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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-12 祭礼のために その7(7-2) カタストロフ・ドリフト

 その世界では光さえ凍えた。

 炎陽の熱は簒奪された。目を開いて歩くことは否定された。絶対公正の神(オーケアノス)住まう最果ての海より、地の果てへ堕ちる嘆きの川(アケローン)に至るまで、悉く宵の淵に沈む。

 ただ一切が、氷結の黒である。


> エラー。視覚情報取得不能。原因を調査中。


 緊急事態と認識したのだろう、ユイシスは言語野に直接言葉を書き込んできた。

 カタストロフ・シフトで転移した直後に、自分の一寸先の景色すら見えなくなるというのは異常事態ではある。悪性変異体を追放するという名目上、転移後の世界は完璧な滅亡を迎えたものに限られている。黙示録の世界だ。人は黙示録を盲目で生き抜くことは出来ない。

 しかし、リーンズィ――大鴉(ヴァローナ)の名を授けられた少女の肉体を操るスチーム・ヘッドは、原因を一足飛びに理解している。


 ()()()()()のだ。それこそが答えだ。エマージェンシーモードで知覚のみを加速させているが故にリーンズィには、全身を貫く異常な怖気の正体が、生々しく理解出来る。

 華奢な骨格が軋み、筋肉が収縮し、全身から熱が消え失せ、胸骨に守られた心臓が悲鳴を上げている。定命の存在であれば余計な荷物(ペイロード)を減らすために臓器を水分に変換して体外へ排出していたことだろう。

 目の前にあるのは、暗闇だ。危機への本能を呼び覚ます原初の暗闇だ。音さえ凍り付く真実の暗闇だ。肉体を貫く原始的な恐怖感によって、それが逆に人間に知覚可能な現象であると分かる。

 肉体が怯えているなら、精神は冷静でいなければならない。大量に放出された脳内麻薬に思考を汚染されながらも幾つかの動作を確認する。エマージェンシーモードで加速するのは知覚だけだ。試せることはそう多くなかったが、それだけでも有力な傍証が得られた。

 リーンズィの赤い瞳は、何も見なかった。

 未来さえ視ることが可能なヴァローナの瞳が、全く機能していないのだ。

『視たいもの』を見せる瞳に何も映らないならば、そこには純粋に()()()()()()()()()と考える他ない。

 試行ログを読み取ったユイシスが即座に生命管制を実行し、暗順応を促進。視細胞においてロドプシンが合成・補填されたが、映像はやはり何も結ばれない。天も地も無い。一面の暗夜である。シフト直前から現在まで後方へ飛び跳ねた姿勢のままでいることに付随する重力加速の残滓が無ければ、自分がどこにいるかも見失いそうだった。

 少女は恐怖する。肉体が怯え竦む。枷を外せばここから逃げ出してしまうであろう衝動。恐怖する、ただ恐怖する。全身を苛むおぞましいほどの寒気。吐く息がそばから凍てついていくことに恐怖する。死んだ夜。屍衣の降りた夜の闇。この先には何も無い。ここで終わり、ここが終点。世界が終わってしまったという直観に少女の肉体は怯え狂う。

 リーンズィもまた、熱とともに全てが奪われたような気がしていた。斯くの如く太陽は天を見放し、光無き地に、生命(いのち)の芽吹くこと能わず。祈るべき神はおらず、堕ちるべき地獄は地に這い出して、まさしく暗闇の大口で世界を飲み込んだ。熱力学の法則が破れたのだ。氷獄の支配者が熱収支を負の方向に固定した。真空の宇宙にも等しい極限環境。命ある万物に不都合な宇宙。

 星の命脈尽きるまで、三千世界は清らかなる霜の棺を揺り籠にして眠る。

 長い長い一瞬が続く。浮遊感だけが少女/リーンズィの意識を繋ぎ止める。あるいは墜落、どこまでも堕ちていく感覚……


> 報告。体幹温度、生命維持限界に接近。深部体温は既に危険域です。熱生成不能。意識レベル維持のため電気ショックを開始。


 暗闇に閃光が迸る。電熱に反応した空気が弾けて渦を巻く。筋肉が収縮し、少女は背中を反らして息を吐く。舌先で唾液が凍る。リーンズィの瞳が、僅かながら光を捉え、星座が描かれるべき空、着地するべき大地の存在を確かめる。大丈夫、永久に堕ちていくなんてあり得ない。踏める地面はそこにある。

 それでも尚身は竦む。肉体にはもう言葉が無い。リーンズィが言い聞かせても、少女は逃げ出す準備以外には何も興味が無い。


> ユイシス、お願いがある。

> 要請の入力を。

> 手を繋いで欲しい。怖くて堪らない。私は怯えている。


 コンマゼロ1秒のタイムラグで、ガントレットに包まれた左手、その内側を、何者かが握り締めた。宵闇に洋灯の瞬くような安堵。確かに他の人間の体温を感じた。

 電流が迸った一刹那の光を使って、リーンズィはヴァローナの瞳に世界を取り込む。愛しい金色の髪の少女と同じ顔をした、見慣れた他人、仲の悪い双子の姉妹よりも遙かに深く繋がる統合支援AI、ユイシス。そのアバターが、普段の嘲弄するような顔つきとはまるで異なる、思慮深い眼差しで、自分を見守っているのを幻視する。リーンズィは朦朧とした知覚で、ああ、この人は私の姉なのだ、と思った。

 彼女に実体は無い。肉は無く、それは許されていない。魂も無い。自分と同じ、演算された偽物である。同じ機械の中に閉じ込められた紛い物の魂である。触れることは出来ない。本当に触れあうことは出来ない。手を握られているこの感触でさえ、ユイシスが生体脳を欺瞞しているに過ぎない。

 しかし肉体は、ヴァローナの名を持つ少女の肉体は、今や盲目の唖である。真贋を峻別しない、肉で作られた生存の機械である。脳内に紡がれた虚構の接触だとしても、手先にある人の手のぬくもりは本物だと、彼女は信じる。彼女が安らげばリーンズィも安らぐ。恐怖が薄れ、脳内麻薬の放出が弱まる。

 生体脳のノイズ量が減衰した。ユイシスが溜息を吐くジェスチャーで闇の中に消え、リーンズィは微笑みを返す。

 思考の精度はいくらか回復した。何が起きているのか? 転移してほんの数十ミリ秒だというのに消耗が著しい。アドレナリンが放出されているにも関わらず、全身に植物が寄生生物が根を張るような痛みが生じているのも奇妙だ。寒冷地には適応済のはずだが、この究極的な寒冷化は、どうやら不死病患者が獲得した耐性を易々と突破するようだ。


> 活動限界までどれぐらいある?

