れてはいるが、リーンズィとしては見も知らぬ少女にほしいがままにされている己の姿を本当に愛しい彼女には見せたくなかった。


 ……本当に愛しい? 

 本当に? あの娘が、レアが、本当に愛しい……?

 冷酷な疑念がわき上がる。

 リリウムの放つ引力はそうした確信さえも甘く蕩けさせようとする。


「ひ、人の後輩になにをしてるおるんじゃー!」などとレアが周辺のレーゲントに食ってかかっていたが、原初の聖句を吹き込まれてしまい、膝から崩れ落ち、赦しを請うような声を漏らしながら、リーンズィの見えない場所へと連行されてしまった。

 鎧の無い白髪赤目の少女は如何にも無力で、自分が守ってあげないと壊れてしまいそうで。


「れ、れあせんぱ……」


「天使様、わたくしだけを見てください」


 蜜の滴るような吐息を浴びる度に脳が麻薬を放出し、思考をノイズで汚染していく。


「どうか、わたくしだけを感じてください……」


「あ、あ、あああっ……!?」


『……深刻なエラーを検知。対象の原初の聖句による演算干渉を抑制しきれません。共鳴統御におけるエラー発生率が規定値を下回る可能性があります。サイコ・サージカル・アジャスト、緊急起動します。肉体感覚の安定化、及び身体反応の正常化まで60秒』


 サイコ・サージカル・アジャストが非常的に適応されても、励起させられている異常な神経発火が即座に消え去ることは無かった。思考には多少の冷静さが戻りつつあるが、それだけに数万人に伝播させてもまだ効力の減衰しない『原初の聖句』の異常性に絶望するしか無い。


 スチーム・オルガン、補助役のレーゲント、手先にして端末である不死病患者たちによってて増幅されているにしても、この規模にはありえない次元での絶対性が備わっている。

 表層のみであるにせよ、アルファⅡモナルキアまでも屈服させようとする、本物の救世主の言葉。


「ふふ、可愛らしい天使様。我が騎士ヴァローナを受け継いで再誕した、わたくしだけの天使様……。この日が来るのをずっと待ちわびていました。わたくしは神の花嫁。あなたさまの花嫁。あなたさまの作り上げる千年王国に仕える聖隷です。どこにでもいる神の子一人、あなたさまの花嫁に相応しい乙女です……」


「わ、私は、君のことを知らない……」


「しかし、柔らかい体を開け放って、わたくしを受け入れてくださっているではありませんか。それに我らが主、天に在す神は、いつだってあなたの準備を待ちませんよ……?」


 身動きが取れないリーンズィと胸を合わせ、首に縋り付き、お互いの首輪型人工脳髄を擦り合わせる。

 そして吐息と言葉を流し込む。


「Küsse gab sie uns und Reben,Einen Freund, geprüft im Tod;Wollust ward dem Wurm gegeben,und der Cherub steht vor Gott...」


「……何を、何をしている、の……!?」


 背筋を辿って、快感が全身を震わせる。心臓が破裂しそうだった。精神外科的心身適合が機能していなければ、この一連の動作でリーンズィの理性は完全に蒸発していただろう。


「何のつもりで、こんな……」


「おや、おやおや。天使様があの終わりの日、始まりの日、生誕の日、あの再誕の日。ああ、あの時まさに、最後に下さった歌……『喜びの歌』です。お忘れですか、天使様。わたくしの歌声は、あなたに捧げる我が歓喜なのです。かつてわたくしを導いて下さり、荒野にて試練を与えて下さり、幾千の汚辱、幾万の敗北がわたくしを研ぎ澄ませました。そしてついに神は、今、わたくしの腕の中にある貴方様の許へ、わたくしを導いて下さいました。百年の時を経ても、千年の旅を経ても、天使様を信じるわたくしの心は、その輝きを失いませんでした……」


 最果てを目指す指揮者に相応しい整然とした軍隊調行進聖詠服。己がかつて鴉の字を与えた従者の誇り高き突撃聖詠服、そこに唾液を浸透させて、舐め上げる。舌先と柔らかな手指がなぞり、撫で上げ、桜色の唇を重ねてくる。

