2-12 祭礼のために その7(7-3) ホーリーメイデン・シンフォニック・レギオン
ケットシーはベルリオーズの攻撃を完全に見切っていた。
コンマ一秒が敗死に繋がる真剣勝負において、直感的な理解、反射神経に任せた回避を五秒も繰り返せば、自ずと攻撃パターンや技の起こりは見えるようになる。
父であるエージェント・シィーなら、五秒と言わず、三秒で理解していることだろう。
「右。左。今度は後ろに回した脚。そっちに意識を向けさせて、左腕パーツを自切して右腕に接続・延長。返す腕でもう一回右……」
ワンパターン、と少女が呟く。
視線を向ける。
予想通りの攻撃の連続。僅かに遅延をかけてタイミングを乱してくることもあるが、そもそもベルリオーズほどの巨体で、細やかな一撃を繰り出すのは難しい。
まともに受ければ少女の肢体は容易く手折られるだろう。そういう意味では脅威である。
だが、見え透いた軌道の攻撃を受けるほど、東アジア経済共同体最強のスチーム・ヘッドであるエージェント・ヒナは甘くない。
尻からぺたんと座り込んで、振り抜かれる狼の腕の速度に合わせて、上体を後方へ倒し、誘うような仕草でいっときアスファルトに仰向けになる。
回避と言うよりは棒潜りの遊びに近い。胸元をベルリオーズの鋭角の鎧が掠めていく。
そして、その腕の一部は、振り抜かれた勢いのまま吹き飛び、機能を停止する……。
少女が生気の薄い顔に愉悦の色を浮かべる。
「残念でした。その調子だと腕が無くなっちゃうよ?」
巫山戯た回避姿勢を取りながら、危うい位置を通過する巨腕の関節に対して、垂直に立てたカタナを徹している。
速度勝負ですら無いなら、こうして遊ぶ余裕さえある。
細く艶めかしい両足の先のローファをピンと持ち上げながら、両手で地面を押して、後転の要領で体を回し、刃が体に触れないようしながら、アスファルトに両手を地面に接地させ、すらりと身を立たせる。
めくれた裾から下着がギリギリ見えるか見えないか、そのあたりを意識した視聴者受け抜群の動きが満足に実行できたので、ケットシーは僅かに微笑む。
胸を反らすようにしながら、八の字の軌道で叩き付けられる次の攻撃を、意識的に紙一重で避ける。
勿論、相手の動きを見極めてカタナを進路上に置くことも忘れてはいない。
不朽結晶の強度に関しては、少女のあらゆる装備が狼の大鎧に勝っている。
取り落とさないように注意してさえいれば、ベルリオーズは自分自身の力で勝手に切り刻まれていくのだ。
「ほら、どんどん体が無くなっていくよ? どんどんあなたはあなたじゃなくなるの」
そんな攻撃的な言葉が漏れてくるのはヒナの悪癖だ。絵になるような動作でカウンターが決まると、快楽物質が少女の生体脳から止めどなく溢れだし、しばしの恍惚に意識を導く。そうして浮ついた意識がさらなる悦楽を求めて煽り立てる言葉を紡ぐのだ。
勿論、敵が気持ちよいリアクションをしてくれるのならばさらに佳い。
一方的だった。ベルリオーズは多重関節の鎧が寸刻みで破壊されていくこの状況を、過去に体験したことが無いのだろう。自分の攻撃が全く通じていないどころか、攻撃する度に自分を構成する言詞甲冑が破壊されていくことに、明らかに混乱していた。
『何っ……なん何……何を……これは……どういうことだったか……何故殺す? どうして殺せば終わってしまうと分からない。この円環は途絶えさせてならないのだ。我々は殺し合うべきでは無いのにどうしてそれが分からないぃぃ……?』
「壊れちゃった? もっとヒナを楽しませてくれないとダメだよ……? まだまだ、ヒナには足りないんだから!」
姿勢を落とし、カタナを構え、熱い息を吐く。やはり殺すというのは気持ちが良い。圧倒的に勝利できているのならば湧き上がる歓喜は美酒、それに熱狂してくれる観客に観られているのならばクラクラするほどの悦楽が体を疼かせる。全ては自堕落な遊戯だ。少女の中で既に戦いは完結している。
この狼を模したスチーム・パペットは難敵であった。通常のスチーム・ヘッドやパペットに有効な『根元から切り飛ばす』という攻撃が通用しないどころか、不用意な一刀が悪手となるのだ。
切り落とした腕が蛇蝎の如く蠢いて自律行動を始めたときは驚いたが、切断面をよくよく観察すれば種は割れる。
そこにあったのは機械部品や人工筋肉ではなく、粘り気のある菌類の色彩だった。
悪性変異体から培養した粘菌のコンピュータを、ケットシーは葬兵時代に見たことがあった。連想さえ繋がれば、ベルリオーズの奇々怪々な運動を支えているのが、鎧の下にある生体CPUと人工筋肉を兼ねた物体、ひとかたまりの粘菌に似た何かなのだと推測が付く。
粘菌であるが故に自由な接合や組替が可能で、ある程度までのサイズであれば自切までもが可能なのだ。凄まじい設計コンセプトの機体である。頸部を切り落としても機能が殆ど落ちないのは、そもそも頭から上にはケルビムウェポンの砲台以上の機能が無いからだ。狼を模した人体という骨格が最低限度の人間性の礎になっているのだろうが、どのようなメンタリティの持ち主ならこんな装備を扱えるのだろうか。
「体をバラバラにするのって痛くないの? 気持ち良い?」
『殺すなと言っているだろうがぁ! 何故殺す? それが悪だとまだ分からないのか。死ねっ!』
「あはっ、ヒナはね、あなたをバラバラに出来てとっても気持ちいいよ。今度はどこを刻ませてヒナを愉しませてくれるの?」
次は蹴りだ。関節を逆に曲げ、地面を抉らない角度で、下方から上方への突き上げが来る。初見で見抜くのは難しい攻撃だが、『そういうことしかしてこない』と分かっていれば、どうとでも捌ける。
少女はふわりと飛んで、敢えて踏み込み、勢いの乗っていない部位の装甲に乗った。
カウンターで一刀を差し込み、正確に関節一つ分だけを切除。
丁寧に無力化し、宙返りしながらいちばん攻撃を誘いやすいポジションに戻る。
どれだけのダメージを与えたかにすら関心が無い。
華麗に反撃して、適度に艶っぽい仕草を見せるだけだ。
――種が分かれば、確実に殺すための手段も自ずと定まるというものだ。
