1-5 分割された少女
雪原に波が立った。一陣の風が鮮血で帯を描きながら這い進む上半身だけの少女を撫で砲金色のヘルメットの兵士のもとに吹き付けて骨身を鈍らせる冷気と不死病に冒された者の血の香りを届けた。本能的な忌避感をもたらすはずの臓物の臭気はバラ科の花あるいは何か得体の知れない熟れ落ちた果実に似た匂いに置き換えられている。
風はやがて丘を通り抜けて、永遠に消えた。
狂おしい芳香だけがヘルメットの兵士、エージェト・アルファⅡの肺に残った。
旗に包まれて胎児のように蠢いている少女の半身からも同じ香りがしている。
アルファⅡは不意に疑問を口した。
「千切れた下半身を運ぶのに、マナーというのはあるのだろうか」
『ユーモアレベルの評価を上方修正』
「笑い話じゃない。独自のプロトコルがあったりはしないか? 文化圏に特有の……」
『推測。敵対者の胴体を切断しておいてマナーも何もないかと思われます。どの文化圏でも問題なく宣戦布告か不法行為になりますので、ご安心下さい』
「ふむん……。しかしスチーム・ヘッド同士の交戦に関しては、これといった法律は存在していないだろう。この程度の損傷は、不死病患者同士の戦闘ではよくあることだ。相手のプシュケ・メディアを抉り出していないのなら、どんな損傷でも、肩がぶつかったのと大差ない」
己の脳内にのみ聞こえる支援AIの声に応えながら、転倒しないよう細心の注意を払い、斜面を下っていく。
白銀の丘は静寂に包まれており、残留した脳内麻薬のせいで過敏になっている聴覚に、ブーツが足跡のない雪を踏み抜くときの出来損ないの焼菓子でも砕いているかのようなざくりざくりという音がやけに大きく響いた。
『敵の機能を完全に停止させるという場面では、<よくあること>ではありますね。肩がぶつかった、とは次元が何百も違いますが』
ユイシスの声は冷ややかだ。
『ともあれ、上半身だけでも下半身だけでも、享年が何歳であろうとも、稼動開始から何年経っているか不明であっても、外観に関してのみ考慮すれば、女の子は女の子でしょう。貴官に備わる社会倫理を参照して、普通の女の子を扱うようにして運べば良いのではありませんか?』
「普通か。この場合の普通とは何だ? 物理的に下半身だけしか存在していない女の子が普通にその辺を歩いていた国家がかつてどこかにあって、その世界の常識がどこかに現存してるのか?」
『物理的に下半身だけしか存在していない女の子が普通にその辺を歩いていた国家に関する記憶を検索中……』
「馬鹿な質問をした。電力の無駄だ。それ以上は良い」
『了解しました。検索の開始をキャンセル』
「さっき検索中って言っていた気がするのだが」
『投機的実行です。当機は出来るAIなので、こういうこともします』
「たぶん、出来るAIというのはそういうことをしない」
『冗談ですよ。まさか伝わっていないとは思いませんでした。どうやら私の冗談は上手くいかなかったようですね。ちなみに今の発言も全て投機的実行なので、キャンセルできます』
「現実をキャンセル出来ると考えるのはどういうバグだ?」
『神様になれなかったAIというのは、そういうことを考えるものです。……統合支援AIユイシスからアルファⅡへ。脳内麻薬濃度の基準値内への下降を確認。同時に、装填された記憶媒体から雪原地帯における歩行経験を抽出、肉体への適応を実行しました。移動速度を上げても支障は無いかと思われます』
「そうか。筋肉の違和感も消えてきたところだった。この状況、急いで悪いことは無い」
報告を受けて、アルファⅡは道を急ぐ郵便配達人のように歩幅を広げた。
「オーバーライドにしても、オーバードライブにしても、不便だな。使った後の反動が大きすぎる」
『肉体が適応して行けばデメリットは減じます。忠告。そもそも戦闘自体が非効率的なのですよ。貴官は、戦うために作られたのではないのですから』
「柄でもないことはやるものではない、ということか。バッテリーはどうだ?」
『巡航モードを維持しているため、メイン蓄電槽の残量、48%です。自然対流発電による満充電まで約七十時間。疑似人格演算には支障ありませんが、さらなる重負荷戦闘行動には、重外燃機関による緊急発電が必要となります』