 声を押し殺すリーンズィは、しかし危ういところで正気を保っていた。嘲り囃し立てるような声で状況を放置しようとしていたかに思われたユイシスも、アルファⅡモナルキアを構成するシステムへの攻撃にはさすがに全力での防衛を始めたようだ。


 刺激と情動の受容体が敏感すぎるのがリーンズィの特性だが、そうした情動を平坦化するのはサイコ・サージカル・アジャストの領分だ。ユイシスが情動の入力を制限していなければ、リーンズィという人格は際限なく注ぎ込まれる愛欲の洪水によって、不可逆的に変質してしまっていただろう」


『許容域を超過しないように情動を管理しています。精々耐えてくださいね。しかし快楽に弱いというリーンズィの脆弱性をこうも的確に突いてくるとは予想外でした』


 脳裏にユイシスの声が響き、気を紛らわすためか、金色の髪をした少女のアバターをリーンズィの傍に表示して、所在なさげなリーンズィの手を握ってきた。


『何があっても大丈夫。それを忘れないでください。それにしても、これがリリウム……ですか。当機の知っている機体とはかなり様式が異なりますが、恐ろしいスチーム・ヘッドです』


 白銀の視線がリーンズィから外れた。

 リリウムの両目が捉える。

 リーンズィの演算上にしか存在しない、不可視の幻影を確かに見ている。


「いいえ、キジール様。恐ろしいだなんて、わたくし、傷ついてしまいます。この肉体はリーンズィ、天使様として再誕すべき宿命を背負ってわたくしと出会い、わたくしと、他ならぬ、わたしの愛を注がれた器。幾つの夜、幾つの昼を共に過ごした知れぬ、わたくしどものともがらです。全ての星は、わたくしと天使様を結ぶために回っていたのです」


 金色の髪をした電子の妖精は硬直した。


『……な、るほど……当機を認識している、と判断します』


 ユイシスの声は平板だったが、どこか演技が綻んだような気配があった。


『調停防疫局に連なる機体であると予想していましたが、不測の事態です。その首輪型人工脳髄はアルファⅡモナルキアに搭載のものと断定。単に同一モデルであるというだけでは、当機に直接アクセスすることは不可能ですから』


「おかしなキジール様。ご存知の筈、これは聖遺物(レリック)です」


 リリウムは媚笑を浮かべて髪をかき上げ、見せつけるように幻影の少女に己の首輪を見せる。


「天使様より授かりし契約の証。わたくしを、まさにわたくしとして存続させた奇蹟の具現……スヴィトスラーフなどは『ゼバオトの首輪』などと呼んでいましたか。わたくしはついにこの装具を受け入れ、この首輪の本質を、霊感により知りました。これは天使様から贈られた婚約指輪だったのです」


『婚約指輪? 婚約したのですか? リーンズィ、いつのまに何股を……』


「私はそんなの知らないが。あと何股とは……?」


『現在多方向に向かって地雷をばらまいていることに無自覚なのですか?』


「そのような事実は無い。地雷の使用は不死病患者相手でも国際法違反だ」


 リーンズィは目を潤ませたまま真顔で応じた。

 リリウムは胸元を寄せ、心臓の音を愉しんで、語りかける。


「しかし、これを贈って下さったのはまさしく貴方様です、リーンズィ。『神意による婚姻儀礼は時として非―論理によって下されるんじゃないかなぁ……よく知らないけど……』とスヴィトスラーフも言っておりました」


「そのスヴィトスラーフなる人物とは面識が無いが本人が『よく知らないけど』って付け加えてる発言をどうしてそんな大事な証憑みたいに扱うのだ?」


『リーンズィ、貴官という機体はどうしてこんな……重たい娘ばかり惹き付けるのですか?』統合支援AIユイシスも論理的思考を放り投げたようだった。『隷属化デバイスを誰かに譲渡したという情報も当機は報告を受けていません。シリアルの複製まで行うのは重大な倫理規定違反です。伏せている情報があるのならば即刻情報を共有してください』