> 既に限界です。次のカタストロフ・シフト解除予測まで三秒。準備はよろしいですか?


「……ぃ……」


 ヘルメットの下で喘ぎ、少女の顔が苦しげに歪む。了解、の一言さえ返せない。生体脳は危機的状況を脱し、既に意識は明瞭だ。まだ十分に思考は生きている。しかし舌がこわばり、肺が痙攣して、押し潰され、呼吸自体が不可能だ。

 意識の消失を遠ざけても時間稼ぎにしかならない。この世界は明らかに生命の存在を許容していない。

 突撃聖詠服の如き薄布では、少女の肢体を守れない。脳髄、心臓、四肢、臓腑。ありとあらゆる部位から感覚が剥奪され、絶望をともがらにした無表情な痛みが、耐え難い苦痛が、全ての代償として、絶え間なく注ぎ込まれる。


> オーバードライブ、レディ。


 だがこの程度の損傷は些事だ。

 大丈夫だ、私は大丈夫、とリーンズィは言い聞かせる……。

 大丈夫、何があっても大丈夫だと……信じていない真実を言い聞かせる。

 信じるしかない。かつてミラーズはこう言った、何があっても大丈夫と。


 リーンズィは真実を信じていない。ただミラーズを信じる。胸の奥に熱感が生じる。ケットシーが勝利の未来を信じるように、リーンズィとユイシスは己らの従属物に過ぎないミラーズ、愛してくれるミラーズを信じる。

 愛だけを頼りに信じ続ける。

 この事業における苦痛は無意味だ。乗り越えるべき小山の一つに過ぎない。

 やるべきことがその向こう側に横たわっている。


 滞空しているこの一瞬、基底世界で飛び跳ねてから転移先で着地するまでの一瞬。

 リーンズィはミラーズの声で言い聞かせる……可能だと信じなさい、それが出来ると信じなさい。

 言い聞かせる……ねぇ、リーンズィ。

 何があっても大丈夫。そうよね?


 加速された時間の中で、リーンズィは左腕のガントレットの意志決定釦を、力が失われ始めた右手でどうにか掴み、運命が扉を叩くが如く引いた。


> オーバードライブの起動信号を確認。起動します。


 破壊的抗戦機動に突入した肉体が強制的に賦活される。

 体組織を崩壊させる際に発生する過剰なエネルギーが熱となって放射され、外気温との差から白い衣の如き煙となる。回転数を上げた重外燃機関が排熱口から爆発的な蒸気を吐き出す。

 加速した時間の中で、着地するまでの無力な一瞬は、精神が息をつく猶予に変じる。バイタルチェック。まだ体内には酸素が残されている。外部から取り込めないとしても、数秒は活動に支障無い。


『死んでしまうところだった』機能復旧したリーンズィが呟く。『ユイシス、生命管制を最大レベルに』 


『報告。適応促進、とっくにやっています』その声がどこか愛おしい。危機的状況での呆れ声にはリラックス作用があるらしいとリーンズィは発見する。『それに、死んでも大した問題にはなりませんし、貴官はミラーズではないので苦しんでも当機は悲しくありません。何度でも苦しんで死んでください』


『うーん。ユーモアか?』


『半分はそうです。警告。計測可能な全ての地表に液体化した空気が滞留しています。着地と同時に酸素が発火し、連鎖的に爆発するものと予想されます』


 選択透過性を備えたバイザーの下で二連二対のレンズが構造を変化させ、集光機能を構築する。

 ガントレットのスタン装置を使用して、弱々しい雷光で暗闇を切り裂く。脚がおぼろげにしか見えない地面を砕き、氷結世界の底で待ち構えていた液状の空気に接触。準不朽素材のブーツの爪先から火花が生まれ、あるいはアスファルトを擦る摩擦熱が液体酸素に触れて、仮初めの命となって産声を上げ、ユイシスの予測通り猛烈な速度で燃焼が始まった。

 おそらくは予測通り連鎖的に爆発が起きる。

 周囲一帯が炎に包まれるまで、時間の問題だろう。

 そして火が途絶え、再びの氷の静寂が訪れるまでも、幾ばくもあるまい。


 空が見える。光の無い空が見える。アスファルトが見える。生命が廃滅されたアスファルトが見える。

 大鴉は炎照らす暗闇に突貫する。

 着地すると同時に次の一歩を送り出す。炎の足跡に追いつかれるよりも速く、肉体が完全に凍り付くよりも速く、リーンズィは体を前方へと送り出す。


 儚い炎が揺れる間にだけ、見える景色もあるだろう。

 リーンズィは一度だけ背後を振り返った。


 転移する以前と、そこにあるものは寸分も変わらなかった。霜柱と化した塔の群れ。あちらに見えるのは狼の大鎧、ベルリオーズか。カタナを手にした後ろ姿はケットシーだろうか。そしてリーンズィの跳躍に気付いて振り向いた姿勢のまま氷の柱になった、金色の髪をした天使……。


 何も変わらない。何一つ変わらない。永久に動かない。全てが終わりを迎えていた。全てが氷面の檻に囚われて、もはや何者にも触れること能わない。ケットシーも、ベルリオーズも、塔の群れも、愛しいミラーズでさえ、リーンズィを見送った姿勢のまま、吐息の一つまで封じられた氷像にすり替えられ、微動だにしない。

 リーンズィは駆けていく。ミラーズの小さな背中が、狂おしく愛らしい背中が炎を照り返して、小さくなっていく。


『ミラーズ……すまない。きっとこの世界で苦しい思いをさせたことだろう。私はこうなっていると分かっていたのにカタストロフ・シフトを実行したのだ』


『可能性世界の発生と貴官の行動には因果関係がありません。貴官の謝罪は無意味で、誠意がありません。もっと沢山ミラーズに謝罪することを推奨。誠意の無さを悔いて、それから死んでください』


『おかしい、私を擁護している発言のような気がするのに、さっきから因果関係が壊れている……さてはまたユーモアか?』


『肯定。半分はユーモアです』


『もう半分は何……』


 リーンズィは微妙な気持ちになったが、統合支援AIがまさか意志決定の優越を持つ自分に対して死ねなどと本気で思うはずが無い。

 これもユーモアだろう。きっとそうだ。



 カタストロフ・シフト実行以前。

 事態の解決について、アルファⅡモナルキアはジレンマに直面していた。

 ケットシーがベルリオーズを殺害するまで、ウンドワートへの接近は不可能。

 だがそれを待っていては、時間切れになり、そもそもウンドワートを救出出来ない。

 かといっってオーバードライブを使用することも出来ない。この期に及んで不滅者にアドバンテージを取らせるのは愚策だ。

 しかしオーバードライブを使用しなければ、おそらくベルリオーズ撃破までにウンドワートに近寄り、脱出を促すことは不可能。やはり作戦は失敗となる……。

 