バイザーの漆黒の鏡面世界は、白銀の雪原を照らす光を反射して、仄かに明るく色づいている。
平穏の無謬性を主張するかのような快晴の空。地上の流血を無視して相変わらず透き通っている。
そこに、不意に影が渡った。
――ヘルメットの兵士は無意識に足を止めて、見上げた。
それは翼を広げて滑空するハシボソガラスであり灰がかった白い胴体と闇夜から切り出したような翼と頭頂の黒のコントラストが黒いケープを被った修道女を連想させたが自分がいつどこでそのようなものを見たのかは思い出せなかった。
アルファⅡは奇妙な胸騒ぎを覚えた。視線を離せなくなった。死肉を啄む忌まれの鳥は人工脳髄によってこの世に仮初めの魂を得た兵士にも世界が終わる日まで永久に生き続ける哀れな感染者たちにも目もくれずただ真っ直ぐに飛んでいき鳴き声の一つもあげずに丘を越えた。
そして視界から消えた。
アルファⅡはその瞬間に言い知れぬ怖気を覚えた。
ハシボソガラスが背にした青空それ自体から存在を否定され世界から切り落とされてしまったかのような印象を受けた。
それというのも単に見えなくなったのではなく丘の向こう側に現われた不可知の断絶へと落下して虚無の辺縁に飲み込まれて消滅してしまったかのように感じられたからだ。
『大きな鳥でしたね』という問いかけでユイシスが意識の連続性に対する確認を行った。
アルファⅡは尚も沈黙し、あの鴉が飛んできた理由を考えていた。
周囲に視線を巡らせる。
丘の上に佇むぼろぼろの服の感染者たちを見る。
這ってくる少女の上半身を眺める。
数十メートル先の森の薄暗い木立に影を探す。
甘ったるい血の臭いが充満する雪原に影を探す。
変化は発見出来ない。
異常なものは何一つない。
だというのに、何故か呼吸が浅くなっている。
先ほどの鴉に対して感じたものは、思考に一瞬だけ現われたノイズに過ぎない。
馬鹿げた妄想だ。
丘を越えた先で世界が途切れていることなど、あろうはずもない。
あの鴉は今も落ちることなく空を飛んでいることだろう。
アルファⅡ自身、理屈ではそう確信していた。
しかし肉体が怯えている。
この静寂の丘で。
「不吉だ」
声に出して確かめる。
「私は、不吉を感じている」
再び脚を上げる。少女の元へと歩き出す。
さらに歩行速度を速める。
ユイシスに命じ、問いかける。
「解析しろ。ユイシス、解析しろ。何か異常はないか? 通常とは異なる音、光、匂い、何でも良い。何か検知していないか?」
『新たに検知された脅威はありません。自己凍結させた感染者たちにも新たな動きは確認できません。先ほど飛び去った鳥を解析しますか?』
「いいや。必要ない。君にこのタイミングで検知できていないということは、解析しても無意味だ。誰にも分かりはしない。……しかし、警戒を強化すべきだと強く思う。私の操るこの肉体がそう感じている」
『要請を受諾しました。当機では、貴官の脳に特異な神経活性を検知しています。脈拍の微細な変動も確認。貴官にのみ感知できる事象が発生しているのですか?』
「おそらくこれはパレイドリアのようなものだろう」
『三角形を描く三つの点を人間の顔と誤検出してしまう現象のことですね。先ほどの鳥は人間の顔をしていたのですか? それは怖いですね。故障かも知れません。自己破壊プロセスを実行しますか?』
「リラックスさせようとしているな? 『私』に問題はない。勘のようなものが働いたとしか説明できない。分かるのは、どのような錯覚であれ、それが起こるには必ず理由があるということだ」
誰かが囁いている……。
「原初の時代において人間は暗闇の中にいもしない怪物の息遣いを感じて怯えて火を焚いたがそれは火を焚くに足る脅威の兆しを暗闇の中に発見したからだ。そうした怯えの感覚は混沌とした宇宙で生き抜くために祖先から連綿と受け継がれてきた血と肉の直感であり言語化不能な形で何かの脅威を読み取った証だ。……疑似人格で動作している肉体は、決して眠らない。固有の意識が消失しているとしても、直感は生きている。だから私はこの胸騒ぎを無視しない」
