2-12 祭礼のために その6(2) 貌の無い騎士の夢
「彼女は……? 彼女は、どうなった……」
お前は飼い主に縋る手負いの犬の如く彼女にすり寄る……受話器の向こうで女は満足げだった。
『うん。僕やスヴィトスラーフには少し劣るけど、間違いなく聖句遣いだね』言いながら愉快そうに手を叩く。『お手柄だよ。不死病患者かもしれないなんて出鱈目は言わずに、事前に、どうにかして、僕たち聖歌隊に相談してくれれば良かったのに』
「最初は不死病患者だと思っていたんだ。彼女はあり得ない治癒能力を持っていて……」
女は一層高くせせら笑った。
『嘘だね。嘘がとても下手だ。君は嘘を吐くのに向いてないって気付いてたかな、ドミトリィ! 君、素直になり給えよ。祝福による不死の再生と、聖句による肉体活性は似てるけど、でも、君は知っている。そうだろう、違うということを知っている! 両方を兼ね備えるこの僕という実例を見ておいて、その言い訳は通じないよ? 君たち上級エージェントなら、目利きはちゃあんと出来る。僕がたっぷりと時間を掛けて仕込んであげたわけだからね。ねぇ、君……君は、僕たちを騙して、結社を動かしたんだ。それが事の真相。違うかな?』
聖句による証言の強制は無い。
それだけに痛感させられた。強制する必要すら無いのだ。
見抜かれている……。
お前は冷や汗を拭った。
今度こそ弾劾の通知なのか?
そして目を閉じた。これで良かったのだ、これで。
どのように処断されるかなど、最初から気にしていなかった。
お前は、正しいことをしたのだ。そう信じる行いをした。
しかし、お前の沈黙など聞いてはいない……。
いつもと変わらぬ一本調子の美声で話を続けた。
『大方ね、不死病患者だと言わなければ、部隊を動かせないと思ったんだろう。そうだろう、君? 悩みに悩んで手配をしたんだ。分かるよ、君ってば、いつでも真面目なんだもの。でも、今回の件は愚かだったよ。全く、君ともあろうものが、随分と危ない橋を渡ったものだ! 場合によってはとんでもない処罰もあったと思うよ。スヴィトスラーフ曰く、この段階でさえ裁定は割れているそうだ。でも、ま、心配することは無いよ。理論上にしか存在しなかった在野の聖句遣いが見つかったんだからね。罪を相殺しても十分に功績が勝つよ』
「……私のことはどうでもいい。とにかく彼女は無事なんだな?」
『どうでもよくはないよ。僕は心配をしてあげてるんだよ? もっと自分を大切にし給えよ』
女は小馬鹿にするように、それでいて、少し不機嫌そうに嘆息した。
『彼女はもちろん無事さ。聖歌隊の関係する病院で隅々まで検査をして、治療をして、まさに今日、今朝方に、スヴィトスラーフが新しい聖句遣いとして、彼女を正式に保護した。そのことを知らせたくて電話を掛けたのに切られてしまって……僕がどれだけ驚いたか分かるってくれるかい?』
お前は笑いそうになった。
この女は、何度今朝の電話のことを持ち出すのだろう?
余程腹にすえかねているらしいと察し、素直に謝罪をすべきだな、とお前は判断する。
剣呑な会話だが、その辺りにまで剣呑さを通すのも、不義理である。
「その件は済まなかった。あんなに乱暴に対応するつもりは無かったんだ。ただ、まだ疲れていたんだ。別のことで頭がいっぱいで……とても気が休まらないでいた」
『大丈夫、気にしていないよ』女の言い様は猫の目のように変わる……。『それで、別のことって? 数少ない古馴染みの僕よりも大事なことって? それって……くすくす……君の傍にいない例の彼女のことかな』
「そうだ」
『ふふん。ロマンチックだね。しかし、なるほど、やっぱり君。彼女のことが欲しくって欲しくってたまらなくて、それで功を急いだわけだね。自分の進退だけじゃない。結社のことさえどうでもよかったわけだ。僕たちの立場だって、何となっても良いって?』
そうだ、と言い切ってしまうことには抵抗があった。
逡巡し、誤魔化すための方便を考える。
「……彼女の命が危なかったのは確かだ」
『どうかな、君? 正直になり給えよ。それとも正直なつもりかい。だとすると、僕の聖句はもう平気なのに、彼女にはすっかりやられてしまったみたいだね。骨抜きなのかな? いや、まったく、想像するだけで愉快だよ、僕の大好きなドミトリィ。君がどんなだらしない顔で彼女を抱いていたのか……ふふふ! まぁ、君の自己催眠は強力だからね、正直なのかどうなのか、君にだって分からないんだろうけど』
そんな嘘だらけの君に愛されて彼女は幸せだね、と女は嘲笑う。
『とにかく彼女については心配しなくて良いよ。全てを、命の隅々まで、スヴィトスラーフ聖歌隊が利用し尽すから。心配しても無駄というわけさ。まぁそうそう死ぬことは出来ないだろうね。記念すべき民間からの不死転化第一号になって、死ななくなる』
「……スチーム・ヘッドにするのか」
『たぶんそうなるだろうね。彼女の有用性を実験して、後はそれ次第かな。ところで君、知っていたの?』女は含み笑いをした。『知っていて、僕たちに彼女を引き渡したの?』
「知らない、名前も知らない……」
『そうじゃなくて。彼女さ……くすくす……ねぇ、知らなかったの?』
からかうような声音で……。
『彼女、妊娠しているんだぜ』
ドミトリィは絶句した。
「また冗談か?」
『冗談でこんなことは言わないよ?』憮然とした声が返る。『僕も新しい命には真面目なんだからね』女が嗤っている、絶対遵守の声を持つ女が嗤っている、酷く耳に触る、しかし骨の髄が震える、切迫した状況だというのに、本能的に震えてしまう……『間違いないそうだよ。彼女には、君の子供が宿っている。まったくまったく、プラトニックな話もあったものだと最初は思ったよ? あのドミトリィともあろうものが、女の子一人への純真な愛で、結社を動かそうとするだなんて。感動したさ……でも、実際はそうじゃなく、淫猥な意味で愛を注いでいたわけだね、君は。それにしても君みたいな堅物が、まさか彼女みたいな可愛らしい子がタイプだったとはね。僕もまぁ、女の子ならああいう子がやっぱり好きだけどね。小さくて可愛くて、品があって、抱きしめたくなるよ』
女の言葉は途中から聞こえなくなった。
あの娘が妊娠している? そんな予徴がどこかにあったか?
