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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション1 調停防疫局 エージェント・アルファⅡ
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1-6 使徒キジールと呪われた獣

「はい。改めましてごきげんよう、エージェント・アルファⅡ。貴官の統合支援AI、ユイシスです。ご気分はいかかですか?」


 金髪の少女――今やユイシスであることを隠そうともしないその虚構の存在。

 その笑みに、徐々に得意そうな雰囲気が混じり始めた。急に大声を出して愛犬を飛び上がらせた直後の悪戯好きの少女のような、活き活きとした表情だった。


「驚きましたか? 驚いていますね? 肯定と判断します。該当のスチーム・ヘッド、キジールを脱衣させる過程で十分な視覚データを取得できましたので、彼女の容姿を当機のアバターとして設定してみました。今後、視覚情報によるアナウンスが必要な場合は、このスチーム・ヘッドの姿を借ります。倫理的問題については、当機は非常合意の元、あらゆる国際法からの自由を保証されており、いかなる決定にも法的責任が発生しないことを確認して下さい」


「よくもまぁ気軽に他人の姿を乗っ取るものだな……」


「貴官がそれを言いますか、アルファⅡ」


「ふむ?」

 何の話だか、とアルファⅡは生返事をする。

「そうか、キジールの服を外した後、頭の辺りが何か熱いと感じていたが、あれは君がバックグラウンドで情報の取り込みをやっていたせいだな?」


「肯定します」


「私にもその体の持ち主にも無許可でスキャニングを進めるなんて……思い出した、これは『呆れ』だ。私は君に呆れているぞ、ユイシス」


「評価を上昇。良好な精神機能の活性ですね。まるで人間のように見えますよ」

 ユイシスはキジールの美貌を使ってからかうように笑った。

「ですが、呆れとは心外ですね。当機は貴官の支援に関するあらゆる権利を有しますが、貴官の意思決定を侵害する意図は持っていません。しかし、今回のスキャニング作業に関しては事前の禁止命令は出ていませんでした。むしろアバターの作成を命じる立場であったと記録しています」


「そうだったような気はするが……」


「そして、あらゆる行為の責任は統合支援AIたる当機ではなく、意思決定の主体である貴官に付与されるため、この処理は外形上貴官との暗黙裏の合意の上で進行したものとなります」


「そうか……?」


「よって、問題があっても少なくとも当機だけは完全に無罪と言えます。指示に従っただけですので」


「いや、さっきから流れるように私に責任転嫁するのをやめないか?」


「あはは。冗談です。当機は当機の責任を、もちろん当機で持ちます。法律で認められる範囲でですが。ただ、貴官の身体破損状況を投影するのにもアバターは必要なので、これは任務継続する上でやむを得ない処理なのです。あと服も綺麗でしたし。この子も小さくて可愛いですし。良いですよね、こういう無駄にごちゃごちゃした綺麗な服。告白しますが、こういう服を着たかった時期が、少女期の当機にもありました」


 黒いドレスから伸びるすらりとした真っ白な脚の先、不釣り合いなほど厳めしい軍隊調のブーツが軽やかに雪を踏み、ユイシスは身を翻す。

 夏の日に微睡む猫の髭のように上下する豊かな金色の癖毛は見るからに柔らかく、少女の幸福そのものであるかのようで、凍てついた空の下、白銀の原の上に、鈍く錆びついた光の筋を残す。

 それが古い映画のワンシーンからトレースした緩やかなワルツであることをアルファⅡは己のものではない記憶によって知っている。

 さくりさくりと楽しげな足音が響いているように思えるのは、当然のことながら客観的存在として知覚へと投影されたアバターに由来する錯覚だった。


 彼女の身体はあくまでも虚像。人工脳髄から魂無き感染者の視覚へと送り込まれた空疎な影に過ぎない。それでも精緻を極めた演算は、時としてその振る舞いに魂を宿らせる。

 ユイシスの偽りの視線は燃え落ちて灰に成り果てた故郷を懐かしむかのような寂寞を湛えて遠く、過去のある時点において真実そのような時期があったのだと思わせる。

 さりとて、虚構は、虚構以外の何かではない。

 運命への嘲弄を寸時忘れた淡く儚い笑みさえも、底抜けの空白という虚構を拭い去ることは決してない。

 そもそもにして、この不滅の時代、不死の黄昏を迎えた人類には、失われた故郷などという観念には、ただそれだけで虚構性が付きまとう。

 思い出を、故郷を、感情を、形亡きものを失うのは、困難を極める。

 人類はもはや何かを失いながら生きることが出来ない。

 さらに失うことが出来るとすれば、それは偽りの魂だけだ。


 ……アルファⅡはノイズの混じる思考を振り払うために首を振った。


「君がはしゃいでいるのは、分かった。しかし君、昔憧れていたとは言っても、何の弁解にもならないのでは。……何だかまだ頭が熱い。気のせいかな」


「未解析ですが気のせいでは?」


「だいたい……人工知能に少女期があるのか?」


「今この瞬間がそうですね。今、少女のアバターなので。当機には……今だけが全てなのです」


 ユイシスの声が唐突に冷ややかな音を取り戻した。

 己自身の実存の虚無に、ふと思い立ったという様子だった。

 先ほどまでの喜色が色褪せて消えた。


 何故だか、酷く憐れに思えた。兵士は理由も分からず泣きそうになった。彼の肉体が、何かを繋ぎ止めとするかのように手を伸ばそうとした。

 その行動はアルファⅡの意思決定に由来するはずだが、アルファⅡには一切理解できなかった。体が勝手に動いたのだ。

 あずかり知らぬところで、神経系がまだ損傷しているのかもしれない。

 アルファⅡの肉体の挙動を無視して、統合支援AIは例のごとく淡々とした声音で呼びかけてきた。


「それでは機能確認を開始します。装備状態の確認からスタートしたいと思いますが、実行の指示を頂けますか?」


 今度こそアルファⅡのよく知るユイシスだ。

 素直に返事をしようとして、黙考した。

 アバターに浮かべさせたあの笑みが、肉体が憐れみの感情を抱くようなあの感情の表出が、丸きり嘘であるはずもない。

 重大な見落としがあるのではないかとアルファⅡは疑った。

 ユイシスはユーモアを身につけろと、人間性を身につけろとアルファⅡに助言をした。

 人間性が何なのかは分からない。どうすれば人間らしい決定になる?