いくら全身が特殊な生体CPUで構築されているとは言え、断片の一個一個にまで十分な演算能力が備わっているはずもない。関節一つ分しか部品が無いのなら、そもそも自律行動事態が不可能だ。
精々接合先を探す触手を伸ばすだけで、攻撃に寄与する機能は失われる。
後は積み重ねだ。
正確に、正確に。指先の関節から、その先を一本一本切り飛ばすような精密さで、選択肢を奪っていけば良いのだ。ヒナはそういうゲームは病院のベッドで結構愉しんだ方である。
骨が折れる作業にも思えるが、幸いなことにベルリオーズには攻撃の加減が無い。
ならば機体の出力差を気にする必要も無い。
避ける。相手の勢いを利用してカウンター、関節から先を切除。
その繰り返しだけで終わる。
決して敵の間合いの外には出ず、生肌を見せ、無防備な肢体を曝け出して、この生身の娘は殺せば死ぬ、殺して排除したい、という欲望を煽り続ける。
攻撃を紙一重で避けることを楽しみながら、でも不滅者になると弱くなるんだっけ、と少女は火照る頭で考えてみる。
ひょっとすると昔は、関節に刃を噛ませて跳ね上げる……という程度の技は使えたのかもしれない。
ここまで特殊な蒸気甲冑である、切断面から伸びる触手にも、通常の不死病患者と同じような機能しかなかったとも思えない。
「このうねうねって、昔は何かに使えたの。当ててあげるね。えっちなこと? 趣味の悪い鎧だもんね。そういうのって昔から特殊な需用があるよね。そういう趣味の人なの? ヒナは詳しいから分かるよ」
『死ねえっ!』
「あはは、死ねと殺すしか言葉が無い地方の人なのかな?」
葬儀の黒で染めたセーラー服を纏う少女は踊りながら嗤う。滑らかな肌を見せ、流し目で誘い、擦れ違いざま刃を走らせる。回避機動というには無駄が多く、舞踏というにも挑発が多い。それは自滅を誘うための遊戯だ。ヒナの虚ろな瞳には、もう何にもかもが映っている。
この大鎧は最初から自分の敵などでは無かった。新しい戦場で自分のパフォーマンスを披露し、そして溜め込んだ欲求を吐き出し、ついでにスポンサーからおひねりをもらうためのオモチャだ。
殺せる、という確信と、どれだけ愉しめるだろう、という邪念が綯い交ぜになった内心で、しかしケットシーはリーンズィの動向も気に掛けていた。
共演者にも気配りが出来てこそ一流である。
リーンズィの行動は奇妙だった。
いきなり後方へジャンプしたと思ったら、今度は空中に突然現れた。
気付かない内に塔の不滅者を駆け上ったのだと思うが、全く知覚出来なかったので、少女はその気配にぎょっとした。
何をしたのか、そちらを目で見て確かめたかったが、ベルリオーズはさすがにそこまで余裕で遊べる相手ではない。
「気になる……高度をつけて、あの停止した兎の大鎧、ウンドワートのところまで飛んでくのかな……」
リズちゃんの背負ってる大きいやつってジェットパックなのかなぁ、などと空想しつつ、ベルリオーズの注意を惹いて、敢えて必殺される間合いから出ないようにして……と。
ケットシーなりに気を利かせていたのだが、どういう原理でか、今度はまた全く違うところにリーンズィは出現した。
移動経路が全く分からないが、事実としてウンドワートの背後へ辿り着いてしまったのだ。
「飛ぶんじゃなくて、もしかしてワープ?! ヒナもそれやってみたい……!」
首尾良くベルリオーズの視界に入ることまで避けているのだから見事な手際だ。
今度やり方を教えて貰おう、と当初の半分ほどの全高になったベルリオーズを刻みながら考える。蒸気抜刀・変移閃刀姫霞斬り。
いける、予算もらえる、などと夢想する。
……最後の方のリーンズィの移動は気がかりだった。
飛んでいるとかではなく、高いところから普通に墜落したようにしか見えなかったのだ。
死ぬのでは? ケットシーは胡乱な顔をした。
死ぬのは良くない。絵面が汚くなるからだ。
でもリズちゃんのことだし何か着地用のガジェットがあるんだろうなぁ……と一人で納得する。色々変な機械積んでるみたいだし。かくいうヒナも、空挺降下セットとかそういうのを持っていたのだ。
かなりの確率で落下傘を開くのが遅れて、墜落して死んだものだった。
カメラもそういう場面では上手いこと映らなくなるものだとケットシーは信じた。
『殺……すなっ……』
「あっ、そう言えばまだ生きてた」
意識して回避する必要さえ無くなっていた。
ケットシーは適当に間合いを詰めながらカタナを振ってさらに容赦なく手足を刻む。
手足を切断されたベルリオーズは、狼の鎧と言うよりはそういうマスコット・キャラクターのような頭身になっていた。
不滅者というものがどういうものかは、正直まだ分からなかったが、学習能力が存在していないらしく、短い手足で攻撃しようとしては空振り、一人で転げて、唸り声を上げている。
「そこそこ気持ち良かったよ、ありがとうございました。あはっ……ちょっと物足りなかったかな。でもリズちゃんも終わったみたいだし、弱い者イジメみたいで苦情が怖いから、もう殺してあげるね。あなたはここで退場」
『殺……』
「聞こえなかった? もう喋らないで。あなたの脚本に先は無いの」
ケットシーは相手が振りかぶるや否や、一瞬でその巨大な胴体に肉薄した。
不死病患者を格納する容器がどこにあるかはとっくに把握済だ。
精密に刃先を装甲の継ぎ目に差し込み、ロック機構を切断して、強制的にハッチを開放させる。
そして開ききるのを待たず、僅かな隙間から肉体へ向けて刃を滑り込ませた。
確実に人体を刺した感触。どの部位かは分からないが、そのまま生体CPUを刃でこじ開けるようにして痛めつけてやれば、パペットというものは大抵混乱して動かなくなる。
「はい。これにて、お終い」
『がああああ……があ……がああああああああああ!!』
ベルリオーズはのたうって刃から逃れようとするが、運動アシスト用強化外骨格で姿勢を固定している少女を振り払えるほどの力は残されていない。
それ以上に、どうしていいか分からない、と言った様子だった。
このスチーム・パペットにとって、ここまで段階を踏んで追い込まれたのは初体験なのだろう。邪な剣戟に耽る一方で、ケットシーの剣士としての神経は、分析を進めていた。
