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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-12 祭礼のために その6(1) 騎士の骸

 リーンズィの視野に無数の情報選択窓が表示される。

 虚空に手を伸ばそうとして、しかし強張る。世

 界生命終局管制実行に関する制限が、己の意志に依らず次々に解除されていくのだ。

 惑うことさえ許されない。統合支援AIユイシスのアバター、ミラーズの写し身たる虚構の少女、目にも鮮やかな金色の髪を揺らす偽りの天使の、その繊麗なる指先が、子猫の頬でも突くような気軽さで、無数の承諾事項を自動的に解除していく。


『アルファⅡモナルキア・リーンズィへ報告します。エルピス・コアへのアクセス制限を解除しました。エージェント・ヴォイド、戴冠シークエンスへ移行中。世界生命終局管制、最終フェーズ。世界生命再編用有機再編骨針弾、生成開始………アポカリプス・モード、レベル1。起動します。準備はよろしいですか?』


「いったい何をしているの?! 最終意志決定者は私であるはず!」


 全てが最終意志決定者である彼女と無関係に進行している。

 敵地の只中、塔の不滅者ヴェストヴェストの内側に入り込もうとしているというのに。その渦中において、しかしリーンズィは我を忘れて声を荒げていた。


「意志決定の優越は君には存在しない。アポカリプス・モードを起動せよ、と誰が命じた!」


『貴官です、アルファⅡ』金色の少女の幻影は嘲笑う仕草で手を広げる。『当機は、他ならぬ貴官の命令により現在のシークエンスを進行しています』


 轟音/震動/弾丸の雨。

 尚も塔の増殖は続く。三つの方向に対して塔の群れを構成する聖数(ゲマトリア)は増大し、三角形を拡大するように衝撃波の嵐が荒れ狂い、そしてその広大な無差別破壊領域からリーンズィたちは脱出できていない。むしろそこに留まろうとしている。

 轟音/震動/幾千の刃。

 都市の破片が数千の死となってリーンズィたちに押し寄せてくる。自然、肉体は恐怖する。人工脳髄がアラートを発する。

 しかし立ち止まることは出来ない。ミラーズに手を引かれて、その破壊の渦の内側へと誘われている。

 先頭を進むのはエージェント・ヴォイドだ。

 彼の背後から前方の災禍を窺い知ることは出来ない。だが、彼が楯となり、全ての苦しみを遠ざけていた。

 リーンズィたちが無傷でいられるのは、ヴォイドが礫石の雨を一身に受け止めているからだった。


「ヴォイド!」

 衝撃波に身を竦ませ、塵埃に咳き込みながら、都市が呆気なく粉砕されていく轟音に掻き消されないよう、ライトブラウンの髪の少女は声を張り上げる。


「ヴォイド、ヴォイド! それ以上は進めない! 私たちはともかくとして、君の帰還が危うい! 悪性変異が起きるぞ! 私にこの作戦進行が止められないというのなら……ヴォイド、君から命令をしてほしい!」


 何か泡立つような不快な音が微かに聞こえた。

 ヴォイドのヘルメットの下から、びちゃびちゃと、粘着質の血液が大量にこぼれ落ちた。


「帰還は……帰還は、この分岐に、この時間枝に……存在しない。私の、帰還する場所は……私の花嫁は……ドミトリィ、お前は……お前はどこに……ドミトリィ! お前は何を……している……? ごぼ……」


 おそらくは応答のつもりなのだろう。しかし、会話として成り立っている部分が一つも無い。ヴォイドがそのような混濁した、嗚咽めいた声を出すのを、リーンズィは初めて聞いた。

 診断プログラムに目を通す。

 予想通り、ヴォイドの肉体の損壊に生命管制が追いついていない。

 ユイシスのアバターに損傷状態を反映させようとすると、金色の髪をした少女の幻影が傍らに現れ、己の行進聖詠服を非表示にした。惨たらしい有様だった。そこには乳房も腹肉もない。大半の臓器が消失しており、肺すらも片方は完全に潰れ、生命維持に必要な部位だけが、辛うじて、選択的に再生され続けている。筋肉系、血管系、骨格系に関しては、状態はさらに酷い。原形を留めているのは背骨と胸骨の一部に過ぎず、大抵の部分においては、出鱈目に血管の張り巡らされた、不格好な筋繊維の束が、巣を作る蟲の塊の如くに、人型に、乱雑に圧し固められているに過ぎない。


「これは……変異が進んでいるのか? でも、この方向性の無い変化は……?」


 悪性変異は、大凡の場合、人体に取り得る選択肢では解決不能なダメージを解消する目的で発生する。原則として、その変容は与えられている負荷から逃れるためのものであらねばならない。

 そういった意味で、ヴォイドに起きているらしい変容は不可思議だった。弾丸の如き礫を浴びたならば、むしろ外皮を硬化させ、そのダメージに耐えられる形態へと変化するべきだ。

 損傷箇所を応急的に補填し続けるような変化は非合理的である。

 機能制限が解除されている現在ならば、XXモードを起動して自身に対してK9BSを投与すれば、あるいはそのような部分的変異促進も可能であるはずだ。

 だというのにヴォイドは全身を惨たらしい挽肉の構造体に変換されることを受容している。

 脂と血の混じる飛沫を全身から噴き上げるその兵士は、前だけを見据えている。


 リーンズィが言葉を失っていると、ユイシスは含み笑いをしながらヴォイドの損傷と同期を解除した。すぐさま豪奢なばかりの行進聖詠服のテクスチャが被せられる。


『報告。当機らアルファⅡモナルキアは帰還不能領域に到達済です。エージェント・ヴォイドは、損傷率99%を維持。変異率170%を超過、尚も増加中。()()()()調()()()()()()()()()