 こうした問題を解消するためにユイシスと苦し紛れに導き出した策。

 それが『異世界を経由しての移動』だ。

 異世界というのはつまり≪時の欠片に触れた者≫に追放された先であり、完璧に滅んでおり、滞在するだけで劇的にクリティカルなリスクが高まる接触非推奨の領域のことだ。

 滅び去った世界では、今このとき、自分を害そうとしている者については、心配をする必要は無くなる。そうでなければ滅んでいるとは言えないからだ。

 世界全部がリーンズィを殺しに来るとしても、とりあえず目の前の敵は消えてなくなるはずだった。

 不滅者がいないのであれば、オーバードライブを利用しての移動もケットシーによるベルリオーズ殺害と平行しての移動も可能となる。理論上は、だが。


 氷獄の底で、賭けに等しい曖昧な予測は肯定されていた。

 このように凍結されては、さしもの不滅者も機能しなくなるようだった。こちらの演算に干渉して加速する兆候は無いし、加速しても無駄であろう。そのままオーバーフローするはずだ。

 そして、辛うじてリーンズィには短時間でも活動出来るだけの猶予は残されている。

 試算によればリーンズィは数秒で機能停止するばかりか、十秒も経たないうちに重外燃機関の熱力学的崩壊に巻き込まれて消滅するとのことだが、たった数秒でも時間は時間であり、時間は常に可能性を伴侶とする。その可能性は死の女神に似ている。

 リーンズィは賭けに勝ったのだ。少なくとも最初の一回は。


 今回この世界へ移動したのは全くの偶然では無い。

 この地に転移させられたこと自体は、実は蓋然性の高い事象だ。

 アルファⅡモナルキアが真なる危機的状況に晒されているならば、熱力学の法則が数秒でも破れる可能性がそこに発生する。事実、この世界の爆心地(グラウンド・ゼロ)と思しき場所には、何らかの理由で破壊されたらしい重外燃機関の残骸が存在した。

 それがために瞬間的な凍結が発生したのだろうと推測される。

 不可逆的な終焉を迎えてはいるが、言わば元の世界とは近似であり、おそらくは概念的に距離が近い。

≪時の欠片に触れた者≫が追放先として選ぶには都合が良い土地だ。

 ……彼らは超越存在ではあるが、追放に際してどこでもいいから適当に放り投げているとも思いがたいからだ。きっと特別な目的が無い限りは近い可能性世界を選んでいるはずだ。

 それに、今回はより強固な予徴が存在した。啓示があった。神からの密通、情報のリークと言って良い。ケットシーが氷面鏡桜花抄を発動させて際、≪時の欠片に触れた者≫は剣の雨に巻き込まれた不滅者たちを追放するとき、彼らを追放する時間枝をわざわざ公開して見せてくれた。

 凍結した世界、水没した世界、乾ききった世界。


> 「驚いたわ、驚いたわ。あなたいきなり真っ青に燃える火の玉になって、どこかへ消えてしまうんだもの。どれだけ心配したか、分かるかしら、分かるかしら。本当に跡形も無くなってしまうんだから」


 自分の最初のカタストロフ・シフトを目撃したレアせんぱいの報告である。追放される時は青い炎に包まれて消える。外側からはそれしか分からないらしい。≪時の欠片に触れた者≫の気配は感じるが姿は見えず、追放先について第三者が観測される予徴は全くないのだという。

 だというのに、今回リーンズィは、はっきりと異様な景色の出現を観測している。

≪時の欠片に触れた者≫がそのためにわざわざ出張ってきたと考えれば、一応の説明が付く。

 彼らは転移先を事前に伝えるためにリーンズィたちに黙示したのだ。

 

 ユイシスとリーンズィの立てた移動プランは、啓示された通りの世界に転移されるという可能性を採用している。危ない賭だったが、まろび出た先は目論んだとおりの凍結した地獄だ。


『しかし、こんなに真っ暗な世界だとは思わなかったが……』


 一歩を、さらに次の一歩に重ねる。運命によって凍結させられた不滅者たちは、やはり反応する様子は無い。今回の賭は勝ちだ。だがいつまで勝つことが出来る? どこまで破局を遠ざけられる。

 いくら光を集めたところで、暗夜の終末を迎えたこの世界で辿れるものは僅かだ。進むべき道、取るべき行動、待ち受けているものも何も分からない。

 しかし、少しの光があれば状態はヴィジブル(可視)になる。

 追いかけてくる爆炎が道筋を照らしてくれてる。

 少女の瞳がヘルメットの中で赤く輝き、刹那の先にあるべき自分自身を未来視する。

 移動に成功した自分自身を観測し、移動経路を確定する。

 目的地は、ある塔の不滅者の一基だ。棺のような外燃機関を背負った少女は、すぐ背後に迫っていた柱、今はもう凍り付いて永久に活動しえない氷面の柱へと、赤熱化したガントレットの指を食い込ませ、さらにその姿勢からオーバードライブによって強化された肩の力に任せて、体を上方へと跳ね上げる……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 リーンズィはその動作をなぞった。

 猛烈な加速度で暗闇の空へ肉体を打ち出す。

 ガントレットは無傷だ。いかなる破壊もこの装甲を崩せない。もちろん鎧が包む生身の肉は別で、左腕部の関節から背骨までもが破壊されてしまったが、オーバードライブ環境では少なくとも背骨は修復される。

 とにかく、垂直方向への移動はこれで叶った。第一の関門をクリアした形だ。

 凍て付いた世界は容赦なく重外燃機関から熱を奪おうとする。収支が崩れればこの世界にさらなる熱力学的崩壊が訪れる。どんな世界かは分からない。あまり変わらないのかも知れない。確実なのはリーンズィという人格は跡形なく世界の綻びに飲まれて消え去ると言うこと。

 ここがこの世界での活動限界。

 事前に設定していた通りのタイミングで変異因子が崩壊を始める。

 ヴァローナの肉体が猛烈な眩暈を愁訴する。

 リーンズィは肉体の直感に従う。


『オーバードライブを解除!』


 気付けば、不滅者たちが蠢く地獄の空中を舞っていた。

 誰にも干渉されていない一次現実だ。

 寒暖差で交感神経が一気に異常を来したが、事前に準備していたユイシスが迅速に適応を実行。

 神経物質の増産で迷走反応を除去。

 眼下ではケットシーが最初の一太刀をベルリオーズに浴びせている。狂気に満ちたディオニュシウスが漣の如く打ち寄せる塔を、拍子でも取るようなリズムでひたすら刻み続けている。ミラーズが歌ってるのも見える。凍て付いていない。ちゃんと生きて、呼吸して、退廃の秀美の昏い光輝で世界を照らしている。だからこんなにも温かい気持ちになる。