ベルリオーズは憐れだ。破壊されること自体が稀で、破壊される場合はあの兎の大鎧のように圧倒的な暴力で叩き潰されて自動的に復元する。
それ故に、ベルリオーズには決定的な詰みの状況に陥った時どうするかの心構えが存在しないのだ。
そして不滅者は、やはり状況へ適応する能力が極端に鈍い。
これが不滅者でなければ、ヒナもこれほど油断はしていなかった。
相打ちを覚悟してのケルビムウェポン接射。あるいは動力炉の炉心を暴走させての道連れ攻撃など、捨て鉢になった敵は色々な工夫をしてくるものだが考えられるが、狼の鎧には悪あがきをする兆候すら無かった。
これならば生け贄の羊を屠るよりも格段に容易い仕事だ。
どうであれ中にいるのは不死病患者だ、単純な刺突や斬撃は決定打にはならない。ハッチが完全に開放されれば首を刎ねて毟り取り、再生出来ないようにする。ベルリオーズとの戦いはここで終わり。
後はリーンズィと兎の大鎧を連れて脱出して……何か上手いこと運んで、フィナーレだ。
トドメを刺す準備に入りながら、セーラー服の姿の少女は嘆息した。
「最後は作業みたいになっちゃった……。まぁその辺は局の人が編集でなんとかしてくれるよね。不滅者っていうのを殺すのは初めてで、そこには感謝してる。でも、やられ役にしては強すぎるし鬱陶しいし、労力と気持ちよさがあんまり繋がってないし嫌かも。もうヒナの相手はしないで良いよ」
途中からは本当にどこまでもただのオモチャになってしまった。思えば今回、脳天まで突き抜けるような圧倒的な快感があったのは、あのライトブラウンの髪をした潔癖そうな美貌の少女、リーンズィが、予想外にも自分の剣技に対応してきた時だ。
放送コードに触れかねない残虐プレイに発展するところだったので、少し反省。視聴率を気にした面もあるが、一方では自分の欲求を満たすための行動だった。
はしたなかった、と自省しつつ、新しい装備を手に入れたリーンズィとの再戦や、ウンドワートなる大鎧との戦闘を妄想して心臓を熱くする。
特にウンドワートからは圧倒的強者の気配がする。
戦えばどれだけの絶頂が味わえるだろう。
どれだけ父に近づけるだろう。
「ウンドワート……どれぐらい強いのかな、早く殺したいな
」
『ウンド……ウンドワートォォォォォ……?』
突如としてベルリオーズが言葉を発した。
「知り合いなの? 知り合いでも殺すけど」
『ウンドワートなら……止められる……殺すのを止められる……は、ははは……思い出したぞ! ウンドワートは私より強いのだ! はははぁはははは! そうだ、ウンドワート! ウンドワート! 殺す者を殺そう! 我々で秩序を取り戻すのだ! 何故答えない! ウンドワート! 私だ! ベルリオーズだ!』
ベルリオーズは錯乱していた。ウンドワートは声が届く位置にいない。どこの誰と話しているのか、全く分からない。拷問を受けて発狂しつつあるスチーム・ヘッドがしばしば陥る状態に似ていた。ありふれた現象だ。
しかし、思えばベルリオーズという機体は、常に錯乱していたのであった。
「うーん。話を見えるようにして?」
『いや、ウンドワートは必要ない! パペットがあればそれでいい……! 寄越せ! ウンドワート! その大型蒸気甲冑を私に寄越せ!』
「話にならない。終わらせるね」
『ウンドワートォオォォォォォォォォォ!』
狼の背負う重外燃機関が爆発した。
否、爆発では無い。背部側の装甲ごと部材がパージされた。
ぎょっとしたケットシーの手の中、カタナの先から肉の感触が離れていく。
「……もしかして、反対側!? そっちからも出入り出来たんだ!?」
あるいは搭乗用のハッチでは無いのかもしれないが、ベルリオーズ本体は間違いなくそちらから脱出しようとしている。
ケットシーは視線を鋭くしてベルリオーズの鎧を蹴り、己の体を弾き出す。
標的を切り替えようと試みる。
しかし放棄された狼の鎧が壁となった。倒れてくる巨大な壁だ。
回避は容易い。容易いだけだ。
自然、行動はワンテンポ遅れてしまう。
「何したって無駄なのに! ヒナのかっこ悪いところを皆に晒すつもり!?」
機能停止したパペットの脇を擦り抜けたケットシーの目に飛び込んできたのは、簡易蒸気甲冑で体を固めた兵士の姿だ。
どうやら差し込んだ刃は肩口から首までを裂いていたらしく、千切れかかった首が再生と接合を繰り返して振り子のように揺れていた。
「えっ、これテレビに映していいやつ!? これヒナの新シーズン開始第一回目なんだけどなんでそんな放送事故みたいなモードになるの?! かなりお見せしちゃいけないやつだよそれ!」
グロテスクの一言に尽きる。普通なら頭が取れてしまいそうなものだが、体内まで菌類のようなものに置き換えられているらしい。傷口からは血ではなく粘液が零れている。
「……うんどああああとおおおお!! パペットを寄越ぜえええええええええ!」
「パペットを乗っ取る……? そんなことって……」
実例は見たことが無い。しかしこの機体なら出来るのかも知れない、とケットシーは背筋に冷たいものを感じた。
スチーム・パペットの操縦は、人格記録媒体の適性による部分が大きい。空間認識と身体操縦に関して特異な才能がなければ、どんなに簡単なパペットでも動かすことは出来ない。さらには最初にパペットに搭載された時点で、人格記録媒体に収録された情報が不可逆的に変化してしまうため、僅かにパペットの形式が変わっただけで、操作不能となるというのもしばしばある。スチーム・パペットは強力だが、兎角扱いにくい戦力なのだ。
しかし、狼の大鎧、ベルリオーズは、度を超して異様な構造の機体である。普通の人格記録媒体ならば、搭乗させられてもまともに動けないか、程なくして発狂するはずだ。
それを自在に操れるのであれば、どのような鎧でも問題なく適合するのでは?
「ウンドワートがハッチを開かなければ良いだけの話だと思いたいけれど……」
あの肉体も鎧に使われていた粘菌と同じく、変形したり、他の物体に浸透することが可能だったら?
考える意味がない、と少女は決然と切り捨てる。
可能でなければこの白痴の変異体が行動を移すわけがない!
こいつにはパターンしか存在しないんだから!
