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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-12 祭礼のために その7(7-1) 氷面鏡桜花抄

 その決定的な領域の内部では、過酷という言葉さえ現実に遠く及ばない。

 光の飲むぬばたまの塔は陽炎のように揺らめきながら波の如く満ち引きを繰り返し、最終段階に至って様々な凶器へと変形するようになった。枯死と繁茂を繰り返す多年草の如く開いては朽ち果て、剥落して散る花びらが、逆巻く風に舞い踊るや否や不朽結晶の刃となり、盲目の剣士の凶刃めいて滅多打ちに吹き荒ぶ。その塔の狭間を飛び跳ねて回りながら兎の騎士は吠え猛る。


『悪あがきをしおって……! 斯くの如き児戯でウンドワートを止められるか! 戦士ですらない出来損ないのスチーム・ヘッド風情が、不滅者になったぐらいで調子に乗るでないわ!』


 幾千の攻撃を受けてウンドワートは無傷だ。勇躍する大兎の白銀の装甲は、世界で最も永久に近い物質で祝福されている。超高純度不朽結晶だけで構築された蒸気甲冑は、防御力だけで言うならば要塞どころか軍事大国という概念にも引けを取らない。

 事実として、瞬間瞬間に致命の気配が訪れるこの死地にあって、未だ一筋の傷さえ負ってはいないのだ。

 真に警戒すべきは刃の嵐に紛れて飛びかる、狂える人狼の大鎧だ。


『殺すなっ! 殺すなっ! 殺すなあああ! 死ねえええええええええ!』


『うるさいやかましい黙れ死ねっ! いいかげん、死ね! ベルリオーズ! 死ねっ!』


 怒鳴り返しながらもウンドワートはデイドリーム・ハントを起動。

 後手に回ってしまったことを反省する。

 百にも達するセンサーで外界の状況を無人格化した補助人工脳髄に取り込み、完全架構代替世界を作成。ウンドワートの意識の上ではシームレスに世界が静止する。オーバードライブではない純粋な機械達の時間だ。

 ベルリオーズの特異性は、人狼に似た骨格から、一定の範囲内で変幻自在の変形が可能だという点にある。人狼型と認識した時点で、陥穽に陥ったに等しい。

 確かに、オリジナルから数段階の劣化が免れない言詞甲冑(テスタメント)では、結晶純度も零落する。狼が百年引っ掻いたところで、ウンドワートの蒸気甲冑は突破不能だろう。

 ウンドワートの意識が明瞭である限り、ケルビムウェポンの発動は許さないし、敵では無いと言っても良い。

 だがベルリオーズは一つ、奥の手を隠している。


 常識的に考えれば、ベルリオーズのような純戦闘用大型蒸気甲冑、全身の装甲が刃で構築された攻撃性の極みのような機体が『不殺』の理念を掲げるのはナンセンスだ。

 手足を落して殺さずの教えを説く等、コメディの領域である。

 だがウンドワートは全く相手を損壊することなく無力化する手段があったのを知っている。

 実際にその行使を見たこともあるのだ。


 デイドリーム・ハントで予測した未来によれば、ベルリオーズの次の攻撃は手足を自切・接合させて形成する刃の鞭としての行動を選ぶ。隙だらけの大ぶり。頭部から胴体部までを爪で一裂きすれば軽く一回は殺せる。

 恐れている技は、組み付かれない限り発動しない。

 だいじょうぶだ、とウンドワートは自分だけの仮想世界で息を吐く。


『生前のあやつでさえ難しかった技だ。あまりのおぞましさ故に封印もしていた。妄執を存在核に、理念だけで駆動する不滅者に成り果てて、あのような難解な肉体操作が出来るとも思えないが……』


 実績として過去に何度も不滅者ベルリオーズをオーバーフローに追い込んだ経験がある。恐れている機能が使用されたことはない。この状況下、普段なら接近を避ける鬱陶しい塔の不滅者、ヴェストヴェストの群体に囲まれている環境下でも、苦しい戦いだが、ほぼほぼ殺しきる目処は付いている。

 唯一怖いのが、何らかのスイッチが入ったベルリオーズが、オーバーフローを起こすまで延々と奥の手の成立を試行してくるかもしれない、ということだ。

 お互い大型蒸気甲冑(スチーム・パペット)で武装している身だが、この拡張された身体でさえ、体格差では大男と小娘ほどもある。

 仮に組み付かれて機関出力最大で押さえつけられれば、脱出は困難だろう。

 そこからは蹂躙されるがままになるしかない。

 ベルリオーズがまだ正気だった頃、ウンドワートとしては、奥の手というのも、小技だという程度にしか認識していなかった。あるいは彼らしからぬ悪趣味な大道芸としか思っていなかった。

 そんなくだらない技の存在が、おそらく使用不能になっているであろう今の方が、余程恐ろしいのだから、ままならないものだ。


『……うん、うん、今回も一回は殺せる。このパターンだと復元の時にバックステップの動作を省略して距離を取ろうとするはずだから追撃を決められるわね。所詮は不滅者、パターン通りにしか動けないんだから……杞憂よね、杞憂。さてさて、雑魚は殺されるのが仕事、その調子で立派に殺されてよね』


 などと思わず素の声で呟き、我に返る。


『いやいや、油断している場合では無いな。疲れてきているのかの。なりきっておらんと気分も落ち込んでくる……。さて、ベルリオーズは良しとして、ヴェストヴェストどもは、どうかの……』


 気後れしながら、演算の対象範囲を拡大。

 途端、電力消費量の増大と、爆発的な勢いで流れ込んでくる情報量に嘔吐感に襲われる。

 仮想空間に擬似人格を走らせているため現実に嘔吐することはないが、肌触りとしては、一度死ねば終わりという定命の肉体だった時には正常に機能していた『忌避感』の感情に近い。

 この場合は複雑で入り組んだ集合体への悪感情だ。


 等間隔で立ち並ぶ異形の不滅者の群体を、ウンドワートは一度もまともに相手にしてこなかった。

 規模が大きすぎるし、何より勝手に自滅する。最後に爆発するし迷惑ではあるが安全圏に出て放置していれば無害に等しいため、戦闘しても全くの無味だったからだ。

 ベルリオーズとヴェストヴェストが同時に現れる状況は以前にも経験しているが、その時は友軍部隊から脱出完了の報告を受け次第、不滅者を放置して自分も離脱していた。だからここまでの至近距離で、最終段階に突入したヴェストヴェストを観測するのは初めてだった。


『まさかヴェストヴェストにこんな機能があったとはのう……』


 完全架構代替世界で塔の一本に焦点を合わせ、解像度を最大化する。

 不朽結晶の平らな面だと思われていた、それは実際には有機的な構造物で、何か植物の萌芽のようなものがびっしりと埋め込まれている。

 塔の増殖を阻害するようにして暴れていると、これが成長して、防衛機構へ変貌するということを知ったのも、つい先ほどのことだ。

 環境閉鎖鎮静塔に閉じ込められたカースド・リザレクターのように、塔を変形させて触腕にしたり、刃に変えて落下させたりしてくる。架構代替世界での時計をほんの少し進めると、そんなものが幾千、幾万、存在していて、周囲のありとあらゆる塔で蠢いているのが分かる……。


『う、うわ……うわあ……うっわあ……』


 気持ち悪い。ウンドワートはおののいた。

 過酷な戦闘は大歓迎だ。活躍できる戦場にはいつも焦がれている。だが、こんな不愉快なものを目の当たりにする覚悟はしていなかった。

 シミュレーションだとしても人工脳髄に記録を残したくないぐらい厭だ。

 こんなことならばもっと外縁部で戦えば良かった、と一瞬だけ後悔に時間を割いた。


 今回はジャミングのせいで友軍部隊と通信が行えず、脱出支援のためには最大限の安全策を重ねる必要があった。しかもおそらく<猫の戒め>を発動させてしまったのはロングキャットグッドナイトの警告を無視した自分にも責任がある。

 だからベルリオーズとヴェストヴェストを釘付けにするために、まさしくヴェストヴェスト増殖の基点でベルリオーズと大立ち回りを演じることにしたのだ。

 それがために、ヴェストヴェストのこんな奇怪でキツい実態を知ってしまった。

 裏目である。


『駄目だ駄目だ、ウンドワートらしくないぞ! 最も過酷な戦場で勝利を収め続けるのがこのワシ、ウンドワートじゃ。そうではないお前に価値は無い……!』


 それに、と自分自身に釘を刺す。

 大事な後輩に誇れる自分になると決めたではないか!