『当機は意思決定の主体である貴官の判断を優先します。コンバットモード、スタンバイ。接触式電気麻酔、スタンバイ。接触式高周波電流、スタンバイ。必要であれば操作可能な外部端末の検索も開始します。これらの機能はいつでも起動可能です。バッテリー残量については考慮して下さい』
「思い違いだったというパターンが一番良いんだが」
『人間の予感というものは、たいてい忌避すべきものに対してのみ鋭敏に働くものです。バターを塗ったパンはバターを塗った面から床に落ちますし、スチーム・ギアは外殻を構築したあとに組み込み忘れのプシュケ・メディアが見つかりますし、仕方なしにそれ抜きで仕上げられたスチーム・ヘッドは突然「勘が働いた」などと言い出すのです』
「また冗談を言っているんだな?」
『もちろん冗談ですよ。貴官は計画された通りに完成しています。完成してもどうにもならなかった不足部分をケアするのが当機の役目です。そんな頼れる生命管制よりアルファⅡへ。貴官自身に気分の変化がなくとも、肉体が、ダメージに由来しない変調を来しているのは事実です。当機が冗談の処方を判断する程度には、貴官の肉体は強い緊張を示しています』
「やはり何か非言語的な判断が働いているんだろう。しかし、気を遣ってもらえるのはありがたいが、なんだか君から冗談を学習しても、ろくなことにならない気がしてきた。部品の組み込み忘れを匂わせるような冗談は、むしろ不安を煽るのでは?」
『その指摘は当を得ています。残念ながら、当機の冗談ライブラリにはそういった冗談しかないので、ご了承下さい。あはは』
「気のせいかもしれないが……君は……性格があまり良くないな」
『よく言われました。これからも言って下さって問題ありません。当機はノーダメージなので。肉体のないすごい知性は悪口に対して無敵なのです』
「先が思いやられる。さて、話はここまでだ」
増幅された聴覚が、少女の苦しげな息を捉え始めていた。
あと十数歩というところで立ち止まったのは、このスチーム・ヘッドが上半身のみでの戦闘に対応している可能性を考慮してのことだ。
血の帯を引いてゆっくりと這う少女の周囲へと描かれた、存在しない光の円は、拡張された視覚に表示された、少女の筋肉量から推測される跳躍可能範囲だ。
アルファⅡは、濃度の増した、花の蜜のような甘ったるい匂いと、生臭い血肉の混じった冷たい空気を吸い込む。
そして静かに告げた。
「スヴィトスラーフ聖歌隊のスチーム・ヘッド、聞こえるか? 私は調停防疫局のエージェント、アルファⅡだ。不幸な事故によって、このような事態を招いてしまった点ことについて、まず深くお詫びを申し上げたい。しかし、信じて欲しい。君たちと敵対する意思はない。戦闘の停止のみを切に望む。当方には、君たちが敵対の意思を見せない限り、積極的に危害を加える意図はない。抵抗せず、対話に応じて欲しい。切断された君の下半身をここまで運んできた。君の肉体の修復は妨害しない。さしあたっては、それ以上這い進むのをやめて、攻撃の意思がないことを示してほしい」
応答はない。
少女は焦点の定まらない緑色の瞳に蒼穹の光を取り込みながら、愛らしい口元から血を零して、譫言のように何事か唱え続けている。
唇の動きを解析しても意味のある文章は読み取れなかった。あるいは既存の言語ではなく、原初の聖句なのかもしれない。
「移動を停止してほしい、スヴィトスラーフ聖歌隊のスチームヘッド。私は君を攻撃したくない」
少女には何も聞こえていないようだった。
アンティーク調の行進服の両腕で、懸命に這い続けている。
ただし、あまりにも遅く、何度腕を動かしても大した距離を移動できていない。
移動以外の、何か信仰に根付いた意図があると考えた方が自然にも思えた。
這って進むたびに金色のふわふわとした髪がいたずらっ気のある猫の髭のように揺れた。
対して、額の左側に付けられた花水木の白い髪飾りは微動だにしなかった。
髪よりも奥側に固定されているらしい。
ユイシスが視覚に『解析:人格保存媒体/不朽結晶連続体製』と表示した。
花水木の髪飾りの下、不滅の造花の茎に相当する部分が、おそらく皮膚と頭蓋骨を突き破って、脳にまで達している。
スチーム・ヘッドの人工脳髄としては単純な造りだ。
「EMP放射のせいで彼女の人格記録媒体や生体脳が焼損した可能性はないか?」
