2-12 祭礼のために その5 石の代わりに煉瓦を
「ロングキャットグッドナイトだ」
凄絶な攻防の最中、目の前で起きている事象などまるで関心とばかりに、アルファⅡモナルキア・ヴォイドが路地裏を指差した。
「次の猫を連れている。ウンドワートを裁きに来る……ロングキャットグッドナイトが来る」
『ウンドワートを? 何故だ? ……何故?』
少女は高速無線で情報を参照する。
路地裏を見ようとすると大きく振り返る格好になるため、一瞥もしていないが、ロングキャットグッドナイトの気配は感じていない。ここに来てウンドワートの名前が挙がる理由にも心当たりがない。
だが、ヴォイドからそれ以上の回答はない。リーンズィは言い知れぬ冷たい動揺でもって、傍らに佇む己の母機、襤褸切れのような戦闘服に身を包むその男を見た。盲目の神に仕える祭司のようでいて、暗黙の迫力を伴っていた。フルフェイスヘルメットの中、選択的光透過機能を備えた鈍色のバイザーの下で、二連二対の青白いレンズに何が映じているのか、リーンズィには分からない。
リーンズィとしては、あまり余所見をする気にはなれない。あちらこちらを飛び回りながら不完全なケルビムウェポンを振り回すケットシーがとにかく気がかりでならず、業火の奔流が花弁の如くに燐光を散らす様から、目が離せなかった。ヴォイドが母機でなければ、彼に視線を向けることさえしていないだろう。
事実、アルファⅡモナルキアたちを除いては、ほぼ全てのスチーム・ヘッドが、相転移場が形成される度に回避の予備動作を行っている。
最前衛を買って出た形のウンドワートが絶妙のタイミングでの電磁場干渉でフォローしてくれているが、一度のミスで後衛は全滅する。
プラズマ焼却に巻き込まれては、スチーム・ヘッドだろうがスチーム・パペットだろうが内部の不死病患者が蒸発してしまう。良くて機能停止、最悪の場合はそのまま猫の戒め・ベルリオーズに人格記録媒体を破壊され、永久に再起動不可となる。
なるほど、ケットシーは確かに東アジア経済共同体最強のスチーム・ヘッドではあるのだろう。
だがそれは一人きりの強さだ。……一人きりでの戦闘を強いられたが故の暴虐なのかもしれない。
ケットシーほど度を超したスチーム・ヘッドを極東が何機も有していたとは思えないからだ。
ベルリオーズもケットシーも、決して目を離してはならないのだ。
だというのに、ヴォイドはあらぬ方向を指差して、不動である。
『そちらにロングキャットグッドナイトがいるというのなら君が対応してくれないか? ……してくれない? 私は布一枚の守りしかないし、あのプラズマ刃を受けたら終わりなのだけど……』
散々に酷使しているが、精々が同年代の少女よりは多少背丈があるだけなのが、ヴァローナの肉体の本来の仕様だ。
聖歌隊の戦闘用スチーム・ヘッドだったにせよ、基本性能は低く、生前に戦闘技能を修めていた様子も無い。多少はやれるにせよ、多少だ。永久に不滅であることを約束された聖詠服だけが頼みの綱だ。
理性的な判断を押し殺し、挺身の構えで任務に当たっているが、ケルビムウェポンどころかベルリオーズの鉤爪が直撃するだけで、突撃聖詠服は壊れないまま、少女の肉体は粉微塵になるのだ。
だから、実を言えば何としてでも致命的な一撃は避けなければならない。
だがヴォイドは頑としていずこかを指差す姿勢を崩そうとしなかった。
危険マーカーで情報共有をしようという意志も感じられない。
『ユイシス、事態の説明を』
いつもの憎まれ口は無い。いっそ寒気がするほど静かに視界に文字列が現れた。
【確定事象:リーンズィによるロングキャットグッドナイトの観測:行動を実行してください】
『……?』
アルファⅡモナルキアとしての経験を通じて、このような表示は確認したことがない。
ミラーズに視線を向けると、ふわふわとした豊かな金色の髪をしたその少女は、悲しげな、それでいて見る者の呼吸を速める天使のような美貌の小さな顎を引き、そうするよう促した。
ライトブラウンの髪の少女は、一つ決心をして、ガントレットが指差す方向を見た。
そして、拍子抜けした。
乱立するモダニズム集合住宅のような、無機質で無秩序な建造物の狭間、ひとけの無い路地には、不死病患者すら立ってはいない。
あの猫のレーゲント、ロングキャットグッドナイトなどどこにもいない。
猫の鳴き声も、あの気を削ぐような素朴な挨拶の声も、当然聞こえない。ベルリオーズ、ウンドワート、ケットシーがぶつかり合う音ならぬ音の衝撃が体幹を震わせるばかりだ。
ヴォイドは、何か機能不全を起こしているのではないか?