「そうはさせない! 蒸気抜刀・疾……」
蒸気抜刀の中でも『疾風』は基本技能だ。肉体を賦活し、限界をさらに超えた本物の闘争の領域へステージをシフトさせる。上位の葬兵なら誰しもが使える基本技能。
普段の習慣で加速しようとして、状況を思い出す。
解放軍なる組織では、この技能をオーバードライブと呼ぶらしいが、相手が悪い。
不滅者というのはこれを使うと同速で動くようになってしまうのだ。
距離を詰められないどころか、リーンズィやウンドワートの脅威になりかねない。
では普通に走って追いつけるか。答えは否。相手の素体は成人男性で、蒸気甲冑も装備している。最後には追いつくにせよ、ウンドワートへの到達はあちらのほうが早い。
ならば間接攻撃。この大型不朽結晶刀を投げる? 投擲用ではない上に、投げるには大きすぎる。でも不可能ではない。命中させる自信はあるものの、心臓部を背後から投擲で貫くのはおそらく不可能。
首や腰を切断出来れば御の字だが、ケットシーの経験上、そう上手く命中しない……。
「だから片足だけでも置いていってもらうね!」
ケットシーは走りながらくるりとターンして振りかぶり、遠心力による加速まで加えて、カタナを投げ放った。脚部なら片方でも切断してしまえば機動力を削げる。
刀身は寒空の光を照り返して弧を描き、黒髪の少女が確信した通りに左膝に命中、ベルリオーズは転倒して――
「ARRRRRRRGH! ウンドワートォォォォォ!」
残りの両腕と脚一本で。
異形の獣の姿勢で、ごく当たり前のように走行を続けた。
「あ。そ、うだよね……」ヒナは自分の浅慮さに青ざめた。「ヨロイでだってあんなに器用に動ける。自分の体だって手や足が一本無くても平気なんだ……」
投擲姿勢を解除して全力で疾駆するが、絶望的な状況だ。
走りながらカタナを拾い上げる。可能だ。
しかしその先は? ウンドワートの大鎧を奪うよりも早く始末が出来る?
ウンドワートの強力さは自分の目で見たばかりだ。もしもベルリオーズの動きとウンドワートの戦闘力が組み合わさったら安全な離脱も夢のまた夢、そのまま事態は悪夢に変わる。
「良くない流れ! リズちゃん、お願いだから気付いて!」
声は届かない。塔の不滅者が増殖する際に生じる暴風に紛れて消えてしまう。通信も不可能だ。自分が支援AIユニコーンに撒くよう指示した妨害電波が疎ましい。どの受信帯もノイズだらけで、このせいで肉声までもが完全に消えてしまう。そんなふうに思ってしまう。
だから、願いは叶わない。
――蹲ったウンドワートの胴体部が開き始めた。
中の不死病患者がハッチを開いて外に出ようとしているのだ。
最悪のタイミングだ。
「ウンドワアアアアアアアアアトオオオオオオオオオオ!!!」
フェンリル型ベルリオーズが歓喜の声を上げながら食らいつこうとする。
黒髪の少女は悲鳴を上げた。「リズちゃ……駄目、そいつを止めて!」
「ウラアアアアアアアアアアア!! ベエエエエエエエルリオオオオオオオオ、ズウウウウウウウウウウウゥゥゥゥゥ!!!!」
不意に、風に乗って心底不機嫌そうな怒鳴り声が聞こえた。
ケットシーにはそれが誰の声なのか分からない。
口調は老人のようでありながら、声は甲高く、まだ幼ささえ感じさせる。
明らかに少女の声だ。
だというのに、遠い昔に自分を叱った父と同じような、他者を押し潰すような威圧感を放射している。
ケットシーはそれを見た。
ウンドワートの胴体部装甲から現れたのは、赤い目をした西洋人形のような風貌の、色素の抜け落ちたような少女だった。額には大型蒸気甲冑と接続していた証である孔が、冠のように穿たれている。
薄い胸や腹に張り付く、丈の短い手術着のような不朽結晶製のインナーが、その体格の小ささを強調している。まだ鎧から出きっていない手足も、おそらく同様にか細いだろう。
触れるのを躊躇うような愛らしさと、凜然とした美しさ。誰もが手元に置きたくなるような壊れやすい工芸品。しかし戦うための肉体からは限りなく遠い。
守らなければ壊されるだけだ。ケットシーやリーンズィと同型の首輪型人工脳髄さえ、この美しくも反抗的な眼差しの少女を飼い慣らし、屈辱を与えるための装飾であるように思えてくる。
これがあのウンドワートの本体なのか、と戸惑うと同時に、「逃げて!」という叫びがケットシーの喉から溢れていた。
葬兵の重要な任務には、力なき民を守ることも含まれている。
晒されたウンドワートの矮躯は、まさしく弱き者そのものだ。
放置していればウンドワートは鎧をそのままに、肉体の方を蹂躙されるだろう……。
しかし、白髪の少女は必死の叫びも意に介さない。求めて迫り寄る狂った不滅者に、些かの恐怖も覚えていない。
「ベルリオーズ。オヌシ、鎧無しならああああああああああああああ……」
がきん、と火花を散らしながら、ウンドワートの腕部装甲の内側が開放された。
現れたのはグリップを掴んだ青ざめた肌の腕だ。その機体が、スチーム・パペットというよりは機械甲冑に近い構造をしていたことにケットシーは初めて気付いた。
通常のパペットならば、不死病患者は『装填』とでも言うべき形で内部に押し込められているのだが、ウンドワートというこの蒸気甲冑においては、オートクチュールのドレスのように、白髪の少女を中心に全てが誂えられている。
不朽結晶で象られた手足は、あくまでも儚い少女の肉体を拡張するための道具に過ぎない。
パペットとは名ばかり。
実態としては真性の『大型蒸気甲冑』だった。
アルファⅡウンドワートとは、身に纏う道具なのだ。
「ワシに勝てると思うたかああああああああああああああ!!! この出来損ないがあああああああ!!!!」
少女が右腕を振り上げる動作をするのに合わせて、ウンドワートの右腕部のロック機構が次々に解除された。火花を散らしながら装甲から分離された右腕基礎骨格部、腕を延長するための軽量骨格が排出され、ときはなたれたそれが怒号とともに前方へ、向かってくるベルリオーズへと突き込まれる。
五指を模した不朽結晶製の爪が、兵士の胴体をぶち抜いた。躊躇も怯懦も感じさせないストレートな一撃だ。それと同時に白髪の戦姫がグリップを操作するのに合わせて爪が四方へ開かれる。ベルリオーズの五体は呆気なく切断されて地に落ちた。
「ウンド……わーと……我々の、手で……世界に、平和を……」
救いを求めるように呻く頭を――
