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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
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2-12 祭礼のために その4 エージェント・ドミトリィ

 ドミトリィは青ざめた顔で己の国へ帰った。半月ほどのあいだ大量殺人のための作戦に従事していた彼は疲れ果てていた。名を変え、身分を変え、所属を変え、言葉を変え、何もかもを偽って過ごした。いつものことだ。ドミトリィ、それがお前だ、エージェント・ドミトリィ。お前は任務の中で例によって神経を病み、例によって自分が誰なのか分からなくなった。いつものことだ。母国語を使おうとすると舌がもつれる。いつものことだ。使い込んだ万年筆の書き心地に眉を潜める。いつものことだ。

 己の名前を思い出せない。書類一枚サインするのに時間が掛かる。あまりにも手間取るので入国審査で官吏にこう問われた。「どこかお加減でも?」。いつものことだ。疑われるような身分ではない。疑われるような渡航履歴もない。彼はあらゆる書類の上で染み一つ無い。靴の中は濡れている。血で塗れている……どこまでも足跡が続く。赤い足跡が続いている……。


「どうされました? 大丈夫ですか?」


 お前は頷く。「どうも、旅先で水に中ってしまったようでね」。いつものことだ。そうしてサインする。馴染みのない名前をサインする。馴染みのない自分の本名を、慣れた手つきで書き込んでいく。


 手が止まる、知らない男、知らない人生、知らない経歴を頭に叩き込んだその兵士の手が止まる。


「書き損じたのでもう一枚同じ申告書をもらえるかな?」


 名前欄には見慣れた名前が書き込まれている……『ドミトリィ』。


 迎えの車の後部座席には人が乗っている。作戦の話をする。首尾の話をする。どれほど効率的に作戦が進んだかについて。嘘だ。ドミトリィは、己がブカレストの地下街で、あの退廃と絶望の穴で成した作戦に、築き上げた死体の山に、火と煙でいぶし出された貧民どもに、然程の意味が無かったことを知っている。しかし嘘を重ねる、嘘を重ねる、嘘を重ねる……。見知らぬ担当官は淡々と事情を聴取した。


 それから車を乗り継ぎ、また乗り継ぎ、乗り継ぎ、故郷へ、我が家へ。

 所領の屋敷へ帰還する……。


 ドミトリィ、お前には家族がいる。妻は若く、美しく、気品と礼節を備えた貴婦人で、お前とのあいだに聡明な息子を一人持っている。結婚して七年になる。ドミトリィがたっぷりと手を血で汚して、お前は幸せだった。お前たち家族は幸せだ。屋敷は小さいが調度品には密かな拘りがあった。先代から、また先代から、さらに先代から、連綿と受け継がれていた遺産があった。捨てられぬ遺産が。あちこちに血の手形が残されている……目には見えぬ手形が……。そして侍従がいる、侍女がいる、執事がいる。お前を出迎えて誰もが挨拶をする。お前は尊い血を引く家の人間であり、お前の父親はその父、さらに先代の父から事業を引き継ぎ、結社の支援も受けて、近隣一帯の、所領の開発に注力した。思い出すが良い、帰宅の途で見た整然とした街並みを。薄く霧の煙るお前の素晴らしい街を……。

 お前たち一族は主として、鉄道を誘致し、電気水道を整備し、公衆衛生を整え、考え得る全ての理不尽な悲しみを遠ざけた。そのためにたっぷりと手を汚した。


 世界秩序のための殺戮によって、この街は幸せだ。




 不滅者は荒れ狂う。狼の騎士ベルリオーズ。不死にして不落。

 完全にして不変。それは不滅という名の行き止まり。

 そうなりたいと願い、そうあれかしと祈られた不変の怪物。

 望まれた世界への焦がれ、生きとし生けるものの願いは、時に星座すら我が物とする。況んやもはや世に亡い魂が見る夢は、如何ほどに歪んだ世界を招き寄せるか。主体を持たぬ願いとは、まさしく変形した呪いに他ならない。

 血が煮えて肉が削げ落ちても、まだ死ぬときではない。そのようには願われていない。目的を完遂するまでは状態は決して変化しない。願いは不滅なのだから、朽ちている状態などあり得ない。故に、幾度屠られようと矛盾は正される。それは強引に存在を復元するーー基準世界に対する再配置という形で実行される。


『遅い遅い遅いわッ! 何たるだらしのない体たらくか! どうしたベルリオーズ、もう音を上げるか!』


 しわがれた声の嘲笑が響き渡り、不滅者ベルリオーズは今再び空中に投げ出された破壊された。復元する隙を与えず、兎の大鎧ウンドワートは執拗に追撃する

 不滅者という擬人化された迷宮に対する解答は、ウンドワートが示していた。リーンズィの目前で銀の閃光が視界を煌めかせ、炎と血飛沫の入り交じる花が、そこかしこに咲き乱れる。