そう考えてユイシスに自己診断プログラムの起動を促すが、反応がない。
「ロングキャットグッドナイトだ」
『誰もいないぞ……誰もいない』
「おはようございます。ロングキャットグッドナイトです」
声がした。
リーンズィは驚愕と共に路地を再度見た。
猫っ毛のレーゲントが路地から歩いてくる。視覚情報だけならば素朴なものだ。清廉とした立ち姿には、しかし奇蹟を信じさせるような度を超した栄光も無く、欲望を煽り立てる貌もない。民衆の中で生きていても、すれ違った者を数分幸せにして、それから猫のことを一日忘れさせない程度に過ぎまい。ただその娘は、二度も三度も殺され、そして復活を遂げ、恐ろしい獣を従えている。
相も変わらぬ清楚な美しさを称えており、邪気というものを全く感じさせなかったが、腕には黄土・黄・灰の三色斑の猫を抱いていて、そのくりくりとした猫の瞳に、リーンズィは怯んだ。
『だ、誰もいなかったはずなのに……』
「今来ましたので、いませんでした。おはようございます。あいさつは大事です。これは戒めの猫です」少女はぐぐ、と背伸びをしながら猫を掲げた。「あいさつはとても大事なので」
『大事、大事か……。おはようございます……何をしに現れましたか?』リーンズィは毒気を抜かれて尋ねた。『さっきも遭ったというか実時間だとまだ五分も経っていないのだが……?』
「良い心がけです。赤い目の人には20ねこポイント進呈です」とてとてと少女は歩み寄り、「手を出してください」とリーンズィに言った。意味が分からないまま従うと、抱かれた猫が眠たげな仕草で、ぽん、と肉球でスタンプをした。「100ねこポイントで猫セラピーが無料です。いつでも心のねこポイントカードを大事にしてください。人の命は一度だけ。カードも一枚きりで再発行はできませんので」
『うん? うん、感謝する……』
知らない間に謎のポイントカードが心に与えられているらしかった。ねこポイントカード? ポイントカードとは……? ユイシスのデータベースでイメージを検索しようとして我に返る。
そんな場合では無かった。ロングキャットグッドナイト! 不滅者≪ナイン・ライヴズ≫、聖なる猫の使徒だ! 周囲を見渡すが、どういうわけか、どの機体も彼女の出現に気付いていない。
唯一ミラーズだけが何かをこれから捕獲するような姿勢を取っていたが、ロングキャットグッドナイトを捕まえるような様子は無く、ヴォイドに至っては、今度は全く違う方向をガントレットで指差している。
どうやら自分で皆に知らせないといけないようだった。
『傾注! 傾注! ロングキャットグッドナイトが来た!』
指を指して叫ぶと、ケルゲレンたちがようやく反応した。
『総員警戒せよ! 次の戒めが来るぞ!』
「おはようございます、鎧の方々。あいさつは大事です。おはようからおやすみまで人々を見守る大いなる聖なる猫は、あいさつされると、とてもとても喜びます。人の暮らしに寄り添うふわふわの猫なので」
誰も返事をしない。
レーゲントは無表情に猫を抱きしめた。
それから明らかな肉声で朗々と歌った。
「嘆かわしいことです。わたしキャットは悲しみに暮れています。何故、隣人へのあいさつを拒むのでしょう? 夜闇に遊ぶ猫たちも、どれでけ眠い朝だとしても、新しい一日を祝福し、にゃーにゃーとあいさつを欠かしません。聖なる猫はあなたがたに告げます、皆様が、この小さくも弱々しい猫たちを……最も小さい温かな命を愛するとき、その愛は確かに、聖なる猫をごまんぞくさせるのです」
誰も返事をしない。少女はまた、沈黙する。
リーンズィは言い知れぬ憐憫を感じ、片膝をついてその猫の使徒と目を合わせた。
無論、頭では分かっている。ロングキャットグッドナイトは危険な存在だ。しかし、この猫が大好きなレーゲントが、無差別にスチーム・ヘッドを殺し続ける、あの不滅者なる怪物の主という事実は、直観に反する。直観に反するという肉体の情動をこそリーンズィは信じた。