「何が、順調……? ヴォイドは限界だ。これ以上は自殺行為に等しい」


 礫を浴びる度に、巨体の兵士は、貌の無い兵士は、肉体的な衝撃と苦痛から悶えて打ち震えた。

 脚が欠損しても、膝をつくことは許されない。生命管制でコントロールされた体組織が、即席の義足を……人間の脚とは言えない脚を瞬時に形成して、彼を前に進ませる。


 彼が礫を受け止めている、という認識は間違いだ。

 それをリーンズィは認めつつある。こちらまで飛来物が貫通してこないのは、重外燃機関が、分厚な装甲板としてヴォイドの背中に存在しているためだ。

 受け止められているわけでは無い。当然であった。彼は楯では無く、脆い肉の塊である。

 容赦の無い殺戮の奔流に晒されて、彼の肉体の前面は、おそらくどこもかしこも人間としての容体を失いつつある。

 無事なのは最高純度の不朽結晶連続体で保護されている頭部と左腕だけだ。

 リーンズィの危機判断能力は、ヴェストヴェストの無秩序な破壊活動にあてられて麻痺してはいたが、ヴォイドの損傷程度を理解出来ないほどの混乱では無い。彼の活動を停止して、正常な再生を終えるまで支援し、別な対策を考えるべき段階だった。

 そのように意志を決めているというのに、アルファⅡモナルキアは、しかし、誰も従わない。

 ヴォイドは棺の如き重外燃機関を帆にして、嵐の夜を進む幽霊船の如く、無秩序の破壊の風をひた進んだ。愛らしい声で静かに賛歌を奏でるミラーズが彼の後ろを歩いて行く……。


 金色の髪をした少女に手を引かれながら、リーンズィは狼狽えていた。そして機械的に世界を塗り潰していく異形の塔に、この上ないほど、怯えていた。それはこれまでに体験したことのない恐怖だ。不朽結晶連続体の城壁が長く連なっていることを理解した時ともまた違う。

 ヴェストヴェストの増殖はまさしく悪夢的だ。

 見る間に風景を埋め尽くしていく真っ黒な塔は、自分自身の認識してる世界が一枚の紙切れの上に書かれた欺瞞に過ぎなかったのだと信じさせるだけの禍々しい圧力を放射している。接近して細部が観察できるようになると、塔の群れが、増殖する寸前、同時的に震動し、そして移動していることが判明した。

 外縁部を構成する塔が自己複製しているのではなく、新たな塔の生成は群れの中央部で発生しており、リーンズィの目に増殖として映っている光景は、正確には塔の移動ーー再配置なのだ。

 言ってしまえば塔の波が発生しているにも等しい。

 だからこそこれ程までに凄まじい轟音を伴う。

 何を目的にして変異すれば、このような破壊を撒き散らすばかりの存在に到達するのか、リーンズィには知るよしもない。だがはっきりと分かることもある。

 これはただ、森羅万象に対する冒涜のために存在している。

 己を除く全ての有耶無耶を崩すためにこの塔は世界に対する版図を広げている。

 あるいはその終局には、己自身をすら打ち砕くのか。


 いずれにせよ、ここまで即物的で、圧し掛かってくるような、際限の無い破壊に相対した経験が、リーンズィの人格記録には備わっていない。ヴァローナ(肉体)も災禍の振りまく轟音が恐ろしいらしく、雷雨に耳を塞ぐ幼い少女のように、たびたび足を止めそうになる。


 肉体はどうしようもないほど警鐘を鳴らしており、闘争ではなく逃走をこそ求め続ける。

 ミラーズが手を握っていなければ、とっくに引き返しているところだった。

 混乱、狼狽と怯懦は、まさしく同一線上にあったが、しかし状況が理解出来ないという困難は、それとはまた別の次元にある。

 手の施しようがない純粋な破壊の渦に飲まれていくウンドワートを援護する必要がある。それは、妥当だと理解する。

 ウンドワートは災禍の中央部で戦っている。

 ならば、どうしてもヴェストヴェストに接近していくしかない。それも理に適う。


 しかし真正面から、一列になって進む必要はないはずだった。

 回り道をして、遮蔽物を探して、少しでも安全なルートを模索するべきだ。


 リーンズィは、これをしたくない、こうするべきだ、と無線で、肉声で、哀願する少女の声で、何度も何度も繰り返した。アルファⅡモナルキアとして何度も行動の中止を要請した。

 だというのに誰もそれに従ってくれない。


「どうして? 一体どうして、こんなことをする? 誰の命令で皆、歩いている……」


 少女は泣きそうな声で呻いた。それでいて、彼女自身、脚を止めることが出来ない。


「あなたですよ、アルファⅡ」棺担ぎの男の背を追いながら、ライトブラウンの髪の少女の手甲に指を絡めながら、天使の少女が振り向いて、慰めるように微笑んだ。「これはあなたが決めたのよ」


「私が? いつ、こんなことを……こんなこと命じるわけない。自殺行為だ」


 ミラーズに寄り添うように、電子に住まう合わせ鏡の少女が現れる。


『肯定。本作戦、オペレーション・ゼロアワーの立案者は、エージェント・リーンズィです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。他ならぬ貴官が今回の作戦を策定しました。貴官の最終意志決定権は正常に機能しています。ただし、過去の時点での決定に関して、貴官は無力です。諦めてください。確定された事象の実行を要請します』