『……ああ。なんて……きれいな……』


 ライトブラウンの髪の少女は、思わずそんな言葉を口にしていた。

 そして、にまにまと妙な笑みを浮かべるミラーズに気付き、屑鉄の如き有様のガントレットの甲で口元を隠す。


『花を愛でる乙女のような声ね?』などと茶々を入れられて、思い直した。


 確かに殺害行為に対して持つような感想ではなかった。健全な精神状態は保たねばならないと言い聞かせる。

 分かってしまえば不滅者狩りは単純だ。間断なく殺し続ければ良い。地図を手当たり次第に塗り潰すように、あらゆる可能性に対して最適の回答を最速でぶつけ続ければやがては沈黙する。

 無論、語るほどに簡単な道筋では無い。単なるスチーム・ヘッドが相手の場合でさえ、絶え間なく殺し続けるのは困難を極める。排除するだけならば人工脳髄を破壊するか摘出すれば良く、通常は現出しない目標が対峙した者を見境無しに粉砕する狂気の殺戮機構であれば、尚のこと難しい。


 それを事も無げに実行してみせるウンドワートに、リーンズィはそれでも美しいものを見出さずにはいられない。研ぎ澄まされた刃のような残影のみを空間に残して疾駆する甲冑に、真っ赤な火となった殺害の痕跡が次々に広がっていく。きれいだ、と思ってしまうのだ。これがオーバードライブ中の高負荷空間でなければ、惚れ惚れとして、溜息の一つもついてしまっていたことだろう。


『ふふ。好意には素直になって良いのですよ、リーンズィ? 多くの愛を持つことを咎める法なんて、新しい命を得た身にはないのですから。あの白い髪をした綺麗な女の子だけでなく、兎さんと愛を分かち合うのも、新鮮な気持ちになれるかも知れないわよ?』


『ウンドワートと?』中身がどんなだか知らないが、やはり怖い印象があった。『私の体はともかく、こころは君と、そしてレアせんぱいにだけ預けている。私の心の在処をもっと増やすつもりは無い』


 ウンドワートが一瞬だけこちらを見た気がした。

 気がした、というのはリーンズィには知覚不能だったが、アルファⅡモナルキア・ヴォイドは視線が通ったのを感知した、ということだ。

 知らないところで失礼な物言いをしたことが露見してしまったと言うことか。


 確かに悪いことを言ったけど盗み聞きも良くない、などと思いつつ、はたと思い至る。

 これだけの速度で連続殺害を実行せしめて、それでもなお周囲に意識を向ける余裕があるのだ。

 その事実に改めて驚嘆する。


『素晴らしい……本当に素晴らしい性能だ、ウンドワート。やはり私たちを相手にしていたときは何故だか私たちを虐めて遊んでいたのだな……顔も肘でパンチされたし……きっとそういう性癖の人に違いない。ウンドワートは怖い人だ』


『ええ、そうね、そういう趣味の人に違いないですね』くすくすと金色の髪のミラーズが声も無く笑う。『見た目は可愛い兎さんでも、中身は時として飢えた狼のように旺盛なものです』


 ライトブラウンの少女は自然と目を奪われ、眼前を吹き荒ぶ破壊の嵐にただただ見入る。

 赤の色彩が強くなり、緋と翠の混じる二対の瞳、望んだ景色を観るヴァローナの瞳は、現在は機能を停止している。

 体感時間で十数秒。

 その間、異形の狼が五体とも満足であった瞬間はひとときも無い。

 ウンドワートの殺害技巧はあまりにも高速で苛烈だ。

 いちいち観測していては、それだけで負荷が限界を超えてしまうだろう。

 ケルゲレンなどは騎士か侍従のように跪いて、ウンドワートのその神速の殺戮に、すっかり感服してしまっていた。


『言うまでも無かろうが、よく見ておれ、アルファⅡモナルキアよ。これこそが、クヌーズオーエ最大の守り、解放軍の最大戦力として卿の称号を冠される御方の実力じゃ。おぬしもよくよく頑張っているが、アルファⅡの名は高貴にして、我ら凡百の機体には触れることすら叶わぬもの。その名に恥じぬよう精進することじゃぞ』などと説教じみた通信を飛ばしてくる。


 ムッとしたリーンズィは、スパムメッセージを百通ぐらい送信しようとしたが『子供では無いのですから』とミラーズに咎められ、諦めた。しかし稼動日数から考えればまだまだ子供だし許されるのではと思った。【警告:許されません】とのメッセージがユイシスから飛んで来た。


 ケルゲレンを初めとして、解放軍のスチーム・ヘッドは敢えてウンドワートに手を貸そうとはしなかった。この不可知速度での領域に入り込めないのも事実だろうが、それ以上に彼らの眼差しは興奮に光り輝いている。