『この仕事が終わったら、あの子は誉めてくれるかな……ウンドワートが誰かを知って、誇ってくれるようになっているかな……』


 それにしても皆は無事に脱出出来たのだろうか、と思いつつ、忌避の意識から、どうしても萌芽の群れに注目してしまう。

 殺意ある変形を繰り返すようになっても、結晶純度ではやはりウンドワートには劣ったままだ。物理的には無害なのだが、この有機の万華鏡のような殺戮変形機構が、デイドリーム・ハントの思わぬ障害となっている。

 処理が重すぎる。周囲の環境を完璧に取り込んで再現・未来予測しようとすると、これら数十万の取るに足らぬ萌芽がどのように展開するかの予測にまで、演算リソースが奪われてしまう。無人格化された人工脳髄群が勝手に電力を吸い上げてしまうのだ。

 結果として、ウンドワートの発電能力の収支は、常に際どい水準から抜け出せなくなってしまった。

 未来予測は可能だが、機械的オーバードライブの起動について、先行入力を実行するのが、難しくなっている。

 重外燃機関には半永久的な発電システムが組み込まれているため、バッテリーが枯渇して完全に動けなくなる事態だけは起こらないが、繊細なやりくりは、いかにもストレスだった。


『よし、これはあんまり細かく予測しないでよかろう。うん。精神的に良くないし……どれだけ疲れても……今夜もメンテナンスをしてもらえるとは限らんわけじゃからな。そうそう、リゼ後輩も今回の捕り物ではさすがに疲れているはず……』


 危うく意識が先日の夜の記憶、甘い時間を過ごした思い出を再生する方に向かいかけたが、それこそ戦闘中に考えることでは無い。

 無駄な電力を使ってしまったと猛省し、デイドリーム・ハントを解除する。


『殺すな! 殺すなああああああああっ!』


『貴様が死ねばこのクソッタレな踊りもしまいじゃあああああああああ!』


 裂帛の気合いでシミュレーションした通りに爪を振るう。

 腹を裂き、心臓部を突く。まずは一殺。デイドリーム・ハント仕様直後のため電力量に不安はあるが、追撃しないという手は無い。続けざまにステップを踏もうとして。

 ウンドワートは背中の重外燃機関から異音が轟くのを聞いた。


『な……?』


 視界内に冷却装置の機能停止、強制排出装置起動不可、発電用タービン不良などのエラーが次々に表示される。生命線である重外燃機関が停止しようとしている。

 最重要区画の保護のためパペットの四肢その他一切の動作がキャンセルされ、電力回路が全て遮断された。


『何が起きている!?』


 身動きが取れないまま全周囲カメラを確認して、それを見つけた。

 大鎧のすぐ背後から、極小の塔が突き出ている。

 否、それは根であった。

 不朽結晶で構築された根がアスファルトを割って飛び出し、細かな触手となって密かにウンドワートの重外燃機関に潜り込んでいる。

 全く意識していなかった。ヴェストヴェストのことなど取るに足らないと断じていた。

 想像して然るべきだったのに……。


 塔はただ聳えているのでは無い。

 これらは全て地下で繋がっているのだ、とウンドワートは理解した。

 ならば地面からの不意打ちがある可能性も考慮すべきだった。

 一手、見誤ったのだ。有機構造体は重外燃機関の冷却装置内部で膨脹して、溢れだした根……あるいは菌糸が装甲表面を伝い、さらなる内部への進入を試みている。


『こ、こんな、こんなことが……!?』


 ウンドワートが恐れていた事態。

 スチーム・パペットの浸食が、今まさに起ころうとしている。

 ベルリオーズは唐突に動きをとめたウンドワートを何度も殴り、押し倒し、のし掛かるようにして体を固定し、顎で頸を食い千切ろうとした。

 無論、ウンドワートが傷つくことはない。だが巨体に押し倒されるその状況にウンドワートは悲鳴を押し殺す。


「い、厭だ!」錯乱した人工脳髄から、正常な声は出力されない。思考を統合できない。二つの声でウンドワートは叫んだ。『やめろ! どけ、ベルリオーズ!』「こんなのは弱肉の格好だ! 厭だ、どいて! どいてよ! あたしから離れて!」『そこをどけええええ! ベルリオーズ! ワシを誰だと思っている』「こんなのやだぁ……!」


 攻撃は停止した。ウンドワートの要求に応えたわけではない。

 装甲表面を伝って、大兎のありとあらゆる部位から内部への進入を試みている菌糸の同胞を発見したからだ。


『どう……するのだったか……』


 十回も殺されれば猫に戻る半死の狼が、不意に人の声を漏らした。


『殺さずに……殺す方法……そうだ、内側を……』


「や、やめて……思い出さなくていい」/『くそ、ベルリオーズ! 殺してやるぞ!』身動きは取れない。


 菌糸が機体前面の乗り込みハッチを探り当てるのに時間はかからなかった。

 気密性は確保されているが、能動性を持つ極小の異物を排除できるほど完璧では無い。

 生暖かい繊維質が様々な部位から大鎧の内側にある不死病筐体に接触してくる。ウンドワートの肉体は声を押し殺す。接触面を突き破ろうとしてきたので、泣きそうになった。

 大丈夫、不死病患者の皮膚を貫くほどの力はない、と沸騰する生体脳で論理を紡ぐ。

 菌糸はすぐに進入ルートを変えた。……不朽結晶製の薄布で肉体は保護している。悪性変異体の菌糸ではやはり突破は出来ない。

 必死に鎧を動かそうとするがウンドワートは反応してくれない。

 ロックがかかっている。ウンドワートの重外燃機関は最悪の場合には超大規模破壊をもたらす危険な装備だ。下手に動かせば人的被害などという規模では済まない大破壊が起こるのだ。

 それ故に、重外燃機関を封じられれば、まず副次的な被害を防止するために、安全機構が作動して、全機能がロックされる。

 ウンドワートは悔しいほど正式なプロトコルで木偶の坊と化していた。

 菌糸の一群が、ついに衣服の隙間を探り当てた。侵入経路の確立までおそらくは短時間。


「ま、ずい……!」


 ウンドワートを仕留めるための唯一の方法。

 それはウンドワートの生体部分を非正規的な手段で機能停止することだ。

 そのためにはこのようにして、菌糸や微細な触手をパペットの内部へ忍び込ませるのが良い。

 ベルリオーズは己を構築する粘菌状の筋組織を進入させて、パペットの外側では無く内部のリアクターを破壊する技を持っていた。ウンドワートが恐れていたのはこれだ。

 まさかヴェストヴェストがこんな機械的な防衛機構としてこれを備えているとは。

 肉体に進入した菌糸がどうなるのかは分からない。異なる細胞を悪性変異体へ同化するのは難しいだろうから、いちばん有り得るのは体積を極端に膨脹させることだ。臓器や声帯脳を浸食したした菌糸が五十倍ほどの体積に膨れれば、それだけでウンドワートは苦痛とストレスで発狂し、人格記録媒体は不可逆的に変質するだろう。そうでなくとも生体脳が破裂すればウンドワートは機能停止する。