予想していなかった事態だった。
視界がゆっくりと明滅し、お前は机に肘をつき、頭を抱える。
「待て……私の子供? 私の、と言ったか。いや、いや、待て、待ってほしい……」お前は言葉を探す、論理を探す、違和感を拭うための……。「妊娠しているのが事実として、それは、誰の……誰の子供とも知れないだろう。客もどれだけいたか分からない。誰の子を妊娠していてもおかしくはない。私の子供とは言い切れないだろう」
彼女が他の男の子供を孕んでいるというのも胸の悪い感触があるが、常識的に考えれば、そうなる。
誰の子供でも有り得るではないか。
『一理あるね。でも君の子供じゃないとは、それこそ言い切れない。裏を取れた限りだと、彼女は売り払われて、二年も三年も経っている。それが、どうして、今子供が出来たんだと思う?』
脳裏に可能性がよぎる。
しかし、そんなことが可能なのか?
『もちろん、原初の聖句で無意識的に心身をコンロールしていたからだろうね。僕にだって覚えのある業だ。あの可愛らしい花嫁にしてみれば、何百人に穢されようとも、君の子供を選択的に作るというのは不可能じゃないわけだ。彼女は君を心から愛して、君の子供ならば、ほしいと願ったわけだよ! 涙ぐましい話じゃないか。ねぇ君。あんな可愛い子に愛されるなんて……幸せものだね?』
「あり得ない。いずれにせよ私とは関係が無い」
『ふうん。そうかい?』女は調子を狂わされた様子で溜息を吐いた。『君は案外と冷たいね。いつでも冷たいか。僕にも、いつでもそっけないものだったし。でもさ、あの子は子供にドミトリィと名付ける、と言っているぜ。予定は狂うけど、スヴィトスラーフも堕胎はさせないし、育児も助けるつもりだそうだ。聖句の力もある、きっと上手く行く。さて、君はパパになるわけだ! くすくすくす……。望むと望まざるとに関わらずね。男の子かな、女の子かな? どっちみちろくなことにはならないだろうけど』
お前は唾を飲み込む。
何なんだこの会話は?
いったい何の価値がある?
女がいちいち嘲るせいで忘れそうになるが、この状況は異常事態なのだ。この女が外部と接触できる時間は極めて限定的だ。仮に彼女が大国の主導者に聖句を吹き込めば、それだけで大規模な世界人口の調整が可能になる。
彼女の問いかけと命令はそれほど強力で、厳しく戒められているものなのだ。
ああ、なるほど、あの娘が妊娠している!
しかも自分の子供かも知れない!
確かに重大な問題だ。一つの家の調和を乱すほどの問題だろう。
だが世界の均衡を左右しかねない、それほど恐ろしい力の持ち主がするような話では……。
「それで……それで、私に何をさせたい? このエージェント・ドミトリィに何をさせたい」
畢竟、問題はそこに収束する。
彼女はいつでも誰かに何かをさせるために囁きかけるのだ……。
世界秩序の天秤を、彼女は言葉一つで傾ける。
「お前は何のために私に連絡を付けてきた? Qモデルまで私に寄越しただろう」
『野暮用さ。野暮なことを聞きたいだけさ。こんなことは滅多にないことだから。ねぇ、君。応えてくれ給えよ。彼女を愛しているかい? 妻子ある身で、相手は君の末の妹よりも幼いぐらいの年齢だ。犯罪的だよ? これは冒涜だね。それでも君、どうかな。彼女を愛しているかい?』
愛しているか? 愛しているか? 愛しているか……? お前の視界は相変わらず明滅している。視界は淀み、回転し、赤、青、黄、緑、■の五色、虹の奔流にでも飲み込まれたかのように、お前は混乱している。考えることは多くある。
自分は正気では無かった、自分に責任はない、正しい。
そしてもちろん否だ。
「私は彼女を愛していたし、愛している」
愛の責任を無視できない。
それがお前だからだ。お前は、ドミトリィは、彼女を愛していた。
その責任を捨てられない。ドミトリィ! それがお前だ。
『彼女のことを心から想って、信頼するかい。彼女は君のことを愛していると嘯く。事情がどうであれ、結局は淫売だよ。そして誰でも彼でも洗脳できる言葉で都合の良い現実を導くのさ。偽救世主の鑑のような娘だよ。ねぇ、君。冷静に考えてくれ給えよ。彼女はどこぞの財閥の子女だ。どことは言わないけど、もう調べは付いてる。誘拐されて、穴蔵に捨てられたんだ。生かしておく価値は無いと判断されたわけさ。それなのに生きている! 奇妙な話じゃないか? 三日で殺されてもおかしくはないよね。じゃあなんで死んでないのかな? 理由は明白、それは彼女が偽りの言葉を、この聖句を! 撒き散らしていたからだよ。ねぇ君、君は騙されている。全てにおいて騙されている。君は愛を刷り込まれているんだ……君ほど誠実な男というのはそういるものじゃない。それがいくら可愛い子でもさ、たかが娘っ子一人に熱を浮かすかな? 僕は無いと思う。君は、どうしようもないくらい、自由意志を奪われている。その危険性はもちろん自覚しているよね。さぁどうかな、応えてくれ給えよ。彼女を信頼するかい? 彼女の愛を信じるかい? 騙されていると理解して、それでもなお彼女の愛を信じるかい?』
信じるかい……? 信じるかい……? 信じるかい……? あの美しい天使が嘘を吐いている、その少女は嘘を吐いている、お前を、ドミトリィを惑わして、自分を愛させている……。正しい。まさしく正しい。あれは偽りの娘だ! 彼女の経歴は尋ねる度に揺れ動く。どこの誰とも分かりはしない。全てが嘘だ! 身の上話が嘘ならば、語る愛さえ嘘なのか……?