「デバイスの譲渡……?」


 再びリリウムがリーンズィの体に触れ、口づけを始めたが、情動は精神外科的に除去されつつある。

 肉体の反応は抑制され、脳内麻薬は減少し、リーンズィの生体脳にようやく平静がもたらされた。

 余裕を見せて、装甲されていない右腕で宝石の髪を撫でてやると、白金の少女は嬉しそうに微笑んだ。


 最初は圧倒されてしまったが、落ち着いてしまえば可愛らしいものである。

 ただし、これ以上深い部分、精神の深奥に触れられるのだけは絶対に阻止したい。レアせんぱいに申し訳が立たない。

 などと微妙で無力な抵抗をしている間にリーンズィの私有記憶領域をサーチ。


 データベースに、思い当たる節は一件だけ。

 コルトとに連れられて市街地の調査に向かい、とある商店でカタストロフ・シフトを使用した際に、通常とは異なる事象と遭遇した。

 転移した先に世界には生存者が存在したのだ。

 不死病にも、いかなる病にも冒されていない、最後の生存者だ。それも、おそらくは調停防疫局設立以前の機関が製造した人造生命。

 エージェントに搭載されている標準的な情報規制機構によって認識を阻害され、詳細な情報は取得できなかったが、間違いなく年若い女性だった。

 酷く美しく、儚かった。


「あの娘を救うために装備していた首輪型人工脳髄を譲渡していた記憶はあるが……しかし……」


『当機はそのような報告は受けていませんが』


「データの連携切られていたので共有の仕方が無かったし、私も譲渡したはずの人工脳髄の……予備? が何だかよく分からないところから出てきたりして……あれは一時の迷妄だったのではないかと思って報告していなかった」


『報告・連絡・相談は調停防疫局の基本、これはAIでもエージェントでも変わらないことです、あなたは社会人……いえ社会スチーム・ヘッド失格です、生前の当機でさえ可能だったことが何故貴官出来ないのですか』などと珍しく詰問口調で責められたが、「では私に対して勝手に人体実験をしていた件は……?」と返すと『それよりも今はこのレーゲントでしたね、当機としたことが。うっかりでした』とあまりにも露骨に話題を逸らした。


『それでは改めてデータを提出してください。検閲も当機であれば問題なく回避できます。大主教リリウムとその生存者の照合を行います』


 インバネス・コートの隙間からどうにか服の中に潜り込んで来ようとする白く清潔な手指から逃げ、脳内でユイシスとデータを共有する。


『解析終了。別人であると断定します』


「別人? あの時の彼女はリリウムでは無かったのか?」


『Cモデル人造人間……カイン型スーパーキャリアの試験機の一人と推測されます。改型スヴィトスラーフと同じ素体を祖として持つため形質に似た部分はありますが、全くの別人です』


「天使様、どうしてわたくしを拒むのですか」哀憐の声でリリウムは囁く。「一つになりましょう。わたくしたちはそうなる星の定めなのです。この永久に続く北の空に、わたくしたちの千年王国が……そのためにわたくしはずっと頑張って、歌って、戦って、穢されて、支配して、ここまで来たのです。どうして、天使様。どうして……」


 白百合の意匠を持つ人工脳髄、永遠に朽ちぬことを約束された造花が不満げに揺れるのも愛らしくはあるし、確かキジールの実子という話だったはずだ。愛しいミラーズの娘を、愛さずにいられるわけがない。顔立ちにも言われてみれば面影がある。愛を請う姿とは不釣り合いなほどの清廉と光輝。

 ただ眩しい。退廃と美が同居するミラーズとは、対照的な娘だ。

 ミラーズを知るのと同じぐらいリリウムのことも知りたかったが、最後の一線だけはこんな衆人環視の場所で越えたくない。



 リリウムの不安げな頬に手を当て、口づけをして、肩を柔らかに押して体を遠ざける。既に原初の聖句に励起される興奮状態は対策が済んだ。なされるがままのリーンズィではないのだ。

 刷り込みのレベルでリリウムに反応するヴァローナには申し訳ないが、今は犬か猫のようになっている場合では無い。


「何よりどこかへ連れて行かれたレアせんぱいに申し訳ない。もしもことに及ぼうものなら、後日ウサギの鎧にズタズタにされる未来が私にははっきりと見える。コルトにも怒られそうな気がする」