「予め私が決めていた……? 確定していたと? こうなると最初から分かっていたのか? 私は……以前のリーンズィには、こうなる未来が見えていた……の?」


『肯定。オペレーション・ゼロアワー、正常に進行中です。混乱を避けるために、分離前のアルファⅡは貴官の認知機能をロックしました。現在も貴官は深層データベースへのアクセスを許可されていません。この処置はコロネーション終了まで継続するよう設定されています。事態は問題なく進行しています』


「しかし、これでは、これではあまりにも……ヴォイドが……それに、私たちも無事では済まない」


「何があっても大丈夫」ミラーズが微笑んだ。「騎士様が助けてくれるわ……」


「ミラーズ、君は知っていたのか? ……知っているの?」


「いいえ、いいえ。私もリーンズィと同じ。輪を掛けて酷いこともありましょう。知るべきでは無いことは知れないように、加工されていますから。だけど……あたしは、この気配を知ってる。あの騎士がやってくるとき、いつも同じ香りを感じていた」


 三度、礫の暴風が打ち付ける。アルファⅡモナルキア・ヴォイドが姿勢を落とした。

 己が身により弾道を遮り、ミラーズとリーンズィを破壊から遠ざける。

 ついに再生維持限界に到達し、装甲されていない右腕部が千切れた。踏み潰された環形動物の溜まりめいて粉々になり、血肉の花吹雪となって、どこか見えないところへと吹き流され、そして、二度と再生しない。

 朗々と女の声が告げる。


『アポカリプス・モード、カートリッジ選択完了まで間もなくです』


「どこ……だ……?」


 ヴォイドはヘルメットに下で、熱病患者のように譫言を繰り返す。


「私の花嫁は……? 迎えに……行かなければ……今度こそ……私が……」


「花嫁? ヴォイド、どうした、の……? 何を読み出している?」


 ほんのひとときだけ風が凪いだ。

 嵐の向こう側に、剣の火花が舞い踊るのが見える。ウンドワートとベルリオーズが死を舞っている。

 塔の不滅者、ヴェストヴェストの律動に妨げられて、ウンドワートのベルリオーズ封殺は滞っているように思われた。

 一刻も速く向かわなければならない。だからこそ、愚直に前進し続ける他ないのだ。

 嫌になる話だ。事態の推移を予想できていたというのならば、過去のリーンズィは正しい判断をしている。因果律が捻れ、破綻し、不可解なことになっているが、在りし日のリーンズィのことは、おそらく信用して良い。


 だがしかし、とリーンズィは、薄暮の夢の境界を微睡み歩む己の片割れ、フルフェイスヘルメットの兵士の、見上げるほどに大きくて、目を背けたいぐらいに引き裂かれたその形に、哀傷を覚えもする。

 たとえヴォイドが意味不明な言動を取る秘密主義者で、リーンズィの人間性を弄び、平気で人体実験をするような、まったくいけ好かない人格だとしても、その肉体が崩落していく様は、見るに忍びない。

 こんな苦痛に満ちた作戦を、本当に自分が考えたのだろうか?


 活動電位が臨界に達したアルファⅡモナルキアの頭上に、七又の角の如き稲妻が放射される。

 ヴォイドは低く唸り声を上げ、狂乱しながら地獄へ向かって駆け始めた。

 塔の騒乱は加速度的に烈しさを増し、新たに生え揃った乱杭歯の如きおぞましき者どもが白銀の兎を隠し、塵を巻き上げて空を暗くする。

 確かにコロネーションを行うしか、ウンドワートを安全に帰還させる術はないだろう。

 この破壊の暴威から、別世界の片割れであるウンドワートを救い出すには、それしかないのだろう。

 それでもヴォイドに消えて欲しくないと願っている自分に、リーンズィは気付いた。

 消える? その発想に、しかし怖気を覚える。

 消えるとは? 

 スチーム・ヘッドが、不死病患者が、消える……?


「それで良いのです」ミラーズが微笑む。「あなたは誰かを憐れむことが出来るスチーム・ヘッド。ただ奪うだけで無く……終わらせるためにこの地へ来たのです」


 救われぬ者どもを救うために。

 裁き主を讃える盲目の信徒が囁く……。

 


 不死病患者を捜索する傍ら、ドミトリィは独自に地下街に囚われたその少女について、内偵を進めていった。隠しカメラを使い、隠しマイクを使い、彼女が本物の聖句遣いであることを証明するために足繁く地下街の娼館、娼館とも呼べない粗末な穴蔵を通じて、彼女と接触し、同じ時間を過ごした。

 大枚を積んで一晩の間語り明かしたこともあったが、内容は覚えていない。覚えていない夜が幾つもある。ただ、最後の夜の記憶は濁りながらも鮮明だった。

 そのときの彼女は疲労困憊し、殆ど死に体だった。ドミトリィは女衒に凄まじい額の金と宝石を握らせて彼女を買って、まず水を飲ませ、それから丁寧に体を拭ってやり、傷口を改めた。大抵の傷は修復が始まっていた。その美しい声に混じる治癒の聖句で、自己再生を行っているのだろう。

 彼女を幾らか休ませているうち、ドミトリィはやりきれなくなった。彼は確かにその少女を愛し始めていた。

 原初の聖句のせいだとは思えないほどの愛着感情がドミトリィを支配していた。あるいはお前はお前を忘れた。お前はお前では無く、ドミトリィ、偽りの名前に支配されつつあった。

 妻よりも深く彼女を愛し、少女も「私の騎士様」と囁きながら彼を抱きしめた。

 確かにお前は古い騎士階級の血を引く。所属する結社自体がそうした背景を持つ。だが、どうして彼女がそれを見抜いたのか、あるいは他の誰にもそう呼びかけているのか、ドミトリィは敢えて考えなかった。