「やかましいわ! くだらん妄想に付き合っていられるかと何度言えば分かる?! もういい、今回もここで死んで果てるがよい! 毎回毎回おんなじようなことをおおおおおおおおおおお!」
続いてアンロックされた、ウンドワートの左腕部骨格部の爪が握り潰す。
ケットシーは脚を止めて、事態の推移を見守ることにした。自分が駆けつける必要は無いと判断したからだ。むしろ失礼な行動だったと反省する。
人は見た目で判断してはいけない、ましてやスチーム・ヘッドを、と当たり前の原則を思い出す。
何を焦っていたのだろう。ケットシーは平静さを取り戻しつつあった。何故か、もう何の不安も無いと信じることが出来た。丁寧にチューニングをすれば、短距離通信の電波を捕まえることも簡単だった。
ウンドワートの右腕部は、今度は己の背部に向かい、聖歌隊の突撃聖詠服に身を包んだスチーム・ヘッド、呆然とした様子のリーンズィを摘まみ上げて持ってきた。
『リーンズィ、ボサッと寝ている暇があれば手伝わんか! ケルビムウェポンで焼き殺すのだ! こやつは身体再生のみに注力している時は、これだけ刻んでも死なん!』
『りょ、了解……え……うん…………あれ…………ウンドワート……………?』
リーンズィの動揺は不可思議だ。同じ勢力の機体だというのに、彼女もウンドワートの操縦者を見るのは初めてだったらしい。
ケットシーにも中身を隠したくなる気持ちは分かる。その戦闘能力の一端しか見ていないが、まさか中身がこんな小さな女の子だとは思うまい。マスクファイターなのだ。自分のように素顔を晒して戦っているものと比べれば、そのギャップは計り知れない。
しかし実力は本物だ。眼光から、どれ程の力の持ち主かは計れる。葬兵でも滅多にいない力に飢えた眼差しにケットシーはぞくりとした。ウンドワートは本物だ。本物の強者だ。
如何に弱々しい外見でも、精神性が卓抜している。
これはいよいよ刃を交えないと……とケットシーは決意を新たにした。中身がこんなにも可愛らしい女の子なら、撃破後もきっと良い絵が撮れる。その後の交歓などで、かなり良い数字が取れるはずだ。
しかしリーンズィの動揺が一向に収まらない。
何度も何度も、自分を持ち上げている腕の持ち主、強化外骨格を操作している少女に、ヘルメットのレンズを向けて、無意味に倍率の変更を行っている。
「リズちゃんどうしたんだろう……?」
ケットシーが首を傾げる。中身があまりにも可愛いのでびっくりしているのだろうか。そういうレベルでもなさそうだった。明らかに変だ。
『ど、どういう……これは……ウンドワートなのか!?』
『話は後! そうじゃろ?! 今は! ベルリオーズを! オヌシのケルビムウェポンで! 焼却しろ! 分かった?! リゼ後輩! 返事は?!』
『りょ、了か……え……? ええ……? 何故……? こんな……ウンド……あれ? え、れ、レアせんぱ……』
『他に人のいる前でっ! その名で呼ぶなあああああああああああああ!!!!!!』
理不尽な怒り方をしながら、ウンドワートは二連二対の赤い光を放つヘルメットのスチーム・ヘッドをベルリオーズに向かって叩き付けた。
『警告。左腕部、動作しません。中枢神経系の修復が完了していません。ケルビムウェポンの発動は可能ですが、照準は不能です』
常軌を逸した出来事が起こったせいで、リーンズィの思考はベルリオーズ、撃破する目標が目の前に迫ってきてもなお、完全にフリーズしていた。ユイシスがエマージェンシーモードを起動していなければ、行動のための猶予時間を得ることも出来なかっただろう。
リーンズィは仮想の深呼吸をしながらユイシスに無声通信で問いかけた。
『……どうしてウンドワートの中からレアせんぱいが? う、ウンドワートがなぜ私のレアせんぱいを……? どうしてこんなことに……』
ユイシスは心の底から呆れ果てた声を出した。『寝ぼけている場合ではないです。このままではベルリオーズとキスする羽目になるかと思いますがそれで良いのですか』
『よ、よくない……。よし、私は冷静……私は冷静……。ユイシス、意思決定主体の優越権を行使して、オーバーライドの実行を許可する』
『受諾しました。視聴覚からのリアルタイムフィードバック、スタンバイ。疑似固有受容感覚形成完了。非常用電源回路閉鎖。プシュケ・メディア、電磁遮蔽を検証。チェック項目省略。オーバーライド、スタンバイ。準備はよろしいですか?』
通常の場合、どのような形であれ、ユイシスに肉体は与えられない。彼女にとっての外界、物理身体に相当するものは、これを操作することを許されない。
数少ない例外の一つがオーバーライドだ。左腕部のガントレット型スチーム・ギアの電気パルス放射機能を操作することで、エージェントの肉体を操ることが出来る。実態としては単に感電させて、望むように筋収縮を誘発させるだけだが、左腕を特定の方向へと向けさせる程度なら造作も無い。
『オーバーライド、起動』
リーンズィの許可により、大出力の電気パルスが放射された。螺旋の途切れかけた人形のような信頼性の無い動作で左腕が跳ね上がり、肉を焼かれる煙を発しながら、その掌を粘菌状の肉体を持つベルリオーズに向ける。アルファⅡモナルキア・リーンズィは、続けざまに命令を送り込む。
『カウンターガン起動。ケルビムウェポンの適応を許可』
『火器管制装置オンライン。カウンターガン、レディ。調停防衛局の戦闘規定に基づき、当機は攻撃に対して応戦する形でのみ射撃を行います』
『リーンズィ、了解。観測情報を共有。目標ベルリオーズは友軍機アルファⅡウンドワートに依然として強い関心を示している。同化浸食を実行する虞がある』
『攻撃の意志があると判断。迎撃を開始します』
空中でリーンズィのガントレットから紫電が迸り、目標の至近距離でケルビムウェポンが発動。槍状のプラズマ場の群れが形成され、アスファルトの上を蠢いていたベルリオーズの残骸を完全に焼却せしめた。
呆気ない幕切れだ。これにて終幕、とケットシーが刀を鞘に収めた。
『受け身が取れない気がするが大丈夫だろうか』
『何と比較してですか? ヴェストヴェストの崩壊・爆発と比較すれば安心安全です』
『うん。なるほど。今日はよく堕ちる……』
エマージェンシーモード解除。結局頭からの墜落となった。ヘルメットが無ければ即死だ。つんのめりながらごろごろと転がり、二転三転する視界の片隅に、ベルリオーズが焼き払われた地点で、すっくと身を起こす黒猫を見つける。