『ロングキャットグッドナイト。でも、今はそんな場合ではない。みんな怖がっているのだ。君の放ったベルリオーズという猫が、みんなを怖がらせている。どうにか……彼に、ごめんなさいを出来ないものだろうか』
「騎士ベルリオーズは猫ではありません。ベルリオーズという猫の見る、騎士の夢です。そして騎士ベルリオーズは猫を夢見て、自分の尻尾を追いかける猫のようにわくわくキャットライフなのです。なので騎士ベルリオーズが眠るまで、猫の夢は訪れないのです。<汝殺すなかれ>、それこそが聖なる猫が主の膝の上で聞いた言葉なので」
『だがもう何人かスチーム・ヘッドが破壊されている。殆ど自殺のようなものだったが、しかし死んだのは、死んだのだ。それで痛み分けということにはいかないのか?』
「ベルリオーズは……信仰篤き騎士です。殺した人を破壊するまで、殺し続けるのが宿業なのです」
『ではベルリオーズがその任務の途中で、疲れ果てて眠ったら?』
ロングキャットグッドナイトはぐぐ、と細い総身を伸ばして猫を掲げた。「ハレルヤハ、もちろんおやすみなので。殺すことを戒めるのがベルリオーズの使命。しかし、眠ればそこでお仕事は終わりです。それで反省するのであれば、ベルリオーズも怒りはしないでしょう。しかし、聖なる猫のおひげに背き、反省せず、殺し、殺されることをやめないのなら、我が騎士、祝福されしベルリオーズは、猫の眠りからまた起き上がるでしょう」
やはり最低限度ケットシーを殺すまでは、自然には停止しないということか。
ベルリオーズがケットシーを正確に標的として認識しているのか依然として怪しかったが、しかし他に有益な情報もあった。少なくともこのままベルリオーズが復活しなくなるまで存在破綻をさせ続ければ、それでこの『猫の戒め』なる現象は停止するようだ。
リーンズィは僅かに緊張が解けるのを感じた。
「そうではない。まだだ。これからだ。不滅者ヴェストヴェストだ」ヴォイドが言った。「ヴェストヴェストが半径10kmを破壊する。彼はウンドワートを破壊するために来る」
「聖なる猫は、その毛皮のもこもこで皆様を温め、善なる道へ向かわせるために、人の影を歩むのです。猫は温かく、人間に寄り添い、とても優しくてごあんしんです。しかし、もし戒めを破るのであれば、人は猫を恐れるべきです。どの猫も鼠の玩具で遊ぶために爪を備えるのではなく、人を見守る猫として、戒めに背く人に慈悲深くも報いるのです。ウンドワート、アルファⅡウンドワート、赤い目の人。この度はあなたに戒めるために参りました」
『おい、まずい流れだぞ……』ケルゲレンが呻いた。『何のゆえか分からんが、ウンドワート卿が標的にされておる』
「嘆かわしいことです。あなたは聖なる猫の福音書による説法に背きました!」使徒は猫をそっと地面に降ろし、三度ほど撫で、それから自作の手書き猫福音書紙芝居を見せた。「あなたのわくわくキャットライフをお助けするためにこうしてわたしキャットは沢山の用意をしたのに、あなたは約束を違えました」
『なん……なんじゃ?』
唐突に名指しをされたウンドワートが一瞬だけ意識をそちらに向けた。
『なんかワシが怒られておる気がするが? 何でじゃ?』
「あなたは三度、四度と、聖なる猫の温情に背きました。赤い目の人。暴力だけが死の谷の影を凌ぐ……あなたのその信仰は猫の棲めない不毛の荒野を作るでしょう。その暴力への焦がれを、血と闘争への崇拝を、猫の命によりて処断致します……赤い目の人。わたしキャットは悲しく思います。あなたは強くて、子猫でも潰すように、わたしキャットなどはひと捻りでしょう。だからこそ、憐憫の心で、わたしキャットの説法に身を委ねるべきでした。しかしこの日、この時、罪はあまりにも重く、猫のふわ毛になびくこともなし。故にここに猫の導きを顕現します。歪んだ血濡れの偶像は、全て打ち砕かれるべきなので」
『……?』リーンズィには何故ウンドワートが咎められているのか話が見えない。『猫の人を無視してどこかにいってしまったのはレアせんぱいでは……?』
