2-12 祭礼のために その7(5) 嵐の中で猫たちは鬼火の少女の夢を見るか?
無辺に広がる不朽結晶の山嶺、あるいは自己破壊に至る信仰の証。
大主教ヴォイニッチが評するに、それは模造の狂気、偽の狂信。
塔の不滅者<ヴェストヴェスト>の暴威は留まるところを知らない。三秒に一回の増殖のタイミングで世界を押し潰し、しかしその実全てをもう一度造り出している。全群を同時に転換させ、その胎の内にあるもの全て――己自身までをも――を押し潰さんと、圧壊の咆哮を大地に奏でる。
ごう、と暴風が擂鉢の底を砂塵に帰す。
乱雑に巻き上げられた瓦礫に混じって飛ばされていく、小さく無力で、無害な影があある。大嵐になされるがまま吹き飛ばされていくのは、不滅の夢から目覚めた虚実の猫たちだ。これしきの嵐は慣れたものという調子で、傷を負うでもなく逆巻く渦に運ばれて、伸びたり丸まったり、あるいは楽しげに手足をばたつかせ、あるいは「ぐにゃー」だとか不機嫌そうに唸りながら、世界の果てまで飛んでいく。彼らの住まうべき土地は、きっと人知の及ばぬ時の最果てにこそあるだろう。
猫たちが突風に吹き飛ばされて行く間にも、嵐に抗うモノたちは不毛な殺し合いを続けていた。
ウェールズ王立渉猟騎士団とロングキャットグッドナイトの不滅者の交戦は、あらゆる瞬間において継続していた。彼らはそれ以外の何をも知らぬ、共通善の大怪物亡き混沌を彷徨う、血に渇いた亡者どもである。
赤い竜の刻印を持つ古式甲冑どもは、如何なる暴威にも動じはしない。あたかも錨を降ろした船の如く漂う曖昧に揺らぎながら空間に留まり、己らを時間枝に縛り付ける。
「ふしゃー!」と宙を舞う猫に威嚇されても騎士団は反応を示さない。鈍重な彼らにとっては、そもそも風にのってじたばたして、何か良く分からないままどこかへ流されていく小動物たちはすばしっこすぎるし、何より捕まえてどうしたものか分からない。
いずれにせよ、彼らを煩わせるのはそれら空飛ぶ――ただ吹き飛ばされているだけだが――猫たちぐらいなもので、後は残らず些事だ。
塔も破壊も関係が無い。時空間を移動する存在にとっては、三次元世界での圧力など水面を撫でる風に過ぎない。彼らの存在核はおそらく<今・ここ>ではないいずこか、人類文化の到達限界点、あるいは人類廃絶の廃棄世界、さもなければ彼らの演算された精神にのみ象られる無形の記念碑、超越精神を決定づける何らかの概念にこそ設置されている。礫や破片、破壊的な速度で殺到する飛来物は、悉く騎士団を擦り抜ける。避けるのではない。通り抜けて、そのまま地表のアスファルトに突き刺さり、砕け散るのだ。
ウェールズ王立渉猟騎士団とは、つまるところ時間に投じた影に過ぎない。
魂の影だ。
魂無き者は触れることさえ叶わない。
「ぎにゃー!」と飛んでいく同胞の夢の残骸を、不滅者たちは追跡しない。猫たちを仲間と認識しているかも曖昧だった。不滅者の軍勢は、元より何が起ころうと、大した反応を見せなかった。目の前の敵を排除する、ここから一歩も進ませないという条件で恒常性が働いているのか、足下を掬われて吹き飛ばされそうになると、現在地点を変えないように自動的に復元を実行して、目標との相対距離を補正する。
限界がないわけではない。ただえさえ動きが悪い上に、不滅者の大半は、そもそも戦闘用スチーム・ヘッドですらないのだから。
