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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
76/197

2-12 祭礼のために その7(6) マオルエーゼルの隠れ家

 穏やかな昼下がりの部屋だった。


 リーンズィはいっとき、見当識を失いかけた。

 その空間は、まったく、静かであった。世界を磨り潰す塔の暴威も、砕け散る廃墟の轢音も、彼女の耳に届かない。聴覚補正を最大限に働かせていた人工脳髄が、突然の静寂に対応しきれず、ごく短い時間、逆に少女の脳髄を混乱せしめた程である。


 ヘルメットを被った頭を抱えるようにしながら、姿勢を低くして、数秒沈黙していた。

 それから視線を上げた。

 簡素な木組みの机の上に、猫がいた。

 綿の飛び出した平たいクッションの上で、すやすやと心地よさそうに眠っていた。

 そしてその傍に、コーヒーカップを手にした老人がいる。

 猫を眺めながら、椅子に腰掛けている……。


 草臥れた印象の老人だった。顔の半分だけが焼け爛れて剥落している。焦げついて落ちた肉の下には黄ばんだ薄皮の張り付いた骨の輪郭が浮かび、眼球は白濁しており、もはやどのような未来もその目には映らない。それが楽園であれ地獄であれ、半分だけの焼死者の顔面には、関係が無い。

 不思議なことに、痛ましいという感情はリーンズィには全く湧いてこない。その傷はとうの昔に、不可逆的な形で塞がっていて、手を施す余地が存在しない。かつては激しく燃えて痛み、彼を苛んだのだろう。だがそうした情念の溶岩流は冷えて固まり、今や岩のごとく地に伏して動かない。

 服装が清潔そうに見えるのも、憐憫の念を招かない大きな要因かもしれなかった。身につけているチェックシャツやデニムのズボンは、すっかりよれていたが、良質な生地を使っているらしく、綻びは一つも見当たらない。『バーバリー社の製品に類似』という解析結果が視界に表示されるが、その会社が何なのだか、リーンズィには意味が分からない。


 猫も含めてあからさまに不審な存在だったが、凶暴性のある不死病患者ではないようだった。頭部には人工脳髄らしき機械は見当たらない。

 見た目通りの男性だとしても、年老いており、強化外骨格も装備していない。

 リーンズィの細い少女の体躯でも、制圧するのは容易そうだ。


「未知の力があるのか?」


『提言。未知の力について考慮する必要はありません。どのような準備をしていても、対応が不可能です』


 それもそう、とヘルメットの下で少女は頷く。

 例えばこの老人に、いきなりリーンズィの、その少女の心臓をニトログリセリンに組み替える能力があったとして、事前に防御する手段が無い。警戒するだけ徒労となる。

 物理実体としては、とりあえず警戒する必要はない、と結論づけ、注意の方向性を切り替える。

 リーンズィは慎重に身を起こして、室内を見渡し、注意深く背後を確認した。


 そこには通り抜けてきた扉があり、向こう側には平野がある。

 ミラーズやケットシーの姿は見えない。

 点々と岩の転がる大地。まっさらな緑色の雑草が、そこかしこに生えている。綿雲の浮かぶ空では何もかもが輝いていて、危険の兆候など何一つ見受けられない。誰もが永遠の思い出とすべき、全てが過ぎ去った後の安寧。

 破滅の風景からはあまりにも隔たった、場違いなほど牧歌的な世界。


 何の異常も無いが、まさしくそれこそが異常だった。

 幻覚や共同幻想では飛来する瓦礫を防ぐことは出来ない。

 視覚どころか五感の全てを欺瞞されていたとしても、どうすればヴェストヴェストによる大規模破壊の影響を受けず、本物の平穏を創り出すことが出来るのだろう?

 自覚出来ないだけで肉体が酷く損傷している。それも有り得る。


「ユイシス、私は無事なのか?」


『不明。貴官が無事だと思うのならば、無事でしょう』


 統合支援AIらしくない回答だった。

 情報的な断層を通過した程度で、これほどまでの変化が起こるものか?


『現在座標、不明。線量データ、エラー。他エージェントとの通信は継続中。依然として空間連続性を検出できません』


「ここはどこなんだ?」


『別の時間連続体である可能性を否定しません』


 何もかもがそっくりそのまま別の宇宙に挿げ替えられてしまったかのようだった。

 このケースならば、リーンズィのほうが得体の知れぬ代替世界に入り込んでしまったと言ったほうが適切だろう。

 一つ確かなのは、廃屋同然のその墓守小屋が、事前に見ていた通り、物の見事に朽ち果てていること。

 扉の向こうと扉の内側の事象の連続性を示す証拠は、それだけ。

 落ちた天井からは青空が覗いており、雨が降れば室内は水浸しになるだろう。暖炉には灰が堆く積もり、使用が可能な状態には見えない。とかく狭い室内で、調理場と思しき場所にはコーヒーの豆の瓶と手挽き式のミル、湯沸かし用らしきカセットコンロ、携帯用保存食のパッケージといったものが散乱している。