 何とかしなければ。何とかしなければ。何とかしなければ! フラッシュバックするのは、かつて受けた戦場で虐待の記憶。ろくな装備も与えられないまま前線部隊に送り込まれた地獄の日々。何の役にも立たず、弱者として罵倒を浴びせられ、パペット遣いどもに散々に嬲り者にされる。そんな思い出すだけで臓腑が煮え立つような屈辱の記憶だ。

 そんな理不尽をめちゃくちゃに潰すために与えられた力が、ウンドワートの鎧だ。

 トラウマが彼女に弱肉強食の論理を根付かせた。

 だからウンドワートはただ最強であることを、誰にも害されることのない絶対者を目指した。


 その鎧が今、世界で最も強固な棺となって彼女を閉じ込めている。

 少女は歯噛みする。身震いするからだを、必死に押さえ込む。

 首筋を菌糸が這い進んでくる……その感触に肌が粟立って赤らむ。


「こ、こんなっ……こんなところで、こんな……厭だ、厭だ、厭だ……きっ、気持ち……気持ち悪い、気持ち悪い! 気持ち悪いんだから! 嘘、嘘嘘嘘嘘嘘! やだ……やだよぉ、リーンズィ、リゼ、ねぇ、リーンズィ、リーンズィ! リーンズィ、会いたいよ……リーンズィ、リーンズィ、リゼ!」


 意味も無く、恋しい名前を呼んでしまう。

 だが、不思議と「助けて」という言葉だけは、口から出てこない。

 そうだとも、助けなど求めるものか。

 ウンドワートは自覚して、覚悟を決めた。

 自分はここで果てるのだ。

 おそらく自分の人格記録媒体は敗北の屈辱に耐えられるほど頑健で無い。

 肉体は再生するにせよ、すっかり発狂してしまうに違いない……。

 だから、貪られるばかりの弱肉ではなく、誇り高き戦士として、この不滅の生を全うする。

 ウンドワートは残り少ない自由になる電力で、周囲の情報を取り込もうとする。

 この地獄のような塔の群れ、食らいついてくる処刑台ベルリオーズがどのような暴威をもたらすか、後に続くモノに伝えるために。

 尊敬される最高戦力らしい、あの同族の少女に自慢が出来るような終わり方は……。

 最後まで、微々たることでも、抵抗すること以外には無い。


「だから……尊敬する先輩のまま、いなくなれるわよね、リゼ後輩?」


 ついに打ち明けられなかったなぁ、とウンドワートは嘆息する。

 菌糸の感触に、目を閉ざす。

 


『遅くなった。アルファⅡウンドワート。助けが必要か?』


 どこからか少女の声がする。

 拡声器越しにでも、塔が防衛機構を作動させる爆音に潰されても、はっきりと聞き取れる声。

 不思議と体に活力が戻る。

 浸食は未遂で止まっている。破壊された場所は未だ、無い。

 諦めかけていたウンドワートの脳裏に浮かんだのは、反骨の言葉だ。

 助けて、なんて言ってない!

 だって、助けなんて必要ないのが、アルファⅡウンドワートなのだから。

 言い返そうとして、しかし求めた声が、それを遮る。


『言わなくて良い。我々は助けに来たんだ。勝手に助けるだけだ』


 センサー類が奇妙な空間歪曲を捉える。

 どこからか出現した貌の無い騎士の群れ。調停防疫局の旗をマントに、何も無い頭部には蒼い炎が揺れている。現れては消え、消えては増える。この世界の常識を無視するような動きで騎士たちは荒れ狂い、取り囲む塔の群れを片端から切り捨て始めた。

 これは何というスチーム・ヘッドなのだろう? どこかで見たような気がする……。

 考えている間に、ウンドワートの電力が尽きる時が来た。

 最後に見たのは、金色の髪をした少女から折れたカタナを受取り、装甲された左腕で投擲する、潔癖そうな顔立ちをした、突撃聖詠服の少女。

 そのしなやかな体つきにも、清廉と陰鬱の混じる独特の声音にも、二連二対の無機質な眼光にも、ウンドワートには見覚えがある。


『アルファⅡモナルキア……リーンズィ……!』


 これほど偽りの魂が歓喜に打ち震えた瞬間は無い。

 鎧の補助システムが無ければ、老人の声ではなく、涙する少女の声が響いていたことだろう。


「ベルリオーズはまだ健在か。食い止めてくれたことこそが、奇跡か。よくやってくれた。君の献身に感謝する。大丈夫、我々が引き継ぐ、少し休んでいて欲しい。一緒に帰ろう、ウンドワート」


『ああ……ああ! くそっ、忠告しておいてやる、いいか、ベルリオーズはあともう少しで殺せる! みっともないところを見せたが、後はお願い……いや、くれぐれも頼むぞ!』


 ウンドワートは混濁した言葉遣いで忠告した。

 何も見えなくなった。

 何も聞こえなくなった。

 愛しい声はもう聞こえない。


 暗闇の中で、しかしウンドワートは安堵していた。もうきっと大丈夫だ。

 根拠も無く、心からそう思えた。

 あれほど怖かった浸食の菌糸も、今はもう停止して、体表で霧散しつつある。

 リーンズィが投擲した刃の軌跡。何を狙っていたのか、ウンドワートには分かる。

 あれは正確に根の突出点を切断するための攻撃だ。あれのせいで私が動きを封じられていると、一瞬で看破したのだろう。

 不滅者の体外組織も、言詞を断ち切られれば霧散してしまうので、正しい判断だ。


「リゼ後輩に格好悪いところ見せてしまったわね、レア」


 そんな自嘲すらも、今は喜びに満ちている。

 


『マオルエーゼルの部屋へのアクセスが遮断されました』


 ユイシスのアナウンスは淡々としたものだった。

 続けて『もう帰れないでのは?』などと嘲笑うような声音で重ねてくる。


「仕方が無い。想定の範囲内だ」カタナを投擲し終えたリーンズィは溜息を吐いた。「帰るときもう一度探せば良い」


「見つかるかしら? 駱駝が針穴を通るよりも難しいかもしれませんよ?」言葉とは裏腹に、ミラーズは何の心配もしていないような顔で微笑む。「でもまずはウンドワートさんよね」


「ああ。しかし……」


 考えていたよりも状況が悪い。

 アルファⅡウンドワートはここまで善戦していたようだが、とうとう何らかのトラップで機能を停止させられたらしい。咄嗟にミラーズの鞘から刃を抜き放ってヴァローナの瞳で見定めた『原因』を破壊したが、それでもウンドワートがすぐに復帰するということは無さそうだった。


「リズちゃん、上手。ヒナがやろうと思ったことを、ヒナより速くやるなんて」


「ヴァローナの瞳でケットシーがそれをやる未来が見えたから先に実行してみた。君の投擲フォームを真似したに過ぎない」


「未来……未来予知?!」黒髪の人形が目を輝かせる。「何か目が光ってたのは気のせいじゃ無いよね。まさか色々変な能力ある系……?」


「あのね、リーンズィ、時系列への干渉はあまり不要にやってはいけませんよ。それでヴァローナは少しずつおかしくなっていったのですから」


「そうなのか……そうなの? 反省をする」


 ここにはまだ<絵画守>の不滅者たちは訪れていないようだ。

 その点は僥倖だが、ヴェストヴェストたちが明らかに今までと異なる挙動を見せていることが気がかりだった。

 刃の乱舞や触手の群れが、あろうことかあのディオニュシウスに抵抗を示している。

 最後にはディオニュシウスが完膚なきまでに切り伏せて終わるのだが、ウンドワートまでもが倒れる死地である、何が起きるか分からない。

 ヴェストヴェストの崩壊まで猶予が無いにしても、長く留まれる土地では無いように思われた。


『貴様らも殺すのかああああああああああああああああ?!』


 機能停止したウンドワートから標的をリーンズィたちに変更した人狼が異様な走行姿勢で駆けてくる。見上げるような巨体! だが、とリーンズィは毅然とした態度を崩さない。ディオニュシウスの守りは健在だ。最大の障害であるベルリオーズを始末さえすれば勝機はある。