装甲が十分でない機体は、飛来したただの瓦礫にヘルメット上から頭を打ちつけられて、そのまま昏倒した。吹き飛ばされ、復帰すると同時に、足場の定まらぬ空中で藻掻く己を発見し、正しい位置、正しい座標へ帰還しようと、無秩序に復元を繰り返した。寄る辺なき宇宙を彷徨う宇宙飛行士のように藻掻いているうち、勝手にオーバーフローを起こしてしまう。穴の空いた風船のように蒸気を撒き散らし、不滅者の夢から目覚めて我知らぬ顔をした、一匹の小さな猫になる。それから、やはりヴェストヴェストが巻き上げる風に身を任せ、ふわりと浮かび上がり、暴力的な加速によって、どこか上空へ消えていった。
猫たちは怒りも憎しみも忘れた、のんびりとした気持ちで破壊の副産物として生じる暴風に乗っていた。浮かんでは落ち、落ちては浮かぶ。
地上のよしなしごとは、気にしない。人間などは所詮大きくて鈍いだけの猫だ。しかも彼らの魂は偽物で、どんな攻撃にも殺意や悪意は乗っていない。つまり彼らはよくわからない遊びをしているだけ。猫はのんびり眠たげで、剣呑な遊びにはますます興味が無い。大きな猫たちが何をしていようとも、小さな永久の猫たちは、今はふわふわと風に舞い、尻尾で器用に姿勢を操りながら、ぐるぐるぐるぐると、世界が愉快に回転するのを楽しむのだった。
――そんな猫の一匹が、ひとつ、奇妙な光景を目撃した。
その猫もまた、暴風にもみくちゃにされながら、のんきに瓦礫に紛れて巻き上げられつつある。白い毛皮をして、左側の目の下に、隈のような黒毛が生えていた。まったく、どこを改めても、ただの猫である。己が不滅であることすら理解していない。そのくせどんな危機をも信じてはいなかった。
「にゃ。にゃにゃ。にゃんにゃん、にゃーん?」
天が地に地が天になり、猫は不敵に鳴いてみる。
致命的な暴風に飲まれても、一向に怖くはない。何故なら自慢の猫髭は気流を敏感に感知し、柔軟な背骨は水の如くに猫の肉体を自由にする。嵐に身を任せて漂うのは、地に足着いたヒトには厳しかろう。しかし猫ならば容易いことである。猫はしなやか、水のよう。流れる水は落ちるもの。落ちたところで水は死なない。高いところは慣れたもの、着地を信じて疑わない。
「にゃー……はにゃっ! にゃにゃにゃ!」
そうしているうちに、この一匹の猫、夢見の猫の一匹は、その優秀な動体視力で……それを見つけた。
同胞だ。
誰かがこの廃墟の街に置き去りにしていった、ぬいぐるみの同胞が飛んでいるではないか!
宙返りを一回、二回。尻尾の遠心力で三回、四回。ぐるりぐるりと回りに回り、己が天空のどこにいるかも知れぬ有様だが、最後にきちんと着地をすれば、万事それで構わないのだ。
ヒゲを揺らして風を読み、猫は器用に遊泳する。殆ど流されるがまま行き着いたというのが実際だが、信じればいつか叶うもの。ついにはふわふわの同胞をキャッチした。ぬいぐるみは、黴臭く、酷く汚れていたが、それでこそかえって愛着が湧くというものだ。
猫はそのぬいぐるみ、二本足で直立したような形状の偏屈そうな顔の、憎めない友人を存分に楽しんだ。てしてし、てしてしと、暴風に飛ばされつつ遊んでいるうちに、移ろいやすい猫の興味は、やがて地上の一点に定まる。
蒼い炎が、踊っている。
猫からしてみても、その蒼い炎はいささかならず異様だった。得体の知れぬ蒼い炎が縦横無尽に空間を飛び回り、分裂して消える。そして暗い色をした閃光がその後を追うように迸り、塔の群れを藁束のようになぎ倒している。
眺めているだけで楽しくなる煌びやかさだが、全てが終わってしまった後めいており、涙のごとく雨降る国の、葬送の踊りのようにも見える。
もちろん、猫はそんな踊りは見たことは無い。この灰色の遊び場や、郊外の教会より外へ、猫は出たことがない。猫にはもう、ちっともそんな記憶は残っていないのだが、それでも遠い誰かの夢を、思い出すことはあるのだった。
猫はぬいぐるみを抱きしめた姿勢のまま、蒼い炎の揺らめき飛び交う狂おしい美しさに見入った。