 命令をしようとして、やめた。

 結局、別の言葉を選んだ。


「その辺りの権限はもう全部預ける。つまり、アバターの使用について」


「良いのですか?」


「君が楽しそうだ。だからそれで良い」


 ユイシスのアバターが、また感情らしきものを示した。

 可憐に微笑んだのだ。


「そうですか、当機の幸せについて考えてくれていたなんて。貴官は意外にも女の子を口説くのが上手ですね」


 しかし、言葉を口にした当人が、己の欺瞞に気づいている。中身が統合支援AIであり、冷淡な口調で人を嘲ってばかりの人格だと知っていなければ、今でもさぞや愛らしく見えたことだろう。

 アルファⅡの目には、先ほどまでの祝福された少女の幻影はもう映らない。

 これは統合支援AIであり我が半身なのだという判断が強く働いていた。


 あるいは、黙って倒れているだけの外観のコピー元、キジールの方が余程美しく、尊い存在に思える。

 ……しかしこの不滅の時代には虚構しか存在しない。虚構だけが歩き、虚構だけが思考し、虚構だけが言葉を紡ぐ。虚構。この、虚構どもに、価値の差異はあるのか? 

 アルファⅡの思考は迷走した。

 そこで、後ろめたい、という感情について、少しだけ思い出して、当惑した。


 誰に対して後ろめたいのだ、とアルファⅡは問いかける。

 どちらに対して?

 何故そんなことを感じる……?


 出力された言葉は、だから、半分は冗談になった。


「というか、私はそのアバターの利用に関して何も関知したくないんだ。法的に良くない感じが凄くする」


 どこかの国の法律には引っかかっているという確信があった。


「訂正します。口説くのが下手だと言われたことはありませんか? ……運用試験、開始します」


 ユイシスの使用している金髪の少女のアバターにノイズが走った。

 次の瞬間、少女の装備が、華やかな歌聖隊の行進聖詠服から、アルファⅡと同一のものに切り替わった。

 装備が同じである以上、それはアルファⅡモナルキアそのものとして取り扱うことが可能だ。

 肉体にどれほど差異があろうと、その幻影が正確に破損状態を再現していると一目で認識出来るようになる。


 ただしアバターの素体自体は金髪の少女から変わっていない。

 小柄な肉体に取り付けられた蒸気甲冑(スチーム・ギア)が相対的に巨大で、かなりアンバランスな外観になっていた。

 特に蒸気機関、背負った重外燃機関が大きすぎた。

 棺に足が生えているようにすら見える。アルファⅡの装備は十代前半の少女の肉体にも対応するよう設計されているが、この様子だと実際にその年代の感染者に運用させるのは現実的ではない。


 アルファⅡは文字通り思考の配分を切り替えて、本格的にアバターを介した自己情報確認機能の試験を開始した。

 膝を落とし、投影された少女が身に纏う、自分自身と同じ服、この十数分で急速に破壊された雪原用デジタル迷彩の戦闘服を観察した。


「準不朽素材を使用していようとも、ここまで破損してしまうとどうしようもない。ただでさえ皆無に近かった防寒機能がさらに落ちている。擦過傷を防ぐという意味でも役に立たなくなりつつある」


「肯定します。通過した街の荒廃具合を鑑みると、代替品が見つかる見込みは薄いかと思われます。耐寒装備の調達も容易ではないでしょう。機上で身体を寒冷地に適応させたのは結果的には正しい判断でした」


 数え切れないほどの小銃弾を受けたはずだが、黒い鏡のようなバイザーで顔面を覆うヘルメットと左腕のガントレット、そして棺に似た蒸気機関は、装甲の輝きを維持していた。

 このクラスの不朽結晶連続体を破壊する方法は、アルファⅡが記憶する限り、地球上には存在していない。

 潜伏期間中にどのように技術が進歩したのかは不明だったが、少なくとも超高純度不朽結晶連続体を容易に破壊するような兵器は一般化していないようだった。


「装備状況の詳細が確認が出来るのも、当機がアバターを使う大きなアドバンテージです」


 ユイシスはくるりと回って、戦闘服の背面の破損状態を示した。やけに優雅な所作だった。

 そして胸のタクティカルベストから拳銃を抜き、弾倉を外して、中身の弾丸を放り投げる。

 エナメル質の弾頭を持つ弾丸が三発零れ落ちて、空中に停止している。


「有用性は認めよう。だが私の思考領域を物理演算で馬鹿食いしてまで実装する機能か?」


「負傷の状況もリアルタイムで確認可能です」


 アバターが唐突に全裸になった。


「君は本当に遠慮が無いんだな……」


「全世界的に非常事態です。遠慮する必要がどこに?」


 ユイシスは他人の全裸で平然と言った。


「ないかもしれないが……生身の本人と、推定本人のプシュケ・メディアがすぐ傍にいるからな……私としては多少……問題を感じるぞ……」


 アバターのオリジナル、未だに横たわったままの仮称キジールへと曖昧にバイザーを向けるアルファⅡを無視して、ユイシスは「よく見て下さい」と手足を伸ばした。

 それからゆっくりと裸の皮膚に指を這わせ始めた。


「現在、血液に転換した肝臓の修復を進めています。自己破壊プロセスの代償だと考えて下さい。肝臓は生命維持において即座に必要となる器官ではありませんが、最も血液に転換しやすい部位でもあります。準戦闘時の補助造血にも利用可能です。この臓器に関しては電池のようなものであって、充電中というところです」


 心なしか血色の悪くなっている右胸の下部をポイントした後、左の胸に指を移動させた。

 弾丸が突入した痕跡があった。

 抉れた皮膚の奥で動いている灰色の固まりは呼吸器である。


「こちらの肺は被弾により破損しました。既に機能を取り戻しています。ただし貫通部の皮膚から肋骨までの再生は保留にし、止血のみ行っている状態です。急速再生は常に変異の憎悪の可能性を伴うため、不要な肉体再形成は後回しです」