ミラーズが微妙な表情をしていたので「そういうことではないのか?」と首を傾げる。ウンドワートの動きが少しぎこちなくなっている気がしたが、気のせいだろう。ウンドワートとレアに繋がりがあるのは知っている。
おそらく友の咎を我が身に受けて、動揺しているのだ。
『総員退避!! オーバードライブ解除! 狼煙を上げろ、閃光弾を打ち上げろ! ここから先、オーバードライブは死を早めるぞ!』
ケルゲレンが叫ぶと、一同は遅滞なくオーバードライブを解除した。
リーンズィもわけも分からずそれに続く。ミラーズ共々超高速機動の反動を受けて吐血、下血、関節の破砕を味わい、膝をつくが、生命管制だけは最高レベルで稼動したままだ。
二人は身を寄せ合い、互いを己の杖として、どうにか立ち上がった。リーンズィの不安を和らげようとしたのか、ミラーズがリーンズィを熱く抱擁した。
全てのスチーム・ヘッドがオーバードライブ解除の反動に耐えた。ケットシーは何だかよく分からない顔をしていたがその一瞬の隙を突かれてウンドワートに掴まり、巴の要領で後陣まで投げ飛ばされた。
受け身を取りながら周囲にあわせて速度を落した。
いかにも生命管制特化機らしく、内臓が急速に損壊した兆候は見られない。
ウンドワートだけはオーバードライブを解除しない。
肉体に頼らない機械たちの時間で、ベルリオーズを殺し続ける。
だが殺しきるには間に合わなかった。
少女は高く猫を掲げる。
「わがしもべ、ヴェストヴェスト。安らかな猫の眠りからあなたを解き放つことをどうか赦して下さい。今、この地はまやかしの信仰で、昏く、湿っています。猫の安らぎは人の安らぎ。その安らぎがひとつ、偽りの神、偽りの偶像、偽りの信仰、血と暴力の影に、昏く沈もうとしています。その咎は濯がれなければなりません。ハレルヤハ、人の世に魂の安らぎがありますように。猫たちの国に久遠の安らぎがありますように……言詞抜錨。目覚めなさい、第二の戒め、永劫に連なる塔の男! 不滅者、ヴェストヴェスト!」
手放された斑の猫はすとん、と地面に見事に着地した。
それから泡のように弾けた。
斑の染みがアスファルトに染み入る。言葉による錨を取り払われた、その厚みのない色つきの水溜まりから、一つの影法師が立ち上がる。
それは空間に投じられた立体の影であり、立ち尽くして、沈黙している。
「目覚めなさい」
契約が成された。猫の姿は未踏の不可知領域へと吸い込まれていき、猫の夢見る騎士が、現実に立ち現れる。表裏の逆転。夢見の交代。猫は夢を見る。永劫に連なる高い塔の夢を。
そこに立っていたのは、何の変哲も無いスチーム・ヘッドだった。頭部の人工脳髄は拘束具じみており、無数の歯車仕掛けが苛むようにギリギリと音を立てている。小汚いローブで裸体を包み、修道士のようにも見えたが、いかにも無力で、痛ましい姿をしており、拷問を受けている最中の背教者めいている。いずれにせよ、何ら人に害を為す存在とは思えない。
「ここからは……ゲホゲホッ!」血を呼吸器から排出しながらケルゲレンが叫んだ。「オーバードライブを使用してはならんぞ!」
「うううううううっるるるるるるるるるるる!! やあああああああああああああああはああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
男は不意に絶叫した。リーンズィはびくりとした。
「石ぃの代わりに……煉瓦をおおおお……粘土の代わりにぃ……瀝青をおおおおおお!!! 我が不死、我が祈り、我が生涯を捧げ、天命を世に知らしめさん! おお、おお、見よ!」
拘束具に締め付けられ、男の頭部からはだくだくと血が漏れ出している。空気に触れれば即座に蒸発していたが、それが血霞の如くその陰を飾る。狂気なる信仰を。しわがれた声が天を突かんばかりに鳴り響く……。