 生きるための全てが揃っている、とは到底言い難い内装だった。薄型液晶テレビが壁の一角にかけられていて、そのヒビ割れた画面には、行進する少女とそれに率いられた不死病患者の軍勢、全身をナパームの火に焼かれてなお争い続ける不死の兵士、暴徒鎮圧のために駆り出される機械甲冑、都市爆撃を実行する爆撃機の編隊、どこかの公営施設で儀式を執り行う聖歌隊と彼女らの新しい信徒たちなど、無節操でいて混沌とした場面が流れている。無音で、無声で……いっそ己の纏う機械のコイル音、背負った重外燃機関の発電ファンが蒸気を受けて回る音の方が、大きく聞こえる……。

 

 対面の壁には大小無数の窓が乱雑に設置されていた。開いているものは一つも無い。見たく無いものを遠ざけていればいずれ世界から本当に消え去ってくれると信じているかのように、錠前をかけ、鎖で封をし、内板を打ち付けて、永久に開かないようにしている。

 今し方開けたドアを除けば、崩れ落ちた天井しか開口部は存在しない。

 光源と呼べるものは、そこから差し込む太陽光――本当に太陽の光なのかは不明だが――、温かく世界を満たす天然の光と、それから、終着点の無い陰惨な戦闘と狂気じみた行進、無秩序な儀式の映像を延々と垂れ流す壊れた液晶テレビの、目を背けたるなるほど強いバックライトの光。見ているだけでくらくらしてくる……。


「誰かの心象風景を再生しているのか? こんな欠落した風景を一体誰が望むというのだ」


 リーンズィが呟いた。


「俺が望む。ああ、こうして人が来ることは少ない。とても少ない」


 同じく呟くようにして、顔の半分が焼け焦げたその老人が言った。


「全く無いわけではないがね。それだってヴォイニッチとナイン・ライヴズだけだ。今回は初めてのケースと言って良い」


「あなたは、喋れたのか? ……喋れたの?」


「肺も喉も健在な人間が、どうして喋れないと思う? だいたい、人間というのは両手がなくても指を畳んで祈るんだ。そんなやつは何人でも見てきた。生きてりゃ人間はどんなことでもする。意味が無いことでも、やりたくないことでも、やるんだ。それを忘れるな、ヘルメットのあくたれ」


 会話が成立するとは思っていなかったので、リーンズィは狼狽した。

 老人はコーヒーカップをゆっくりと揺すり、波打つ琥珀色の液面に視線を落し、それからリーンズィにようやく視線を向けた。


「その不朽結晶装甲服は、聖歌隊だな? 聖歌隊にしては、物々しい装備だが……しかし嗅いだことのある匂いだ。大層なガントレットのせいで印象が違うが、服の装飾にも見覚えがあるな。確か『リリウム』を継いだ、忌々しい、あの生まれついての背徳者の護衛……」


「スヴィトスラーフ聖歌隊では無い。私は調停防衛局のエージェント、リーンズィだ」


 ライトブラウンの髪の少女は名乗ることにした。

 アルファⅡモナルキアのヘルメットを外す。素顔を見せて、敵対の意図が無いことを示しながら、特殊な装備無しでも生体に悪影響の無い環境であることを確認する。


「わけあってスヴィトスラーフ聖歌隊の大主教リリウムの使徒、ヴァローナの肉体を使用している」


「そう、ヴァローナだ。思い出した。あの銀色のネックレスを信仰のためではなくファッションで付けていた不心得者……しかし以前とは雰囲気が少し違うな。潔癖そうなツラは同じだが、何か違う。今装填しているメディアは、どこかの局のエージェンとか言ってたな。どうにも知らん組織だが……何でも構いやせん」


 男は所在なさげに眠っている猫の額を撫でた。それからリーンズィのことは見ないまま言った。


「それで、聖歌隊仕様のスチーム・ヘッドが、どうやって俺の言詞領域を抜けてきた。レーゲントじゃあの破壊力には耐えられないはずなんだがな。もしかして、銀髪娘からの遣いか? 俺のことは放っておいてくれて伝えてくれ。何度言わせれば分かるんだともな。ああ、俺の信じる『リリウム』はただ一人だけだ、とも言ってくれ」


 どこか侮蔑的な口ぶりを崩さないが、そのことが却ってリーンズィを悩ませた。

 表面上の会話は成り立っているように思われたが、老人の方はと言えば、こちらに視線を向けることも無く、壁にぶつぶつと一人言か教典のお題目でも暗唱するような具合で、魂のある人間とはとても感じられない。