蒼い炎はふらふら、ちらちらと移ろうようでいて、明らかに嵐の中心部へと進みつつあった。
それは亡者の掲げる南瓜のランタンに似ていた。まるで辺獄歩きの先導者だ。永劫の彼岸を彷徨い歩く道を選んだ、憐れな亡者の火である。ランタンを掲げた亡者は、開かれた楽園の門に背を向け、地獄の安寧に忘我することさえ己に許さず、この世界が終わりまで、足先から伸びる影だけを友にして、どこまでも歩き続けるのだという。
「にゃーん……」
もっとも、猫が知る限り、世界に終わりなどない。どこまで行っても遊び場である。猫の心が躍る限り、世界は無限に続くのだ。しかし、立ち止まることが出来ないというのは、とてもつらく、厳しいことだ。猫は遊ぶのと同じぐらい、温かくて居心地の場所で、安心した気持ちで眠るのが好きだった。
だからこそご主人様のご主人様、ヴォイニッチは立ち止まることを選んだ。ただ理不尽な苦難に満ちた前進ではなく、安寧のうちの停滞、永続的な安寧を肯定した。彼女はまことの心から、本当の幸いに人々を導いた。「こんなところで終わらせてはならない今ここでこの日この時間この命この心この想いあの星をあの空をあの恋を。愛しい人々の傍で我々は何度でも蘇ろう」と唱えたのだ。ただ一人この世で眠らぬものになると誓ったのだ。
「にゃにゃ。にゃー?」
回る世界の片隅で、猫の瞳は蒼い鬼火を追いかける。その後ろに、一つ二つと、追う人間がいることに気がついて、訳知らず鳴き声を上げる。ご主人様(奴隷)と同じ、年若い娘たちである。三人でひとかたまり。互いを互いの全てとして、繋がりあって、進み続けている。辺獄の鬼火に吸い寄せられるように、迷いの無い足取りで進んでいる。酷く苦しい道程だろう。猫と違って風には乗れぬ。吹き飛ばされれば、怖いだけ。なのに嵐の中心へ進むのだ。
辿り着いた先に何があるのだろう?
あんな怖い思いをして、それでも釣り合うぐらいの、何か素敵なものでもあるのだろうか……。
その日暮らし、ご主人様暮らし、風の吹くまま暮らす猫には、もう分からない。
「にゃーん……」
そのうちに、猫は鬼火に連れられていく少女たちからも興味を失った。ぬいぐるみをどうするか少し迷ったが、きっとこの無愛想な顔のふわふわにも還る場所がある。手放された綿毛の同胞は暴風にまかれ、願われたとおり、どこかへ向かって吸い込まれていく。
遊ぶことと眠ること、それだけでご満足な猫である。風とはすっかり遊び仲間だ。好きなところへ運んでくれる雪混じりの透明な友達。猫は伸びをするような仕草で前脚を前に出し、後ろ足もピンと張る。
そしてさらに加速して、在るべき場所に還っていった。
無数の猫、無数のくりくりとした猫の瞳に見守られがら、鬼火を追う少女たちは、嵐のさらなる深奥へ。王を誘惑するために裸足で雪原を踊る美姫のような危うさと、月面を初めて歩いた宇宙飛行士の気高さで、振り返らず、ただ真っ直ぐに。
「帰ろう。還るんだ。この先にこそ、私たちの帰るべき場所がある」
この嵐の向こう側で、どれ程の超常が渦巻いているのか。塔が増殖する中心点で正常な物理法則が機能しているとは到底思えない。不滅者は明らかに世界を歪ませている。ベルリオーズとヴェストヴェストの異なる二者の組み合わせは、あるいはさらなる不条理を呼び寄せているかも知れない。
だがリーンズィの清廉なる赤い瞳には、進むべき道しか映っていない。
敵を見ない、不滅者を見ない。ただ肉体のみを信じる。背中に重外燃機関とヘルメットの重み。左手にガントレットと、人形じみた美貌の、生気の薄いセーラー服の少女の薄い肉の感触。エージェント・シィーの忘れ形見、ケットシー。素肌の右手には、行進聖詠服に身を包み、金色の髪を翼のように靡かせる、小さくも頼もしい背中。いちばん最初の愛しい人、ミラーズ。