 つい先ほどまで不滅の怪物から逃げて回っていた者の視線とは思えない。

 彼らは英雄譚に新たな一節が書き加えられるのを目の当たりにしているのだろう。ウンドワートの殺戮とは、ある種の儀式なのだ。事実、市街を跳ね回る刃には、ケットシーの凄絶な斬撃の連続とも異なる、星の煌めきのような美しさがある。不滅者が相手だから、という要素も無視しがたい。セーラー服の少女、黒髪の英雄、葬兵ヒナ・ツジの刃も美しいが、切っ先は味方の血で汚されている。それに対してウンドワートの白銀は絶対的に解放軍の味方だ。不変の悪夢を切り刻む、勇猛にして神聖なる剣の舞だ。

 究極的な到達点においては死を招くばかりの凶器さえ光輝を纏う。紡がれる破壊は悪を滅する神の威光に似て、刃の筆先で殺戮の絵を描き見る者に慨嘆を刻み込む。ウンドワートの持ち得る暴力は、既にしてリーンズィの眼前の風景ごと不滅者ベルリオーズを引き裂いていた。足場にされ、あるいは磔刑の柱として諸共貫かれ、あるいはケルビムウェポンの業火に焼かれた廃棄市街は見る影も無く破壊され、歩くような速さで渦巻く粉塵の風に霞んで、加速が停止すればそのまま崩れ去ってしまいそうだ。ケルゲレンたちが感服してしまうのも無理からぬ話であろう。

 一方で、巨大な狼型蒸気甲冑、ベルリオーズの耐久性もまた、恐ろしい。

 いつになればこの殺戮の舞踏は終わるのか?


『本当に……何度倒しても蘇るのだな。蘇る……の? 不滅者と言うのは』


 殺されては蘇る。砕かれては巻き戻る。再生という言葉さえもはや相応しくない。ここまでの不変はトリックアートの領域だ。

 リーンズィはこのような特性を持つ機体を見たことが無い。ベルリオーズのような可変機構自体が目新しいが、ここまで異常な再生能力は、アルファⅡモナルキアのデータベースにも該当する機体が機体が検索結果へのアクセスが拒否されましたエラー、アクセスが拒否されました、機体が無い。

 何せ通常のスチーム・ヘッドならば百度は粉微塵になっている程に攻撃を受けて、相変わらず復元を繰り返しているのだ。ベルリオーズ自体の性能を度外視しても、この常識離れした恒常性は、ただそれだけで戦略的に脅威だろう。


『スヴィトスラーフ聖歌隊ではこういう戦力を有していないのだと思っていた。愛と平和を謳う集団なのだと……』


『ええ、私たちは本来刃を持ちません』音程でも整えるかのように、真空の高速世界で愛らしい口元を動かして、金色の髪の天使が応える。『最低限、身を守るための戦力は用意していましたが、私がスヴィトスラーフ聖歌隊で活動していたときには、不滅者などというものは存在していませんでしたよ。聖句を組み合わせて、何か難しい命令を作り上げる……えっと、ぷろ……ぷろろ……ぷろろみんぐ? というのでしたか』


『プログラミング……?』少女は首を傾げた。


『そう。そういうやつです。何かと難しい研究をしていたのは大主教ヴォイニッチですが、当時は縁の無い再誕者にここまでの祝福を与えることは出来なかったはずよ。だから不滅者というのは、私も本当に知らない技術です』


『ほう、ヴォイニッチ様と知り合いじゃったのか?』ケルゲレンが意外そうな声音で割って入った。『あの方の知己などイカレばかりかと思っておったが……話せる者も残っておったとはな』


『失礼な人ね』ミラーズは冷たい視線を向けた。『ヴォイニッチとリリウムは、七人の大主教の中でも目指す地平を同じくする立場。ヴォイニッチへの侮辱は我が娘リリウムへの侮辱に等しいわ。早口で専門用語ばかり話す難しい子だったのは本当。でも癲狂者呼ばわりは聞き捨てならないわね。その無駄に時代がかった粗野な喋り方は、もしかしてウンドワートの真似なのかしら。誰かを負かすことしか考えていない乱暴者らしいわ。まったく、信奉者はレーゲントを映す鏡と言いますが、解放軍でもそれは同じみたいね』


『……すまない、当方が言い過ぎた』ケルゲレンは急に軍人めいた口調で謝罪した。『しかしのう、現在のヴォイニッチ様は……いや、それよりも今は、ウンドワート卿がベルリオーズの復元能力をオーバーフローさせるのを見守ろうではないか』


『お説教は後回しにしてあげます。私も状況は分かっていますので』


 ミラーズは不機嫌そうに頷くばかりだ。

 リーンズィは思うところがあって、ちらりとヴォイドを垣間見た。


 アルファⅡモナルキアは、沈黙し続けている。おそらくアポカリプスモードにシフトするための準備を進めているのだろうが、このまま事が運べば、そのような危険を冒さずには済みそうだった。