もちろん否だ。
「彼女は私を、ドミトリィを、間違いなく愛していた。私はそれを感じていた……」
お前は/ドミトリィは/あの少女の愛を無視できない……。
『どうかな。感じる、だなんて曖昧なものさ。僕の聖句にだって、君。まるきり抵抗できるわけじゃないだろう。今だって、意識を揺らされているのが声から伝わってきているぜ。彼女にいいように弄ばれて、脱出に加担させられただけかも。そうは思わないのかい? 応えてくれ給えよ』
洗脳された結果だ、聖句によって誘導されたのだ。その推測も正しい。
そして、もちろん否だ。
「だとしても、彼女の愛と、新しい命を無視できない……」
お前は背くことが出来ない。あの輝かしい金色の髪の娘に向かう情動を無視することなど、ドミトリィには到底出来ない。否、ドミトリィなど偽りの名だ。全てが嘘だ。だが情動までも完全に葬ることはできない。彼は狂っていた。もう狂わされていたのだ。
お前は自覚する。
覚悟する。
己の迷妄に最後まで付き合う決心をする。
だからその女に、悪魔のような女に、頽落した神の如き女に、問いかけた。
「私は何をすれば良い? 何をすれば……彼女と私の子を、どうしてくれる?」
『ああ! そんなつもりはあったんだね。彼女と君の子をどうにかするつもりは、あったわけだね……』女は嬉しそうだった。『さすが騎士だね。ねぇ、騎士様? 騎士ドミトリィ! ふふふ、騎士だって。こそばゆいね、ドミトリィ? それで、どうするの? 彼女を娶る? 個人的には応援させてもらうよ』
脳髄を揺すぶられているが、お前は至って冷静だ。
それ故に打算的に展望を空想する。娶るというのは現実的ではない。
そもそも彼女の身柄は当局で確保しているのだから、エージェント風情が介入する余地が存在しない。
「ふざけた話をしてる場合じゃない。代償は払う。それで済むのなら、いくらでも払おう。それで彼女が自由になるのなら……。だが数少ない聖句遣いだ。私が権限を行使したところで、今更彼女をどうこう出来るとは思えない」
『うん、そうだね。君は彼女を引き渡すんじゃ無くて匿うべきだったんだ』
「ならば、何を求めてる? お前は何をしに私に電話を……」
『これは提案なんだけど、ねぇ、君。彼女をさ』
女は一言一句を、甘やかな声で、恋人に囁くように、舌先で紡いだ。
『僕たちから、奪いにきなよ』
「……何と言った?」
『奪い給えよ。君の花嫁を』
女の声は異様なほど平静で、だからこそドミトリィは、彼女の言葉を理解出来ない。
それでいて、聖句が確実に意識を蝕んでいくのを知覚させられる。
『まとな手段では見込みがない。そうだね、まさしくそうさ。ならば、君がスヴィトスラーフ聖歌隊の本部を襲えば良い! あの愛らしい花嫁を連れ去って、抱きしめてあげれば良い。騎士様らしくね。先回りして応えておくよ、僕はそれを許す。僕は君を見過ごす気でいる。個人的な協力も惜しまない……』
「じょ……」絶句する。「冗談だ。悪い冗談だ。お前の悪い癖だ!」
『信用されてないのは少し悲しいよ。減らず口だって? 君。僕がこれを叩けなくなったら、そんなの、人間として終わりだからね。知っての通り、ただでさえ人間離れしているんだから! これぐらいは許してくれないと、僕は泣いてしまうよ。だけど君、今は違うよ。僕は頭の先から足の爪まで本気で、まったく心の底から、君に、君の花嫁を奪えと、そう言っているのさ』
「本気であるものか! いつもの嘲弄癖だ、私を、構造化された聖句や、正規の命令系統ならともかく、舌先三寸で動かせると思うな……! それぐらいの抵抗力は、私にもあるんだ!」
『嘘なんてついてないよ。からかってもいないさ』
「いいや、ありえない。言うはずが無い。君は結社を、世界秩序の担い手を……」お前は狼狽えながら万年筆を見つめる、愛用している万年筆を見つめる、記念にもらった万年筆を……紋章が刻まれている! 三角形に瞳。地球儀を背にした……巨大な瞳を。世界の実像と対峙するその剥き出しになった眼球を。「人類を裏切れと言っているんだぞ! 君がどんな人間か、今でも私には分からない。君の人形のような美貌の下に、何が潜んでいるのかはな。だが確信している。裏切れだと? そんなことを言う人間ではないだろう! 君はその点だけは信用できるんだ!」
『うん、いいや、だから、そう言っているんだよ? 僕たちを裏切れってね』
女は平坦な声で相槌を打つ。
お前はぜいぜいと息をしながら反駁する。
「そんなことをすれば、どうなる。私だけでは済まされないだろう。私の妻子でもまだ足りない。親類縁者全ての命が危ない。それだけで済めばまだ良い……彼らを裏切れば次の実験場は私の街になりかねない!」
「それはまぁ、そのために発展させられたのが、君たちエージェントの預かる市だからね」
女の声には何の変化も無い。
『順番が繰り上がることは、そりゃあるよ。大した問題じゃない。そしてその順番はいずれくるんだ。明日でも十年後でも大した違いは無いじゃないか』あくびを一つ。『それで、どうするの。奪いに来るの? まだ誰も彼女に枷を嵌めてない。実験道具として弄りまわしてもいない。久々の平穏な一日だったかも知れないね。今日の彼女は幸せだったよ。温かくて清潔な毛布で目覚めて、おいしいパンとスープをゆっくりと味わって。好きなだけ楽しい音楽も聴けて、好きなだけ眠れて、何をしても咎められない。杖をついて修道病院を出れば、柵も無くて、温かな日差しの降り注ぐ丘でくつろげる。ええと、ブカレ、どこだっけ? 忘れたけど、スラムに比べれば本当に天国だろうね。ああ、違ったか、君がいないことを除けば……天国さ。君さえいればあの娘はどれだけ幸せだろう? 考えてみ給えよ……』誘うように囁く。『彼女はまだ騎士ドミトリィ様が自分を迎えに来てくれると信じている。ここにいるのは治療を受けるいっときだけで、いつかは君の花嫁になれるのだと信じているんだ。あわれなことだろう! ねぇ、君? 君はとっくに既婚者だ。聖句なんかに惑わされなければ、絶対に妻子を裏切らない。それがたとえ仕組まれた婚姻、偽りの妻だったとしても、君は彼女に誠実だ。それだから、あの愛らしい天使は……君とはもう永久に会えない可能性の方が高いのに! でも、そんなのはあんまりだろう。違うかい? 君だってそれは惨すぎると思うはずさ。だから今、おいでよ。ここに彼女を奪い給えよ。もしもこのタイミングを逃せば、君、君は……彼女にとって裏切り者だぜ。彼女は聖歌隊が自分を助けたのだと、ドミトリィなんてやつはいなかったんだと思って、悲嘆のうちに一生を過ごすことになるだろう。生涯を娘……息子だか娘だかと一緒に、君を呪うことに、自分を見捨てた世界を呪うことに……そんなくだらないことに費やすだろう。だけどさ、君。まだ、そうなっていはいなよ。今ならどうにかなるんだ。僕も手引きする。聖歌隊はまだ本格的に動き出してない。敵対者の襲撃なんて考えてもいないよ。セキュリティも甘い。君がその気になれば花嫁を奪えるんだ、ねぇ、君。エージェント・ドミトリィ! 僕の大好きなドミトリィ……』
「お前は私に何をしろと言っているのか本当に分かっているのか?!」