 会話の成立は、あるいはこちらの一方的な誤認かも知れない。

 それでもリーンズィは対話を選んだ。少しでも多く情報を引き出すべきだからだ。

 この部屋の機能は未だうかがい知れないが、であれば尚のことミラーズたちに先んじて性質を見極める必要があった。


「……だから、私は聖歌隊とは直接繋がっていないのだ。肉体は借りているが、ヴァローナとは挨拶もしたことがない。リリウム、リリウムと言うが、我々はそもそもリリウムを探してこの地に辿り着いたのだ。そういうあなたは、さてはあの塔の関係者だろう?」そうだ、と思い当たると、リーンズィは途端にむかむかとしてきた。「本当に迷惑しているので早く撤去とかしてほしい。公共の福祉にも反していると思う。街の景観を著しく汚している。下水道とかも壊れて衛生状態は悪くなる一方だ」


 リーンズィが告げると「ヴァローナと違う方向で強烈そうだな」と老人は少し愉快そうに呟いた。


「私たちは特殊装備があるからここまで来られた、それだけだ。いい加減答えてくれても良いのではないか。あなたは誰で、ここで何を? ここは何なんだ? あなたは実在するの? 状況に詳しいようだけど」


「はん。今度は、誰だ、ときたか。まるで覚えちゃいないらしい。俺は聖歌隊の一員だ。昔はヴェストヴェストと呼ばれていた」


 少女は思わぬ言葉に目を見開いた。


「ヴェストヴェスト。塔の不滅者、ヴェストヴェスト?」


 自分からそう名乗ったわけじゃないがね、と老人はうんざりした表情でコーヒーを啜った。


「女じゃない構成員だっているさ。レーゲントじゃない再誕者の、その数少ない一人だ。簡単な話じゃ無い。娘どもがどれだけ美しかろうが、聖句がどれだけ強力だろうが、間合いは視線の届く距離、自分の声が届く距離に限られる。連中を権力者層に売り込むには準備がいる。黒幕(フィクサー)の力がな。俺はそっちの仕事をやってたわけだ。もちろん社会的に信用される名前で、顔も隠さず、身分を偽らずにだ」


 半分だけが焼死体の老人は、引き攣った筋肉を震わせて、微かに微笑んだ。


「だってのに、それをヴェストヴェストだなんて勝手な名前で呼び始めたのは、アムネジアのやつで……俺は生前は城を持っててな。塔じゃ無い。本物の城だ。本物と言っても受け継いだものじゃなくて金で買ったんだが。とにかく城というところから連想してヴェストヴェストなんだろうな。それを面白がって俺の洗礼名にしたのはヴォイニッチで……全く鬱陶しい淫売どもだった」


 悪態は、どこか懐かしそうに聞こえる。

 老人は溜息を吐いた。


「さぁ、昔話を聞きに来たわけでもないんだろう。とにかく俺如きは、所詮演算の状態を検証するだけの予備人格だ、何を聞かれたって答えてやれないし、誰も俺には関係ない」


「ここは何なんだ?」


「だから、俺には関係が無いと言ってるだろ。それを答えることと、俺の存在意義に、関係があるのか? 留まっても通り抜けても、俺にはどうでもいい。誰だろうとこちらから何かをしてやる気にはなれない。そっちで好きにしてくれ。」


「留まったり、進んだりすると、どうなる? それぐらいは分かるのだろう」


「知らん。だが、この部屋が直接的な原因になって死ぬっていう風には組んで無いはずだ」


 ひとまずは安全らしいと判断した。

 通り抜けることもおそらく可能である

 ようやく有力な情報だ。

 リーンズィは他のエージェンとに無声通信で合図を送り、さらに探りを入れる。


「それでも君は、全く知らないはずはない」


「しつこいな、知らないんだ。俺はこの部屋から出たことが無い。いつも気がつくとここで一人だ。猫を眺めながら……コーヒーを飲んでる。俺の不滅者、神罰試行演算式の開始と終了を検証するのが、生前の、クソッタレで、頭がおかしくなっちまった俺が、ヴォイニッチのやつと組んだ、この演算式における俺の役目の全てだからな。式が終われば俺も途切れる。再開すれば俺も再開する……」


「そもそも出ようと思ったことも無いと?」


「必要が無いからな。他の誰しもと同じだ、知っていることよりも知らないことの方が遙かに多い。そして知らないことなんて気にせず存在を続けられる……。ヴォイニッチとナイン・ライヴズ以外に、ここに出入り出来るやつがいることさえ知らなかった。まぁ有耶無耶のゴミどもが、ここでもどこでも、何の意味も無いことをどうしていようが、俺にはもう関係がない……」


 壁を擦り抜けるようにして、美しい歌声が響いた。

 奇妙な韻律、神を礼賛していること以外は理解出来ぬ言葉ならぬ言葉。

 少女の声……。


「……おお、信じられない」


 半分だけ残された老人の目が潤んで煌めいた。


「まさか……おい、誰を連れてきたんだ?!」


 金色の髪をした少女が、リーンズィの脇を擦り抜けるようにして躍り出た。

 老人は初めて驚愕の表情を浮かべた。

 少女は彼の眼前で背筋を反らし、行軍用のブーツで木板の床を踏みしめ、部屋中に水仙の甘い香りを振りまいた。細く艶めく首筋を追いかけて、神獣の尾のように髪束が輪を描く。清廉なる少女はゆるやかに円舞を披露する。何か輪を描くような構造の聖句を組み立てていた。