「ああ……私の、私の騎士様、あなたの本当のお名前はなんというのですか」


「さしたる人間じゃない、数多いる悪党の一人だ」


「私が今日、いよいよ……誰が私を死なせるかの取引に出されると知っていて、それでわざと、こんな無茶な支払いをして、邪魔をして、買って下さったのでしょう? 私とて無知ではないのです。それぐらいは察しが付きます……」


 娘は外観からは想像もつかないほど落ち着いた物言いをした。表情は心臓が戦慄く程に儚げで、視線には透き通る翠の清廉が宿っている。それがますますドミトリィの胸の高鳴りを強くする。


「そんなことになっていたのか。知らないな」


 知っていた。ドミトリィはとにかく彼女に関心を払っていた。地下街の連中は、あの女はひと味違う、天使だ、などと口々に語っていた。しかも傷や痛みを癒やしてくれるのだと。

 そうまで人を魅了するのは聖句の力だと分かっていれば納得もあるが、普通なら取るに足らない噂だと一笑に付すべきところだろう。ここでもそうなるべきだった。見目麗しい少女が、花の香りがするような美しい声音で囁くのだ、気分が良くなることもあるだろう。

 しかし、汚濁の街で静やかに咲く花はいっそ不吉であり、泥濘で藻掻く人々に、いらぬ妄念をもたらすものだ。致命的な病すら蔓延するこの地下街で、自由の利かぬ身にされ、おぞましい扱いを受けている。しかし軽度の病すら彼女には無い。髪色は艶やかで、洋灯の照らす薄暗闇で金糸のように輝き、ろくに手入れもされていない肌は、象牙の滑らかさを保ち、清潔で良い匂いのする汗に包まれて芳しい。

 通常ならとうに正気を失う環境だ。だというのに、その立ち振る舞いの細かなところには、まだ生まれの清らかさが残っている。打ちのめされていながら、光輝さえ感じさせる、不可思議な清潔さを帯びていたのだ。

 だからこそ救われぬ者どもは、執着する。どうして彼女だけが苦難を免れているのか? 焦がれは怒りを招き、彼女を妬み、彼女を傷つけ、彼女を愛し、いっそう彼女を痛めつける。それでいて、怒りはさらなる怒りを呼び、残虐なる好奇心を呼び覚まし、ついには人間性の最後の部分までを、この地下の暗闇で暴こうとする。

 この天使はどうすれば死ぬのか? 痛めつけて殺すとき、どんな顔で、どんな声で啼くのか……?

 ドミトリィは全て承知の上で首を振る。


「たまたまそんな気分だったんだ……大したことはしていない。騎士様。騎士様か。騎士様はやめてくれ。今日だって、家が一軒建つような金を払って、女の子を侍らせて喜んでる。こんなやつは騎士じゃ無い」


 お前は呟く。言葉なくして呟いている。秩序のためにと題目を唱えながら、見も知らぬ将校の家に忍び込み、その妻と子らを惨殺したあと、リビングでラジオを聞きながら、家主の帰りを待ち、そいつを拷問して、やはり殺す……まことの騎士ならば、そんなことはしない。あるいは神命を掲げて狂気に身を任せるその有様だけは騎士じみているか。十字軍の騎士、救世の騎士……しかし何を助けた? 

 領民を思い出せ! 家族を思い出せ! しかしドミトリィに妻は無く、子は無く……。

 穢された花嫁だけが腕の中に……。


「あの騎士は、ドミトリィ様なのでしょう……? 昨晩、私を助けて下さったのは……」


「助けた……?」ドミトリィは首を傾げた。「何の話だ?」


「ふふ。知らないふりをするのね。いいのです。分かっていますから……」


 少女は幸福そうに笑った。偽りの男に愛されて、少女は幸せだ。幸福そうに笑っていた……。

 だから、曖昧に聞き流す。 

 実際のところ、ドミトリィには、少女が何の話をしているか、まるで分からない。


 あの騎士? 昨晩? 何の話だ……? 昨晩と言えば、結社の連絡員と、名前も無い、数多くいるうちの一人と、地上で、外国人旅行者向けのホテルで、食事をしていた。商談に見せかけて調査報告の書類を渡して……そしてそのホテルの一室で眠った。昏々と眠って朝を迎えた。一人きりで……。


 昏い朝、眠る前と違うところは何一つ無かった。

 待て、そう言えば、とお前は考える。

 夜半、部屋の片隅に、得体の知れぬ影を見たような覚えがある。

 青く燃える炎のような……だがそれだけだ。

 おそらくはただの夢で、いずれにせよ、少女の言い様とは繋がらない。


「……しかし俺は騎士ではない。見ろよ、そんな大層な人間じゃあない」


「騎士様ですよ。神すら目を背けるこの穴蔵で、汚辱と荒廃の市で、間違いなく私を救って下さったのですから。あなただけが、他の方々と違います。ええ、ええ、ここは本当に酷いところです。地獄と重なる場所なのでしょう。煉獄に向かうこと無く落ちて行く魂を、まっすぐ地獄へ贈るための、火と硫黄の街なのでしょう。そして私もそのようにして、地獄へ落ちるべしと招かれた一人なのです。いつかは誰かが助けに来てくれると信じていましたが、お父様もお母様も、お兄様たちも……どうやら私を見捨てたようです」