『本当に分かっていないのかい? ドミトリィ。僕の言うことが分からない? 世界なんてどうでも良いって返事をしなよ』静かな声だった。『全てを捨てて彼女を迎えに来ればどうかなって、そう言っているんだ。まだ言葉が必要かな』
「結社が……」
『しつこいよ、いい加減黙り給え!』女は苛立ちの滲んだ声を出した。『……領民とか市民とか何とか、どうでも良いでしょ。君は本当は、そんなの大事じゃないんだろう。僕が何度君を蕩かして、犬ころみたいにして、君の全てを話させたか! 僕は君のことなら何でも知ってるんだ。ねぇ、捨ててしまいなよ。くだらない民草だ、いずれ神の国だかに召される命さ。何だか知らない病原菌を撒き散らされて全滅! 珍しいことじゃない、どんな都市にも有り得る未来さ。どこにでもある、よくある大量死、歴史書の片隅に書かれるくだらない一幕だよ、そんなのは。ねぇ、この僕はそんなものは幾らでも見てきたんだ、ドミトリィ、分かるかい? 幾らでも見てきた! 実際に体験してきた! だから断言するよ、君は覚えていないだろうけど、かつての君との討議結果を教えてあげるよ。そんなの気にすることなんて無い! だいたい、領地がどうのこうのって言うけど、規模がちょっとばかり多くなっただけの、田舎町じゃないか。百万人単位で死ぬわけでもない。本当に大したことないんだよ』
「人の命を何だと思っているんだ? 我々のことを!」
『人は人。そして君は君だ。さっきから言ってるけど、そもそも僕は君の思想を代弁しているに過ぎないんだよ? 何度も君から君の倫理観を聞き出しているんだから、そこから逸脱することは言っていないよ。ええと、それと、何だったかな? 君のことをどう思うかって? そんなの、僕の数少ない、大事な大事な友人に決まっているだろう、僕のドミトリィ! 電話越しでも僕の聖句を浴びて正気でいられる人間というのは、貴重なんだよ……僕とこうやってまともに会話が出来る人間というのはね。ああ、はっきり言って、僕が個人として大好きで大事に思っているのは、確かに、数えるぐらいしかいないなんだ。でもね、君は本当にその一人だよ。嫌ってくれても良いけど、君。僕が君を愛しているのは限りなく本当だよ。だからこんなろくでもない話をしてあげてるんだ……』
電話口の向こうにいる女は、眩惑するような言葉と裏腹に、あまりにも素っ気なく囁いてくる……。
『僕もいつまでも、こうやって、お電話していられるわけじゃない。スヴィトスラーフにいっぱいお願いをして、ようやく電話を使わせてもらえているわけでね、暇じゃないんだから。だから君……今、決め給えよ。今なら、ひとときでも幸せに暮らせるよ。僕も手伝いをする。僕も助けてほしい人に助けてはもらえなかった類だからね、だから、いっときでも誰かに助けられる人間というのは、見てみたい。ねぇ君……考えてもご覧よ。聖歌隊も、今はまだいいよ。今はね。だがスヴィトスラーフ聖歌隊は彼女の加入で大躍進する。そう予言しよう! 蝶よ花よと愛されて、あの金糸の髪の天使は、神の花嫁として褒めそやされる。それも今だけだ。やがて彼女は作り替えられて、思考まで自由にならなくなる。そして勢力拡大の過程で、昔の方がまだ希望があったというぐらいには穢されるだろうね。君の花嫁はさらに穢されてしまうわけだ。肉と機械、その他ありとあらゆるもので、脳髄を、内臓をめちゃくちゃに掻き回される。万人、万物の花嫁にさせられる。見てきたから分かるよ、体験してきたから分かる、きっと僕と同じような目に遭う。肉体から魂まで残さず破壊されて、彼女は死ぬことも出来ないまま、世界を滅ぼす軍団の一員になるんだ。まさに大淫婦の名に相応しい汚辱に塗れるだろう。ああ、産まれてくる子供も同じ目に遭うだろうね。親子二代にわたって世界秩序のために消費されつくされるわけだよ。君には耐えられるかい? 花嫁にしたいほど愛した娘に、そして彼女と君の子供に、そんな苦難が降り注ぐことに、耐えられるかい』
「……耐えられるわけがないだろう……」
そんなものに耐えられる人間は一人もいない。お前は絶叫している。頭をかきむしっている。お前は答えを求めてそこかしこに視線を巡らせる。
何も無い。何も無い。何も無い。何も無い。何も無い。
助言してくれる存在などどこにもいない。
唯一絞り出せたのは、電話口の向こう、見知った女への問いだけだ。
「……何故そうやって、私を惑わすんだ。お前は唯一、神命には……人類のための活動には、世界秩序の安定を志向することにだけは……真摯なのだと思っていた……」
『そうだね。私は……僕は、皆幸せになってほしいとは思っているし、その願いには素直なつもりだよ。でも僕は……君が神命に背くところが見たい。ドミトリィ、君が神命よりも花嫁を重く見るところが見たい。世界秩序の計画と引き返しにしてでも、誰かが救われるところが見たい。引き裂かれた愛し合う二人が、もう二度と会えないと嘆いていた二人が……』そこでようやく女は、せせら笑うような声音ではなく、どこか希うような感情を覗かせた。『結ばれるところが見たい。ずっと探し求めていた人と巡り会える未来が見たい……。僕にはそういうの、どうやら縁が無いみたいだからね。くすくすくす……さっきはああ言ったけど、ねぇ、君を煽るような、責め立てるようなことを言ってしまったけど……不義の愛だとか何だとか、そういう追求はしないよ。スヴィトスラーフも言っているだろう、汝の欲するところを成せって。だから君……決断し給えよ。全部捨てて彼女の手を握るか。神命のために彼女を苦難に投げ込むか……』
「……しかし、しかしだ」お前は繰り下がる、思考を巡らせる、より悪い可能性に行き当たる……。都合の良い可能性に。都合の悪い可能性に……。「君が助力してくれるだって? それなら、当然、君も、ただではすまないぞ」
『処分されるかも知れないね。君の花嫁よりもっと酷い目にあうかもしれない。でも耐えられるよ。慣れているからね、構わない。他ならぬ友人の幸せのためだ』彼女は決然として言い切った。『僕はそのためなら僕の可能性を諦めるよ。僕に実現し得る可能世界を全て放棄する。僕が間違っていたと証明されるなら満足さ』
「それは……」ドミトリィは、泣きそうな声で返事をした。「それは、出来ない」
『おや、怖じ気づくのかい。花嫁を見捨てるのかい? 花嫁が汚されるのを、では、君、見過ごすんだね?』
「彼女は大事だ、愛している。愛している。いっぽうで、君のことは、さほど好きではないが……自分たちの幸福のために使い捨てに出来るほど、憎くもない……。何より君は、我々の計画の一つの要だ。君が脅かされるとなれば、それは世界の危機だ……」
お前は頭をかきむしる、論理を探している、誘惑を拒む言葉を……。
「そんなことをすれば、我々の払ってきた犠牲が、まるきり無駄になりかねない……。既にして無用な犠牲を強いている、偽りの情報であの少女を救助させ、一つの貧民街を焼き払った。だが、これ以上の裏切りは、世界秩序への裏切りは、許容されない……私一人の欲望で、我々の千年の犠牲が……水泡に帰するなどということは……」
嘘を吐いている! お前は嘘を吐いている!