 愛しい人の姿にリーンズィは我知らず手を伸ばす。その繊細なまなざしと、天使の和毛の金色の髪の香りが恋しい。

 愛を叫ぶ余裕が無いのが残念だ。跳躍の道具にしていた塔が凍結の眠りから解放されて、変形し、背後から鋏の群れとなって自分自身に殺到しつつあることも、リーンズィの目には見えている。


「ユイシス! 次弾装填、起動!」


『カタストロフ・シフト、起動します』


 何者かの声がする。それはヘルメットの内側、敷き詰められた人格記録媒体のいずれかから響く声だろうか。


「 高く梁を掲げよ、汝ら剣を掲げよ。我ら神を知らぬ、恩寵を知らぬ…… 」


 体内で次の悪性変異因子が炸裂した。

 眼下に透き通る水鏡が波打つ。背後に≪時の欠片に触れた者≫が佇んでいるのが水鏡越しに見える。

 蒼い炎の影が揺らめくのは、無数の摩天楼が墓標の如く突き出す、あるいは封印の杭の如く突き刺さる、四方世界へと広がる途方も無い規模の水鏡だ。原初の海。終わりの海。公正世界の絶対者(オーケアノス)はきっと、この世界を一面の蒼で平定した。

 風の音は微睡む奏者の笛のよう。煌めく波紋が鼓笛隊のように水面(みなも)を渡り、遙か下方に垣間見える遺構、水没し、久遠の眠りについた都市の遺骸が身動ぎをする。

 超越存在は煙のように掻き消えて、青い燐光を残り香として残し、水面に映るその輝きも、風が渡って煌めく度に薄れていき、やがて跡形も無く消え去った。

 世界の支配者は、ヒトではない。水だ。

 二連二対のレンズが届く範囲において、液面が静かに波打つ光景ばかりが観測される。墓標のように、高層建築物が……リーンズィの見てきたどのクヌーズオーエよりも高い建築物が聳えているというのに、全てが冠水しているのだ。

 しかも水位は人類の生存圏を脅かす程に高い。

 通常の方法で文明社会を維持することは不可能だろうが、あらゆる禍根は地上に無い。

 安寧でありさえするならば、滅亡の風景も――。


「そう悪くは無いものだ」


『警告。水面まで概算20m。着水に失敗すれば死亡し、タイムロスとなるかと。感慨に耽っている余裕はないかと思われますが』


 リーンズィは我に返った。先ほどの凍結した世界で、自分はどれだけの勢いで自分自身を打ち上げたのだろう。あまりにも高度が凄まじい。

 一瞬前の自分は垂直方向に移動することにかかりきりで、程よい高さだとか力加減だとか、綿密な計算は一つもしていなかった。

 ダメージを反映させたユイシスのアバターが、肉塊となった左腕をアピールする。リーンズィのガントレットの内側も、挽肉同然に損壊していることになる。

 蒸気甲冑と肉体にこれほどの負荷を与えれば、30mも上へ移動することは可能かもしれないが、しかし信じられない高度だ。


「お……オーバードライブ起動! 巡航時最大倍率!」


『オーバードライブ、二十倍で起動しました。しかし着水までの体感時間を引き延ばしても無意味でしょうに。意志決定権の優越しましたが、何か考えが?』


 何も無かった。失策だった。

 空中を自在に飛び回るための機能はアルファⅡモナルキアには装備されていない。

 墜落までの恐怖感が増大するだけで、このオーバードライブに大した意味は無い。

 嘲る金色の乙女に向かって、リーンズィは「なら先に言ってほしい」と拗ねた顔をしたが、分かっていて言わなかったのは知っていた。彼女はそういう統合支援AIだ。

 オーバードライブを解除するのも勿体が無い。リーンズィは塔の暴威を忘れて、しばし静謐なる滅亡の風景を楽しんで、そのうち興味を失った。周辺状況を観察しようとして、期待していた『倒壊した高層建築物』をすぐ発見してしまったからだ。

 確かに移動経路に使えそうだが、それはそれとして、折れた尖塔の一部に見える。本来はさらに高い建造物だったと予想できる。

 全てが全て、天を擦る程高いわけではないにせよ、この世界の建築物には異様に高いものが揃っている。クヌーズオーエの画一的なモダニズム建築とは異なり、それらには苦肉の継ぎ接ぎが、切り裂かれた傷をホチキスで無理矢理繋ぎ止めた後のような加工の痕跡がそこかしこにある。

 信仰や文化ではなく、迫る危機に対し、場当たり的に生存圏を広げた証だ。

 この世界の人類は、おそらく時間を掛けて高水位に適応をしていったのだ。いずれにせよ、過去の話だ。この未知のクヌーズオーエに人間運命が活動している兆候は無い。摩天楼からは灯も、人の息遣いも、機械の作動音も、拾うことが出来ない。

 回避不能の大災害は、おそらく長い長い時間を掛けて、人類をこの地球から取り除いた。貴重なサンプルケースを人工脳髄に収録する。


 ユイシスに計算させていた落下予測位置を視界にポイントする。

 どうやら橋の真上や、すぐ傍に着陸することは出来ないらしい。

 着水までは姿勢を上手く取ることで調整するしかない。問題はその後だ。水平方向への移動を実現する必要がある。

 重外燃機関を背負ったまま、着衣で泳ぐのは、リーンズの使う少女の肉体(ヴァローナ)では無理だ。

 左腕のガントレットの意志決定釦を引き、左腕内部の身体組織を丸ごと≪青い薔薇≫の茨に変換した。

 鎧の付け根から溢れた蒼い茨が、肩口を飾り羽のように彩る。

 さらにケルビムウェポンを起動し、プラズマ場で水面を蒸発させて少しでも浮力を確保し、着水の衝撃を和らげる算段を立てる。

 もう左腕は使い物にならなくなるが、どのみち通常の再生では間に合わないのだ。

 悪性変異体を枯死・排出したら、電流生体を先行させて不死病の因子を編み上げ、何も無い状態から再建した方が速い。


『電磁加速投射装置、アンロック。いつでも撃てます』


 機関出力上昇。

 ケルビムウェポンの電磁場を形成する際の余剰電力を利用して、左腕部に搭載されている登攀用杭の電磁加速を開始。

 ≪青い薔薇≫の茨を操って杭を咥えさせる。

 射出した。射線上の空気が爆裂する。

 尖塔の橋に命中したのをユイシスが拡張視覚にポイント。

 これで余計な心配をする必要は無くなる。


『着水します。最適な姿勢を計算。衝撃に備えてください』


『よし、ケルビムウェポンを起動する』


 重外燃機関を一時閉鎖して、炉心と流体との接触を遮断。

 予定通り水面をプラズマ場で蒸発させて、衝撃を相殺し――


「うぐうっ!?」


 予想に反して、投げ捨てられた石のように水面にぶつかり、派手に飛沫を上げながらの着水となった。即死はしなかったが、蒸気甲冑で保護されていない部位へのダメージが大きい。ユイシスが脾臓など幾つかの臓器が破裂したと報告してきた。