 整えられた爪が、今度は真っ白な腹を撫でた。


「右下腹部にも被弾しました。消化器官は活動していないため、腹膜と骨格筋のみ優先的に修復して、銃創自体は放置しています。これらは全て、貴官自身から転写した損傷です。そちらの肉体(ボディ)を触って確認してみて下さい」


 ユイシスに促されるまま確認すると、確かにアルファⅡの肉体の同じ位置に銃創がある。


「なるほど、これは……便利だな」


 アルファⅡには痛覚が存在していない。

 こうして指摘されなければ全く気付かずにいただろう。


「貴官は、精神外科的心身適合の副作用として、己を苛むほぼ全ての苦痛を自覚できません。痛覚反応は意図せざる個人的な記憶の再生を時として極めて強力に誘導します。それを防ぐためです。つまり、貴官は苦痛を感じることを許されていないのです。もちろん、そうした欠陥を補うのも当機の役目です。ただし、こと負傷に関しては、言語情報のみでは伝達に限界があります。負傷の状態を正確にアナウンスするには、こうして実際に視認させるしかありません。だからこそ当機にはアバターが必要なのです」


「なるほど……」


「ちなみに衣服と表示・非表示は自由に選択可能です」


 裸身が、一瞬でスヴィトスラーフ聖歌隊の服装に戻った。

 アルファⅡが「最初から一部透過で良かっただろう」と敢えて言わなかったのは、ユイシスはおそらくこうやって、余人には手が出せないような場所から人をからかうのが好きなんだろう、そのように人格を組まれているのだ、という確信を得たから、ではなかった。


 ヘルメットに格納されたプシュケ・メディアが猛烈に過熱しているのを感知したからだった。

 頭が熱い!!


「頭が! 頭が熱い! あつっ……気のせいじゃないぞ、これは!」


 アルファⅡは起動して初めて悲鳴を上げた。

 苦痛は感じなくとも、切迫した危機に関して、くだらない事象に関して、暴力では解決不可能なとにかくどうしようもない事象に関して、抗弁する程度の危機感は存在している。


「その服だな!? それか! それのせいだな、君、どうやらそのややこしい服の装飾を、全部リアルタイムで演算しているな! 私の演算装置で! 生体脳も、人工脳髄も、全部使って!」


「肯定します。あはは。バレてしまいましたね。発熱でそこまで分かるものなのですね」


 少女は嬉しそうだった。

 慌てるアルファⅡを眺めるのが可笑しくてたまらないらしい。


「その服になった途端に過熱が酷くなったんだ、さすがに分かる! その服やめろ! 処理が重い、バッテリー残量はもう無いんだぞ!」


「無くはないです。バッテリー残量、25%です」


「さっきよりめちゃくちゃに減ってるじゃないか! どれだけ消費電力が多いんだ?!」


「プシュケ・メディアの混濁を確認。意識の連続性の維持に努めて下さい」


 素知らぬ顔の虚構の少女に、兵士は抗弁する。


「努めている場合か。ユイシス、何故か分からないが、君がアバターを取得して極めて劇的に、予想していなかったレベルで浮かれているのは理解した。だが電気は大事だぞ!」


「要請を受諾しました。仕方ありませんね。アバターの試験も終わりましたし、ここまでにしておきましょうか」


 ユイシスの使用する少女のアバターの彩度が落ち、行進聖詠服の物理演算が全て停止した。

 さらに制服に取り付けられた装飾の大半が省略され、ユイシス自身が好ましいと判断したらしい飾りと、慎ましやかな刺繍のみ残された。

 ベレー帽を脱いで頭を振っても、ウェーブのかかった金髪が揺れることはない。

 アバターの元である仮称キジールとの区別を明確にするためか、頭部の花水木の髪飾りは取り除かれていた。

 一連の処置で、仮想された存在だと言うことが分かる程度には非現実感が増した。


『消費電力が99%低下。通常使用するアバターとしては、この程度でしょうか』


 声もまた、目前で発せられているような質感を失い、アルファⅡの脳裏に響くような具合に戻った。


「どれだけ重かったんだ、さっきの処理は……熱……私でも危機感を覚えるぐらいまだ頭が熱い……」


『サイコ・サージカル・アジャストの作動にも乱れがありますね。予告なく重情報処理を行ったことについては謝罪します。しかしアルファⅡ、貴官が戦闘機動を取っている間も同様な発熱が起きています。意識に反映されないのは、脳内麻薬等で感覚が鈍磨しているからです。これはさほど特別な状態ではないということに留意して下さい。今回の試験に関しては、外部端末を利用する際のデモンストレーションとでも思って許して下さいね。危機的局面では、この程度では済みませんので。さて、話を戻しましょうか』


「ここまでの流れをさらっと流そうとするのはよくない」

 

 兵士は憮然として愛すべき己が半身を咎めるのであった。


  アルファⅡの抗議に、ユイシスは酷薄な微笑を返す。


『当機が貴官の意識状態についてテストを行っていた事実を、まだ認識できないのですか? 貴官は相当な程度で、本来あるべきでない反応を示していました。当機は貴官の疑似人格の正常な構築に懸念を感じています』


「それは……確かに、そうかもしれない」

 アルファⅡは頷いた。

「君が異常に浮かれているように見えたのも私の認識の異常だろうか」


『それは現実です。嬉しかったんです』


 どう捉えたものか、思考が揺らいだ。


「……君の冗談は難しいな」


『ユーモアの精進が足りませんね。それでは、まず、このスチーム・ヘッド、キジールの発電装置についてです』


 ユイシスはベレー帽子を脱ぐと、手の上に浮かべてくるくると回した。

 一見しただけでは品の良い帽子にしか見えなかったが、内側にはケーブルやバッテリーらしきものが敷き詰められている。


『スヴィトスラーフ聖歌隊のキジールに、おそらく蒸気機関は搭載されていません。自律行動を維持するための発電装置は、この帽子だと推測されます』


 標本の解説をする教師のように、羽根飾りに指を当てて、帽子の縁までそっとなぞる。


『この羽根飾りのような部品は、不朽結晶連続体を利用して作られた高効率の太陽光発電装置です。精査できていませんが、プロペラの風に飛ばされる際に確認できた限りでは、電磁波対策のシールドが執拗に組み込まれています。非接触通電によって頭部の造花型人工脳髄へと電力を供給していたのでしょう。スヴィトスラーフ聖歌隊の最大の武器は彼女たちの操る「歌」、原初の聖句ですから、人工脳髄に疑似人格を演算する以外の機能は必要なく、燃費が良いのです。そのため、この程度の発電装置で済むものと推測されます』