今は、それ以外には何も必要ない。機械の鼓動の二人の少女の香り、触れられる二つの体温だけが、ライトブラウンの髪の少女を奮い立たせる。
何も恐れない。
何も怖くは無い。
在るべき場所へと前進せよ。
帰るために、地獄へとひた進め。
「三人で帰ろう。私たちの家へ帰ろう……」リーンズィは祈りを捧げるような声音で唱え続ける。振り返りはしない。道標を見失わないように。自分自身の歌声が、リーンズィの意識をより明瞭なものへと変えていく。「何があっても大丈夫。私たちは、だいじょうぶ」
「ええ。帰りましょう、リーンズィ。私たちの家へ」
「楽屋にはヒナの部屋もあるの?」
「ある」今はない。「君の部屋もある。君もそこで暮らす」これから創れば良い。
紅玉・翠玉・黒曜石。宝玉の目に映るのは、ただ凄惨な破壊の渦だけだ。しかしその果てにこそ理想郷がある。理想郷に至るための手がかりがある。それを疑わない。空に舞う鳥が新天地を信じるかの如く殺戮の暴威の最中で空想を信じる。
少女たちが浴びた砂塵は不死の病に浄化され、蒸気の煙となって吹き消される。
形あるものは全て波濤の如く押し寄せる塔の不滅者に押し潰され、聳え立つ生活の残滓、人々がかつて暮らした文化の痕跡は、今や見る影もない。
さらには不可知の速度で迫り来るその破壊の権化さえ、無貌の騎士が細切れにして、唯一確からしいその残酷な絶対存在まで、根本から否定をしてしまう。尋常外の領域から、あらゆる時代、あらゆる土地を経由して塔の暴威を切り払う。
場を支配しているかのように振る舞うその異形の騎士でさえ、数秒の時間経過で次の転移を開始して、霞のように失せてしまう……。
ここには何も無かった。
確かであると保証されるものは、一つも残されていなかった。
破滅の虚無だった。死と劫掠の吹き荒ぶ荒野だった。
誰が住まうべき土地でもなかった。風に飛ばされて飛んでいく猫ぐらいしか、この土地を楽しむことは出来まい。
「ねぇ、それじゃああれは誰の家なの?」
不意に、ケットシーがある方向を指差した。リーンズィは反射的にそれを見た。そして奇妙なほど冷え切った脳髄で、それを正確に解釈した。
家があった。
進路上、塔と塔の間に紛れ込むようにして、一軒の家が佇んでいる。ディオニュシウスが切り拓いた道がそこに続いていたというわけでもなく、夜の山野で廃屋を見つけるが如く、ただ出くわしただけといったような具合だった。
あたかも古来よりその位置にあるのが正当であるとでも主張しているような印象さえ与える。だが、そこにあるべきではないものであることは、誰の目にも明らかだった。この破壊の渦の中に、人が住まう場所などあるはずがないのだ。
「……えっと、見覚えがあるかもしれません」
肉体的な直観による確信だろう、ミラーズは宣教師めいた声音で何やら聖句を唱え、首輪型人工脳髄から記憶を呼び出そうとしているようだ。
少しして息を吐いた。
「……抽象化が進みすぎていて分からないみたいですね。見覚えだけは、あるのですが。何という国の建物でしたか……」
淡々としていながらどこか得意げな声が耳朶を打つ。『解析完了。フィンランドの伝統的な建築様式であると推定されます。……住居や家屋の定義にもよります』
「ありがとう、私の可愛いユイシス」金色の少女は普段よりも嬉しげに声を弾ませた。「助け船を出して下さったのですね。あなたはまるで智慧の天使のよう」
『礼には及びません、当機の愛するミラーズ。貴官を支援することこそ当機の幸福です。それに天使というならば、その名に相応しいのはミラーズの方です。当機を構成する一切合切は、全て貴官より譲り受けたものです』