声が脳裏に木霊する。
騎士様、騎士様、騎士様……ドミトリィ! お前は嘘を吐いている!
「ううう……あああああああ!」
ドミトリィは何度も机を殴った。何度も。代々受け継がれてきたその机を殴った。己を縛り付ける椅子を呪った。万年筆を壁に投げつけた。曾祖父に贈ってもらったマグカップを、地域住民から贈られた感謝状を、乗馬大会で入賞した時の楯を、妻と子を写真を、投げつけた。投げつけた。机を殴った。殴った。顔をかきむしった。爪が剥がれるまでかきむしった。それから、一呼吸をして、応えた。
「……出来ない、それは出来ないんだよ。私の不義を貫くために、そんな犠牲は、あってはならない……君や世界は、天秤に乗せられない!」
『僕に嘘を吐くな!』女は可憐な声を震わせて、受話器が震えるほどに怒鳴りつけてきた。『怖いだけだろう、ドミトリィ! 君は恐れている、ああ、君のちっぽけな性根、その臆病な動きが手に取るように分かる! 君は恐れているんだ、彼女のために全部を投げ出すこと、その選択が余りに深長なので卑怯にも目を逸らそうとしている! そうだろう、君? このろくでなし! 君がイエスと頷くだけで、この僕が、この時代の絶対者であるこの私が、君を、君たちを、祝福されない君たち二人を、助けてあげるって言ってるんだ! こんなところで躊躇ってどうするんだい? ねぇ、ドミトリィ! 女の子一人、君の子を授かった娘を一人助けられないで、それで君は、どうやって世界秩序に貢献するんだって? 怖いだけだろう、ドミトリィ! さぁ君、応え給え! 証言をし給え! この僕には真実以外必要無い!』
「ああそうだとも!」
悲鳴を上げる。泣きながら怒鳴りつける……。
「私は、恐れているのだ……! それだけの代償を払って……この命、家族、領地を失って……花嫁を奪い去る。それで、彼女を代償に釣り合うぐらい幸せにしてやれるのか?! 彼女の体は痛めつけられている、結社の支援無しでは、おそらく余命が長くない! 出産の負担にも耐えられないかも知れない! よしんば彼女と子が揃って生きながらえたとしても、結社が見逃すはずもない……! 全てを捨て去ってそれではあまりにも……しかも、しかも君にまで危害が及んでしまう……私のために、私たちのために……」男はいつしかすすり泣いていた。「そうだ、私は怖いのだ。不確かな未来のために死ななくて良い人間を死なせる、その選択に耐えられないのだ……そうとも、それだけだ……彼女の儚い幸せのために、その他一切を地獄に落すというのが、怖くて、怖くて、とても選べないのだ……」
長い長い沈黙。
そして、女は『そう……そうかい』と言った。
軽蔑や憤慨の気色は無かった。
ただ、消沈していた。
驚いたような、夢から覚めたような、取り返しの付かない言葉に後悔するような……どこか動揺した響きがあった。
『ああ……ドミトリィは、そうだもんね。婚外子を作るなんて珍しいと思って、期待したんだけど。でも、そうなるだろうね、ドミトリィなら……僕たちを裏切ったりしない。君はいつだって僕のことを大切にしてくれる。ある意味ではスヴィトスラーフよりも……』
責めるでもなく、咎めるでもなく、むしろ女は己に対して戒めるかのように、訥々と言葉を紡いだ。
酷く後悔している様に感じられて、お前も罪悪感を覚える。
「すまない……私は、君を裏切った……」
『いや謝るのは、僕の方だ……。許してくれ給えよ|、ううん、違う、そうじゃない。ごめんね。悪かったよ……』
わざわざ聖句を撤回してまで、女は謝罪の言葉を重ねた。
『きっと、意地悪を言ってしまったんだろうね……。僕ともあろうものが、あの愛らしい娘が、君の花嫁になるのだと信じている彼女が、あまりにも可愛かったから、つられて、浮かれてしまったんだ。うん、君が世界秩序に背くだなんて……そうとも、冷静に考えれば、あり得ないんだから。僕が裏切るよりもあり得ない。何代も、何百年も、君たちは組織に尽してきたんだから、それを否定するだなんて……ごめんね、試すべきじゃなかった。友人にそんなことをするべきじゃなかったね……。そうとも、君が正しいんだ、僕の方が間違えていて、馬鹿なことをしてしまった。ああ……君、ドミトリィ、数少ない我が友よ。どうか、どうかこれ以上は、僕を軽蔑しないでくれ給え……』
懇願する声音で女は繰り返す。
『いや、責めるばかりでは筋が悪いよね。実際君は良くやったよ。彼女は……少なくとも死なずに済んだ。どことも知れぬ地下街では。これからも彼女は死にはしないよ。死にはしない……まぁ、この遣り取りでは、もう何の慰めにもならないか。ごめんね、時間を取らせて悪かったね、今晩も酷く冷えるそうだ。温かくしておやすみなさい、それじゃあね、僕の大好きなドミトリィ。今晩の会話はどうか、全部忘れてね……』
通話はそのうちに途切れた。
お前は黙って受話器を握っていたが、ふと我に返り、電話機に置いた。
立ち上がった。
父から受け継いだ椅子を、思い切り蹴り飛ばした。
「騎士! 何が騎士だ! 何が! ええ、ドミトリィ、お前は何をした? ええ! 聞いているのか、どうなんだドミトリィ! 何が騎士だ! 何が騎士だ! 何が騎士だ……」
ドミトリィは頭を抱えて蹲り、何を捨てれば良かったのかを考え続けた。
自分に妻子がなければ?