 安心させたくて、ドミトリィは囁く……。


「どうかな。誰も見捨てたりはしないだろう」


「いいえ。二年か、三年か。はっきりとは分かりません。でも、見捨てたのでなければ、こんな場所に、我が娘を置いておくものでしょうか」呟く少女の両目は昏く輝いている。「価値があると言うのならば……何としても取り返すはず。でも、所詮は妾の娘ですもの、どうなっても構わないのでしょうね。でも、ふふ、騎士様、幸せなのです。騎士様は一度は、あるいは二度か、三度か……命を助けてくださいました。あれは全てドミトリィ様なのでしょう……?」娘はしなだれかかり、胸に縋る。「そうして、私を優しく愛して下さる。あなたは何もかもが……誰よりも……優しいのです。私は真実、この世に愛があると、私を愛して下さる方がいると知りました。そしてこれが限界なのだと言うことも。どれほど血に濡れても私を連れ出すことは出来ないのだと……。怨みはしません、騎士様、本当に嬉しいのです。きっと私はここで汚れ果てて正気を失い、最後は壊されて死ぬのでしょう。けれど、あなたの愛さえあれば、耐えられる気がするのです。だからどうか、愛して下さいませんか、騎士様。人生の最後に、あなたの夢が見られるように」


 愛を囁かれながら、命を助けたというのが何の話か、お前には、ドミトリィには分からない。

 少女のための幾つかの工作はしてきた。しかしあからさまに誰かを殺すような真似はしていない。少なくとも少女にそれと分かるような形では。

 他にエージェントがいるのか? お前は訝る。あるいは他の組織の人間が? 

 ならば今まで何の接触も無いのはどういうことか。

 協調も排除もない対立者など存在するはずがない。

 いや、いた方が良い。お前は思い直す。彼女を救える存在かも知れない。

 身分は知れぬ、得体も知れぬ。しかし、希望は幾つかあった方が良い……。

 

「どうしても、君は死ぬのか? 君の瞳は透き通っていて、そこには暗い未来なんか映っていない」


 ドミトリィはお前が妻にするように少女に囁く。


「ふふ。私の目玉を抉り取って、薬に浸けて、コレクションにしたいという人がいるのよ……」


 有り得るだろう。彼女の瞳にはそれほどの価値がある。彼女の頭と合わせれば好事家がいくらでも金を積むだろう。


「悲観しちゃいけない。君を助けたいという人がいるのは事実なんだろう?」


「死にます。きっと死にます。だって、みんな私を死なせたいの! 誰も彼もそうなんだわ!」少女は感情を爆発させた。「死なせるつもりでなければ、刃を持った連中に、私を引き渡しません! 酷いことをされて、首を刎ねられる! 昨夜とて、その寸前まで行っていたのですから」


「君のような清く美しい娘をか?」


「ふふ……ありがとうございます、騎士様。でも、私がめちゃくちゃに殺されると、喜ぶ人がいるらしいのです」


「俺ならそんなふうにはしないな」


「ではどうします? 私を、助けて下さるのですか? 心から、この体を、魂を、求めて下さるのですか……?」途端、少女は心中した一家が首を吊る寸前に浮かべるような微笑みを形作る。淀みの渦巻く甘い声が脳髄をくすぐる……。「囚われて、犬の首輪を嵌められて……もう魂に純なる部分など残されていないでしょう。見てください、この脚を。自分の力ではもう歩くことも出来ない……土の感触だって、二度と分からないでしょう。まさしく命の根まで、無法者のほしいがままにされているのです。何一つ自由にならないのです……騎士様が、この私を、生身のまま求め、助けて下さるのだとしても、それはもう、どれほどの大金を積んでも、叶わないことなのです。最後には、私は殺されます。だから、私を助けようとするのならば、敵に対して行うことを、私にもするしかありません……。ああ、騎士様、愛して下さいますか、欲して下さいますか。私を、このはしたない娘を、姿無き、汚れ無き身に変えて、お傍においてくださいませんか……他の誰かでなく、貴方様の手で死にたいのです。私を、殺して、貴方様の思い出に、留めて下さいませんか」


 敵に対してしたこと? 殺す? ドミトリィにはやはり、何の話か分からない。だが聖句に揺さぶられたお前の脳髄は、殆ど譫言のような妄想を紡いでいる……姿の見えぬ対立者への嫉妬か、生に絶望した少女への慰めか。脳裏にちらつくのは目に焼き付いたある女の影だ。美しい女だ。

 金色の髪少女からひとときでも意識が逸れてしまうような……。そいつは、妻ではない。妹でも姉でもない。結社の上層部に君臨する、あの聖句遣い……忌まわしくも彼女に吹き込まれた聖句が、組織に忠誠を誓うためのことばが、少女からドミトリィの意識を遠ざけている。


「そうだろうか」ドミトリィは朦朧としながら、言葉を紡いだ。髪から、芳醇な甘い香りを嗅ぐ。妻のような……。いや、お前に妻は無く、子は無く……。言い聞かせる。これも任務だ、これも任務だ……。舌先で言葉を紡ぐ。「花嫁衣装の君は、きっと綺麗だろう」


「……残酷な、夢を見せようと、しているのね」少女は涙を堪えて途切れ途切れに呟く。「あなたも、そうやって、悲嘆を招くの。絶望させて……嘲笑うの」


「そうはならない」


 何故かお前はもう確信している。ドミトリィ!