空中を移動したユイシスに寄り添い、物理演算をオンにしてミラーズとしばし抱擁した。
黒髪の少女はユイシスを視認出来ていないため、「何かあの抱き合うような仕草、やらしいしクレームになるよ。いくらミラーズが可愛くても、一人でああいうことしてるのはおかしい。どれだけ治安が乱れてもいつでも教育委員会と広告会社はうるさいの。芸能界に詳しいからヒナには分かる」と耳打ちした。
「君も統合支援AIと会話することはあるのではないか?」
「え、会話はするけど抱き合ったりは……みんな支援AIとあんなことしてるの?」
ケットシーは僅かに抵抗感を示した。初対面の女性のはらわたに金属片を押し込もうとしたくせに、余人には理解しがたい一定の倫理観を持っているらしい。
「誰かの姿をアバターにしてるんでしょ。それで勝手に遊ぶは放送倫理委員会に怒られる」
君は他にも沢山良くないと思うべき行為をしているぞ、という言葉は飲み込む。発狂した世界から目を逸らすための会話だ、理非を問う意味は無い。意識の外側では、今も騎士団と不滅者が再生と消滅の破滅的輪舞を演じている。これから目を逸らすために全力を尽す。
努めて、思考を空想へ、逃避的思考へとシフトさせる。あり得ない場所に、突然、家が出現したのだから、これも意識してはならない。認識に対して仕掛けられた罠に違いなかった。まともに思考を働かせてはならない。狂気の渦に引き込まれればまた錯乱状態に陥ってしまうだろう。すすす、とミラーズの傍に猫がすり寄り、それから自分から飛び上がって、「にゃーん」と楽しげに唸ってとんでいく。これはこれで異常だがもうこういうのばかり意識するのがいちばんだ。
「テレビ歴はきっとヒナの方が長い。だからアドバイスをするけど、っていうか……あれ? 今、ヒナたちは……どこにいるんだっけ……撮影を……でも、ここは……」
微かに発汗の兆候を示した。正気の狂気に戻りかけているのだ。
ユイシスが溜息のジェスチャーとともにケットシーの首輪型人工脳髄のバックドアから侵入、支援AI系統のシステムに割り込んで自分を『見える』ようにした。意識を逸らされたケットシーが黒曜石の瞳を丸くして輝かせた。瓦礫と砂塵の中でもミラーズから写し取ったミラーズの美貌は光り輝いて見えたことだろう。
『おはようございます。当機はアルファⅡモナルキアに搭載の統合支援AI、ユイシスです。貴官の支援機であるユンカースとは姉妹関係にあります』
「姉妹? 双子? ミラーズが……二人?」とケットシーは首を傾げる。首を傾げている間にユイシスは、彼女に見せつけるようにいっそう深くミラーズと抱擁とキスを重ね、見せつけた。
「はっ……新しいプロモーション! とびきりの美人さんが二人、同じ体、同じ顔で、こんなに深く愛し合っているの?! 双子百合……違う、これはドッペルゲンガー百合……! ヒナの目を以てしてもこの方向性は見抜けなかった……!」
二人の熱量にあてられて対抗心でも燃えてしまったのか、ケットシーは不意にリーンズィの唇を奪おうとしたが、背丈で勝るライトブラウンの髪の少女は難なくそれを躱した。
迷惑だったが完璧に明後日の方向に思考を逃したようだ。
「動かないでリズちゃん。いっぱいキスして気を惹くの。ここでサービス点を稼いでおかないと、ああいうカットのオファーを、今後あの二人に独占される……! もっと過激なことしてカメラマンを興奮させよう!」
「統合支援AIに対抗心を示しても仕方が無いし、ユイシスは最悪なので張り合うだけ損をするぞ」
リーンズィは素直な意見を述べた。ユイシスのアバターが跳び蹴りをしてきたが、リーンズィは無敵チートをONにしてAIからの攻撃を無効化した。アルファⅡモナルキアのデータベースからサルベージできた数少ない有用スキルである。