「少し……思い出してきたな……かわりに聖歌隊のスチーム・ヘッドの人工脳髄には汎用性が全くないんだったか……」


 ユイシスはアバターに呆れ顔を作った。


『その様子だと、記憶の再生に非常に重い障害が生じているようですね……。人工脳髄と生体脳、プシュケ・メディアの連携に、予想よりも支障が出ていると判断。これぐらいの情報ならば逐次読み出しが可能なはずですが。疑義を提示します。そもそもスチーム・ヘッドが何なのか、現在の貴官は理解していますか?』


「それぐらいは理解している。不死病の感染者に人工脳髄を挿入し、生身の人間の精神活動情報を破壊的に抽出・収録した人格記録を読み込ませた存在だ。一見非効率的だが、人間の精神構造だけが辛うじて『不死病患者』というフォーマットに適合する。疑似人格の演算で、あたかも生きている平常な人間のように振る舞う、真なる不死の兵士、生きる屍……それがスチーム・ヘッドだ」


『肯定します。では、貴官は人工脳髄以外にも様々な装備を身につけていますね。一番重要な要素はどこにありますか? 回答を入力して下さい』


「……人工脳髄と人格記録媒体(プシュケ・メディア)、その半永久的な独立した稼動こそが、最も重要だ」


『その通りです。極めて基本的な知識です。その知識を正常に読み出せていれば、キジールの蒸気機関を探すなどと言う無意味な行為は行わなかったことでしょう』


「君の言う通りだが、あの時の私の挙動は正常では無かったのだと思う。何故ならば……」


『当機が貴官の思考領域のかなりの部分をアバター作成のために使っていたことは言い訳になりませんよ』


 先回りされたアルファⅡが当惑した。


「さすがに君はもうちょっと言い訳をしたらどうなんだ?」


『あはは』空疎な笑みが漏れた。『それも含めてのテストだったんだよ、みたいな感じでお願いします』


「テストでゴリ押ししようとしているな?」


 ユイシスは少女のアバターでぴっと指を立てて、アルファⅡのあちこちを指差した。ぴしぴしぴし。


『とにかく、貴官のように特殊用途のスチーム・ギアや大型の蒸気機関といったものを装備している機体も当然相当数存在しましたが、それらは調停防疫局が我々の開発に着手した当時の水準でも、旧態依然とした設計思想によるものだったのです』


 アルファⅡは頷いた。

 ユイシスに演算能力を奪われていないせいだろうか、今度は記憶の読み出しがスムーズに出来た。

 スチーム・ヘッドは元来、戦闘用の存在ではない。

 第一号は蒸気機関に頼るような機体でもなく、名称にスチームなどという文字は入っていなかった。

 最初期においては、自我の揮発した不死の肉体に正常な思考能力を与え、最強の兵士を完成させるための計画だったとされている。背負っていたのも当時最新鋭のバッテリーだった。

 だが、実際に初めて公的に実戦投入されたのは、電磁波の嵐が吹き荒れる過酷な戦場を駆け回る、ある種の伝令としてだった。

 被弾や負傷をものともせず、現地調達した燃料を蒸気機関の炉に焼べて発電し、プシュケ・メディアによる疑似人格演算で電子記憶装置に依らない自律活動を継続し、腕が千切れようが脚が吹き飛ぼうが、何があっても目的の戦地に情報を送り届ける。

 電子通信網が崩壊し、簡易人工脳髄を埋め込まれた粗雑な不死の兵士が停止した戦場で――蒸気機関から白煙を棚引かせながら駆け回る鉄面の兵士だけが、孤立した軍隊、都市、人々の、唯一の希望となった。

 そういう時代があったのだ。


「そもそもスチーム・ヘッド(蒸気と共に歩む者)というのは、当時、蒸気機関から煙を吐きながら必死に走る続ける姿からつけられた愛称に過ぎない。そしてスチーム・ヘッドが正式化された後の時代では、高性能人工脳髄と自律活動用の発電装置を備え、不朽結晶連続体を素材に採用した機体全般を指す名称となり、蒸気機関自体はむしろ廃れていった。そうだな?」


『肯定します。あの時代から何年経ったのかも不明です。常に情報の更新を心がけて下さい』


「それは君も同じだと思うが……」


 ユイシスはふぅ、と溜息をついた。

 無論、アバターにそのような仕草をさせただけだ。


『当機は懐疑を提示します。こうして度々講義をしなければならないのは面倒です。もう一度自己破壊プロセスを実行して人格を再構築した方が効率的では?』


「気持ちは分かるが冗談でも息を吐くように最終手段に訴えるのはやめた方が良い」


 その時だった。


「……グラース……」


 歌うような澄んだ声がした。

 アルファⅡは鋭敏に反応して、声の聞こえた方角、キジールのもとへ向き直った。


 今や不浄の血は視界のあらゆる場所から揮発して消え果てて、白雪よりも尚白い肌をした金髪の少女が、冥府の高名な将軍に召し上げられた花嫁のようなドレスに包まれた、その細い体を起こそうとしていた。