 お前は確信している自分に、まだ気付かない。

 自分を騙している。気付かないふりをしている。

 間違った道を選ぼうとしている、そのために理性は不要だ。

 少女は懇願した。


「お願いよ、お願い! 下手な嘘はつかないで……ああ……あなたと一緒に居るのは、不思議と嫌いじゃないの。本当に愛しいとさえ思ってしまう。ただの客なのに、ふふ、最低の男なのに……ふ可笑しい話よね、こんな女が、誰かのことが愛しいだなんて、ああ、だからこそ……どうか、どうか余計な希望を持たせないでください。お願い、お願い……最後だけでも、良い夢を、見せて……ああ、私の騎士様……」


 哀願する少女にドミトリィは囁いた。


「大丈夫だ。迎えが来るんだ」


「そんなもの……誰に来るのです」


「君に」


「信じられません……」


「信じなくてもいい。それは必ず来る」


 少女は翡翠色の目で男を見つめた。


「……名前も名乗らない人を信じることなんて……」


「ドミトリィ」男は少女を真っ直ぐに見つめた。「私の名前はドミトリィだ。もうすぐ迎えが来る。信じて、待っていてくれ」


 ドミトリィはそれから、ありとあらゆる工作を行った。

 しくじれば、これまでの自分のキャリアが土台から崩壊する。

 下手をすれば局所的に国際的な秩序が破綻を迎える、それほどのリスクを冒して、人間を動かした。

 偽の緊急通信を局の幹部に送り、不死病患者に関する偽りの報告書を実働部隊に送り、偽りのテロ計画を国軍に送り……。

 そして数百か、数千人を、彼女と引き換えにして、殺した。

 彼らは少なからず、罪人ではある。

 死すべき者もいただろう。

 だが罪状を持たぬ無辜の貧民を、地獄の坩堝で藻掻く民草を、無慈悲に殺した……。


 そして花嫁をすら、裏切った。

 ドミトリィでない真の名前を教えることなく、少女を結社に引き渡した……。



 ヴェストヴェストが一瞬で二十七倍に増えた。


「おやっ」


 リーンズィが目を丸くしている間に、突如として現れたその影は、塔の狭間を跳ね回り、あろうことかリーンズィたちの進路上にある塔を斬り倒していた。

 破壊の音が轟く前に、瓦礫の塔が降り注ぐ。それを背にしてふわりと黒髪芳しく、翻るスカートの色は黒、脚の付け根のぞっとするような肌の白さ、狂おしいほどに滑らかなきめ細かな質感を際立たせる。

 魂の無い静謐の美貌。

 葬兵、ヒナ・ツジ。ケットシーだ。

 どうやら増援に来てくれたようだった。

 彼女を必死で助けようとしたケルゲレンたちはあきれ果てていることだろう。

 欠陥ケルビムウェポンは放棄したらしく、今度は少女の身の丈で振り回すにはあまりにも長大な黒い長刀を携えている。

 飾り気のない不朽結武器だが、構成素材の純度が高い。リーンズィに視認出来るのは、他には『ヘイ・ストレート・ダイカタナ』という、分かるような分からない銘ぐらいであった。

 これで塔を打ち払ったのだというのは分かるのだが、刃渡りが明らかに塔の直径に足りていない。

 物理的に切断できないように思われた。

 しかし事実として斬ってしまっている。

 どのようにして塔を複数打ち払ったのか、甚だ奇怪であった。


「呼ばれてなくてもヒナ参上!」


 びし、と見得を切るようにカタナを振り回してポーズをつける。


「あなたには……ケットシー救出フラグを立てて後々良い感じにヒナを庇って感動的に死んでもらう役割をやって貰わないと視聴率が落ちるし頑張る!」


「いや、いやいや。待って欲しい」リーンズィは動揺して上ずった声を出した。周囲が暗い。塔の影が至る所から落としている。


 完全に囲まれてしまった。


「これを全部倒せば今日は終わり?」


「だから待ってほしい! オーバードライブを使わないでほしい!」


 殆ど一瞬にして、ヴェストヴェストの数が膨れあがってしまっている。

 ケットシーのオーバードライブに共鳴して、ヴェストヴェストの増殖速度まで加速したのだ。

 塔のうち、リーンズィたちにぶつかりそうな分は、確かに全て斬り倒されていた。

 術理はともかくとして、切断できているのは事実。そこは助かる。

 そして増えすぎているのも事実だ。そこは非常に厳しい。

 どう考えても、何をしようとも、一瞬でここまで塔の数が膨れあがっては釣り合いが取れない。

 ウンドワートもデイドリーム・ハントを乱されて態勢が苦しくなっていることだろう。


「め、迷惑……!」ケットシーの本質をリーンズィは直観した。「ひたすら迷惑だ、この娘は……!」


「よろしいですか、シィーの娘様」


 すす、と恋人の距離に身を寄せて、息を吹き込みながらミラーズが耳打ちする。


「写りを気にするのは仕方在りませんが、あなたが究極的な、何かあの、早くなるやつを使うと、あの塔も加速してしまうのです。控えて頂けますか?」


 顔が近い。比類無き美貌を持つ二人が並んで、身を寄せ合っているのは目に良いが、リーンズィは何故か嫌な気持ちになった。二人の顔が近い。まさかそんなことはないだろうと思って見守っていたが、きょとんとしている黒髪の少女の頬に手を当てて引き寄せて、ミラーズが背伸びをして、口づけをした。