黒髪の少女はスカートの裾を掴みながら悔しげな声を漏らした。
「リズちゃんは分かってない。AIは危険。とんでもないライバル。ヒナの支援AIのユンコは、ヒナのボディを九割ぐらいコピーして、服をカッコかわいい軍服ワンピースに替えて、それをアバターにしてるんだけど……フィギュアがね、実はヒナと同じぐらい売上良いの……胸も盛ってるし顔立ちもカッコいい系に調整してるんだけど……その辺りを抜きにしてもいっぱい玩具が売れていた……」
「そう……ショウビズや玩具販売の業界も大変なのだな……」
「バーチャルボディだと何でも出来るし……真面目なニュースにもヒナじゃなくてユンコのアバターが呼ばれるんだよ。侮れないんだから……」
それはAIがどうのこうのよりも人格の問題ではないだろうかとリーンズィは思った。
かくして、とうとう一行は、その家らしき建物に到達してしまった。
塔がこれを破壊する兆候はなかった。実際は物理的な挙動として、進路上に完全に巻き込んでいるのだが、家屋は波打つ水銀のように揺らめき、砕かれるどころか塔を空間ごと歪曲させることで、平然と存在を継続させていた。
見窄らしい家である。だというのに、何らかの超越的法則によって、周囲一帯だけが別の宇宙に書き換えられており、その家を傷つけられるモノは存在しない。不滅者も騎士団もあばら屋を無視して刃の輪舞に興じている。
狂乱の絵図に、似つかわしくない一枚の絵が差し込まれた。そんな奇怪な光景であった。
ディオニュシウスもまた、家には興味を示さなかった。知覚しているかどうかも妖しい。無心にヴェストヴェストの分け身たちの増殖復元を阻害し続けている。
リーンズィは警戒心を全身から滲ませた、右手の中でミラーズが汗を滲ませる。異常性を認識せずには射られない。
だがケットシーだけは違った。
「この、ホラー映画のセットの残骸みたいなやつ、やっぱり気のせいじゃないよね」純粋に興味深そうにヒナが呟く。「前の撮影の撤収忘れかな」
「ホラー映画とは?」
「こう……オバケとかが出てきて、人間の首をグキッとしたりして殺す怖いやつ。死なない体でも見てて怖いからホラー映画。本能に来るの。雰囲気が怖いの」
ユイシスが視界の片隅に映像ウィンドウを生じさせ、一瞬だけチープなCGのサメ映画を表示させた後、リーンズィに怒られる前にホラー映画なるもののモンタージュを圧縮再生し始めた。
ふむふむ、とリーンズィはそれらを流し見した。殺人鬼や醜悪な怪物、超常存在の貸す陰湿な理不尽。なるほど、ケットシーの建物に関する表現は、極めて端的である。要するに生命的忌避感、危機感といったものを効果的に煽る映像芸術なのだ。途中でサメ映画が出てきたときはリーンズィも何か言いかけたが、ちゃんと怖かったので「クソ映画ばかりというのは嘘だったのか」と得心した。いつかユイシスにクソ映画ではないサメのやつを見せて貰おう。
これらの映像記憶を参考にしてみると、この廃屋にしても、確かにホラー映画的である。土煙吹き荒れ、蒸気噴煙が満ち満ちた空間では、いっそ退廃の美、昔日の憧憬の成れの果てが如き哀愁さえ感じさせるが、これがもしも真夜中ではあれば、本能的な忌避感からそもそも近寄ることさえ有り得まい。
しかし、破壊の渦の只中である。あたりを跋扈する不滅者や腸管の甲冑のほうが、よほど怖い。
冷静な眼差しで眺めてみると、家はあくまでもただの家であり、空間に対し物理的にあり得ない挙動をしている点を無視すれば、ごく自然な気持ちで観察が出来た。