以前ロングキャットグッドナイトが連れてきた裁きの黒猫だ。
狼の騎士ベルリオーズがあれほど手ひどく殺されたというのに、怪我ひとつなく、元気そうだった。黒猫はあくびをして体を震えさせ、満足げに鳴き声を上げた。
きっと楽しい夢を見たのだろう。
続いて視界に映ったのは、ウンドワートの鎧から這い出てきた白髪の少女だ。そんな不朽結晶装甲服を着けているとはしらなかったが、切り詰められた裾から覗く、散々に見覚えが、様々な覚えがある色素の欠けた内股に、リーンズィの心臓が鼓動を早める。
白髪赤目の少女は申し訳程度に威嚇をしてくる猫ベルリオーズを慣れた手つきで抱き上げて、呆れ顔で頭を撫でてやった。
「ほら、もうさっさとどこかに行って。遊んでる余裕は無いんだから。真面目すぎたからこんなになっても終わらないのよ、もっとゆっくり寝てなさい」
黒猫は何か返事をした。猫の言葉は分からない。やがて塔の巻き上げる風に乗って、どこかリーンズィの知らないところへと飛んでいった。ベルリオーズの鎧の残骸、言葉で編まれた鎧も輪郭から崩れていき、完全に消えた。
白髪の少女はそれから、気まずそうな顔でリーンズィに近寄り、腰を下ろした。ヘルメットのバイザーをじっと見て、それから慌てた仕草で手術着めいた服の裾を下げて、隠す。
「……こ、これが普通なんだからね。別にへんなあの……そういう趣味とかじゃないんだから。パペットの仕様に合わせた服装なんだから……」
「誰もそういう追求はしていないが……」
「そう……うん、そう、普通だし……」
「綺麗だし良いと思う……」
「き、綺麗? な、何を見てそういうことを……う、うん……ありがと……」
二人ともが、ひどく浮ついていた。レアは顔を真っ赤にしていて、リーンズィも自分がこんな顔色になっていることを自覚する。どうしても交す言葉が宙に浮いてしまう。
脱出しなければ、という意識さえ希薄な物になっていた。
「れ、レアせんぱい? 本物のレアせんぱい……?」
「……アリス・レッドアイ・ウンドワート。これが本当の名前」
白髪赤目の少女のぼそりとした名乗りが耳に届く。
「そうよ、そうよ。わたしこそが後輩にレアせんぱいーとか呼ばせて一人で喜んでる、どうしようもないろくでなしのスチーム・ヘッド」
「う、ウンドワートは……」意を決してリーンズィが尋ねる。「君の戦闘支援AIなのか?」
「はぁ? どうしてそうなるの」
「声とか口調とか全然違う。だから、そういうものなのかもと。もしくは君が支援AIなのか」
「誰が支援AIって? 私が架空の存在に見えるの」
「レアせんぱいを現実の存在とは思えないほど綺麗」
白髪の少女は思わずといった動作で目を背けた。
耳の先までが、その紅玉の瞳に負けないぐらい真っ赤に染まり、発汗が著しい。
「……あの声は、あの……ボイスチェンジャーよ私、こんなんでしょ。小さいし。弱そうだし。威圧感ないし。それに、リーンズィなら分かるでしょ。わたしがその……夜とか、任務後とか、どういうふうになるか……」
「勇士の館での出来事は誰も気にしないのに」
「ここのところは、そうよね。でも、間違っても違う用途の機体として扱われたくないのよ……。だからパペットに乗ってるときは、そういう自分になりきって、この弱そうな私からイメージを遠ざけてて……でも、リーンズィが言った通り。鎧があってもなくても本質は同じなの。あのウンドワートもこの私も、同じアルファⅡウンドワートよ」
「そう、そうなのか……」
『右腕部の修復が完了しました。最低限度の中枢神経系を再構築。他は何も治っていませんが……』と黄金の髪を翻すユイシス。『出来るAIアピールです。後でミラーズの秘蔵画像の閲覧許可など所望します。アクセスを制限されているので……』
ありがとう、と言いながら、右手でアルファⅡモナルキアのヘルメットを取り去る。裸眼で見るレアは、レンズ越しよりも、思い描いていたよりも、何倍も美しく、輝いて見えた。嵐の渦巻く空、塔が瓦礫を試算させる景色でも、胸の芯を蕩かすような熱情を呼び起こす。
「レアせんぱい、こっちへ。もっと傍へ寄って」
「何よ、リゼ後輩……」と訝しむレアを、倒れ伏せたまま、リーンズィは力一杯抱きしめた。少女はぴくり、と体を震わせる。恥じらいに身をよじらせているが、それはリーンズィも同じだ。
「会いたかった」
「うん……」
「会いたかった。ずっとレアせんぱいのいる場所に還りたかった」
「リゼ……」レアの心拍の高まりが薄布越しに伝わってくる。赤い目を潤ませて、視線を逸らし、深呼吸を一つ。そっと唇を重ねてくる。「どう、どうだったかしら。ウンドワートは悪いスチーム・ヘッドではなかったでしょう?」
「頼れるお姉さんだ。ウンドワートお姉さん」
「黙っていたのは、本意じゃ無くて。ただ、拒絶されるのが怖くて……最初に、酷いことしちゃったでしょ。それで、ちょっとでも良いスチーム・ヘッドだってアピールをしてから、打ち明けようと……ごめん、言い訳になるけど、リゼ、あなたのことが本当に、本当に大切で……嫌われたくなくて……」
言葉を塞ぐために、今度はリーンズィから唇を重ねる。ん、と喉を鳴らす愛しい少女の甘ったるい香りを肺に取り込んで味わう。レアのほうも箍が外れたようにライトブラウンの髪をかき分け、額にキスをし熱く抱擁する。心臓の高鳴りの共鳴。互いの感情を深く知ろうとする。
「……リゼ後輩の大好きな先輩でいられたかな?」
「うん……レアせんぱい、ずっと、ずっと一緒にいて欲しい。レアせんぱい……」
「リゼ……リゼ後輩……」
断ち切るように。
ちん、と控えめに鍔鳴りの音がした。
互いの瞳と呼吸音、唾液の甘美であることだけに意識を奪われていた二人の少女はびくりとしてその方向を見る。
「こういう空気を壊すのはあんまり好きじゃないけど」と物怖じせず切り出したのはケットシーだ。「脱出はどうしたの?」
「は? 誰よ。どこの誰様?」
「ヒナはケットシー。あなたはウンドワート? ウンドワートでいいんだよね。特別にヒナって呼んでも良いよ。ヒナは東アジア経済共同体最強のスチーム・ヘッド、葬兵の栄えある第一席……」
「どこの最強って? どこの田舎の誰様よ。私とリゼの時間を邪魔する権利がどこにあるの? 雑魚が、雑魚が偉そうな口を利くな。分かってるわよ、貴様が<首斬り兎>だ。兎イメージを悪くさせた罪は重い。ここで二度とその口開かないように股座から喉元までぶち抜いてやる」