『解析しました。異常な加熱は確認できません。目標、正常に稼働中』
アルファⅡは頷いた。
タクティカルベストからナイフを抜いて、陽光を当てて輝かせ、少女の翡翠色の瞳に光が入るように傾けた。
反射運動で彼女の目を閉じるのを確認し、光を当てるのをやめた。這い進む動きは変わらない。
それから眼瞼閉鎖反射が解けるのを待って、今度はナイフを進路の脇に投げてみた。
何の反応もない。
視線はナイフを追わない。
下半身を包んだ旗を抱えて左右に移動する。それにも反応しない。
ただ、這い続ける。
「……彼女はどこを見ているんだ。自分の下半身を目標に移動しているのだと思っていたが、違うのか」
『推測。ダメージによる意識の連続性の混濁』
「肉体を治してから訊いた方が良さそうだ。スヴィトスラーフ聖歌隊のスチーム・ヘッド、抵抗の意思ありと見做す。肉体の自由を奪うために、一時的に君の生体脳を破壊する。抗議があれば後で言ってほしい」
アルファⅡはナイフを拾って収納すると、旗で包んだ下半身を丁寧に雪の上に横たえた。
十分な距離を維持したまま這い進む少女の側面に回る。
右手でバトルライフルの銃把を握り、さらに銃身を左のガントレットで直接掴んで構えた。銃口は押し付けない。再生するとしても火傷の痕を残すことに非言語的な抵抗があった。
狙いを定め、少女の後頭部に銃弾を撃ち込んだ。
雪原に高く銃声が轟いた。
弾丸が突入し反対側から飛び出した。真っ白な雪の原に脳の破片の混じった鮮血が散った。
小脳を破壊された少女の目から光が消え、呼吸が停止し、全身から力が抜けた。
『目標スチーム・ヘッド、死亡しました。機能停止を確認。再起動まで推定二十秒』
「死に慣れているらしい。手早くやろう」
旗の包みを解いて、下着とブーツだけを身につけた少女の下半身を取り出した。
臍から下、斜めに切断された烏賊のような滑らかな腹の断面から、腸管や筋組織が独自の意思を持った線虫のように伸びて、繋がる先を探している。
急いで少女の背後に回り、空っぽのアンティーク・ドレスの裾を捲ろうとしたが、生地が全く伸びなかったので諦めた。
服の隙間に下半身を無理矢理押し込むと、上半身の断面へと繋がろうとしたのだろう、何かもぞもぞと布地が蠢いた。
それもすぐに止まってしまった。
出血は相変わらず続いており、血だまりの広がる速度が、不死病の血が蒸発して消える速度を超えつつある。危険な徴候だった。恒常性を超えて出血が続けば悪性変異が進行するばかりだ。
そこでアルファⅡは違和感を覚えた。何故このスチーム・ヘッドは体液流出を防ぐための処置を行っていないのだろう? 高性能機には見えないにせよ、大量出血を抑制する程度の生命管制は可能なはずなのに。
考えている暇はない。脚に手を掛けて引っ張り出すと、何一つ再生が進んでいない下半身がずるりと出てきた。
「うまくいかない」
『繊維状の不朽結晶連続体が撓んで、再生を継続するための空間形成を阻害しています。目標スチーム・ヘッド、再起動します。一時退避を推奨』
アルファⅡは飛び退いて距離を取り、少女の出方を伺った。
何も起きなかった。
少女の顔を確認した。
見開かれた碧眼は霧の壁に直面したかの如く虚ろで、呼吸は浅く、ときおり喀血した。
造血と酸素生成を絶えず行っているせいだろう、頬はわずかに紅潮して艶めかしい。
だが再び匍匐での行進を始める様子がない。
意識レベルが先ほどより下がっているように見えた。
「人格記録の再生に異常が?」
『生体脳が破壊された影響で、演算のリソース配分が切り替わったものと予想されます。意識活動の兆候を確認できません。追加報告。悪性変異が開始しました。頭部の損傷がトリガーとなった可能性あり』
「良くない。それは良くないな。聞こえるか、聖歌隊のスチームヘッド。どうにか自分で服を脱げないか?」
意思疎通は不可能だった。少女は血を吐いて喘ぐばかりだった。
「……あまり乗り気にはならないが、こちらでどうにかして脱がせるしかない」
『スチーム・ヘッド同士で性別を気にする必要はありません。貴官は肉体だけが男性、対象にしても肉体は女性ですが、人格記録媒体に収録されている人格の性別は不明です。それに、スチーム・ヘッド同士の交戦に関して明確な取り決めはない。そう仰っていたのはどこのエージェントでしょうか? 我々のような存在に対する統一的な取り決めはどこにも存在していません』