 アルファⅡモナルキアたちは無声通信で愛を誓い、覚悟を決めた。ベルリオーズは難敵だ。ウンドワートだからこそ、息をするように殺し尽くせる相手だが、彼女たちの戦闘能力はウンドワートよりも低い。0と1程の差がある。一度殺すことにさえ決死の覚悟が必要だ。

 しかし、「この見せ場はヒナのためでしょ?」とセーラ服の裾を翻しながら、黒髪の美姫が一歩前に出た。


「あのウンドワートさんとかいうのも助けるイベントと見ました、業界人なので」


「何か策があるのか?」


「無いよ? 策なんていらないの」ケットシーは臆面も無い。「もう勝つって決まってるから」


『貴様、殺したな! ああああ貴様だ! 見ていたぞ! 貴様は殺した! 殺す、殺すな! 殺すから殺すのだ! その連鎖を断ち切る! 殺す殺す殺す! 殺すやつは殺されるまで殺し続けるからな殺さないと』


 ケットシーは狂人の戯言に取り合わない。

 深く息を吸い、猛進する巨体を前に目を閉じる。


「まずは、蒸気抜刀の奥義を見せてあげる……」


 鞘に仕込まれた蒸気機関(スチーム・オルガン)が回転を始め、蒸気の帳で少女を包む。それは鏡のようにきらきらと輝き、少女の呼気で渦を巻く。

 ケットシーの刃が結ぶのは、自分が望んだ結末だけ。


 畢竟、人間の術理では捉えきれない。

 少女が白刃を振り下ろすたび、命は形を定められ、世界までもその在り方を整えられていくのだ。

 命を斬って捨てるのではない。望んだ世界へ命を運ぶのだ。

 ひゅう、と少女のか細い喉が、命の息を鳴らす。

 蒸気を吸い込み、輝く煙に影を見る。

 そして動いた。

 一刀を放つにしても、あまりにも無造作なその構え。

 海兵服の薄い布の胸で、祈るように両手を組んで、刀の柄に力を加える。

 扇子でも弄ぶように、分厚い刃をくるりと手の中で転がす。


『警告。エージェント・ケットシー、オーバードライブの起動準備を開始』


「この状況でか?! 忘れたのか、ケットシー! 不滅者たちも同速で動くようになる!」


 リーンズィは焦燥した。

 ましてやケットシーの加速倍率は他のスチームヘッドの比にならない。三百倍加速した不滅者どもを捌くことは、アルファⅡモナルキアの全機能をアンロックすれば不可能ではないにせよ、困難だ。


「ケットシー、その札は切るべきでは……!」


『架構演算式からの推定加速倍率:一万五千倍』


「いちま……え?」

 

 ライトブラウンの髪の少女は聴覚野に直接書き込まれた言葉を認識出来なかった。己の誤認識だと誤認した。


「ユイシス、よく聞き取れなかった」


『一万五千倍加速です』


 一万五千倍加速。リーンズィには理解が出来ない。

 それほどの加速が人間に可能なのか?

  あるいはウェールズ王立渉猟騎士団のように、時間軸に対して潜水するという機能のほうがまだ理解しやすい。一方で、ただの加速。

 ただの一万五千倍。

 そんな速度で行き着く先に何がある?

 黒髪を靡かせて、新月の如き虚ろな瞳の少女の胸の中

 刃がひとたび、瞬いた。

 少女は、ベルリオーズを見つめて、瞬いた。

 それだけだった。

 風景が揺れ動いた。塔の不滅者が幾つか前触れも無く蒼い炎に包まれて消えた。消滅する瞬間に、凍て付いた都市、水没した都市、砂礫に埋もれた都市など、幾つもの滅びの風景が捻れた空間に現出する。そこには炎上する炎の怪物≪時の欠片に触れた者≫が佇んでおり、何事かそれらの風景を指差していて、やがて消えた……。


 動作に対して、もたらした影響は劇的だった。

 ケットシーを目標に捉えていた不滅者、ヴェストベストどもは、悉くその身を捻れさせ、意味不明な復元を繰り返して焼け爛れた鉄塔のように曲がり、あるいは微細な振動を続けて自壊した。

 許容されないレベルの悪性変異を起こして、≪時の欠片に触れた者≫に追放されたようだった。


『加速終了を確認。実時間で1ミリ秒に満たない発動です」


「ベルリオーズも、加速を……」


 狼の大鎧の変化は顕著だった。

 彼は()()()()()()()()()()()

 表が裏に、裏が表に、左が右に、頂点が中央に。

 キュビズム絵画の如く歪な復元を遮二無二繰り返している。


「これは?」


『推測。対抗オーバードライブ能力の暴走による擬似復元飽和状態。不滅者の演算領域に干渉も無制限ではないはずです。一万五千倍加速の活動の痕跡は人工脳髄にすら思考ログを残していません。非論理の領域での活動でしょう。真なる絶対者の箱庭に、言葉で編まれた生命体は立ち入れません。彼は拒絶されたのです』


「ケットシーの加速に追従しようとして、その負荷でオーバーフローを起こした……? これが君の必殺技なのか」


「ちが、う……」甘い香りのする汗が髪を黒羽に濡らす。「ここからが本番。しっかり見ててね?」


 ベルリオーズは混沌とした復元から脱したようだ。

 元の安定した鎧姿へと回帰し、何事も無かったかのように猛進を再開し、真っ直ぐに襲いかかってくる。


「駄目だケットシー、過負荷を与えてオーバーフローさせる作戦は失敗ーー」


『殺』すな、と言い切る前にベルリオーズは殺された。


 無数の閃き、無数の白刃、欠けた月の如き刃の奇跡がその巨体を通り抜けた。

 顎から上が斬り飛ばされ手足が寸断されアスファルトに倒れ伏せた。

 そのようにしてベルリオーズは殺された。


「……?」


 リーンズィは理解しなかった。ヒナを見る。

 発汗が凄まじく、小さな体はしとどに濡れている。薄荷の甘い香りが庇護欲の愛おしさを煽る。

 しかしカタナを握ったまま微動だにしない。

 ザンシン、というやつだろうか。

 ケットシーはいったい何を?