 足取りに怪しい部分が無いのは、リーンズィからのフィードバックを受けてのことだろう。

 歌い終わると脚を止め、少し恥ずかしそうにしていた。

 必要とあらば汚辱に塗れた姿を晒すことすること厭わない穢れた乙女も、下手な踊りを披露するのには精神力を使うらしい。

 それから改めて老人に緑色の視線を向けた。

 彼女らしからぬ低い声音で囁いた。


「そんな風に成り果てても私たちレーゲントのことを酷い言い方で呼ぶのですね、マオルエーゼル」


 リーンズィは怪訝な顔をした。単なる侮蔑ではなく、どこか親しみを感じる言葉遣いだったからだ。


「ああ、あ、そんな……リリウム様! リリウム様! リリウム様! 我が光輝、『清廉なる導き手』……!」


 老人は見た目にそぐわぬ若々しい声で唸り、それから首を振った。


「いや、キジール様でしたか……。あの背徳者に座を譲ってからのあなたはそう名乗っておられた。しかし貴女が何故ここに……聖歌隊を去ったのでは無かったのですか?」


 マオルエーゼルの名で呼ばれた老人は瞠目したまま、動揺も露わに腰を浮かせた。

 しかし退廃と媚態、優雅さが噛み合うその繊美な顔に、何かしらの違和感を抱いたらしい。

 不審げな眼差しで、また座り直した。


「それも違うな、キジール様でもない。何だその武器は。外骨格は! そうだ、そもそも聖歌隊の純正スチーム・ヘッドなら武装を拡張することは出来ん……。分かったぞ。ヴァローナと同じように、キジール様の肉体を使っているやつがいるな?」


 吐き捨てるようにして呟く。


「レーゲントは売り物だがオモチャじゃねえんだぞ。しかも、よりにもよってリリウム様の御聖体になんということを……! 神罰が下る、神罰が下るぞ! 他ならぬ私自身が引導を渡してやりたいところだ……!」


「マオルエーゼル、マオルエーゼル」ミラーズは老人に歩み寄り、耳に息を吹き込むようにして甘い声で囁く。「興奮しないで。嘆かわしいことです。全く、あなたという人は、変なところに拘って、私の脚にでも何でも、どこにだって夢中になって接吻して、むせび泣く……そんなひとでしたものね。あたしのことに、すぐに夢中になるの。そして気に入らないことがあると、すぐに頭に血が上らせて怒り出す」


 キジールは溜息を一つ。腰に手を当てて、紐状の装飾で強調された慎ましい胸をつんと突き出し、それから愛らしい顔にあからさまな侮蔑の色を浮かべた。


「いつでも独り善がりなのが、貴方の悪い癖ですよ。考えてご覧なさい、赤の他人ならば、あなたをマオルエーゼルなどと呼ぶことはないでしょう? 古い古い呼び名、忘れ去られたコードネームだもの。私とスヴィストラーフ、それに『最初の一人』ぐらいしか使っていなかったんじゃないかしら? それとも、もっと思い出話でもしましょうか? 停滞と循環の聖句を編むときには、子供みたいにふらふらと踊らないといけない、私のこの恥ずかしい癖……いいえ、あれから多少上手には成りましたが……見覚えが無いとは言わせませんよ。あれを見て、信徒の喜捨を煽る良いオプションになるなー、などと酒の席でほざいてたのも、知ってるんだからね! ああ、抽象化された記憶なのに今更腹が立ってきたわ! 最っ低、あなたは最低よ!」


「……記憶を引き継いでるのは、疑いはしない。やはり記憶だけだ。リリウム様じゃない」


 老人は一層醒めたようだった。


「断言できる。リリウム様じゃない。キジール様じゃあ断じてない。あの方は汚濁と免罪の女だ。微笑みの仮面の女だ。少なくとも俺みたいな三下の前じゃあ絶対に素の自分を見せないお人だった。瞳に宿る諦観と怨嗟の醸し出す妖しい煌めき、あれがどいつもこいつもを籠絡したんだ。呪われた宝石みたいに誰も彼もの欲望を煽り、破滅の淵に誘ったわけだ。それが今はどうだ。まるで年頃の少女のようじゃあないか。しかもあんだけ甘やかしてた愛娘はどうした? あの美しい永遠の純潔の娘は! どこにもいないじゃないか! どこかへ捨ててきたんだ! そんなことをするやつがリリウム様であるはずがない!」