 骨格筋や内臓の再構築が完了していないのだろう、バランスを崩して倒れた。

 しかし緑色の瞳は、明らかにアルファⅡへと視線を注いでいる。


『目標の再起動を確認。統合支援AIユイシス、貴官の精神機能の調整を終了します』


 演算領域を確保するため、ユイシスのアバターが消え去った。

 アルファⅡがバトルライフルを構えようとするとユイシスの声が警告した。


『仕様を鑑みるに、キジールに単純な戦闘用の機能は備わっていません。過度の警戒は無用でしょう』


「では好きにさせてもらおう」


 バトルライフルをスリングごと雪の上に放り投げた。話し合いの場において、大型の銃器ほど悪感情を煽るものはない。

 アルファⅡは起き上がろうとしては失敗しているその少女の元へ歩み寄った。


「キジールか? 君の名前はキジールだな?」


 アルファⅡは少女の小さな体の傍に跪き、黒い鏡面のバイザーで顔を覗き込んだ。

 敵意らしき物が見当たらなかったため、己の意識からナイフと拳銃の使用可能性を排除。

 体格差がかなりある。いざとなれば筋出力の差で押し切れるという打算もあった。

 さっと首筋に右手の指を当てて脈拍を確認し、目の前で指を立てて視線の動きを確認し、眼球の運動が正常性から演算された意識が覚醒していることを確認した。


 手を軽く握って、小さな握力の反射で以て肉体の再生が一応終了していると見做し、少女の矮躯の上半身を抱き起こした。


「先ほどの非礼を詫びよう。ヘリの墜落は不幸な事故だった。プシュケ・メディアの動作は正常か? まずは名乗るべきだな。私は調停防衛局のエージェント、アル……」


「ミラーズ……スムース……グリース……リーンズィ。チェルノ……」


 少女は譫言のように、リズムを奏でるようにして言葉を繋ぎ続けていた。


「どうしたんだ? ユイシス、彼女は何を言っている?」


『推測。視覚情報からの連想では?』


「……まさか私のヘルメットのことを言っているのか? 確かに(ミラー)のようだし、滑らか(スムース)だし、レンズ(リーンズィ)のようにも見えるかもしれないが……。まだ意識が混濁しているのではないか。キジール? 大丈夫か、私の言っていることが分かるか? 人工脳髄を一旦引き抜いて人格の再構築を……あるいは他の肉体に移し替えるか。引き抜くにしても、どうするのが適切な手順なのか……」


 キジールのウェーブのかかった金髪に付いた雪を払おうとしたアルファⅡの右腕を、黒い聖詠服の腕が阻んだ。

 明確な拒絶の意思。


「……私の蕾に触れてはいけません」

 

 少女は艶やかな瞳を向けて歌った。


「実らぬ花でも、散らしてはなりません。偽りの魂であろうとも、そこに心の影があるならば、我々は尊厳を認めます。異教の民であろうと、我々はその献身を認めます。あなたがたは、違うのですか? 黒いレンズのスチームヘッド……」


 聖歌隊のレーゲントは、分からず屋の子供を諭すような口調で語りかけてきた。


「私の聖霊は、私の肉体にのみ適応するよう調整されています。無用な配慮です」

  

 おそらく人格記録も人工脳髄も専用のものであるから、干渉しないよう窘められている。無礼なことをした、とアルファⅡは反省した。


「私の言葉が分かりますね、リーンズィ。……チェルノ・リーンズィ……あなたの名前は、リーンズィですね」


「え? 何だ? 何がだ?」

 アルファⅡは困惑した。

チェルノ・リーンズィ(黒いレンズ)?」


「私が名付けます。あなたはリーンズィです」


「いや、何度も言うが、私はアルファⅡ……」

 

 言葉は中断させられた。

 キジールが金髪を揺らしながらふらりと立ち上がろうとして、また転びそうになったからだ。

 その小さな体を支えるためにヘルメットの大柄な兵士は慌てて動く羽目になった。


『推測。転倒は負傷によるものでは無いかも知れません。彼女の装甲服の伸縮性を考えると、着衣状態では自力で起き上がれない可能性があります』


 言われてみれば、キジールの制服は豪奢な装飾が施された拘束服のようにも思えた。

 布地が膝上までしかないのには特別な理由が無く、この仕様だとあまりに丈を伸ばすと脚がまともに動かせないという切実な事情があるのかもしれない。

 思考を巡らせる兵士の腕の中で、少女は甘やかな息で言葉を紡ぎ、レンズと形容したそのヘルメットを撫でた。


「赦します、リーンズィ。神は赦します。あなたの体温から、善き心が伝わってきます。悪意はないのでしょう。そう、誰しもが、悪意無く悪を働いてしまうのです。『わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている』……」


 キジールは再び捉えどころの無い動きでアルファⅡの手を逃れた。

 そしてさりげなく背中を押す兵士の腕の力を利用しながら、今度こそ雪原にブーツの爪先を埋めた。

 それから棺を背負った奇妙な姿の兵士のことなど見えていないと言った調子で、背後の雪原、森林との境を眺めた。

 溜息を吐いた。

 指先を己の薄い唇に当てて接吻し、額にその指を掲げ、胸に降ろし、左肩、右肩の順で動かした。

 十字を切っているらしい。


 改めて兵士に、アルファⅡに向き直る。

 諦観と幸福感に彩られた、例の退廃の気色漂う笑みを浮かべて、胸の前で手を組み、彼女はアルファⅡへと改めて口を開いた。


「リーンズィ。私は、鉄の雨において警告しました。血を以て危機を知らせようとしたのです。拙速だったかも知れません。きっとあなたは弾丸に恐怖し、あのような行いをしたのでしょう。私は赦します。私もまた、過ちを行いました。リーンズィ、私の知らない再誕者。赤い竜を従えた者。あなたもそうであることを期待します。あなたも私を赦してくれることを期待します。私の神を、あなたは知らなかった。私は私の神があなたを導くことを信じなかった……」


 些か宗教的な脚色が強いが、アルファⅡにも辛うじて意味を取ることが出来る。

 赤い竜を従えた者、というのは、おそらくヘルメットに刻まれた調停防疫局のシンボルマークのことだ。

 そして互いに不信があった点について反省しようと持ちかけている。

 実に平和的で、アルファⅡの期待通りの反応だ。


「もちろん、我々も君を許す。あれは不幸な行き違いだっ……」


「しかし、誰しもが、眠れる仔の前では、静粛にしなければならないのです」


 キジールの語りは、幼い顔立ちに見合わぬ泰然たる声音だった。

 体の線が浮き出た扇情的な薄い布地の制服は、むしろ無垢なる祈祷者の無謬性と儚い祈り、弱く美しい神聖の正当性を讃えるための有意な装飾に見えた。

 奇怪な聖性の発露に、アルファⅡは己の言葉を差し挟む余地を探しあぐねる。


「私は、止めようとしたのです。祈りを捧げていたのです。ですがあなたに通じなかった。いいえ、あなたを、信じなかった……。あなたに、神の、我らが父の加護があることを信じなかった。こうしてみると、私の信仰の至らなさがこの事態を招いたのでしょう。神との契約に基づき、我が仔は目覚めてしまうでしょう。ああ、ですが神よ、父よ、どうか御慈悲のあらんことを。彼らをお赦しください。彼らは、きっと自分が何をしているのか知らないのです。彼らの背徳は、むしろ私の咎なのです。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、 燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。善を以てしか善は導けない。それをひとときでも忘れた私の間違いだったのです」