「え、何。やる? ここでヒナと始める?」ケットシーの虚無を映す瞳が、爛々と光を湛え始めた。「上下関係を叩き込む良い機会。折角仲良く始めようと思ったのに」
空気が悪い。そう、現実逃避をしている場合では無い。
それは重々承知していた。直視したくなかった。
「脱出、だが……」くた、とアスファルトに身を預けながら、リーンズィは呟いた。「もう間に合わないと思う……少なくとも私は無理だ」
「……そう、よね……そうよね」臨戦態勢に入りかけていたレアは拳闘の構えを解き、リーンズィの傍に蹲った。「ベルリオーズ相手にケルビムウェポンを使わせてごめんね、リゼ。ついついやれって命令してしまったけど」
「然程結果は変わらなかった。そのせいで問題が生じているわけではない。レアせんぱいのパペットは、もう動かないのか? ……動かないの?」
「限界だったのよ。緊急用のバッテリーもベルリオーズを殺すのに使って打ち止め。重外燃機関をやられてるから、ヘカトンケイルに面倒を見て貰わないと動かせない」
「どうして諦める話をしてるの、まだ道はあるはず」殺意を霧散させながらケットシー。「ウンドワートはあの頑丈な鎧の中で時間が来るのを待つ。リズちゃんはヒナが抱えて走る。それで何とかならない?」
「り、リズちゃん……? 誰の許可を得てわたしのリゼに馴れ馴れしく……」
レアは赤い目をギラギラとさせた。すぐに落ち着きを取り戻す。
「……ベルリオーズがわたしのパペットを狙ってきたのが不味かったわね。最初から手遅れだったのが……もう何もかも無意味になった。そんなところかしら」
「そうだ。おそらくどうやってもヴェストヴェスト崩壊に間に合わない。ベルリオーズの最後の抵抗によるタイムロスが致命的だった。我々は爆発に巻き込まるだろう」
「計算してみたけど、ヒナは逃げられるよ」
「君の脚なら、そうだろう。でも私を抱えては無理だ。ミラーズもたぶん間に合わない。ディオニュシウスがいるから最悪の事態だけは免れるだろうが……」
「待って、待って。わたしのパペットにリゼの肉体を放り込んでみてはどう? わたしは多分大丈夫。跡形まなく吹き飛ばされるだろうけど……リゼならきっとわたしを見つけてくれる。そうでしょう?」
「それも現実的ではない、ウンドワート。君の蒸気甲冑は君の身体サイズに最適化されている。完全にフィットしている。そもそも私の肉体ではあの鎧は装着できない」
「……そうね」レアは視線を伏せた。「分かっていても、嘘の希望を論じてしまう。わたしもヤキが回ったかな。あなたのせいなんだからね、リゼ……」
「私もレアせんぱいのせいでおかしくなってしまった。君のことしか考えられない……」
「イチャつかないで。もしくはヒナも混ぜて」ケットシーは気まずそうだ。「リーンズィを見捨てるのがたった一つの冴えたやり方なら、そうするしかない。でもスマートな方法はあるよ。誰かが人工脳髄を預かっておいて、肉体は後から探せば良い。大丈夫。何があっても大丈夫って信じて」
「だとしても……どうなるか。もう、やるだけのことはやった」リーンズィは空を仰ぐ。「後は神様にでも祈るしかないな……」
――ふと違和感を覚える。
音が聞こえた。
重外燃機関を伝って塔の増殖する震動で背中がむずがゆいのだが、何かそれとは違う感触が混じり始めている。
言うなればそれは、行進だ。
群衆の突撃だ。足音に似ているのだ。何千、何万もの軍勢が、隊伍を組み、一心不乱に駆けてくる光景がリーンズィの脳裏に浮かぶ。
津波の如く家屋を乗り越えて血しぶきを上げる。慌ただしく街路を踏みしめ、路地に根を張り、昏く淀んだ空に、高らかに、高らかに歌が……。
少女が微笑んでいる。銀色の少女が。
彼女が舌先に編む祝福――「ハレルヤハ」の言葉。
「リゼ、目から血が出てる」おずおずと、白髪の少女は舌先でリーンズィの眦を舐め取った。ミラーズの真似だ。「その赤い目、わたしと同じみたいで嬉しいけど、負担が強いんじゃない?」
自覚無くヴァローナの瞳が起動していた?
リーンズィは目を見開いた。
ということは、あれは幻では無い。紛れもない現実だ。
「ハレルヤハ! 皆様方、よく頑張りましたね! もう心配はいりません! 苦難の時は終わったのです!」
晴れやかな顔で駆け寄ってくるのはミラーズだ。
憂いは去ったという表情で、金色の髪がふわふわと平和に揺れている。リーンズィには事態が飲み込めない。
「何が起きている? ……いるの?」
「聞こえませんか、あの声が。あの子が紡ぐ聖なる頌歌が」
耳を澄ませば微かに……。
歌が、聞こえる。
遠雷の如く、歌声が轟いている……。
塔が震え始めた。夢が覚めようとしていた。
一本、また一本と崩れ去り、地に落ちること無く風に飲まれて消えていく。何が起きているのかリーンズィには理解出来ない。
ケットシーの鋭敏な聴覚は異常事態を察しているらしく、改めてカタナを抜いて警戒を始めた。
「怖がる必要はありません、ケットシー」ミラーズの声はいつになく嬉しげだ。「救済の時がここに来たのです」
やがてその先触れが訪れた。
兵士たちだ。幾千の兵士たち! スチーム・ヘッドでもラジオ・ヘッドでもない。脚が破壊されることさえ厭わず疾駆する兵士たちは、歌を歌っている。血を吐き、反吐を吐き、それでも屈すること無く、聖なる句を一様に奏で、聖歌と己らの足音でこの世界に高らかに神の栄光を宣告する。
放たれる歌の意味は分からない。
ユイシスの解析も通じない。
言語として成り立っておらず、ただ韻律だけで言葉を、神を讃えようとしている。
破綻した言葉でありながら、その合唱は目まぐるしく世界を変えようとしていた。
原初の聖句だ。しかし、今までに遭遇したどんなレーゲントの放つ聖句よりも規模が大きい。比較にならないほどだ。何せ、押し寄せてくる兵士、兵士、兵士、兵士。津波の如き軍勢全てが、聖句を唱えているのだ。そ
こに魂は無い。意志は無い。鎮魂の意志はなく、真なる神の愛を知ることも無い。
だが聖なる言葉はそこにある。リーンズィたちだけを避けながら、兵士たちは怒涛の如く駆けていく。地鳴りのような足音を伴奏に、不滅の声帯が擦り切れるまで歌を奏でる。冬の都市に歌が響く。聖なる歌が。言葉ならざる言葉が。
世界を支配する言葉が。
塔は聖句の奔流に飲まれて次々に崩壊していき、無数の猫となってばらばらと堕ちていく。貌の無いディオニュシウスまでもが我に返った素振りで周囲を見渡し、斬るべき敵を見失い、ふらふらとした足取りでミラーズの元へ帰ってくる。跪き、頭を垂れる貌の無い騎士に、「お疲れ様です、私の騎士様」とミラーズはねぎらう。