「ミラーズ!?」リーンズィが叫んだ。

『ミラーズ!?』ユイシスが叫んだ。


 頬を僅かに上気させたケットシーに再度「控えて頂けますね?」と囁く。


「あ……う、うん、いい絵が取れたと思うし……気をつける……」


「ふふ。もう一度してほしいですか?」

「あんまり何回もやると……放送コードが……」


 ケットシーは途端にしおらしくなった。

 どうやらミラーズの籠絡はストレースに彼女の肉体を通して精神に影響したらしい。


『失念していました。そういえばミラーズも元は聖歌隊のレーゲント……必要となればキスぐらいは平気でする人です』


「何故こんな時に恐怖とは違う感情でドキドキしないといけないのだろう……」


 リーンズィはふと気付いて、ヴォイドの姿を探した。

 少女達を置き去りにして、棺を背負う兵士は、塔の群れのさらに奥地へと進んでいく。平穏な一時すら共有できない。

 彼は何か、違う時間の中に我が身を任せていた。

【コロネーション】の文字が視界に躍る。リーンズィは胸騒ぎを覚えて、駆け出した。




 結局、街へ降りても特にすることはない。

 群衆にあの金色の髪をした天使のような少女の幻影を探すだけだった。

 気力はすぐに尽き、キオスクで安酒の小瓶を買って煽った。

 馴染みの店主はドミトリィが不味そうにその粗悪なアルコールを飲み干すのを眺めていた。


「朝刊はあるか?」お前は問うた。


「夕刊なら、うんとありまさぁ。へ、へ、朝刊だって? 旦那様、今何時か分からねぇんですか。お日様を見りゃいい。沈没する船みたいに傾いて、夜の国に真っ逆さまだ。へ、へ、へ! だから朝刊なんてもんは、もう焚き火の材料でして。今夜もうんと冷え込みますもんで」言いながら暖房のためのドラム缶がチロチロと火の舌を見せるのを指差して、カウンターの下から朝刊を取り出した。「おかげでもう旦那様のための一部しかねぇ」


「ありがとう。どうしても朝刊が読みたかったんだ」


 一面の政治動向は読まない。戦争の危機などどうでも良い。顛末に関する予定は、もう結社の連絡員から知らされている。それよりもブカレストでの一件がどう報道されているのかが気になった。

 世間には、まるで関心が無いようだった。地下街掃討作戦についての記事が見つかるまで苦労した。国際欄に小さな記事。大火事があったこと、郊外の森で大量の死体が掘り起こされたこと。

 それだけだった。もみ消しがうまく言ったのか……センセーショナルな事件以上の価値が、最初から無いのか。


「今度の視察も長かったんで?」店主が問う。


「ああ。かなり長くかかった。今回は大口の契約だよ」


「上手くいきやしたか」


「難しいところだ。だから契約が破談になったと朝刊に載るんじゃないかと怯えているのだよ。今日もこんな時間まで勇気が出なかった」


「へ、へ! 妙なところで旦那様は気が小さくていらっしゃる……」


「私もそう想っていたがどうだろうな」


「商売ごとというのは、多少大胆にやったほうが良い結果がでるものですぜ」


 お前は首を傾げる。「そういうものかね」


 長い長い散歩を終えたのはとっぷりと日が沈んだ頃だった。黙って出歩いていたことを妻に咎められ、かなりの時間を使って詫びた。幾ばくか気分は良くなっていた。それからお前は食事を終え、書斎に戻る前に、鍵穴から部屋の中を覗いた。

 そこに誰か待ち構えているかも知れないという予感がしたからだ。

 果たして、誰かが新聞を読んでいた。

 電気も付けないまま。

 拳銃を構えることはしなかった。

 黙って扉の鍵を開け、入って電灯を付けた。

 その予告のない来客は焦ることも無く一拍遅れてから新聞を丁寧に折り畳み、貴族の侍女のような装束の膝の上に、無造作に置いた。見知らぬ女だったが見覚えがある。局が運用を開始したばかりのQモデル複製人間の一人だ。美しい黒い髪の女だった。あの女と同じ顔立ち、あの女と同じ声、あの女と同じすらりとした背丈の……。

 違うのは、あの女よりは、比較の話になるが、礼儀があるということだろう。

 女は折り目正しくスカートの両裾を持ち上げて、優雅に挨拶をした。


「失礼をしております。鍵が掛かっておりませんでしたので、勝手ながら、中でお待ちしておりました」


「部屋の鍵は閉めていたと思うが」


「いいえ、玄関の鍵の話です」


「誰かに声は掛けたのか?」


「どなたも気付いてくださらかったようなので、不本意ながら無断です」


 この系列は、あの女と同じく妙な冗談を好む。

 何をしに現れた? 暗殺のためか?

 お前は脂汗を滲ませながらも、呼吸の調子を整えた。


「吸血鬼でも家主に招かれないと入れないというのに、私室に入るとは、図々しいんじゃないか?」


「それでは奥方に、旦那様の愛人だ、とでも言えば良かったと?」


「その身形と顔貌だ、さる高貴な家から来た……代筆業者か何かとでも言えば良かったろうに」


「なるほど、その手がありましたか。次からは旦那様が浮気相手に送る恋文のために雇った代筆業者と名乗ることにしましょう」


 そのQモデルは嘲笑うように口の端を曲げた。

 まさしくあの女そっくりだ。

 しかし、不快感のようなものは生じさせない。こうした笑みを浮かべるとき、あの女は基本的に、根源的な悪意は見せなかった。コミュニケーションのためにへらず口を叩くのだ。

 そう言えば、新鋭機であるQモデルと口を利くのはこれが初めてだった。

 連絡員として運用実績のあるPモデルは、少なくとも癖を引き継いでいたが、このモデルも同じだろうか?