 リーンズィはすごく早口で喋る人だなと若干引いた。


『特定の女性に対して物凄く早口になる人と判断しました。危険です。排除しましょう』


 ユイシスが警戒感もあらわに報告してきた。リーンズィとしてはそこまで脅威を感じなかったが、リリウム――ミラーズの信奉者であるらしいことが分かったためだろう。ユイシスは嫉妬したのだ。


「ええ、賢しいのは美徳です、マオルエーゼル」呆れた様子で溜息を吐く。「確かに私は、もはや私でありません。調停防疫局の旗の下に、もう一度、さらなる再誕を迎えたのです。……我が仔ヴァータは獣に堕ち、久遠の眠りにつき、私は代償に新たな試練を迎えました。これが今生の私。折れた刃と牢屋のような骨で体を飾った、戦い続けるしかない私。今の名は、ミラーズと言います」


「……そうかい。そうか。お互い簡単には滅びられないらしい……おい、えらく剣呑なやつが来たな」


 老人が困惑した声を上げた。

 リーンズィがドアの方を見れば、そろりそろりと言った調子で、不朽結晶の刀剣が、背後の牧歌的風景からどんどん突き出されてきている。

 間違いなくケットシーの仕業だ。

 速度はゆっくりだが、他者への被害を気にしている様子が無い。何か当たったら取り敢えず刺すか斬るかすれば分かると思っているようだった。探査針のつもりなのだろうがやられる側としては怖くてたまったものではなかった。


「ケットシー、ケットシー、私たちに刺さる。放送事故になる」


 最高純度結晶で構成されたガントレットの左手で刃を掴み、引っぱってやると、病的な白い肌の黒髪の剣士がプリーツ・スカートを揺らしながら、びっくりしたような顔で入室してきた。

 びっくりしたのは私たちだぞとリーンズィは思った。

 そして老人を見るなり「一秒で700回ぐらい殺せる。殺す?」と切っ先を向けた。


「その必要はありません」とミラーズ。「外にはディオニュシウスが待機しています。塔の処理をお願いしていますが、私が待機の聖句を解除すれば、この不滅者にも然るべき処置をしてくださるでしょう」


「また聖歌隊か? いや、何だそのスカート丈とショーツは。本物の商売女で、コスプレか? 聖歌隊にも増して品が無いが……」


「これは古式ゆかしい東洋の女学生の服」東アジア最強の葬兵は不機嫌そうに言い返す。「視聴率を上げるために下着とかが見えやすくしてるのは事実だけど、品が無いという言葉には配慮が無い!」


「ああ……? 一瞬で矛盾してるが……ああ、そうか、すまんかったな」


 老人は頷いて生返事をした。

 この手の珍奇な手合いは何人も知っていると言った様子だった。


「しかし今回は来客が多いな。まさかオペレーション・ゼロ・アワーの発動日なのか?」


「ねぇ、御託は良いのよ、御託は。あなたとお話をしている時間はないのですよ」


 腕組みをしながらミラーズは語気を荒げる。


「はっきりと言っておきます。あたしたち、すぐこの迷惑な、べスべべベナントカ、とかいう塔の不滅者を擦り抜けて、その中心部へ行かないと行けないの。そこにリーンズィの大好きな人が待ってるから。まだマオルエーゼルとしての自認があるなら、教えなさい。どうせ近道とかあるんでしょ。そういうのさっさと教えて。清らかな娘には清らかな肉体を。新しい命には新しい使命を。あなたの買い文句、売り文句でしょ? なら、その使命をあたしに果たさせて。お願いよ、私のマオルエーゼル(聖なる騾馬の人)


「……古い時代のことをペラペラと言うもんだな、嬉しそうで、悲しそうで、……まるで普通の人間みたいだ。リリウム様、私はあなたのそういう顔をずっと見たかった。あなたが聖女でなかった時代の顔を、一度でも見たかった……」


 金色の髪をした天使は、静かに問いかけた。


「私は見たくありませんでした、マオルエーゼル。あなたがこんなふうに堕落した姿は見たくありませんでした。再誕の秘蹟を受けたときの年齢はもっと若かったでしょうに……それなのに、どうして只人の命が終わる時の姿をしているの」


「ああ、聞いて下さい、堕落したわけじゃ無い。外側が剥がれただけだ……。本物の内側だよ。ヴォイニッチが剥き出しにした、俺の真の姿だ。俺というやつの魂なんぞは、とうの昔に死んで終わって、そうとも……楽園があるだなんて、これっぽっちも信じちゃいなかったんだ。だが、嘘を信じた。あなた様を信じた。リリウム様の芳香に夢を見た。あなたの信じていない嘘を信じることを選んだ……あなたと聖歌隊のおかげで……少しだけ永い夢を見られていた。それだけのことだ」