聖なる歌の軍勢は留まることを知らない。数百、数千、数万の歌声がうねりとなって都市を押し潰し、不滅者を次々に無力な猫に変えて沈静化させる。
心なしか、リーンズィも脳を揺すられているような気がした。
寄せては過ぎ去る兵士たちの国籍はバラバラだ。ありとあらゆる国家の兵士がこの日、この土地、この軍団に参画しているようにさえ思える。老若男女の区別も無い。調整役らしいレーゲントが声調を変えると、周囲の軍勢もそれに合わせて声の音色を変える。装甲の無い街宣車がやってきて、大音量で聖句の旋律を撒き散らす。鼓笛隊が出鱈目に、しかし完璧に統制された音楽を奏で、聖句を一層鮮明なものとして脳に焼き付ける……。
ただ集合し、神を讃え、歌で世界を塗り潰す数万の魂無き民草。
聖句によって導かれし白痴の不死者たち。
神意の歌だけが半永久的に響き続ける、麗しき少女の領域。
「リリウムね。聖句、鎧無しだときっつい」頭を押さえながらウンドワートが呟いた。「間に合った。良いことだけど。あの子ったら、変なタイミングを外さないんだから……」
その名も聖少女救世頌歌永続交響機甲師団。
これこそが解放軍の頂点として君臨する大主教リリウムの直轄部隊だった。
数万の不死病患者が熱狂的に聖句の渦を編む、神聖にして不可侵の聖少女領域である。
そして、ついにその少女は現れた。
不死病患者の波。永劫死ぬこと能わぬ憐れなる者どもが、救いを求めるように手を掲げ、御足を受け入れるため掌を開く。その上を優しく踏んで、軽やかな足取りで、海を歩む預言者の如く、少女は進んでくる。祈りの歌声の主旋律を奏でる少女は、輝きに満ちていて、しかし聖職者と言うよりは異邦の丘へ夜行列車の車掌か、さもなければ時代錯誤な装飾に彩られた鼓笛隊の先導者に似ていた。
聖なる少女は、真っ直ぐにリーンズィを見つめていた。
「ああ……これで少しでも神恩をお返しできたでしょうか」
はらりと涙を零し、微笑みかけてきた。
リーンズィは発作的に胸を押さえた。鼓動の高まりが押さえられない。
跪いて、愛を請いたい、小さな踝にキスをしたい。そんな衝動までもが体を貫いている。銀色の少女を仰ぎ見るほどに胸が騒ぎ、体が熱くなり、呼吸が浅くなる。
初対面の筈だった。
だというのに、レアに捧げるのと同じだけの愛情を、それよりも強い愛欲を、その銀色の少女は吸い上げようとしていた。
目が眩むような光だ。
偉大なる存在の証明とその寵愛を証明するに相応しい白銀の髪、冬の空の陰りがちな目映さだけを汲み上げた清廉にして純正なる真実の光輝……。光という光に抱かれて香しく煌めき、震える空気に舞う小汚い埃の欠片すら彼女の髪に触れれば白に染まり、天使が送り届けた栄光ある翼の和毛へと変わった。目が眩むような光だ。本物の光だ。リーンズィは涙さえ零しそうになった。
「り、リゼ? どうしたのよ、どうしたの? 確かにリリウムは綺麗かもしれないけど……」
何かがおかしい、と人工脳髄がノイズを吐き出している。
何か未知なる現象が肉体に襲いかかっている。その暴力的な愛欲を、リーンズィは制御することが出来ない。
「ついに真なる再誕を迎えたのですね、ヴァローナ。あなたの新しい命を感じます。まさしく、まさしく、わたくしがあの日見た光です。あなたは本当の光の中で、楽園のしもべとして、もう一度生まれ変わったのですね……」
聖少女――スヴィトスラーフ聖歌隊の大主教が一人。
『清廉なる導き手』リリウムは微笑む。
「天使の器として、あなたは二度目の再誕を迎えたのです。ああ、ああ、ハレルヤハ、ハレルヤハ! この日が来たことを、聖父様に感謝しないと! お祭りをしましょう。歓喜の歌を歌いましょう。三日三晩今日という日を祝福致しましょう。天使様、わたくしの天使様。今でも『喜びの歌』はお好きですか? わたくし、あの歌の練習だけはずっとしてきたんですよ? いつかあなたと再会できたとき、お返しが出来るようにって……」
涙ぐんで微笑む顔貌には、非現実的な美貌が備わっている。スラヴ系の特徴を濃く残す顔貌はしかし、実際には如何なる民族の血を引いているのか不確かで、触れるだけで取り返しのつかない傷がついてしまいそうな白い面貌には、神秘的な怖気さえ覚えさせる。
リリウムはリーンズィの前で不死病患者たちから降り立った。
そうして倒れ伏せたままにリーンズィに顎を持ち上げ、舌を絡めて接吻した。
「えっ?! り、リゼ、どういうこと? どういう関係!?」
さしものレアもリリウムに手出しすることは出来ないようだ。傷ついた顔で、恋人が絶対支配者と愛欲を交す様を見守っていた。
「天使様、私の天使様。覚えておいではありませんか。あの遠く霞んだ昔日に、あなたさまはわたくしを救って下さったのです……」
リーンズィは息も出来ない。リリウムを名乗る大主教の距離感は異常だ。レアよりもさらに近い。恋人、それも将来を誓い合った二人にのみ許されるような位置で、至福の恍惚に導くような香りを振りまいている。何度も唇を啄み、熱く抱擁し、蠱惑的に微笑んでくる。
銀色の髪が鼻先を掠める度、リーンズィの生体脳は凄まじい量の快楽物質を放出した。
「わたくしは、ずっと天使様とお会いするために……よく世界を救ったと誉めて欲しくて……頑張ってきたのですよ……?」
細く柔らかな肉体がしなだれかかり、人目も憚らず、抱擁をして……。
『警告。大主教リリウムの人工脳髄を確認しました――シリアル番号、アルファⅡモナルキア・リーンズィと合致しています。異常事態です』
焦燥を滲ませるユイシスの報告も、リーンズィの耳には届かない。
ようやく理解し始めた。
リーンズィは、リリウムに恋をしていた。
紛い物では無い。
リリウムの聖句に操られた恋でもない。
それは、肉体の経験した恋だ。
リーンズィが肉体に表出させている身体反応では無い。
清廉なる導き手の使徒、ヴァローナ。
壊れてしまった彼女は、何もかも分からなくなった彼女は、それでも、今でも――。
リーンズィに操られる不死病筐体に成り果てた今でも。
どうしようもなく、大主教リリウムに恋をしている。
だからその情愛を止めることは誰にも出来ず。
リーンズィはリリウムの愛を浴びて、恍惚の忘我へと溶け込んでった。
その7はこれにて終了です。