「それで? 私はまだ具合が悪い。何をしに来たのか簡潔に頼む」


 粛清か警告か。妻子はまだ無事だ。粛清であったなら、もう仕事は終わっているが、つい今し方一緒に過ごしていたのだ。

 二人の命については心配無用だろう。

 不死病患者確保と偽って部隊を動かしたことの責を問いに来たか。

 あるいは、処刑にやってきたのか……。


「殺すなら余所でやってくれないか。家族に心配を掛けたくない……」


 Qモデルは首を傾げた。


「物騒な話をするものですね、当機はメッセージを伝えに来ただけです。あなたは人を疑うのが大好きな人ですか?」


「いや、そうだが……結社のエージェントだからな。疑うのが仕事で……探るのも仕事だ」


「……そう言えばそうでしたね。いいえ、お気になさらず」お前があまりに生真面目に応えたので、女は少し面食らったようだった。「失礼を致しました。……拝聴願います。我が主よりドミトリィ様へ。『夜九時に電話するから、必ず出てね』。以上です」


 女は脂汗を流すお前を見て、目を細め、愉快そうに口元をほころばせている……。


「……それだけか?」


「これだけです。では、今日はこの辺りで、お暇させて頂きます。こんな時間に、妻子ある殿方が、若い女性と狭い部屋で二人きりというのは、よろしくないでしょう」


「これでも私は……普段は紳士を気取っているのだがな」


「私のオリジナルとは懇ろな関係だったと聞いておりますが?」


 なんと答える間もなく、女は失礼しますと言って廊下に出て行った。

 Qモデルは新聞を忘れていたが、追いかける気には一つもなれなかった。

 無性に疲れた。


 入浴し、九時前には書斎にまた引きこもった。

 そうして机の上をじっと見つめてその時を待った。

 電話機、受話器とマイクを備えた忌々しい箱形の通信機の周囲に、暗澹たるベールが降りているように思われた。男にはそこに何があるのか見ないようにしていた。いつかそれが鳴り出すと分かっている。木組みの筺の上、じきに鳴り響くだろう、雷鳴のように、雨はやんだというのに、お前はカーテンを閉める、一度閉めたものをまた空けて閉める、落ち着かない、狙撃手か? カーテンを開ける。馬鹿げた妄想だ。その時を待っている。鐘が鳴るのを……。カーテンを閉める……。

 ジリリ……ジリリ……鳴っている。

 時代の黒。行き先のない黒が鐘を鳴らしている……ジリリリ……ジリリリ……。

 お前は受話器を取る。墓守のシャベルのように冷たいマイクを取る。

 握り締める……。


「こちらドミトリィ」


『やぁ君、僕だよ。今朝はどうしたんだい? おっと、ねぇ、君。()()()()()()()()()()()()()


 声の主は処女の清廉さと少年の朗らかさの入り交じる甘い声で、含み笑いをしたようないつもの調子で、一息に捲し立てる。言葉の節々に奇妙な韻律が混じるが、彼女はその行使に自覚的で、躊躇はないが、その使用をいつも明示しようとする。

 公平性のアピールなのか、欠片ほどの親愛の証なのか、それは分からない。


『まったく、あんまりにも元気に受話器を叩き付けたものだから僕は耳が痛くなってしまったよ。ついさっきまで耳鳴りが止まらなかったんだからね。本当だよ? どうして君はあんな酷いことをしたのかな。だって君、僕は数少ない気を許せる友達だろう。ああ、ごめんね、これはちょっと押しつけがましいかな。でもまぁ、僕は本当に君のこと好きだよ。大好きさ。君は僕のこと嫌いなの? 愛してないの? 以前のように愛してくれても良いんだよ? ねぇ、どうなのかな。()()()()()()()()


「馬鹿を言え。聖句で惑わされた感情は愛などでは無い」それほど強制力のある聖句ではない。表面上は軽口を保つ。これしきの応酬ならば挨拶程度だ。「……だいたい、嫌いだとは言わないが、結社で本当にお前を心から愛しているのは、スヴィトスラーフぐらいだろうな」


 自然と口が回る。大丈夫だ。お前はまだ平静を保っている。この女と付き合える程度には……。


『ふうん。相変わらずつれないね。君は美人が嫌いなのかな? 自分で言うのもなんだけど、僕も顔はとびきり良い方だと思うよ。それにほら、君の奥さんも僕と同タイプの美人じゃないか。僕の複製体に改造を施した派生モデルだし。どうだい、僕だってさ、ひけは取らないだろう?』


「君は美しいよ。君の複製体も美しい。だが君は美しいだけだ。私の妻と違って君には品性が無い。というより、私はな、君のその原初の聖句こそが、苦手なんだ。これは何度も言ったと思うが……」覚えていても気にしないだろう。溜息を一つ。脳髄が疼く。お前は目元を揉みながら呻いた。「それが、今は、耳から直接だ。硝子越しでも何でも無いんだ。慣れていても、和らげるのが厳しい。電話口からそのまま頭に流し込まれる身にもなってほしいな」


『いいや、いいや、重要じゃないね。君は要するに、僕が好みの女の子じゃないから、それで厭なわけだろう』


 女は冷笑的に言葉を連ねた。


『それが証拠に、君。あんな可愛らしくていたいけな女の子を、たっぷりと味わったそうじゃないか。普通なら犯罪だよ。大層酷いことをしたみたいだね。こればかりは、言い逃れは聞かないよ。僕はいつでも彼女と話せる立場にいるし……ドミトリィ、騎士様のドミトリィ……くすくす、笑ってしまうよ、君。僕はね、君の話ばかり聞かされているわけさ。甘い甘い夜の話をね。いやいや、ねぇ君。ベッドの上では誰にでもあんな口説き文句を囁いているのかい?』


 怖気がした。

 この女が何を知り、何を目的にして電話を掛けてきたのか、朧気ながら理解したからだ。

 不死病患者だと偽って確保し、新しい聖句遣いだと言って身柄を引き渡した、金色の髪をした愛しい娘。

 名も知らぬあの少女の……。

 彼女はお前を揺さぶりに来た。

 嘲弄し、玩弄し、破滅させに来たのだ……。

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