 老人はついに立ち上がった。

 そして手を掲げた。

 戸口の対面にある無数の鎧戸、無数の扉。

 それらを鎖す無数の錠前、無数の鎖が一斉に弾け飛び、手を触れられるまでも無く、そのような開け放たれた。


「どうのように変容しても、あなたは偉大なる私の光輝、リリウム様だ。俺じゃあ、頼みを断れん」


 好きな場所を見ろ、と指でそこかしこを示す。

 そこには、塔を取り巻く環境の全てがあった。

 増殖する塔の俯瞰風景、不滅者と騎士団が凄惨な殺し合いを演じる領域内部。

 やや離れた場所で不滅者の軍勢の沈静化を図っているファデルたちの姿も確認できる。

 他にも、塔が接触する世界をモニタリングするための覗き窓があり……窓外の風景は無秩序に切り替わり、どこか特定の地点に固定されていることはないらしい。

 しかしこちらには、望む風景を掴む力がある……。


「ケットシー、ウンドワートを見つけてほしい」


「もう見つけた。チャンネルはそのままにして、テレビたち」


 到達可能な可能性世界が存在する限りにおいて、ケットシーは自分にとって都合の良い未来を自由に選択出来る。

 リーンズィはその力に頼ることにした。

 該当の風景がランダムで切り替わるなら、掴むべき未来を確定させてしまえば良いのだ。

 窓外に現れたのは壮絶極まる死闘の光景だ。

 ウンドワートが塔の狭間を跳ね回り、ベルリオーズの背部重外燃機関に爪を突き立てながら空中へ放り投げる。復元が始まる前にデイドリーム・ハントによる純粋機械の時間加速世界に突入し、敵が態勢を整える前に心臓部を破壊。さらに四方八方の塔を蹴りながら切り刻み続けている。瞬きの間に五回はベルリオーズを殺害し、相手を空中に放置したまま重外燃機関の緊急冷却/発電プロセスを起動。採血した血液を冷媒として急速発電を開始し、蒸気と化した血風を纏う……。

 一見して優勢に見えるが、実際は苦しい。

 リーンズィが記録している限り、アルファⅡウンドワートの発電力や貯電量は同規模のスチーム・パペットを大幅に上回る。

 デイドリーム・ハント後に急速発電が必要になる機体では無いはずだ。

 それが今や憐れにも地に落ちて、息継ぎのように発電に注力しなければならなくなっている。

 限界が近付いているのだ。

 一刻も早い救援が必要だった。

 リーンズィは焦燥感のままに駆け出そうとして、しかしケットシーにインバネスコートの裾を掴まれた。


「このおじいさん殺した方が早いよ。これがヴェストヴェストなんでしょ?」


 そうして不朽結晶連続体の長剣を老人の首筋に宛がう。


「猫の見る夢、人の夢。死んだらそこで猫に戻る。人が死んだら塔も猫に戻る道理」


「確かに道理だ。しかし意味は無い、サムライの商売女」老人は冷静だった。「俺は夜の灯台守みたいなもんだ。この塔の演算式が起動して終了するまでを観測する以外に機能は無い。役立たずだ」


 にゃー、と机の上の猫がうるさそうに鳴き声を上げた。

 その猫はな、目覚めるまでのタイマーなんだ、と老人は告げる。


「あの白銀のスチーム・パペットの知覚に行きたいなら、その窓を潜れば良い。俺なら同じ力、同じ装備でも行かないがね。ベルリオーズと交戦するだけでも危険だが、どうやら俺の本体がオーバーフローを起こすまで、あと十分も無い」


「しかし、そうすると猫に戻るのではないか? 他の不滅者と同じく……」


「いいや、俺の演算式は少し違う。ヴォイニッチと組んだ特別製だ。最終的に論理強度が世界の許容限界に到達して、強制復元が実行され、一本の塔に戻るが、そのとき、予備式が存在崩壊を遅らせる。空気の圧縮やらなんやらで大爆発を起こして砕け散るが、そこから短時間残留するのだ」

 

 何だか大爆発を起こして、その爆発した状態で復元を繰り返すのだろうな、とリーンズィは理解した。


「どうせ逃げ道を用意しているのでしょう。さっさと教えて」


「そうだな。初代リリウム様の御聖体であられるからこそ伝えるが、実は塔の領域拡大と逆方向に進めば、避難所に辿り着くように組んであるんだ」


「……それってつまり、このあばら屋よね」


「ここだな」


「ホラー映画のセットのCGじゃなかったの?!」


 目を丸くしたケットシーに、老人は複雑そうな顔をした。


「ああ……? 俺が終の棲家として現役時代に買った山小屋をホラー映画のセットと言ったか今」


「避難場所として成り立っていませんよね。私たち相当無理をしてここまで来たんだけど」


「手順があるんだよ。……塔の回転方向には規則性があるのですよ、リリウム様、知っていさえすれば、回避可能という仕様です。あらかじめ仕様を知らなければ普通は実行不可能な避難方法だがな」