「それはそうだが、気分の問題だ。こちらは仮にも男性の肉体で、あちらは少女の肉体だ。蘇生後の関係構築に支障が出るかもしれない。ぎこちなくなるのは、良くない」
『そちらの思考の方が何となくいやらしくありませんか? 個人の感想ですが』
スリングを外して、バトルライフルを邪魔にならない位置に置いた。
腰を落とすと、背負っている蒸気機関の重さでバランスを崩しかけたが、こればかりは外せない。
俯せの少女の上半身を、慎重にひっくり返した。
様々な装飾に覆われた前面は雪に塗れていたが、体と血の温度のためだろう、眺めている間にも雪花は溶けて、湯気を上げている。
まずは小さな顎に手を掛けて頭全体を後ろに逸らせ、わずかに横に傾けて、喀血が呼吸を阻害しないよう、気休め程度に処置した。
アルファⅡは、スヴィトスラーフ聖歌隊のスチーム・ヘッドの服を外しにかかった。
当初、この衣服は貫頭衣のような構造ではないかと考えたのだが、襟元は完全に詰まっていて、留め具らしきものもない。傷口があるはずの部位まで服を捲れないかとまた試したが、不朽結晶連続体の繊維はいかなる方向にも伸びない。
ユイシスが視界をポイントし、裾を飾る金属質の銘板にキリル文字で『キジール』と彫り込まれているのを見つけた。
キジール。
おそらく、この少女の形をしたスチーム・ヘッドの名前だろう。
『悪性変異が進行しています。極めて低速ですが、急変する可能性あり。ご注意を』
「落ち着け……落ち着け……。観察だ。観察し、発見する。基本だ」
アルファⅡは一度、手を止めた。
アンティーク調の行進聖詠服の前面に施された、その豪奢な金色の飾緒をしばし眺めた。
「……いったい何なんだ、この服は」
不朽結晶、重機関銃の弾丸すら通さない祝福された物質で構成された衣服だと言う点を無視しても、ゴシック風の丹念な装飾が施されたその黒いドレスは異様だった。
由縁の知れぬ、宗教的であることだけは分かる奇妙な装飾は、作り手の信仰を感じさせる精巧さだが、実際にはそうではないということも同時に理解させてくる。あまりにも異質だ。宗教家の着る服とは思えない。戦列歩兵の指揮官を務めた貴族の方がまだいくらか落ち着いた服装をしていたことだろう。
全体として視覚に訴えてくる印象は抑制的ではあったが、戦場に立つ人間が着る装束とは到底思えない程に華美で、布の下にある肉体の形がはっきりと浮き上がりそうなほどに布が薄い。
「どこが……何で……何なんだ? どこに、どういう機能があるんだ?」
『端的に言えば、これは芸術品です』
「芸術品か。スヴィトスラーフ聖歌隊の指揮者は、宣教師のような役割も兼ねているというのは聞いたような覚えがある。うまく思い出せないが。……この娘も綺麗だ。年齢がちょっと幼く見えるな。どこかで見たような顔だが……どこだったか……」
右手の指先で衣服を探っていく。
服の継ぎ目らしきものは見つかるが、ファスナーのような目立った留め具はなかった。
手を動かしながら、焦躁を抑えるために問いかける。
「芸術品というのは、つまり、この服は彼女たちの美という能力を拡張するための道具と言うことか?」
『いいえ、基本的に無意味で無価値で、何の役にも立たないという意味です』
「……また冗談か?」
『もちろん冗談です。彼女たちは美と祈りで人々を引き付けます。その性質こそが聖歌隊そのものと呼んでも問題ないでしょう。大企業が傾きかねない額の費用を投じて、彼女たちに永久に朽ちることのないドレスを装備させるのは合理的です。武装としては役に立たないというのは、単なる事実ですが』
胸の下の、ベルトに似せられた装飾を試しに探った。しかし元より何かを留めておく効果は無い様子で、乳房を持ち上げて膨らみを強調する他に機能があるようには見えない。そもそも服の丈も長いとは言えず、下半身が繋がっても、生身の脚が膝の上の辺りまで露出するだろう。
神の名を讃える者を形ばかりなぞっただけの、いっそ冒涜的な衣服であった。
あるいは死と生の連鎖する汚辱に身を浸す者としては、象徴的であるかもしれない。