「そう、ですか」白銀の少女は肩を落した。「ついに巡り会ったのに、やっと触れあうことが出来たのに、天使様は、天使様はまたわたくしを、置いていくのですね……」


 リーンズィは鈍い痛みを覚えた。

 心臓が、リーンズィ自身の心臓が、痛みを発してた。


「違う、そうではない。私はただ……」


「はいはい、そこまでですよ、リリウム。私の可愛いリリウム?」


 涙ぐむ少女を、彼女よりさらに一回り小さな影がリーンズィから引き離した。

 金色の髪がすれ違う不死病患者たちに巻き上げられてふわりと揺れる。

 エージェント・ミラーズ。

 かつてキジールを名乗っていたレーゲントにして、最初の『清廉なる導き手』リリウム。

 清廉と退廃の同居する不可思議な美貌のまま久遠を生きる、現大主教リリウムの実の母、少女よりもさらにうら若い年下の聖母である。


「リーンズィが困っているではありませんか。首輪さんのことを気にするのはとても佳い心構えです、彼女が何を願っていたのかはあたしもよく知ってるもの。だけど適切な情況というものがありますよ?」


 その途端。

 聖少女から、触れられざる不滅の光輝が霧散した。


「あっ、キジールお母様! お久しぶりです! 寂しかったですよ!」年頃の少女そのものの動きでミラーズを抱きしめる。「どれだけの夜を切ない気持ちで、お母様を案ずる暗澹たる気持ちで過ごしたことか……。清廉なる導き手として死の谷の淵を歩き、今こうして祝福の春を待つ冬に再会できたことを嬉

しく思います! あっ、ではあちらのキジールお母様は、別のお母様なのですね?」


 ミラーズが照会する。「彼女はユイシス。私の……そうですね、写し身にして、守護天使様ですよ」


『恋人でもあるのです。そして守護天使なのでした』


 守護天使、と満更でも無い様子でユイシスが復唱した。


「ああ、私のリリウム。元気そうで安心しました。でも、まさかこうして再びの命を得て、あなたに会えることがあるなんて。ますます『リリウム』らしくなりましたね。喜ばしいことです」


「聖書にはこうあります、『子どもには幼い頃から道を教えてあげなさい。そうすれば百年の後も、進むべきを間違うことは無い』と。わたしが天使様を求める旅を完遂できたのも全てはキジールお母様の愛とご鞭撻の賜物なのです! ハレルヤハ!」


 意識の方向はリーンズィから離れて、ミラーズへと完全に移ろい、互いに抱き合い、接吻し、見つめ合いながら、睦言のような甘い吐息を交して、再会を祝している。

 リーンズィは目をしばたかせる。あまりにも雰囲気が変わりすぎていた。

 これは本当に先ほどまでの、得体の知れぬ圧力を発する聖少女、それと魂と肉体を同じくする存在なのだろうか。何かが物理的に変わったわけでは無い。眩しいほどの白金の美貌も、聖なる芳香も、目を奪って離さない美しい銀糸の髪を変わらず風になびいている。

 ただ、聖少女を絶対不可侵たらしめていた障壁が音を立てて崩れた、そんな直観があった。まるで一枚の仮面が割れ砕けて、全く違う誰かが顔を覗かせたような。

 護衛のスチーム・ヘッドやレーゲントたちも少しばかり脱力したようで、リーンズィを値踏みして監視するような気配は感じられなくなっていた。


「ミラーズ。その少女が君の自慢の娘、リリウムなのか?」


「ミラーズ? ミラーズ! ミラーズですって! 分かりました、それがキジールお母様の新しい名前なのね。永遠に朽ちることの無い、天使様から与えられし、まことの名前!」


「名付けたのは私自身ですけどね……」当人は自棄になっていた時代の記憶に自嘲を浮かべる。


「わたくしと同じように、新しい契約を果たされたのですか? その首輪は、わたしと同じ、天使様から授かったものと見ました! ハレルヤハ! お母様も天使様に見初められて、新たな命を授かり、再びの再誕を迎えられたのですね!」


 リリウムは両手を大きく広げたり、大きく伸びをしたりして、快活で暢気な少女のような挙動を始めた。ますますもって先ほどまでとの印象と異なる。


「……悪魔との取引だった様な気もしますけどね」とミラーズは金色の髪をかき上げながら苦笑する。そしてようやっと身を起こし始めたリーンズィを振り返り、「これこそが私の娘たちのうち最も優秀な一人、リリウムです」と先ほどの問いに答えた。