 リーンズィはヘルメットを抱えたまま曖昧な顔をした。


「ヴェストヴェスト。君は、最初はここに留まっていてもどうなるか分からないと言っていたはずだが」


「……俺は塔が崩れた段階で停止するから、この部屋から俺が消え去った後のことは、知る方法が無い。論理上無事だが実際は知らん。正直に答えただけだ。さぁ、ここでこのまま、退避しているという選択肢も出てきたわけだ。ベルリオーズは容赦が無い。殺人を無くすという使命に狂い果てている。狂気に堕ちた獣だ。確実に人格記録媒体を破壊しに来る。ただ、あっちも限界が近い。俺の塔が崩れれば数分で消えるだろう。ここであのパペットを見殺しにしても、バチは当たらんだろう」


「そうかもしれない。それでも向かう」リーンズィは即答した。「あの白銀のスチーム・パペットは、私たちを逃がすためにあそこで戦い続けている。いけ好かない機体だが、それでも私の大切な仲間で、頼れる兵士だ。彼を慕う友人たちに顔向けが出来ないし……手の届く位置にいるものを見捨てられる程の覚悟は、私には未だ無い」


「そうかい。好きにしな。誰がどうなると、そうとも、俺には関係ないんだからな」


「教えて欲しい。窓を抜けるとどうなる?」


「現実世界の物理距離を無視して、その風景に転移できるはずだ。ここからは、一瞬で弾き出されるだろう。試したことは無いがね。しかし、この部屋を知らなかったんだとしたら、どうやって中心部まで行くつもりだったんだ? 塔は空間を押し潰し、延伸させながら拡大する。アキレスと亀だ、普通に歩いていても永久に辿り着かないはずだが」


「え、そうだったのか……」


「あるいはここに運ばれる運命だったのかもしれないな。興味も無いが」


 ミラーズはしばし沈黙していた。「マオルエーゼル」と重々しく口を開いた。目元には悲しみを、愛らしい唇には沈痛を湛えている。


「ねぇマオルエーゼル、どうか教えて。何故、このような破滅の塔を作り上げたのですか。あなたが大主教ヴォイニッチ、あの卓越した聖句遣いと、色々な試行錯誤をしていたのは知っています。しかしそれは、神の御国の到来を、心から信じての行動だったはずです。それがどうして……こんな冒涜の機械になってしまったの?」


 老人は押し黙った。

 線を四方に潜らせ、一度だけミラーズを、己の信仰の対象だった少女を見て、己の焼死体の顔を隠すようにして、目を逸らした。


「……生前の俺は、退屈でな。知ってるだろう、金だけは幾らでもあった。生まれつきでな、増やすまでも無い。勝手に金は増えていく。金があれば金を増やすシステムを構築出来るわけだからな、後は改良していくだけで良い。体も至って健康だった。間違いなく人生の成功者だった。だが、疑問というのはどんな隙間にも入ってくるもんだ。今は上手く行く……だがどうすればいい。何か変わるかと思って無駄金を積んで城を買ってみたが、大した意味は感じなかった。ああ、こんなものか、と思っただけだ。俺はいつまでこんな……意味の無い成功を、し続ければ良い?」


「昔と同じことを言うのですね」ミラーズは目を細める。「次はこう、『だから、いつか必ず来る失敗が怖くてたまらなかった』」


「そうだ。俺は常に何か際限の無い失敗がやってきて、全てを台無しにするって直観してた。だから何もかもが億劫で、何をする意味も信じていなかった。あるいはそのうち神様の御言葉みたいなやつが降りてきて、何か善行に目覚めるのかもしれんと思っていたが……俺の所に来たのは司祭気取りの娼婦だった」


「嫌な言い方。私とヴォイニッチね」


「そうだ。金も、女も、くだらないと思っていた。薬で得られる快感もな……。でも聖歌隊だけは別だった。聖歌隊は本物の奇跡を見せてくれた。不死の奇跡を見せてくれた。リリウム様は清らかで美しく……ヴォイニッチは嘲笑うように言葉で現象を編み、現実をぬ誓えた。めでたく俺はリリウム様たちの言うとおり、黙示録の時代が来たのだと信じたわけだ。死者の復活、未知の疫病の伝播の時代だ。預言された終末、これを安寧のうちに完遂させることが俺の宿命だと確信した。神は実在し、俺はそのまなざしの中で生きているのだと確信したんだ。そして聖歌隊の娘どもを効率的に世界の基幹部に回す手伝いをして、装備調達にも口を利いてやり、そうしてスヴィトスラーフ聖歌隊は躍進し……世界中を歩いて回り……」