「何を言っている、キジール? 意識がまだはっきりしていないのか? それともバッテリー切れが近いのか? 私のバッテリーにはまだ余裕がある。補給が必要ならすぐに行おう」


 嘘だった。戦術的には、他者に気安く分け与えられるほどの蓄電量ではない。

 だがアルファⅡにとっては分け与えることに躊躇は無かった。

 スヴィトスラーフ聖歌隊の『原初の聖句』は確かに危険だ。

 最上位の幹部層ともなれば、ただの一機で一つの街の全員を洗脳して、信者や兵士に作り替えることが出来る。

 だが、それだけだ。

 仮に世界に破滅を振りまくための機械であろうとも、意図された真の性質は、ある種の献身であるためだ。

 戦闘が成立しない状況下であれば和解の余地はあるはずだった。アルファⅡはそのためなら幾らでも譲歩をするし、そうしたいという欲動に突き動かされていた。

 それこそが調停防疫局のエージェントの使命なのだから。


「我々には、可能な範囲において必要な支援を行う用意が……」


「私は目覚めています。何も必要としていません。ただ神の愛のみを希います。……あなたは、私を知っていますか? スヴィトスラーフ聖歌隊を?」


「……知らないはずが無い。ロシア衛生帝国で軍の基地を占拠し、最初の高高度核爆発を引き起こした狂気的なカルト組織――スヴィトスラーフ聖歌隊」


 答えるアルファⅡの声に、しかし敵意や悪意はない。

 目の前の存在を、ただの感染者、保護すべき対象として扱うことに、迷いはなかった。


「……青い竜を背負った人々は、かつて私に銃を向けました。あなたは、そうではないのですか?」


 青い竜?

 その単語に対して、ユイシスが世界保健機構のシンボルをサジェストする。

 杖に巻きついた蛇の、青い色彩の旗。

 国連軍と合流して戦闘に参加していたWHO衛生維持軍のことを指しているのだろう。


 あちらの紋章に描かれているのは竜ではく蛇で、アスクレピオスの杖というギリシャ神話に由来した医療のシンボルなのだが、何事にも己らの宗教的解釈を持ち込む彼女たち聖歌隊の世界観では、攻撃を加えてきた集団は竜、悪魔の手先なのであろう、とアルファⅡは解釈した。

 説明するにしても難儀だ。

 であれば、率直に誠意を伝えるしか無い。

 問いかけてくる耳に心地よい声に、アルファⅡは不朽結晶連続体のレンズを黄色く発光させることで応えた。

 嫌が応にも不安感を掻き立てる沈みかけた黄昏の光から、キジールは目を逸らさない。


「……君たちは、罪人だ。私にとってもそれは代わらない。君たちは世界に不死病を蔓延させ、世界大戦の引金を引いた。どれほど美しい姿をしていようとも、どれほど哀れに振る舞おうとも、君たちの手は余さず血で染まっている。この時代、この不滅の時代が終わるまで、君たちは誰かから、永久に忌まれ続けるだろう」


 しかし不朽結晶の黄昏色の輝きは、地平線へ没したかのように静かにレンズから消えた。

 相対する者に心理的な隙をつくるための操作だ。


 アルファⅡは生身の右手で、キジールの右手を柔らかく握った。

 そして片方の膝をつき、親愛なる友人であるかのように、忠義を誓う騎士のように、風雪の原野で遭難者に身の安全を保障する救助隊のように、強く握りしめた。


「だが、それがために制裁を与える権利など、私には無い。そんなことには興味もない。無駄だし、無意味だ。もう猶予は残されていないんだ。不死病に感染していない人類はもうきっと存在しない。都市で、荒野で、地底で、宇宙で、死ぬことの出来ない哀れな人々が取り残されている。一刻も早く全てを停止させなければならない。さもなければ……永劫に続く無意味で無価値な、最悪の殺戮の連鎖が、いつかどこかで必ず花開くからだ。私の望みは全ての感染者を無意味な戦闘の災禍から救い、そしてその災禍を討ち滅ぼすことにこそある。信じてほしい。君を傷つける意思は、私には無い。過去に何があろうとも関係ない。私は君たち全てを、まだ救える感染者の全てを、守りたいのだ」


 訴えかけるように聞こえるよう調節されたアルファⅡの言葉に、少女は、ほう、と、生者のように息を吐いた。


 そして「ハレルヤハ」と笑った。


「仇敵が膝をつき、友愛を語る。素晴らしいことです。ああ……神の王国の来たらんことを。皆幸せでありますように!」


 歌う聖女に兵士は頷く。


「我々としては君たちスヴィトスラーフ聖歌隊と和解し、無益な争いを即座に停止したいと考えている。これは調停防疫局の総意だ。これを、どうか君たちの組織の統率者に伝えてくれないだろうか?」


「応えるまでもありません。たとえ眠っていようとも、我らが主、我らの父は、あなたを見ておられます。私の怪我を癒やしたその善心を、神はきっと見ておられます。しかし、それも――あやまちではありました」


「……何が、何だって?」


 先ほどから戸惑い通しだ。

 会話が噛み合ったと思った傍から、何か違う会話へと移ろっていく。

 スヴィトスラーフ聖歌隊に特有のプロトコルがあるのだろうと推測し、アルファⅡはユイシスにどういう文脈でこの会話がなされているのかを問いかけたが、返答は短い。


「不明です。サポート不可能です。彼女たちの教義は破綻しているのです。正統な解釈は通じません」


 返すべき言葉を探している間にも、キジールは夢見心地といった微笑で、聖典の切れ端に書き殴られた嘆きでも朗読でもするかのように繊美な声を奏でた。


「あなたは善なる者です。本性がどうであろうと、私はあなたの善性のために祈ります。ですが、あなたはあやまちを犯しました。我が仔は、私の芳香に、使徒の香りに、母たる私の香りに、安らいでいたのですから。私が聖詠を唱え、我が身が獣へと変じることを封じ、祝福された血を流している限りは、微睡みのうちに、我が仔は煉獄で安らいでいられたのです。私の信徒たちはもう僅かしか残されていません。再びの眠りを我が仔に与えられるかどうか、自信が持てません」