ああ、街の人々を見捨てて?
地位がなければ良かったのか?
自分が継承者でなければ?
組織と関わりが無ければ?
否、否、否だ。それこそ土台、話が違う。
受け継いできたからこそ、ここにいる。
捨てられぬものがあったからこそ、あの少女と出遭ったのだ。
前提条件を組み替えてもそれは無意味なのだ。
結局、ドミトリィに取れる現実的な選択肢は、金色の髪の愛しい花嫁を、いなかったものとして、記憶の闇に葬ることしか無かったのだが、それでも何度も問いかけ続けた。あの少女を迎えに行ってやれる自分を考え続けた。
実現しなかった未来を。
それから彼は病にかかり、真面目な気性を陰の気で染めて、塞ぎがちになり、エージェント・ドミトリィとしての身分から退いた。
高高度核戦争が勃発し、結社からの連絡が途切れても、さほど関心を示さなかった。
彼は生涯にわたって、夜半になると目覚めて、それを想像した。
ああ、我が身に名前無く、貌も無く、歴史無く、矜持無く、神命無く……。
夜の闇を彷徨う、誠の騎士であったなら。墓碑銘もない、弔われることもない、何にも縛られぬ、死人の騎士であったなら……。
騎士の骸であったなら。
「時間……だ」ヴォイドは呟いた。「思い出したぞ……」
「何を?」追いついたリーンズィが、崩れ落ちそうなその無貌の兵士に寄り添う。「ヴォイド、私にはこの作戦が正常なものだとは思えない。君の行動は明らかに異常だ。君は……死ぬためだけに進んでいるように見えるぞ」
もはやどこを見渡してもヴェストヴェストの巨影以外には認めることが出来ない。増殖の瞬間には全身を引き裂かれそうな暴風が吹き荒れるが、ヴォイドが脚を止めた地点では、不思議とその破壊を免除されていた。偶然では無く、ユイシスがその地点をマーカーでポイントしている。最初からそこにいれば安全だと知っていたのでなければ説明が付かなかった。
「カートリッジ、ロード……完了……。リーンズィ、戴冠を……」
フルフェイスヘルメットの奥から響いてくるヴォイドの右腕があるべき空間に雷光が奔り、それを追うようにして新しい腕部が形成される。腱と骨がこびりついただけの粗末な右手が左腕部のタイプライターじみた入力装置からコードを入力し、頭部の高性能機関式人工脳髄のロックを解除した。
脳定位固定装置の螺旋が頭蓋から引き抜かれ、またしても血が零れる。
「この戴冠によって、君こそが真のアルファⅡモナルキアになる。世界が……一択に定まる。これから進む道が確定するのだ。しかし未来は不変では無い。リーンズィ、君の可能世界によって示される、新しい道がそこにはある。私では到達できなかった。望んだ景色は、私には……」
「発言の意図が不明だ。気を確かに持つんだ」リーンズィは己の片割れ、意思疎通不可能な、それでいて奇妙な連帯感を感じさせるその兵士を抱きしめ、眉根を寄せる。「精神外科的心身適応は、正常に機能しているか? 落ち着いて、思考を纏めて」
だが兵士は動きを止めない。
不朽結晶連続体の左腕が、二連二対のレンズを備えたバイザーのヘルメットの淵を掴む。
黒い不朽結晶剣を携えたケットシーが跳躍して塔を蹴り踊り、リーンズィたちの周囲の塔の一本に刀身で半ばまで斬り込む。それから巧みに重心を操り、体操選手のように身を振り、勢いを付けて、やがて邪魔になるであろうその一本を正確に切り落とし、次なる塔へと飛び移る……。
アルファⅡモナルキアは、奇跡的にも災禍の襲来を免れている。
あるいはそれは、偽りの奇跡なのかもしれない。
遅れて追いついてきたミラーズが、「ヴォイド。あなたは本当にそれでいいの?」と問いかけた。
「正常稼働中のアルファⅡモナルキアには固定された人格など存在しない。それ故に選択には常に留保がついてまわるが……今この瞬間だけは、リロードしたこの感情だけが私の根幹だ。WHOの事務局の安否確認も、戦闘の調停行為も、もはや私を縛ることは無い……」
アジャスターが解放され、拘束されていた頭部が露出した。
ヴォイドは装甲された左腕でヘルメットを抱える。
精悍な面相の、まだ年若い男であった。
金色の短髪。目は翡翠色で、吸い込まれそうなほど深く、淀んでおり……リーンズィは胸騒ぎを覚えた。
どこかで見たことがある。
ミラーズを横目で見遣る。似ている。明らかに彼女と似ている。
性別も骨格も何もかも違う。
だが根底に同じ色彩を感じるのだ。
同期している金色の天使の慨嘆が、そのままリーンズィの心臓に流れ込んでくるようだった。
「ここが私の……ポイントオメガだ。私は、ここまでで良い……」
ヴォイドは左腕のガントレットから首輪型人工脳髄を取り外し、己の首に押し当てて装着した。
そしてフルフェイスヘルメットをリーンズィへと手渡そうとした。
「アポカリプスモードを起動する。リーンズィ、どうか、頼む」
「君は……」
リーンズィは赤く変色した瞳で、ライトブラウンの髪を暴威の風に靡かせながら、その青年へと問いかけた。
「君は……誰だ?」
「ドミトリィ。私はドミトリィだ」
男は壊れた肺を慎重に動かし、静かな声で応えた。
「ドミトリィ……? それは……ミラーズの娘の?」
着ぐるみの騎士、ドミトリィ。
聖歌隊の戦闘用スチーム・ヘッドだったはずだ。
シィーやキジールの口から何度も聞かされた名前。
金色の髪の聖娼、初代『清廉なる導き手』、大主教キジールの、その実の娘……。
「ならば君は、彼女の……息子、だったのか?」
「そうではない……」答えは即座だ。「ミラーズは……あなたは、おそらく私の曾祖母にあたる」
血まみれの男は首を振った。
「私はドミトリィだが……しかし四代目にあたる存在。ドミトリィ四世だ……」
「四代目」リーンズィは困惑する。「どういうことだ?」
「懐かしい眼差し、懐かしい声です。騎士様の面影を感じます……」ミラーズは寂しげに微笑む。「ヴォイド、あなたの心が透けて、まざまざと見えるようです。あなたの心にある幸せな歴史が……。調停防疫局の歴史では……ドミトリィ様が、私を迎えに来て下さったのですね?」