「おお、見よ、瞼ある者は空を見よ、脚ある者は跪け! 時は来た、復活の時代は来た! 神は天にしろしめし……しかして、その姿を現さず! なにゆえか人は問う、我は答えよう、なお神は慈悲深く、我らが罪を身過ごしてくださる……なれど我らは神の光をこそ求める! 罰による禊ぎをこそ神に求める! 我が身をこそ捧げよう、石の代わりに煉瓦を、粘土の代わりに瀝青を! 朽ちる木の代わりに、我が不滅をこそ空に掲げん! 冒涜の影にて神の名を讃え、裁きの雷を浴びて神の降臨の示さん……!」
異様な迫力に圧倒されている諸々の前で、その不滅者は血を吐いて蹲った。
そして全身から無数の杭、無数の結晶、無数の凶器を噴出させた。それらは共食いするように噛み合い組み合わさり、見る間に一つの巨大な影を作り、高く空に聳えた。
それは、塔だ。光沢のない黒い表面。のっぺりとした墓標にも似た飾り気のない慰霊塔であり、集合住宅の廃屋群よりも遙かに高い。
何か手足が生えて襲ってくるのかと恐れたが、特に何も起こらない。
リーンズィは呆気に取られた。
「こほ、こほ……これが第二の戒め?」
見上げるばかりに巨大だ。
一人の不死病患者が変異したにしては恐るべきサイズではある。
しかしそれ以上のことが起こらない。
「気をつけろ、リーンズィ。こいつはある意味ベルリオーズよりも手に負えない」イーゴがリーンズィの肩を引いた。「近寄るな。ゆっくりと、しかし可能な限り高速で、オーバードライブを使わず退避するんだ」
「何が起こる?」
塔が世界が滅ぶ夜に鳴り響く喇叭のような甲高い音を鳴らした。アルファⅡモナルキアたちは一目散に後退していくスチーム・ヘッドたちの後を追いつつも、何度も振り返る。逃げ遅れの介助になれているらしいイーゴが、アルファⅡモナルキアをそれとなく誘導していく。
「あれはさほど恐ろしいものとは思えない。超音波振動で全てを壊すとか?」
「いや、そんなに生やさしくはない。今はまだ安全だ、しかしあいつは……」
突如として爆音が轟いた。それは地鳴りにも似ていた。
事実、大地が轟いたのだ。
一瞬の出来事だった。クヌーズオーエの一角を構成する建造物群が飴細工のように弾け飛び、方々へ破片を撒き散らした。
沈黙していたヴォイドが、リーンズィとミラーズを引き寄せて抱えた。
数えきれぬ礫が、殺人的な質量と速度を伴ってヴォイドの背中を打ち付ける。
「何事だ?!」
「ヴェストヴェスト、あいつは攻撃してこない」両腕で礫の雨を防御したイーゴの、そのズタズタの両腕から繊維質に触手が伸び、皮膚と肉を編んでいく。「移動することも誰かを追うこともしない。だが……」
リーンズィはヴォイドの腕の中から顔を出して、愕然とした。
塔が、三本ある。
ヴェストヴェストが変じた塔が、刹那の間に、三倍に増加している。
さきほどの地鳴りと破壊は塔が分裂したことによる衝撃波だ。見ている間にも塔はそれぞれが三倍に増え、雷鳴の如き轟音と爆風が同時に巻き起こった。
リーンズィは吹き荒ぶ土埃の中、ヴァローナの瞳でその実像を透かして見た。
きっかり3mの距離を維持しながら、その塔は増殖していた。
その勢いで周囲の建造物を巻き込み、粉々に爆砕した。
六秒前まで三本しかなかったその黒い不滅の塔は、九秒を経た今、二十七本もの異形の塔となって、視界一面を更地にして、尚高く聳え、埋め尽くし、陽の射すところを遮っている……。
リーンズィはヴェストヴェストの本質を理解して、眩暈に襲われた。
「そうだ。これが第二の戒め、ヴェストヴェストだ」
この不滅者は、三秒ごとに瞬間的に三倍に増殖し……。
周囲にある一切合切を、全て砕き尽して、空白の土地へと貶めるわけだ。
言わば具象化された天災だ。地を這う塔の津波と諫言しても差し支えない。どのような攻撃も通じないだろうという、非言語的な確信がある。
どのような弾丸ならば自然災害を貫けるというのか? こうして眺めている間にも、さらに三倍された塔の群れが押し寄せてくる。
速度はどれほどだろう? 音速というレベルですらない。弾丸よりも速く分裂した塔は最初からそうであったとでも言うように三mの距離を浸食し、進路上のありとあらゆるものを磨り潰す。