有り体に言えば廃屋だ。住居と呼ぶには躊躇われるほど朽ち果てており、一部では屋根が落ちて、梁があらぬ場所から飛び出しており、落ちていない部分はそのうち自重で倒壊しそうなほど傾げていた。板張りの壁は黴で黒ずみ、何十年も手入れがされていないように見えた。戸口まで歪みきって、扉が閉まっているにも関わらず、内部が覗けそうなほど隙間が開いてしまっている。
ただ、大凡の印象としては落ち着いた外観をしている。モダニズム集合住宅じみたクヌーズオーエの一般家屋とは全く異なる。
すっかりと腐敗が進んではいたが、厳正なる静粛の雰囲気を志向されていたようだ。
「十字架を打ち付けていたような痕跡がありますね」
ミラーズがポイントした部位が、ユイシスがリーンズィたちの拡張視覚に共有される。
元々は宗教関係の施設だったのだろう。
「僻地の教会裏に墓守の小屋などあれば、このような外観をしているかも知れません」
リーンズィたちは目配せし合った。理解を超えた現象に、安易に触れるべきではないと暗黙のうちに共通見解を交換する。ディオニュシウスの防御と迎撃は完璧である。多少遠回りにはなるが、避けて通ることは可能だった。
進路を変えようとした。
家が進路上に移動した。
「うん……?」「あら」「え」と少女達は凍り付いた。
リーンズィが体の向きを変えると、廃教会の墓守小屋はそちらの方向に空間ごと滑り込んできた。
「ユイシス、解析しろ」
『対象はあらゆる活動痕跡を示していません。解析対象を変更。リーンズィ、ミラーズ、ケットシーについて神経活性を解析しました。視覚欺瞞です。貴官らが目にしているのは、実体ではありません』
「悪性変異体が時折形成する共同幻想ということなのか? ……ということなの?」
グリーンランドのノード基地から飛びだった直後、鎮静塔ノルウェーの海岸線付近で環境閉鎖鎮静塔がこうした異常風景を幻視させる電磁波を発していたことを思い出す。それが人工脳髄に侵入して視覚を欺瞞しているのだ。悪性変異体を内包した拘置施設は常ならず密集しており、廃屋一軒という小さな規模では無かったが、覚えがない体験ではない。
「つまりこれはCG。完全に分かった」ヒナが完全に分かった。
『肯定。CGのようなものです』AIは適当に返事をした。
エージェント・アルファⅡとしてのデータベースを参照して、リーンズィはユイシスと仮説を組み上げた。
安定化の進んだ悪性変異体は、時折電磁波を放射して周囲の機械式知生体に幻覚を見せることがある。不滅者も通常とは異なる様態へ恒常性を変更した、という点におては悪性変異体と同様だ。
意図してか否かは不明だが、周囲に不正な電磁記録を実行する機能を備えていても不思議ではない。
「私たちの見ている幻だから、必ず私たちの前に現れるというわけかしら」原理としてはそういうことになる。相手は実際はその座標ではなく、人工脳髄の中にいるのだから。「着いてくるし、避けては通れないということね」
『回避可能なパターンを検証する猶予もありません。物理実体を観測出来ないため、領域内に侵入しても実害は無いと予想されます。ただし人工脳髄への電磁的負荷により、認知能力が一時低下する可能性はあります』
リーンズィとミラーズは見つめ合って頷き、歌うミラーズを立ち止まらせて、リーンズィが一歩前に出る。
ケットシーも夢うつつといった表情のまま不朽結晶刀剣の柄を握った。
「まず私が進入する」
アルファⅡモナルキアのヘルメットで頭部を覆い隠し、電子保護を最大化する。
余剰人格記録媒体を利用した精神防壁が致命的な汚染からリーンズィを守るはずだった。
「安全を確認出来たら合図をする。それまでは待機を。……最悪の場合はディオニュシウスを使って、後退を」
意を決して、リーンズィは廃屋の扉を押し開いた。