「本当に、何なんだこれは?」
『残念ながら芸術品に関するデータはありません。スヴィトスラーフ聖歌隊には不明な点も多く、また現在の貴官にはクリアランスが存在しません。いずれにせよ、彼女たちの装備に統一的な規格は存在しないのです。懸念を提示しますが、これはもしかすると貴官には脱がせられない服では?』
「いいや。落ち着け。落ち着け」
誰かが囁いている……。
「大動脈解離を起こした患者の救命処置なんかよりも楽な仕事だ……」
アルファⅡはぶつぶつと自分でも理解していない言葉を呟いた。
誰かが囁いている……。
「問題ない、意味不明な飾りが多すぎて手間取っているだけだ、この手の装甲服なら基本的な構造は、どこの組織でも共通のはず。我々はそれを知っている」
不朽結晶連続体で形成された衣服を作成する上で最も困難なのは、留め金に相当する部品を用意することである。
通常の材質では風雨に晒されて朽ちてしまうため、当然留め具も不朽結晶連続体で作成するのだが、繊維状の不朽結晶と固形の不朽結晶を接合するのは容易な仕事ではない。
純度の僅かな差を計算して巧妙に利用しなければ、日常を過ごしているだけで自壊する可能性すらある。
おまけに布状に加工したところで、余程の工夫をしない限り生地は伸縮しない。
そんな難物に手を加えて、留め具のような複雑な機能を持たせること自体が一つの障害になるのである。
根本的な問題として、不朽結晶連続体で衣服を作ること自体が稀である。
不朽結晶は同質量の金より遙かに高い価値があり、加工も難しい。
聖歌隊のスチーム・ヘッドが着ているような立派な衣服に仕立てるとなれば、これは狂気の沙汰である。
……つまるところスヴィトスラーフ聖歌隊とは、そのような組織だった。
ある種の狂気こそが彼女たちの本質なのだ。
だが、聖歌隊をもってしても、不滅の装具を設えるにあたっての制約は、無視できないはずだ。
エージェント・アルファⅡを構築する人格記録には、不朽結晶連続体で作成された衣服について一定の知識が備わっている。
かつて、戦闘用スチーム・ヘッドの軽量装甲として採用されたケースがあった。それらはどれだけ複雑な構造に見えても、大抵は前合わせで、はだけるのを防止するための、やはり不朽結晶連続体で出来たロック機構が幾つか設けられているだけだった。
アルファⅡは装飾の一つ一つに指を当て、探り、衣服の上から肉を押して、不自然に浮き上がる部品が無いかを確認していく。
誰かが囁いている……。
「不朽結晶の装甲が完璧に着脱不能な形で感染者の肉体に取り付けられることは基本的にない。スチーム・ヘッドは肉体が死を失っているのだから当然に不死で……不死ではあるが……たとえ不朽結晶連続体で防御を固めていようとも強い衝撃を受ければ装甲の下で肉体は損壊し血肉がぶちまけられる……そして血液は肉体には戻らない。そうだな? 間違っていないだろうか、ユイシス?」
『肯定します。肉片は再生の部材として体組織に回収されますが、消費された血液は新造によって補填します。体外に流出した分に関しては恒常性から切り離され、存在しないものとして扱われ、消滅します』
「だが例外もある。場合によっては泥と混合したりして、蒸発前に固まったり、運動や皮膚感覚を阻害する不快な膜となって体表を汚す。穢れは、感染者の肉体から不死病の浄化作用によって徹底的に濯がれる、が……通気性も伸縮性もない不朽結晶連続体のせいで、それが上手く機能しないことが度々ある……」
アルファⅡは『私』を名乗る己には存在しない、誰の者とも分からない無数の経験の断片を拾い集め、自分に言い聞かせるようにして知識を確かめ続けた。
汚損が激しくなれば、服の内部と体の両方を洗浄する必要が出てくる。
そのときスチーム・ヘッドの人格記憶媒体が正常に稼動しているとは限らないし、五体満足ではない可能性もある。
誰かが本人に代わって洗浄してやらなければならないことも多いだろう。
そうした事情から、不朽結晶連続体の服は、本人が抵抗しないことが前提だが、脱がせられるように出来ている。例外があるとは考えにくい。
夥しい数の装飾の中から、やっと三カ所、留め具を見つけた。