『ヴォイド、戴冠の時はまだ来そうにない。私も君も、無事攻略拠点の住処へ帰ることが出来る』


 一度も言葉を発さない、そのフルフェイスヘルメットのスチーム・ヘッドが、何故か気がかりだった。同時に、ユイシスも反応しない。よほど重たい処理を行っているらしい。無数に搭載された人格記録媒体から何のデータを読み出しているのか、リーンズィには窺い知ることが出来ない。





「あなた、あなた!」


 知らぬ女が耳元で不安そうに声を上げているのでドミトリィはぎょっとした。

 知らぬ女ではない。妻だ。妻? 自分の妻とは、しかし、こんな顔だっただろうか。

 花嫁は今どこにいるのだろう? 天井を見上げる。シャンデリアだ。母が気に入って買ってきた。ちかちかと目が眩む。地下街のそこかしこで明滅していた低品質な蛍光灯。薄闇の中で身をよじる、小さな愛らしい花嫁を思い出す……。


「酷い顔色ですよ。おくすりをお持ちしましょうか。それとも、お医者様を呼ぶべきかしら」 


 お前は我に返る。妻だ。これこそ、自分の妻だ。いつも家で待ってくれている。局の手配で縁組みされた結婚だったが、生活は何もかも順調だった。血を血で洗う罪業のおかげで、お前たちは幸せだ。


「また水で中毒を起こしてしまってね……」。いつものことだ。微笑んで口づけをする。いつものことだ。長すぎたのだ、とお前は混乱する頭で唱える。ドミトリィでいた時間が長すぎた。足かけ三年にもなる調査と掃討。そして金色の髪をした美しい少女。忘れろ! 忘れてしまえ! いつものことだ。こんな作戦はごまんとある。父も記憶にこびりついた業苦を、病床で、今際の際に吐露した。同じ途を選んだ息子に。そしてその夜に自殺した。病ではなく自分の手で死んだ。

 妻はお前の仕事の実相を知っている。それだから、泣きそうな顔で抱きついてくる。見知らぬ妻が、幸せな妻が。頻りに体の具合を心配する妻を宥め賺すと、今度は甘えたい盛りの我が子の相手だ。和やかな夕食を楽しんで、奴隷や愛玩具ではない、幸せな我が子に旅の記録を語る。彼が満足するまで、虚実をない交ぜにした、明るいばかりの空想の海外視察の話を、たっぷり聞かせる。




『とにかく、ウンドワート卿が来て下さって幸運じゃった。まだ最低でもレンブラントかヴェストヴェストは出るじゃろうが、初期封じ込めにおいては、ベルリオーズさえ始末できれば、被害が抑えられる』


 しかし、今度は惚れ惚れした様子で観戦をしていたケットシーが、困ったような素振りでケルゲレンを見た。


『えっ……あのガチャガチャ変形するカッコいい敵、もう殺されちゃう? 死ぬの?』


『死なん。死なんが、疲れ果てれば眠ってしまうのが<猫の戒め>たちの弱点よな。もう間もないじゃろう』


『えーっ……ヒナ、あんまり格好良いところ見せてないけど。このままじゃヒナのための予算が出なくなる……! 追加武器とかいっぱい出して年末商戦に勝たないといけないのに……! ヒナを応援してくれているスポンサーとテレビの前の皆のためにも何かしないと』


 ケットシーの黒曜石の瞳には、微かに焦りの色が浮かんでいた。

 殺戮に興じている時以外は人形のように無感情な目をしているため、いっそ人間的な艶めかしい光がある。


『そうは言うがの、オヌシの今の武器ではそもそもベルリオーズに致命傷を与えるのも難しかろう。とにかく見過ごすのじゃ』


『うー』


 不服そうなケットシーにリーンズィが囁きかける。


『君はエージェント・シィーの現在を知りたくないのか?』


『知りたい!』ヒナは思い切り食いついた。『やっぱり何か知ってるの? そっちも金髪の綺麗な子もお父さんの剣だよね! やっぱり弟子? それとも実はヒナたち姉妹だったりするのか? じゃあ浮気? はっ、まさか愛人?! やっぱり浮気……浮気はダメ……見下げたお父さん……サイテー』


『か、勝手に失望するのはやめましょう? ね?』


 ミラーズは遠い目をしてヒナを宥めた。


『どうであれ、情報が欲しいなら無闇に命を危険に晒さないことだ』


『むむむ。これは難しい局面……視聴率……でもラスボスであるお父さんとの戦いのためのフラグも……』


 ケルゲレンがそうまで言うのだ、ウンドワートによる不滅者完封は、おそらく終局に近付いているのだろう。この後にも何か得体の知れぬ存在が出現するのだということは言葉の節々から覗えたが、ベルリオーズが排除されていた方が良いのは、さしものリーンズィにもよく分かった。ベルリオーズだけでも手に負えない、と言った方が正しいだろうか。