 無論、ベルリオーズとて、ひとたび死しただけで終わる命ではない。瞬時に復元を終え、未知の襲撃者に対し優位を取るために手近なヴェストヴェストを駆け上がる。

 その仮定を省略して目標地点に出現すると同時に、胴体が完全に分断され、断面から核である不死病筐体を貫かれた。

 ベルリオーズは殺された。

 地に落ちて復元し起き上がろうとすると牡丹の花の如く首が落ち装甲が割られ腹が割けた。

 ベルリオーズは殺された。

 復元を利用して、近傍の建造物、ヴェストヴェストの破壊の渦の中で辛うじて原形を留めていた集合住宅の屋上へ逃れた。

 まさにその時、その場所、その瞬間に両腕が根元から切断された。

 のたうち自律行動を開始した両腕が再生する前に、不死病筐体が縦一文字に裂かれた腹から零れ落ち、ベルリオーズは殺された。

 殺された。

 殺された。

 殺された。

 殺された。


『こ、れ……ガ、ぎ、が――あああああああああああああ?』


 無数の閃光、無影の剣戟、即死と呼ぶのも生温い決定的な致命の連鎖。

 墜落し起き上がろうとして自分自身に頸がないことを知る。

 さらに一刀を浴びた重外燃機関が爆発を起こして、装甲内部に張り巡らされた粘菌上の悪性偏移組織を焼き尽くし。

 ベルリオーズは殺された。


『殺っ殺すギッギッギッがあああ……お……、オオオオオオオオオオオオオオオ!?』


 もはやベルリオーズに出来ることは何も無い。

 実を結ばない悲鳴と混乱の声を、形無き刃に切り落とされ続ける頸から、延々と吐き出し続けるだけだ。


「……ケットシー、何をした? したの?」


「是なるは、雛式辻流抜刀術皆伝、霧影之太刀ーー氷面鏡(ひもかがみ)桜花抄(おうかしょう)


 歌うように少女は宣告する。


「ベルリオーズ、人狼の鎧。あなたとヒナでは、見ている世界が違う。ヒナの心は氷面鏡、嘘は映らぬ零度の鏡。心に映るあなたの影を、ヒナのカタナは終わりまで斬った」


 深く息を吐く。

 堰を切ったように目から血涙が零れた。生命管制の限界が来たらしい。

 不可知世界での勇躍により数万倍の負荷がかかった臓腑が破砕され、肉片と血の混合物となり口腔の端より溢れ出た。

 ヒナは片膝を突き、カタナを杖代わりにアスファルトに突き刺す。

 酷く嘔吐することだけは堪え、出血をスカートの裾で隠し、テレビの前の誰に見られないようにしながら、肺腑を満たす己の血を飲み下す。

 再び、宣告する。


「……ヒナが選んだ、一万五千回の必殺。……かっ……えう……。べ、ベルリオーズ。あなたの出る幕は、もうすぐ終わり」


『ゲアッアアアアアアア……殺す、な、殺……こっ。殺殺殺殺殺?! ギッギッギッガアアアアアアアアアアアア?!』


 狼の大鎧は、無限に続くかと思われる必殺の一撃悲鳴を上げる。疫病と死の支配する混沌の街の娘どものように、巨体で舞踏を踏み、一歩を踏み出す度に不可視の刃に身を刻まれ、呆気なく倒れ伏せる。本能的な危機感だけがその言詞甲冑を駆動させていたが、もはや何をしても遅い。訪れる死を迎え入れること以外、ベルリオーズに間に合う動作は無い。


『ぎっがっあ』逃れようとする狼の体を白刃の煌めきが渡る。両方の腕が関節ごとに等分に割り断たれる。腰部が切断される。身動きが取れないという状況が成立し、人格記録媒体を真正面から貫かれベルリオーズは殺された。『ギイイイっ?!』空中に肉体を復元する。脚部が根元から切り落とされ、頸部までも離断。背部からの攻撃に対応出来ないという状況が成立し、重外燃機関を破壊されてベルリオーズはまたしても爆炎に包まれ、殺された。『ガアアアアアアアアア……アアアアアアアアアアアアアアアアア?!』


 殺される、殺される、殺される。

 塔の撒き散らす暴威をも切り裂いて虚空より奔る不可視の斬撃。

 形の無い純粋な『一刀』。

 それは運命より宣告された敗死である。

 命の向かう先が定まれば死と復元の間に隔たりなどない。殺されると同時に復元し、復元が次の死を生む。不滅者とは名ばかりの、一続きの死の連鎖。己の究極的な廃滅を目指して尾を喰い進むウロボロスが如く、ただ殺されるために復活し続ける。


「ふ、ふふふ。見てる、リズちゃん。これが……ん、ぐ……ヒナのいちばんすごい技。桜花抄は、氷面の剣……うつつの鎧では防げな、い……」


 黒髪の少女は熱い息を乱れさせる。臓腑混じりの血液を吐き出すことは、もうしない。みっともないからだ。最強の英雄がずっとへばっていてはテレビの前の視聴者たち、共演者のリーンズィが幻滅してしまう。見栄を張るときだ。

 カタナの鍔を鳴らし、鞘に収め、捧げ持つ。


「これにて、終幕」


 ……ケットシー自身は一連の動作において、現実世界では間違いなく、一歩たりとも動いていない。だというのに、無の斬撃は息つく暇も与えず虚空から発生してベルリオーズを責め苛む。

 太陽が海原を渡り夜を明かすが如く、月光の矢が静寂の雪原を射貫き暗闇をもたらすが如く、魔術師の呪文が暗夜を割るが如く、既に納められた白刃が死の可能性世界を選択する。


「これは、剣技、なのか?」


「……もう一度言う? ヒナの必殺技の、名前……」


 全身から滴る血と汗が蒸発して薄い煙となり、不死病患者としての薄荷の香りを、繚乱の風に乗せてリーンズィへと送り届ける。外骨格に姿勢を無理矢理固定させて、背筋を反らして振り向く人形のような顔には、恍惚と出血の朱色が混じり、酷く艶めかしく見えた。


氷面鏡(ひもかがみ)……桜花抄(おうかしょう)っていうの」


 秘めたる一刀。

 運命を変える不可避の一閃。

 彼女自身が生み出した唯一の技、そして無二なる剣。


「……理屈は、ヒナにもよく分かんない。ふぅー。やっと吐き気が消えてきた……これはね、殺すーっていう気持ちで出すと、出るの」


「気持ちで出すと、出る?!」


 呆気に取られてしまう。もし本当なら不釣り合いすぎる。凄まじい規模の現象に見合わない、あまりにファジーな発動。リーンズィは絶句した。

 ユイシスにも詳細は解析出来ない。

 これを成立せしめる物理法則はこの世に存在しない、というのは確かだ。

 しかし、本人にも何をどうしてるか分からないとなると、どうしようもない。

 観測可能なのは、あの猫の戒め、処刑台ベルリオーズがのたうち回りながら、見えぬ剣の閃きによって殺され続けているという事実だけだ。

 相変わらずウンドワートが再起動する兆候は無いが、この調子ならば危機は脱したと……ベルリオーズに完全に破壊されるという結末だけは避けられるように思えた。


「はあっ……はあっ……あ、は、まだ苦し……。病気してた頃ちょっと思い出すかも……。リズちゃん、何で最初から使わなかったのって思ってる?」


 上気した顔で、上目遣いで尋ねてくる。

 言われてみれば、ほぼノーモーションでこれ程奇怪な現象を起こせるなら、何故使用しなかったのか。


「今までは、殺せる確信が無かったの。あんな不死身のどうしたって殺せないとしか思えなかったから……でも、騎士甲冑のエキストラたちのおかげで分かったの……えう……ん……ごぼ……また喉の奥から溢れてきた……」こく、こく、と必死に血を飲み下す。「不滅者っていうんだっけ……あれは……世界が完璧に静止するぐらいの速度で殺し続ければ、ちゃんと死ぬの。だから……普段はテレビでは……お見せしない技を使ったの……殺すーっていう心からの気持ちで……」


 卒然として尋ねる。


「うん? 待って欲しい、だとすると普段は逆にそこまで強烈に『殺す』とは思わない状態でスチーム・ヘッドを殺していたのか?」


「だって……殺さないと……番組にならないし……」


「テレビ業界は思ったよりも修羅の国なのだな……」


「んん……なんか血が美味しくなってきた……。リズちゃんにも分かるはず。撮影されて本当に興奮するのって……殺すか、えっちなことするか、オモチャの販促する時しかないでしょ?」