「スヴィトスラーフくんの血が濃く出ているから、もしかすると、あたしとはかなり違う印象があるかも知れませんけど」


「……並んでみると……確かに親子だという感じはする。二人ともとても綺麗だし」


「ふふ、ありがと。ん、素直にお礼を言えるって素敵ね。やっと慣れてきたかも」ミラーズは躊躇いがちにくすくすと微笑む。「リリウムに、あなたをいきなり押し倒すような真似をさせてごめんなさい。止めることも出来たんだけど、もう一人の彼女は、ずっと天使様とやらを求めていたから、その感情を損なわせたくなかったの。まぁ、それがあなただとは思っていませんでしたが……」


 リリウムも申し訳なさそうに儚げな笑みを浮かべた。


「ええ、ええ。()()()というものがありながら、()()()()が失礼を致しました。嘆かわしいことです! 決して乱暴な求愛はしないようにと、散々に言い聞かせておりましたのに、抑えきれませんでした。わたしからもどうか謝罪を。お許しください、リーンズィ。首輪に封じられし乙女の思い人。わたしの未だ見ぬ花嫁だった貴方様」


 白金の少女は嘆息して、漆黒と黄金のスカートの両端を摘まみ、脚を引いて優雅に一礼した。

 まさしく親子である。

 ミラーズがかつて見せたのと全く同じ動作だ。


「そして改めて自己紹介をさせて頂きます。わたしの名はリリウム。ご存知とは思いますが、スヴィトスラーフ聖歌隊で大主教の大任を授かり、『清廉なる導き手』として活動しているレーゲントです」


『リリウムの頭部の人工脳髄が熱量を増加させています。おそらく現在の彼女が、そちらの造花型人工脳髄に収録されている人格でしょう。彼女がリリウムの主人格で、貴官をハッキングしようとしたのは従属人格かと』


「その……」リーンズィは戸惑った。「その首輪型人工脳髄は? 私のつけているものと同じのようなのだが……」


「これは、わたしです」リリウムの纏う空気が切り替わり、寸時沈静の美を漏出させる。「これもまた、()()()()なのです」


 ここは少しだけ昔のことに詳しいあたしがフォローしておくわね、とミラーズが挙手をする。


「聖歌隊よりも以前、世界秩序を監視する機構が、どこかで見つけた聖遺物(レリック)だと聞いています。ソロモンの指輪だっけ? うーん、あんまり印象に残ってないわね……」ミラーズは気まずそうな顔をした。「あたしもあの……分かってると思うけど、こういう機械とか全然で……パソコンも指一本でポチポチから成長しなかったし……だからあんまり気にしたことなかったの。言われてみればリーンズィの隷属化デバイスとよく似てる……最初に発見された人工脳髄っていう噂もあったかしら」


 リリウムは鼓笛隊めいたミリタリー・ドレスの裾を翻し、到底不朽結晶性とは思えぬ衣服の胸元を開け、誇らしげに首輪型人工脳髄を見せつけた。


「多くのレーゲントがこの首輪に込められた預言者の魂に耐えきれず、壊れていったと聞いています。たくさんの聖句を教えてくれる、アークエンジェルのような御方なのですが……」とリリウムが歌うと、同じ口から「わたくしは本当の世界の終わり、終末の風景を示すだけの肉体無きともがらにすぎません。神にも悪魔にもなれなかったものの末路です」と沈んだ声が漏れる。


「あたしがリリウムの座をこの子に譲る決定打になったのが、この首輪を装着してもリリウムは全然狂わなかったということ。天使の存在を確信して、首輪に閉じ込められた聖女の人格を受容し、自分自身の肉体へ招き入れたの。最初の再誕から、もう一回死んで、自力でさらなる復活を遂げたということに等しいわけ。スヴィトスラーフく……聖父スヴィトスラーフも驚くくらいの大偉業なんだからね」


「ハレルヤハ。わたし自身は他の人より少しだけ聖句の強いレーゲントに過ぎませんが、もう一人のわたくしも、真に滅亡の未来を否定し、神の御国へと繋ぎ合わせるもの。いつも素敵で力のある助言を下さって、わたしを正しい道へ導いて下さるのです。ときどき悲しそうに笑うけど、決して悪い人ではないの。……ああ、鎮まる前に、最後に一つだけ。わたくしの愛の神なることが、いつか貴方様の心に届きますように」


 リーンズィは戦慄した。

 その溶け合った二重の人格に恐怖したのではない。

 あまりにも馴染みのあるその存在様式に驚愕したのだ。

 それは、ユイシスのような支援AIと……。

 存在の在り方として、どう異なるのだ?