 ふと、リーンズィは視界が翳ったのに気付き、身を強ばらせた。

 コンテナだ。コンテナが空を飛んで、こちらへ向かってくる。

 二十倍速の世界では大抵の運動物体は静止する。それがあからさまに移動をしているのだから、電磁コイルか何かで加速・射出されたのだろう。

 そのコンテナーーケットシーの追加武装パッケージと思しきものが、ビル群のすぐ上を横切っていくのを、リーンズィは酷く厭な予感とともに見送った。

 何か、変だった。

 この領域のオーバードライブは、殆ど異空間での活動と言って良い。

 同程度の加速にない物体は全て取り残される。

 援護も支援も()()()()からは不可能だ。


 では、どのような技術があれば、オーバードライブ中の機体に向けて、ここまでピンポイントに支援物資を送り込めるものなのだろうか?


 ライトブラウンの髪の少女の注意力は拡散し、局所的な視点からいっとき、無意識的な次元へとシフトした。途端、身体的な活動など起こるはずも無い加速された時間の中で、全身に怖気が奔った。

 おかしい。知らないところで異常が起きている。

 非言語的な恐怖、肉体に染みついた神経活動がもたらす霊感。


『どうしました、リーンズィ?』


『恐怖だ。私の肉体が恐怖を感じている』


 視線をあちこちに移しながら、言葉無き肉体が訴えかけている危機の正体を探る。ベルリオーズとウンドワートの戦闘は脅威だが、もはや意識する必要も無い。コンテナは気に掛かるがそれ以上の要素はなさそうだ。背後のスチーム・ヘッドたちにも異常は見られない。

 ふと、雲が渦巻いているのに気付いた。

 野戦病院で縫われた兵士の腹のように雲が波打っている。

 空間と空間が接続されたのだ。

 違和感は兎と狼が巴を描く戦絵図、さらにその向こう側にある。


 ヴァローナの瞳の権能を再活性化させ、剣の舞と塵埃と血しぶきの帳、その向こう側を幻視する。


 街が、破壊されていない。

 傷一つ無い。


 ベルリオーズの猛進によってズタズタになったはずに市街が、真新しい廃墟として立ち並んでいる。

 リーンズィは確信した。

 干渉されている。

 人知を越えた高位世界からの事象干渉。

 再配置だ。遙か彼方に、過ぎ去っていく炎上した翼の影が見える。


『時の欠片に触れた者……?』




 夜になるとお前は夫婦の寝室ではなく自分専用の書斎に閉じこもった。来客用の寝室のベッドを一つ取り払って、毛布とマットレスを書斎に運び込んだ。そして撃たれて死んだことを思い出したかのようにぱったりと倒れ込んだ。そして泥のように眠った。

 実に五日間ほどの昼夜、お前/ドミトリィは夢と現実の境界を彷徨った。偽りの名前、偽りの経歴、偽りの階級を与えられて、ゆかりのない軍隊の仮装をし、偽りの情報に踊らされる特殊部隊、使い捨ての駒にしていい兵士に紛れ込む。進入路に選んだ地下道の入り口で男女が睦言を交していた。彼は二人を射殺した。さほどの悪人とは思わないまま殺した。邪魔になると判断して殺した。ただそれだけで殺した。二人は酷く汚れていた。あるいは泥に塗れた花婿と花嫁だったのではないか。息が苦しくなる。

 目覚めるとドミトリィはくしゃくしゃの毛布を抱いて眠っている。見慣れた天井。埃臭い本棚。お前は安堵してまた眠る。排泄物と違法薬物、煙草や体液の臭いが入り交じる地下道を歩く。徒党を組んだ歩き続ける。生きるに値しない人間の喉を裂き、逃げ惑い、あるいは刃向かってくる有耶無耶を、最新型の連発銃で無差別に射殺する。無差別に。逃げる背中に銃口を……。

 息が苦しくなる。また目が覚める。すぐに眠る。

 その繰り返しだ。彼は自分が何をしでかしたのか、眠っているか間中反復し続けた。どれだけの人間を殺したのか。公衆衛生の理想的維持のためにどれほどの虐殺を働いたのか。

 いや、それすらまやかしだ。お前は、お前の真に望むところは、ドミトリィ!