「そうだ。私のロードした人格記録媒体から得られる情報は、曖昧で、不確かだが……私の世界のドミトリィは、あなたを聖歌隊へ迎えに行った」ヴォイドは咳き込み、多量の血を撒き散らした。蒸気となって彼の姿を飲み込もうとする。「多くの代償を払い、あなたを家族に迎え入れたそうだ。そうしてあなたは、私の曾祖父の屋敷で男児を出産し、ドミトリィと名前を付け……幸福のうちに日々を送り……しかし病弱だったために、三年ほどで息を引き取ったと聞いている。私は写真と庭の墓でしか貴女を知らないが……アルファⅡモナルキアが不死病筐体として運用してきたこの肉体は、あなたの遺児の、その末裔に当たる」
「そう……」ミラーズは目を伏せた。「あなたから、私の匂いにも、あの人にも似た香りを、時折感じていました。私の……私の、遠い子孫だったのですね。幸せだった私の、救われた私の……」
「そして今、アルファⅡモナルキアの人工脳髄には、そうはならなかった世界の……エージェント・ドミトリィの人格記録媒体もまた、装填されている……彼の願望と妄執を利用すれば、この死地を乗り越えることが出来る」
「待って欲しい」当惑したのはリーンズィだ。「な、何故……別の世界枝に属する同位体の、その人格記録媒体が、君に、私たちに……装填されている? それはおかしいのではないか。私たちに時間枝から脱出するための能力など無かったはず」
そもそも起動さえしなかったというのがエージェント・シィーの証言だ。
自分の意志で時間を渡ることどころか、身動き一つ出来なかったのが実体である筈だった。
「誰かがそのような操作を行ったのだろう。時間連続体と矛盾するメディアを運んできて、差し込んだのだ。ユイシスの記録によれば……アルファⅠサベリウスが、一度だけ、起動する前の私たちの前に現れている……」
塔の蠕動が烈しさを増す。ヴォイドは脂汗をかく頭で、呆と、空を見上げていた。
初めて空の高さを知った者のような顔で、沈黙していた。
「リーンズィ。アポカリプスモードでなければ、ウンドワートを五体満足では回収できない。彼女は必要な存在だ。何を代償にしても、連れ帰らなければ。その役目は私が引き受ける……。トリガーを、君に任せる。最終意志決定者。調停防疫局の最終代理人。アルファⅡモナルキア・リーンズィ……私の後継者よ」
ライトブラウンの髪の少女は、手渡されたその不朽結晶の兜を、二連二対のレンズを備えたそのヘルメットを正面から見つめた。非人間性の檻を。迷っていられる状況では無い。意を決して、無数の人格記録媒体を装填したその装具を頭に被せた。アジャスターが作動し、脳定位固定のための螺旋が浅く頭蓋を穿つ。
目の奥に火花が散り、バイザーの内部に無数の表示が流れていく。
【登録完了:アルファⅡモナルキア・リーンズィ】の文字が表示されると同時に、耳元で『準備はよろしいですか?』と女の声がした。
「……ああ。これが、私なのか……私なの、ユイシス?」
必要とする全ての情報が有無を言わさずリーンズィに書き込まれていく。
感情は冷却され、情動は切除され、迷妄や非合理的判断の介在する余地が狭まっていく。
もはや死に体の、ミラーズに似た顔をしたその男の左手を掴み、ピアノの指使いを教えるようにして、ガントレットの入力装置へと、解除キーを打ち込んでいく。
「アポカリプスモード……起動準備完了」
「これで良いのだ、リーンズィ」男は言った。「これで約定は果たされる。花嫁を捨てた騎士が帰還する……最初のアポカリプスモード起動だ。ゼロ・アワーだ。この過程を経ずにして、リーンズィはその活動目的の完結を許されない……」
『エルピス・コア、オンライン。弾頭を選択してください』
> 選択:<月の光に吠える者>
> 投与:全部位
> 期限:無制限
ヴォイドの左腕部、ガントレット内部のチャンバーで悪性変異体の因子を詰め込んだ骨針が生成され、射出すること無く体内で炸裂した。
ヴォイドは雄叫びを上げながら数歩よろめき、その筋組織の肉塊と化した肉体を急速に再生させ、そして泡雲のように膨脹させていく。
その五体は二脚を備えた大型狼のような異形へと貌した。ガントレットが残置されていなければ、それはまさしく、ただの獣であった。
暴れ狂わないのは首輪型人工脳髄がヴォイドの意識をまだ維持させているからだ。
「あなたは……?」塔の処理にあたっていたケットシーが振り返り、息を飲んだ。「……まさかマモノを、悪性変異体をコントール出来る機体なの?」
回答は出来ない。
アルファⅡモナルキアにとって、アポカリプスモードの全機能開示は最終手段にあたる。
だから「そのような機体では無い」とだけ、淡々とした声音で応えた。
ヴォイドの変異に伴い、その膨れあがり、拡張されていく腕部から、タイプライターじみた意匠の施された甲冑が放擲された。変形の許容限界を超えたため、ロックが解除された。
新しいアルファⅡモナルキア、リーンズィは、醒めきった思考の辺縁に、その影を捉えた。
最適経路で左腕部全てを覆うガントレットを掴んで転がり、己の左腕を躊躇無く填め込んだ。
アジャスターが起動し、無数の固定用ビスが突き刺さり、彼女の血管と骨に深々と根を張る。同様の経緯で固定用ベルトがリリースされた重外燃機関を拾い上げ、骨髄にまで採血針を、そうあれかしと命じる声に従って次々に身体に受け入れていく。
『エルピス・コア、オンライン。弾頭を選択してください』
リーンズィは心を切除し、次なる変異を実行していく。
『リローデッド。<砦の壁を登る者>。投与:全表皮、期限:無制限』
採血された液体が重外燃機関に流れ込み、排気孔から血煙となって噴出される。少女の長く繊細な指はガントレットの内部で切断され、造り出された骨肉の血芯がチャンバーから飛び出した。視界内に『使用可:蒸気加速式多目的投射器』の文字が躍るのと同時に、「再装填!」と少女は鋭く声を上げる。
『選択:<雷雨の夜に惑う者>。投与:全筋肉組織。期限:無制限』
次のK9BSを。さらなる悪性変異の因子を。
逡巡すること無く、苦悶するヴォイドへと打ち込んでいく。