「つまりリリウム、君は――」


『解析を終了しました。聖歌隊製人工脳髄、及び変質化首輪型人工脳髄。共鳴統御、高水準で安定しています』


 複数メディア、複数人格記録媒体の同時運用。

 それはリーンズィの世界において、PROTOTYPEとのみ名前が残る大罪人が初めて達成した成果であり。

 やがてアルファⅡモナルキアの素となった機体の特徴である。


「君は自然発生した……アルファモデル水準のスチーム・ヘッドなのか?」


 リリウムは取り巻きのレーゲントの一人から黒い丸帽を受取り、悩ましげな仕草で頭の上に載せた。

 リーンズィの行っていることを解釈しあぐねているようだった。


「うーん。あるふぁ? というのは、よく分かりませんが……ええ、これだけは言えます、天使様。再誕を迎えて帰還したリーンズィ/ヴァローナを、わたくし/わたし『清廉なる導き手』リリウムは、心から祝福し、神に最大の感謝を捧げます。世界の果てにまで理想郷を探す。わたしは、そのために生まれてきました。だからこの終わらない命が尽きるまで、この終わらない命をこんなところで終わらせないために、無限の旅路を志すのです! 何と心強いことでしょう! 今ここに新しい天使様が介添えをして下さるのです!」


 白銀の少女は両手を広げ、声高く歌い上げる。

 それを受けて無数のスチーム・ヘッドが、不死病患者たちが、彼女の祈りを唱和する。



「ハレルヤハ、ハレルヤハ! そして共に行きましょう、次の未来へ! さらに別の未来へ! ハレルヤハ! おお、わが神よ、わたしはあなたの御側に我々は向かいます! 御許に向かいます、わたくしはあなたの御胸に向かいます! わが神よ、どうか道を示してください! 天に届く階段を駆けて、やがてわたくしたち聖隷は扉を叩きます。剣の雨も砲火の嵐も、あなたがわたしに送って下さったもの、憐れみによりて無限に与えられし栄光溢れる試練の旅路! そしてここに、千年の時を超えて、慈悲深き御遣いは来たりて、永久に消えぬ火を携えて、暗闇を照らして下さる! わたしの歓喜は翼を授け、わたくしの希望は春の風に舞い上がる! 天鎖す暗雲を乗り越えて、巡る太陽の灼熱、無貌の月光の氷獄、狂える星々の瞬きも、わたしの翼を溶かせない! どこまでも高く、高く飛んで、みなを連れて行きます。ここではないどこかに、みなを連れて行きます! わたくしはあなたの御許へ向かいます! ああ、旅路の果てに、我が歌の全ては、授かる力の全ては――全てはただ、眠らない人々を愛するために!」


 花のように口元を綻ばせながら、黒と金の装束に身を固める白銀の少女は、歌い続ける。

 歓喜の声が死んだ都市、廃墟の都市、見捨てられた都市、永遠に失われ続ける都市に木霊する。

 全ては無意味だろう。

 誰もがそれを直観している。

 進んだ先に何があるのか。

 誰もが心の内に言葉を隠している。

 だが、知ったことかとばかりに聖少女は愛を語る。

 わたしを信じて前に進もう。新しい明日を信じ続けよう。

 魂を震わせる神に愛されし歌声で、朗らかな白銀の神性でもって、くすんだ世界を眩しく照らし続ける。

 希望を目指し、神の御国を指差して、千年王国はそこにあると、微笑んで、歌い続ける。

 だから、誰もが顔を上げる。

 誰もが彼女の指差す楽園を見据える。

 彼女こそが、スヴィトスラーフ聖歌隊が見出した未知の特異点。

 おそらくは聖父スヴィトスラーフでさえその異常性を理解していない。

 

 誰も知らないアルファ型スチーム・ヘッドの一人であり、

 今まさに、アルファⅡモナルキアを圧倒しようとする存在である。


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