 途中、涼やかな朝、霧の立ちこめる樫の木の森を、金色の髪をした少女が歩いているのを見た。ドミトリィは立ち竦んでその背中を見ていた。朝露を吸った生地の薄いネグリジェからは甘やかな白い肌が透けている。ぶかぶかのブーツを履いた華奢な背中が、散乱する光を浴びて楽しげに遠ざかっていく。少女が振り返る。物憂げで底の知れない緑色の瞳、誘うような、懇願するような、愛おしむかのような澄んだ湖畔の色。穢れの無い花嫁だ。彼女はこれからドミトリィの家で暮らす。花嫁だ。これから結婚式を挙げる……。

 ドミトリィは目覚めた。自分で夢から覚めた。

 ドミトリィはその夢を許せなかった。また眠った。

 地下道を走り回る兵士たちの足音で目覚めた。夢を見ているのかと思ったが違った。遮光斜幕から外を垣間見ると土砂降りの雨だった。雨の音だ。

 錯覚をしたようだった。

 然程離れてもいない樫の木の森は、豪雨に煙り、影も見えない。




決定的な瞬間(ゼロ・アワー)が来たのだ。全ての時刻は、いま・ここで結ばれる」


 アルファⅡモナルキアが、低い声で唸った。

 それは無線通信では無く、疲れ果てた男の肉声のようにリーンズィには思われた。


「私は既にこの瞬間を知っている」


『ヴォイド? 一体何を』


 振り返ると、そこには見慣れた風貌、見慣れたフルフェイスヘルメット、見慣れた二連二対のレンズがあり、赤熱の闘争を身に浴びて、全てが赤く輝いている。酷く場違いな遺物に思えた。それがかつて自分自身でもあったというのに、ライトブラウンの髪の少女は狼狽した。これは、何なのだろうか? 自分は、これまでいったい何の傍にいたのだろうか。一体何から生み出されたのだろう? 父ではなく……。答えを求めて傍らに侍るミラーズに視線を向ける。


「そう、もうお別れなのですね」と長身の男に向かって、儚げな声で囁いている。ミラーズ。ミラーズ。愛しいミラーズ。ユイシスの鏡像、愛を教えてくれた人、しかし母親ではなく……。

 アルファⅡモナルキアに目を向ける。

 では、この機体は何だ? 父でもなく仲間でもない。いずれにせよ救世主でなく……。外観は他のスチーム・ヘッドと大差無い。いっそ旧式で、時代錯誤的であるほどだ。だというのに、アルファⅡモナルキアは、言い知れぬ違和を含んでそこに立って、世界と対峙している。相対している。停滞している。漂流している。到達者でなく、解放者でなく……。黒く歪んだ鏡像の世界に佇むのは、大鴉の如き装束の赤く濁った目をした少女。その瞳に映る大男もまた、捻れて歪んで頼りなく、寄る辺のない孤児に思えた。抵抗者でなく、逃走者でなく……。二人は決定的に異なる。異なるが相似だ。鏡像だからだ。鏡像。無限に連鎖する鏡の一枚にヴォイドとミラーズは同時に映り込んでいた。

 この無窮の凍土で、同一にして別なる二つの顔が、互いを見つめていた。


『私に何をさせたい?』


 ライトブラウンの髪の少女は潔癖そうな美貌を崩さぬまま、赫赫たる赤い視線をヴォイドへと注いだ。


「私に……何を望む、の? ヴォイド、どうしてほしいの」


 スチームヘッドは応えた。「ただ欲するところを成せ」


 ウンドワートの動きが乱れる。

 解放軍の面々がどよめき、リーンズィはハッとして振り返る。

 ベルリオーズを苛んでいた破壊の連続が中断されていた。

 胸部から下腹部までを五本の爪で裂いた、そのような姿勢でウンドワートが硬直している。

 その背後に五体満足のベルリオーズが出現したのをリーンズィは目撃した。

 ウンドワートが動きを止めるまでは優勢だったはずだ。あるいは振り返った瞬間にはまさにベルリオーズは引き裂かれていたのだ。

 だというのに、攻守が逆転している。

 ウンドワートは攻撃姿勢を取ったまま、重外燃機関の無防備な背中を晒している。対するベルリオーズは三本の脚と一本の腕という形態に変化しており、爆発的な推進力に任せて強烈な掌打を放つ構えだ。

 一刹那という言葉ですら追いつけない究極的な速度での状況展開。

 吠え狂わんとする狼の鎧に、リーンズィは手甲の両手で、交通標識から作った短槍を握り締める。無言のうちに意見を同じくしたケルゲレンとともに咄嗟にカバーに入ろうとしたが、ヴォイドが『無用だ』と呟きリーンズィの肩を掴む。

 それと重なるようにして、『手出し無用!』とウンドワートの苛立った声が聴覚野に届いた。

 事実、無用であった。

 助けの太刀は抜かれていた。


『ーー蒸気抜刀(じょーきばっとー)


 気付けば――ケットシーの黒いセーラー服が宙に翻っている。

 くるりくるりと、流水を滑る黒百合のような軽やかな回転。

 ベルリオーズのさらに背後を取る彼女の手の中には、その小柄な体には不釣り合いな大型機関式外燃刀。継承連帯のスチーム・ヘッドが搭載しているものと比較すると無作為なパーツの連続、有り体に言って剣のように形を整えられただけの、雑多な部品を組み合わせてガラクタの塊にしか見えなかったが、励起状態にあるケルビムウェポンだというのは電磁場の急速展開から読み取れる。

 どこからそんな武器が?