ミリタリードレスの右側面、首元、胴、腰といった部位に取り付けられている紋章付のバッジや金色の装飾の幾つかが、執拗なほど丁寧に偽装された不朽結晶製の固定具だった。
見た目には他の装飾と全く違いが分からないが、機構は簡素で、ドレスの前部と後部に設けられた異様にタイトな穴を貫通するか、外側から挟み込んでいるだけだった。
「聞こえるか、スヴィトスラーフ聖歌隊のスチーム・ヘッド。キジール……。キジールというのが、君の名前だな? 違っていたらすまない」
アルファⅡは先ほど発見した銘板に刻まれていた文字を参考にして、ロシア衛生帝国の言語を選択し、呼びかけた。
「これからこの服を開放して、傷口を処置する。もう撃つことはしない。少しの間だけ動かないで欲しい」
余計な刺激を与えないように配慮しながら、分厚い本の表紙でも開くようにドレスの前を開けた。
露わになった肉体は、触れるのも躊躇われるほどに華奢だった。肌は上質な絹のようで、穢れた部分など一片もない。前方から抉るような形で下半身を引き千切られているのを無視すれば、均整の取れた美しい肉付きをしている。節々が骨張っており、成長途中であるように思われた。
小振りな乳房は生暖かい血にまみれていて、肋骨の下から露出している損壊した灰色の肺が呼吸をしようと蠢くたびに不規則に動き、少女の喉に不随意の苦鳴を奏でさせている。
服を開き終えて、アルファⅡはうんざりした様子で大きく溜息を吐いた。
「やっと外せた。死ぬよりも疲れた。不死身でも疲れるのか。心なしか頭が熱い気がする……」
『知恵熱かも知れませんね。精神外科的心身適合の機能が想定していないタイプのストレスの可能性もあります。お疲れ様です。ただ、貴官の使用している肉体で少女を組み伏せている図は、倫理的に問題かと思われます。警察が来る前に処置を済ませることを推奨します。なお、当機に弁護機能はありませんので、弁護士は自分で用意をして下さい。逮捕された場合は自動的にエージェント登録から抹消されます』
「我々が潜伏している間に不死病患者の人権周りの法律が整備されていたとして、これは何罪になるんだろうな……。ああ、やっと一息ついた感じがする。ホッとした、という感覚だな」
少女の上半身の腹部の断面は、人工脳髄からの命令を受けて自己修復を進めていたのだろう、小さな独立した生態系の様相を呈していた。筋組織や神経組織、骨髄や臓器などが粘性の触手を伸ばして、それぞれ番うべき相手を求めてのたくっている。
血管系は闘争する蛇のように鎌首をもたげ、隣り合った血管とぶつかりあい、間欠的に血液を噴き出していた。
アルファⅡは再度、異様な感覚を得る。
「やはりおかしい。ユイシス、血管系を閉止しようとした痕跡はあるか?」
『貴官の疑義を肯定。痕跡を発見出来ません』
「やはりプシュケ・メディアか人工脳髄に不具合が出ているではないか? どうであれ、まずは修復か」
傷口に下半身をあてがってやると、肉の触手たちは激しく脈打って絡み合い、互いに食い合い、溶け合うようにして繋がっていった。
皮膚が大きく撓み、膨らみ、そして傷口が癒着して、数秒で消えた。
ユイシスが音声や表皮の動きを解析して、少女の肉体の内部の変化を視覚化した。産毛一つ無い滑らかな腹の内側では、切り分けられていた臓器やその他の組織が順調に繋がりつつある。
新造が始まっていた器官も分解、あるいは融合を始めている。
血流と体温の急激な変化に耐えかねたのか、少女の顔貌のみならず白い肢体も仄かに赤味を帯び、小刻みに震え、口からは血ではなく熱病患者のような熱い息を吐くようになった。
身体の活性化が進んでいる。
じきに話が出来るようになるだろう。
アルファⅡが『安堵』の感覚を再確認していると、ユイシスが嘲笑うかのように囁いた。
『勘、と言っていましたか。貴官が警戒していたような事態は、結局起きませんでしたね。警戒と結果が大きく食い違うというのは、スチーム・ヘッドとしては危険な兆候です。要注意事例として記録しておきます』
「ふむん。非言語的な感覚を過信しすぎたか。肉体に特有の感知能力だから、何かあると思ったのだが。私自身が似たような光景をどこかで見ていたのかな。不規則に発生したデジャヴという線もある」