『海水ではないのか?! ないの!? ねばねばする、粘度が高い……! 計算と違う!』


 水に塩気が無い。解析によると組成は無害だったが、ヘルメットと頸の隙間から、粘つく水が流入してきて、窒息しそうになる。茨を収縮させて肉体を橋へと巻き上げるが、水面の抵抗があまりにも高いためリーンズィの総身を酷く打ち付けてくる。

 大丈夫だ、何があっても大丈夫。ミラーズを信じる。ひとまずは、とリーンズィは窒息の恐怖を押し殺しながら思考する。

 実際、ここまでは、いちおう計画したとおりに進んでいる。

 今回のカタストロフ・シフトには共謀があったのだから。鍵はケットシーが一万五千倍を実行した時、便乗して過剰復元を起こした塔の不滅者たちが、この世界から追放される寸前、歪曲した世界の狭間に、見えた景色だ。その時見えた風景の断片を利用してプランは構築されている……。


 どこまでも、賭けだ。≪時の欠片に触れた者≫が本当に協力的な姿勢を持っているのかは、勿論分からない。リーンズィの思考様式からしてみても、彼らの行動には不確実な要素が多すぎる。ユイシスも普段ならこんな危険な選択肢は考慮しないだろう。

 しかし、二人はそれと最大限に利用するプランを構築した。


 カタストロフ・ドリフト。緊急避難にのみ使用することを想定しているカタストロフ・シフトとは異なり、動的に連続使用することで、絶対即死の現実世界を回避しながら滅亡した異世界の地形を『移動経路』として利用する技法。

 終焉世界で所定のルートを進んだ時点で、適宜アンカーを降ろした基底世界へと帰還し、さらにまた追放を利用して別世界へ飛ぶ。

 これを目標地点に到達するまで何度でも繰り返す……。

 言わば四次元を経由した不規則移動だ。


 茨の巻上機が停止し、またもや衝突という言葉が相応しい勢いで建築物に上陸。

 リーンズィは打ち上げられた水死体のように淵に乗り上げる。

 着水と水面移動でどれだけの損傷があったのか、もう確認するのも億劫だった。

 水と血反吐の混じった液体を全身から垂らしながら這い上がり、重外燃機関の炉心を開放。排熱開始。

 尖塔は、事前の観測よりも遙かに状態が悪い。

 鉄筋のはみ出す建築物が何故水上に浮かんでいるのかは不明だ。

 何であれ、後は崩れていくだけの惨めな桟橋、人類文化の抵抗の痕跡を踏みつけにして、最高倍率のオーバードライブに突入。

 両足の筋肉を断絶させては編み直し、駆け抜ける。

 基底現実ではどれぐらい時間が経っただろう。

 ケットシーがベルリオーズを殺すのに間に合うだろうか。

 考えても無駄なことだけが脳裏を過ぎる。

 わざわざ倒壊した高層建築物の幻影まで見せたのは、いざとなればこれを橋として使え、という予告であったのだ、と事後的に理解が進んだ。


 ≪時の欠片に触れた者≫に何の利益があるのか分からなかったが、いやに好意的だ。

 裏の裏まで見通す力はヴァローナの瞳には備わらない。不審極まりなく、何か良からぬ影響が世界にあるのではないかと怖くなるが、今は精々利用する他ない。

 走っている間にも、人間にとって丁度良い涼やかな風が突撃聖詠服の内側を冷やしていく。

 オーバードライブは致命の高速移動だが、これぐらい快適な環境であれば発熱と冷却のバランスが取れるらしい。

 ふと気配を感じ、ちらり、と視界を向けると、洋上に≪時の欠片に触れた者≫の下位個体の影が見えた。

 違和感がある。

 彼はこちらを視ていない。何を見ている?

 そちらの方向にレンズを合わせると、何か水平線の彼方に巨大な船、あるいはそれに類する人工物と推定される質量体が見えた。

 あまりにも巨大で、霞がかっている。

 拡大倍率を上げても、具体的に何なのか理解が及ばない。

 洋上施設? この世界にはまだ生存者がいるのだろうか?

 あるいは都市焼却機フリアエのような全自動戦争装置の端末か。

 基底世界の海洋は、現在は閉鎖されている。超大型の悪性変異体が息を潜める絶対不可侵領域だ。

 この世界にはそういった存在がいないのだろうか。 


 ≪時の欠片に触れた者≫の炎上する背中が虚空へ一歩踏み出し、そして視ていた方角へと姿を消した。

 可能性に過ぎないが、≪時の欠片に触れた者≫の主目的は、リーンズィを移動させることでは無く、それに乗じてあちらの施設に接触することなのかもしれない。

 規定の移動量に到達。

 オーバードライブを解除し、再生を放棄された脚が脱力するのに任せて転がり、肩で受け身を取る。

 カタストロフ・シフトが終わる寸前の、体を焦がす蒼い炎の冷たい感触に目を閉じる。


 金色の髪をした天使を想像する。

 基点たるエージェント・ミラーズのいる現実世界へ帰還すると念じる。

 訪れたのは単なる眩暈ではない。急激な落下、上下の見当識の消失。世界から投げ出されたという単純な恐怖。リーンズィはくるくると回りながら視界を確かめる。

 まさしく直上、ウンドワートの上空だ。

 水位が異常上昇した世界で水平移動したため、現実世界では未だ相当の高度がある。


 すぐ下では、ケットシーはプリーツスカートを花弁のように広げながら、宣言してみせたとおり、ベルリオーズに果敢に立ち向かっている。世界を確定する力と理解を一足飛びする殺人剣の才能が、見上げるほどの巨体を誇る狼の大鎧と、臆することなき打ち合いを成立させている。心なしかベルリオーズのサイズが小さくなっているように思えた。