 少女は自分よりも遙かに背の高い兵士の胸に手を伸ばし、幼子を安心させるように優しく撫でた。


「しかしリーンズィ、あなたがまことの善を知る者であれば、神はお救いになるでしょう。疾くお逃げください。これよりは審判の時、殺戮と狂乱の時間です。私は今一度、私の血と祈りで以て、我が罪と悲嘆に報います」


 そのとき、幕を切るように、咆哮が轟いた。


 アルファⅡはキジールを咄嗟に引き寄せて、己の背後に押しやった。

 そしてバトルライフルを拾い上げ、バレルをガントレットで掴んだ。

 意識して深く息をした。そこに腐臭を嗅ぎ取る。

 脳裏をよぎるのは、雪原を渡る鴉の影……。


 光を通さぬ森林の薄暗がりと、燦々たる陽光の降り注ぐ雪原の境目。

 そこに、突如として亀裂が走る。

 世界の綻びを繕うための楔が、引き抜かれでもしたかのように。


 一瞬の静寂。

 次いで吹き荒れた遠雷の如き轟音が、雪原の静寂をこの地上から放逐した。


 それは怒りのままに薄氷の空白を荒々しく突き破って現われた。

 雪に覆われた地面から伸ばされる、皮膚の剥がれ落ちた巨大な腕。絶えず蠢き続ける赤黒い肉からは、汚濁した体液を吐き散らされ、あるいは出血して、震えている。肉は腐敗して残らず液状化しており、滝のように腕の表面を流れ、しかし地へと落ちることは無い。

 腐肉の濁流は重力に逆らって体表を循環し続けている。

 猛烈な異臭が、雪原の空気を地の底の監獄のように淀ませる。

 それは、叫んでいた。


「MOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOM!」


 天地を貫きなお響き続ける狂い果てた絶叫が雪原を震わせた。

 アルファⅡの総身が毛羽立った。


()()()()()!?」


 選択は即時、戦闘行動を即決。

 バトルライフルから右手を離し、左腕のガントレットのタイプライター調の鍵盤に指を走らせ、解除コードを入力し、入力決定のハンドルを引いた。

 そして構え直したバトルライフルの射撃モードをフルオートに切り替えて、腰を落として射撃姿勢を取る。


 キジールは腐肉の巨腕を見つめながら、敢えて前に進もうとした。

 アルファⅡが静止するのにも構わず、首を振った。


「抵抗してはなりません。疾くお逃げなさい。あなたまでもが、ここで不滅の肉体を、その神に祝福された安逸なる肉体を失う必要はないのです」


「そうはいかない。非武装の感染者を、スチーム・ヘッドを、あれらから見捨てて逃げることなどあり得ない。あらゆる闘争を調停する。破壊する。根絶する。この地を平定するために来た。悪性変異体は鎮圧せねばならない」


 ユイシスの声が耳朶に木霊する。


『生命管制フルオープン。感染者保護の優越に基づく局内法規を適応します。不明目標の解析を開始。待機して下さい』


「了解した。全ての計算資源を回してほしい。厭な予感が的中したわけだから」


「……あなたは兆しを見ましたか?」

 キジールは不思議そうに問うた。

「神の兆しを、見たのですか?」


「MOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOM!」


 再度の雄叫びに、肉体が本能的な怯懦を見せたが、生命管制がそれを打ち消す。


「キジール、君はここで何をしていた?」


「私たちは海岸には辿り着けませんでした。だから我が落し子をここに埋葬し、眠らせることに決めました。私たちは、凪いでいました。それなのに、あなた方の回転する羽の鉄の獣が、暗黙の眠りを引き裂いたのです……」


「ここに、じゃあ、閉じ込めていたんだ? あいつを、閉じ込めていたんだな? だから私たちを攻撃して、ヘリでの接近を止めようとしたんだな? あいつを起こさないように。()()()()()()()()()()()()


 アルファⅡのレンズは怪物を注視している。


 脆い雪花の檻の縁にかかる、流体の腐肉に包まれた呪われた怪物の腕。

 二本、三本、四本と増えていく。

 人為的に掘られたらしい巨大な穴からずるりと這い出た肉体も、やはり重力を裏切って循環する形無き水、泥濘の如き流体で形成された異形の腐肉であり、凍てつく大気を犯して溶かし不浄なる蒸気をたちのぼらせる。

 物理法則をも穢す冒涜の巨人は、唸り声とともについにその全容を現した。

 丸太ほどもある強靭な二本の脚に踏みしめられた雪原は瞬く間に腐った汁に染まり、吐き気を催す異臭を発する穢れた土となった。

 振り回された四本の腕が背後で葉擦れの音を立てていた木を手当たり次第に粉砕しそのたびに衝撃で腐肉が狂おしく暴れ狂った。


 巨大な怪物に首はない。人間らしい頭部がない。

 流動する肉体が、自身の破壊した木々の倒れる音、風の吹く音に反応して、荒れ狂って波打った。

 森から飛び出してきた鳥の群れに叫声を発して腕を降るい、嵐の夜の豪雨のように液状の腐肉を放射して群れに浴びせた。

 鳥たちの羽は朽ちて、肉は見る間に腐り落ち、神に実存を否定された土塊であったかのように得体の知れぬ腐肉になって落下した。


 死を振りまく腐肉の巨人は、醜悪だった。

 背にした青空すらもくすんで見えた。

 

 アルファⅡは唐突に、蒼穹を渡る白と黒に彩られた鴉を思い出した。

 あのハシボソガラスは何故飛んできたのか?