「再装填。選択:<青い薔薇>、投与:全筋肉組織、期限:無制限」
皮膚組織が急激に硬化を始め、関節部以外が不朽結晶装甲に装甲されていく。生身と言える部分の全てが置換されていく。石の代わりに煉瓦を。肉の代わりに腐れた海を。流動する液状化した身体組織で、神経系と筋肉が溶け合った新しい運動器官を編む。人工筋肉よりも強靭で汎用性の高い身体組織が、装甲の内部で再構成された。火花ではなく連鎖を。羽化する虫の如く、不朽結晶連続体の殻の内側で、変異は不可逆的かつ徹底的に進行していく。神経束に相当する組織がある種の植物へと変異して、一切の節を持たない、区切りの無いひとかたまりの回路を形成する。神経系が全てを同時に知覚し、全ての部位で同時に判断する異様なネットワークだ。
勿論、人間の心臓など跡形も無くなった。
これから先、ヴォイドは人間の時間ではなく、怪物どもの時間に生きる。
かつてヴォイドだった何かは、自己破壊と再生の連鎖で爆発的に質量を増大させていった。
見窄らしい右腕は見る間に再生し、不朽結晶連続体で構築された甲冑に包まれていく。
ただし、通常の悪性変異体のように、過度に膨れあがることはしない。過剰部位はある自身の異形の肉体へと適切な密度で取り込んでいく。
もはや彼をアルファⅡモナルキア・ヴォイドたらしめている要素は、擬似人格を転写した首輪型人工脳髄以外には無い……。
全ての加工は、果たして完了した。
変異の時に汚濁した血流を撒き散らした点を無視すれば、それは鎧で身を固めた巨大な兵士そのものだ。装甲の内部で流動体の悪性変異体が息づいているとしても、遠く異邦の地からやってきた、武装した流浪人に過ぎない。
やがてヴォイドは自分の頭を抱えた。
不滅にして不朽であるべきその装甲を、押し潰し、ねじ切った。
『再装填。<宵の畔に浮かぶ者>。投与:全筋肉組織。期限:無制限』
首無しの胴体が頭部を掲げると、リーンズィが有機再編骨針弾の照準を、一切の躊躇無く、その目も鼻も無いのっぺらぼうの、兜の如き肉塊へと定めた。
着弾と同時に砕けた結晶群が一斉にさざめく。
首無しの騎士の手の中で、頭から肉がそげていき、緑色の眼球は溶けて落ち、やがて髑髏となり、青い光を放って四散した。
即座に集合して、しかし形を結ばない。
揺らめいて蠢く。
青い炎が、ひとかたまりになって、宙空に浮かんでいる……。
真っ青な火球へと変わり果てたその物体は、ウィルオーウィスプとも呼ばれる特異な変異体だ。燃える泉で息絶えた不幸な旅人の末路。感覚器だけを備えたエネルギー質量体。この変異体は炎上する己自身によって空気の揺らめきを感知し、熱と光の反射から、物体の像を明瞭に捉えて、本能的にその方角へと移動する。最大の特徴は、その感覚器が三次元空間のみならず、さらに上位の空間をも感知するということだろう。時折、科学的に説明の付かない動きを見せることで知られている。
接触神経束は、ついにその炎に触れることはなかった。熱と光の揺らぎについてさえ情報の遣り取りができれば、胴体と首が繋がっている必要が無い。これらは呪われた不死の領域であり、もはや科学によって構築されるスチーム・ヘッドの常識では計ることが出来ない。
煌々と燃え上がる青い炎を、巨人はしかし、舞い降りてきた調停防疫局の旗で包んで、捕まえて、体に結わえ、抑えつける。
リーンズィは平板化した思考を巡らせる。
世界地図を背にした竜の紋章。まさしく彼女たちの旗だ。
しかし、この戦場に、そんなものを持ち込んだ覚えが無い……。
あるいは、持っていたのか?
記憶を検証することには然程の意味が無い。<時の欠片に触れた者>が跋扈するこの都市で、過去ほど不確かなものもない。
それは寺院の石碑に刻まれた警句とは異なり、いとも容易く書き換えられる……。
塔が震える。破滅的な増殖の時間が進行していく。進路を僅かに変えている。アルファⅡモナルキアの存在を感知して、あるいは押し潰そうとしているのだろう。その首無しの怪物は、左腕で己の右腕を捥ぎ取って乱暴に振り回した。
腕からは見る間に肉がこそぎ落ちて行き、やがて骨で組まれた長大な剣へと変貌した。
いずれにせよ、そこに立っていたのは、鎧を纏う怪物だった。
騎士の獣。
騎士の骸……。
「ヴォイド……」精神外科的心身適応からひととき解放されたリーンズィが、己の片割れ、その変わり果てた有様を、呆然と崇める。「これで、本当に良かった、の?」
定位固定装置を解除し、ヘルメットを外しながら、少女は目の縁に煙り立つ血を零しながら、真っ赤な二つの瞳の色で、異形の騎士を見つめる。
貌無く、歴史無く、矜持無く、神命さえも無く……ただ夜の闇を彷徨う、まことの騎士。
忠義なき騎士が求めるのは花嫁だけだ。
墓碑銘もない、弔われることもない、何にも縛られぬ、死人の騎士……。
かつて調停防疫局で作成計画が進められていた、特務仕様型局地殲滅用変異体の第一号。
ヴォイドはまさしくそれに成り果てた。
プロジェクト名をディオニュシウスという。
首を刎ねられ、尚も歩むことをやめなかった聖人の、古い時代、失われた世界で信仰されていた、形骸の名前にあやかる。
『私の花嫁は……どこだ……』
ヴォイドでは無いその騎士は、もはや誰でも無いその騎士は、存在しない喉で、声では無い声で、呻きを上げる。ドミトリィ四世の言葉では無い。おそらくは初代ドミトリィと記憶が混濁しているのだ。そしてまさしくこのためにこそ創造された首輪型人工脳髄は、既に装甲内部に飲み込まれ、未知の方法、只人には創造さえ及ばぬ尋常ならざるコマンド、変性意識の混濁に逆らい、その人ならざる肉体を制御している……。
そして貌無き瞳で、もはや漂着者に似つかわしくない、歪んだ世界を一つも映すことも無い、世界の実像と対峙するための、煌々と燃え上がる巨大な眼球で、己の花嫁を探し始める……。
これがゼロ・アワーだった。
一つの時間枝におけるアポカリプスモード起動、その最初の瞬間であり、
アルファⅡモナルキアが呼び寄せる、大災厄の予徴であった。