 体積の差は歴然だが、技量差はそれを覆す程に大きい。大上段からの一撃を受け流し、複雑に関節を組み替えた脚甲の刃をブーツで蹴って姿勢を反転。返す刃が死角から迫っていたベルリオーズの蛇腹の鞭の如き巨腕を半ばの関節で切断。不朽結晶製のローファで腕を駆け上がり、前転し宙を返り、おそらくカメラの向こう側にショーツをチラリと見せながら、極めて効率的な動作で刃の徹る部位を斬り飛ばす。

 瞬きする間もない速度だ。

 オーバードライブ無しでこれほどの運動が可能なのは驚異的だった。

 神がかりの剣術は伊達では無い。じき最後の一殺を成し遂げられるだろう。

 と、塔の不滅者の群れが槍のような器官を生成して、一斉にリーンズィへリリース。

 直後にディオニュシウスの大群が塔を切り捨てたが、防衛機構から発射された物体には、あいにくと反応してくれない。ミラーズ以外は割と真剣にどうでもいいらしい。

 巻き上げる暴風に乗って、落下するリーンズィに対し、迎撃の串刺し槍が殺到する。突撃聖詠服と比較しても結晶純度は低いが、生体を貫かれるのは不味い気がした。

 あるいは、ウンドワートが生体を菌糸に包まれて無力化されたのと同じ結末になるかも知れない。


『準備はよろしいですか?』


「カタストロフ・シフト、起動……」


 何者かの声がする。それはヘルメットの内側、敷き詰められた人格記録媒体のいずれかから響く声だろうか。


「 涙涸れ、血は渇き、無関心な太陽だけが我々を見下ろす。嘆きの旅はこの壁で終わる 」


 叩き付けられる先は、塔やベルリオーズたちが待ち受ける死地では無い。

 視界が光芒に眩む。

 雲一つ無い剥き出しの心臓のような赫赫たる中天の、狂い果てて肥大化した太陽を仰ぎ見る。

 そこは乾ききった流砂が地平線までをも埋め尽くす終点。

 叡智を守る者が去った時代、殺戮の主人が太陽が瞬きをする間に作り上げた不変の迷宮、瓦礫と黄衣の砂が風に震えるばかりの終点の砂漠、嘆きも祈りも絶え果てた沈黙の太陽。

 アルファⅡモナルキアは宇宙空間に投げ出された飛行士さながら、真っ逆さまに回転しながら、蒼と黄の水平線を眺め、そのまま流砂の大地へ墜落した。


「ぎいっ! ぅ、あっ……ッ!」


 砂塵は瀑布となって弾け、リーンズィから死に至る衝撃を取り去った。

 木っ端微塵になるほどの最終的な衝撃が、即死しかねないダメージへと和らいだだけだが。

 ヘルメットが無ければ生体脳も頭蓋ごと砕け散り四散していたところだった。

 肺から空気が押し出されて破裂。

 悲鳴を上げることも自由にならない。脊椎が砕けたのは、瞬間的に肉体の自由が利かなくなったためすぐに分かった。

 エージェント・アルファⅡだった時代にも墜落の経験はあるが、今回の損傷はそれよりも重い。

 臓器が幾つ破損したか、確認する必要は無い。というのも、蒸気甲冑を纏う左腕部以外が折れ砕けて千切れ、突撃聖詠服から飛んでいくのが、停滞した時間の中ではっきりと見えたからで、もううんざりするほどの損傷であることは分かっていたからだ。

 飛び散った部品は筋組織や神経系の変異した触手が絡め取り、繋ぎ合わせ即座に修復したが、全身の損傷が激しすぎる。細部に関して瞬間的な治癒を行うにはリソースが足りない。

 予定通り、悪性変異した部位を投棄し、生体電流を先行させて左腕の再建には成功したが、他の部位にその手法は使えない。使いたいが使えないのだ。


『あるものをどうやって新造するのですか? 頭が手遅れですね』


 臓器は活動に必要な分だけ残れば良いが、手足については、完全な接合には時間が掛かるだろう。冷や汗を流し、吐血を続けながら、ヘルメットの内側で冷静に思考を巡らせようとするのだが、ノイズが強すぎて全く形にならない。

 ヴァローナの肉体は想像を絶するほどの苦痛に、あらん限りの逃走反応を示している。


「か、かはっ……ごぼ……うあ゛っ、はあ、はあああ……あ、はぁ……!」


 リーンズィとしてもこれほどの苦痛は味わったことが無い。ライトブラウンの髪の少女はヘルメットの下で目を回し、喘ぐように息をして、哀願するように涙を流していた。サイコサージカルアジャストが機能していない以上、苦痛は鋭利な刃となって神経系を蹂躙し尽す。

 廃教会でヘカントンケイルで生体解剖さながらの回復手術を受けたときと比肩する苦しみだ。いや、大丈夫だ、とリーンズィは言い聞かせる。全裸に剥かれていないし、内臓を掻き出す様を見せつけられているわけでもない。こんなのは全然なんてことない。

 苦しくて堪らない。窒息感を生むばかりのヘルメット型蒸気甲冑が恨めしい。だが手足をねじ曲げたまま寝そべっていられる猶予は無い。

 この世界での活動限界が訪れるまで、オーバードライブを利用して肉体の再生を促進させておけばどうにかなる。

 そのはずだ。


「も、目標は……達し、た……ッ」


 ひとまず、ベルリオーズやヴェストヴェストを回避する。

 この目標は達成出来たのだ。全身が砕ける時の苦痛も、ベルリオーズにヴァローナの肉体を細切れにされるよりは、遙かに軽いと言える。


『目標地点へ到達。カタストロフ・シフト、解除されます』


 眩暈を感じたのも束の間、リーンズィは己が基底とする現実世界に帰還していた。

 計算通りの到着だった。

 機能停止したままのウンドワートの大鎧が遮蔽物になった。ケットシーにはどこからかのタイミングで気取られていたようだが、少なくともベルリオーズは、リーンズィの落着を認識することも無いままだ。

 二人はウンドワート、この状況で最も強固な城壁の向こう側で、息も吐かせぬ攻防を繰り広げている。

 損壊した身体を修復するのにユイシスはかかりきりだが、憎まれ口の一つも叩かず、音紋を解析したデータを拡張視覚内に共有してくれている。

 戦闘は決定的にケットシーの優勢だ。

 負ける可能性が無い。決着まで幾ばくもあるまい。


『だ、誰か……』白ウサギの鎧から声が響いた。『誰かそこにいるのか?』


『ウンドワート、アルファⅡウンドワート……無事か?』肺腑の損傷のせいで発声が上手く出来ない。リーンズィは短距離通信で狼の大鎧に呼びかけた。『アルファⅡモナルキアが助けにきてあげたぞ』