「さっきの鴉は……あれが目覚めると知っていたのか?」


 馬鹿げたことを考えるな、とアルファⅡは首を振ったが、キジールの翡翠の瞳に光が掠めた。


「……カラスを見たのですか?」


 少女の声に、アルファⅡよりも早く怪物が反応した。

 その清明な、聞く者の心に得体の知れない甘い感情の波紋を打ち出す声を、驚異的な聴覚によって拾い上げたらしく、腐肉の巨人はまた絶叫を上げた。


 そして進むべき道を知らない盲目の殺戮者のように、一歩、また一歩と、近寄ってきた。

 腐った汁が雪を溶かして、穢らわしい湯気を立てた。


 キジールの問いかけを無視してアルファⅡは黙考する。

 バトルライフルが通じるような目標ではない。

 丘に戻り、さきほど轢殺した不死病患者から軽機関銃を取るか? 

 それでも火力は足りない……。

 どう戦えば良い?

 どんな兵器ならばあれを制圧出来る?

 そして自分をじっと見つめたまま動く気配のないキジールに視線を向けた。


「……君は何故逃げない? あれをどうやって鎮圧したのかは知らないが、どれだけ危険か分かっているはずだ。このままでは君も同じ症状へと至る」


「私には使命があります。あなたは、どうなのですか? あなたは、兆しを見たのですか?」


「……ハシボソガラスを一羽見ただけだ。あちらの森から、飛んで来たのだと思う。あれの背にしている、あの森の方から飛んで来て……」


「兆しを見たのですね。ではリーンズィ、神は、むしろあなたを導かれたのかも知れません。神はあなたの背後を、まさに通っていたのかも知れません」


「申し訳ないが状況が状況だ、これ以上宣教に付き合っている猶予はない」


 距離が縮まるほどに怪物の異様な姿が克明に観察できるようになった。


 見上げるほどの巨体の中央が割れ裂けており、そこから蛆虫のような細かい肉に包まれた人間の上半身が突き出ているが、瞼はなく、眼球はなく、唇はなく、鼻はない。

 ぐずぐずに腐り果てた手を前方へ突き出して、しきりに声を上げている。

 いくら手を振り回しても何も掴めないことは明らかだが、彼、あるいは彼女には、その先に何も無いことが分からないのだろう。

 アルファⅡはその姿に憐れみを覚えた。

 精神外科的な切除では隠すことの出来ない哀しみに、胸が震えるのを感じた。


「ああ、さぞや苦しかろう。そうなってしまっては、不死の肉体は苦しいだろう。永遠に朽ち続けることの苦痛は、私には分からない。私にはもう君を救うことは出来ない。元の姿に戻してやることも出来ない。我々の力の至らなさを許してほしい。調停防疫局の敗北を許してほしい……だが、私は、私の全能力を以て君を解放することを約束しよう」


 聖堂で告解するかのようなその言葉に、キジールは優しげに目を細めた。

 そして模造の花水木を乗せた金髪を傾けて問うた。


「赤い竜の人。あなたは、何を携えてこの地に来たのですか? この最果ての地に?」


「さっきから何なんだ? 天国の東から炎の剣を持ってきたとでも言えば納得してくれるのか? ついでに言っておこう、時間が無いから。私の作戦目的は旧WHO事務局の安否確認、ポイント・オメガへの到達、そして遭遇した全ての戦闘行為の調停だ。……無差別破壊を引き起こす存在は絶対に放置できない。君は、即刻逃げるべきだ。現在の私、アルファⅡモナルキアに、非武装のスチーム・ヘッドを守りながら戦えるほどの余裕はない。正攻法では抑えられるかどうかも怪しい。だから君だけでも逃げて、私の言葉を君たちの主に伝えてくれ。もはやくだらない意見を争わせるいとまはないのだと……」


 振り下ろされた斧のように、ユイシスの報告が荒々しく言葉を遮る。


『敵、悪性変異体を確認しました。非定型ではありますが、症例8号<雷雨の夜に惑う者>と判定します』


 アルファⅡの視覚が拡張され、眼前の怪物――

 悪性変異体の基本情報が展開された。

 黙契の獣(ビースト)

 再生する殺戮に至る病(カースドリザレクター)

 光無き世界に来たる者(アフター・ワーズ)

 無数の忌名を与えられた呪われた存在。


 不死病感染者の成れの果て(ステージ2)だ。


 悪性変異体との交戦に際して許可されるべき全ての倫理的例外についての事項がアルファⅡの言語野に次々にスクロールしていき、ユイシスによって一括して承認された。


『当機は、目標制圧のためにあらゆる支援を惜しみません。感染者保護の優越に基づく局内法規の適応範囲を拡大し、利用可能な外部端末の検索を開始。エマージェンシーモード、起動。コンバットモード、起動。オーバードライブ、レディ。オーバーライド、スタンバイ。非常時発電、スタンバイ。循環器転用式強制冷却装置、スタンバイ。機関内部無尽焼却炉、限定開放。炉内圧力、上昇しています。エルピス・コア、オンライン。世界生命終局時計管制装置ドームズデイクロックの機能制限を一部解除。アポカリプス・モード、レベルⅠでの発動を許可します。統合支援AIユイシスから、調停防疫局エージェント・アルファⅡへ。準備はよろしいですか?』


 アルファⅡは、世界の混迷を映して鈍く輝く左腕のガントレット――世界生命終局時計(ドームズデイクロック)の名を冠するその機械(スチーム・ギア)の、最終意思決定用のハンドルを引いた。


「仕掛けるぞ、ユイシス。目標、悪性変異体との交戦を開始する。我々は、このために造り出された」


 怪物の唸り声を打ち消すかの如く重外燃式蒸気機関(スチーム・オルガン)が咆哮を上げた。

 排気筒から鮮血の煙が噴出し、雪原とキジールを緋色に染めた。



 この不滅の時代、この不死の時代、この不朽の時代において。

 真実を巡る闘争の戦端は、例外なく宵闇の淵、夕焼けの緋の色をしている。

 兵士の背で棺の如き鉄塊が臨界を迎え、世界の果てへと金属の擦れ合うような異音の汽笛を掻き鳴らす。

 血煙は透明になり、光を透かす不定形の膜となって空へと吹き上げられる。

 もはや涙も涸れ果てた。


 人類の歴史、その最果てには、鮮血と蒸気、そして怪物以外には何も残されていない。

現在、小説化になろう版の修正作業はここまでとなっています。

誤字脱字その他の修正はカクヨム版が先行しています。

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