「分からないが、オモチャの販促と前二つが等価……?! かなりこう……隔たりがあるのでは……」


 ヒナの脳内にある『番組』なるものが、リーンズィには全く分からなくなった。


『報告。エージェント・ケットシーの人工脳髄の走査を完了。やはり行動ログにはオーバードライブの起動と推測される電力偏移の他に、氷面鏡桜花抄に関する記録が存在しません』


「目には映らない剣か。すごいので、すごいとは思うけど……何なのか、分からないな」


「魔剣……」


 ミラーズは己の隔離記憶、複製された非宣言的記憶を格納した領域にアクセスして、ふとそんなことを呟いた。


「シィーならそんなふうに呼んだことでしょうね」


 物々しい響きだが、相応しいようにも思えた。

 おそらく、とリーンズィは推測を巡らせる。自分に選択可能な未来を自由に選択できるというケットシーの肉体に備わる特性を、最大限度攻撃に転化させた技術だ。

 一万五千回の『斬』を、無想の世界、人間世界の論理では言語化不可能なある種の境地で以て、確定させた。そして彼女の想像の中でだけ成立した剣を、一方的に世界に対して押し付けている。


『報告。ログを精査して発見したのですが、そもそもケットシーの宣言的記憶には、剣の術理に関する記録が存在しません』


「それでは剣を全く理解していないということになるが」


『肯定。推測ですが、彼女は雰囲気で殺人剣を修めています』


「雰囲気で……」


「使えれば何でも良いの。格好良ければ、いつかお父さんを殺せるなら、形だけで良いの」


 なぞるのは形だけ。真似るのは構えだけ。似せるのは太刀筋だけ。繕うのはうわべだけ。

 揃えた全てが紛い物。夢見ただけの作り物。かつて命に限りがあった頃、病床で密かに育てた夢の欠片。

 剣士であった父の背中を追うための、剣士の形骸。どうしようもないツクリモノ。

 だが、そこから繰り出される斬撃はどうしようもないほど真実だ。

 選び取られた未来は彼女に実行し得るレベルで必ず実現される。

 斬れる物と斬れない物の峻別は付く。


 刃に対手が映るのならば、それには形がある。

 だから、斬れる。

 形あるなら斬れるが道理だ。


 刃に対手が映るのならば、それは射程内にある。

 だから、斬れる。

 刃が届けば斬れるが理屈だ。


「……ヒナが斬れると判断した。だから、斬れるの」


 斬れるのだから、そうなる運命だ。

 何者をも斬れる少女が斬れると信じたのだから、世界がそれを論ずるのに因果は不要だ。

 斬れると信じた。

 だから斬れる。

 それだけのことだ。

 信じられたものは、斬られればならない。


 それこそが蒸気抜刀が秘伝、氷面鏡桜花抄。

 蒸気に映る影を斬り、持って現の肉を斬る超常の剣……。

 肉体運動など重要ではない。加速するのは彼女の認知宇宙の速度だけ。おそらくは無想の世界、夢想で編まれた虚構の現実。一万五千倍に加速した世界で、しかし如何なる思考も結ばれてはいない。

 一万五千回の『斬れるという確信』だけがそこにある。


 そして未来を選ぶ少女が確信をしたのならば、過程は極論、不要となる。

 斬るという些末な工程が省略され、世界には確定された未来という結果だけが降り注ぐ。

 一万五千回の斬撃による絶対死の運命が、春嵐に舞い散る花弁の如く、花吹雪となって不滅者に敗死を物語り、この認知宇宙に降り注ぐ。

 反動が全くないわけでは無いだろう。

 現実世界で指一本動かさないとしても、肉体は現実と非現実を区別しない。

 一万五千回の斬撃は、相応の負荷となって現実に跳ね返るわけだ。ケットシーの負傷はそれで説明が付く。分厚い生命管制をぶち抜くほどのダメージだ。並大抵では無い。


 ただ、どのようなリスクがあるにせよ、この現象はあまりにも理不尽である。

 不条理である。

 不釣り合いなほど、強力に過ぎる。

 だが、ケットシーに斬れると信じられたものは、その通り切り刻まれなければならない。

 一万五千回斬られるという確定された未来から逃れることは、不滅者と言えども赦されないのだ。


「……理屈はやはり、ぜんぜん、分からないが……」推論だ。全ては推論に過ぎない。しかし希望が見えてきた。「これでウンドワートは助けられる。最大の障害は排除された……」


『即刻救出に向かうことを推奨。不滅者ヴェストヴェストの崩壊まで猶予はありません』


 ユイシスが最短移動経路を視界に表示する。

 迅速に移動し、ウンドワートに不死病筐体を排出させ、悪性変異体になるリスクを最小化。

 可能ならばそのままヴェストヴェストの崩壊から脱出する。

 単純なルートは現実的では無いため、どこかでマオルエーゼルの部屋に逃げ込む手順を見つけなければならない。

 困難な道だ。

 しかし、やれるか、とは疑わない。

 可能だと信じるのだ。

 ケットシーが斬れると信じたように、救えると信じるのだ。

 リーンズィは自分自身に言い聞かせ、アスファルトをブーツで蹴って駆け出した。

 しかしケットシーが震える声で叫んだ。


「ま、まだ行っちゃダメ!」


 再度の吐血を隠すことも無く、懇願するようなその声に、リーンズィの脚が反射的に止まる。


「けほっ、けほけほっ……ごぼ……こ、この剣、そこまで精密じゃないから……巻き込まれる……ヒロインを切り刻むのはちょっと……」


 巻き込まれる? 

 得体の知れない、世界を切り刻むこの刃の煌めきに? 

 そうなればどうなる。

 ヴァローナの肉体が生理的な恐怖を発し、リーンズィの人工脳髄は正確にその直観を拾い上げた。

 セーラー服の葬兵を凝視する。

 それから、ベルリオーズが滅多斬りにされる様を観測し、すぐ傍に蹲る白銀の大鎧、ウンドワートを確認。


「……しかし、ウンドワートは無事みたいに見えるが」


「あの人の鎧、すごく硬いから……刃を弾いているだけ……」


「もしかしてさっきからピョンピョン卿が全く動かないのは君のさっきの剣に巻き込まれているからなのでではないか?! 中でめちゃくちゃに怖がっている可能性が高い……!」


 慌ててヘルメットを被り、バイザーの下にある二連二対のレンズで視野を拡大する。

 ベルリオーズが派手にのたうちまわっているのと、ウンドワートの方には外観的に大きな変化が無いため全く気付かなかったが、注意して観察すれば、関節が時折火花のようなものを発しているのが分かった。

 どうやら不可視の剣戟が執拗に関節を狙っているらしい。

 さらに、ユイシスが開閉ハッチと思しき装甲の継ぎ目からも時折激しく火花が噴出しているのをポイントする。

 完全に中の人を狙っていた。


「仲間に対して殺意が強すぎるのでは?!」


「あの人、別に知らないし……まだ仲間でもなんでもないし……」毛細血管の破裂によってむしろ人間めいてきた桜色の頬で目を伏せる。「だいたいヒナの剣と同じカメラに映る方が悪いもん……」

 

 リーンズィはこの少女への脅威度のために新しい評価軸を作ることを迫られた。

 悪気が無い分、コルトによる都市焼却装置よりも悪質だった。

 何故コルトにあのような悪趣味な自罰機構、虐殺機関使用直前に正常な倫理観が蘇る仕様が搭載されていたのか、リーンズィは理解した。


「際限なくこんな無差別殺戮兵器が解放される状況は危険すぎる……」


「ち、違うの。虐殺とかじゃなくて」非難がましい視線を察してか、上気していた少女の顔色がすっと引いていく。「ヒナだってあんまり使いたくなかったんだよ……? だってこの技、強いけど地味だし。後からコンピューターでエフェクト付けてもらわないとテレビの前の皆には全然何起きてるか分からないし。だから最後の最後まで使わないでとっておいてたんだけど、あの将来的にパーティー・インしそうな人を助けるには、イチかバチかやってみないとって……殺すし、結果的に殺しちゃうかもだけど、殺す気はなくて……」