 ヴェストヴェストは言葉を濁し、ミラーズにうつろな目を向けた。


「リリウム様、あなたが去って、それから何十年、あるいは何百年か経って……それでもまだ神の御国は降りてこなかったんだ。俺はどんどんおかしくなっていった。神を挑発するための研究を始めた。大した発明品だよ。無差別に破壊を続け、世界の許容域を超えて質量を増大させ続ける悪性変異の塔だ。神がいるならば、俺が如き悪鬼には神罰が下るはずだ。神罰が下れば、それが神の存在証明になる。俺は神など信じていないと信じていたが、仮初めの信仰だった。神が本当にいないのかもしれないと思ったとき、壊れ果てた。焦っていたんだ、今までの全てが無駄だったのではないか、これこそが俺の失敗だったのではないかと、絶望して……それでこのザマだ。結局何の成果も出せなかった。おお、この塔を見よ! しかし、俺という計算式に、涜神の雷は落ちてこない……ここで同じ破壊を繰り返すだけだ」


 老人は疲れ果てた様子でコーヒーを啜った。


「いや……それも欺瞞なんだ。本当に俺が怖かったのは、リリウム様、あなたが我々を裏切って、娘と共に旅立ったことなんです……」


 ミラーズは目を伏せた。「ごめんなさい。世界の平定は、聖歌隊による戦争の根絶は、アポカリプスの平穏な完成は……もう疑いようが無いと思ったの。だから最後に、やるべきことをしようとした。いいえ、これも自分について都合の良いことを言っているだけ。聖歌隊の教えに背いたのは、事実です」


「いいや、違うんだ、リリウム様。俺は怖かったんだ!」老人は嗚咽を漏らした。「リリウム様が本気で聖歌隊の理念を信じていないなんてことは、分かっていた。最後には違う道を選ぶかもしれないと分かっていて……実際、何人もの信徒が、優秀なスチーム・ヘッドが、あなたの旅に同行した。ついていくべきだったんだ、この俺も! あなたの最後の旅についていくべきだった! だというのに俺は、リリウム様の嘘を信じることに固執した。あと一歩で辿り着けるかもしれない、神の御国に期待をしてしまった! 俺は本質から目を背けた。リリウム様が信じてはいなかったことに、縋った。あなたに見捨てられたのだという事実を信じたくなくて、嘘に嘘を重ね、妄想に妄想を重ね、リリウム様という事実に背を向けた!」


「マオルエーゼル、あなたは何も間違っていません。正しい行いをしたのです」


「何が正しいものか! リリウム様を信じないのであれば、俺という人間は、もう夢を見ることさえ出来ない! そうとも知らずあなたの残した嘘に縋ったんだ。裏切られたと思いたくなかった。俺の裏切りを認めたくなかった。だから世界救済に逃げたんだ。神の存在証明に拘泥した! 俺は、そうとも、裏切ったあなたをそれでも信じる……そんな簡単なことが出来ない自分という人間が、嫌だった……だからこんな安っぽい狂気で自分を誤魔化している……」


 老人は泣きそうな顔で一息に言い切った。

 白濁した眼球から、血の涙が一筋、痩せこけた頬へと零れた。

 それから、ウンドワートたちの見える窓を指差した。


「さぁ行け、行って助けてやれ。こうなってからはいつも思うんだ、もっと人を助ける生活をするべきだった、とな。アムネジアの後継者、ナイン・ライヴズがそうしているように。難しい話じゃない。私は結局、助けたいどなたかを助けてさえおれば、それできっと良かったのだ。あの時、深く悩まずに、リリウム様を助けるために、最後の旅に同行すれば良かったのだ。愛する者のために、嘘さえ捨てることを、すれば良かった……。さぁ行け、俺のようになるな。さぁ行け、あの白銀のパペットを助けてやってくれ。無謀な旅人を助けてやってくれ。……俺の願えることは、もう、それぐらいだ」


 リーンズィは左腕のガントレット、世界生命終局時計のタイプライターめいたコンソールを叩き、ケットシーに目配せをした。

 無声通信でウンドワートのいる場所へ到達した後の段取りについて綿密に打ち合わせた。

 その間、ミラーズは老人によりそった。

 彼は決して目を合わせようとしなかった。

 金色の髪から目の覚める芳香を漂わせながら、ミラーズは机の上の猫を撫でた。


「マオルエーゼル、もしもあなたに猫の命があるのならば、あたしたちのアパートに来ると良いわ。あなたの本当の願いはもう叶わない。そんな力は備わっていないもの。だけど遊びに来た猫は……精一杯、可愛がってあげましょう。それが私に出来る、せめてもの償いです」


 行こう、ミラーズ、とリーンズィが強張った声で呼びかける。

 金色の髪をした聖女は、老人の震える肩から手を離した。

 そして腰のホルスターから折れたカタナを抜き取る。

 陽光を反射する不滅の金属は、石碑に刻まれた預言の言葉に似ている。


「大丈夫、きっと上手く行く」少女は目を瞑って唱えた。「なにがあっても、大丈夫なんだから」 


 

 少女たちは窓外へ身を乗り出し、身投げをする自殺志願者のような躊躇の無さで、絶対安全の牢獄から飛び降りていった。

 決戦の地へ。

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