『……り。ぜ……。アルファⅡモナルキア・リーンズィか……よく見えぬ』


 白銀の大兎の嗄れた声は、どこか拗ねたような響きを伴う。損傷は重度というわけではなさそうだが、重外燃機関が動作不良を起こしているらしい。ヴェストヴェストの、植物の根の如き浸食組織に肉体部分を汚染されたダメージが深刻という線もあろうか。


『そうだ、私だ。無事そうで善かった。私は、君のすぐ後ろ側にいる。ベルリオーズはもうすぐケットシー……<首斬り兎>が倒すだろう。もう何も怖いことはない。脱出の準備を。鎧を脱いで、外に出るんだ』


『厭じゃ!!』


 思わぬ拒絶が来たのでリーンズィは驚いてしまった。


『何故? 助かりたくないのか?』


『鎧は脱がん! こんなところで脱いでたまるか! 脱ぐくらいならここで終わっても構わん!』


『私は君に助かって欲しいけど……』


『馬鹿げたことを、馬鹿げたことを。何をしに現れたのじゃオヌシは! ワシは一人軍団、クヌーズオーエ解放軍最大戦力、アルファ型で最強の機体じゃ。これしきのことでは破壊されん……』


『だとしても見捨てておけない。私はレアせんぱいの自慢の後輩になりたいのだから』


『……』ウンドワートは戸惑ったように沈黙した。『その……レアとか言うやつのことは知らんが……ぜんぜん、知らんが。そやつとワシを助けることに何の関係がある』


『大いに関係がある。レアせんぱいと、ピョンピョン卿が、旧知らしいことは知っている』


『ピョンピョン卿と言うでない、ブランドイメージが堕ちる!』


『はいはい。そういうのはピョンピョン出来るようになってから受け付ける』


 手も足も出ないとなればウンドワートも可愛いものだ。

 手も足も動かせないのはリーンズィも同じだったが。


『私は君も知っているレアせんぱいが、大好きなんだ。そう、これはきっと、大好きという感情なのだと思う。ピョンピョン卿が辛い目にあえば、私の大好きなレアせんぱいも、きっと悲しむ。そんな未来は選びたくない』


『馬鹿め、馬鹿め。そんなくだらない、そんなくだらないことで、ここまで来たのか。ここは不死の身と言えど、確実な死地じゃ。オヌシは自分自身をこそ大切にするべきだった……』


『そうなのかもしれない。だけど私は、レアせんぱいのいる場所に笑顔で還りたいのだ。あの小さくて愛しくて、意地っ張りで気高くて、それからとても可愛い私のせんぱいに、曇りの無い心で……キスがしたい。そのためには君を見捨ててはいけないんだ』


『……』


『レアせんぱいには、いっぱい誉めてもらいたい』赤目白髪の少女の微笑を思い起こすだけで、肉体の苦痛がしばし和らぐ。『それならば、レアせんぱいの友達を見捨てるなんてことは、やっぱり出来ない。正直、私は君のことは余り好きでは無いのだが……ワガママでここまで進んできたのだな。だからウンドワート。自分のせいでこんなことになった、などとは、思わないことだ』


『思うわけがあるまい。……愚かなことを、愚かなことを。後悔するぞ。だいたい、誉めてもらうだの何だのと言っても、レアなど所詮はオヌシのモノではないのだ。あやつがワシの端女だと知って同じことが思えるか?』


 やはりウンドワートとレアせんぱいは親密な関係なのだな、とリーンズィは平坦な心で思った。


『はっきりと言っておく。もしも君がレアせんぱいのまた別の恋人なのだとしても、私は今日のこの選択を、ずっと後悔しない。私は君が、実は結構苦手だが……串刺しにして晒し者にするとか言われたし……』


『あれは、あれはその……ワシも言い過ぎたところが……あったりなかったりする』


『何故素直に謝らないのだ……。ともかく、君が皆に敬愛されているのは本当だし、レアせんぱいも、きっと無理矢理君に言うことを聞かされたりしているわけでは、ないのだろう』


『どうだかのう……お互い、呪われた運命で繋がれておる』 


『それに、皆のために、君がここでベルリオーズを食い止めていたのも本当だ。君は立派な機体だ、アルファⅡウンドワート。君こそもっと自分を大事にするべきだった』


『ワシの辞書に逃走という文字はないのじゃよ』


『ならば、尚のことこんなところで終わって良いはずがない。帰ろう、アルファⅡウンドワート。きっと別の世界で作られた私。私の知らない、私の姉妹。一緒に帰ろう。私たちの家に帰ろう』


『まったくまったく、リリウムのようなことを言いよるわい……』


『鎧を脱げないのなら、再起動の手伝いは何か出来ないか? ユイシスならばシステム面の問題は解決する』


 ウンドワートは観念した様子で溜息を吐いた。


『いいや……強がりじゃよ、強がり。全部強がりなんじゃ。ご覧の通り、ワシはもう動けん。数秒ならどうにかなるが、重外燃機関をこうもやられては起動電力の確保も出来ん……。この重たい鎧は不死病筐体だけでは長時間動かせんのでな、ガラクタ同然じゃ。一緒に帰ると言っても、それは仕方の無いことなんじゃ、リーンズィ。意地を張って引き際を見誤ったワシのミスじゃ』


『いや、君は本当に良くやった』


『ふん……リーンズィ、オヌシを巻き込むのは余りにも忍びない。だからオヌシらだけでも、潔く諦めて先に帰投せい。ヴェストヴェストのやつの崩壊に巻き込まれて、ワシは狂い果てるかもしれんが……それも結末、望まれた結末じゃよ。鎧を脱ぎ捨てて中身を衆目に晒すぐらいならばそちらの方が良い……ワシの正体だけは誰にも知られたないんじゃ。それは死ぬよりも怖いんじゃよ……』


 告解するような調子で訥々と言葉を並べるウンドワートに、リーンズィは苦笑の感情を覚えた。

 ヘルメットの下で微笑み、辛うじて動くようになった体を起こし、手足でもたれかかり、「鎧を開けて欲しい」と囁く。


『なんじゃと?』


『君丸ごとは無理だが、君の不死病筐体だけなら運び出せるはず。ヴェストヴェストの領域内には安全地帯があるんだ。我々は既にそこを見つけている』


『だとしても、音を聞いている限りだと、オヌシに運び出す余力は無さそうじゃが』


『ならばウンドワートが私を運んでくれれば良い』


『話を聞いておるか? ワシの蒸気甲冑は今は動かせんと……』


『?』リーンズィはヘルメットの中で笑った。『蒸気甲冑なんて、ただの道具ではないか』


『大業物の表道具じゃぞ!?』


『しかし道具だ。遣い手が大事だ、とケットシーも言うだろう。きっとウンドワートは、生身でもそれらしく強いのだろう? 声からするとお爺さんなのかもしれないが……簡易な人工脳髄でも、幾らか強化をしてやれば、現在の私の装備でも引き摺って奔るぐらいは出来るはずだ』