 出所は明白だ。

 アルファⅡモナルキア・ヴォイドの右腕が指差している。


 何時の間にか、上空のコンテナがこじ開けられている。

 リーンズィは唖然とした。

 起きていることが理解出来た。僅かな時間だけ三百倍加速した東洋最強の剣士が、運ばれてきた自分の武器を持ち出して、ウンドワートとベルリオーズの戦闘に介入した。

 その結果として、ベルリオーズがケットシーのオーバードライブと共鳴。

 ケットシーと同等速度に達したベルリオーズが、最大の脅威であるウンドワートの背後に回り込んだのだ。

 理屈は分かる。だが、理屈だけだ。

 合理性が、全くない。この場は兎に角ウンドワートに任せておけば万事収まったはずだった。

 それなのに何故ケットシーが追撃に参加しているのか、理解が出来ない。元より理解出来ないパーソナリティの持ち主なのだが。


 奇怪なことは他にもある。

 ヴォイドは、何故、論理的な整合性を欠いた展開を予期していたのか?


 少女は問うた。『君は全てを知っているの? 何を知っている? これから何が起こる?』


 スチーム・ヘッドは応えた。「起きることしか起きないだろう」


『起きること?』


「起きたことを私は知っている。それだけだ」


 リーンズィの視界に炎が瞬く。

 釣られて、視線は鉄塊を抱えた少女を追った。


『ーー大紅蓮焔薙之太刀(ソード・カグツチ)!』


 出来損ないのケルビムウェポンは指定された遠隔座標ではなく、装置より寸毫の前方部分に電磁場を形成。発生したプラズマは異様に巨大な光の刃の形状を取った。技術的未熟さ故か、収束しきらないままあちこちに余剰エネルギーを放出しており、危険極まりない。アルファⅡモナルキアの左腕部ガントレットに搭載されている機構よりも遙かに不安定だ。それでも仕手に武器は応えるもの。鮮烈にも雷の如く振り抜れた一撃は、水面に小石を撒くかのような水蒸気爆発の連鎖を伴いつつ、縦一文字にベルリオーズを叩き切り、装甲は徹せぬまでも、その生体部分を跡形も無く焼灼せしめた。

 余波をもろに受けたのはウンドワートだ。ケットシーのケルビムウェポンは全く出力調整が成されておらず、その刃はベルリオーズどころか、分厚い装甲の向こう側のウンドワートにまでも届いていた。


『ぴゃっ……ヌオオオオ?!』


 兎の騎士は加護持つ火鼠の如くその灼熱を払った。

 敏捷に飛び退きながら電磁場を中和したためか損傷は無かったが、精神的動揺が強い。


『あっ……あと十回も殺せばオーバーフローに持ち込めたというのに! 何をしておるんじゃ!? 余計なことを! リーンズィにも手を出すし、全くいけ好かない女だとは思っておったが!』


 三百倍加速の世界で復元を終了したベルリオーズが、またしてもウンドワートの死角に現れる。しかしウンドワートが迎撃行動を行う前に、ケットシーが究極的な加速によってそれを追跡していた。

 またも不完全なケルビムウェポンを振り回す。


『大紅蓮焔薙、二之構え! 斬塔剣(スカイタワー)失墜之太刀(フォールダウン)!』


『でええええええ! やめんかあああああああ!』


 柄の付いた重外燃機関としか言いようのない無骨な兵器が形成したプラズマ刃は、さらに度を超して巨大になっている。射程内に収まっているのはウンドワートだけでは済まない。横薙ぎの一閃は明らかに半径50mは焼き尽くすという殺意に満ち溢れており、ベルリオーズだけを断ったその拍子を取ってウンドワートが霧散させなければ、後方に控えているリーンズィたちにも損害が出ていたことだろう。

 リーンズィはと言えば、ベルリオーズたちを巡る攻防よりも、またもヴォイドとミラーズの方に気を取られていた。

 何せヴォイドがケルビムウェポンの発動に対して全く反応していない。

 演算資源を可能な限り注ぎ込めばウンドワートの真似事ぐらいは出来るはずだ。

 電磁場の打ち消し程度はどうにかなるだろう。

 それなのに予備動作が無い。統合支援AIユイシスからのアラートさえも表示されていない。

 ウンドワートが完全に防御を成すと知っていなければ、このような事態はあり得ない。


 この機体は今、何をしているのだ?