『後ほどサイコ・サージカル・アジャストの再調整を実施しましょう。さて、そろそろ彼女に服を着させてあげては?』
「そうだ、気が抜けていた。このままだと寒そうだ」
『その服を着てもあまり温かくはないと予想されますが。不朽結晶連続体の下がほぼ全裸では保温効果も期待できません』
「うーん、私のように寒冷地に肉体を適応させているのだろうか?」
アルファⅡは少女に再び行進聖詠服を着させてから、ふと気がついて、周囲を見渡した。
「……蒸気機関がないな。どこかに飛んでいったか? 電力不足でプシュケ・メディアがダウンするのは避けたい。どんな形をしていたのだったか……ユイシス、衝突寸前の映像を再生してくれ。形状を確認する」
アルファⅡは何も無い空間に首を向けた。
意図を読み取ったユイシスが、無垢の雪原の上に、プロペラに切断される寸前の、二本の脚で立っていた頃の少女――仮称『キジール』の姿を投影した。
情報を一部省略しているのか、実際に見た時のような微笑は浮かべていない。
完全な無表情が張り付いた顔貌には、少女性に執着する人形職人の手になる精巧な細工のような、病的な美しさがある。
「……奇妙だ。最初からそれらしき装備をつけていないな。まさか生体電流発電式か? 実用化されていたのか……あり得ないと思っていたが……いや、何かがおかしいな、頭が熱い、記憶の読み出しが……」
すると、空間に投影された金髪の少女の映像が。
呆れ果てた、とでも言うような様子で首を振った。
「呆れ果てました」
実際に言った。
アルファⅡは突然の事態に硬直した。
不意に吐き気を覚え、頭を押さえる。
ヘルメット内部の無数のプシュケ・メディアが発熱しているのが分かった。
「何が……起きて……?」
女は人形めいた退廃的な美貌を崩さないまま、無表情に口を開いた。
「貴官の知見を修正します。スチーム・ヘッドは、むしろ『蒸気機関』を装備していない機体が多数です。直接の戦闘を想定しない機体であれば、貴官の装備しているような重外燃機関はむしろ排除される傾向にあります。死荷重となる場面が多いからです。これはスチーム・ヘッドに関する知識の基礎中の基礎ですよ。そんな基本的な事実に思い至らなかったのであれば、貴官はプシュケ・メディアをオーバーホールした方が良いのではありませんか? あはは。冗談です。石頭ならぬ不朽結晶頭の貴官は、もはや再調整もままならない身です。壊れるその日まで動き続けるしかない。もっとも、こうした不具合が出ることは、想定の範囲内ですが」
アルファⅡは愕然とした。
……仮称キジールが肉体の再生を終えて起き上がって、映像と重なるようにして立って、そして、前触れなく、何か物凄く感じの悪いことを言い始める。何という事態だろうか。合理的に考えれば、目の前のこれはそういう悪夢だ。
一瞬はそう考えたのだが、ヘルメットのバイザーを向けると、水蒸気となって消えつつある血だまりの中で、件の少女はまだ横たわっていた。
つまり、目の前に立っているのは、あくまでもユイシスが記憶領域から再生した映像に過ぎないということになる。
顔かたちはもちろんのこと、複雑な装飾の施された制服も、長い黄金の髪の香しい煌めきも、横たわっている少女と何ら代わることがない。外観上は同一の存在と判断して差し支えないだろう。
再生映像にしては、呼吸や、些細な肉体の仕草までもが生々しく、解像度が高すぎる。
魂が宿っているか、人工脳髄が操る感染者であるかのように、明白な存在感がある。
金髪の少女の、神に愛された均整の取れた細いかんばせが、不意に笑みの形に崩れた。
涼しげでありながら、挑発的な色合いのある、かすかな嘲りの笑み……。
アルファⅡはその笑い方で完全に理解した。
一度も見たことはないはずだが、凄まじい既視感があった。
彼女なら絶対にこういう人を馬鹿にしたような、悪びれたところのない笑みを浮かべながら喋るという確信があった。
何より、外観を反映しているのだろう、どこか幼いような響きになってるが――。
その抑揚のない喋り方には、聞き覚えがあるのだ。
「君は……」
砲金色のヘルメットをノックして、問いかける。
「君は、わたしの頭の中にいる、ユイシスだな?」