 君の感覚はおかしいと指摘する気にもならない。

 あるいは、可能性世界の選択という途方も無い能力を制御するための安全装置が、彼女のこの異様な論理感なのか。

 東アジア経済共同体への身柄引き渡しについて全て同意があったという言説を、そもそリーンズィは信じていない。スチーム・ヘッドになった時に加工されているであろうヒナの記憶はあてにならず、支援AIに問い合わせても明瞭な回答はあるまい。シィーならば何か分かるだろうか。


『現在約一万三千回の斬撃発生を確認。ベルリオーズさえ排除されればウンドワートを救出しての脱出は理論上は、やはり不可能ではありません』


「理論上か……」


「落胆しないで。諦めて私たちだけで脱出しますか、リーンズィ?」そうはしないだろうという確信に満ちた顔でミラーズが尋ねる。「私は止めませんよ。ついていくこともしませんが」


「当然、この、オーカショー? の凪が来るのを待つ」


 レアせんぱいに仲間を見捨てて逃げ帰ったなどと言えるだろうか。

 言えるわけがない。

 

「ところでどうすればこんな技をこう……出せる気持ちになるんだ?」こういうのが使えればレアせんぱいに誉めてもらえるそうだ、という打算から、好奇心を覗かせてみる。「つまり、最初の一回はどういう……」


「お父さんが……」


 お父さん? エージェント・シィーが? リーンズィは首を傾げる。


「お父さんが言ってたの。カタナというのは手じゃなくて、心で振るものなんだって。サムライを漢字で書くと、刃の下にある心こそが大事だって、分かるの……」


 気を利かせたユイシスが視界上に『侍』という字を表示させた。


「ふむ……これがサムライ……日本文化圏でも漢字はやはり表意文字なのだな。ユイシス。どの部分がカタナで、どこが心?」


『この漢字に心とカタナの要素はありません』


「えっ?」


「あるもん。侍というのはハートアンダーブレードなんだってお父さんは言ってた」


 次に『忍』という字が表示された。

 サムライではないような気がした。

 リーンズィには極東の一部の歴史に属する文字はよく分からない。

 武道や兵法の観点からは、この文字でサムライと読むのかもしれない。


「えっとね、それで、サムライには無念無想の境地というのがあって……そこから繰り出す一撃が本当の一刀なの。だからそういうのをイメージしてヒナもやってみたら、出来た。剣を振らないでも斬れた」


「君の能力ならば、斬れるのは斬れるだろう。でも一万五千回も斬る必要は無いのでは?」


「必要ある。だってヒナに出来ると言うことは、お父さんにも出来るということ。それくらい斬らないと対抗出来ない」


「ええっ!?」


 エージェント・シィーにこんなことが出来たのだろうか。

 最後には、シィーは娘たるケットシーに敗北する。リーンズィたちは、もうその残骸を見た後だ。

 このケットシー、海兵姿のショーガールがいつその運命と遭遇するのかは、明らかでない。

 ……シィーの旅も、決して容易い戦いでは無かったはずだ。どれほど控えめな表現をしても、凄腕の剣士だったはずである。ファデルという継承者もいる。彼の腕前は疑う余地が無い。

 だが、さすがに、こんな超能力者では無かったのではないか。

 リーンズィは沈黙した。

 シィーの剣技をある程度コピーしているミラーズに無声通信で呼びかけたが、目を逸らされた。


「そう、お父さんの弟子であるリズちゃんやミラちゃんなら分かるはず。お父さんの剣のほうが洗練されている可能性もあるけど、ヒナの予想では、たぶん最初の一合はあの技の打ち合いになる。効かないと思うけど……最初に氷面の世界で剣を交え、余分なものを全部出し切る。最後の一つになった命だけで決戦をするの。クライマックスにはそういう戦いが必要」


「つまり君の頭の中では、これで全部が決まるわけではないのか……こんな派手なのに……」


 ベルリオーズに降り注ぐ斬撃は既に一万四千回に突入している。仮に神がかりの少女剣士が初手でこの攻撃を放てば、大体は彼女の圧勝で終わるように思われた。

 これさえ平気で凌ぐとなると、彼女の頭の中の父親はどれほどの遣い手になっているのだろう。


「……うん?」


 想像しているうちに、リーンズィは何か曖昧な違和感を覚えた。

 黒髪の少女の納得に溢れた瞳と口ぶりには、引っかかる部分があった。


「ユイシス、急いで解析してほしい。これまでの氷面鏡桜花抄による攻撃回数と、何回で一回殺せているか」


『解析終了。……全く同時に放たれる五手から十五手までの攻撃が死を成立させています』


「ケットシーによるベルリオーズ殺害回数は、もう千回は超えている……そういうことだな?」


『肯定します』ユイシスのアバターが冷や汗のエフェクトを浮かべた。『……なるほど、異常事態です。当機も解釈を誤っていました』


「やはり、そうなのか。結局、例のプランで行くしかないのか。動態的緊急生命管制(エマージェンシー)モード、起動準備(レディ)


 左腕に装備したガントレットの意志決定釦を引き、リーンズィは重外燃機関の回転数を上げた。


「この超空間攻撃が終了したタイミングで仕掛けるぞ」


「どうかしましたか、リーンズィ」ミラーズは怪訝そうに首を傾げる。「もうこれ、勝ちでは無いのですか? 勝ちでしょう?」


「誤謬だ、ミラーズ。ウンドワートはもう少しでベルリオーズを制圧出来ると言っていた。もう少し、とは、一千回も殺害して到達不能な殺害回数なのか? そんなはずはない。とっくにオーバーフローを起こしているべきだ」


「でも現実には起きていないではないですか。可愛い猫ちゃんに戻っていませんし、ベルリオーズはまだ元気に殺されています。シーちゃんのオーバードライブにあわせてベルリオーズも回復力を上げたのではありませんか?」


「そこが理屈に合わない。一万五千倍加速に便乗して状態を回復させていたとしても、元々の耐久力でさえ、ベルリオーズは千回の死に耐えられないだろう。氷面鏡桜花抄だけで、ベルリオーズは完封されるべきであり、そして技が完結するまでに、破滅しているべきなのだ」


「シーちゃん?! ミラちゃん……シーちゃんって、ヒナのこと?!」などと、問題の本人は生気の薄い整った顔貌を、喜色も満面に輝かせている。

 至って無邪気で、服装も相俟って、友情に恋い焦がれる女学生のようだ。

 ……これは、断じて必殺技では無い。

 嘘を吐いたり、何らかの悪意によって虚偽を述べているわけではない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 機械の鼓動が狂騒の戦闘に備えてボルテージを上げるのを感じながら、ライトブラウンの髪の少女はゆっくりとした口調でケットシーの言葉を口にした。


「ミラーズ、ケットシーの言葉を思い出してほしい。余分なものを全部出し切る……」リーンズィは呟いた。「最後の一つになった命だけで……」


 ケットシーには、自分が望む形に世界を切り刻む力がある。

 裏返せば、それは。


「ケットシー。これが必殺技というのは『名前』の話だな?」


「うん。必ず殺すという気持ちで出すし、巻き込まれたら無事では済まない。ヒナの使える蒸気抜刀の中でいちばんの大技だから、必殺技。()()()()()()()()()()()()()()()()


「そして必殺技という名前だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 ケットシーが頷くのを見ながら、ミラーズはきょとんとした。