 リーンズィの目が、その得体の知れぬ自分自身、切り離されたアルファⅡモナルキア・ヴォイドに向かって、赤く輝く。




 地下道を走り回る兵士たちの足音で目覚めた。夢を見ているのかと思ったが違った。遮光斜幕から外を垣間見ると土砂降りの雨だった。雨の音だ。錯覚をしたようだった。然程離れてもいない樫の木の森は、豪雨に煙り、影も見えない。

 雨は長く続いた。数日はそのまま忘我の有様で過ごした。

 何度かあの少女のことを思い出した。金色の髪をした少女。汚濁に塗れた愛らしい乙女。顔貌は穢されることでようやく人間らしくなった、そう思わせるほどに繊美な造りをしている。どんな状況で彼女は可憐だった。媚びてすり寄る仕草をしていても、彼女は尚高貴だった。

 ドミトリィは少女のために何百人かを殺すことに決めてそれを実行したのだ。主人を偽り、結社を偽り、世界秩序を偽り、軍隊を一つ、少女を閉じ込めた地下街に放り込んだのだ。マスクを被り、完全武装して、兵士たちに紛れ込んだドミトリィは、男を撃ち、女を撃ち、火を放ち、毒ガスを撒き、殺して、殺して、殺して、殺した。ならず者の兵士を引き連れて娼館に、とても人間の暮らす場所ではない娼館に、娼館と呼ぶことさえ躊躇われる退廃の穴に踏み込み、目当ての少女をようやく捜し当てた。

 改めて名を問う前にその美しい少女は兵士に縋り付いた。


「ドミトリィ様! ああ……約束は、まことのものだったのですね。ああ、ドミトリィ様、私を迎えに来て下さったのですね……ドミトリィ様、ドミトリィ様……」


 彼はマスクを被り、完全武装して、金と女、戦利品を漁る不届きな兵士たちに紛れ込んでいた。どこの誰とも知れぬはずで、それなのに彼女は、まさしくその兵士をドミトリィだと見抜いた。

 返事をしないことを不安に思ったのか、少女は囀る歌声で愛を請うように何度も問いかけた。


「あなたなのですよね? ドミトリィ様? 騎士様、私の騎士様、ドミトリィ様……?」


「ドミトリィ。誰だそいつは?」


 沈黙のあとそう答えた。それから彼女を殴りつけた。他の兵士にも素晴らしい戦利品があるぞと教えた。そういう下卑た真似の似合う集団だった。

 ドミトリィは餌に食いつこうとする兵士たちを眺めながら自動小銃の弾倉を取り替え、動作を確認し、それから彼らを背後から一人ずつ撃って殺した。

 最後の口封じは万事滞りなく進んだ。誰も銃声がやむまで振り返りはしなかった。娘の歌声から、未知の命令言語を生成するその神に愛された喉から、自力で逃れられる人間はいないと理解していたから、極めて丁寧に目撃者を殺すことが出来た。ドミトリィにはある程度耐性がある。しかしどの程度正気だったのか。焼夷剤をそこいら中に撒いて着火した。獣臭い毛布で少女を包んで娼館を出た。少女は何も言わなかった。どこの誰とも知れぬ兵士の胸で、ドミトリィ様、ドミトリィ様と、愛しげに名前を呼び続けた。

 そして、そして結社の人間にお前は花嫁を引き渡してしまった。不安がって名前を呼ぶ花嫁を手放してしまった。お前は花嫁をやつらの手に渡してしまった。お前の花嫁を……。檻から檻へ。汚濁から汚濁へ。汚辱から汚辱へ。闇から闇へ……。

 お前が帰宅して数日経ったある暗い朝のこと、書斎の机の上に置かれている二号式卓上電話機がけたたましくベルを鳴らした。お前は気の狂った老婆でも見るようにその電話機をじっと睨んだ。それからマットレスから立ち上がり、受話器を耳に当てた。


「こちらドミトリィ」


 囁くような女の声がした。


『やぁ君。僕だよ』


 お前は思わず受話器を置いた。通話を切った。

 心臓がばくばくと音を立てている。しかし電話を切ってしまったのは殆ど無意識的な行動で、後から自分で驚いた程だった。

 慣れてこそいたが、まさか自分が彼女の声からーー原初の聖句から逃れられるとは考えていなかった。

 かけ直してくるかと思ってそのまま机と向き合った。一時間後にまたマットレスに倒れ伏せた。相手の電話番号は知らない。結社の人間はいつも一方的に電話を掛けてくる。ドミトリィとその女は顔見知りで、知己と言って良い仲だったが、立場はあちらが上だった。

 とうとう眠れなくなってしまった。しかし妻子と顔を合わすにはまだ精神衛生が回復していなかった。お前は丸きり落ち着かない気持ちで夕方まで過ごした。気持ちを整理するために当たり障りのない記事を書こうと日記帳を開いた。万年筆のキャップを開き、閉じ、また開いた。

 雨が耳障りだった。

 日記に殴り書きがされているのに気付いた。


 お前が本当の騎士だというのなら、今すぐ、死ね、死んでしまえ。

 生きて戻れぬと言うのなら、死んで骸となるが良い。


 お前にはそれを書いた記憶が無い。


 だがお前は知っている、ドミトリィ、お前は知っている。

 やがて刻限が来たる。

 始まりの時間(ゼロ・アワー)が。

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