『たたたた確かにワシはこんな鎧無しでも強いが? めちゃつよ……最強……じゃが?』ウンドワートは露骨に動揺した。『しかしワシに、生身でオヌシをどうにかせよと言うのか』


『そこまで難しい話ではないだろう、そんなに私を助けたくないし、助かりたくもない? そう……私もたぶん、もう駄目なんだ。君の手が無ければ助からない。助けてほしい、ウンドワート。同じアルファ型のよしみだ』


『しかし……』


『姉妹機のようなものだし、今日から私は君の妹ということにしてくれていい。ちゃんと尊敬するようにする。言うことも聞く』


『アルファⅡモナルキアよいちおう忠告するけど忠告をしてやるが忠告これはわたワシ個人の見解ではあるがあんまりそうやって好き放題に姉とか妹とかを増やしてるとロクなことにならな……ならんぞ』


 ウンドワートは急に早口になった。

 リーンズィは些か傷ついた。


『そんなに助けたくないのか……? ないの?』


『そ、そうは言っておらんが……』


『では何故そこまで抵抗する。ヴェストヴェストの浸食攻撃のダメージがまだ抜けていないとか?』


『そういうわけでも……ない……そうか、ここに留まっておったら爆発が起きる前にまたあれをされる可能性がある……のじゃな……それも困るな……』


 大兎の蒸気甲冑は、動けないなりに真剣に頭を悩ませているらしい。

 アルファⅡモナルキアに準ずる結晶純度ならば、ヴェストヴェストの爆発に百度巻き込まれても傷一つ付かないだろう。合理的に考えれば使い慣れた生体CPUを一時リリースして、悪性変異や再生不良のリスクを減らすべきである。

 どうであれパペットなど一度捨てて、後で再起動させれば良いのだ。

 しかしそうしたくは無いらしい。

 リーンズィは四肢がまだ思うように動かないことを確認しつつ、ウンドワートについて少しだけ理解が出来た気がした。


『鎧を捨てるのが怖いのだな』


『怖いわけが無かろう!』大兎は吠えた。『怖いわけが……!』


『怖い物なしのパペットが無ければ、怖くなる。それはあるだろう。単純なロジックだ』


『貴様に何が分かる! 迷惑を掛けたと思って大人しく話を聞いてのれば調子にのりおって……! ワシは絶対無敵、地上最強のスチーム・ヘッドである! 怖い物などあるわけがない!』


『いいや、分かる。自分の拠り所はミラーズやレアせんぱいにしか無いが、君にはきっと、蒸気甲冑しかないのだろう。自分自身ではなく、鎧の戦闘能力を信じている。それで、この兎の大鎧を捨て置いて、生身でどうにかすると言うのが、怖いのだ』


『何が……』ウンドワートは声を震わせていた。『何が分かるというのだ……貴様……オヌシのようなスチーム・ヘッド風情が……稼動時間だって、ワシよりうんと短いくせに……』


『そうだとも、君はお兄さんだ。私よりもずっと長生きで、賢く強いスチーム・ヘッドであるはずだ。だから自信を持ってほしい、ウンドワート。君は誰よりも尊敬を集めている。大型蒸気甲冑が無くても、君は最強のスチーム・ヘッドだろう。誰もそれを疑わない』


『……』


 ウンドワートは押し黙った。

 剣戟の音は遠い。

 決着の時は近い。

 猶予は無い。

 だが、リーンズィは応答を待った。僅か一秒にも満たないその沈黙の信号を、リーンズィは真摯に受取った。ウンドワートは何か恐るべき問題事項について最終的な解決を与えようとしていた。


『……アルファⅡモナルキア。打ち明けておくべきじゃろう。いいか、ワシはの……』


 と、それを遮るようにして金色の髪をした少女の化身が告げる。


『警告。ベルリオーズ封殺、最終フェイズ。脱出準備を至急進行させてください』


「もう時間が無いようだ」


 リーンズィは肉声で言葉を発し、意識を切り替える。

 話の続きは後で聞けば良い。

 今はその『後』を作るのが大事だ。

 ウンドワートともやはり分かりあえないわけではない、という感触があった。

 それだけで十分。後のことだけを考えよう。

 ……結局、再生が終わったのは呼吸器だけだ。

 ウンドワートの傍に寄っても、結局、何も出来なかった。これでは大負けだ。

 最初から賭などでは無かったのだ、とリーンズィは自嘲する。

 連続カタストロフ・シフトによるダメージは然程のものではないだろうと試算していたが、嘘だった。自分自身に信じさせるために意図的に想定を甘くしていたのだ。ユイシスと共謀して、自分自身を騙した。より良い未来を掴む道があると信じた……。


 この再生速度だと、どのような処置をしても立って走れるようになるまで三〇〇秒はかかる。三〇〇秒は長い。命運を分ける程に長い。

 縋れる神は天に無く、呼べる悪魔は地におらず、傍らには倒れ伏せた大きな兎だけが……。

 あるいは、兎は幸運を運ぶだろうか。


「ウンドワート、どうか助けてほしい」


 これでは立場が逆だが、とリーンズィは意気消沈する。


「ケットシーがベルリオーズを撃破したら、やはり武装を解除して、私を抱えて走ってくれないだろうか。それが無理ならば……せめて君だけでも退避を……」


『わ……ワシだけ逃げろと? 馬鹿な。有り得ん。それではオヌシの肉体が失われるじゃろう。肉片だけでも残れば良いが、ヴェストヴェストが崩壊するときの爆発は核兵器に匹敵する。肉体は塵になって、永久に発見出来んかもしれん。アルファⅡモナルキアよ、それは最善の選択ではあるまいて。そもそもリーンズィの人格は他の肉体にも対応出来るほど強固なものかの?』


「分からない……。私の任務の心配をしてくれているのだな、ウンドワート。大丈夫だ、もし再現できなくても、アルファⅡモナルキアはミラーズが引き継いでくれるだろう……」


 大兎の蒸気甲冑は溜息を吐いた。

 どこか聞き覚えのある呼吸だった。


『……やるだけやってみるがの。くれぐれも、失望をしてくれるなよ?』



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