「でもこれ、どう見ても出したらはい勝ちーっていうやつよね」


「ミラちゃん正しい、もちろんヒナが勝つよ? でもリズちゃんも正しい。これは次の一手で殺せるようにするための技」ケットシーはこくこくと頷いた。「相手に全てを出し切らせるの。最後の一刀は別に必要。だいたい、必殺技って破られるものでしょう? そういうものだってヒナは知ってる。巻き込まれた人は死んじゃうけど、この技を出させるほどの相手なら絶対凌いでくる」


「待って、それ何か話がおかしくない……?」ミラーズも話の奇妙さに気付いたらしい。「逆転……逆転していませんか? 論理とかが……」


「私たちの理解では違和感がある。しかし、この技は彼女の中では決戦での()()()()なんだ」


 虚空から放たれる斬撃が一万五千回に達するまで、残り三十秒。

 リーンズィは俄に肉体を緊張させる。


「一万五千回の斬撃は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()放たれている。ベルリオーズがオーバーフローを起こさないのはそのためだ。ベルリオーズが耐えているのでは無く、ケットシーの能力が、オーバーフローを起こさせない未来を連続して選択している……」


「それだと、えっとね、気のせいだとは思うのですが、この何か……斬るやつが終わったら、ベルリオーズ復活するんじゃない……?」


「死なないだろう。おそらく、あと一回は余分に殺さないとならない」


「余分じゃなくて、最後のトドメになるの。平たく言うと氷面鏡桜花抄は詰みの盤面を作るための技」


 ミラーズは絶句していたが、リーンズィとしてはもう何も言うことは無い。

 あの狼を模したスチーム・パペット、ベルリオーズを追い詰めることには成功している。あと十回も二十回も殺すのは難しかった。

 だから、ありがたいことではある。これだけで十分な戦果だ。

 決定打になる、と一方的に誤解していたのはアルファⅡモナルキアたちだけだ。無自覚な世界選択能力者であるケットシーは、状況を正しく理解している。


 彼女はこの規模の殺戮技巧でも強敵は殺せないと最初から確信している。

 客観的には異なる。現在のリーンズィの生きる宇宙での、真っ当な戦闘論理に属する感覚で言えば、これは間違いなく必殺の魔剣であり、単純な装甲強度以外では回避も防御も不可能に見える。

 だというのに、実際に氷面鏡桜花抄では標的にした敵を殺せない。

 何故ならばケットシーが「これでは殺せない」と確信しているからだ。


 彼女は望む世界を引き寄せる。

 その才能を持つ。おそらくは神に愛された少女だ。

 救世主になるかも知れない。

 それ故に()()()()()()()()()()()()()()

 客観的な事実など何の指標にもならない。彼女は神でも悪魔でもない。全知全能ではない。救世主でも、反救世主でもない。その資格はあるにせよ。

 けれど未だ、<首斬り兎>の渾名の通り、首を刎ねるしか能の無い人間の一人だ。


「ど、どうする? ディオニュシウスは自分やあたしに敵意を向けてくる存在以外には反応しない。聖句でも攻撃対象の指定までは出来ないの……。ベルリオーズに壊される覚悟で、まずあたしが行った方が良い?」


 ディオニュシウスは複雑怪奇な出現と消失を繰り返し、ひとときもその場に止まることは無い。

 変形して押し寄せくる塔の津波を片端から切り捨てて安全地帯を作成している。


「君とヴォイドは要だ。ベルリオーズ攻略に割けばヴェストヴェストを押さえていられなくなる。かなり厳しい状況だ、一瞬でも動かしたくない」


 すっかり調子を取り戻したセーラー服の少女が鞘に収めたカタナを抱きしめる。


「大丈夫、トドメはヒナがやる。一回殺すぐらいなら余裕」


「それでは間に合わないという話をしているのよ! シーちゃん、一瞬で殺せますか!?」


「ノーミス前提で……三分ぐらい?」


「遅い! ほらー! そういうのは余裕って言わないのですよ!」ミラーズがマザーらしい声を出した。


 そもそも現状で期待できる選択肢は、撤退途中にもう一度マオルエーゼルの部屋に逃げる込める、という不確実な可能性に賭けたものだ。それにしたところでもう許された時間は無いに等しい。

 ベルリオーズの確実な排除を待っていては、脱出は完全に不可能となるだろう。


『落ち着いてください、愛しいミラーズ。だからこそ我々は準備をしているのです』


 金色の髪をした少女のアバターが、同じ顔をした少女の背に寄り添う。


『ケットシーでも、現在の装備では一回の殺害に百八十秒は要する。既に計画は修正済です』


「殺害と救出を同時にやれば良いんだ」


 深呼吸を一つ。重外燃機関の回転数が非オーバードライブの最高段階まで高まり、ガントレットのコイルが電力を食らう。紫電が逆巻く。姿勢を落す。

 ゲットセット、レディ。


「氷面鏡桜花抄が解除された瞬間に、最高速度での接近を敢行する」


『因子の残弾を考えれば十分に可能です。予定回数三回。ウンドワート救出のための最短経路を再計算』


 示されたのは非常に複雑な経路だ。

 塔の防衛機構を回避し、ディオニュシウスの誤動作を防ぎ、なおかつベルリオーズと直接かち合うこと無くウンドワートの元に辿り着かなければならない。

 可能ならば兎の大鎧の背後に回り、ベルリオーズに認識されること自体を未然に防止する。

 直線の移動では不可能だ。

 垂直方向への移動が必須となる。

 それは人間の移動経路というよりは、心電図に似ている。


 情報共有したミラーズが瞠目する。「こ、こんなルート選択が可能なの? 分かってると思うけど、あの速くなるやつ(オーバードライブ)は使えないのよ。同速で動かれたら勝ち目は無いのですよ?」


「それでもやるしかない」ライトブラウンの髪の少女はヘルメットの中で深く息を吸った。「だって、私はレアせんぱいのところに帰るんだ。やらなければ帰る資格が無くなる。レアせんぱいが自慢できる後輩として、一生懸命頑張らなければならない」


 威勢の良さに惚れ惚れした様子でヒナが何度も頷いた。


「何する気かは知らない。だけどベルリオーズは任せて。ヒナがきっちりかっちり殺してあげる」


 金色の髪をした幻影が告げる。


『氷面鏡桜花抄解除予測時間まで10、9、8、7……行ってきます、ミラーズ』


「帰ってくるのですよ、ユイシス、リーンズィ!」


 もちろんです、とユイシスは親指を立てて、飾りの無い柔らかな笑みを見せた。


 ーーベルリオーズを封じていた斬撃の嵐に、凪が訪れた。


 最初に反応したのは黒い髪をした少女。

 スカーフの赤を靡かせて、黒いカタナを鞘走らせて、尋常ならざる筋肉密度の細脚で大地を蹴り、弾丸の速度で狼狩りに繰り出す。

 対して、リーンズィはーー後方へ跳躍していた。


「エマージェンシーモード起動」


 知覚能力が強化される。

 剥き出しになった眼球のように、ありとあらゆるものが鮮明に感じられる。

 重要なのは、可能だ、と信じることだ。

 可能ではないと思えば道は鎖される。


『可能性世界検索を完了。準備はよろしいですか?』


 ヘルメットの内側でリーンズィは宣言する。


()()()()()()()()()()、起動」


 何者かの声がする。

 それはヘルメットの内側、敷き詰められた人格記録媒体のいずれかから響く声だろうか。


「 糸切り鋏の神に身を委ねよ、破滅はこのようにして世界を砕く 」


 体内に仕込まれた悪性変異体の因子が起爆する。

 偽陽性反応を示した体組織に誘引されて≪時の欠片に触れた者≫が出現する。


 背後に灼熱の悪魔の気配を感じた瞬間、リーンズィは全てが凍て付いた世界に転移していた。


その7(7-2)へ続きます。その7(7-2)って何?

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