その狭間に煌めく閃光がある。
兎の騎士、クヌーズオーエ解放軍の最大戦力……アルファⅡウンドワートだ。
ここを死地と定めたのか、ベルリオーズを殺し続けている。
何故か、という問いは、ベルリオーズが解き放たれた状態を想定することで、総毛立つ感覚と共に解決された。
ヴェストヴェストとベルリオーズの組み合わせをケルゲレンたちが警戒していたのも当然だ。
ベルリオーズを放置していれば、無限に三倍に増え続ける塔が全てを蹂躙し、その狭間を縫うようにして、全身に刃を取り付けた異形の狼が駆け抜けてくるのだ……。
そうなればもはや誰一人としてこの死地から還ることは能わなくなる。
ウンドワートのデイドリーム・ハントは強力だ。おそらくヴェストヴェストの増殖に伴う衝撃波を上手くいなしながら戦うことが出来るだろう。
しかし、誰も永久に戦い続けることは出来ない。
雷鳴轟く嵐の中で、抗い続けることなど……。
「ウンドワート!」リーンズィは悲鳴を上げていた。「逃げるんだ! そこにいては君も……!」
だが声は届かない。電波は虚空へ消えていく。
まだケットシーの支援機によるジャミングが有効なのだ。
救出の手段が何も思いつかない。どうしようもない。ウンドワートを見捨てるしか……。
絶望を裂くようにして、その声は耳朶を打った。
『アポカリプスモードレベル1、レディ』
金色の髪をした天使の幻影が、逆さまに宙に浮くミラーズの幻影が、嘲笑うような、慈しむような、曰く言い難い笑みで、リーンズィの頬に手を伸ばす。
物理演算された指先の感触が、優しくその頬を撫でた。
『準備はよろしいですか?』
雨は夕方に幾分か小降りになった。
カーテンを開けたまま、お前は落ち窪んだ目で空を見ている。仄暗い雲は陽光を孕んで、血を孕んで、戦の火を孕んで、赫赫と色づいている……粘つくような湿り気を帯びてた空気は似ている、地下街に似ている……貧困と悪徳、憎悪と猥雑の穴蔵に似ている……。
マットレスの上で呆としているのも苦痛だった。お前は家人に何も告げぬまま、レインコートを羽織り長靴を履いて街へ向かった。
気晴らしのつもりだった/嘘だ/お前は嘘を吐いている。
屋敷の中にない影を外に探す口実だ……。
目を伏せ、顔を伏せ、名前を伏せ、長靴を水溜まりに、お前の顔を映さない昏い淵に浸す。歩く、歩く、歩く……人の疎らな往来、霞に燐光を、降りては来ぬ神の背負う後光の如き、無機質な電気灯の連なる商店の軒先を、お前の治める街を、やがて病に沈む街を眺めて回る真似をして、お前の顔に気付いた住民に愛想よく挨拶をし、傷病者に声を掛けてやり、お前は統治者の真似をして、雨に煙る街路樹を眺め、街の治水の概要を居合わせた老婆に尋ね、名を明かさずともお前が誰かを見抜く馴染みの靴屋で新しい革靴を、ブカレストの地下街ですっかり傷めてしまった足に合う靴を注文し、お前は慕われる名士の真似をして、しかしそのくせ、心は街になく……。
甘い声が脳裏に響く。「騎士様……」お前の脳髄に刻み込まれた声が……。「ドミトリィ様……」
お前は少女の姿を探している……。
ドミトリィが彼女と出会ったのはブカレストの地下街で、彼は結社の任務を、到底任務とは言えぬ、ただ過酷なだけの任務を受けて、下卑た暮らしに興味のある放蕩貴族を装って、諜報活動を行っていた。その金色の髪の少女と、最初の任務、ブカレストにて出現したと噂される不死病患者の捜索は、全く無関係だった。
事の起こりはこうだ。幾人かの斬殺死体が見つかった。よくあることだ。銃を持つ数人が背中から胸までを切り裂かれて……。さほど聞く話ではない。はらわたの大部分を掻き出された生き残りは「殺しても死なない。死んでいるからだ」「ドイツ人だ……」などと意味の分からぬことを言い残して、死んだそうだ。異様である。治安の悪い都市でも、このような怪談は滅多に聞かない。確かに不死の気配はする。
しかし見せしめや報復のために、犠牲者を過度に痛めつけるのは、やはり、よくあることだ……。血を失い、熱を失い、魂を吐息と共に流し去るばかりの傷病者が、わけの分からない譫言を言うのも、よくあることだ……。
確認できなかった、という報告書を書くだけの任務のはずだった。エージェント・ドミトリィは地元の犯罪組織の幹部と話を付ける過程で女衒から娘を紹介され、大金を払って、彼女を買った。それだけの関係だ。それだけだというのに、ドミトリィは彼女を非常に気に入ってしまった。泥の中に咲いた花とは思えないほど美しく、優雅で、気品があった。それだから惹かれたのか。妻に似ていたから我を忘れたのか……。
三度も繰り返せばそうではないことに気付く。
茹だるような空気の中、ドミトリィは少女の放つ言葉の節々に奇妙な音律の声が混じるのを、理性の働きによって発見していた。音律に一貫性は無く、伝えたい想いは理解出来るが、言語学的な意味や構造はおそらく無い。ドミトリィは自分が少女とどの国の言葉で会話しているのか全く分からない。少女のほうもドミトリィがどの国を囁いているのか、判然としないまま、彼に身を任せていた。
多くの客は、自分が何を浴びせられているのか理解せぬままだろう。
しかし、ドミトリィは同様の現象を既に知っていた。
命令言語、『原初の聖句』だ。これは人間が言語を獲得する以前に使用されていた、何らかの器官に直接作用する特殊な声を発する技能だ。聖句は人間の意識を書き換える。意識という単語が大袈裟であれば、思考を欺瞞すると諫言しても良い。乗っ取るのだ。言語中枢で生成される自分自身の言葉と、原初の聖句とは、特別な素養が無い限り峻別不能だとされている。
結社で、世界秩序のための殿堂で、あの女と……いつでも、何をされているときでも微笑んでいる、あの得体の知れぬ、美しい死なずの女と話していれば、厭でもその特徴的な言葉が、意味など無いというのに、こちらの胸を無性に熱くするその韻律が、聞き取れるようになる……。
そして否が応でも慣れていく。意識を、言語を、自分自身を塗り潰されることに慣れていく。繰り返し施された自我への調整が、あたかもワクチンのように、お前を少女の歌声から守っていた。
拠点に帰っても少女への情愛、その高貴でありながらも退廃の気配を纏う美しい佇まいが瞼の裏に焼き付いて離れない。ドミトリィは、それでも冷静だった。自分がその少女に入れ込んでいるのが少なからず聖句の作用によるものだと確認していた。
完全に心を奪い去られたわけではない。あの女の施した忌々しい条件付けを別にしても、エージェント・ドミトリィには聖句への耐性がある。お前と『ドミトリィ』の両方を支配されなければ、結社のために働くという行動原理までは曇らされない。そのはずだった。
彼女は史上四番目となる原初の聖句の遣い手だ。
公的に確認されれば、の話ではある。
遣い手は何百、何千と存在するのではないかと考えられているが、実際どの程度存在するのかは不明だった。大抵の人間は己が持つ不可思議な力を自覚せぬまま一生を終える。数多いる、在野の聖句遣いのうち、最初に確認された一人に、彼女はなるだろう。
どうすれば結社は彼女を聖句の遣い手として認めるだろうか……?
お前はいつからかそればかり考えるようになった。
どうすれば彼女を救出するための言い訳を見つけられるだろう……?
お前は街を彷徨い歩く。そうしなければとても正気を保てない。いや、お前はまだ正気なのか……? 応えるものはおらず、この街に花嫁はおらず、ドミトリィに花嫁はおらず……。お前は、ドミトリィは、自覚している。あの金色の髪をした少女の、永遠の乙女の、花嫁の幻を追っている! 買い物客に混じり、雑踏に立ち竦み、猫が歩くばかりの雑踏を覗き、ここにはいない、お前自身が手放した花嫁を、お前自身が手には負えないと断じた花嫁を探している……。車の絶えた間に、機械の心臓が止まっている間に車道を横切る、影の落ちる水鏡を飛び越える、水面に映る顔はお前ではない……ドミトリィ! いるはずもない。どこにもいない、ドミトリィ! お前の花嫁など、ここには……。




